
PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/250s(絞り優先)
東京の地名にはストーリーがあり、イメージがある。その場所に一度も行ったことがなくても馴染みの街のように錯覚している場所がたくさんある。歌舞伎町、表参道、代官山、恵比寿、吉祥寺、柴又、原宿などなど。それはドラマや映画の舞台になったからかもしれないし、テレビなどから多くの情報を得ているからかもしれないけどそれだけではなく、誰しもの中にある東京に対する憧れがあるからなんじゃないだろうか。江戸幕府開びゃく以来400年、帝都東京は日本の中心であり続けた。そこには紛れもない強い求心力が渦巻いていて、私たちを惹きつける。
これまでも何度か耳にしていた神楽坂という街。かぐらざか、この響きは耳に心地いい。お神楽の神楽であり、坂というのはどこかロマンチックを感じさせるものがある。東京なら赤坂、道玄坂、乃木坂。神戸、横浜、長崎、尾道、小樽など坂のある街はどこかセンチメンタルな要素を持っている。
今回の東京行きで神楽坂は大切な目的地のひとつとして私の中にあった。私がドラマ好きというのを知っている人ならもう察しはついているだろう。そう、倉本聰脚本のドラマ「拝啓、父上様」の舞台となっているのがここ神楽坂だったからだ。
日曜日の午後、飯田橋駅を降りて神楽坂坂下から神楽坂通りを見上げると、思いがけずたくさんの人々が行き交っていて驚く。なんだこの人たちは。神楽坂というと石畳の細い横丁や料亭の江戸情緒が残る静かな街というイメージがあって、こういう状況は想像してなかった。これもドラマの影響なのだろうかと思いつつ、まずは通りを歩いてみることにする。あまり下調べをしてこなかったので、とりあえず漠然とさまよい始めた。
表通りを行く人々はあまり観光客然としていない。割と年齢層も高めで、カメラを手にしている人もほとんどいない。普段の状況をまったく知らないのでなんとも言えないのだけど、おそらく地元の人と買い物客なんだろうと思う。もちろん、観光客の占める割合も少なくはないのだろうけど。
街としての神楽坂は、新宿区の北東に位置していて、神楽坂坂下から神楽坂上までの商店街が中心ということになる。通称早稲田通りの両脇には食べ物屋を中心に様々な店が並んでいる。新旧、和洋が折衷していて独特のバランスを保っている感じだ。
私の中の神楽坂はこの通りではない。一本脇道の横丁に入らないと見つからないらしい。坂道の途中でそれっぽい横丁に入ってみた。すると、突然世界が変わり、歩いている人種が違うのが分かった。そこには我々同様、明らかな観光客が正しい観光客の姿をしていた。石畳の坂道で記念撮影をする親子、ジャニーズファンらしき女の子たち、三脚をかついた女性カメラマンなどなど。全員カメラ持参で石畳や店などをキョロキョロ見ながら歩いている。そうそう、ここだよ、ここ。私の探していた神楽坂がそこにあった。

いったん表通りに戻ったところで、おおー、これはまさにあそこではないかのポイントを発見して内心はしゃぐ私。ドラマを観てる人にはお馴染みの毘沙門天(善国寺)、二宮和也演じる田原一平が、中川時夫(横山裕)と最初に出会った場所だ。門のところにしゃがんで時夫は肉まんを食べていた。
善国寺は徳川家康の命で1595年に建てられた寺で、もともとは千代田区(麹町)にあったものが火事などで1793年今の地に移された。ここに祀られている毘沙門天像は、山の手七福神のひとつとして江戸時代から信仰の対象となってきたという。年に3回開帳するそうだ。
通り名としてはやはり神楽坂の毘沙門さまということで、昔も今も変わっていない。ここは縁日も有名で、明治から昭和にかけて盛り場の少なかった山の手では数少ない大イベントとして大変な賑わいを見せたそうだ。その人出があまりにも多かったことから、日本で初めてここが歩行者天国になったという話もあり、東京の縁日や夜店の始まりがここだったとも言われている。現在は7月の23日から25日にかけての「ほおずき市」が夏の風物詩となっている。
神楽坂の地名の由来にはいくつかの説があり、その中で少し離れた若宮八幡の神楽がここまで聞こえてきたからというのがある。今回はそちらまで足を伸ばせなかったので、いつか再訪することがあれば行ってみたい。
この地は江戸城北の丸へと向かう牛込御門があったところで、若狭小浜藩酒井家が、江戸上屋敷から江戸城へ登城するために整備したのが始まりとされている。昔は坂道よりも階段の町だったそうだ。
江戸時代から繁華街として栄え、それが明治、大正、昭和まで続いたあと、戦後にやや様相を変えつつも、現在まで花街としての雰囲気を残している。花街というのは、いわゆる芸者さん(芸妓屋)のいる料亭が集まる一角のことで、西の祇園に対して東ではここ神楽坂と、新橋、赤坂、芳町、浅草、佃島で東京六花街と呼ばれている。今でも10軒ほどの料亭と30人ほどの芸者さんがいるという。
料亭はもちろん一見さんお断りで、観光客がふらっと立ち寄れるところではない。ただ、ランチなら入れる店もあるそうだ。
フランスとの関わりも深く、石畳の横丁がパリのモンマルトルの丘に雰囲気が近いということで、フランス人に人気があったり、フレンチレストランなどのフレンチテイストがさりげなく溶け込んでいる。ドラマの中で黒木メイサがフランス語を話しているのもそのあたりを充分に意識してのことだ。

毘沙門前の横丁を入っていった先に、ドラマの宣伝ポスターにも使われている「和可菜」がある。ドラマでは作家役の奥田瑛二が写真撮影してたのがこの場所だ。私の頭の中にあった神楽坂のイメージに一番近かったのがこの一角だったかもしれない。当然のことながら、たくさんの観光客が次々と訪れて写真を撮っていた。
昔から作家がこの旅館でよく執筆をしていたことから、「本書き旅館」と呼ばれている。古くは「仁義なき戦い」や「嵐を呼ぶ男」など、最近では山田洋次監督が「たそがれ清兵衛」を書いたのもここだったそうだ。ここも一般客が紹介なしに泊まったりできるようなところではない。
神楽坂という街は、古くから文豪たちに愛された街でもあった。牛込生まれの夏目漱石は『坊っちゃん』の中で神楽の縁日のことを書いているし、尾崎紅葉は死ぬまでこの街に住んで『金色夜叉』を書いた。このとき書生をしていたのが泉鏡花で、のちに書かれた『婦系図』は神楽坂の料亭が舞台となっている。
創業350年の文具店「相馬屋」は明治初期に日本で初めて西洋紙の原稿用紙を発売して、夏目漱石、尾崎紅葉、北原白秋、坪内逍遥などがここの原稿用紙を使って作品を書いていた。晩年、病に冒された石川啄木もわざわざ車に乗ってここまで原稿用紙を買いに行ったというエピソードが残っている。
漱石、菊池寛、佐藤春夫、永井荷風たちが通った牛鍋屋の「田原屋」は、2002年に閉店した。この2002年あたりを境に神楽坂にコンビニなどの新しい店が多く進出してきて街の様子は変わってしまったそうだ。

ここ数年、すっかり観光地と化してしまった感のある神楽坂も、細い路地の両脇には昔ながらの生活感が変わらず息づいている。住人にとっては少し住みづらい街になったと感じていることだろう。けれど、時代の変化や新しさも受け入れつつ歴史を守ってきたのが神楽坂という街だ。新しい波をふたつやみっつざばんとかぶったくらいで古いものが全部流されてしまうほど腰の弱い街じゃないと思う。
一方で神楽坂は新しいものの発信地でもある。パラパラの発祥地となったのは神楽坂のディスコ「ツインスター」だったし、プリクラを作ったアトラスも神楽坂にある会社だ。神楽坂でしか売ってない不二家の「ペコちゃん焼」もある。今はちょっと事情があってお休みだけど。
神楽坂名物のひとつ、路地の野良猫というのも楽しみにしていたら、それは残念ながら見ることはできなかった。日曜の午後のあの人の多さでは猫たちもすっこんで出てこない。
商店街のスピーカーから森山良子が歌う主題歌が流れていたのはご愛敬。神楽坂の街全面協力という雰囲気が感じられたのでよしとしたい。
東京にはまだまだ散策してみたい街がたくさんある。地方に住む人間にとっては東京だけがなんでそんなにもてはやされるのかというひがみにも似たうらやましさがあってちょっと悔しくもあるのだけど、やっぱり魅力的なものは認めるより他に仕様がない。これからも東京へ行く機会が多くなるから、少しずつ興味のある街を回っていきたいと思う。
東京は超高層ビルが建ち並ぶコンクリートジャングル(表現が古い)だけではない。まだ江戸の息づかいがわずかながらそこかしこに残っている。明治から戦前にかけての古い東京も消えていない。地図やガイドブックから歴史の痕跡を見出したとき、東京は新たな魅力で輝き始める。
しばらくはカメラを持った観光客としてしか見ることができない東京を見ていくことにしよう。カメラを肩にぶら下げて、写真を撮って、調べて書いて、東京の街の魅力を探っていきたい。
体もだいぶ東京の水に慣れてきた。あと2、3回も行けば私も東京人に見えるようになるかもしれない。あっ、ここドラマで出てきたところだがや! などとつぶやく声を周囲に聞き取られなければ。