月別:2007年01月

記事一覧
  • タダより好きなものはない名古屋人は東京都庁へ登る

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f7.1, 1/400s(絞り優先) タダより高いものはないと世間では言う。名古屋人はタダより好きなものはない。大阪人が安いという言葉に反応するより激しく、名古屋の人間はタダということに異常な反応を示す。オマケやお買い得といううたい文句にも弱い。東京都庁の展望室で、おい、そこの名古屋人! と大きな声で叫べば、たぶん10人に1人は振り返るだろう。そう、東京都庁の展望室は...

    2007/01/31

    東京(Tokyo)

  • 短い滞在で目にした東京の断景と断想を少し

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f4.0, 1/15s(絞り優先) 今回の東京行きは、半分以上栃木での葬儀となって、予定していた場所をほとんど回れず、ほんのわずかな見物で終わった。今日はその断片的な風景を少しだけ紹介したいと思う。 行くつもりだった、湯島聖堂、ニコライ堂、鬼子母神、根津神社、水天宮、東京庭園美術館、台場一丁目商店街などが頭の中でぐるぐる回って、それらはいまだ私の空想の中にしか存在...

    2007/01/29

    東京(Tokyo)

  • 河原視点で見える世界とそこに集う人々を望遠で撮る

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 300mm(f4), f5.6, 1/200s(絞り優先) 生まれ育った街の中で変わらないものはないけれど、その中で河原風景というのはあまり変わってない気がする。土手がコンクリートになったり、河原が芝になったりはしたけれど、街中ほど大きくは変わっていない。 河原というのは一番手軽に自然に近づける場所だ。水があり、流れがあり、生き物がいて、空が広い。ビルにさえぎられて狭くなった空も、河原に行けば...

    2007/01/26

    海/川/水辺(Sea/rive/pond)

  • ひつまぶしは名古屋人が安心しておすすめできる名古屋名物

    SH505iS(携帯カメラ) 名古屋人のくせに私という人間は、ちゃんとした店のひつまぶしをこれまで一度した食べたことがなかった。それも他県から遊びに来たゲストにつき合う形で一回行っただけというていたらく。それも5年くらい前のことになる。これでは名古屋人失格の烙印を押されても文句は言えまい。けど、いつも心の片隅にひつまぶしの存在はあった。いつかもう一度自分の意志でひつまぶしを食べなくちゃなという思いがくすぶ...

    2007/01/26

    食べ物(Food)

  • 飛ぶ鳥撮りを趣味として定着させよう会発足でただいま会員募集中

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 300mm(f4), f5.6, 1/640s(絞り優先) 飛ぶ鳥をカメラで追って連写すると、大量の手ぶれピンぼけ没写真が生産される。下手なシャッターは数を押しても当たらないものだ。しかもマニュアルフォーカスレンズとなると、当たり確率はお年玉付き年賀ハガキの当選確率よりも低くなる。このときもさんざんシャッターを切りまくったのに、まともだったのはこれを含めて数枚だけだった。いつになったら私は年賀...

    2007/01/25

    野鳥(Wild bird)

  • 手作りケーキの変遷を辿りながらハッピーバースデー、私

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f20., 1/100s(絞り優先) 去年のクリスマスから今日の自分の誕生日まで、あれこれとイベント事が続いて、その間4度、手作りケーキを焼いた。何作ってるんだよ、私。というツッコミを入れつつ、その変遷について今日は紹介したいと思う。そんなものは、だいたひかるの離婚よりど~でもいいですよ、と思われる方もいるだろうけど、乗りかかった船ということでおつき合いください。 生まれ...

    2007/01/24

    食べ物(Food)

  • 南極観測船ふじとタロとジロとサブロとタケシの話

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/13s(絞り優先) 名古屋港にあるタロとジロの銅像と、南極観測船ふじ。オマケとして、ゴミをゴミ箱に捨てている男の人。右側にちょこっとスクリューも顔だけ参加してる。何故か、名古屋港には南極観測にまつわる品々がある。 国内2代目の極観測船ふじは、昭和60年(1985年)の引退後どういういきさつがあったのか、名古屋港のガーデンふ頭に永久係留されることになった。当時の...

    2007/01/23

    施設/公園(Park)

  • 今食べたいサンデー料理、ついに「突撃!私の晩ごはん」が始まる!?

    PENTAX istDS+SMC Takumar 55mm(f1.8), f2.8, 1/60s(絞り優先) 今回のサンデー料理のテーマは、今日食べたいものを作って食べるだった。新しい料理への挑戦というサンデー料理の基本テーマからはややはずれるものの、食べたいものを作るというのが料理の基本であることは間違いない。今年になってからはまだおせちもどきしか作ってなかった。去年の暮れからも休みがちになってしまっていたし、ここらで一度リセットして、去年作...

    2007/01/22

    食べ物(Food)

  • 忘れちゃいけない名古屋人のひとり加藤清正をよろしく

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/200s(絞り優先) 名古屋生まれで大成した人を見ると、ほとんど例外なくよその土地に移った先で成功している。特に戦国時代がそうだ。豊臣秀吉といえば大阪、前田利家といえば金沢、山内一豊といえば土佐というように、名古屋を捨てて名をなした人が多い。織田信長はそうそうに岐阜に移り、愛知県岡崎市出身の徳川家康も江戸に行ってしまった。江戸時代、尾張徳川家はついに...

    2007/01/21

    人物(Person)

  • 120歳の半田赤レンガ工場は眠りの中で100年前の夢を見る

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.6, 1/100s(絞り優先) 半田名所巡り4部作の最後は赤レンガ工場。明治にカブトビールの工場として建てられたこの建物は、歴史の紆余曲折と共に歩み、今は静かな眠りについている。老いた紳士のように。120歳の赤レンガ工場は、威厳と風格をたたえ、現代に生きる私たちを見下ろす。 道を一本隔てた反対側にはナゴヤハウジングセンターがあり、小さな子供を連れたたくさんの親子連れが...

    2007/01/20

    建物(Architecture)

  • 酒も飲めないくせに酒の文化館に迷い込んで逃げ出す二人

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.0, 1/200s(絞り優先) ミツカンの「酢の里」を訪れたならば、セットで行っておきたいのが「國盛 酒の文化館」だ。別にどちらから先に行ってもいいし、片方しか行かなくてもいいのだけど、せっかく半田まで足を伸ばしたならついでに寄っていこうかとなるのが人情というものだろう。私もツレも酒を一切飲まない人間だけど少しだけ入ってきた。本来なら事前に電話予約が必要らしいけど...

    2007/01/19

    施設/公園(Park)

  • ハロー・グッバイ、旧中埜家住宅紅茶のおいしいT's Cafe

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.0, 1/160s(絞り優先) 半田へ行こうと思ったきっかけは、ネットで知ったこの建物だった。国の重要文化財に指定されている旧中埜家住宅。「明治村(明治時代の建物を移築展示してある野外博物館)」が大好きな私だから、明治の建物には目がないのだ。ミツカン酢や赤レンガが見たくて半田へ行ったのではなかった。これが見たかったのだ。 ひと目見て、お、いいねぇと思う。これだけ古...

    2007/01/18

    建物(Architecture)

  • 半田はミツカン酢の中埜家が作った酢の香りに包まれた町だった

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f7.1, 1/800s(絞り優先) 知多半島のほぼ中央東海岸沿いに半田市がある。西海岸には常滑市があり、その沖合には中部国際空港セントレアができた。しかし、半田と聞いて何か具体的なイメージを思い浮かべることができる人はさほど多くないだろう。名古屋市民の私でも今回初めて訪れてみるまでは何ひとつ知らないも同然だった。県外の人の多くは半田市の存在そのものを知らないかもしれな...

    2007/01/17

    施設/公園(Park)

  • 野間灯台で願掛けして軟禁状態にされるのが嬉しわずらわし

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f8, 1/400s(絞り優先) 南知多の海岸線を走っているとまず「灯台ラーメン」の店があって、そこからしばらく行くと白亜の野間灯台が見えてくる。たいてい灯台は白いので白亜とことわる必要もないのだけど。 知多半島唯一の灯台は、伊吹降しで強風にもよく耐え、伊勢湾をゆく船の安全を見守り続けている。これほど海に近い場所に立っている灯台はちょっと珍しいかもしれない。灯台という...

    2007/01/16

    海/川/水辺(Sea/rive/pond)

  • 真冬の海との寒風対決は1勝1敗1分けで勝負は持ち越し

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f8, 1/160s(絞り優先) 海へ行こうと思った。年に何度かそういうことがある。今回は私には珍しく、ひとりではなくふたりで。 名古屋駅から名古屋高速に乗って、知多半島道路に乗り継ぎ、辿り着いたのは知多半島の海。ここは野間灯台の北側の名もなき海岸。砂浜ではなくこの岩場が私のいつもの海だ。知多で一番有名な海水浴場、内海(うつみ)海岸はここからまだずっと南にある。岩場の...

    2007/01/15

    海/川/水辺(Sea/rive/pond)

  • 風の強い天白公園大根池で遠すぎるカモたちに届かない300mm

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f6.3, 1/100s(絞り優先) ここは天白公園の中にある大根池。個人的にはカモスポットとして認識されている場所だ。去年初めて訪れたとき、数百羽のカモが浮かんでいて感動した。うわー、カモだらけじゃん、と。けど、今年行ってみると妙に数が少ない。ざっと見た感じ百羽いるかどうか。50羽くらいだったかもしれない。たまたまタイミングが悪かったのか、それとも今年は飛来数が少なかっ...

    2007/01/13

    施設/公園(Park)

  • 名古屋人の心の片隅にひっそりいる金鯱を踏まないで

     名古屋を歩けば金シャチに当たる。そんなことわざが成立してもおかしくないほど名古屋には金シャチがあふれている。お城の屋根の上だけにとどまらず、名古屋市職員は鯱のマークのバッジを胸につけ、交通局や消防署には鯱のキャラクターがいる。マンホールは鯱の絵が描かれ、自衛隊の戦車にも鯱が描かれるという思い入れの強さ。どんだけ鯱が好きなんだと、名古屋人からもツッコミが入るほどだ。シャチハタなど鯱にちなんだ名前の...

    2007/01/13

    名古屋(Nagoya)

  • カレンダーのことを書こうとして何故か熱い語りになるの巻

    PENTAX istDS+SMC Takumar 35mm(f3.5), f3.5, 1/160s(絞り優先) ようやく2007年のカレンダーを部屋の壁にかけることができた。今日はもう1月11日。10日遅れでようやく新しい2007年をスタートさせることができたような気がした。カレンダーって意外と大事だ。 カレンダー選びは毎年苦労する。いつもなかなか決まらず1月にずれ込みがちだ。ここ数年は、野草や季節の風景写真の12枚綴りのものにしていたけど、それもちょっと飽き...

    2007/01/12

    風物詩/行事(Event)

  • 巫女装束を揃えて着ればあなたも明日から巫女さんに?

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f4.0, 1/5s(絞り優先) 世の中には巫女(みこ)さんが好きな男がいて、巫女さんになりたい女の人がいる。潜在的な巫女さん願望を持つ人は思うより多いのではないだろうか。そのあたりの心理は私には分からないのだけど、いてもいいとは思う。神主さんを見るとたまらんという女の人だっているだろう。 私の中で巫女さんというと、紅白の衣装を着て神社でお守りを売ってるアルバイト学生...

    2007/01/11

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 男前豆腐を食べて、おれは男だと早朝の海岸で叫ぶのだ

    PENTAX istDS+SMC Takumar 55mm(f1.8), f2.0, 1/160s(絞り優先) 今さら言うまでもないことだが、私は男装の麗人ではなく、男だ。しかし、世の中には私のことを女性だと思っている人がいるらしい。そんなぬぐいきれない女性疑惑を払拭するために、男前豆腐を食べてみた。これを食べれば私も高倉健さんのように男らしくなるかもしれない。草刈正雄のように男前になるのも悪くない。でも、間違ってピーターや美輪明宏に近づいてし...

    2007/01/10

    食べ物(Food)

  • 雪が降る地球に生まれて静寂の音と純白の美しさを知る

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6),f5.6, 1/320s(絞り優先) 雪は天から送られた手紙である。 雪博士・中谷宇吉郎の言葉だ。2007年1月7日の名古屋に、雪は年賀状よりもたくさん降ってきた。結局短時間でやんでしまったのだけど、本格的な雪は今シーズン初だった。たくさんのお手紙ありがとう。このブログの記事でお返事に代えさせていただきます。 名古屋は雪が少ないところだから、たまに降る雪は嬉しい。喜んで写真を...

    2007/01/09

    雨/雪/天候(Weather)

  • おせち料理もどきで2007年サンデー料理は開幕

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f4.0, 1/15s(絞り優先) 2007年最初のサンデー料理は、やっぱりカレーだろうと思ったけどやめて、おせちにした。カレーもいいけどおせちもね。 田舎でひととおり食べてきたのだけど、買ってきたものだったから意外と食べるものがなかった。そもそも、生まれてこの方、心底美味しいと思えるおせち料理を食べたという記憶がない。家が貧乏だったのか、私の舌が貧しかったのか、単におせち...

    2007/01/08

    風物詩/行事(Event)

  • オアシスが必要なほど名古屋は砂漠化が進んでないけれど

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f7.1, 1/500s(絞り優先) 名古屋砂漠という言葉はないけれど、名古屋の中心にはオアシスがある。オアシス21という公園が。 日本初の総合立体型公園の名のもとに派手に登場したオアシス21。そのうち行かなくてなと思いつつ時が流れた。完成したのは2002年の10月というから、もう4年以上経っていたのか。4年といえば中学3年生だった子が大学1年生だ。96歳だった人は100歳になっている。...

    2007/01/07

    施設/公園(Park)

  • 三が日で三ヶ所目の城山八幡宮は恋の三社めぐりの出発点

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.0, 0.5s(絞り優先) 今年は新年早々、神社仏閣巡りが快調だ。飛ばしていると言ってもいい。三が日だけですでに3ヶ所も巡ってしまった。この調子でいくと、年間300ヶ所くらいになってしまう。もはや神社に住んだ方が早いとさえ言えるかもしれない。湾岸戦争の時NHKに出ずっぱりでNHKに住んでるんじゃないかと言われた軍事評論家の江畑さんのように。1:9分けは今も健在だろうか。 初...

    2007/01/06

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 久々に引いたおみくじを連理木に託して結んだ正月三日

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f3.5, 1/13s(絞り優先) 子供の頃の私は人並みにおみくじ好きだった。両親と神社へ行ったとき、よく引いていた記憶がある。まったく引かなくなったのはいつからだろう。高校生くらいからだろうか。それ以来、おみくじに限らず、神頼みとか占いとかを否定する時期が長く続いた。 今年の正月、久々に引いたおみくじは、正吉だった。五郎の丸太小屋を燃やしてしまった正吉だけど、蛍ちゃ...

    2007/01/05

    風物詩/行事(Event)

  • 睡魔に屈服して3枚の高所写真を並べてお茶を濁すの巻

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f7.1, 1/250s(絞り優先) 今日は名古屋の街をあちこちふらふら。 高いところへ登ってわあわあ。 眠たさが限界を超えてねむねむ。 なので今回は写真のみ。 最初の写真は、愛・地球博会場だったモリコロパークの大観覧車からの眺め。東海一の高さを誇るだけあって、見晴らしがいい。高さがあるのに怖くないのもよかった。人があんなにもちびっこく見える。 栄えセントラルパークのオ...

    2007/01/04

    施設/公園(Park)

  • 獅子舞を舞いながら唐獅子牡丹を歌う獅子に多めのご祝儀を

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f6.3, 1/200s(絞り優先) うちの田舎の丹生(三重県)では、今でも正月にちびっ子たちの獅子舞が村の一軒いっけんを回って、笛や太鼓の獅子舞を披露してお小遣いをもらう風習が残っている。もちろん、単独でゲリラ的にやっているのではなく、村ぐるみで行っているお祭り行事だ。ひと組で全部回っているものとばかり思っていたら、3組もいて驚いた。もしかしたらもっといるかもしれない...

    2007/01/02

    風物詩/行事(Event)

  • 2007年元日は初詣ネタで決意も新たに再出発

    OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.0, 1/160s(絞り優先) 無事2006年から2007年への年越しに成功した私は、珍しく元日の午前中から初詣に行くことにした。うちの田舎の勢和村(現・多気町)の丹生大師へ歩いて向かう。 ここは神仏習合の歴史と、明治になってからの神仏分離令によって少しややこしいことになっている。地元の人間にとって丹生大事は、お大師さんといって、寺院である丹生山神宮寺のことを指すことが多...

    2007/01/02

    風物詩/行事(Event)

タダより好きなものはない名古屋人は東京都庁へ登る

東京(Tokyo)
東京都庁外観見上げる

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f7.1, 1/400s(絞り優先)



 タダより高いものはないと世間では言う。名古屋人はタダより好きなものはない。大阪人が安いという言葉に反応するより激しく、名古屋の人間はタダということに異常な反応を示す。オマケやお買い得といううたい文句にも弱い。東京都庁の展望室で、おい、そこの名古屋人! と大きな声で叫べば、たぶん10人に1人は振り返るだろう。そう、東京都庁の展望室はタダスポットなのだ。

 バブル経済全盛期に建てられることが決まって、バブルが弾ける前の1990年に完成したこの巨大建造物は、当時バベルの塔ならぬバブルの塔と呼ばれた。建築費用は1,600億円。年間で維持費に40億円かかるという。石原慎太郎め、と思ったらもっと前の鈴木俊一だった。青島幸夫じゃなかったか。
 設計者は旧東京都庁舎も手がけた丹下健三(東京カテドラル聖マリア大聖堂、フジテレビ本社ビル、新宿パークタワーなどもこの人だ)。高さは243メートルで、完成時はサンシャイン60を抜いて日本一の超高層ビルだった。現在は横浜ランドマークタワーに抜かれ、東京一の地位もNTTドコモ代々木ビルに追い落とされ、名古屋のセントラルタワーズよりも低い全国7位となっている。それでもまだ六本木ヒルズより高い。真下から見上げると首を痛めそうになると同時に田舎者だということがバレてしまうので気をつけたい。写真なんか撮ってたら完全にアウトだ。
 デザインはパリのノートルダム大聖堂などのゴシック教会を模したという言われ方をすることがあるけどどうやらそれは違って、下部と同じ体積でこの高さにするとあまりにも容積が大きくて威圧感がありすぎるということで、上部の間を空けて重くなりすぎないようにした結果が大聖堂風になったというのが実際のところらしい。この奇抜な設計があとあと大きな問題になるということを丹下健三は少しでも考えていただろうか。

展望室の様子

 行ったのは土曜日の夕方で、まずまずそれなりに賑わっていた。昼間のもっと早い時間か、夜景時間はもっと人が多いのだろう。外国人率も高い。
 入口で荷物検査を受けたのも、場所が場所だけにそれはそうだなと思う。タダの場所はある意味危険な場所でもある。
 展望室はツインの南と北の両方にあって、それぞれ別の直通エレベーターで登るようになっている。エレベーターは超高速で耳がキーンとなる。202メートルの45階展望室まで55秒。横から見たら相当速いと思う。
 開館時間が少しややこしいことになっている。北展望室が9時半から23時までで、南展望室が9時半から17時半までなのだけど、北が第2、第4月曜日の定休日のときは南が23時まで開くことなる。南は第1、第3火曜日が定休日なので、行くときはあらかじめ調べておいた方がよさそうだ。
 出来た当時は両方ともぐるり360度見渡せたのが、2003-2004年のリニューアルによってカフェやみやげ物売り場が登場して制約が増えた。デートスポットとしてはよくなった半面、見えない方向も多くなったので、残念と言えば残念だ。
 いろいろ条件を考え合わせると、北が休みの日に南展望室へ行くのがオススメということになるだろうか。北は東側が完全にレストランに占領されて見ることができない。南は北がさえぎられるだけでその他は見ることができる。特に夜景の場合は夜の南がいい。
 北には「博品館 TOY PARK」があり、東京みやげなどを売っている。東京限定のキティちゃんや、懐かしのモンチッチなどもあった。昔のガチャガチャなどもお父さん世代にはたまらない。東京みやげは、やはり日本人よりも外国人が好んで買っていくようだ。あと、「東京水(とうきょうすい)」というのが売られていてちょっと興味を惹かれた。東京のおいしい水ではなく、ただの水道水なのだけど、何故か買ってしまう人がたくさんいるそうだ。値段の100円はネタとしてのお土産としては安いけど、水道代と思えば高い。
 32階には食堂職員があって、一般人でも食べられるようになっている。職員用ということで値段も安くてそれなりに美味しいらしい。昼はここで食べて展望台へ行けばかなり安上がりなデートになる。

都庁展望室からの眺め

 こうして見ると六本木ヒルズの圧倒的なボリューム感がよく分かる。ビルの大きさは高さがすべてじゃない。それにしてもこの太っちょぶりはただごとじゃない。周囲の中くらいの高さのビルだって、地方へ持っていけばどれも高層ビルとしての存在感を充分発揮できるものばかりなのに、ここでは小さくさえ見える。5階建て程度のビルは、1億円の前の100円のように存在感が弱い。ヒルズ族への道のりは果てしなく遠い。
 六本木ヒルズの左に遠くフジテレビの丸い銀色展望台が見えている。あの方角がお台場だ。
 その他の目立つ建物としては、東京タワー、新宿パークタワー、東京オペラシティ、NTTドコモ代々木ビルなどがあり、晴れた日には東京湾のレインボーブリッジ、横浜ランドマークタワー、富士山まで見えるという。下へ目を移せば、新宿中央公園、明治神宮、新宿御苑なども見ることができる。東京はまとまった緑が多い。

眺めるカップル

 こんな東京都庁も、デザイン最優先で建てられた結果、築15年にしてかなりのガタガタぶりを発揮し始めた。天井は至る所で雨漏りして、電気はつきっぱなしになり、空調もおかしく、いろんなところでトラブルが続出してるという。もし全面的にリニューアルするとしたら1,000億円からかかってしまうんだとか。しかも、10年計画で直していたら、直し終えたとたんに最初に直したところのガタがきてそれを直して、と永遠に直し続けることになる。いっそのこと車を乗りつぶして買い換えるように、ガタボロまで使ってから新しく建てた方がいいという話も出ているらしい。石原慎太郎のまばたきがますます増えそうな話だ。
 超高層ビルでバケツを置いて雨漏りを受けているという図は個人的には嫌いじゃない。それはそれで日本らしい風情があっていいではないか。受けるのが金だらいなら尚いい。

 東京都庁のビルは、敵が攻めてきたとき、巨大ロボットに変身して帝都を守るという。たぶん、中心部分の胴体と両サイドのタワーが切り離されて、ガッシャンガッシャン歩行しつつ展望室あたりから折れ曲がってロケットでも発射するのだと思う。そういえばこのデザイン、マクロスに見えてきた。やはり艦長は石原慎太郎で、ダイダロス・アタックを撃つ号令をかけるのだろうか。
 でもやっぱり平和が一番。都庁は変身しないままがいい。年間170万人の観光客が来るというし、オンボロになってもこのままであって欲しい。
 ここに登れば、1,500円の六本木ヒルズ展望台も、サンシャイン60も、テレコムセンターも、東京タワーも行く必要はないかもしれない。東京タダ・スポットは探せば意外と多い。都庁は思ったよりよかった。今後とも、名古屋人代表として東京お上りさんツアーに行くときは積極的にタダのところを見つけていきたい。タダより安いものはない、そう信じて。

短い滞在で目にした東京の断景と断想を少し

東京(Tokyo)
東京中央郵便局

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f4.0, 1/15s(絞り優先)



 今回の東京行きは、半分以上栃木での葬儀となって、予定していた場所をほとんど回れず、ほんのわずかな見物で終わった。今日はその断片的な風景を少しだけ紹介したいと思う。
 行くつもりだった、湯島聖堂、ニコライ堂、鬼子母神、根津神社、水天宮、東京庭園美術館、台場一丁目商店街などが頭の中でぐるぐる回って、それらはいまだ私の空想の中にしか存在しない。

 東京駅丸の内出口から出て左へ向かうと古めかしい建物が目の前に現れておっと思う。周囲を高いビルに囲まれながらも堂々としたその風格は、ひと目見ただけで存在感の違いに気づく。
「東京中央郵便局」
 昔懸賞などでよく出てきた東京中央郵便局私書箱何号などのあの東京中央郵便局だ。こんなところでこんな風に建っていたのか。もっと無機質で小さな四角に区切れた無数の小部屋のようなものを想像していた。まさかこんな昔の建物に送っているとは思ってもみない。
 立てられたは1931年(昭和6年)、設計は逓信省(ていしんしょう)の吉田鉄郎。日本の伝統的なデザインの建物ということで、『日本美の再発見』などで知られるドイツの建築家ブルーノ・タウトも賞賛したという。
 これだけ近代化、高層化が進む東京のど真ん中にこういう建物を残せるところに東京のすごさというか懐の深さを感じさせる。名古屋駅前の大名古屋ビルヂングも、あと50年くらいしたら、もう少し風格が出てくるだろうか。

東京駅構内の日曜日

 東京はいつどこへ行っても人があふれているイメージがあるけど、もちろんそんなことはない。場所によって、時間帯によって、人が全然いなかったり少なくなることもある。
 これは日曜夕方の東京駅構内。普段は通勤、通学などで大勢がひっきりなしに行き交う場所も、日曜の夕方には不自然なほど人が少なくなって、ガランとした印象となる。最大通行者数を想定して作られているだけに余計人の少なさと広さが際立つ。

東京手ぶれ夜景

 シビックセンターの25階展望室は無料で登れるというので行ってみると、そこは文京区の区役所だった。他にもいくつかの施設が同居しているとはいえ、区役所にしてこの建物というのは東京ならではだ。役所として機能させるために人が働き、同時に観光スポットとして見学者を受け入れるというのは、東京では当たり前でも地方都市にその感覚はない。
 ここの場所で最も印象に残ったのは「三脚厳禁」の注意書きだった。禁止というのはよく見かけるけど厳禁とまで言い切ってるのは初めて見た。確かにここは三脚を使って夜景を撮りたくなるところだ。新宿や池袋方面の高層ビル群の夜景が美しい。手持ちではこの写真のようにブレてしまう。タダで場所は提供するけど何でも自由にしてもらっては困るということだろう。一番いい東京ドームやラクーア方向はレストランがしっかり陣取っていて無料で見ることはできないのも、なるほどと思わせる。東京は甘い顔してそんなに甘くない。

朝の東京駅

 月曜朝の東京駅は、慌ただしさとけだるさが入り交じる。冷たい風が仕事場へ向かう人々の足を速めさせ、居残った観光客を乗せて長距離バスが次々に東京を出て行く。私も、さよなら東京、また来ますと心の中でつぶやいて、東京駅を後にした。
 今回の東京行きは思いがけず予定が大幅に違ってしまったけど、それで得られたこともあった。失うものがあればその代わりに手に入れられるものもある。だから、いつだって嘆く必要はないのだ。明日という日がある限りは。
 次の東京行きは2月後半の予定となっている。東京よ、待っていておくれ。そして私を呼び寄せてくれ。いつか、片道切符で東京へ行ける日が来るだろうか。

河原視点で見える世界とそこに集う人々を望遠で撮る

海/川/水辺(Sea/rive/pond)
河原の中学生

OLYMPUS E-1+Super Takumar 300mm(f4), f5.6, 1/200s(絞り優先)



 生まれ育った街の中で変わらないものはないけれど、その中で河原風景というのはあまり変わってない気がする。土手がコンクリートになったり、河原が芝になったりはしたけれど、街中ほど大きくは変わっていない。
 河原というのは一番手軽に自然に近づける場所だ。水があり、流れがあり、生き物がいて、空が広い。ビルにさえぎられて狭くなった空も、河原に行けばまだ残っている。だから私は、どこか行きたいと思って時間が少ししかないときはよく河原へ行く。そこには誰かしらいて、何かしら撮るものがあり、少しだけ心がクリアになる。冬の川風は冷たいけど、渡ってきたカモたちが出迎えてくれる。
 川は中学生の遊び場でもあった。釣りをしたり、石を投げたり、ただ意味もなく集まったり。最近はそういう光景もあまり見かけなくなってちょっと寂しい思いをしていたら、久しぶりに写真の風景に出会えた。なんだか懐かしい。80年代の青春ドラマの一場面のようだった。今の彼らが自分たちが風景の一部としてどういう役割を演じているかの自覚はないだろうけど、10年、20年経って同じような光景を見たとき、きっと私と同じようなことを感じるのだと思う。

カップルもいる河原

 河原で一番多いのがカモで、二番目が犬の散歩の人、三番目が散歩やジョガーで、カップルもわずかにいる。写真を撮ってる人間はまずいない。かつて一度だけ一眼を持った女の人を見たことがあったけど、後にも先にもその人ひとりしか私は出会ってない。彼女は何を撮っていたのだろう。
 河原へカメラを持っていくときは、望遠がはずせない。空を撮るための広角と望遠がいい。遠くの人たちを撮るために。鳥以外にも河原にはいい被写体が多いのだ。カップルや親子連れの自然な姿は絵になる。
 個人的な希望としては、夕陽に向かって三味線をかき鳴らしてる人を撮りたいと思っている。もし、河原で三味線を弾くときは私に知らせてください。遠くから望遠で撮りますから。

河原風景その3

 高校の頃、河原で友達とよくゴルフをしていた。日曜日や夏休みなどに。今ではゴルフ禁止の看板も目にするようになったけど、当時はもっと大らかだった。友達がドライバーでフルスイングしたら大きく右にカーブして民家の窓に消えたもの今となってはいい思い出だ(思い出にしていいのか?)。
 思えば私はよく河原で過ごしていたことに気づく。大学生になってからすっかり行かなくなって、忘れかけていた。ここ数年、写真を撮りに行くまでは。また最近河原のよさを見直している。

ベルベットの空

 ベルベットの夕焼け空。太陽が沈んで、空がオレンジに染まったあと日が暮れると、河原で撮るべきものはなくなる。もう帰ろう。また来るよと約束を残して。
 河原には何かがあるというわけではない。何もないと言えば何もない。でも、だからいいとも言える。日常から半歩のところに川は流れていて、大きく踏み出すまでもなくすぐそこにある。普段目にしていて実はちゃんと見てないのが街の川だ。上から見下ろすだけでは見えないものもある。河原まで降りていって初めて見える世界が。
 ちょっと降りてきて、一緒に川の冷たい風に吹かれてみませんか? 望遠レンズで一緒に河原世界を撮りましょう。

ひつまぶしは名古屋人が安心しておすすめできる名古屋名物

食べ物(Food)
しら河ひつまぶし

SH505iS(携帯カメラ)



 名古屋人のくせに私という人間は、ちゃんとした店のひつまぶしをこれまで一度した食べたことがなかった。それも他県から遊びに来たゲストにつき合う形で一回行っただけというていたらく。それも5年くらい前のことになる。これでは名古屋人失格の烙印を押されても文句は言えまい。けど、いつも心の片隅にひつまぶしの存在はあった。いつかもう一度自分の意志でひつまぶしを食べなくちゃなという思いがくすぶり続けていた。
 しかし、よほど私とひつまぶしは縁がないのか、行こうと決めて2度食べられずに終わることになる。一度は行こうとしたら閉店時間を過ぎていて、次は正月休みだった。なんてこった。まるでうなぎの呪いにでもかかったようにひつまぶしにありつけない私。もう駄目なのかと思った三回目、うなぎは私を見捨ててはいなかった。捨てるうなぎあれば拾ういなぎあり。ようやく私とツレは「しら河」ののれんをくぐることになった。

 名古屋でひつまぶしといえば、「あつたの蓬莱軒(ほうらいけん)」と相場が決まっている。ひつまぶし発祥となった店であり、ひつまぶしという商標登録を持つ、江戸時代から続く老舗だ。私が前回食べたのがこの店で、値段は2,500円くらいだった(現在は2,520円らしい)。値段も名古屋で一番高い。
 もう一軒、うちこそがひつまぶしを発案したのだと主張する店がある。中区錦3(いわゆるキンサン)にある、これまた古い「いば昇(いばしょう)」というところだ。
 ひつまぶしの起源には二つの説がある。ひとつは「いば昇」で冬にうなぎの皮が固くなるからそれを小さく切ってご飯に混ぜて、まかない料理として食べていたのが始まりというものと、「蓬莱軒」でお座敷に出すとき大きな櫃(ひつ)からご飯を小分けしてうなぎを乗せて出したのが最初だというものと。
「いば昇」のひつまぶしは2,100円と、やや抑えられている。
 今回我々が出向いた「しら河」は、お手頃価格で美味しいひつまぶしを食べさせると評判の店で、「蓬莱軒」よりこちらの方が好きだというファンも多い。私の舌は5年間のブランクがあるのでなんとも比較のしようがないのだけど、「蓬莱軒」はさすがの老舗の貫禄というオーラがあったのに対して、「しら河」の方は親しみが持てるものという違いは感じた。値段の差は約1,000円。うな丼の価格としては1,500円くらいが妥当な線なんじゃないかとは思う。
「しら河」のは、表面パリパリ、中ふんわりの仕上げになっているので、うなぎの皮のぬめっとした感じが苦手という人に向いている。うなぎ嫌いの人は、あきらめる前にここのものを試してみるといいかもしれない。
 上ひつまぶしが1,470 円で、ミニひつまぶしが1,155 円。手前にあるのがミニの方で、奥が通常のサイズだ。中身は同じで、量だけが違う。私は少食なのでミニでも持て余すくらいだった。割高になるけど、普通の食欲の人では上ひつまぶしは多すぎる。茶碗4杯分のご飯って、体育会系の学生じゃないんだから。

 ひつまぶしの基本的な食べ方の作法はこうだ。しゃもじでまず十文字に切り込みを入れて、4分の1を茶碗によそってそのまま食べる。まずはうなぎの味そのものを味わうわけだ。次に刻み海苔やネギなどの薬味を加えて4分の1を食べる。これだけでかなり味わいが変わるから不思議だ。個人的にはこの食べ方が一番美味しいと思う。三膳目はお茶漬けにして食べる。この場合のお茶は店によってもいろいろ特色があって、ただの日本茶ではない。ダシをベースにしたお茶で、これがうなぎと薬味によく合うようになっている。最後に残った4杯目は、自分の好きなようにして食べる。別に最初からうなぎを一気に混ぜてかき込んでもかまわないのけど、一応作法だけは知っておいて損はない。
 櫃(ひつ)に入れて、うなぎを塗(まぶ)して食べるから、櫃塗し。でもこんな漢字ではみんな読めないから、ひらがなで表記するようになった。昔は、暇つぶしと思っていた人も多かったけど、最近はそういう人も少なくなった。いや、いまだにそう信じ込んでいる日本人が1万人やそこらはいるだろうけど。
 どうしてうなぎ料理が名古屋名物になったかというと、実は愛知県の一色町(いっしきちょう)というところは日本のうなぎ生産高日本一で、愛知県は全国の全体の4分の1を占めるうなぎ王国だというのがある。浜名湖がうなぎの養殖では有名であるけど、静岡は4位でしかない。そのうなぎの多くは「うなぎパイ」に回ってしまうということもあるとかないとか。「あつた蓬莱軒」も、一色町のうなぎを使っているそうだ。
 うなぎは、関東では背開き、関西では腹開きと言う。関東は背から開いて白焼きにして蒸してから焼くのに対して、関西は腹から裂いて蒸さずに金串に差して直接焼くという違いがある。名古屋は関西と同じく腹から開いて、頭と尾を落としてから焼く。たれを二度付けしたり、みりんをつけたりするというのも名古屋の特徴だ。
 焼きはたいていどこでも備長炭を使っている。これによって香りも違ってくるので、店によってそれぞれこわだわりがあるのだろう。

 日本でうなぎがいつ頃から食べられていたかははっきりしていない。縄文時代の遺跡から見つかっているというから、うなぎそのものは大昔から食べられていたようだ。
 ある程度一般に食べられるようになったのは奈良や平安時代あたりからと言われている。「夏やせに 良しと言うものぞ うなぎ取り召せ」という大伴家持の句もある。
 今のような形で庶民もうなぎを食べるようになったのは、江戸時代の中期、元禄以降のことだ。江戸時代もこの頃になるとすっかり平和を持て余していて、文化、芸能、芸術だけでなく食も多種多様になっていった。鮨や天ぷらなどもこの同じ時期に料理として確立していった。調味料としてのみりんが発明されたこともあって、うなぎもさかんに食べられるようになる。当時はうな丼ではなく蒲焼きが主流だった。
 更にうなぎ人気が高まったのは江戸後期で、平賀源内の有名なキャッチコピー「土用の丑」の影響も大きかった。この本来根拠のない習慣が今になってもまだ続いているというのも面白い。

 名古屋名物といえばすぐに赤味噌を思い浮かべる人も多いと思うけど、名古屋にはひつまぶしがあるということを覚えておいて欲しい。味噌カツ、味噌煮込み、味噌おでんなどは好みが分かれるところにしても、うなぎが嫌いじゃなければ、ひつまぶしにハズレはない。
 名古屋に遊びに来て、最初で最後のつもりで食べるなら、やはり「あつた蓬莱軒」がいいと思う。格も値段も味も文句ない。一回きりなら2,500円も悔いなしとなるはずだ。「しら河」も安くて美味しいので、気軽に行ける店としておすすめしたい。浄心本店の他、今池ガスビル店、栄ガスビル店があり、JR名古屋タカシマヤにはお持ち帰り用ひつまぶし弁当がある。食べ比べるなら、この2軒と「いば昇」へ行けば、もう名古屋のひつまぶしはほぼ制覇したと言ってもいいだろう。
 私はこれでまた5年くらい休みを取ろうと思う。次は5年後くらいに「いば昇」へ行く予定だ。ひつまぶしなんてのは日常的に食べるもんじゃないから。貧乏で5年間貯金をしなければ食べられないとかそういうことでは決してない。ただ、おごってくれるというのなら、明日にでも行きましょう。中川区にある「鰻の魚勇」がなかなか美味しいらしいから、そこへ案内しますよ。どうも、ゴチになります。

飛ぶ鳥撮りを趣味として定着させよう会発足でただいま会員募集中

野鳥(Wild bird)
コサギ飛び姿-1

OLYMPUS E-1+Super Takumar 300mm(f4), f5.6, 1/640s(絞り優先)



 飛ぶ鳥をカメラで追って連写すると、大量の手ぶれピンぼけ没写真が生産される。下手なシャッターは数を押しても当たらないものだ。しかもマニュアルフォーカスレンズとなると、当たり確率はお年玉付き年賀ハガキの当選確率よりも低くなる。このときもさんざんシャッターを切りまくったのに、まともだったのはこれを含めて数枚だけだった。いつになったら私は年賀状のお年玉クジで一等が当たるんだろう。郵政民営化までになんとか当てたい。
 それにしてもコサギなんて、ゆっくり直線的に飛ぶ鳥なのにこの調子ということは、私が真の鳥の人ではないということを如実に物語っている。ちょっと安心した(安心するなよ)。

コサギ飛び姿-2

 背景はともかく、これはけっこうまともに撮れている。それでもまだ少しピントが合ってない。飛んでる鳥を普通にバッチリピントで撮ってる人がいるけど、自分で撮ってみて分かるその難しさ。もう少し明るいときに撮るとシャッタースピードが上がって撮りやすくなるのだけど。

 こうして横から見ると、飛んでいる鳥の姿勢がとても美しいことが分かる。背筋をまっすぐ伸ばして、首をすっこめて、足までピンとしてお行儀がいい。羽で空気を掴まえつつ、体はしっかり流線形を作っている。なんでこんな姿勢を空中で保てるのか不思議なくらいだ。
 ひとつには鳥の体は非常に軽いということがある。骨の内側が骨粗鬆症(こつそそうしょう)のようにスカスカのスポンジみたいになっていて、その分筋肉がすごく発達している。人間でいうと、一般人の胸の筋肉が今の20倍くらいという比率の体をしていることになる。骨皮筋右衛門(なつかしい表現だ)のじいさんが、怒ったケンシロウのように服の前がはじけ飛ぶくらいの筋肉を付けたとしてもまだ全然足りない。
 あとは腸を短くして早く消化してフンを体にためないとか、肺の周りに気のうという空気袋をたくさん持っていて、これで体をふくらませているというような工夫もある。すべては空を飛ぶために、余分なものは捨てていった。進化というものは、何か決定的な能力を得るために何かの能力をなくすことという言い方もできるだろう。
 翼は、一枚いちまい分かれていて、それぞれ違う役割をしている。飛ぶのに大事な羽は風切り羽だ。これを動かして調整することで浮いたり進んだりできるようになっている。だから、人間が一枚の大きな翼を作ったとしても、そう簡単に空を飛べるものではないのだ。そもそも、人間の今の体のまま飛ぼうとしたら翼は全長30メートル以上必要ということになるから、実質的に無理だ。いくら折りたたんだといっても、みんなが翼を持っていたら満員電車とか困ってしまう。それじゃあ、新聞も読めない。

 鳥の羽は、空を飛ぶためだけではなく体温を一定に保つ働きもしている。羽毛に覆われていることで外から体を遮断して、体温を維持する。鳥の体温は40-42度くらいと他の動物に比べてかなり高い。こんなに高熱だったら毎日学校を休めてしまう。でも鳥にとってはこれが平熱なので、熱があるとは感じてないはずだ。むしろ基本的に寒さが苦手で、体温が下がってくると羽をふくらませて羽毛の間に空気を入れて体温調節をする。毛が毛羽立っていかにも寒そうにしてる姿を見ることがあるけど、あれは本当に寒がっているのだ。鳥は寒さを感じない鈍感な生き物なんかではない。
 尾羽の付け根の上にある脂腺から脂を出して、クチバシでそこをコチョコチョコチョっとやって羽にこすりつけているところを見ることがある。あれは単なる毛づくろいではなく、ああやって防水加工をしているのだ。水が体に染み込んでくるのを防ぎつつ体温調整にもなっている。
 体温は逆に高すぎてもいけない。44度を超えると心臓に負担がかかって死んでしまう。人間のように汗をかくことができない鳥は、気のうに外気を送って体温を下げる。あと、羽毛が生えてない足からも熱を逃がしている。
 鳥の体温が高いのは、なんといっても飛ぶために大量のエネルギーを必要とするからだ。新陳代謝を早めて、常にエネルギーを作らないと生活できない。いつもハイテンションな鳥さんなのだ。そのためには、体に似合わないほどたくさんの食べ物をとらないといけない。食べないと大きくなれないだけじゃなく飛ぶことさえできなくなる。スズメにしても鳩にしても、いつも地面をつついてるのは食い意地が張ってるわけじゃなく生きるためにしなければならない行動なのだ。鳥の仕事は飛ぶことだけじゃない。

コサギとコガモたち

 コサギさんの群れに混ぜてもらってるのか、コサギのテリトリーにコサギさんたちが勝手に入ってきてるのか。それでもエサが違うから、もめることはない。
 コサギも一日中狩りをしている。これだけ大きな体を維持するためには、小魚を2、3匹でいいというわけにはいかない。こんな川にそんなに魚がいるんだろかと思うけど、生きていけてるということは食べ物があるのだろう。昔はよくテレビに出てたのに最近すっかり見かけなくなってたまに見かけると、この人どうやって食べてるんだろうと疑問に思うのと同じような思いをコサギに抱く。
 エサは、ドジョウ、フナ、ウグイ、カエル、ザリガニなどというのだけど、ドジョウなんて今どきいないぞ。子供の頃田舎で見て以来、名古屋の郊外でもドジョウはもういないだろう。それとも、いるんだろうか。
 じっとして魚が通るのを待つだけでなく、歩きながら水中の足をブルブルっとふるわせて(パドリング)驚いた水中生物を獲るなんてこともする。

 コサギは基本的に留鳥で、一年中日本にいて、日本で子育てをする。ただ、北の方にいるやつは寒くなると南の方に少しだけ移動するから、漂鳥(ひょうちょう)とも言えるかもしれない。
 世界では、ユーラシア大陸からアフリカ、オーストラリアまで広く分布している。
 一般的にシラサギという言い方をする中で、コサギが名前の通り一番小さい。60センチくらいで、カラスより一回り大きい感じだ。その他、チュウサギ(68センチくらい)とダイサギ(90センチくらい)がいる。
 ダイサギとチュウサギは遠目で見ると似てるのでちょっと区別が難しい。コサギを見分けるのは簡単で、足先を見ればいい。黄色い足をしていればコサギだ。チュウサギとダイサギは黒い足をしている。
 その他のサギとしては、アマサギ、ゴイサギ、ヘラサギ、アオサギ、ミゾゴイ、ササゴイ、ヨシゴイ、カラシラサギ、クロサギなどがいる。本家はコウノトリだ。
 ちょっとした雑学として覚えておきたいのは、白サギというのは金品を人からだまし取るサギで、赤サギは結婚詐欺などで異性をだますことで、青サギは会社や不動産などをだます知能犯のことをいう。更に、詐欺師をだます黒サギもいるよ、アミーゴ、セニョリータ。

 飛ぶ鳥撮りは難しいけど楽しいから、ぜひやってみてくださいとおすすめしたい。釣りと同じくらい趣味としても成り立つほどだ。あなたの趣味はなんですかと問われたら、飛んでる鳥を撮ることですとお見合いの席で答えて欲しい。それは素敵な趣味ですね、と言ってくれる女の人なら結婚してもまず間違いないでしょう。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの趣味をお持ちですね、なんて答えてくれた日には何が何でも結婚すべきだろう。そんなふうに気の利いたことを言ってくれる心の優しい人は、美人よりもずっと希少価値が高い。
 週末は望遠レンズを抱えて川や池や森へと繰り出そう。大容量メモリをカバンに入れて。現地では人目も気にせずシャッターを切って切って切りまくるのだ。飛び鳥を追いかけて西東。飛んでイスタンブール。その晩は、カシャカシャカシャカシャというシャッター音が夢にまで出てきて、いい夢が見られるに違いない。指に心地よい疲れを感じながら。
 趣味としての飛ぶ鳥撮りをいつか日本でもメジャーなスポーツとして定着させようではないですか。目指せカバディ。追いつけ追い越せセパタクロー。

手作りケーキの変遷を辿りながらハッピーバースデー、私

食べ物(Food)
初めてのチョコレートケーキ

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f20., 1/100s(絞り優先)



 去年のクリスマスから今日の自分の誕生日まで、あれこれとイベント事が続いて、その間4度、手作りケーキを焼いた。何作ってるんだよ、私。というツッコミを入れつつ、その変遷について今日は紹介したいと思う。そんなものは、だいたひかるの離婚よりど~でもいいですよ、と思われる方もいるだろうけど、乗りかかった船ということでおつき合いください。
 生まれて初めて作ったケーキはチョコレートケーキだった。なーんじゃこりゃー。自分でも驚き、あきれ、笑えたこの一品。何もかもが手探りで、暗闇の中で手を前にしてよろめきながら歩いていたら買ってきたケーキに手を突っ込んでしまったような完成度。自分の才能のなさが怖い。
 お手軽ケーキということで、炊飯器ケーキに挑戦してみたのが無謀だったかもしれない。今振り返ってみると最初から最後まで間違いだらけだった。
 卵3個を黄身と白身に分けて、それぞれに砂糖を20グラムずつ加えながらかき混ぜる。ふわふわトロトロになるまで徹底的にかき混ぜる。のだけど、このときは途中でけんしょう炎になりそうになって適当なところで切り上げた。かき混ぜ方も弱すぎた。ボールを叩くように混ぜないといけないのに、かき回してただけなので永遠に固くならなかったのだった。
 黒豆ココアと薄力粉を半々で60グラムくらい、ふるいでふるって黄身の方に混ぜる。黒豆ココアを使ったのはいつも飲んでいて家にあったからで、特に深い意味はない。そこに白身から作ったメレンゲ半分を混ぜていくのだけど、ここにコツがあるらしい。どうもこのときはしつこいくらいに混ぜすぎたようだ。それで空気が抜けてしまって、結果的にまったく膨らまなかったのだと思う。
 カカオ85%チョコレート一枚を適当な大きさに砕いてレンジで温めて溶かす。バターも50グラムくらい溶かして、それを加えて混ぜる。
 最後に残りのメレンゲをざっくり混ぜて、あとは炊飯器で普通に炊くだけ。フタを開けたら、あらびっくり、ふかふかで美味しそうなチョコレートケーキが出来て……ない! どろっとしてペシャンコじゃん? ものの本によると、一度で焼けないときはひっくり返してもう一度焼けとある。そうか、それじゃあ、と炊飯器の釜をひっくり返してみると、あら? くっついて落ちてきませんよ。こいつめぇ~、えい! えい! と降ったら、ボトッと落ちてきた! わー! ケーキが砕けたぁ~。なんてこった。まさかの展開。そういえば釜にバターを塗るのを忘れてた。なんとうかつな。
 とりあえず残った破片をかき集めて、もう一度焼いて出てきたのがこいつというわけだ。なんとかごまかせないかと、ホワイトチョコを溶かして上に縫ってみたものの、よけいヘンテコリンになってしまって、もはや取り返しがつかなかった。材料もないし、作り直す時間もない。自分ひとりで食べるならまったく問題ないけど、作っていくと約束したやつだからまずかった。
 当日は笑い話で済んだからよかったものの、完全なる安請け合いだったと反省しきりの私であった。味は濃厚なチョコココア味で美味しかったのだけど。

セカンドチャンス・チョコケーキ

 恋も二度目なら少しは上手に愛のメッセージ伝えたい、と中森明菜ちゃんも歌っていた。私もセカンド・チョコの歌を歌いたい。チョコケーキも二度目なら、少しは上手に美味しく膨らませたい、と。
 もう一度チャンスを得て作ったチョコレートケーキ。微妙な出来ではあったのだけど、初回のに比べたらずいぶんましなものが出来た。
 炊飯器はもう懲りて、今度は電子レンジで焼いた。10年も使っている電子レンジをよくよく観察してみたら「ケーキ」というボタンが付いてるのを発見して驚く。おまえはケーキも焼けたのか!? と。今まで牛乳や弁当を温めるための「温め」ボタンしか押したことがなかったから、まさかケーキが焼けるなんて思いもよらなかった。
 材料は基本的に前回と同じで、今回は頑張ってメレンゲを作って、無闇にかき混ぜなかったのがよかったようだ。牛乳パックで作った型に流し込んでそのままレンジで40分ほど焼いたら、けっこう膨らんだ。ただ、やっぱりちょっと固くて、その点に不満が残った。よく言えばしっとりなのだけど、もう少しふんわりしてる方がいい。何かいい方法があるんだろうか。
 今回は笑いも起こらず、けっこう和やかな雰囲気となってよかった。二度続けて失敗したのを持ってきたら、ケーキ作り担当の座を取り上げられてしまうところだった。一応これで首がつながった。

初ショートケーキ

 ケーキの王道といえばやはりなんといってもショートケーキだろう。一度作ってみたいと思っていたところへ、家族の誕生日という絶好の機会が巡ってきた。実験台にするならここしかない。スポンジが難しいことは作る前から分かっていた。多分失敗するだろうなという予感もあった。結果は、思った以上の大失敗でまたまた自分に驚くこととなる。いやはや、まったく。
 何しろスポンジが固い。文字通り食器を洗うスポンジが放置されてそのまま固まってしまったような固さ。総入れ歯のおじいちゃんなら歯が立たないほど頑丈なスポンジに匙を投げそうになる。なんだよその強情な態度は、とスポンジに向かって説教したくなったほどだ。なんでこんなことになってしまったんだろう。
 卵3個の全卵に砂糖やや控え目の60グラムを混ぜて、またひたすらかき混ぜる。もちろん、手動だ。しかし、今回もどうもトロトロ加減が弱いような気がする。やはり電動かき混ぜマシーンを買うべきか?
 ふるった薄力粉を混ぜ合わせて、溶かしたバター40グラムを加える。
 あとはレンジで30分焼いて、取り出してみると、がっちりと堅太りのスポンジがそこにいた。すごい筋肉質だ。ケビン山崎氏によって肉体改造されてしまったようなスポンジであった。
 ホイップクリームは、生クリーム200mlに対して砂糖20グラムを混ぜて、こいつもまたひたすらかき混ぜる。ただ、このときようやくかき混ぜのコツを掴んだ。泡立てるようにバシバシ叩けばいいのだ。ぐるぐる回していてもいっこうにラチが開かない。
 飾り付けもたどたどしく、なんとか完成した。この時期のイチゴは高いしケーキのイチゴは酸っぱくて好きじゃないので、家にあったフルーツの缶詰を使った。フルーツとの相性はよくて、生クリームが乗った上の部分だけは美味しかった。スポンジは冷蔵庫に入れたまま忘れてしまって一週間後に取り出したときのカステラみたいだった。

誕生日ショート

 自分の誕生日に自分で手作りケーキを焼いてる男というのもそうはいないと思うけど、そんなことを恥ずかしがってはいられない。私はもっと美味しいケーキが作りたいんだ。何かこんなイベントでもないとケーキ作りに気持ちが向かわないということもあって、2日がかりで自分のためにケーキを作った。
 そして今回の出来は、惜しい! 残念! あと一歩というものだった。
 やっぱりどうしてもスポンジがふわっとならずに固くなってしまう。今日は奥の手としてベーキングパウダーを使ってみたのだけど、それでも満足する膨らみにはならなかった。何がいけないんだろう。今回は黄身と白身を分けて作ったのに。メレンゲの混ぜ方なんだろうか。
 ただ、スポンジの固さは前回よりはずいぶんましになっていて、固いには固いにしてもびっくりするほどではなかった。これなら恋人になって間もない彼女が彼氏に作って持っていっても彼氏の顔が引きつることはないだろう。今回は生クリームの飾りつけがやや失敗だった。これは前回の方がよかった。クリームを先にしてフルーツは後にした方が上手くいくかもしれない。
 味に関してはオーソドックスな材料しか使ってないので、普通の味だった。これでスポンジさえもっと柔らかく出来たらかなり美味しくなると思う。
 買ってきたケーキの場合は、クリームの甘さや美味しさで味が決まると思っていたけど、実はスポンジがこんなにも大事なものだったのか。私はショートケーキのことが分かってなかった。

 以上が私のケーキ作りの変遷だ。まともなケーキを作れるようになるまでの道のりは長い。みんなもこんなに失敗を繰り返して大きくなっているのだろうか? 最初から上手に出来る人は出来るんだろうな。どうやら私は、料理以上にケーキ作りの才能に恵まれてないらしい。
 ただ、ケーキ作りの面白さには完全に目覚めた。下手の横好きとしてこれからも機会を見つけてケーキ作りに挑戦していきたいと思っている。自信作が出来たら、そのときはこの続きの変遷と共に紹介しよう。
 ケーキ作りは楽しいので、男の人にもぜひチャレンジして欲しいと思う。もちろん、女の人にも。子供と一緒に作れば尚楽しいはず。誕生日にお店で完璧に作られた美味しいケーキを買ってきて食べるのもいいけど、家族でわいわいやりながら分担して作って、台所がぐちゃぐちゃになって、スポンジが膨らまなくて誰が悪いとか言い合いになったりしても、それはきっと家族の思い出になるだろう。子供も学校で、うちのお父さんはケーキ作りが上手いだぜなんて自慢できたら素敵だ。
 私のように誕生日に自分のために自分で作ったケーキを食べるというのもオツなものです。シャンパングラスを片手にガウンなど羽織って、ハッピーバースデー、オレ、とか言いながら食べる手作りケーキはきっと一生忘れがたい思い出となるでしょう。

南極観測船ふじとタロとジロとサブロとタケシの話

施設/公園(Park)
タロとジロとふじ

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/13s(絞り優先)



 名古屋港にあるタロとジロの銅像と、南極観測船ふじ。オマケとして、ゴミをゴミ箱に捨てている男の人。右側にちょこっとスクリューも顔だけ参加してる。何故か、名古屋港には南極観測にまつわる品々がある。
 国内2代目の極観測船ふじは、昭和60年(1985年)の引退後どういういきさつがあったのか、名古屋港のガーデンふ頭に永久係留されることになった。当時の姿そのままに、南極観測船博物館として一般公開されている。
 入船料大人300円で、船内で各所で働く姿のまま固まったろう人形たちを見ることができる。艦内放送から聖飢魔IIの「ろう人形の館」が流れているとかいないとか(流れてない)。船員あり、観測員あり、床屋あり、歯医者ありと、観測船での生活ぶりがうかがえる作りとなっている。南極観測船好きな人にはたまらない。
 初代観測船「宗谷」はお台場の「船の科学館」に、3代目「しらせ」は現役で活躍中で、4代目は現在建造中という。南極観測船好きならぜひとも全部押さえておきたいところだ。

 敗戦から10年後の1955年(昭和30年)、日本は南極へ行くと決めた。主導は文部省(当時)で、お金も文部省が出すことに決まる。しかし、専用の船はないしお金もない。なんとか見つけてきた船は、建造されてから18年も経ったロートル巡視船「宗谷」だった。海上保安庁所属の灯台補給船を改造して南極へ行くという無茶な計画だった。
 それでも1956年、ど根性で宗谷は南極に辿り着き、以降1962年まで6回も南極へと物資や人を運び続けることになる。
 とはいえ、いい加減老朽化も限界に達し、能力的にも不足すぎるということで、新たに専門の南極観測船を造ることとなった。それが、ふじだ。このときも文部省の予算で造られている。輸送と所属はそれまでの海上保安庁から海上自衛隊に変わった。
 1964年(昭和40年)、南極観測船ふじは完成した。正確には、砕氷艦「ふじ」(AGB-5001)というらしい。全長100メートル、排水量5,250トンは自衛艦の当時最大だった。12,000馬力で最高速度17ノット、厚さ80センチまでの氷を砕きながら進むことができた。その能力は、宗谷の倍だった。船体は一般のものよりも横幅が広く、先端は氷に乗り上げ荒れるように30度の角度がつけてある。定員245人で、輸送ヘリを3機搭載可能とした。
 最初に出発したのは名古屋港かと思いきや東京湾の晴海ふ頭だった。じゃあ、東京湾へお帰りよと言いたいところなのだけど、東京湾にこんなものをつないでおく余裕はないということか。縁もゆかりもない名古屋港につなぎ止められたふじは何を思ってるだろう。
 ふじは1983年までの18年、7次から24次隊まで活躍したあと引退。現在はふじに代わる「しらせ」がせっせと南極へ行ったり来たり行ったり来たりしている。
 名古屋とは縁もゆかりもないと書いたけど、おそらく、近くにあるポートビルの中の「名古屋海洋博物館」と連動した形での展示ということで誘致したのだろうと思う。南極観測船というものの内部を見る機会は一般人にはまずないから、これはなかなかいい試みだと思う。ただし、世の中に南極観測船好きな人は思いのほか少ない。

 そもそもなんで南極なんて行くんだ? と思った人もいるだろう。私もふとそんな疑問が頭に浮かんだ。ロマンと冒険の旅ならそんなにたびたび行く必要もないし、長く滞在する意味もない。南極の土地でも調べてるんだろうか、いいもんが埋まってるとか? なんてとぼけたことを考えた人がいたとしたら、それは私のお仲間だ。けど、南極ってそんなに簡単な場所じゃない。
 一番最初は、国際地球観測年というものに参加する12ヶ国のうちのひとつということで、2次で終了するはずだった。しかもそれは南極ではなく赤道だったのが、予定していた場所がアメリカの持ち物で許可が下りなくて、仕方なく南極となったのだった。だから、船も間に合わせの改造船しか準備できなかったのだ。
 観測する場所も決まらないまま出発して、とりあえず行ってみてよさそうなところで基地を造ろうやってことで造られたのが昭和基地だった。命がけなのに意外と計画は大雑把。ただ、南極でも敗戦国日本の肩身は狭く、南極本土ではなく海岸から5キロ離れた東オングル島になった。ここは強風からは逃れられるものの、本土へ行くにはいちいちヘリを飛ばさなくてはいけないから面倒だ。本土に基地を造ったら駄目と言われたのだろうか。
 1月29日、日本で最初のプレハブ建築が南極に建つ。プレハブっていいねと君が言うから1月29日は南極「昭和基地」設営記念日。
 現在は、管理棟の他、住居棟、発電棟、観測棟、衛星受信棟、焼却炉棟など53もの棟ができている。生活も長期に渡るため、医務棟や食堂、図書館、娯楽施設、郵便局など、ひととおりの設備が整っていて、日本の田舎よりも便利な暮らしができる。寒いのを我慢すれば。
 で、結局南極で何してるのという問いに対する答えは、ごくシンプルに言うなら、観測をしている、だ。気象はもちろん、天体や生物学、地球のことなどいろんなことを観察しているのだった。南極でないと見られないものもいろいろある。
 人員は越冬組と帰国組がいて入れ替わり立ち替わりしていて、合計すると60人ほどが観測隊員ということになるそうだ。想像してたより多い。もっとこぢんまりした施設だと思ってた。

 南極といえばやはりタロとジロのことに触れないわけにはいかない。
 極寒の地で物資を運ぶために犬ぞりが必要とのことで、樺太犬(からふといぬ)が選ばれた。体力があって、寒さに強く、少ない食事にも耐えて、指の間の毛が雪の上での行動に適しているからというのがその理由だった。
 1次隊と一緒に22頭の樺太犬が南極へと渡った。この中にまだ子犬だったタロとジロがいた。実はサブロという兄弟がいたのだけど、こいつは訓練中に腸を痛めて死んでしまったのだった。もし生きていたら、団子三兄弟よりも亀田三兄弟よりも早い樺太犬三兄弟として話題になっていたかもしれない。
 結果的に犬を置いてくることになってものすごい非難を浴びることになるのだけど、犬は道具としてではなく最初から家族同然の隊員として扱われていた。赤道を超えるときに暑さに弱い樺太犬のために冷房装備まで取り付けていったのだから。
 あまり知られてないネタとして、このときオスの三毛猫タケシくんも南極観測隊に参加している。オスの三毛猫はとても珍しくもあり、昔から船の守り神とされていることから一緒に連れていかれたようだ。彼は基地の中で働きもせずぬくぬくと過ごして、無事帰国している。
 越冬隊員と犬15頭を残し、いったん1次隊の半分は日本に帰っていき、その後2次隊を乗せてやてきた宗谷は、昭和基地の手前140キロで厚い氷に行く手をさえぎられて身動きが取れなくなってしまう。スクリューも破損し、天気は荒れて、ついに上陸を断念。1次隊のメンバーはどうにか救出したものの、15頭の犬たちを乗せる余裕はなかった。隊員たちを責めるのは簡単だけど、彼らの思いを想像するとなんとも切ない。
 一ヶ月後に自分たちが戻ってくると信じて、ひと月分の食料を置いて鎖に繋いで南極を後にする。しかし、戻ってこられたのはそれから一年後のことだった。
 タロとジロはどんなに飢えても仲間を食べたりはしなかった。ペンギンやアザラシのフンを食べたり、ときには兄弟でペンギンなどを狩っていたのではないかと言われている。実際、3次越冬隊によってその様子が目撃されている。
 タロジロ生存のニュースは日本国内にいち早く伝えられ、明るい話題として大変な評判となった。高倉健さん主演の『南極物語』は、ある一定の年齢以上の人なら一度くらいは観てるだろう。最近アメリカでリメイクもされた。
 生き残ったタロとジロは、再び南極へ行っている。もうこりごりと断らなかったのだろうか。ジロは1960年に南極で病気のため死に、帰国後はく製になった。タロは帰国してから北海道大学植物園で余生を過ごし15歳まで生きた。こちらもはく製になっている。タロとジロの子孫が今日本全国にいるという。
 現在の南極は生き物持ち込み禁止となっているので、もうタロとジロのようなことは起こらない。

 あなたは南極へ行ってみたいと思うだろうか? 私は少しだけ思う。マイナス40度の世界はバナナでクギが打てるから楽しそうだとかいう理由ではなく、あまり人が行ったことのない土地だからという理由で。
 ただ、宇宙ほど一般人お断りではないにしても、思い立ったらふらっと旅行に行けるような場所ではない。JTBの代理店へ行って、ちょっと南極まで2泊3日で行きたいんですけど、いいツアーないですか? などと訊ねたらこいつふざけてるなと思われて相手にしてもらえない。稀に日本の旅行会社でツアーを組むことがあるようだけど、やはり人数も集まらない分、めったになくてなおかつ高い。100万くらいするという話だ。もうひとつは、アルゼンチンまで飛行機で飛んで、そこから船で行くというツアーがあるようだ。それでも50万やそこらはかかるだろうけど、南極行きはそれほど非現実的な旅行ではないのかもしれない。
 南極観測隊の一員になるにはどうすればいいか? それは私には分からない。何か特別な育成コースとかがあるんだろうか。それとも一般公募したりするのか。
 かつて、まだ誰も日本人が南極へ行ったことがなかった時代、南極大陸冒険者募集で新聞にこんな広告が載った。その応募資格がこうだ。
 マイナス40度の寒さに耐えられること。
 堅忍不抜の精神を持っていて、多量の飲酒をせず、歯の力が強くて梅干しのタネをかみ砕くことが出来る者。
 家族のしがらみがなく、後顧の患いがない者。

 とりあえず私は梅干しのところで駄目だと思う。南極への道のりは遠い。
 遠い将来、地球温暖化が進むと、人類は南極や北極にしか住めなくなるという話がある。そのときは普通に行ける場所になっているのだろうか。けど、そこもオゾン層の破壊でやっぱり住めなくて、人類は寒さというものを忘れてしまう時代が来るかもしれない。そんなときはもう誰もタロとジロの話をしなくなるだろう。だからせめて私たちが彼らのことを覚えていよう。高倉健さんの名演技と共に。

今食べたいサンデー料理、ついに「突撃!私の晩ごはん」が始まる!?

食べ物(Food)
食べたいサンデー

PENTAX istDS+SMC Takumar 55mm(f1.8), f2.8, 1/60s(絞り優先)



 今回のサンデー料理のテーマは、今日食べたいものを作って食べるだった。新しい料理への挑戦というサンデー料理の基本テーマからはややはずれるものの、食べたいものを作るというのが料理の基本であることは間違いない。今年になってからはまだおせちもどきしか作ってなかった。去年の暮れからも休みがちになってしまっていたし、ここらで一度リセットして、去年作ったものの集大成として自分の好きなものを作ることにした。バランスがあるから、必ずしもこの3品が自分のベスト3というわけではないのだけど。

 最初にコロッケが食べたいと思った。普段あまり揚げ物は食べない私も、ときどき無性に油ものが食べたくなることがある。最近の研究で、油を摂取した直後に脳の中でモルヒネと同じような脳内麻薬ベータ・エンドルフィンが分泌されることが分かったそうだ。1.5倍くらいになるらしい。私の脳も麻薬を必要としたということか。
 ノーマルコロッケよりもクリームコロッケが好きなのだけど、今日は新たな試みとして、ハーフクリームコロッケにしてみた。
 小麦粉、バター、牛乳からホワイトクリームを作って、ジャガイモはレンジで加熱してからつぶして、刻んだタマネギと混ぜる。揚げ方としては、最初に高温でさっと揚げた後、もう一度低温でじっくり二度揚げすると更に美味しくなる。普通面倒だからそこまではしないけど。
 ソースは手作りトマトソース。タマネギの刻みをオリーブオイルで炒めて、皮をむいて乱切りしたトマト、トマトジュース、ケチャップ、砂糖、塩、コショウ、赤ワイン、コンソメの素を煮込む。お好みでニンニクや牛乳を入れてもいい。
 クリームコロッケほどドロッとせず、ジャガイモほどパサパサしないしっとりまろやかなハーフクリームコロッケはオススメだ。トマトソースとの相性もよく、油によって脳内麻薬も分泌されて幸せな気持ちになれる。これは私の料理の中でも安心して人に出せる1品として定着しそうだ。

 右のはカニ玉あんかけ。
 溶き卵、レンジで水切りしてつぶした豆腐、だし汁、カニ缶、シイタケ、鶏肉を混ぜ合わせ、茶碗の中に入れてラップをかぶしてレンジで5分ほど加熱する。
 たれは、しょう油、みりん、酒、めんつゆに豆板醤を入れて辛みを効かせる。ひと煮立ちさせて、水溶きカタクリ粉でとろみをつけたものを上からかければ出来上がりだ。
 和風なんだけどピリ辛であっさり味なので、子供も大人もいける。中華風にしたければごま油を入れればいい。蒸しものは面倒というイメージがあるけど、電子レンジで応用が効くものが多く、レンジでやると一気に簡単料理になる。料理は焼くか煮るかだけじゃない。

 左上のは写真で見るとコンニャクっぽいけど、実はマグロステーキだ。
 マグロの切り身を薄くスライスして、塩コショウした後、たっぷりのオリーブオイルで軽く焼く。
 ソースは、卵(卵黄だけでもいい)、白味噌、マヨネーズ、酒、みりん、レモン汁(または酢)、塩、コショウ、マスタード、しょう油を混ぜて作った。少し温めて卵が固くなりすぎない程度にとろりとさせる。味が濃いと思ったらだし汁などで薄めればいい。
 これは魚嫌いの人でも美味しく食べられると思うから、一度試してみてほしい。魚が苦手という人の心理としては、骨が邪魔くさいというのと、塩焼きや煮付けなどのいかにも魚っぽいのがイヤだというのがあると思う。魚の身そのものが嫌いという人は少ないんじゃないだろうか。だから、身を肉のように調理すれば、魚嫌いの人もきっと魚を食べられるはずだ。私自身がそうだから。

 今日は自分が食べたいものを作ったということもあって、自画自賛の出来となった。こりゃ美味しいなと普通に思ったから、サンデー料理史上かなり上位に位置するだろう。去年一年、週に一度作り続けて、ようやく家庭料理のレベルにはなった。小中学生の子供を持つバツイチの人の主夫に明日からなれる即戦力として私を誰か採用しませんか? いらない? そうですか、それは残念です。
 今年はいよいよ、「突撃!私の晩ごはん」が始まる。まずは私に対して好意的な人のところから始めて、最終的には道で会ったら挨拶くらいはするという人のところにも無理矢理私の料理をお届けするというあたりまでいきたいと思っている。ただ、町内会で苦情が出ないように気をつけたい。オオタさんが無理矢理うちに夕飯を押しつけてくるので困ります! とか言われないようにしよう。鍵っ子の子供を捕まえて、無理矢理食わせてみるか。
 私がどこへ行こうとしているのかを訪ねることはない。あなたの家に行こうとしているのだから。電話一本で料理ではなく私をお届けします。食材を用意して待っていてください。ただし、調理時間は2時間かかるので、気長な人限定です。

忘れちゃいけない名古屋人のひとり加藤清正をよろしく

人物(Person)
加藤清正像

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/200s(絞り優先)



 名古屋生まれで大成した人を見ると、ほとんど例外なくよその土地に移った先で成功している。特に戦国時代がそうだ。豊臣秀吉といえば大阪、前田利家といえば金沢、山内一豊といえば土佐というように、名古屋を捨てて名をなした人が多い。織田信長はそうそうに岐阜に移り、愛知県岡崎市出身の徳川家康も江戸に行ってしまった。江戸時代、尾張徳川家はついにひとりの将軍も出すことなく終わってしまったのも、地元にいては駄目だということを表している。
 今日紹介する加藤清正もそういうひとりだ。清正といえば熊本城に虎退治というイメージが強く、名古屋色は薄い。秀吉と同じ名古屋市中村区(名古屋駅の裏)生まれということを知っている人は少ないかもしれない。名古屋人も清正のことをあまり郷土の英雄として祭り上げてない。最後の領地となった熊本では今でもみんなに慕われているというのに。
 そういう私も、清正について詳しいのかと問われると口ごもってしまう。清正を主人公にした小説も読んだことがないから、表面的な知識しかない。これじゃあいけないと思い、今日は清正について勉強してみた。その成果をここに惜しみなく披露したい。拾った知識はみんなに配らないとバチが当たるから(そうなのか?)。

 1562年に尾張の土豪の息子として生まれた清正は、早くに父親を亡くして、近所でもあり、母親同士が遠い親戚ということもあって、9歳のときに豊臣秀吉に仕えることになる。そんな清正を秀吉とねねは我が子のようにかわいがったという。同じような境遇に福島正則がいて、のちに二人は大の親友となる。
 初陣は14歳、長篠の合戦だった。翌年に元服して、170石を与えられて秀吉の正式な配下となった。
 清正の名が知られるようになるのは、1583年の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)からだ。のちに賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになる七人のうちのひとりに入る活躍を見せた。二十歳そこそこでかなりの武勇伝をあげたことになる。これで所領は一気に3,000石となる。オリラジ並みのスピード出世だ。
 本能寺の変で信長がいなくなり、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家(名古屋市名東区生まれ)との後継者争いに勝った秀吉と共に、清正は数々の武勲をあげていくことになる。織田信長などと違って秀吉は代々の家臣などひとりもいないので、このように子飼いの武将や仲間に引き入れた武将などを集めて家臣団を作っていった。
 1585年に秀吉が関白に就任。勢いは完全に秀吉のものとなり、屈強だった島津家もついに降伏。その後肥後(熊本)を任されていた佐々成政が秀吉の怒りを買ってしまった代わりに、清正は肥後を与えられることになる。小西行長との分割統治とはいえ、いきなり25万石の城持ち大名となった。このとき清正26歳。異例の大抜擢であった。
 ただ問題は、清正と小西行長があまりにもそりが合わなかったことだ。キリシタン大名として有名な小西行長に対して日蓮宗信者の熱心な信者だった清正は、キリシタンを弾圧した。そのことでますます二人の中はこじれることになる。関ヶ原の合戦で清正は家康側の東軍につくことになるのだが、このときここぞとばかりに小西行長をやっつけまくった。関ヶ原とは遠く離れた九州で違うケンカが起こっていたのだ。

 清正といえば朝鮮出兵も重要な要素のひとつとなる。福島正則たちと共に秀吉の命で朝鮮に渡り、長く無益な戦いを強いられた。清正が何を思っていたかは分からない。本気で朝鮮を領土にできると思って戦っていたのだろうか。向こうでは大暴れしてたくさんの戦功を立て、朝鮮の民からは鬼将軍として恐れられたという。そのことがあって、韓国や朝鮮の人たちは今でもあまり熊本へ行きたがらないらしい。
 ただ、向こうで悪いことをしていたわけではなく、現地の人が困っているということで虎退治をしたり、捕虜に対して人間的に接したということで慕われたりもしている。清正はただの暴れん坊ではないのだ。
 そんな清正を妬んだのが石田三成だった。清正もインテリの石田三成を嫌っていて、ふたりはしだいに犬猿の仲となっていく。朝鮮出兵中に、三成は清正がこっちで悪いことをしてると秀吉に言いつけたことで清正は日本に呼び戻されて謹慎になってしまう。
 秀吉の死によって朝鮮戦争はうやむやのうちに終結となり、石田三成と清正のいがみ合いはますます強くなっていく。1599年に前田利家が死ぬと歯止めがきかなくなり、福島正則や浅野幸長ら6将と一緒に石田三成を暗殺しようとまでしている。これは家康になだめられて未遂に終わるものの、三成は謹慎となり、このことが関ヶ原の合戦へとつながっていくこととなる。
 関ヶ原の合戦は、もともと豊臣秀吉恩顧の西軍対それに取って代わろうとする東軍徳川家康軍との天下分け目の決戦だった。だから、秀吉に最も近い清正は本来なら当然西軍についてないとおかしい。しかし、西軍の大将は大嫌いな石田三成で、仲間にはこれまたいがみあってる小西行長がいる。清正としては秀吉に対する忠誠心がありつつ、時代の趨勢からも家康の方につくことを選んだ。
 結果は東軍勝利で、九州での活躍が認められて、清正は小西行長の所領ももらって肥後全州52万石の大名となった。清正としては、にっくき二人をやっつけて、領地も倍増してよかった。内心は複雑だっただろうけど。

清正石

 写真の石垣の巨大石は、通称「清正石」と呼ばれているものだ。幅6メートル、高さ2.5メートル、畳にすると十畳ほどの石が石垣の中にしっかり組み込まれている。こんなことができるのは清正しかないだろうということで清正石と名づけられた。実際は、この場所は黒田長政の担当だったので長政の仕事であろうということになっている。
 清正が担当した名古屋城天守台の石垣は、とても美しい。なだらかなカーブを描く石垣は、「清正三日月石垣」と呼ばれている。

 これだけ勇猛な武将でありながら、清正は城造りの名人でもあった。家康に許されて、熊本城築城に取りかかる。1608年、地方の大名にはふさわしくないほど立派な熊本城が完成した。各地から最高の技術者を集め、海外貿易で稼いだ資金を使い、領民には休みもしっかり与えたので、働き手は皆、喜んで仕事に従事したと伝えられている。
 その他、治水や土木でも当代一流だった清正は、領地の暴れ川を治めたりもしている。このあたりでも、いまだに熊本では「清正公(せいしょこさん)」と称されて慕われている要因なのだろう。
 熊本城は、明治10年、西南戦争のとき意外な形で名城ぶりを世に示すことになる。西郷隆盛軍が勢いに乗って北上する途中、熊本城にろう城した政府軍に思いがけず足止めを食ってしまう。少数の守備隊しかいないにもかからず熊本城は落ちない。そうこうしてるうちに政府軍の援軍が到着してしまい、西郷軍はそこから敗走を始めることになる。もし熊本城を落としていれば、西郷軍のその後は違ったものとなっていたかもしれない。しかし、この戦の際に強い風にあおられた飛び火によって大小天守閣など多くが焼け落ちてしまった。

 名古屋城天守の石垣を組み終わった清正は、やれやれとほっと一息ついたことだろう。家康に押しつけられた無理な築城仕事もやり終えて、しばらくのんびりできると喜んだかもしれない。それでも隠居するにはまだ早い49歳。
 二条城で家康と豊臣秀頼との会見が行われることになり、清正はそれを取り持つ役割を果たすことになる。形の上では家康の側についていた清正も、気持ちの中ではいまだ徳川家の家臣という思いが強かったのだろう。豊臣家を残すよう家康に訴えるつもりがあった。何かあったら家康と差し違えるつもりで懐に短刀を隠し持っていたという。
 家康もまた、清正の思いに気づいていなかったはずがない。武将としても一目置いていた清正を家康は恐れた。
 帰りの船の中で清正は突然発病し、帰国後熊本で急死してしまう。死因は心筋梗塞だとか脳出血だとかライ病だとかいろいろ言われいてはっきりしない。まことしやかに家康によって毒まんじゅうを食べさせられたというウワサも流れた。
 4年後、大阪夏の陣により豊臣家は滅亡する。清正が生きていれば大阪城が落ちるはずはなかったと言われる。
 21年後には嫡男の忠弘が改易され、肥後は以降細川家のものとなる。ただ、細川家の偉かったのは、清正人気を妬まずに自分たちも敬愛したことだ。熊本では今でも清正のことを悪く言う人はほとんどいないという。

 戦に強い武将ということで大男のイメージがある清正は、実は背は高くなかった。シークレットブーツではなく、長い帽子で大きく見せてはいたものの、実際は160センチそこそこだったと伝えられている。
 相当な潔癖性だったというのは意外だ。痔ということもあってか、便所でしゃがむときは30センチの高さの下駄をはいてしていたらしい。昔はくみ取りだから、はね返ってくるのを嫌ったのだろう。
 口の中に握り拳を入れることができたというのはちょっと有名な話だ。清正が好きだった新選組の近藤勇もマネしてやっていた。その近藤勇のマネをしてSMAPの香取慎吾も拳を口に入れるのをよくやっている。それを見た私も挑戦してみたけど、まったく入りそうになかった。こんなものが入る口はどうかしてる。
 結局、加藤清正というのはどんな人だったのか? いくつかの顔を持ちながら、そんなに複雑な人物ではない。強い武将でありながら城造りの名人で、インテリではないけど愚直でもなく、善人ではないにしても悪人でもなく、好き嫌いがはっきりした正直な人だった。忠義心は強く、野心はさほど強くなく、ある意味では普通の人間だったと言えるだろう。魅力的で愛すべき人だ。私の中では、理想の上司像みたいなイメージが出来上がった。戦しか能がないような武人でもなく、権謀術策の政治家でもない。現代に生きていたとしても何か立派な仕事を成し遂げることができる人だ。
 加藤清正って、こんな素敵な人だったんだと、これを読んで思ってもらえたら嬉しく思う。私自身、今日勉強して初めて知ったことばかりだったから、今日からもっと清正さんのことを敬愛したいと思う。熊本の人たちを見習って。

120歳の半田赤レンガ工場は眠りの中で100年前の夢を見る

建物(Architecture)
半田の赤レンガ-1

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.6, 1/100s(絞り優先)



 半田名所巡り4部作の最後は赤レンガ工場。明治にカブトビールの工場として建てられたこの建物は、歴史の紆余曲折と共に歩み、今は静かな眠りについている。老いた紳士のように。120歳の赤レンガ工場は、威厳と風格をたたえ、現代に生きる私たちを見下ろす。
 道を一本隔てた反対側にはナゴヤハウジングセンターがあり、小さな子供を連れたたくさんの親子連れが戦隊ショーに歓声をあげていた。赤レンガは薄目を開けてその様子をちらりと見た後、また目を閉じて眠りに戻る。森の主のフクロウみたいに。

 ミツカン酢(中埜家)4代目の又左衛門と、のちに敷島パンを創設することになる盛田善平らによってビール会社・丸三麦酒醸造所が作られたのは1887年(明治20年)のことだった。2年後の明治22年、ビールは完成し、丸三ビールの名前で売り出されることになる。明治29年に会社名を丸三麦酒株式会社とし、明治31年この地に赤レンガの工場を建設した。ビールの銘柄もこのときカブトビールと改名される。
 工場の設計は明治建築界の三大巨匠と言われた妻木頼黄(つまきよりなか)が担当した。横浜の赤レンガ倉庫を設計したのもこの人だ(あとの二人は、東京駅や日本銀行本店を建てた辰野金吾と、赤坂迎賓館や京都博物館を設計した片山東熊)。
 赤レンガ造りにしては珍しく5階建ての高層建築で、のちの三度の増築も含めると、赤レンガの数は240万個になるという。現存する赤レンガ建築としては、東京駅、横浜赤レンガ倉庫、北海道庁に次いで全国4位だそうだ。
 ビール工場としては、北海道のサッポロビール工場もアサヒビール吹田工場も建て替えられ、東京の恵比寿ビール工場も取り壊されてしまった今、初期のビール醸造所の姿をとどめるのはここだけとなった。
 一部5階建てで全体には2階建ての鉄板葺。創建当時の主棟の他、ハーフティンバー棟、貯蔵庫棟によって構成されている。東側の部分は取り壊されて現在は残っていない。

赤レンガ貯蔵庫

 北側の重厚なレンガ造りと比べると、南側は軽やかな印象の赤レンガ造りとなっている。このように柱や梁(はり)、筋違(すじかい)などの骨組みを外にむき出しにして、煉瓦や土などで壁を作る様式をハーフティンバーという。イギリス、フランス、ドイツなどによく見られるもので、明治時代の日本人がそちらの方を向いていたのを示している。かつての日本人の憧れの対象は、アメリカではなくヨーロッパだった。だから、明治の建物は美しい。
 こちら側の建物は明治末期と大正時代に増築された部分で、貯蔵庫などに使われていたようだ。
 赤レンガというと、横浜の赤レンガ倉庫をまず思い浮かべる人が多いと思う。小樽運河も有名だ。その他、各地に少しだけ残っている。金沢や福井、京都の舞鶴や神戸、姫路、広島、長崎などに。
 倉庫ではなく建物としては、名古屋ではノリタケの工場がそうだ。もちろん、東京駅も。明治から大正にかけて、日本人はいい建築物をたくさん作っていた。明治村へ行くとそのことがよく分かる。あの頃の美意識はどこへ行ってしまったのだろう。

 第二次大戦の末期、この赤レンガ工場は中島飛行機半田製作所の衣糧倉庫として使われていた。それを知ったアメリカ軍によって、ここは攻撃目標とされてしまう。B29が爆弾をばらまき、その後にやって来た小型戦闘機P51によって工場は機銃掃射を浴びせられた。今でも赤レンガの外壁にはそのときの無数の弾痕がはっきりと残っている。それでも尚、赤レンガ工場は倒れずに建ち続けてきた。
 終戦後、1949年(昭和24年)から1996年(平成8年)まで、この建物は日本食品化工株式会社のコーンスターチ加工工場となっていた。しかし老朽化も進み、工場は閉鎖。取り壊す方向で話が進んでいた。
 そのとき飛んできたのが日本中の赤レンガ野郎たちだった。取り壊し、ちょっと待ったとあちこちから声がかかり、学術調査が入り、こんな貴重な建物を壊すなんてもってのほか、断固保存すべしということになり、平成8年に半田市が土地ごと買い取ることで話がまとまった。平成16年には国の登録有形文化財となり、現在は半田観光の目玉のひとつとなっている。
 残念ながら、普段は非公開で建物の外側からしか見ることができない。年に数回一般公開をしているものの、いついっても見られないというのでは観光としては弱い。建物が常時公開に耐えられないほど老朽化してるのだろうか。次の公開日は3月の3日、4日だそうだ。

赤レンガ北側

 オリジナルのカブトビールを飲んだことがあるという人ももうほとんどいなくなった。1933年、サッポロやアサヒの前身である大日本ビールに合併吸収されてカブトビールは消えた。けど、かつて一地方都市のローカルビールが、大手4大ビールメーカーと互角に競っていた時代があったのだ。それがこの赤レンガ工場で作られたカブトビールだった。
 漢字で書くと、加武登麦酒。日本酒を喉を鳴らして飲むことをカブルというところから名づけられたという。商標は、日清戦争に勝って兜の緒を締めよから兜マークとした。
 酒造りで培った技術と経験、そして中埜家の財力を費やし、満を持して出品した1900年(明治33年)のパリ万国博でカブトビールは金牌を受賞する。その後全国で売れに売れたそうだ。
 2005年、かねてより続いていた研究が実り、明治のカブトビール復刻版が完成した。330ml650円で、半田のいくつかの場所で販売している(寿司料亭魚福、黒牛の里、半田ステーションホテル、山田屋ベル、花まんま、ビアシティ南知多など)。一般公開日に買うこともできる。

 何も知らなければほとんど廃墟のようにしか見えない赤レンガ工場には、多くの夢や思いや歴史が刻まれていた。たった120年、でもそれは軽くない120年だ。
 今ではたまに揺り起こされる以外は眠りについた赤レンガは、未来にどんな夢を見ているのだろうか。ときどき訪れる私たちのような人間をどう思っているのだろう。かつての活気と情熱に満ちていたときの思い出に浸っているのか。
 朽ちそうな赤レンガの建物を見上げながら私が思うのは、何があろうと、どんな姿になろうと、建ち続けることの意義だ。人が死ぬより生き続けることの方が難しいように、建物もまた壊されるより建っていることの方がずっと難しい。ただ生きればいいってもんじゃないと言うけれど、ただ建っていればいいということもある。
 私たちも120年生きて、昭和のことを語ろう。120年後には消えてなくなってしまったあれこれのことを。

酒も飲めないくせに酒の文化館に迷い込んで逃げ出す二人

施設/公園(Park)
國盛酒の文化館

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.0, 1/200s(絞り優先)



 ミツカンの「酢の里」を訪れたならば、セットで行っておきたいのが「國盛 酒の文化館」だ。別にどちらから先に行ってもいいし、片方しか行かなくてもいいのだけど、せっかく半田まで足を伸ばしたならついでに寄っていこうかとなるのが人情というものだろう。私もツレも酒を一切飲まない人間だけど少しだけ入ってきた。本来なら事前に電話予約が必要らしいけど、このときはそのことを知らずに普通に入れてもらえた。駐車場は酢の里と共通になるようで、歩いて5分もかからない。
 國盛(クニザカリ)という酒がどの程度有名なものなのか、酒に縁のない私にはさっぱり分からない。酒といえば、「信長 清洲城鬼ころし」くらいしか知らない私。ワンカップ大関は酒の種類なのか商品名なのかもあやふやなくらいだ。もしかしたら國盛というのは酒好きなら知らない人はいないってくらい有名なのかもしれない。
 酒の博物館である「酒の文化館」は、中埜酒造株式会社がやっている。中埜といえばミツカンだから中埜家の兄弟会社なのかと思いきや、少し事情が違った。

 江戸時代、半田は酒造りが盛んな土地だった。最盛期には227軒の酒蔵があって灘に次ぐ全国で2番目の大生産地だったそうだ(現在は7軒ほどしか残ってない)。温暖な気候ときれいなわき水に恵まれ、運河が発達していたことで江戸と上方の両方に酒を運ぶのに都合がいいという地の利もあった。半田の酒を上方との中間に位置しているということから「中国銘酒」と呼ばれていたという。
 江戸時代末期の1844年、小栗富治郎がこの地で酒造りを始める。酒の名前は、この国と共に盛んになるという願いを込めて「國盛」とした。江戸ではペリーが来航して大騒ぎになり、ミツカン酢によって江戸前鮨が大流行している時代だ。この時期は酒も盛んに飲まれていた。
 明治になり、二代目、三代目と移り、時代も変わっていった。昔からの伝統的な製法を残しつつ最新の技術も導入されていくことになる。
 その後明治42年に、ミツカンの中埜家に経営が移り、会社の名前も丸中酒造合資会社となった。中埜家との関わりはそういうことだったのだ。出発点が同じだったわけではない。
 第二次大戦、オイルショックという苦しい時代を乗り越え、現在はミツカングループの一角として、中埜酒造株式会社となっている(平成2年まではマルナカ株式会社だった)。
 前置きが長くなった。それでは、「酒の文化館」へと踏み込んでみよう。

酒の文化館の見学者たち

 入口の受け付けで名前とどこから来たかを告げる。見学コースを希望しますかと訊かれて、自分たちで回りますと断った。そんなに本腰を入れて見学するつもりはなかったから。酒に興味がない身で1時間近いコースはきつい。大学の講義じゃないんだから。
 二階へ上がると思った以上に狭くて逃げ場ない。ガイドのお姉さんと見学客とのやりとりが妙に盛り上がっていて熱気に圧倒される我々。完全に場違いなところに迷い込んでしまったことを悟るのに時間はかからなかった。入って2分で逃げ腰になる。
 それでも多少は興味があるフリをして写真などを撮りつつ見て回る。しかし見て回るといっても一周5分もかからない。二周してみたけどそれ以上どうすることもできず、お邪魔しましたーとこっそり入口から帰ろうとする私たちは呼び止められてしまう。ちょっとお待ちください、と。万引きが見つかった中学生のようにひるむ二人。いや、何も盗んでません! と言おうと思ったら、出口はそっちじゃありませんと注意されてしまった。どうやら見学コースを逆走していたらしい。あ、いや、すみませんと恐縮しつつ、コースに復帰する。けど、コース上には販売コーナーがあり、店員さんがニコやかな顔で待ち構えている。否が応でもそこを通らずには外へと出られない仕組みになっているのだ。思わず目が合ってしまって固まること3秒。3秒が永遠に思えた。けど、酒を飲まない我々に買いたいものなどあるはずもなく、どうもありがとうございましたー、と愛想笑いを浮かべながら逃げるように出口から飛び出したのであった。
 完全に入る場所を間違えたようだ。「酢の里」だったら酢でもおみやげに買ったかもしれないけど、酒はいらなかった。他にも食べ物とかのおみやげもあったのだろうけど、そこまでじっくり見る余裕はなかった。ここは酒を飲む人が入るところだ。もしくは、酒造りに興味津々の人か。高校生のとき、間違えてパンクの洋服店に入ってしまったときの遠い記憶がよみがえった。あのときは怖かったな、トゲつきの革ジャンとか買わされそうになって。

酒の文化館の道具たち

 マジメに酒造りのことを勉強して知りたいという人にとって、ここはとてもいいところなのだと思う。ガイドさんの説明もおざなりではなく熱心で、見学者との掛け合いも楽しげだった。試飲などが入って酒場っぽい雰囲気も漂いつつ。
 1986年に中埜酒造が新工場を完成したのをきっかけに、日本酒の知識と理解を深めてもらうと、酒の博物館としてここは作られた。かつて使われた伝統の道具が並び、パネルの説明書きやミニシアターコーナー、人形による酒造りの様子紹介などがある。
 酒好きの人にとっての楽しみはやはり試飲だろう。8種類ほどの酒を飲み比べることができるそうだ。おみやげコーナーもたぶん充実していることだろう。私は目を合わせられなかったのでよく見えなかったけど。
 電話による事前予約が必要で(飛び込みでも入れるけど試飲はできない)、入場は無料。10時から4時で、第3木曜日が定休日。

 帰ってきてから少しだけ日本酒について勉強してみた。
 原材料は米と水と麹(こうじ)。それに酵母や乳酸菌なども使われる。原材料の80パーセントが水なので、水選びによって味は大きく違ってくる。
 蒸した米に麹菌というカビの胞子をかけて育てるところから始まる。これが米のデンプンをブドウ糖に変えて酒の母(もと)となり、水などを加えてもろみとなる。こいつを圧搾機で搾ると、酒と酒粕に分けられる。この酒粕が粕酢になるというわけだ。
 搾った酒は、ろ過と加熱をして、しばらく置いておく。そんなこんなで約60日、こうして日本酒が出来上がる。本当はもっと複雑な工程を経ているけど、詳しくは知らないので省略してしまう。
 いつ頃から日本で酒造りが始まったのかはよく分かっていない。米を発酵させた酒の原形みたいなものはかなり古くからあったのだろう。米作りが始まったと同時くらいにはもうあったかもしれない。清酒となるとずっとあとの時代のことだ。
 吟醸酒や大吟醸というのも今までどういう違いがあるのか知らなかった。米は中心の部分が酒造りには向いていて、まわりを50パーセント以上削ったものを大吟醸、40パーセント以上を吟醸酒といったように区別するそうだ。本醸造酒が30パーセント以上で、一般的な普通種はそこまで精米してないものを指す。
 純米酒というのは、白米、米麹、水だけを原料として造った清酒のことをいう。
 大吟醸の方が高級にしても、それぞれ好みがあるから高価なほど美味しく感じるというわけではないのだろう。昔、うちの死んだじいさんは、特級など持っていくと喜ばずに、いつも二級の日本酒を飲んでコタツで寝ていた。ただ、この一級、二級という呼び方は1992年に廃止されたらしい。

酒の文化館の裏

 出口からの脱出に成功した私たちはほっと一息ついた。まいったというより申し訳なかった。あれじゃあ完全に冷やかしだ。けど、きっと私たちみたいな人が他にもいるだろうから、向こうも慣れたものだろう。どこの世界にも迷子というのはいるものだ。
 運河沿いの裏側も風情があっていい。ツアーだと表しか見ないだろうけど、ちょっと自由行動で裏まで回ってみると蔵の違う顔が見られる。

 酒を飲めないと言うと、損をしていてかわいそうみたいな言われ方をすることがある。人生の喜びを知らなくてもったいない、と。けど、酒の席での失敗と酒が飲めないことの損失を天秤にかけたとき、酒で得られるものよりも酒で失うことの方が多いようにも思う。少なくとも可能性の問題として、酒によって大事なものをなくしてしまうことがあり得る。
 それに損得というのは酒を飲む側から見た論理であって、飲めない方からすると特に損をしたという感じはない。大麻を吸わなくても普通に生きていけるように、酒を飲まなくても他で充分幸福感は味わえている。飲まなくちゃやってられないような強いストレスも抱えてない。体にいいといっても、他にも体にいい飲み物や食べ物があたくさんあって、酒に代わるものがないというわけではない。
 おそらくこの先も、私の場合酒を飲まない人生が続くことになると思う。それでいい、たとえ損をしていたとしても。飲むのも人生、飲まないのも人生。どちらにも幸せと不幸がある。自分の意志でどちらにするか決めればいい。
 酒が飲めない人生に乾杯。

ハロー・グッバイ、旧中埜家住宅紅茶のおいしいT's Cafe

建物(Architecture)
旧中埜家住宅

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.0, 1/160s(絞り優先)



 半田へ行こうと思ったきっかけは、ネットで知ったこの建物だった。国の重要文化財に指定されている旧中埜家住宅。「明治村(明治時代の建物を移築展示してある野外博物館)」が大好きな私だから、明治の建物には目がないのだ。ミツカン酢や赤レンガが見たくて半田へ行ったのではなかった。これが見たかったのだ。
 ひと目見て、お、いいねぇと思う。これだけ古いと住むのは大変だけど、見て回るだけなら無責任に楽しめる。更にここのいいところは、紅茶専門店「T's Cafe」として現役で使われているところだ。もちろん、一般客として中に入ることができて、室内を見学することもできる。重要文化財といっても保存しておくだけでは能がない。こうして違う形で活用して一般に公開するのは私も大賛成だ。貴重なものほど実際に見て触れて初めてその価値が分かるものだから。

 ミツカン酢の第十代当主中埜半六がイギリス留学中に見たヨーロッパの住宅の美しさに感動して、帰国後の明治44年に別荘としてこれを建てた。
 設計は東海地方建築界の権威だった名古屋高等工業学校教授の鈴木禎次。アールヌーヴォーを取り入れたイギリスチューダー様式住宅は、木造二階建てで、壁にはレンガを使用し、屋根はスレート葺きとなっている。飾り窓やバルコニーなどが明治時代の優雅な感覚を今に伝える。イギリスチューダー様式の建物が残っているのは全国でも珍しいそうで、1976年(昭和51年)に国の重要文化財に指定された。
 敷地は丘の上にあって、当時は三河湾まで見えたという。現在はここだけが時間に取り残された異空間となっている。
 1950年(昭和25年)にいったん洋裁専門学校の桐華学園として使われた後、しばらく放置された。けど、せっかくこんないい建物が残っているんだから何かに使えないかとみんなで相談して、喫茶店にすることに決まった。なんだか、文化祭で何をするか意見がまとまらずに喫茶室になってしまったというのにちょっと似てるけど、重要文化財の明治の建築物でお茶できるというのはありがたいことだ。資料館とかよりはずっと気が利いている。
 ひととおり周囲を見て回った我々は、いよいよ紅茶専門店「T's CAFE」に潜入することにする。やや及び腰で入口の扉を静かに開けた。

T’s Cafe店内

 店内は、できる限り古い内装を残しつつ、喫茶店として機能させていくための近代的な設備がチラホラ顔をのぞかせている。暖炉の中にファンヒーターが置かれていたのはちょっと笑えた。これはどうなんだろうと。コンセントなどもむき出しになっていたりして、あちこちで時代考証が間違っているのがやや残念だった。もう少し演出に気を遣うと、もっと気分に浸れるはずだ。
 それでも店内はさすがに普通の喫茶店とは違う雰囲気を醸しだしていて趣がある。華麗なる一族の邸宅のように豪華絢爛すぎないのがいい。これくらいなら庶民がちょっと背伸びをすれば場に馴染むことができる。むしろ、意外と質素な別荘と言った方がいいのかもしれない。このあたりにも、ミツカン酢が浮ついてなくて地に足がついているのを感じさせる。
 ただ、内装に関しては、ここを喫茶店にしたときにかなり改造されただろうから、当時の姿そのままというわけではないだろう。改築する前はかなり老朽化が進んでいただろうし。

T’s Cafe二階

 お店の人にひと声かけると、室内に入らないという約束で二階も見て回ることができる。といっても、こちらは完全に楽屋裏というか、見学用に改築されていない。昭和に洋裁専門学校として使われた当時のまま時が止まっている。畳がむき出しの和室があり、布が簡単にかぶせられただけの機織り機が長い眠りについている。見どころといえば、古さと時間が停止している様くらいで他にはこれといったものはない。まるで使われなくなった田舎の家のようだ。人によっては、こちらの方が身近な懐かしさを感じられて嬉しいということがあるかもしれない。

T’s Cafe紅茶とケーキ

 紅茶専門店だけに、たくさんの種類の紅茶がメニューに並んでいて、何を頼んでよいものやら悩む。ダージリンやアッサムあたりは聞き覚えがあったものの、中国茶まで取り揃えてあって大部分が知らない名前の紅茶だった。それでも、紅茶も飲んだことがないような下級庶民と思われてはいけないと思い、さりげなく写真の紅茶を注文してみた。えーと、なんて名前だったかな。すっかり忘れてしまった。自分が思う以上に舞い上がっていたのだろうか。
 味はかなり酸っぱかった。レモンの酸味だけではない、かつて味わったことがない甘酸っぱさは、次はこれを頼むのはやめようと思わせるものだった。ただ、何を頼んだか覚えていないだけに、それを避けようにも避けきれない恐れはある。全部で30種類以上あったから、紅茶に詳しい人ならきっと楽しめることだろう。紅茶にまったく詳しくない人は、とりあえず午後の紅茶とでも頼んでおけば大丈夫でしょう。それは置いてないと言われたら、じゃあリプトンで、と答えてください。
 700円のケーキセットや、780円のランチセットもあったりするので、紅茶専門店という看板に恐れをなすことはない。コーヒーだってちゃんとある。
 私はケーキセットを頼んでみた。ケーキは4種類くらいから選べるようになっている。どれにしますかと訊ねられて、何気なく手を伸ばして取ろうとしたらそれは見本のケーキで、取っちゃダメ! と、ツレとウエイトレスの両方から同時ツッコミを入れられたお茶目な私であった。ケーキの見本は指差すだけにしなくちゃいけないぞ、庶民の諸君。

 営業は、10:00-18:00で、水曜定休。専用駐車場がないので、店の北にあるトーカヒルズ駐車場に入れる。50分100円だったか。店で1枚駐車チケットをくれるので、50分以内なら無料になる。
 毎月、紅茶教室というのも開かれているそうだ。紅茶の基礎から応用まで、ティーインストラクターの人がいろいろ教えてくれるらしい。値段は1,500円で定員は8名。私も参加したら、紅茶にはちょっとうるさい男になれるだろうか。うーむ、これはダージリンに似てるけどインド北部のシッキムだねとか、お、こいつはフラワリー・オレンジ・ペコーじゃないかとか。
 そんな男ってカッコイイのか? なんか、紅茶版川島なお美みたいでちょっとイヤかも。

 建物をぐるりと見て回って、写真も撮って、紅茶とケーキも味わって、すっかり満足した私であった。これだけでも半田に行ったかいがあった。半田へ行った際はぜひ旧中埜家住宅「T's Cafe」に寄ってみてください。紅茶のおいしい喫茶店ですから。白いお皿にグッバイとつぶやいて、銀のスプーンでくるくるかきまわせばカップにはハローの文字が浮かぶでしょう。
 ハロー・グッバイ、T's Cafe。いつの日か、紅茶に詳しい男になったら再び訪ねます。

半田はミツカン酢の中埜家が作った酢の香りに包まれた町だった

施設/公園(Park)
半田運河

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 知多半島のほぼ中央東海岸沿いに半田市がある。西海岸には常滑市があり、その沖合には中部国際空港セントレアができた。しかし、半田と聞いて何か具体的なイメージを思い浮かべることができる人はさほど多くないだろう。名古屋市民の私でも今回初めて訪れてみるまでは何ひとつ知らないも同然だった。県外の人の多くは半田市の存在そのものを知らないかもしれない。
 半田へ行ってみて今の私が言えることは、半田は中埜(なかの)家のミツカン酢のものだ、ということだ。豊田市がトヨタのものであるのと同じように。
 中部国際空港ができて以来、常滑と共に半田も注目されるようになった。知多の海以外の観光を担う二大拠点として。しかし、観光地としての歴史が浅い半田市は、実際に訪ねてみると観光客を迎えるムードは希薄だった。半田運河にしてもミツカン酢にしても赤レンガにしても、直前まで行ってみないと案内看板さえ見当たらず、あたり一帯はごくごく普通の住宅地が続く。本当にここらなんだろうかと不安になるほどだ。
 地図を調べ、いくらか道に迷いながらなんとか「酢の里」に辿り着いた。半田観光はここから始まる。

 半田運河沿いにはミツカン酢の蔵が並び、古い時代の面影を色濃く残す。これはいい。映画のセットみたいだなと思ったら、1940年に黒澤明監督の『姿三四郎』の撮影がここで行われたそうだ。
 しかし、ここは単なる観光地ではなく、現役の施設でもある。外観は古い時代のものを保ちつつ、内部は最新の設備が整った酢の醸造蔵なのだ。景観を損なわないために、電柱や電線を地下に埋めるところまで徹底している。
 ここまでこだわっているのだから、もっと観光地として宣伝すればいいのにと思うけど、ミツカン酢という企業は地元では古くからの名士ということで、そういうあざといことはあまりしたくないのかもしれない。黒板塀に描かれたミツカン酢のマークもさりげない。
 運河沿いには散策路が整備されていて、ぶらぶら散歩するのは気持ちがいい。ただし、周囲一帯は強烈な酢の香りに満ちているので、酢が苦手な人はつらい。一日ここで過ごしたら、白米を食べても酢飯を食べてるような感じになるかもしれない。逆に、酢が大好きという人には、とても魅力的な場所だ。酢の匂いだけでご飯三杯はいける。環境省の「かおり風景100選」にも選ばれている。

酢の里

 「酢の里」前で団体の見学者ご一行様と一緒になった。歩いていたら、いつの間にか団体さんに飲み込まれていて少し驚く。
 ここは江戸時代から続く酢づくりを見学できる、日本で唯一の酢の総合博物館だ。事前に予約すれば無料でガイドさんが案内をしてくれる。コースは2時間ほどで、酢の試飲などもできるそうだ。
 ここは全国的にもなかなか有名なようで、年間8万人ほどが訪れるという。セントレアができて以来、各地から人がやってくるようになったんだとか。近年はお酢が体にいいということで見直されているということもあるのだろう。いつか機会があれば私も見学してみたい。お酢を試飲しまくって血液サラサラになるのだ。

 江戸時代から半田は良質なわき水が出る土地で、酒やしょう油などの醸造が盛んなところだった。更に海運業の発達と共に発展していくことになる。
 1804年、この地で酒づりをしていた中野又左衛門が、酒をつくると大量にできる酒粕を何とか利用できないだろうかと考えて作ったのが粕酢だ。それまで捨てるしかなかった酒粕をいかした見事なアイディア。それを運河から江戸や大坂に運んで売るようになり、ちょうど江戸で始まっていたにぎり鮨ブームに上手く乗った。
 それまで長い時間をかけて自然発酵させていた鮨に、酢で味を付けることで即座にできることが受けて、たちまちミツカン酢は評判になる。その後、にぎり鮨は全国に広まっていった。

中埜酒店

「酢の里」の左側にも目立つ建物がある。旧・東海銀行半田支店、現・中埜酢店中央研究所ビルだ。大正13年に建てられたネオルネッサンス様式のビルの中では、最先端のバイオテクノロジー研究が行われているという。
 ミツカン酢という企業は、いろんな意味で他の企業とは違うところがある。古き良き伝統と最先端という両方の顔を持ち合わせているのが、黒板の蔵やこういうビルからも見て取れる。酢メーカーとしては国内シェア70パーセントのトップ企業でありながら(世界では2位)、借金なしという昔気質の一面もあり、社長は世襲制で代々又左衛門を名乗っていたりもする。
 現在は大きなグループ企業に成長して、調味料としての酢だけでなく様々な製品を出している。味ぽん、ゆずぽんや、飲むための純玄米黒酢、最近では金のつぶなどの納豆も売っている。
 おなじみのミツカンマークには意味があった。酢の命である味、きき、香りの3つの要素を丸くおさめるという意味で、明治20年に四代目又左衛門が考案したそうだ。

 今までほとんど何も知らなかった半田市とミツカン酢が、私の中で一気に身近なものとなった。半田にはこの他にも、中埜兄弟の酒店やカブトビールの赤レンガ工場、中埜家住宅、紺屋海道などの見どころがある。それらと知多の海、セントレアをセットで見て回れば、一日充分楽しめる場所だ。「ごんぎつね」で有名な新美南吉のふるさともある。そのあたりについても、またこのブログで紹介していきたい。半田といえば半田ごてが思い浮かんでいた人にも、半田といえば半田市を連想してもらえるように。
 愛知県の人でも、半田観光へ行ったことがない人が多いと思うから、これを機にぜひ一度出かけてみてください。お弁当は、ちらし寿司がいいでしょう。運河沿いで食べるちらし寿司は、周囲の酢の香りと相まって、かつて味わったことのないような強烈なちらし寿司となるでしょう。ち~らし~寿司~な~ら、この~す~し~太~郎~ あった~かご飯に混ぜるだけ~ ちょいとす~し~太郎~♪ と北島のサブちゃんのモノマネもお忘れなく。

野間灯台で願掛けして軟禁状態にされるのが嬉しわずらわし

海/川/水辺(Sea/rive/pond)
野間灯台を遠くから

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f8, 1/400s(絞り優先)



 南知多の海岸線を走っているとまず「灯台ラーメン」の店があって、そこからしばらく行くと白亜の野間灯台が見えてくる。たいてい灯台は白いので白亜とことわる必要もないのだけど。
 知多半島唯一の灯台は、伊吹降しで強風にもよく耐え、伊勢湾をゆく船の安全を見守り続けている。これほど海に近い場所に立っている灯台はちょっと珍しいかもしれない。灯台というと、海沿いの小高い場所から海を見下ろしているというイメージが強い。
 地上17.9メートルの野間灯台は、大正10年(1921年)に設置された。
 光度は1万5千カンデラ、光達距離は13.5海里(約25キロ)らしい。と言われても、灯台野郎でも何でもない私としては、はぁ、と気のない返事しかできない。その数値がすごいんだかすごくないんだか、さっぱり見当がつかない。おいら岬の~灯台守は~という歌は歌えるのだが。
 周囲は三河湾国定公園に指定されていて、ちょっとした観光スポットになっている。灯台の見学も自由にできる。ただし、中に入ったり、登ったりはできないので、周囲から見るだけだ。
 夏場はこのあたりも海水浴客で賑わうのだろうか。シーズン中に訪れたことがない私にはそのあたりの状況がよく分からない。駐車場は有料で1回1,000円というのだけど、私が行くようなシーズンオフは管理人らしき人の姿も見当たらず、ポツポツやってくるカップルなどは普通にとめていたので、私もそれに習った。トイレもある。
 灯台の前には「TERRACE NOANOA」というカフェがあるので、そこに入って海を眺めるというのもいい。お客になれば、少しくらいの間は車もとめさせてもらえるんじゃないだろうか。

野間灯台と南京錠

 灯台を囲むフェンスには数え切れないくらいの南京錠がかけられている。ここの灯台管理人が超用心深い人で南京錠を数百もかけておかないと夜も眠れないから、ではない。野間灯台は別名「恋人灯台」といい、ちょっとした都市伝説があるのだ。
 それをいつ誰が始めたのか、今となってはよく分からない。ひとつのブームのきっかけとなったのが1997年の「週間新潮」だった。1996年あたりからカップルが訪れて、このフェンスに願いを書いた南京錠をかけていく姿が目撃されるようになった、という記事が出て以来、大勢のカップルがやってくるようになったという。1996年といえば、まだ携帯メールもPCのメールも普及していない時代だ。誰がどうやってこのウワサを広めたのだろうか。昔からある言い伝えではない以上、最初のカップルがいたに違いない。おそらくブームを作ろうだなどという考えはなくて、たまたま思いついたことを実行して、それを見たカップルが真似て、といったように伝染していったのかもしれない。あるいは、他の灯台の同じような都市伝説を知って、この場所でもやってみたという可能性もある。湘南平や神戸のヴィーナスブリッジなどにも同様の都市伝説があるそうだ。
 町の観光協会が仕掛けたとかいうことではないらしい。後追いで近所の店が便乗して南京錠を売り出したということはあったようだけど。
 ピーク時は、あまりの南京錠の量に重みでフェンスが倒れたそうから、本格的なブームだったのだろう。現在のフェンスは南京錠の重みに耐えられるがっちりしたやつになっている。それまで南京錠を細々と売ってた鍵屋さんなどは突然の売れ行きに驚き戸惑ったに違いない。町の治安が悪くなってみんな突然用心深くなったんじゃろうか、などと最初は店のおじいちゃんも思ったかもしれない。
 南京錠ということに特別な意味合いがあるのかどうかは分からない。写真にも写ってるように、自転車の盗難防止用のチェーンなどもかかっていた。それはどうなんだろう。
 御利益というか効用としては、カップルで願いを書いてかけると叶うとか、いいことがあるとか、永遠の愛が約束されるとか、今ひとつはっきりしない。ウワサの出所がはっきりしない以上、これは仕方がないところだ。カップルになる前の段階で願掛けをして、叶ったら鍵をはずして、近くに設置されてる鍵塚に置くという説もある。
 ただ、いずれにしても鍵というのはあまり良くないイメージのような気がする。鍵をすることは外部から自分たちを遮断するということと同時に、自分たちが外へ飛び出せないということも意味するから。男は一般的に縛られることを嫌いがちだから(私がそうだというわけではない)、これを思いついて始めたのは女性だろうか。南京錠の語源が、中国の南京ではなく、軟禁から来ているのも象徴的だ。

野間灯台と夕陽

 灯台周辺の強風で人も木も斜めに傾きそうになる。台風中継でカッパを着て体が斜めになっていたレポーターを思い出させるほどに。灯台を眺めるにしても、灯台そのものに強い思い入れがなければそんなに長時間見ていられるものではない。ぐるりと一周すれば充分だ。それ以上は特にやることもない。写真を撮ることくらいだ。ここは西向きの夕焼けスポットなので、その時間帯が一番いい。夕焼け色の空を背景にした灯台のシルエットは絵になる。

 色気よりも眠気。今日の私は眠たい。眠たすぎる。
 記事も読み返さず、ここで撤収。お疲れっしたー。
 眠たい。

真冬の海との寒風対決は1勝1敗1分けで勝負は持ち越し

海/川/水辺(Sea/rive/pond)
知多の海-1

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f8, 1/160s(絞り優先)



 海へ行こうと思った。年に何度かそういうことがある。今回は私には珍しく、ひとりではなくふたりで。
 名古屋駅から名古屋高速に乗って、知多半島道路に乗り継ぎ、辿り着いたのは知多半島の海。ここは野間灯台の北側の名もなき海岸。砂浜ではなくこの岩場が私のいつもの海だ。知多で一番有名な海水浴場、内海(うつみ)海岸はここからまだずっと南にある。岩場の海岸に訪れる人は少ない。冬の海に訪れる人自体が少ないということもある。
 この日は風が強くて波が荒かった。そのせいなのか、海はやけに青くて、知多から見る伊勢湾とは思えないほど荒っぽかった。福井の日本海の風景に似てるなと思う。
 そして、言うまでもなく寒風が吹き荒れて、ものすごい寒さであった。

知多の海-2

 少し南に下って、小野浦海水浴場へと移動した。ここにはきれいな砂浜がある。冬の夕暮れ海岸は私たちの貸し切りかと思いきや、すでに先客のカップルがいた。寒さをものともせず波打ち際でたわむれるふたり。すごいぞ。寒くないのか。
 こちらは寒さに完敗して、岩陰に逃げ込んで夕焼けを待つ。

知多の海-3

 やがて太陽が水平線に近づき、空が少しずつイエローオレンジに染まり始めた。やはり海と言えば夕焼けだ。これを見ないことには、連ドラの最終回を見逃したみたいなもやもや感が残る。最後に夕焼けに染まる海を見ると、海行きが自分の中で完結する。超寒風に我々はついに勝利したのであった。
 残念ながら水平線近くに雲がたれ込めて、海に沈む夕陽を見ることはできなかった。赤い太陽が海に着く瞬間、ジュッと音がするようなシーンを満たなかったのだけど。
 ただ、その頃には再び寒風野郎が私たちを激しく攻め立て、ついに車の中へ逃げ込むこととなった。1勝1敗1引き分けのドローということにしてやろう。それにしても、真冬の海は強敵だった。冬の水辺の冷たさは鳥撮りで知っていたつもりの私も、強風というのはちょっと計算外だった。これから海に行こうという方は、自分が持っている最大限の防寒対策で臨んでください。そして、私たちが必ずしも軟弱者ではなかったということを身をもって知って欲しい。うううっ、写真を見て思いだしただけで寒くなってきた。

 寒さはともかく、海はやっぱりいいものだ。波の音と潮風と、広い空と海。鳥が舞い、遠くには様々な船が行き交い、恋人たちがはしゃぐ。非日常としての海は、いつ行っても心のホコリと汚れを吹き飛ばしてすっきりときれいにしてくれる。部屋の掃除なら松居一代にお任せしたいけど、心の掃除なら海が一番だ。
 みなさんもぜひ、真冬の海へ行ってみてください。私は海の町に住んでるぞという方は、山登りがおすすめです。裏が山で前は海なんですけどという人は、森がいいでしょう。山と海と森に囲まれてるという場合は、とりあえずどこへも行く必要はありません。

風の強い天白公園大根池で遠すぎるカモたちに届かない300mm

施設/公園(Park)
天白公園の大根池

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f6.3, 1/100s(絞り優先)



 ここは天白公園の中にある大根池。個人的にはカモスポットとして認識されている場所だ。去年初めて訪れたとき、数百羽のカモが浮かんでいて感動した。うわー、カモだらけじゃん、と。けど、今年行ってみると妙に数が少ない。ざっと見た感じ百羽いるかどうか。50羽くらいだったかもしれない。たまたまタイミングが悪かったのか、それとも今年は飛来数が少なかったのか。大がかりな改修工事をして、一度水を抜いて底をすくったそうだから、その影響も少なからずあるのだろう。いずれにしてもちょっと寂しかった。
 ここは確かにカモがたくさんいていいところなのだけど、岸辺からカモまでが遠いという致命的な欠点がある。E-1に300mmのTakumarを付けて600mm換算で迫ってみても、カモまでの距離はあまりにも遠かった。昔、中日球場のさだまさしコンサートで見たまっさんと同じくらいに。
 この日は風が強くて野鳥撮りには向かない条件だった。水面が波立っているのが写真でも分かると思う。この場にぬっくんがいたら、残った髪の毛を全部持っていかれたことだろう。池で野鳥を撮るときは、風も強敵になるということもあらためて知ったのだった。それにしても冬の水辺は寒い。

 天白公園は天白区の中央に位置している。広い芝生広場と雑木林の散策路と大根池があって、遊具も充実しているから、デートには向かないけど、子供が遊ぶのにもいいし、大人が散歩をするのにもいろんなコースが選べる。犬の散歩の人も多く、私のように池のカモ写真を撮ったり、たくさんいる野良猫にエサをあげるといった楽しみもある。バーベキュー場もあるようだ。駐車場も100台以上のスペースがあって、当然無料。夜まで開いてるというのもいい。
 公園に隣接する形で、てんぱくプレーパークというものもある。これは全国でも珍しい地域住民が作った子供の遊び場で、昭和の頃にあった遊び場としての空き地のようなものだ。そんなものを大人が作ったら空き地ではないじゃないかと思うかもしれないけど、今は子供が自由に入って遊べる空き地なんてものはほとんどなくなってしまったから、こういうものを大人が提供するのはある意味では仕方がないことなのかもしれない。

オナガ三潜隊
OLYMPUS E-1+Super Takumar 300mm(f4.0)

 変わった鳥だなぁと思った人もいるだろうか。これはオナガガモの食事風景で、見えてるのは尻の方で頭じゃない。水中で逆立ちをしたような格好になっているところだ。ちょっとタケノコっぽい。淡水ガモは潜水できないので、こんなふうに顔から水中に突っ込んで、水草や植物の種なんかを食べる。ただ、このあたりは水深があるところなので、もっと別のものを食べていたのかもしれない。
 こういう池で彼らの食べるものはたくさんあるんだろうか。いつもどれくらいおなかを減らしているのだろう。人からもらう食パンは旨いなぁとか思ってるのかな。鳥の人ではない私には、まだまだ彼らの心の内はうかがい知れないのであった。

ホシハジロのメス

 なんとなく見慣れないやつがいて気になった。メスだとは思うんだけど、きみは誰ですか? マガモのオスにくっついて泳いでたけど、明らかにマガモではない。体のサイズも小さい。家に帰って調べてみたら、ホシハジロのメスだった。カモ検定3級の私にとって、単独でいるメスを見分けるのはとても難しい。もっと勉強して、早くカモ検定1級を取りたいと思っている(カモ検定は実在しません)。

 ホシハジロのオスは、ヒドリガモとよく似ていて、遠くにいるところを肉眼で見るとどっちか分からないことが多い。どちらも頭から首にかけては赤褐色をしているのだけど、ホシハジロの方は胸は黒くて背中は灰白色をしている。
 名前を漢字で書くと星羽白となる。これは背中に星のような黒い斑点があるところから来ているというのだけど、そんなものちっとも見えやしない。これはネーミング失敗だと思う。三色ガモとでもした方がよほど分かりやすい。
 メスは焦げ茶っぽい頭と、目の周りの白いふちどりが特徴だ。オスの目が赤く血走ってるのに対して、メスは優しい黒い目をしている。
 体長は45センチくらいで、カモの中では中間的な大きさだ。
 こいつは海ガモで潜水が得意なので、潜ってエサをとる。ただ、海にはほとんど行かず、池などで植物性のものや、小魚や甲殻類などの動物系のものを両方食べる。3メートルほど潜れるらしい。
 夏場はユーラシア大陸で過ごし、冬になると南の日本になどに渡ってくる。
 あまり大きな群れは作らず、他の群れに混ぜてもらっていることが多い。いる場所に偏りがあって、たくさんいるところとほとんどいないところに分かれる。

 大根池周辺は他にも、バン、カワセミ、ヨシゴイ、サギ類、キビタキ、センダイムシクイなどがいるそうだ。オオルリもいるらしいから、ぜひ一度見てみたい。
 しかし、ここへ鳥撮りに訪れるなら、かなりの装備が必要となる。カモたちは池の中央付近に固まっていて距離が遠いから、300mm望遠レンズの450mm換算程度ではさっぱり届かない。岸辺にいる連中も近づくと逃げていくから、人にも慣れていないらしい。天白区の鳥撮りなら、天白川がいいと思う。川の方がカモとの距離がぐぐっと近いから。
 私もそろそろ2007年鳥撮りを本格的に始動しようと思う。この冬シーズンの目標は、まだ撮ったことがないカモを3種類撮ること、というのにしよう。あと、図鑑を見なくてもだいたいのものは区別できるようにもなりたい。それから、毎日出かけるときは首から双眼鏡をぶら下げるスタイルができるようになるかどうかの模索、というのもひとつのテーマとなる。森や公園で首から双眼鏡というスタイルは、言うなればアキバで紙袋を下げたりリュックを背負ってるのと同じような意味を持つ。ひと目でソレと知れてしまう格好。鳥の人となるには、乗り越えなくてはならない試練がたくさんある。最終的には、親子連れで賑わう日曜日の公園で、ほふく前進ができるようになるところまでいけば本物だ。果たしてそこまでいってしまっていいのかどうかは私自身大いに疑問だけど。
 まずは自衛隊パブへ行って鍛え直すか。

名古屋人の心の片隅にひっそりいる金鯱を踏まないで

名古屋(Nagoya)
金鯱レプリカ




 名古屋を歩けば金シャチに当たる。そんなことわざが成立してもおかしくないほど名古屋には金シャチがあふれている。お城の屋根の上だけにとどまらず、名古屋市職員は鯱のマークのバッジを胸につけ、交通局や消防署には鯱のキャラクターがいる。マンホールは鯱の絵が描かれ、自衛隊の戦車にも鯱が描かれるという思い入れの強さ。どんだけ鯱が好きなんだと、名古屋人からもツッコミが入るほどだ。シャチハタなど鯱にちなんだ名前の会社などもたくさんあり、サッカー名古屋グランパスエイトのグランパスも鯱という意味だ。戦前はプロ野球球団の名古屋金鯱軍もあった。
 そんな中、もっとも象徴的ともいえる金シャチが、かつて名古屋港にいた。船に金の鯱を乗せたというか船が金の鯱に飲み込まれているといった姿の「金鯱号(きんこごう)」だ。その存在のあまりのシュールさに、名古屋人も観光客も乗ることに二の足を踏んだという伝説の遊覧船。
 それが廃船の憂き目を見ることになってしまったのは2000年のことだった。一度は目をつぶってでも乗りたいと思っていたのに残念だ。
 しかし、悲しむなかれ、あれから金鯱号は韓国に渡って余生を過ごしているのだという。韓国の南、羅老島(ナロド)というところで観光船をやっているらしい。なんでも個人所有で、今は金魚号とかいう名前になっているらしい。地元の人にはタイ焼きみたいと言われているとか。けど、韓国で乗る金鯱号ってどうなんだろうと思う。ちょっと違うんじゃないだろうか。個人的には、名古屋城のお堀に小型の金鯱号を運行させればいいと思う。イタリア村のゴンドラがあんなに人気なのだ、名古屋城の金鯱号だって人気爆発間違いなしと思うのは私だけではあるまい。
 お菓子関連も当然たくさんある。金鯱モナカとかサブレとかまんじゅうとかあれやこれやが。一番のおすすめは、JR名古屋駅地下街のカフェ「黐木(もちのき)」の「シャチボン」だ。金鯱の姿をした巨大なシュークリームで、そのインパクトの強さからかなりの人気になっているという。1個340円で1日80個限定なので、なかなかお目にかかれない。予約すれば食べられるのだろうか。一度食べてみたいと私も思っている。
 愛・地球博が愛知万博ではなく名古屋万博だったとしたら、間違いなくメインキャラクターは鯱にちなんだものとなっていただろう。モリゾーとキッコロは、シャゾーとチッコロとかになっていたかもしれない。愛知万博でよかった。

 2005年、万博の年に、愛・地球博と連動する形で「新世紀名古屋城博」というのが開かれた。戦後に名古屋城が再建されて以来初めて金鯱は屋根から降ろされ、それを触れるということで大変な話題になった。期間中の週末は、お触り待ちの長蛇の列ができて触るのに2時間、3時間もかかったという。名古屋中をパレードまでした。名古屋の人たちは、それはもう大喜び。たぶん、その熱狂ぶりは県外までは伝わってなかったと思うけど。
 それ以前に金鯱は一度だけ海外に渡ったことがある。当時の名古屋城は国宝で、明治4年(1871年)に、いったん東京の宮内省に納められて博覧会を回った後、明治6年(1873年)にウィーン万国博覧会に出品されたのだった。そのときはヨーロッパでも大評判になったんだとか。天守に戻ったのは明治12年というから、8年も不在だったことがあったのだ。今回は半年間だったけど、金鯱のいない名古屋城はなんとも間が抜けていて脱力感を誘うものだった。

 金鯱は3つの読み方がある。「きんしゃち」、「きんのしゃちほこ」、「きんこ」と。少し混乱があるのだけど、シャチというと海のギャングと呼ばれる実在の生き物で、「しゃちほこ」というとこれは魚の形をして虎の頭を持つ想像上の生き物ということになる。当然城の屋根に乗っているのはシャチホコの方であってシャチではない。だから、私もシャチホコと書いた方がいいのかもしれない。
 シャチホコは、中国の伝説の海獣「鴟尾(シビ)」が変形したものだと言われている。火が起きると口から水を出して消すという言い伝えがあり、そこから守り神として天守などに置かれるようになった。日本では飛鳥、奈良時代からシャチホコが登場したという。
 城の天守にシャチホコを最初に載せたのは織田信長だった。安土城に載せたのは、守り神というだけでなく威光を示すためでもあっただろう。ただ、それはまだ目やウロコだけが金という姿で、初めて全身を黄金にしたのは豊臣秀吉の大阪城だった。金ピカ趣味の秀吉らしい。伏見状にも当初は金鯱が載っていた。倹約家のイメージ強い徳川家康さえも黄金の金鯱を江戸城に置いたところを見ると、やはりこの地方の人間は金鯱を置かずにはいられない何かがあったのだろうか。
 しかし、火から守るはずの金鯱たちは、ことごとく燃えてしまい、江戸時代の中頃までには名古屋城にのみ残るだけとなっていた。

 名古屋城築城当時の金鯱は、それはもう素晴らしいものだったと伝わっている。慶長大判1,940枚を引き延ばして作られた金鯱は、現在の価値に換算すると金だけで一体4億円ほどになる。18金メッキとは明らかに違う黄金の輝きを放っていたことだろう。
 しかし、尾張藩の財政難に伴い、3度改鋳されている。純度の低い金に替えられ、銅や鉛が混ぜられ、最後はたくさんの銀を混ぜて薄塗りになったことで輝きは鈍った。それを知られるのをふせぐために、鳥除けと称して金網が張れていたのだった。ウロコが強風で吹き飛ばされるほどだったというから、明治の頃にはかなりボロボロだったのだろう。金網を張る前は鳥の巣になっていたそうだ。
 そんな金鯱だけど、やはり魅力的には違いない。一般庶民だけでなくドロボウさんたちにとっても。一番有名な話が、柿木金助の大凧伝説だ。風の強い日に自らを大凧にくくりつけて名古屋城の屋根に降り立ち、ウロコ3枚を盗んだという。ただしこれは芝居で上演されたときの話で、実際は土蔵に押し入って舟で逃げたらしい。結果的には捕まって、名古屋の町を引き回しのうえ、はりつけの刑に処せられている。
 その他、明治に入ってからもいくつかの盗難事件が起こっている。陸軍の兵隊がウロコ3枚盗んで見つかって銃殺にされたり、懲役刑になったりしている。昭和(12年)に入ってからも、調査中のウロコ58枚が盗まれて名古屋市長が責任を取って辞任したりしている。たかがシャチホコじゃないかと思うかもしれないけど、国宝ドロボウと考えれば当然罪は重くなる。昭和の盗難も、売ろうとして足がついて捕まって、懲役10年になった。
 昭和20年の終戦の年、金鯱はB29が投下した焼夷弾によって天守閣と共に消えた。見たこともないような色とりどりの火と黒煙を上げながら焼け落ちたという。焼け残った金からは、ミニサイズ(1/20)の金鯱と金の茶釜が作られている。
 昭和34年、天守再建の後、市民の強い希望で金鯱も再現されることとなった。使用された金は88キロ。檜の芯木に鉛板を張って、その上から銅板で被い、18金のウロコを張り付けてある。大阪造幣局の地下で作られたそうだ。
 金鯱にはオスとメスがいるというのは割と有名な話だ。北がオスで、南がメス。大きさや重量、ウロコの数や姿も微妙に違っている。写真を見て瞬時にオスメスを見分けられる人は名古屋でもそう多くはないと思うけど。



名古屋城おみやげ店

 名古屋城展望台のおみやげ売り場も、シャチホコと金ピカグッズにまみれている。これほど金ピカ度の高いおみやでコーナーというのも全国でもあまりないんじゃないだろうか。金シャチの金とシャチを勝手に分離して金までおみやげにしてしまおうという作戦だ。金鯱キーホルダー、金鯱ストラップ、金鯱ピンバッジ、金鯱ネックレス。もちろん、そのものずばりの金鯱のミニチュアや、名古屋城のミニチュアも各種取り揃えてある。ここまで統一感を持たせてあれば、もう何も言えなくなる。ただただ金鯱に圧倒されるばかりだ。名古屋人はそんなに金ピカ趣味とかではないのだけど。
 実際のところ、名古屋っ子にとって金鯱とはどんな存在かといえば、県外の人が思うほど親しみのあるものではない。普通の人にはまったく無縁のものだ。名古屋の女子高生がみんな金鯱ストラップをじゃらじゃらさせているとかそういうことはない。もしひとつでもつけていようものならクラス中の物笑いのタネになりかねない。
 ある意味では地雷的な存在とも言える。けど、よその人に金鯱のことを悪く言われることを名古屋人は好まない。自分たちで悪口を言うのはいいのだ、でも他人に言われたくないという屈折したところがある。これは日本人と外国人の関係性に似ている。
 私も金鯱にまつわるものは何も持っていない。部屋を見渡しても、ミニチュア金鯱も置いてないし、壁に名古屋城のペナントも貼ってない。金鯱マーク入りの木刀を枕元に置いてるなんてこともない。そういえば金鯱のおみやげ類も食べた記憶がない。それくらい縁遠いものなのだ。
 でも、嫌いなわけじゃない。金鯱がいない名古屋城を見るたびに、自分ってけっこう金鯱大事に思ったんだと気づいた。なくして初めて気づく大切さ、ごめんよ、金鯱。これからはもっと金鯱のいいところをみんなに伝えていくよ。いつかお金持ちになって豪邸を建てることになったら、屋根には金鯱を載せることにしよう。
 

カレンダーのことを書こうとして何故か熱い語りになるの巻

風物詩/行事(Event)
2007年カレンダー

PENTAX istDS+SMC Takumar 35mm(f3.5), f3.5, 1/160s(絞り優先)



 ようやく2007年のカレンダーを部屋の壁にかけることができた。今日はもう1月11日。10日遅れでようやく新しい2007年をスタートさせることができたような気がした。カレンダーって意外と大事だ。
 カレンダー選びは毎年苦労する。いつもなかなか決まらず1月にずれ込みがちだ。ここ数年は、野草や季節の風景写真の12枚綴りのものにしていたけど、それもちょっと飽きた。これとったイメージもないままオークションを見回っていたら、ふと目にとまったものがあった。
「はせくらみゆき ハッピーサークル」
 特に深い理由もなく、これにしようと思った。はせくらみゆきなんて人はまったく知らないのだけど。
 買ってから届くまでの間にちょこっと調べてみた。1963年北海道生まれの画家でエッセイスト。絵本や雑誌に絵を発表し、三児の母でもある。だんなさんの転勤で札幌、大阪、福岡、横浜、沖縄をめぐり、現在は宝塚在住。趣味は旅と三線。アロマセラピストの顔も持つ。主な著書に「光の海へ」、「試して選んだ自然流子育てガイド」、「しあわせの育て方」などがある。
 カレンダーのハッピーサークルは、「しあわせが、しあわせよんで、しあわせがりながら、広がっていく。そんな喜びの循環をイメージして、版画を中心とした12枚のアートに表現しました。一人ひとりのハッピーが、みんなのハッピーに繋がることを願って! あなたのハッピーサークルを応援したいと思っています」という思いからつけられた名前だという。

 正直なことを言うと、私はこういうタイプの人が苦手だ。何の疑いもなく幸せ一直線で(実際はそんなことはないのだろうけど)、次々と自分のやりたいことを実現していって、結婚もして、子育てもちゃんとやって、友達も多くて、人に後ろ指指されることなくまっとうに生きているように見える人が。それは嫉妬なのかもしれないし、私には眩しすぎるからかもしれない。でも、なんとなくウソっぽいような気がしてしまうのだ。できすぎた恋愛映画みたいで。人生そんなに都合よくいかないだろう、と思う。こんな人の近くにいると、自分がひどく駄目な人間に思えてくる。
 それなのに何故、私はこの人のカレンダーに惹かれて買ったのかといえば、やはりそれは私自身が少しずつ変わってきているからなのだろう。ちょっと薄暗いくらいの場所が心地よく感じていたのが、より強い光を求め始めたようだ。太陽の方へ手を伸ばし、もっと明るい幸せの方へとよろめく足取りで向かい始めた。
 清い水にしか棲めない魚がいて、汚れた川や池にしか棲めない魚もいる。それは優劣ではなく、水に自分を合わせてるのでもなく、自らに合った水を求めてそこに棲む。人も同じようなことが言える。健全なところが好きな人もいるし、そういうところが嫌いな人もいる。ただ、人が魚と違うのは、自分自身が変化したり成長できたりするということだ。それまで汚れた水が心地よかったのがだんだん苦痛になってきて、きれいな水を求めるようになることもある。その逆もある。私のことで言えば、清らかすぎる水に拒絶反応を起こしていた自分が、だんだんきれいな水と同調をし始めたのを感じる。かつての私は、若さゆえのひねた心や照れ隠しというだけでなく、はっきり善良さや真面目さを嫌い、否定してきた。馬鹿にさえしていたところもある。世の中に対して斜めに構えた皮肉屋だった。それが、少しずつきれいな方へ、光のある方へと、自らを浄化できてきていることを自分自身不思議にも思い、戸惑いもしつつ喜んでいる。
 はせきくらみゆきカレンダーも、去年までの私なら絶対に買うことはなかった。人にもらっても喜ばなかっただろう。それが今年、偶然にしろ目にして買ってみようと思ったところに、私自身の変化がはっきりと表れている。縁というものも、自分が変わることで新たに生まれるものだということを知る。
 思えば去年の夏頃、人にすすめられて「オーラの泉」を観るようになったことが、今の流れを作ってきたのかもしれない。あそこをきっかけとして、自分はより良い自分に向かうようになった。それ以前に番組の存在は知っていたけど観ようとは思わなかった。
 善良になりたくないという心のでつっかえ棒みたいなのが取れて、そこから一気に清らかな水へと流されていった。たぶん、以前の私は強がっていないと、自分の心を守りきれなかったというのもあったのだろう。善良でいられるほど心が強くなかった。
 けど、それでもやっぱり、半分とは言わず一部の闇は必要なのだと私は思っている。本当の天使は、生まれながらの穢れなき光の天使ではなく、天から地上に落ちてきた堕天使が自らを浄化させて天に戻る人間天使だという思いに変わりはない。人の心の暗い面は否定されるべきものではないし、凶暴で好戦的という現実も確かにある。悪の力を持っていて、意志の力で発揮しないことが大切なのだ。悪いことをやれるのにあえてやらないことが、本当の意味での善であるのだから。悪いことができないから悪いことをしないのでは意味がない。
 闇の面も語られなければ、話す言葉に陰影は生まれず、人として説得力も持ち得ない。悪もまた人間の半面の本質であり、それは目を背けることでも、打ち消すべきことでもない。光のあるところに必ず影が生まれ、それを否定すれば光さえも否定することになる。
 善良さだけを前面に出している人は、私から見ると不気味だし、嘘くさい。私たちは光の中にいるわけじゃない。光の方に手を伸ばし、光の差す方に向かう存在なのだ。
 幸せだけの人生に何の喜びがあるというのか。腹が減らなければご飯だって美味しくないし、貧乏を知らなければ金のありがたみにも気づかない。孤独の中で生きた人間でなければ他人の孤独も理解することはできないだろう。光と影のコントラストがあるからこそ人は美しいのだと私は思っている。
 そういう意味でいうと、はせくらみゆきという人の絵には半分の真実しか描かれてないように私には見える。確かに光や幸福は大事なことだ。けど、影までも同時に描いて見せなければ光は際立たない。私たちは幸せだけでは幸せのありがたみを知ることができない愚かな生き物なのだ。
 一年12ヶ月で12枚の絵を見ながら、私の気持ちはどういうふうに変化していくのだろう。この絵に対する見方も変わっていくのだろうか。そのあたりのことは自分でも楽しみにしたい。今よりももっと善良な人間になれば、この絵ももっと心地よく感じるようになるのかもしれない。そのときこそ、私もハッピーサークルの仲間に入れてもらおう。
 でもやっぱり、私はそうはなれないような気がする。ハッピーになることを人生の目標にはしていないから。この世界の半分の不幸のことも忘れることはできない。光と影に片足ずつ置いて、両方の橋渡しができるといいと思う。

 今日はいつもとずいぶん調子が違っていたので戸惑われた方もいたかもしれない。でも本来の私はこういう人間なのです。マジメがタケオ・キクチを着て歩いていると言われるほどに。普段の軽い調子の方がかえって疲れるのだ。いや、ホントに。だから、たまにはこういう調子になることも勘弁して欲しい。
 それにしても、ちょっと熱くなりすぎて、せっかく時間をかけて調べたカレンダーについてのあれこれを書くスペースがなくなってしまった。この倍の長さの文章は読みたくないと思うから、今度あらためてカレンダー・ネタは書くことにしよう。起源や語源や暦についてのあれこれを。
 ひらがな名前の女性画家つながりということで、いわさきちひろにも触れようと思っていたのに、それも飛んでしまった。それもまたいずれ機会があれば。突然ですがここで問題です。ひらがな名前のタレントを5人お答えください。どうぞ!
 急に言われると出てこないと思うけど、実際有名どこでも100人くらいはいるのだ。たとえば、つみきみほ、つちやかおり、ちはる、かまやつひろし、あいだもも、とか。え? 知らない? そんな人は、お父さん、お母さんに訊いてみてくださいね。
 結局、最後はいつもの調子かよ。マジメな顔が10分以上は続かないタイプだ。明日からはまた元に戻るので、いつもの感じで気楽におつき合いください。

巫女装束を揃えて着ればあなたも明日から巫女さんに?

神社仏閣(Shrines and temples)
巫女さん

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f4.0, 1/5s(絞り優先)



 世の中には巫女(みこ)さんが好きな男がいて、巫女さんになりたい女の人がいる。潜在的な巫女さん願望を持つ人は思うより多いのではないだろうか。そのあたりの心理は私には分からないのだけど、いてもいいとは思う。神主さんを見るとたまらんという女の人だっているだろう。
 私の中で巫女さんというと、紅白の衣装を着て神社でお守りを売ってるアルバイト学生、というイメージしかない。特別な思い入れはなく、どういう人たちなんだろうと深く考えたこともなかった。しかし、日本人として、巫女のなんなるかも知らずにのうのうと生きていていいのかと、城山八幡宮で巫女さんの写真を撮りながら思った。
 ということで、今日は巫女についてちょっと勉強してみた。

 世の中に、巫女という職業は存在しない。バイトではない本職の巫女さんも少しいるにはいるのだけど、そういう名前の役職はないはずだ。でも私、巫女ですよ、という人もいる。それも間違いではない。このあたりが巫女を理解するのを難しくしているひとつの要因になっている。
 では、巫女さんになりたい場合はどうすればいいか? 大学の就職担当者に訊ねてみても答えは返ってこないだろうし、お父さんお母さんに訊いてもたぶん知らない。女の人が巫女さんになりたい場合は、國學院や皇學館などの神職養成所や大学に入るのが正統なコースとなる。ただし、これは女性の神職を育てるところなので、巫女さんとは少し違う。
 それでも私どうしてもこの春から巫女さんデビューしたいんですという人は、それはもう全国の神社に片っ端から問い合わせるしかない。稀に募集をしてるところがあるそうだ。けど、巫女さんを常駐させておくほど余裕のある神社はそうめったにないので、フジテレビの女子アナになるよりも難関かもしれない。
 巫女の定義は曖昧なところがある。神道の神職の手助けをする女性といった意味で使われることが多いけど、はっきりした仕事内容が決まっているわけではない。占いをするとか、加持祈祷をするとか、そういうことではない。ある意味、巫女装束(緋袴に千早)をどこからか調達してきて、今日から私は巫女さんよ、と言い張れば自称巫女さんと言えなくもない。頼まれてもいないのに、一日中神社を掃除したりしていてもいい。もちろん、お給金は出ないけど。
 とりあえず年末年始だけでも巫女さんのバイトをしたいという場合は、知り合いのツテを頼んだりするより他になさそうだ。アルバイト情報誌に載るのを待っていてはなかなかラチが開かない。たまに大学の方に募集が回っていくそうだけど、たいていはそこの神社の関係者などがお手伝いをするというのが一般的なようだ。クラスに神主の娘や息子がいたら日頃から仲良くして恩を売っておくべきだろう。
 ただ、巫女さんの仕事は、神社版のOLのようなものかもしれないので、あまり過度の期待をしない方がよさそうではある。

 巫女というと卑弥呼を連想する人が多いと思う。卑弥呼イコール巫女というイメージから、巫女はシャーマンのように考えてる人もいるかもしれない。けど、必ずしもそれはイコールではない。
 2世紀頃には巫女と呼ばれるような人が存在していたのではないかと言われている。その頃は祈祷や占いなどを行うシャーマン的な色合いが強かったのだろう。神前で舞いを踊るようなこともあっただろうか。神の言葉を受け取って告げるような役割も担っていた可能性は高い。だからイタコも巫女と言えるかもしれない。天理教や大本教の教祖も口寄せ行ったミコと呼んでいいだろう。
 巫女は神子とも書くように、神社に仕えるというよりも本来は神との直接的な関係にある女性といった意味合いが強かったのだろうと思う。巫女は「かんなぎ」とも読み、これは「神招ぎ」から来ている。
 もともと神道は女人禁制だった。かつての日本では女性は不浄のものとされて、高野山や比叡山など神聖とされる場所には女性が入ることはできなかった。なのにどうして巫女だけが入り込めて、なおかつ重要な役割を担っていたかといえば、単純に言って霊能力を持っていたからだろう。ときに巫女の言葉は王の言葉よりも重かった。ただしそれでも、未婚でなおなつ処女性というのが重視されたであろうことは想像がつく。たとえ表向きだけであったとしても。
 現在はもちろん巫女になるためにそんな厳しい条件があるわけではない。ただし、黒髪でないと駄目というところはあるようだ。

 卑弥呼の名前が出てきたのでついでに少しだけ。
 卑弥呼とは一体何者だったのかというのは、本当のところは誰も分からない。いろんな人たちがいろんなことを散々言い尽くして、それでも答えは出ていないの。分からないのも当然で、卑弥呼の名前は日本の公式記録には一度として登場してないからだ。「魏志倭人伝」や「後漢書倭伝」などで短く紹介されてるだけにすぎず、それを巡ってああでもないこうでもないとこれまで散々議論されてきた。邪馬台国論争も加わって、事態はますますややこしいことになっている。
 卑弥呼は誰だったのかという点についても多くの説があって、実際のところは分からない。神功皇后だったとか、天照大神だったとか、卑弥呼は卑弥呼だろうとか、それぞれの説を主張する人たちがそれぞれもっともらしいことを言っている。
 ヒミコという呼び方にしても、これは違っているという人もいる。当時は当て字だったので、耳で聞いた名前に似た字で当てたために本来の名前とは違って伝わってのではないかというのだ。あるいは、ヒミコという名前だったとしたら、日御子でこれは天皇の呼び名に当たる。自ら卑しい(いやしい)という字を当てるとも考えにくい。
 倭迹迹日襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)であるという説も根強い。「日本書紀」の記述と「魏志倭人伝」での内容に一致するところが多いという理由で。
 個人的には、いろんな意味で天照大神が一番辻褄が合っているようには思うけど、一番整合性があるからといってそれが真実とは限らない。すごく意外な人物の方が逆に納得できる気もする。私としては、りんごももか姫が卑弥呼であってもかまわない。
 邪馬台国の場所は、九州だ、畿内だという果てしない言い張り合いが続き、いまだに結論は出ていない。これだけ言い合っても証明できないところをみると、もっと別の場所なんじゃないかとも思えてくる。鯨統一郎の『邪馬台国はどこですか?』では、東北説などという冗談のような説があったけど、それくらい大胆に推理しないと答えには辿り着かないかもしれない。卑弥呼がもらったとされる金印さえ出れば、動かぬ証拠となるのだろうけど。

 卑弥呼のことはともかく、どうしても巫女さんになる夢をあきらめきれないんですぅという人には最後の手段として、巫女さんコスプレ喫茶でバイトをするという手が残されている。名古屋の大須にあった「巫女茶屋」はどうなっただろうか。きっと最初の話題性だけで長くは持たなかったんだろうな。巫女さんがいる「月天」という居酒屋も昔あったはずだ。どうやら名古屋では数年前に巫女さんブームがあったらしい。いや、もちろん、私はそのブームには乗っていない。お店に行ったこともないということだけは、はっきり言っておきたい。
 巫女に対してある種の妄想をかき立てられるのは、やはり日本人として受け継いだDNAのせいなのだろうか? 外国人にはそういう感覚は理解されないだろう。外国のシスターとは性格が少し違う。
 このブログを読んで、やっぱり巫女さんになるのはあきらめようと思った人がひとりでも出てしまったら私は悲しい。どんな夢でも、その芽を摘んでしまうことは不幸なことだから。逆に、私なってみようかなと思ってもらえたら嬉しいです。巫女さんの生みの親なんてちょっといいではないか。もし、見事巫女さんになった暁には、インタビューで、あのブログがなければ私が巫女になることはありませんでした、などと答えてくださいね。

男前豆腐を食べて、おれは男だと早朝の海岸で叫ぶのだ

食べ物(Food)
男前豆腐

PENTAX istDS+SMC Takumar 55mm(f1.8), f2.0, 1/160s(絞り優先)



 今さら言うまでもないことだが、私は男装の麗人ではなく、男だ。しかし、世の中には私のことを女性だと思っている人がいるらしい。そんなぬぐいきれない女性疑惑を払拭するために、男前豆腐を食べてみた。これを食べれば私も高倉健さんのように男らしくなるかもしれない。草刈正雄のように男前になるのも悪くない。でも、間違ってピーターや美輪明宏に近づいてしまったらどうしよう。一体あなたはどちらなんですかと訊ねるのがためらわれるような組合の人にはなりたくない。男前への道のりは意外と遠いのか。
 ちなみに、私は猫系の女の人が好きなくせに、竹野内豊やミスチルの桜井くんのような犬顔に憧れていたりする。自分がもし女なら、柴咲コウみたいな顔がいい。ただ、柴咲コウが好きというのではないし、竹野内くんラブとかそういうことでもないので、誤解されないようにお願いします。
 そんなどうでもいい情報を交えつつ、今日は豆腐について書こうと思う。

 豆腐は中国からやって来たことを知っているだろうか。大昔から日本にあるから日本で生まれた純和風のものだと思っていた。いろんな説があってはっきりしないのだけど、一説によると紀元前2世紀、前漢時代の淮南王(わいなんおう)だった劉安(りゅうあん)が発明したというのがある。ただ、この時代にまだ大豆がなかったというから、違っているのかもしれない。ただ、唐代には作られていたようなので、中国発祥というのは間違いなさそうだ。
 いつ頃日本に渡ってきたのかというのもはっきりしていない。奈良時代、遣唐使の僧が中国から製法を持ち帰って紹介したのが最初ではないかと言われている。初めて文献に出てくるのはずっと後の1183年のことだ。沖縄には別ルートで伝わったという話もある。
 最初は僧侶たちの精進料理として食べられていたものが、貴族の知るところとなり、朝廷にも献上され、やがて武家社会にも伝わっていった。庶民が豆腐を食べるようになるのは更に後のことで、江戸時代も中期に入ってからだった。最初は大奥で食べられていたものが大名も食べるようになり、それぞれ国に持ち帰って庶民の食べ物となった。1782年には豆腐料理の本「豆腐百珍」が出版されてベストセラーになったのも大きかった。
 現在は、中国や日本だけでなく、朝鮮半島や、広く東南アジアでもよく食べられている。近年はアメリカ人も健康にいいということでよく食べているらしい。それを広めたのはヒラリー・クリントンだという話もある。クリントンもきっと家で食べさせられていたのだろう。豆腐はそのままtofuという英単語になっている。中国では豆腐、朝鮮ではトブ、ミャンマーではトーフー、ジャワ島ではトーフと、みんな似ているところからも、出所は一ヶ所なのだろう。

 現在は美味しさだけでなく、栄養があって健康にいいということでも注目されている。植物性たんぱく質が豊富でカロリーが低く、消化吸収がいい。必須アミノ酸やビタミンB1、E、カルシウムや亜鉛、鉄など、人の体に必要な栄養素が詰まっている。ただし、食物繊維は少ない。
 料理方法としては、冷や奴や湯豆腐などそのまま食べる他、田楽にしたり、おでんに入れたり、鍋やすき焼きの脇役にするのがおなじみだ。豆腐ハンバーグや豆腐ステーキなどのように、ダイエット中の肉の代用などに利用したりもする。私もサンデー料理で、くだいてよく使っている。
 中華料理では麻婆豆腐が一番有名だろう。他にも中国にはたくさん豆腐料理がある。韓国では豆腐チゲなどが有名どころだろうか。
 油揚げ、がんもどき、おからなども豆腐の変形と言っていい。湯葉などもたいして美味しいとは思わないけど、京都で食べるとどういうわけかみんなありがたがって食べる。
 日本における豆腐の消費量は、一世帯で年間75丁ほどだそうだ。これは数字としてはかなり少ない気がする。4人家族でひとり年間20丁。食べている人は、年間で100丁以上は食べてるはずだから、食べる家庭と食べない家庭が両極端なのかもしれない。
 ところで、豆腐の丁という単位は、正式に何グラムなどと決まっているわけではないらしい。昔は地域によってかなりバラつきが大きかったそうだ。それで、ひとかたまりを丁ということにしたのだとか。都会では300-350グラム、地方では350-400グラムというのが相場らしい。沖縄だけは一丁1キロというから、かなり感覚的な違いがある。そんなに買ったら一人暮らしの人は困ってしまうだろうに。
 豆腐の「腐」という字は、本来弾力のある柔らかいものを指す言葉だった。腐ってないのに何で豆腐なんだろうと思ったことがある人も多いんじゃないだろうか。
 作り方は昔から基本的には変わっていない。大豆を水に8-18時間ほど浸けて柔らかくした後、くだいてつぶして、汁をしぼる。これが豆乳だ。しぼりかすがおからになる。
 豆乳に凝固剤を加えて固めれば豆腐になる。このとき、塩を作る際に出るにがり(塩化マグネシウム)を使う古典的な方法と、硫酸カルシウム(すましこ)を使う方法がある。今はにがりはほとんど使われていない。
 作り方は単純なので、家庭でも豆腐は作れる。豆乳を買ってきてにがりを入れてレンジで加熱すれば豆腐もどきができるし、大豆からだって作れないことはない。
 木綿と絹ごしは少し作り方が違う。絹ごしは、大豆の5倍の水で豆乳を作ってそのまま固めるのに対して、木綿は10倍の水でいったん固めたあと、くだいて型箱で押し固めて水分を絞って固め直す。どちらも絹でこしたり、木綿でくるんだりなどの作り方からではなく、食感から名づけられたのだった。

男前豆腐中身

 それはそうと、男前豆腐の味はどうなったんだと先ほどから気になってよだれを垂らしていた人もいるだろう。ひょっとしたら、いつの間にか手にしょう油を持っていた、なんて人もいるかもしれない。結論から言うと、けっこう美味しいんじゃないかな、というものだった。
 絹ごしと木綿の中間のような独特の舌触りと濃厚な味は、他のノーマル豆腐とは一線を画すものがあるのは認める。しかし、所詮は豆腐。豆腐以上の何モノかではない。何も言わずに食卓に並んだら、そのまま食べて家族の話題にも上らない可能性もある。話のネタとして出て、意識して食べれば、なるほどちょっと違うねとはなると思うけど。
 普通よりも高めの280円という値段は、毎日食べている人にはちょっと厳しいかもしれない。

 ところで、男前豆腐って京都でしか売ってないんじゃないのと思っていた人もいるかもしれない。私もそう思っていた。私が買った男前豆腐のパッケージを見ると、茨城県の三和豆友食品となっている。なんだ、なんだ、ニセモノか? 気になって調べてみると、そこにはこんな事情があった。
 三和豆友食品の社長の息子である伊藤信吾氏が常務のときに、これを考えて作って売り出した。それが評判になったので、伊藤信吾氏は男前豆腐店という会社を作って、独自に売り始めるようになる。その後、三和豆友食品は大手の篠崎屋と業務提携をして、経営陣が一新される。そこで何があったのかは知らないけど、結果的に三和豆友食品と男前豆腐店は別れることになった。ここで話はややこしいことになる。
 独立した男前豆腐店と、元々の三和豆友食品が同じ「男前豆腐」を売ることになったのだ。どちらが本家とも言えないこの微妙な関係。更に、現在「波乗りジョニー」などの商品名の豆腐もあり、これも混乱を招いている。最初男前豆腐店は「京都ジョニー」として売り出し、三和豆友食品側は同じ物を「波乗りジョニー」とした。そこで今度は男前豆腐店が「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」と商品名を変更する。一体、ジョニーって何だよと思ったら、伊藤社長のあだ名だそうだ。
 そんな大人の事情があるものの、男前豆腐はどちらで買っても味はほとんど変わらないのだと思う。心意気としては男前豆腐店側で買ってあげたい気もするけど。と同時に、最近、三和豆友食品から新発売になった「やっこはん姉妹」シリーズも気になるところだ。
 何にしても、話のネタとしては面白いので、スーパーなどで見かけたら一度買って食べてみてください。美味しいことは間違いなく美味しいから。男なら、パッケージのまま学校や会社に持っていって、直接しょう油を回しかけて食べて欲しい。それが男の中の男というものだ。そして、立ち上がって大きな声で、おれは男だ! と叫ぶのだ。叫ぶシチュエーションとしては、早朝の海岸でももちろんオーケイだ。
 私は家でおとなしく食べたいと思う。人前でおれは男だなどと叫ぶことに比べたら女性疑惑に甘んじている方がましだから。

雪が降る地球に生まれて静寂の音と純白の美しさを知る

雨/雪/天候(Weather)
名古屋の雪2007

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6),f5.6, 1/320s(絞り優先)



 雪は天から送られた手紙である。
 雪博士・中谷宇吉郎の言葉だ。2007年1月7日の名古屋に、雪は年賀状よりもたくさん降ってきた。結局短時間でやんでしまったのだけど、本格的な雪は今シーズン初だった。たくさんのお手紙ありがとう。このブログの記事でお返事に代えさせていただきます。
 名古屋は雪が少ないところだから、たまに降る雪は嬉しい。喜んで写真を撮ってしまう。その喜びと価値観は、年に数度しか見ることがない海と同じくらいのものがある。わー、海だ、海だー。わー、雪だ、雪だー、みたいに。
 名古屋と雪の距離感はちょうどいい。

 ところで、雪とは何だろう? 雨が凍ったもの? それはみぞれじゃないのか? 積もる雪とすぐに溶ける雪とではどんな違いがあるんだろう?
 そんな疑問に対してすぐに答えてくれるPC世界が22世紀か23世紀にはできるのだろうけど、今はまだ21世紀。対話形式で問いに答えてくれるシステムはまだない。けど悲観することはない。今はもう20世紀ではない。PCがあり、ネットがある。ひと昔前なら、百科事典を調べ、物知りの人に訊ね、図書館へ足を運び、それでも分からなければあきらめるしかなかった。それを思えば今はいい時代になった。

雪でも子供は遊ぶ

 雪は寒さで雨が凍ったものだと考えてる人が案外多いんじゃないだろうか。実は私もそう思っていたら違った。雲の中にある水蒸気が冷たい空気に冷やされると、微粒子を核として氷の結晶ができる(氷晶)。これが空から落ちてくるとき、地面に落下するまで0度以下を保てば雪になり、0度以上になると雨になるのだそうだ。雨が途中で凍って雪になっているわけではなかった。今日もまた、ひとつ賢くなってしまった。
 みぞれ(霙)は、半分雪で半分雨の状態をいい、氷晶に水滴がついて上昇気流で冷たい上空に吹き上げられて凍りつくとあられ(霰)になる。5ミリ以上になるとあれらで、それ以下をみぞれとして区別している。
 雪が白く見えるのは、くっついた結晶に光が乱反射しているためで、ひとつひとつの結晶自体は透明だ。
 雪の結晶を世界で初めて人工的に作り出したのが中谷宇吉郎だった(1936年)。少し話はそれる。中谷宇吉郎は、「天災は忘れた頃にやって来る」と言った物理学者で随筆家の寺田寅彦の弟子で、寺田寅彦は夏目漱石の弟子になるから、夏目漱石の孫弟子ということになる。夏目漱石の弟子には芥川龍之介や内田百間がいる。そこまで思いを馳せると、なかなか感慨深いものがある。
 それはともかくとして、雪の話に戻ろう。雪は状態によってもいろいろな呼び名がある。降っている状態の雪を降雪と呼び、積もっている状態を積雪として分けて呼ばれている。これは雪の多いところと少ないところでも感覚的な違いとしてありそうだ。私などは雪といえば空から降ってくるものをイメージする。雪国の人は積もってない雪など雪のうちに入らないって言うかもしれない。
 粉雪、ぼた雪、ざらめ雪、新雪、吹雪、雪崩、淡雪、万年雪、どか雪、泡雪、細雪、なごり雪。
 日本語には雪を表現する言葉がたくさんある。それだけ雪の存在が大きいということだ。
 別名として「六花(ろっか)」というのがある。雪の結晶が六角形をしているところから来ている。「六花亭」のマルセイバターサンドが食べたい。こちらでは岡崎の備前屋「あわ雪」が有名だ。備前屋~の~あわ雪~♪のCMでお馴染みの。
 知らなかった雪にまつわる言葉も、今回勉強していろいろ知った。雪と親しむという意味の「親雪(しんせつ)」や、雪を克服するという「克雪」、一歩進んで雪を利用しようという「利雪(りせつ)」など。「雪あかり」なんて言葉はとてもロマンチックな響きを持っている。
 雪とたわむれたり親しんだりするというと、私たちは雪だるまや雪合戦、スキーやソリ滑りなどしか思いつかないけど、雪国の人たちは違う。かまくらやさっぽろ雪祭りなどは知識として知っていても、雪泳は知らないだろう。なんでも今、静かなブームになっているらしい。本当だろうか? 読んで字の如く、雪の中を泳ぐ競技らしい。きっと静かなブームのまま終わるだろうけど、大人たちが本気で雪の中を泳いでいる大会を一度見てみたい気もする。
 昔の日本には「雪見」という風習があった。いつ果てるともなく降り続く雪をただ見ている。雪見障子や雪見酒、雪見風呂など、今ではすっかり失われてしまったものもたくさんある。
 ここでひとつ漢字クイズを。「雪ぐ」は何と読むでしょう? 答えはCMのあと。ヒントは、雪辱(せつじょく)。

ベランダからの雪風景

 答えは、「すすぐ」でした。祓い清めるという意味で、汚辱を雪ぐなどと使う。

 雪が好きかと問われたら、少し考えて間が空く。小雪はそんなにタイプじゃないのと同じように、雪も特別好きというわけではない。年に1度か2度見るだけなら悪くないけど、現実的な面では雪が降っていいことなどほとんどない。せいぜい写真を撮るときに場所によっては絵になるくらいのものだ。交通機関は壊滅的にダウンしてしまうし、車でも身動きも取れなくなってしまう。雪は溶ける街が汚れるし、雪国に住むのはきつそうだ。
 でも、雪にもいいところがある。それは、雪がもたらす静寂だ。まるで雪が世界の音を吸い取ってしまうみたいに街から音が消えて、世界が静けさに包まれる。あるいは静寂の音がする。雪が降り続く光景は、音を消したテレビ画面のようだ。世界は本来こんなにも静かなものなんだと、雪が教えてくれる。
 雪は天からの贈りものだ。宇宙に雪は降らない。地球に降りそそぐ祝福の白だ。だから私たちは雪を見て、きれいだと思う。純白は雪のイメージで、雪が覆い隠した真っ白な世界はウェディングドレスを思わせる。もし私たちが雪を知らなければ、純白の美しさに気づかなかったかもしれない。雪が降る星に生きていることの幸せを思う。

おせち料理もどきで2007年サンデー料理は開幕

風物詩/行事(Event)
おせちもどきサンデー

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f4.0, 1/15s(絞り優先)



 2007年最初のサンデー料理は、やっぱりカレーだろうと思ったけどやめて、おせちにした。カレーもいいけどおせちもね。
 田舎でひととおり食べてきたのだけど、買ってきたものだったから意外と食べるものがなかった。そもそも、生まれてこの方、心底美味しいと思えるおせち料理を食べたという記憶がない。家が貧乏だったのか、私の舌が貧しかったのか、単におせちとの相性が悪かったのか。それこそ、2日目、3日になってくると、おせちもいいけどカレーもね! と言いたくなるのが常だった。
 けど、今年の私はちょっと違う。おせちそのものに問題があるのではなく、おせちの内容と私の食べたいものが合致してないだけだという大事なことに気づいた。じゃあ、自分が食べたいおせちを作ればいいではないかと思いついた。そうだー、そうだー、まったくだー。
 ノーマルおせちじゃつまらないから、アブノーマルおせちでいってみた。なんとなくおせちかなサンデー。おせちっていえばおせちだけど違うっていえば違う料理が私の目の前に並ぶ頃には、もはや引き返せないところに来ていた。このまま進んで最終的には重箱に詰めればおせちだろうという強引な論理で完成させたのがこれだ。構想2日、総制作時間4時間。今、おせちの歴史が変わる。

 まず四角に重箱に入っているのが、ツルとカメだ。
 かまぼこの飾り切りに1時間かかったぞ。3枚完成させたところで体力の限界、気力もなくなり、ここにかまぼこ職人を引退することを決意した。
 カメは甲羅にシイタケ、頭と手足はかまぼこを使っている。だし汁、しょう油、酒、みりんで煮た。
 その左は、白身と赤身の紅白あぶりカルパッチョ。
 白身と赤身の切り身を叩いて伸ばして、軽くあぶり焼きしたあと、タレにまぶす。タレは、オリーブオイル、レモン汁、マスタード、ハチミツ、黒コショウ、白ワインを混ぜたもの。
 左下は丸い背中のエビの照り焼き。
 殻と背わた、はらわたを取って軽く下茹でしたあと、小麦粉をまぶしてフライパンで焼きながら、しょう油、酒、みりん、カタクリ粉で作ったタレを塗って照りをつける。ちょっと焦がしてしまった。
 真ん中の黄色いのは、ふんわり錦卵と、きんとん茶巾。
 卵3個を固ゆでのゆで卵にして(10分くらい)、白身と黄身を分けてそれぞれ裏ごしする。そこに砂糖20gくらいを半分ずつ混ぜて、塩も加えて、小さいタッパーなどに重ねて入れる。レンジで1分か2分加熱して、取り出したら切り分ける。牛乳パックで型を作ってもいい。
 きんとんは、皮をむいたサツマイモを適当に切り分けてレンジで温めてつぶす(5分くらい)。卵黄1個、みりん、だし汁、塩、コショウを混ぜて、ラップで茶巾状にしてレンジで1-2分。甘栗があればそれを加えると栗きんとんになる。
 お椀は、京風の白みそ雑煮。
 サトイモ、大根、ニンジンを下茹でして、温めただし汁に移して、白みそで味を付ける。モチは丸い形に切って、5分ほど煮てから入れる。京都ではモチは焼かないのが基本となる。

 味の方はどうだったかというと、これはもう大成功と言っていい。自分の食べたいものを食べたい味付けで作ってるから、美味しいと感じるのも当然のことだ。押しつけられたおせちじゃない。
 それにしても、おせち作りはなんだかとっても楽しいではないか。性に合ってるのか、いろんなものを少量ずつ作っていくのが面白い。冷めてもいいものが多いから、ひとつずつ順番に作っていけるのもいい。飾りかまぼこは確かに切って形を整えるのは大変だけど、図画工作みたいで楽しめる。カメの形を作ったりするのも。
 今回、錦卵が一番気に入った。柔らかくて口の中で崩れる食感は独特のものがある。ゆで卵とも卵焼きともまったく違う第三の卵料理としての地位を私の中で確立した。黄色と白のツートンは見た目もきれいだし、これは人に作って出したいとも思った。
 来年の話をするのはいくらなんでも早すぎるけど、もしサンデー料理が続いていたら、今度はもっと本格的に作ってみたい。来年は五重箱に挑戦だ(本気か?)。

 おせちは漢字で御節と書く。これは本来、節句のことであり、そこで神様に供え物をして、それを人間もいただくという行事から来ている。今でも残っている端午の節句や桃の節句がそうだ。他にも、人日(1月7日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)があり、そのときの料理を御節供(おせちく)料理と呼んでいた。ただしこれは平安時代に朝廷で行われていた行事で、おせちが庶民のものとなるのはずっと後の江戸時代になってからだ。その頃には本来の意味から少し離れて、一年の最初の正月に食べる料理のことだけをおせち料理と呼ぶようになっていた。
 五穀豊穣を願うという意味で、5並びがよいとされ、五法、五味、五色をバランスよく供えつつ食べるのが基本となっている。のちに重箱になった際も、おせちといえば五重箱と決まっていた。
 あまり火を使ったり騒がしい料理がないのは、節句の神様は火が苦手という理屈をつけつつ、実際はいつも料理している奥さんたちを正月三が日くらい休ませてあげようという知恵でもあった。だからおせち料理は日持ちのいいものがほとんどだ。
 鎌倉時代以降は、武家がおめでたいときに食べる「祝い膳」とも結びつき、江戸時代には庶民の風習となり、おせちは今のような形になった。重箱となったのは、たった200年ほど前のことで、これは、めでたさを重ねると意味を持っている。
 細かいしきたりを言えば、一の重には黒豆や数の子などの祝い肴、二の重には伊達巻やきんとんのような甘いもの、三の重には魚や海老などの海の幸、与の重(四は死につながるといって避ける)には野菜の煮物などの山の幸というように決められている。
 使われる食材にもそれぞれ意味というか語呂合わせがある。黒豆なら一年中マメに働けるようにとか、昆布巻きは喜ぶとか、エビは腰が曲がるまで長生きできるようにとか、あとは数の子やサトイモなどは子だくさんの象徴だったりする。紅白のものや、きんとんなどの黄金は色から来るめでたさを表している。すべては人の願いがこめられているものばかりなので、ひとつひとつ意味を噛みしめながら食べたい。けど、おせちを食べながらやたらうんちくを語る人になると親戚に煙たがられるので注意が必要だ。

 最近はおせちも百貨店や料亭などのものを買うことが多くなって、地方色が薄れてしまってはいる。本来おせちは土地によっても家庭によってもそれぞれ特色があったものだ。特に関東と関西では入れるものがけっこう違う。西の朝廷文化と東の武家文化の違いというのもあるだろう。家庭によってもそれぞれだから、人のうちのおせち料理というのはなかなか興味深いものがある。同じ料理でも味付けがかなり違っていて驚く。
 まあ、しかし、日常的にごちそうがあふれてる現在の日本では、正月のおせちが特別ごちそうだという家庭も少なくなって、だんだん意義が薄れつつある。今のところ、なんとなく気分で習慣を続けているけど、100年後はどうなっているか分からない。私たちが生きている間は、おせち文化は残り続けるのだろうか。
 こうなったら私も微力ながらおせち伝統を継承する助力をしたいと思う。毎年作り続けて、だんだんグレードアップしていこう。今年も一年、ノーマルサンデー料理を作りつつ、最後はいいおせちを作れるところまで腕を上げたい。自分で納得できるものができたら、田舎に持っていってもいい。
 2008年の私に乞うご期待。

オアシスが必要なほど名古屋は砂漠化が進んでないけれど

施設/公園(Park)
テレビ塔とオアシス21

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f7.1, 1/500s(絞り優先)



 名古屋砂漠という言葉はないけれど、名古屋の中心にはオアシスがある。オアシス21という公園が。
 日本初の総合立体型公園の名のもとに派手に登場したオアシス21。そのうち行かなくてなと思いつつ時が流れた。完成したのは2002年の10月というから、もう4年以上経っていたのか。4年といえば中学3年生だった子が大学1年生だ。96歳だった人は100歳になっている。その間、私はなにをぼんやり過ごしていたのだろう。今回、ツレを得て、ようやくオアシス21へと乗り込むことになった私であった。
 これは空飛ぶ宇宙船をイメージして作られているということらしい。全然知らなかった。それでこんな奇妙な形の空中都市風になっていたのか。名前は、水の宇宙船「地球号」。高さ14メートル、長さ106メートル、幅36メートルと、けっこうなスケール感だ。方向としては名古屋城の方角を向いているそうだ。宇宙へ飛び出すときに、行きがけの駄賃として金シャチを積んでいくつもりだろうか。私の中のイメージソングは、TOKIOが歌う中島みゆき作詞作曲の「宙船」だ。♪その船は自らを宙船(そらふね)と 忘れているのか その船は舞い上がるその時を 忘れているのか♪

オアシス21の芝生広場

 地上部分は「緑の大地」と名づけられた公園となっている。今は季節的に芝生が冬枯れてしまっているけど、春から秋にかけては緑におおわれて、昼ご飯を食べたりするのにいい感じだ。ベンチもたくさんある。近所のサラリーマンやOLの人たちが実際に利用していそうな気もする。バレーボールとかしてるイメージだ。それって昭和?
 春は桜、秋はモミジがちょっとした彩りを添える。おじさんも死んだように寝てたりする。
 目の前にはテレビ塔が建ち、周囲にはNHKビルや愛知芸術文化センターなどがある。
 時間になるとどこからともなく突然音楽が流れてきて、まったりしている私たちを驚かせた。何事かと思う。14基設置されているモニュメン「風のオルガン」から流れてくるようだ。暗くなると照明がついて夜の中に浮かび上がるらしい。
 夜はいろいろなところがライトアップされて、昼間とは違う表情を見せる。夜景スポットと言えなくもない。本体だけでなく、100メートルの光の道「記憶の路」などもあり、夜が早い名古屋では珍しく23時まで明かりを放っている。

オアシス21の吹き抜け

 1階から地下は吹き抜けの広場になっていて、歩くのも見下ろすのも気持ちがいい。いっけん無駄に見える広い空間は、イベントなどに使われている。去年はここで「世界コスプレサミット2006・チャンピオンシップ」が行われたらしい。一体どんな大会だったんだろう。想像するだけでめまいがしそうだ。
 周囲には食事処や飲食店などが並んでいる。雑貨店やドラッグストアなどもあるようだ。「オアシス21 iセンター」という観光案内のインフォメーションセンターもあるので、名古屋観光へ来たときはそこにまず寄って情報を集めるのもいい。
 バスターミナルも入っていて、市バスや名鉄、高速バスだけでなく、三重の田舎でおなじみの三交バスも乗り込んでいる。

オアシス21宇宙船部分

 ここが最上階の宇宙船部分。エレベーターを使わず階段で上ってきたら、足にちょっとダメージを受けた。5階くらい上っただろうか。お嬢さん育ちの女の子を連れてデートをするときはエレベーターを使うことをおすすめする。
 全面強化ガラス張りの床は、散策路と池に分かれていて、この池の趣向が面白い。ゆらめきを作る装置があって、ゆらゆらと揺れる水面越しに見る地下の様子は、まるで海底都市を見ているようだ。海底都市なんて見たことないけど、なんとなく。人が行き来していると不思議な感覚に陥る。
 ただし、ここに飛び込んで体を洗ったりしない方がいい。オアシス21は未来に向けての環境を考慮した作りになっていて、この水は雨水を利用したものだからだ。ある程度蒸留はしてるだろうけど、喉が渇いて死にそうになっても飲まない方が身のためだろう。減量中のボクサーを連れてくるのもやめた方がいい。
 この水は都市のヒートアイランド現象をやわらげる役割も担っているらしい。

 オアシス21ってどんなところだろうとずっと思っていた。水の公園と言われても上手くイメージできなかったけど、今回でようやくどういうところか分かった。なかなか悪くないではないか、ここ。何を作らせても今ひとつあか抜けない名古屋の建造物の中では、かなり頑張っている方だ。このまま東京に移しても通用するかもしれない。むしろ、東京砂漠のど真ん中にこの無料公園が出現した方が価値がある。オアシスがあれば、つらくはないわ、この東京砂漠。
 暖かい昼間はのんびり芝生にねそべって空を見上げてみれば、名古屋の空も案外広いなと思うだろう。夜はデートスポットになるとはいえ、ひとりで行けなくはない。三脚を立てて夜景写真を撮ってもギリギリ大丈夫だ。たぶん、間一髪セーフだと思う。保証はできないけど。
 観光地というよりも地元民にこそもっと活用されるべき場所かもしれない。金もかからないし、貧乏デートにはもってこいと言えるだろう。このブログの内容を上手に引用して彼女にうんちくを語ってあげてください。そして、大きな声で「宙船」を歌ってあげよう!

 ところで今日からブログのタイトルが変わります。「断想日記プラスワン」改め、「現身日和」となりました。ウツセミビヨリと読みます。空蝉日和としなかったのは、検索したらすでにそういう名前のバンドが存在していたから。現身日和は一件も引っかからなかったからこれにした。
「うつせみ」というのは元々、この世に生きる人間やこの世界そのものを指す言葉だった。それに空蝉という字を当てたことで、セミの抜け殻や、はかない人生などのニュアンスを含む言葉に変化した。その後江戸時代になって、本来的な意味の「現身」という字を当てるようになる。げんじん、うつそみなどとも読み、のちにうつせみと読むようになった。
 要するに、あの世に対するこの世の人間が現身というわけだ。日和は空模様が転じて、小春日和や行楽日和のように、何かをするのにはいい日というように使われるようになった言葉だ。あるいは、日和見主義というようにも使う。
 現身日和---それは、毎日は人としてこの世を生きるのにいい日、という意味になる。この世界には美しいものや珍しいものや不思議なものがたくさんあって、毎日新しい発見や喜びや楽しさがある。人間としてこの世を生きることはなんて楽しくて面白いことなんだろう。私自身のそんな気持ちが読んでくれる人に伝わればいいなと思って書いています。そう思えるまでに長い時間がかかったけど、そういう人がひとりでも増えれば幸せなことだ。
 また明日も新しい一日が私たちを待っている。そこに向かって駆けていくのだ。

三が日で三ヶ所目の城山八幡宮は恋の三社めぐりの出発点

神社仏閣(Shrines and temples)
城山八幡宮の神門

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.0, 0.5s(絞り優先)



 今年は新年早々、神社仏閣巡りが快調だ。飛ばしていると言ってもいい。三が日だけですでに3ヶ所も巡ってしまった。この調子でいくと、年間300ヶ所くらいになってしまう。もはや神社に住んだ方が早いとさえ言えるかもしれない。湾岸戦争の時NHKに出ずっぱりでNHKに住んでるんじゃないかと言われた軍事評論家の江畑さんのように。1:9分けは今も健在だろうか。
 初詣は田舎の丹生神社で、三日の日は上野天満宮と城山八幡宮へ行った。特に絶対ここじゃなくては日も夜も明けないというほどの思い入れがあったわけではないけれど、こういうのも縁というものだろう。この日の流れでたまたまそういうことになった。人と神様の縁というのも案外そんなもので決まるのかもしれない。
 城山八幡宮は今回が二度目だった。初詣客がこんなに多い神社だとは思わなかった。昼頃一度行ったら車が列を作っていてあきらめて、夕方出直してようやくとめられたのだった。ちょっとびっくり。実は人気者だったんだ。

城山八幡宮の本殿

 城山八幡宮は何の神様を祀っていて、何の御利益があるのか、実はよく分かっていなかった私。八幡宮だから、なんとなく鎌倉幕府や頼朝、義経の戦系? といったあやふやなものだった。帰ってきて勉強したところ、やはり必勝守護というのもあるようだ。私の場合、戦うべき相手が見当たらないので必勝はあまり関係がないのだけど。他には、厄除開運、交通安全、家内安全というのもあった。このあたりは自分にも関係してくるものの、なんとなく城山八幡宮側としても漠然としてるような印象を受ける。御利益というのは、何か一つに絞ってもらった方がありがたみが増すというものだ。スペシャリストとしての説得力が欲しい。
 ここは「恋の三社めぐり」の中心でもある。たぶん、大部分の名古屋人も知らないと思うけど、城山八幡宮と晴明神社、高牟神社を回ってスタンプを集めると恋が叶うというありがたーい作りものの伝説があるのだ。私も、スタンプこそもらってはいないものの、しっかり三社をめぐり終えている。本当に効果があるのかどうかは各自めぐって確かめて欲しい。一周でダメなら二周、三周としていればそのうち満願成就になると思う。いや、思いたい。

 もともと城山八幡宮は、500年以上前から現在の場所より300メートル東北にあった。明治明治41年(1908年)に村にあった八幡社、浅間社、山神社、一ノ御前社、白山社を合併して八幡社とし、昭和11年に現在の地に移った。昭和31年に現在の城山八幡宮に改称されている。
 このあたり一帯はかつて、織田信長の父・織田信秀が築城した末森城があった場所に当たる。1548年に信秀が城主となり、その死後、信長の弟の信行に譲られた。しかしその信行は清洲城で信長に殺され、末森城は主を失い、廃城となってしまう。城としては10年ちょっとしか使われなかったということになる。二重堀を張り巡らせたなかなか本格的な戦国時代の城だったらしい。現在でも空堀が残っている。
 更に時代をさかのぼれば、6世紀後半のものとみられる古墳群が見つかっていて、多くの出土品が出たという。
 現在の城山八幡宮は、末森城だった敷地ほぼ全部の1万坪を有している。ただ、境内はそれほど広いという印象はない。
 車で訪れてしまうと、鳥居を三つくぐった先が境内の駐車スペースになるので、雰囲気が出ない。やはり丘の下の一の鳥居からくぐって登っていきたいところだ。
 本殿の他、祝詞殿、幣殿、拝殿、廻廊、神門、豊玉稲荷、神楽殿などがある。二の丸跡には昭和3年に建てられた昭和塾堂という洋風建築の建物がある。現在は愛知学院大学院が使っている。
 ここでは神前の結婚式を挙げることもできる。挙式料は10万円だそうだ。安いんだろうか高いんだろうか。挙式をしたカップルは、もれなく神棚が無料でもらえるらしい。断れないんだろうか。おみやげにもらう大きな日本人形以上に持て余してしまいそうだ。

城山八幡宮境内の様子

 今年は全国的にたくさんの初詣客が神社仏閣を訪れたとニュースでやっていた。天気もよく、暖かかったからだろうか。景気もよくなっているようで、お賽銭箱のお札も多かった。縁起物のおみやげグッズなどもたくさん売れたんだろうか。今年も明治神宮のトップは動かないのだろう。あとは成田山新勝寺、川崎大師、伏見稲荷神社、熱田神宮あたりだろうか。八幡宮代表としては、鎌倉の鶴岡八幡宮がある。鎌倉武士の守護神である鶴岡八幡宮へは、いつかきっと行こうと思っている。
 私にとって鎌倉という地は、何か複雑な思いを抱かせる土地だ。江ノ電が走っていて、海があって、景色がよくて、とかいうのんきなところではなく、鎌倉武士にまつわる遠い記憶が呼び覚まされるような感じがある。すごく心惹かれるから行かなくてはいけないと思いつつ、なんとなく近づくのが怖いような、近づいてはいけないような気持ちもある。鎌倉という言葉を耳にしたり目にしただけで少し心がザワザワする。その正体は行けば分かるのだろうか。
 いざ、鎌倉。それはいつの日になるのだろう。

 2007年はどれくらい神社仏閣巡りができるか、今から楽しみだ。50くらいは楽々だろうから、目標は大きく100とでもしようか。3日にひとつか。無理な気がするけどどうなんだ。目標を達成するためには、四国のお遍路さんにでも出なくてはいけないかもしれない。さぬきうどんを食べながら、菅直人となれ、私。
 それから、一生の間にどうしても行っておきたい神社仏閣を書き出すというのも思いついた。それを一つずつクリアしていくのはライフワークにもなり得る。
 何ヶ所めぐれたかは今年の最後に発表しますのでお楽しみに。別に楽しみじゃないぜと言われても、とにかく発表だけはしたい。100ヶ所めぐることができたら何かとんでもなくいいことが起こりそうだし、ぽっくり死にそうでもある。さて、どっちだ。答えは一年後に。

久々に引いたおみくじを連理木に託して結んだ正月三日

風物詩/行事(Event)
久々のおみくじ

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f3.5, 1/13s(絞り優先)



 子供の頃の私は人並みにおみくじ好きだった。両親と神社へ行ったとき、よく引いていた記憶がある。まったく引かなくなったのはいつからだろう。高校生くらいからだろうか。それ以来、おみくじに限らず、神頼みとか占いとかを否定する時期が長く続いた。
 今年の正月、久々に引いたおみくじは、正吉だった。五郎の丸太小屋を燃やしてしまった正吉だけど、蛍ちゃんをもらってくれてありがとう。って、その正吉じゃないだろう、小吉だ。
 小吉は吉よりいいと思っていた。大吉、中吉、小吉、吉、末吉、凶、大凶だと。でも調べたら違った。大吉、中吉、吉、小吉なんだそうだ。もしくは、大吉、吉、中吉、小吉としているところもあるんだとか。意外にもおみくじ界というのはマイルールがまかり通るものだったのだ。私が引いた城山八幡宮ではどういう順番だったのだろう。
 割合としては、大吉15%、吉35%、凶30%で、残りがそれぞれ5%くらいというのが一般的なんだそうだ。思ったよりも大吉が多いのと、凶が30%もあるというのはちょっと驚いた。ただ、この世界における幸運な人と不運な人の割合を見ると、もっと大吉は少なくて吉が多くてもいいようには思う。大凶的な人も10パーセントはいそうだ。
 吉や凶は大まかな目安であって順番にそれほど意味はなく、書かれている内容こそが大事である、というのが神社側の言い分だ。神の言葉としてしっかり聞くように、と説明している。神の言葉が200円というのもどうなんだと思いつつ、一応そういうことで納得しておこう。

 引いたおみくじをどうすればいいのかはっきり分からないまま、みんなが結びつけているところに自分も結んで帰ってくるという人も多いと思う。私も今回勉強するまで分かってなかった。
 よく言われているのが、悪いものが出たときは結んでいって、いいものが出たときは持っておくのがいい、というものだ。けど、必ずしもそれは正しくないようだ。
 もともとは結ぶが縁結びに通じることから、縁結びの神社でおみくじを結ぶという習慣だったものが広く一般化していったらしい。おみくじを結ぶということは、その神社と縁を結ぶということでもある。
 木の枝に結ぶのは、木の生命力にあやかって願い事が結びますようにという願いを込めて行われていたのだという。ただ、木にとっては迷惑な話で、成長のさまたげになったりするのであまりしない方がいいらしい。ちなみに、おみくじを結ぶ場所のことを、みくじ掛と呼ぶらしい。または、おみくじ結び所とも言う。
 よい悪いにかかわらず、持ち帰っても、戒めとして持ち歩いてもいいそうだ。いずれにしても、その場合はあとになってもう一度結びに行かなくてはいけない。願いが成就したときや、たとえば一年後とかに。持ち帰って机の中にしまったまま忘れてしまうのはよくない。結ぶところは、おみくじを引いた神社でなくてもそうだ。
 その他、凶のおみくじは利き手と反対の手で結べば、困難を克服したということで凶が吉に転じるという話もある。
 おみくじは参拝が済んでから、神妙な気持ちで引くべし。冗談のつもりでやっていけないのはコックリさんと同じこと。一度に2回以上引くこともよくないこととされている。

 おみくじは、御神籤と書く。寺のおみくじは御仏籤になる。
 古代社会において、おみくじは国のまつりごとを決めるときに行われた祭事の一種だった。神の意志を知るための手がかりとして。「日本書紀」にも出てきている。
 現代のようなおみくじスタイルを作ったのは、平安時代の元三大師というお坊さんだと言われている。鎌倉時代から今のような形になり、一般庶民にとってお馴染みになったのは江戸時代に入ってからだ。
 元三大師の本名は、慈恵大師良源という。正月の三日に死んだので元日三日で元三と呼ばれるようになった。私がおみくじを引いたのがたまたま1月の3日だった。たまには引いておけよという元三大師からの助言を無意識に聞いたのかもしれない。ありがとう、大三元師。じゃない、元三大師。
 良源というのは比叡山のかなり偉い坊さんだったようで、数々の業績も残し、尊敬もされている人物だ。ただのおみくじ発明王ではない。でも、特許を取っていたら大金持ちになっていた。元三大師を祀っている神社もある。

連理木

 城山八幡宮の裏手に、連理木(れんりぼく)と呼ばれる御神木がある。あまり一般には知られてない存在のようで、初詣客で賑わう本殿周辺の喧噪とは裏腹にこちらは訪れる人もまばらでひっそりとしていた。予習してこないとここの存在にはなかなか気づかないだろう。本殿左手にある道を3分ほど歩いて裏手に回ったところにそれはある。
 自生のアベマキで、高さ15メートル、幹周りは3メートル50と、名古屋では最大のアベマキだ。地上3メートルあたりのところでいったん幹が分かれて、6メートルほどで再び一つになっている。こういう木を連理木と呼んで、昔から吉兆とされてきた。
 白楽天は「長恨歌」の中でこう詠った。
「天に在りては願わくは比翼の鳥とならん。地に在りては願わくは連理の枝とならん」と。
 比翼とは、目と翼を一つずつしか持たず、常に一体となって飛ぶ雌雄の鳥のことだ。
 この連理木も、夫婦円満と縁結びの木として信仰の対象となっている。

 主君織田信長を討つと思い定めた明智光秀は、前日に愛宕山の愛宕大権現でおみくじを引いている。光秀は信長とは対照的に信仰心の厚い男だった。
 引いたおみくじは3回。大凶、凶、大吉の順番だったとも、凶、凶、凶だったとも言われる。本能寺の変の動機がなんであれ、神仏に問いかける気持ちが強かったのだろう。3度引いたというところに大いなる動揺が見て取れる。それでも、3度目の結果で決心は固まったのだろうか。
 現代の私たちは、おみくじにさほど重きを置いていないところがある。雑誌の占いコーナーを読むような軽い気持ちでおみくじを引く。それが間違いではないけれど、せっかくの言葉だからしっかりと受け止めたい。いいことは誉め言葉として、悪いことは警告として。吉でも大吉でも大凶でも、どういう姿勢で対処すればいいのかそれぞれのやり方がある。サッカーの格言で、後ろからの声は神の声、というのがある。自分では気づかないところから掛けられる声は、それがどんなものであっても神の声なのだ。聞き流してしまうのはもったいない。
 たかがおみくじ。けど、それを生かすも殺すも本人次第。連理木に結びつければもう安心とかそういうことではない。神の助けは自分の限界を超えた先にこそ得られるのだ。

睡魔に屈服して3枚の高所写真を並べてお茶を濁すの巻

施設/公園(Park)
モリコロパーク大観覧車より

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f7.1, 1/250s(絞り優先)



 今日は名古屋の街をあちこちふらふら。
 高いところへ登ってわあわあ。
 眠たさが限界を超えてねむねむ。
 なので今回は写真のみ。

 最初の写真は、愛・地球博会場だったモリコロパークの大観覧車からの眺め。東海一の高さを誇るだけあって、見晴らしがいい。高さがあるのに怖くないのもよかった。人があんなにもちびっこく見える。

オアシス21から見下ろす

 栄えセントラルパークのオアシス21から下を見下ろしたところ。透明な床に水が流れていて、そこを通して見る世界は不思議なゆらめきだった。

東山スカイタワーから

 東山スカイタワーからの夜景。ちょっとびっくりのきれいさ。スカイタワーからの眺めがこんなにいいとは知らなかった。昼間とは世界が一変する。
 夕方5時以降は駐車場が無料で、タワーは300円で9時までやっている。ここはオススメしたい。

 今日はこれ以上何も考えられまシェーン、カムバッーク。G.I.のおじちゃん、ギブ・ミー・チョコレート。睡魔の野郎が激しい攻撃を仕掛けてきやがるので、私はここに無条件降伏を宣言します。眠たさに負けた、いえ、世間に負けた。明日があるさ。眠って壊れた脳を修復します。さよならバイビー、また明日。

獅子舞を舞いながら唐獅子牡丹を歌う獅子に多めのご祝儀を

風物詩/行事(Event)
丹生の獅子舞

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f6.3, 1/200s(絞り優先)



 うちの田舎の丹生(三重県)では、今でも正月にちびっ子たちの獅子舞が村の一軒いっけんを回って、笛や太鼓の獅子舞を披露してお小遣いをもらう風習が残っている。もちろん、単独でゲリラ的にやっているのではなく、村ぐるみで行っているお祭り行事だ。ひと組で全部回っているものとばかり思っていたら、3組もいて驚いた。もしかしたらもっといるかもしれない。
 村の民家の数は少ないし、一軒で1,000円くらいしかもらえないから、あまり儲かりそうにない。それでも、子供たちが嫌がらずにちゃんと参加してるのは偉いと思う。街の子供たちなら強制されても出てこないんじゃないだろうか。
 獅子舞は何のためにするかといえば、お小遣い稼ぎのためではない(そりゃそうだ)。その家をお祓いするために行っている。お正月にするところからみて、縁起物でもある。獅子が舞っているときの笛太鼓の音をフトンの中で聞いている私の厄も祓ってもらえるのだろうか。

 獅子舞の起源はインドにあった。中国という言われ方をするのは、中国で伝統芸能として発達したという意味でだろう。かつてインドの遊牧民たちが神とあがめるライオンを偶像化して舞い踊っていたのが始まりとされている。その後、チベットから中国、東南アジア、日本へと伝わっていった。
 日本に最初にやって来たのは奈良時代で、中国、朝鮮半島、東南アジアなど複数のルートから同時に入ってきたようだ。これが一般的なものとなったのは16世紀のはじめ頃のことで、伊勢で起こった飢饉の元凶を追い払うために獅子舞をしたことがきっかけとなったとされている。
 各家庭を回って厄払いをするスタイルが確立されたのは江戸時代に入ってからだった。宗教儀式でもあり、縁起物でもあり、芸能でもある獅子舞は、微妙な位置で日本の風土の中に溶け込んでいった。現在は、民俗芸能の一ジャンルである「神楽(かぐら)」に分類される。
 日本における獅子舞は、中国大陸から伝わってきた伎楽系(ぎがくけい)と、日本古来の風流系の二派に分かれる。伎楽系は中部以西の西日本に多く、頭(かしら)部分の担当と、体を担当する人間(1人)という複数で一体を舞う。それに対して関東・東北の風流系は一人で一体となる。立ち獅子で胸に太鼓をつけて踊る。
 使われている楽器は、太鼓、小太鼓、笛、鐘で、地方や流派によってもいろいろ違ってくる。獅子舞の種類や形式も各地さまざまなので、どれが正統という言い方はできないようだ。ただ、関西のも見慣れている人が関東のものを見るとなんだか違うと思うだろうし、その逆もあるだろう。三重県は関西系のチーム獅子舞だ。
 中国の獅子舞は、中華街の祭りなどでよく行われているので実際に見たことがある人も、テレビなどで見た人もたくさんいると思う。昔のジャッキー・チェンの映画とかにもよく出てきていたような気がする。中国でも、南方獅子舞と北方獅子舞の二種類あるそうだ。
 
丹生の猫

 獅子の写真が欲しかったのだけどすぐには撮りに行けなかったので、田舎にいた猫で代用してみた(代用にはならないだろう)。
 獅子はライオンの別名であり、伝説上の生き物でもある。獅子舞の獅子はやはり実在しない方なのだろう。狛犬やシーサーなんかに近いものがある。
 獅子のルーツを辿っていくとエジプトなどの古代文明に辿り着く。ライオンがすんでいた地域では、ライオンの圧倒的な力と存在感を畏怖して神のように祀ったのだろう。やがてそれが元の姿から一歩進んで伝説の生き物となっていった。
 インドに獅子舞のルーツがあったというのも、インドにはインドライオンがいたからだ。中国にはライオンはいなかった。だから中国で想像上の霊獣に変化していったというのがあるのだろう。いわゆる唐獅子と呼ばれるものだ。それが日本に伝わったとき更に変化して狛犬となった。中国から持ち帰ったのは弘法大師だったという話もある。
 獅子は悪い霊を食べるということになっている。口をパクパクさせているのは、脅しているわけでも、人を食べてしまおうとしてるわけでもなく、悪霊を食べている仕草なのだ。秋田のなまはげとは似てるようで違う。

 獅子舞もこうして見てくると、思った以上に奥行きと広がりがあるものだということが分かってくる。歴史もある。流派や種類も多く、獅子舞を追いかけて西へ東へという人がいるのも納得できる。全国の獅子舞写真を撮って写真集を作れば、獅子舞マニアが喜んで飛びつくに違いない。問題は、熱狂的な獅子舞好きの人が何人いるかということだ。たぶん、全員かき集めても10万人はいないから、ベストセラーになるのは夢のまた夢ということになる。
 私もいつか機会があったら獅子舞の中に入って華麗な舞いを披露したいと思う。優雅に舞いながら、義~理と~人情~を~ 秤~に~かけりゃ~ 義~理~が~重た~い~ 男の~世界~、という歌声が聞こえたら、その獅子には私が入っている可能性があります。お小遣いは多めに包んでください。でも、背中(せな)で唐獅子牡丹は吠えていませんので安心してくださいね。

2007年元日は初詣ネタで決意も新たに再出発

風物詩/行事(Event)
丹生神社前

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.0, 1/160s(絞り優先)



 無事2006年から2007年への年越しに成功した私は、珍しく元日の午前中から初詣に行くことにした。うちの田舎の勢和村(現・多気町)の丹生大師へ歩いて向かう。
 ここは神仏習合の歴史と、明治になってからの神仏分離令によって少しややこしいことになっている。地元の人間にとって丹生大事は、お大師さんといって、寺院である丹生山神宮寺のことを指すことが多い。左奥に見えている立派な山門(仁王門)が目印となって、地元以外の人もそちらを目指す。こちらは奈良時代(774年)に空海(弘法大師)の師匠である勤操大徳が開創した寺で、810年には空海もやって来て七堂伽藍を建立したとされる。
 それと同時に右側の鳥居のある方は丹生神社で、境内はつながっていて渾然一体となっている。丹生神社と丹生中神社があり、こちらは6世紀初頭と神宮寺よりも歴史が古い。
 初詣といえばやはり仏さんではなく神さんだろうということで、今日は馴染みの大師さんではなく丹生神社の方に挨拶に行くことにした(結局両方行ったのだけど)。

丹生神社参道

 大師さんの方はそれなりに賑わっていたのだけど、こちらは人影もまばらでそれがかえってしんとした雰囲気を作っていた。参道はこちらの方が昔から好きだった。神聖な空気感がある。
 鳥居をくぐるときも、参道を歩くときも、左右どちらかへ寄ることが決まりになっていると知っているだろうか。真ん中は神様の通る道だから人は歩いてはいけないのだ。私はそのことを去年初めて知った。それまで堂々と真ん中を歩く罰当たりなヤツだった。真ん中を歩いている人を見かけたら、神様気取りかよ、と心の中でツッコミを入れてあげてください。

お大師さんの方遠景

 こちらはお大師さんの方。通常の石段と、屋根付きというか室内階段というかがある。中は暗くて子供の頃はちょっと怖くもあり、楽しくもあった。行き帰りのどちらかは中を行ったものだ。今日は久しぶりに帰りは中を通った。しかし、なんでこんなものがあるのかは謎だ。雨用ってわけでもないだろうに。
 大晦日の夜は、境内で大がかりに火を燃やす行事がある。まだ燃え残りの火があって、みんな当たっていた。薪がかなり余っていたけど、まだこれから燃やすのだろうか。
 ばあちゃんなどは、どんど焼きと呼んでいた。正式名称は分からない。普通どんど焼きというのは小正月などにするものではないだろうか。そうでもないのか。中学生くらいまでは大晦日にどんど焼きを見に行ったものだ。今はもうそんな元気はない。何しろ田舎の夜は寒いのだ。寒さに強い私でも田舎の風の冷たさには負けてしまう。家の外にある便所に行く途中、遠く除夜の鐘を聞いた。

丹生中神社

 参道を進むと一番奥にあるのが摂社丹生中神社だ。祭神は丹生都比売神ではなく譽田別命(ほんだわけのみこと)になっている。
 この地は古くから水銀の産地として知られた場所で、丹生という地名がそのことを表している(全国で水銀がとれたところは丹生が多い)。この地の守護神として祀られてきたようで、平安時代の法典「延喜式神名帳」にも載っている、なかなか由緒のある神社だ。ただ、神宮寺ができてからはそちらの勢力に飲み込まれるような形で、こちらの存在感は薄くなった。
 戦国時代には戦で本殿が燃えたり、境内の神木を松阪城の築城に使ったりと、そんな歴史もある。境内には伊勢椿の原木の椿もあるそうだ。
 明治41年には、あちこちにちらばっていた32社の関連神社を丹生中神社に合祀した。

丹生神社

 丹生中神社の左手に丹生神社がある。こちらも祭神は丹生都比売神ではなく、埴山姫命(はにやまひめのみこと)になっている。丹生都比売神を祀った丹生都姫神社は、神宮寺の方の奥まったところに別にある。
 丹生神社の本殿はなかなか立派なものだ。伊勢神宮との関連も何やらあるらしい。反対側には社務所がある。
 今回は、丹生神社と丹生中神社の両方に初詣をしてきた。今年もよろしくお願いしますの前に去年の報告を。どうもありがとうございました、と。

 ところで初詣って何? という素朴な疑問がふと頭に浮かんだ。その年初めて神社仏閣にお詣りして一年の無事を祈願することだろうとは分かっていても、その先のことはよく分かってない。何日までが初詣になるのかとか、お寺でもいいのかとか、どういう寺社に行けばいいのかとか、あやふやだ。日本かぶれの外国人に鋭く突っ込まれたらタジタジになってしまいそうな不安を感じたので、今日少し勉強してみた。
 まず、基本的には小正月(松の内)の1月15日までにするのがいいようだ。最近は、そんなにのんびりしてられねぇぜべらぼうめこちとら江戸っ子だいこんちくしょうとばかりに1月7日までというところも増えている。気の短い江戸っ子気質がそうさせたとかさせないとか。ちょっと意外だったのは、教会でもいいということだ。そりゃそうか、キリスト教の人は神社仏閣ではなく当然教会に行くものだ。
 元日の朝に行くのを元旦詣、大晦日に行くのを除夜詣、大晦日から行って年越しをするのを二年参りというそうだ。新年が明けて最初に出かけることを初門出と言うんだとか。ちなみに、新年最初に店を営業することを初売りという。
 ……。
 行く場所はどこでもいいらしい。日本は何しろ八百万(やおよろず)の神様がいる国だから、どの神様に祈ってもいいのだ。欲張って何ヶ所詣ってもかまわない。ただし、当然のことながら初詣というのは最初という意味なので二ヶ所目、三ヶ所目に訪れたところは初詣とはいわない。
 もう少し時代をさかのぼってみると、本来は氏神様(うじがみさま)と、その年の恵方(えほう)の神様にお詣りしていたのが初詣の始まりだったようだ。ただ、現代は自分のうちの氏神様といってもどこか分からない人がほとんどだろうし、恵方というのもあまり言われなくなっている。今年の恵方は北北西らしいのだけど。
 あとはその寺社の御利益を調べて、自分の願い事に合ったところに行けばいい。学問の神様の天満宮に行って縁結びのお願いをしていても、道真さんはこれから受験生の相手で超多忙になるのでなかなか恋愛まで手が回らないなんてことにもなりかねない。
 有名寺社としては、名古屋なら熱田神宮がダントツに多い。毎年200万人以上が訪れて、全国でベスト5くらいに入る。一位は毎年明治神宮だ。以下、成田山新勝寺、川崎大師、伏見稲荷大社、住吉大社、浅草寺、鶴岡八幡宮、太宰府天満宮、氷川神社などが続く。2006年の初詣参拝者は9,373万人というのだけど、これはどう考えても何ヶ所も行ってる人が大勢いるということだ。まさか日本人の75パーセントが初詣に行ってるということはあるまい。

 新年明けましておめでとうございます。挨拶が遅れました。
 今年は元日からいきなり神社仏閣シリーズかよ、と思われたかもしれないけど、たぶん今年も多くなることでしょう。神様関係に興味がない人にもなるべく楽しめるように書きますので、おつき合いください。御利益が余ったらお裾分けしますから。
 今年のこのブログの目標は、まずタイトルを変えることというのがある。断想日記プラスワンというのは、HPの日記の「断想日記」と「今日の一枚」という写真コーナーを合体させて楽をしようというコンセプトの元に生まれたものだった。それでこのタイトルになったのだけど、もはや日記でもなければ写真も一枚じゃなくなってるので、内容と合わなくなっている。心機一転、何か考えよう。
 スタイルはしばらくここままで、基本姿勢もタイトル下にある「この世界にはたくさんの美しいものや面白いものがあることを知るための毎日であれば、それは楽しくて幸せなこと」というのは変わらない。心の中にいる架空の人物---生まれつき病気がちで入院ばかりしている小学5年生の女の子---に、この世界の美しさや素晴らしさや楽しさや面白さを伝えることというのをいつも意識している。遠くまで出かけなくても、日常から一歩踏み出せば、自分が知らなかった世界が広がっているんだと、と。おいおい、小5にはネタが昭和で古すぎるだろうというツッコミを聞き流しつつ。昔、たのきんトリオってのがいてね、メーテル、リンゴの気持ちはよく分かるんだよ。
 そんなわけで、2007年もよろしくお願いします。お年玉、待ってます。