
PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.0, 1/250s(絞り優先)
皇居をプラプラ歩いていると、突然、坂下門がぎぎぎぃと開いて、馬が出てきた。えええ!? と驚きつつ、あわてて望遠レンズで隠し撮りしたのがこの一枚。果たしてカメラを向けていいものなのかどうか分からず、完全な及び腰の私。いざとなったら、そのままザリガニのように後ろ向きのまま後退する心の準備を整えた。
しばらく遠巻きに眺めていると、どうやら警察騎馬隊が乗馬の練習をしてるようだった。あとから気づいたのだけど、もしかしたら12月23日の天皇誕生日のときに出動するから、そのためのコースチェックだったのかもしれない。私が皇居へ入っていったので出迎えてくれた、ということではないようだった。それは残念。でも、挙動不審で写真を撮ってる罪で捕まらなくてよかった。
警視庁の騎馬隊は、明治7年に発足したんだそうだ。現代における騎馬隊の役割は、皇居内のパトロールや、道路整備、学校訪問などが主な活動で、外国の大使などが馬車で皇居へやってきたときには馬上から警護をするんだとか。これはかなりカッコいいから、警察へ入って騎馬隊に志願する人も多いんじゃないだろうか。観光客に写真を撮られてしまうという恥ずかしさはあるけど。
東京に住んでいるとかえって行かない東京名所トップ3は、東京タワー、浅草寺、皇居あたりではないかと思うけどどうだろう。特に皇居は何の用事もなくふらっと訪れるようなところではないのかもしれない。でも普通に入っていけるところだった。何の気兼ねもなく。確かに警備の警官はたくさんいて、下手な動きはできないなと思わせるものはあるものの、思うほど特別な場所ではない。
私はといえば、何はなくとも江戸城を見るつもりだった。何もないとは知ってても、せめて近くまで行って石垣に頬ずりくらいはしようと狙っていた。なのに、なんで、月曜と金曜が定休日なんだー。そんなバカなー、バカなー、かなー、かなー、なー(エコーがかかっている)。
本丸跡があるのは皇居東御苑の方で、こちらは休みは入っていけないのであった。残念無念、また来週ー。って、来週は東京にいないぞ、私。なんとも心残りとなってしまったのだけど、門は固く閉ざされ、詰め所に警官さえ立っていてはどうすることもできなかった。
それでも、西側の皇居外苑だけは入ることができたので、こちらを歩いて回ることにした。まずは二重橋へと向かうことにする。それにしても広いな、ここ。砂利で歩きづらいし、ハイヒールの女の人やお年寄りは大変だ。

「はとバス」から降り立った外国人旅行者が集まっているところに吸い寄せられるように行き着いた私は、記念撮影をしている外国人を記念撮影してみた。どうやら何かの門を撮っているらしい。何門ですかと訊こうと思ったけど、いくら観光客とはいえ私が外国人に訊ねてる場合じゃないと思ってやめておいた。このへんに二重橋があるはずなんだけどな。ここが二重橋だよ、おっかさん、と私も言ってみたかった。
帰ってきてから調べたところによると、どうやらこれは皇居の正門らしい。柵があってうかつには近づけないようになってる上に、門前の詰め所に二人も警官が立っているという警戒ぶりも納得だ。
ここから左へ行ったところに桜田門外の変で有名な桜田門があって、広場の真ん中には楠木正成の銅像が建っているはずだ。そっちは行ってないから定かではないのだけど。服部半蔵の屋敷があった半蔵門は更に遠いところにあった。

外国人が背景を入れて記念写真を撮ってる一角の向こうを見てみると、ややや、何やらそれっぽい橋があるではないか。あれが二重橋だよ、おっかさん? なのか? でも、写真で見る二重橋は、いわゆるめがね橋スタイルだった気がする。右半分が隠れてるわけでもなさそうだし、一体二重橋ってのはどこだったんでしょうね、おっかさん。
これも帰ってきてから分かったことなのだけど、正門にかかっている石橋と、奥の鉄橋をあわせて二重橋と呼ぶんだそうだ。いや、正しくは奥の鉄橋が元々の二重橋らしい。二重橋はどれだよと思っていたら、半分は写真に撮って、半分は目の前にあったのに見えてなかったのだった。それじゃあまるでメガネを頭の上に乗せながらメガネを探している人みたいではないか。外国人観光客にも劣る基礎知識。なんだか見たのに見てないようなもどかしさが残った。鉄橋の方も歩けるはずなんだけど、回り込めば行けたのだろうか。
現在の皇居は、元々江戸城があった場所に当たる。これが意外と知られてないような気がする。徳川幕府の城があったところと天皇家の住居がつながらないからだろうか。天皇家といえば京都というイメージを持つ人も多いと思う。
もともと歴史的に見ると、天皇家は何度も住居を移している。平城京や平安京遷都がそうだ。単なる引っ越しではなく、都を移して一から作ってしまうという大がかりなものだった。平安京に移ってからは千年の長きにわたって京都御所が天皇家の住まいだったから(小さくは動いているけど)、今でも天皇家は京都にいると勘違いしてる人もいるかもしれない。ただ、昭和天皇までは京都御所で即位式が行われていた。
皇居が江戸に移ってきたのは、明治2年のことだ。その前の年、明治天皇が江戸にやって来て、名前を東京(東の京でとうけい)として、江戸城も東京城となり、翌年こちらへ移ってきたのだった。
当初住まいは、江戸城西の丸にあった。それが明治6年の火事で燃えてしまい、いったん仮住まいを赤坂離宮に移すことになった。明治12年にあらたな明治宮殿を造ることが決まり、明治21年に完成して再び戻ってきたという経緯もある。名称は、それまで皇城(こうじょう)だったのが、宮城(きゅうじょう)となる。しかし、明治宮殿も昭和20年の東京大空襲で燃え落ちてしまった。メリケン、恐ろしいことをするな。皇居と呼ばれるようになったのは戦後の昭和23年からで、現在の宮殿は昭和43年にできたものだ。
皇居の敷地内にある主な建物としては、天皇陛下の住まいの御所、執務室の表御座所、香淳皇后の住居の吹上大宮御所の他、桃華楽堂(音楽堂)、三の丸尚蔵館、宮中三殿、宮内庁庁舎、皇宮警察本部庁舎などがある。
皇居東御苑は、本丸、二の丸、三の丸あたりを公園として整備して、昭和43年から一般公開されている。見どころはなんといっても天守閣跡で、石垣などが残っている。有名な松の廊下や大奥などは場所を示す立て札があるくらいで、もう何も残っていない。
北側の北の丸公園は、日本武道館や千鳥ヶ淵などがあるので、こちらは都民にも馴染みが深いんじゃないだろうか。
江戸城の歴史は徳川家康からではなく、その前から始まっている。平安時代の末期に、秩父重継がこの地に居城を築いて、入江に臨むところという意味で江戸と名づけたのが始まりだ。自らも名前を江戸重継に変えたくらいだから、思い入れもあったのだろう。
その後室町時代まで続くも、江戸家が没落して江戸城は廃墟となる。この地に目を付けたのが築城名人と言われた太田道灌(どうかん)だ。ちなみに小学校2年生の担任だった土田先生(女)は私のことを太田道灌と呼んでいたけど、土田先生以外の人にそう呼ばれたことは一度としてない。
それはともかくとして、太田道灌が築いた江戸城はなかなか立派なもので、城下町も少しずつ発展していた。けれど、それがねたみを買ってしまったのか、太田道灌は主君の扇谷定正に殺されて江戸城を乗っ取られてしまう。ああ、かわいそうな、道灌さん。ただ、悪いことはできないもので、その扇谷家も北条家に攻め滅ぼされ、以降は徳川家康が江戸に来るまで北条氏のものとなる。
徳川家康が江戸に来たのは、好きこのんでではなかった。豊臣秀吉の時代、北条氏を滅亡させたことで褒美として秀吉にもらったのがきっかけだった。それでも、ここを首府にすると決めたのだから、何かここにした理由があったのだろう。地元の岡崎でもなく、京都でもなく、尾張でもなくここにした決め手は何だったのだろう。
江戸城が完成したのは三代将軍家光のときだ。大改築を始めてから40年近い歳月がかかっている。五層天守閣を持った日本最大の城は、大阪城や名古屋城より巨大だった。金のシャチホコだって名古屋城のものより巨大な金ピカが載っていた。もし焼け残っていたら、金鯱は名古屋ではなく東京のシンボルになっていたはずだ。これは譲ってもよかったなと名古屋人の私は思う。そして東京人の金鯱をおちょくりたかった。
しかしながら度重なる火事と関東大震災で大打撃を受け、最後は空襲がとどめを刺して、もはや江戸城の面影はほとんど残っていない。天守閣は、1657年の明暦の大火で燃え落ちて以来、ついに再建されることはなかった。1638年に完成して19年しかなかったことになる。
明治維新の頃の江戸城の写真を見ると、それはもう無惨なボロ城になり果てている。屋根瓦は割れ、壁のしっくいははがれ落ち、とても将軍様が住んでいるような住まいとは思えない。放っておいても、江戸幕府は財政難で勝手に崩れ落ちたかもしれない。天守閣を再建するような金はどうやってもひねり出せなかったに違いない。
明治維新ののち、江戸城は明治新政府に取り上げられた。このときも貴重な建造物が容赦なく取り壊されている。現在ある城っぽいもののほとんどは、新しく再建されたものばかりだ。
どんな思いを抱いて皇居を訪れればいいのか? 考えてみると、だだっ広いだけで何もないところだ。端から端まで歩こうと思ったら、2時間以上かかるだろう。その割に見どころは少ない。よほど江戸城に対して思い入れがある人や皇室ファンとかは別にして、観光として訪れたとき見るものとしては、二重橋と桜田門、天守閣跡くらいで、歩く距離を考えるとあまりおすすめできない気もする。あるいは、東京という地でこれだけ何もない広大な異空間があるという貴重さを楽しめばいいのか。東京の中心街でここほど空が広いところはなかなかない。
私の場合は、江戸城を見るんだという目的で訪れて肩すかしを食ったのだけど、珍しい騎馬隊も見られたし、江戸城周辺の空気に触れただけでもけっこう満足感はあった。なんとなく楽しかったし、行って良かったと思う。
もしかしたら東京らしくなさ、それがここの一番いいところと言えるかもしれない。
これで江戸城があったらなと思う。名古屋にも大阪にもあって、他にもたいてい県にひとつくらいは城というものがあるものだ。それが肝心要の東京にないというのは考えてみたらおかしな話だ。日本の中心に日本を象徴する城が存在しないなんて。せっかくこんな敷地が残ってるんだし、土台だってあるんだから、建てない手はない。皇居の敷地ということの遠慮があるという話だけど、それはなんとかなるんじゃないのか。
鉄筋コンクリートなら200億、木造でも400億で建つという。江戸城再建となれば全国から寄付が絶対に集まる。大阪城だって国民の寄付で建ったし、国民ひとり当たり100円でも120億円になる。東京オリンピックの開催費が8,000億というから、その20分の1で建つ。オリンピック効果は確かにあるけど、それよりも江戸城いこうよ、石原都知事。美しい国を目指すなら古き良き日本の江戸城でしょう、安倍首相。何度か検討段階までいったことがあったそうだし、「江戸城再建を目指す会」というのもあるそうだ、なんとか実現しないものだろうか。私も500円くらいなら出してもいい(それだけかよ)。
外国人が皇居へやって来て、巨大な江戸城を見たらどれだけ感動するか。国賓の人たちだってこれぞ日本だと喜ぶこと間違いなしだ。観光名所としても、どれくらい収入があるか見当もつかないくらいだし、東京観光のランドマークにきっとなる。
考えれば考えるほど江戸城が見たいぞ。安土城とともにぜひぜひ再建して欲しいと思う。全国の城野郎、城お嬢たちと共に天守閣跡地に行って、みんなで地面に転がりながら駄々をこねたい。作ってよ、作ってよ、作ってくれなきゃヤだヤだヤだ! 作ってくれるまでここを動かない! とか言いながら(何年間転がり続けなくてはいけないんだ?)。
「駄々をこねる会」発足の日は近い。ただいま参加者を募集してます。