月別:2006年12月

記事一覧
  • 今年最後は布池教会で反省なき締めくくりと来年への思い

     布池教会の中に入るのはその日が初めてだった。 重い扉を静かにそっと開いて、おそるおそる中をのぞき込む。大聖堂の内部は静まりかえり、木の椅子に腰を下ろしている人の姿が数人確認できた。どうやら入っても大丈夫そうだ。ちょっとおじゃまします。 名古屋市千種区にカトリック布池教会。高い二本の尖塔がそびえ、このあたりのランドマークになっている。 クリスマスイブの日曜午後、ミサを終えた礼拝堂は夜のクリスマスキ...

    2006/12/31

    教会(Church)

  • 名古屋人にとって近くて遠い名古屋城に少し近づけた 2006年12月29日(金)

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f4.0, 1/250s(絞り優先) 東京に住んでいる人が案外皇居へ行かないように、名古屋人も名古屋城へ行くことは意外にも少ない。名古屋生まれの名古屋育ちでも、名古屋城へ入ったことがないという人は大勢いる。どういうわけか、学校と名古屋城の関係が薄く、社会見学や遠足に名古屋城は入っていない。行くとしたら自分の意志で行くしかないわけで、城に興味がある人間が城に興味がない...

    2006/12/30

    名古屋(Nagoya)

  • ダビデ、ミケランジェロ、フィレンツェ、ビビデダビデブー 2006年12月28日(木)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/15s(絞り優先) イタリア村にあるダビデ像のレプリカ。真っ裸なのであえて遠くから撮ってみた。見るときは部屋を明るくして画面に近づきすぎないよう注意してください。 ダビデ像の作者は言わずと知れたミケランジェロ。英語読みすると、マイケルアンジョロとなってしまってちょっと間が抜けた感じになる、イタリアルのネサンス期を代表する芸術家だ。一般的に、レオナルド・ダ...

    2006/12/29

    人物(Person)

  • お金を使っても使わなくても楽しめるノリタケの森 2006年12月27日(水)

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f4.5, 1/250s(絞り優先) 名古屋駅からほど近い、西区則武町にノリタケの森という公園がある。名古屋が誇る世界の食器メーカー「ノリタケ」の工場があったところだ。ノリタケといってもとんねるずの小さい方ではない。なっつかしいですね。日本での知名度は意外と低いものの、海外ではマイセンやロイヤルコペンハーゲンなどと並び称されるほど評価の高い洋食器メーカーだ。名古屋人...

    2006/12/28

    名古屋(Nagoya)

  • イタリアシミュレーションとしてのイタリア村を堪能する 2006年12月26日(火)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.0, 1/13s(絞り優先) 名古屋人もめったに訪れない名古屋の外れの名古屋港。スターライトレビューと花火だけで帰るのはもったいない。そうだそうだ、もったいない、もったいない、と私の中の貧乏性が合唱を始めたので、それを黙らせる意味でもイタリア村に寄ることにした。 前々から一度行こうと思いつつ、混雑してるとか、入村料がかかるとかかからないとか、いろいろな情報に惑わさ...

    2006/12/27

    名古屋(Nagoya)

  • 初めて見る花火大会とカップル量に心臓を打たれたイブ 2006年12月25日(月)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/8s(絞り優先) 12月24日、午後6時すぎ。地下鉄名港線・名古屋港行の列車内は、カップルの巣窟と化していた。異常なほどのカップル率の高さだ。右を見ても左を見ても前も後ろもカップルだらけ。カップルにあらずんば人にあらず。おごれるカップルも久しからずの世界だ。 しかし驚くのはまだ早かった。終点の名古屋港駅で降り、階段を登って地上に出てみると、そこにはいまだかつ...

    2006/12/26

    花火(Fireworks)

  • イブ前イルミ・ネタで早寝アンド明日はお休み告知 2006年12月23日(土)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/50s(絞り優先) うちの近所にある「YOU&I 友愛玩具」の倉庫イルミネーション。写真で見ると微妙な感じだけど、実物はけっこうきれいなのだ。イルミネーションのきれいさは光が動いてこそってのがあるから、写真で伝えるのは難しい。わー、きれいだなと思って撮って、家に帰ってきてから見るとがっかりということが多い。その逆のパターンは経験したことがない。何か上手く撮る方...

    2006/12/23

    イルミネーション(Illumination)

  • 行けば分かる、行かなければ分からない屋久島の魅力 2006年12月22日(金)

    OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f4.5, 1/125s(絞り優先) 世の中にはどうしてこんなものがここにあるんだろうというものがたくさんある。東山植物園の縄文杉レプリカもそのひとつだ。唐突すぎるぞ。どうしてここにコンクリート作りの縄文杉レプリカを置く必要があったのだ? もしかすると、そこには深遠な理由があるのかもしれないし、ないのかもしれない。ただ単に園長の思いつきだったりする可能性もある。 それは入口か...

    2006/12/23

    花/植物(Flower/plant)

  • 自転車に乗って風になるためには尻の肉が必要だ 2006年12月21日(木)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/320s(絞り優先) 自転車屋の店先で大量に積み上げられた自転車を見ると、万景峰号(マンギョンボンゴウ)を思い出す。一体彼らはどこからあれだけの自転車をかき集めてきたのだろうという思うと、万景峰号が入ってこなくなったら放置自転車は増えるんだろうかなど、様々な思いが交錯する。その自転車は置いてあるのです、捨ててあるわけではないのです。 高校の3年間、私は自転...

    2006/12/22

    飛行機(Airplane)

  • 光と風と変化と---モネが見た睡蓮とぬっくん疑惑 2006年12月20日(水)

    Canon EOS Kiss Digital N+TAMRON SP 90mm(f2.8), f5.6, 1/100s(絞り優先) へー、冬でもスイレンって普通に咲くものなんだ。 ときどき自分で自分のお間抜けさにあきれることがあるけど、このときもそうだった。冬にスイレンが咲くかよ。どう考えても温水だろう。ぬくみずじゃないぞ、おんすい、だ。ああ、そうか、温水ね、だから冬でも外で咲けるんだね。 冬の東山植物園で、ひとりヤヌスの鏡の芝居をする私であった。 実際...

    2006/12/21

    人物(Person)

  • お地蔵さんは毎日がサンタクロース状態で駆け回る 2006年12月19日(火)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/6s(絞り優先) 子供の頃、クラスメイトにお地蔵さんというあだ名を付けたり付けられたりした記憶がある人も多いと思う。しかし、私たちは意外なことにお地蔵さんについて知ってるようで知らない。呼び名からして親しみは感じてるものの、それが侮りとまではいかなくても少し軽く見てしまっているところがある。けれど本当のお地蔵さんというのは、実はとっても偉い神様なのだ。...

    2006/12/20

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 生きている水晶を生かすも殺すも身につけた本人次第 2006年12月18日(月)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/100s(絞り優先) 宝石にも金銀財宝にもまったく無縁の人生を送ってきた私が、最近水晶をつけている。水晶をのぞいているのではない。突然路上でそんな商売を始めたとかそういうことではなくて、魔よけのお守りとしてつけているという意味だ。腕が白すぎるだろう、おまえはウッチャンか、などという野次はこの際無視して、こんな感じで腕に巻いている。腕時計さえ何年もしていな...

    2006/12/19

    物(Objet)

  • 2006年最後のサンデー料理はオール電子レンジ 2006年12月17日(日)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f3.2, 1/30s(絞り優先) 2006年のサンデーも今日を入れて残り3回となった。カレンダーを見てみると、来週はクリスマスイブでその次は大晦日だ。ということは、今年のサンデー料理は今日が最後ということになる。先週は東京帰りの後遺症で初めて穴を開けてしまったけど、それまでは毎週欠かさずサンデー料理を作った。日曜日にどんだけヒマなんだというツッコミをかわしつつ、一年間休ま...

    2006/12/18

    料理(Cooking)

  • キンクロハジロの多さに驚き、東京のカモの豊かさを知る 2006年12月16日(土)

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/125s(絞り優先) 東京の見物の途中で少しだけ鳥の人となることがあった。上野公園の不忍池と皇居の外堀で。最初に行ったのが皇居の方で、堀を眺めていたらいきなりキンクロハジロがぐんぐんこちらに迫ってきて驚く。一羽ではなくみんな一斉に。なんだ、なんだ? キンクロハジロ自体、名古屋ではめったに見かけないのに、まさか東京にたくさんのキンクロがいて、しかも逃げ...

    2006/12/17

    野鳥(Wild bird)

  • 東京日和ツアー最終章---増上寺のゆるい感じ 2006年12月15日(金)

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.0, 1/20s(絞り優先) 芝の増上寺(ぞうじょうじ)へ行こうと思った。なんでだと自分に訊ねてみた。なんでだろう? なんでだろう~、なんでだろう~、なんでだなんでだろう~♪ 古っ! 増上寺がどんな寺で、何を見たいのかよく分からないまま、なんとなく行ってしまった私は、門をくぐった境内で、あまりの空気の薄さに戸惑うことになる。なんだこの気の抜けた感じは。何にたと...

    2006/12/16

    東京(Tokyo)

  • 泉岳寺訪問と赤穂事件に関する個人的総まとめ 2006年12月14日(木)

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.0, 1/50s(絞り優先) 今日12月14日は赤穂浪士討ち入りの日だ。その日付は旧暦で新暦に直したら1月30日ではないかという意見はもっともだし、より正確に言えば15日未明なのだけど、一応12月14日は討ち入りの日だということになっているからそういうことにしておこう。泉岳寺での赤穂義士祭も、毎年12月14日に行われている。 ときは元禄15年、1703年だから江戸時代が始まって100...

    2006/12/15

    東京(Tokyo)

  • 皇居まで行くも江戸城に近づけず二重橋を見て見えず 2006年12月13日(水)

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.0, 1/250s(絞り優先) 皇居をプラプラ歩いていると、突然、坂下門がぎぎぎぃと開いて、馬が出てきた。えええ!? と驚きつつ、あわてて望遠レンズで隠し撮りしたのがこの一枚。果たしてカメラを向けていいものなのかどうか分からず、完全な及び腰の私。いざとなったら、そのままザリガニのように後ろ向きのまま後退する心の準備を整えた。 しばらく遠巻きに眺めていると、どう...

    2006/12/14

    東京(Tokyo)

  • 西郷どん、本当にこの銅像でよかですか? 2006年12月12日(火)

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/60s(絞り優先) 上野の西郷どんの背中に乗って待ってます。もしあなたがそんな待ち合わせの約束を交わしてしまったとしたら、それは空約束に終わる可能性が高い。実際に見る西郷隆盛像は思いのほか大きかった。まず土台をよじ登ることの困難さが予想される。たとえ足もとまで登れたとしても、そこから背中を登って肩に手をかけるのはかなり難しそうだった。犬のツンを踏み...

    2006/12/13

    東京(Tokyo)

  • 体に馴染む上野の空気と驚きの不忍池 2006年12月11日(月)

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/200s(絞り優先) 上野駅の前に降り立ってすぐ、あ、上野、と思う。それまで歩いてきた東京都とは明らかに違う空気感に満たされているのを感じて、なるほど上野ってそういうことかといっぺんに納得した。雑然とした街並みも、歩いている人たちも、商店街の雰囲気も、良い意味で田舎っぽくて体に馴染む。名古屋でいえば、大須から上前津あたりにちょっと似ている。 ちょっと...

    2006/12/12

    東京(Tokyo)

  • 超えなければならない東京駅の声はいまだ聞こえず 2006年12月10日(日)

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.0, 1/125s(絞り優先) 皇居の外から遠くに見る東京駅は、何本もの高いビルに囲まれて、ちょっと居心地が悪そうだ。それはまるで歴史と伝統の意地だけで自分は押し潰されないぞと頑張ってる老舗の店みたいでもある。 東京駅……。その言葉を聞くと、なんとなく立ち止まらずにはいられないような気持ちになる。東京駅に対して私は何を思えばいいんだろうと考えたりもする。名古屋の...

    2006/12/11

    東京(Tokyo)

  • 神宮外苑のイチョウ並木を初めて見た日のことを忘れない 2006年12月9日(土)

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f4.5, 1/13s(絞り優先) 青山一丁目のHondaウェルカムプラザを横目で見つつ青山通りを少し進むと、その黄色は突然目の前に現れる。 神宮外苑イチョウ並木。秋の東京を代表する風景であり、地方の人間にとってはドラマなどでよく目にする憧れの地だ。 朝の7時すぎ、東京の街はとっくに活動を始めてはいても、ここに観光客の姿はまだほとんど見られない。 イチョウ並木の入口に立...

    2006/12/10

    東京(Tokyo)

  • 軽装備で行こう、東京見物 2006年12月7日(木)

    OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f4.3, 0.4s(絞り優先) 東京行きの荷物はたったこれだけ。大丈夫なのか、私? バスで一泊といえども、合計すれば2泊2日? 2泊3日? になるというのに。たぶん、現地で何らかの困った状況が発生するのだろうけど、それはそれ。言葉の通じない外国でもあるまいし、なんとかなるだろう。まさか、名古屋弁が通じないというとはないだろうな。今でらえらいでこの机ちょおつってくれ、とか言わな...

    2006/12/07

    室内(Room)

  • 温室育ちでも箱入り娘でも深窓の令嬢でもいいじゃない 2006年12月6日(水)

    Canon EOS Kiss Digital N+TAMRON SP 90mm(f2.8), f2.8, 1/20s(絞り優先) 温室育ちは是か非かというテーマが自分の中にある。箱入り娘というと悪いイメージはないのに、温室育ちというとなんだか印象が悪い。箱入り娘は冷やかすときに使うくらいなのに対して、温室育ちというとほとんど悪口に近い。温室で育てられたように大事に育てられた子供は本当に駄目になってしまうものなのだろうか。逆に厳しくしつけられれば立派な大人...

    2006/12/07

    花/植物(Flower/plant)

  • 紅葉と寺ネタのラストは三日遅れの浄源寺 2006年12月5日(火)

    OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.0, 1/8s(絞り優先) 三日遅れの浄源寺。土曜日に行ったという人の写真がびっくりするほどきれいだったので、なんとか間に合ってくれという願いを込めて火曜日の今日行ってみたけど遅かった。もう遅いのや。三日遅れの浄源寺は、あ、あ、あ、あ~あ、あ、あ~、すすり泣き~。 落葉が始まってからの三日間というのはいかにも長かった。特にここへきて一気に冷え込んだことで、紅葉は駆け足...

    2006/12/06

    紅葉(Autumn leaves)

  • 盗難除けの雲興寺にお願いして泥棒から身を守ろう

     ここは瀬戸の雲興寺(うんこうじ)。一般的な知名度はあまり高くないかもしれない。ただ、愛知県や近郊でウォーキングや低山ハイクをしてる人たちには馴染みのある場所だと思う。境内が東海自然歩道の一部になっていて、ここから東に行けば猿投山(さなげやま)、西に行けば岩屋堂、岩巣山と、ハイキング・コースの中間地点のようになっている。ここを待ち合わせ場所や出発点としてる人もいるだろう。駐車場が広くて、とめるとこ...

    2006/12/05

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • カタカナだらけのサンデー料理大会 2006年12月3日(日)

    Canon EOS Kiss Digital N+EF 50mm(f1.8), f3.2, 1/13s(絞り優先) 今日のサンデー料理は、見た目ノーマル、中身小さくツイスト、コンパクトなスイングで右中間突破のツーベース、といった感じに仕上がった。味はパーフェクトやノーヒットノーランとまでは言えないものの、自責点2で完投勝利、ヒーローインタビューでは調子はまずまずでしたと答えられるくらいの出来ではあった。グッジョブ。 ここまでの文章を読んで、やけにカ...

    2006/12/04

    料理(Cooking)

  • 千手観音に千の願い事をできる人間になるために 2006年12月2日(土)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/15s(絞り優先) 犬山の寂光院で参拝してふと顔を上げると、本堂の扉が開いていて千手観音さんと目があった。あ、どうもこんにちは。お元気ですか? こっちは元気です。と、当たり障りのない挨拶をしつつ、ものすごいきらびやかさに圧倒された。派手だなぁこれ、と思う。そういえばここの扉が開いてるのは初めてだ。せっかくなので記念写真を一枚撮らせてもらった。ちょっと失礼...

    2006/12/03

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 紅葉終盤の犬山寂光院で出会ったいいシーン2つ 2006年12月1日(金)

    OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f4.0, 1/5s(絞り優先) 寂光院(じゃっこういん)といえば、京都大原を思い浮かべる人が多いだろうけど、愛知県民の中には犬山の寂光院が浮かぶ人もけっこういると思う。メイダイっていえば明治大学じゃなく名古屋大学に決まっとるがや、というほどでもないにしても。 今年の紅葉名所巡りの最後はここと決めていた。通称「もみじ寺」と呼ばれる犬山寂光院は、毎年多くの紅葉見物客で賑わいを...

    2006/12/02

    紅葉(Autumn leaves)

  • 秋にも冬にも桜が咲くなんてのはそんなの常識 2006年11月30日(木)

    Canon EOS Kiss Digital N+TAMRON SP 90mm(f2.8), f2.8, 1/60s(絞り優先) 桜は春に咲くもの。そんなの常識。タッタタラリラ、ピーヒャラ、ピーヒャラ、パッパパラパ。しかし、碇ゲンドウが言ったように、「何事にもイレギュラーは存在する」。桜とて例外ではない。 秋に咲く桜があり、冬に咲く桜がある。しかも、狂って咲いているわけではない、毎年その時期に好きこのんで桜があるのだ。 寒い時期に咲く桜の代表としては、「...

    2006/12/01

    桜(Cherry Blossoms)

今年最後は布池教会で反省なき締めくくりと来年への思い

教会(Church)
大聖堂内部




 布池教会の中に入るのはその日が初めてだった。
 重い扉を静かにそっと開いて、おそるおそる中をのぞき込む。大聖堂の内部は静まりかえり、木の椅子に腰を下ろしている人の姿が数人確認できた。どうやら入っても大丈夫そうだ。ちょっとおじゃまします。

 名古屋市千種区にカトリック布池教会。高い二本の尖塔がそびえ、このあたりのランドマークになっている。
 クリスマスイブの日曜午後、ミサを終えた礼拝堂は夜のクリスマスキャンドルまでの間、しばしの休息に入っていたらしい。私たちも椅子に座ってしばらくの間、そこで過ごすことにした。クリスチャンでも仏教徒でもないけれど、教会は無神論者も受け入れてくれるところだ。
 見上げるとアーチ型を描く天井がとても高い。正面上部にはイエス・キリスト十字架のステンドグラスがはめられ、光を通して鮮やかな色彩を放っている。振り向くと二階には大きなパイプオルガンがあるのが見える。以前どこかで、その音色を聞いたことがある。それは遠い記憶を呼び覚ますような懐かしい音だった。
 大聖堂の中の空気感をどう表現すればいいだろう。神聖という言葉は逆に安っぽく、厳かというほど重たく暗いものではない。ひんやりしているけど暖かくて、硬質だけど堅苦しくはない。濃密な空気に全身が包まれて守られているような安心感を覚える。思った以上にここは居心地がいいなと思った。一度坐ったらもう動き出せないような気さえしてくる。たった壁一枚でこれだけの空気を閉じこめることができるのはどういうことだろう。外界とは明らかに異質の空気が支配する、まさにここは異空間だ。
 ひとつには人間の善良な部分で成立しているということがあるだろう。悪い人間はほとんど入ってこない場所だし、少しくらいの悪い想念もここでは簡単に浄化されてしまう。あるいは、祈りの念が空気に重みを与えているのだろうか。
 大聖堂というのは、他のどの場所の空気感にも似ていない特別なところだ。特に布池教会はそれが色濃いように思う。ここを訪れて心地いいと感じれば、それは善良な側に属している証拠と言っていいのではないか。人が人を選ぶように、場所もまた人を選ぶ。



布池教会外観

 5階建ての鐘楼は地上50メートル。遠くからでも2本のとんがりがよく目立つ。東区の自慢のひとつだ。名古屋市の都市景観重要建築物にもなっている。
 ゴシック様式の建物は鉄骨鉄筋コンクリート造で、1962年(昭和37年)に建てられた。聖ペトロ・聖パウロ司教座教会とも呼ばれるカトリックの教会だ。
 司教座聖堂はカテドラル(Cathedral=大聖堂)とも呼ばれ、カトリック教会の中心を意味している。この布池教会は愛知、岐阜、石川、富山、福井県の名古屋教区の中心となっている。司教座のことをカテドラともいうので、なんとなくややこしい。
 日本のカトリック教会は16の教区があって、東京、大阪、長崎の三つの教会管区に分けられる。一般人は覚える必要のない知識だけど、自分の住んでる街のカテドラルくらいは知っておいてもいいかもしれない。
 場所は、東区の桜通と錦通に挟まれたやや奥まったところにある。最寄り駅は、地下鉄東山線の新栄町駅か、地下鉄桜通線の車道駅で、それぞれ歩いて10分くらいだろう。高い尖塔を探しながら行けば見つかると思う。車の場合は、道一本隔てた東側に小さな無料駐車場がある。



布池教会前の人々

 教会前の人々。若いカップル、写真を撮る人、塔を見上げる人、結婚式の説明を受ける二人。ここは名古屋で一番大規模なカトリック教会結婚式を挙げることができるところでもある。最大参列者数は700人だとか。それだけいっぱいにするには芸能人か財界人でもないと難しいかもしれない。
 平日20名で54万円というのか高いのか安いのか、私にはまったく見当がつかない。これがどこまでのコースなのかもよく分からない。もしかしたら、披露宴まで含めての金額なのだろうか。結婚式の終わりには白い鳩が飛ぶらしいから、鳩代ってことも考えられる。その鳩たちはちゃんと小屋に戻ってくるんだろうかなんてことが気になったりならなかったり。
 値段はともかく、本物の教会で結婚式を挙げたいカップルには断然おすすめできる。結婚式場の教会とは全然違うはずだ。もう少し規模が小さくてもいいなら南山教会もあるけど、名古屋で一番といえばやはりここだ。神前で名古屋一となると熱田神宮会館ということになるのだろう。
 日本の場合はカトリック教徒でなくても教会で結婚式はできる。ただ、結婚準備講座というものに参加しなくてはならないようだ。

 大聖堂の中で30分ほど過ごしていたら、少し人が増えてきてザワザワしだした。夕方からのクリスマスキャンドルの準備も始まったので、おいとますることにした。非日常的空間から日常へ。扉を開けた向こうには、いつものざわついた街の音がして、私たちは一瞬にして夢から覚めた。けど、やはり私たちが生きるのはこちら側だ。あちら側ではない。教会はたまに行くくらいがちょうどいい。一年に一度とかそれくらで。あちらが日常空間になってしまったら、ありがたみがなくなってしまう。
 今年最後の絶好の懺悔の機会だったけど、意外にも何も思うところはなかった。あの空間に身を置いただけで充分と思ってしまったところがある。反省するのはもう少しあとにしよう。今日が終わればまたすぐに次の年が始まる。
 今年一年、どうもありがとう。来年もよろしく。さよなら2006年、こんにちは2007年。
 
【アクセス】
 ・地下鉄東山線「新栄駅」下車。徒歩約8分。
 ・地下鉄鶴舞線「車道駅」下車。徒歩約10分。
 ・JR中央本線「千種駅」下車。徒歩約15分。

 ・無料駐車場 少数あり
 

名古屋人にとって近くて遠い名古屋城に少し近づけた 2006年12月29日(金)

名古屋(Nagoya)
名古屋城小天守大天守

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f4.0, 1/250s(絞り優先)



 東京に住んでいる人が案外皇居へ行かないように、名古屋人も名古屋城へ行くことは意外にも少ない。名古屋生まれの名古屋育ちでも、名古屋城へ入ったことがないという人は大勢いる。どういうわけか、学校と名古屋城の関係が薄く、社会見学や遠足に名古屋城は入っていない。行くとしたら自分の意志で行くしかないわけで、城に興味がある人間が城に興味がない人間よりも圧倒的に少ないのはもちろん名古屋も同じことだ。近くて遠い名古屋城、それが名古屋人と名古屋の関係なのだ。
 よそから名古屋に遊びに来た人を迎えるとき、名古屋人は張り切って名古屋城へ行こうと誘う。それは名古屋城が大好きだからではなく、実は名古屋城へ行ったことがないからという場合が多い。そんな機会でもなければ行くことがないからここぞとばかりに名古屋城へ行こうとする。名古屋城へ入ると、ゲストよりも案内するはずの名古屋人の方が喜んではしゃいでしまうのはそういう事情があるのだ。もちろん、私とて例外ではない。物心ついて以来、初めて入る名古屋城に感激しっぱなしの私なのであった。

 関ヶ原の合戦に勝利して江戸に幕府を開いた徳川家康は、大阪城に健在の豊臣家に対する備えとして、尾張に城を築くことを決めた。首府だった清洲から、織田信長の生まれた地である那古野(名古屋)に城を作り替えたのは、清洲では大きな城を築くには狭すぎたからだった。名古屋台地は熱田の港にも近く、わき水が豊富で、広い土地がある。地理的にも申し分ないということでこの地に決められた。
 関ヶ原から10年後の1610年、名古屋城の築城が始まる。担当するのは関ヶ原の合戦で負けて、のちに家康についた、いわゆる西軍の外様大名たちだった。家康は口だけ出して金は一切出さない。費用はすべて指名された加藤清正、福島正則、前田利光、黒田長政らの二十大名たちがまかなうことになった。家康に対する忠誠心を試すことと、金を使わせて勢力を弱めるということを目的としていた。大阪城に対する備えというのは名目でしかなかった。
 これは大変な大工事であり、莫大な費用を必要とするものだった。特に福島正則などは泣きが入りっぱなしで、もう国に帰ると散々駄々をこねて、しまいには加藤清正に叱られている。そんなにイヤなら帰って謀反でも起こせ、と。ひとり加藤清正だけは努めて明るく振る舞って元気いっぱいに作業していたという。しかし、昨日まで戦をしていた面々が今日からは突然現場監督になるというのも不思議な話だ。戦の合間に日夜築城の勉強をしていたのだろうか。
 掘りは掘り割りの名人と呼ばれた福島正則が担当し、一番大変な天守台は普請奉行にも任命された加藤清正が自ら進んで買って出た。作事奉行に小堀遠州、大工頭に中井大和守正清、施工は岡部又右衛門など、各担当が決められ、昼夜を問わずの突貫工事で、わずか8ヶ月で完成したのだった。
 特に大変だったのが石垣の石だ。巨大な石を各地でかき集めて、苦労して運んできた。大きなものは、地車に乗せて数百人の人夫が引っ張ったという。石垣の石には各大名の目印が彫り込まれている。記念になどという軽い気持ちではなく、苦心の証としてそれくらいでもしなければ気が済まなかったのだろう。
 天守台の石垣は、清正流三日月石垣と呼ばれ、熊本城と並んで石垣の傑作と言われている。切り立った断面と曲線のコントラストがとても美しい。清正は石垣を作り終えたのち、燃え尽きるように死んだ。
 1612年、3年の歳月をかけて名古屋城は完成した。同時に、家康の九男・徳川義直が初代尾張藩主として名古屋城に入る。家康も老体をおして名古屋を訪れ、天守閣からの眺めに満足したという。それで安心したのか、翌年75歳で人生を終えた。
 以後徳川御三家筆頭61万石の尾張藩主の居城として、17代、明治維新まで歴史を刻むことになる。

名古屋城大天守

 大天守と小天守が連結した形は、江戸時代初期の代表的な城郭のスタイルとなっている。大天守は地下一階、地上五層五階で、19.5メートルの石垣の上に高さ36.1メートル、あわせて55.6メートルの高さを誇る。当時としては超高層建築だから、尾張中どこからでも見えたに違いない。床面積では江戸城や大阪城よりも広い。まさに偉容という言葉がぴったりの城だ。大阪城、熊本城と並んで三名城と呼ばれている。
 小天守は、地下一階、地上二層二階で、大天守への関門の役割を持っていた。ここを通らないと大天守には行けない。
 屋根には徳川家の威光を示す意味で金鯱を乗せた。金鯱についてはいずれあらためて書きたいと思っている。いろいろと面白いエピソードがあるから。

 明治になったとき、名古屋城は一度取り壊しの話が出た。新しい世の中に旧時代の象徴である城はいらないだろうということで。しかし、中村重遠大佐がこの危機を救った。要塞としても価値があるということでなんとか山県有朋を説得して保存されることになった。中村大佐は同じように姫路城も救っている。城マニアは中村大佐に感謝しないといけない。
 火事にもならず、地震にも耐えた。マグニチュード8.0の濃尾地震でも倒れなかった。名古屋城は永久に不滅ですと思われたが、B-29の焼夷弾には勝てなかった。終戦の年の昭和20年、名古屋城の天守閣や本丸御殿は一日で焼け落ちた。金鯱を疎開させるために組んでいた足場に焼夷弾が引っかかったのが完全に焼け落ちた要因となってしまった。国宝だった天守閣も、本丸御殿も、姫路城を質量ともに上回っていた数々の国宝も焼け、金鯱も溶けた。あとには石垣だけが残った。
 江戸城もそうだけど、あと一年早く終戦を迎えていたら、どれだけたくさんの歴史的見物が残っただろうと思うと本当に残念でならない。
 終戦から10年以上の間、名古屋には城がなかった。ようやく再建の話が出たのが昭和32年(1957年)のことだ。名古屋市制70周年記念事業として話が決まった。木造でという強い願いは通らず、鉄筋コンクリート造りとなった。完成は昭和34年のことだ。金鯱も同時に復元された。ただし、純金など夢のまた夢で、今のものは18金のメッキにすぎない。大学から金城に行ったようなものだ(名古屋人にしか分からないたとえ)。
 現在の大天守閣は地下一階、地上七階建てで、5階までが展示室、一番上が展望台になっている。
 2010年には、名古屋城築城開始400年にあたるということで、本丸御殿の復元が決まっている。私もささやかながら寄付をしてきた。完成したら壁の1センチ四方くらいは私のものと言えるだろう。

名古屋城下

 かつての名古屋城下の様子はこんなふうだった。今と違ってビルを建てられないから、広い敷地が必要となる。ただやっぱり町並みとして美しいなと思う。日本の町風景としてとても正しい感じがする。
 これを見ながら名古屋城を攻めるとしたらどうするかと考えてみる。平城とはいえ、北と西の堀は深くて、東はとっかかりがないから、南の一ヶ所しかない。けど、これは相当難しい気がする。大軍ではなだれ込めないし、少数精鋭でいくにしても名古屋城自体かなり防御態勢が整えられているので難しそうだ。四隅には櫓の備えもある。たとえ天守まで行けたとして、入口は小天守の一ヶ所のみ。上からは鉄砲の弾や弓矢が飛んでくるし、石垣は美しい曲線を描いていて登りづらい。張り付いていると上から石や熱湯が降ってくる。
 作った本人の家康なら、どうやってこの城を落とそうとするだろう。豊臣秀吉なら落とせるのだろうか。

 名古屋城に関するちょっとしたエピソードを二つ紹介しよう。
 ひとつは、お堀電車だ。明治から昭和にかけて、外堀の中を電車が走っていたというのを知っているだろうか。昔から名古屋に住んでいた人にはお馴染みかもしれないけど、よその人はたぶん驚くと思う。空堀の底に電車を走らせるなんて誰が思いついたのだろう。これもある意味お城を大事にする名古屋人的発想と言えるのだろうか。
 もうひとつは、名古屋城埋蔵金についてだ。江戸城の消えた徳川埋蔵金は有名だが、名古屋城にも似たような話がある。大阪の豊臣家が滅亡したときにぶんどった金を家康は徳川御三家に分配している。いざというときのための軍資金として。尾張藩も晩年は金鯱を質の悪いものと交換して赤字の穴埋めをしたりしてはいるものの、家康から預かった金をそう簡単に使ったとも考えられない。それは地下に隠してあったというのだ。しかし、明治維新のあと、調べてみると大判一枚も見つからなかったという。尾張藩の黄金はどこへ消えたのか。ここはひとつ、糸井重里に再登場してもらうしかあるまい。ヘルメット姿の糸井重里をもう一度見たいぞ。

 伊勢音頭にいう、「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」は、名古屋人にとって少しこそばゆいような耳障りの言葉だ。確かにお城は誇れるかもしれないけど、それしかないみたいな言われようだな、と。事実そうなのだからよけい卑屈な気持ちになりがちだ。ただそれも、名古屋城が国宝だった戦前までと再建された今ではずいぶん意識が違っている。今の若い名古屋人で名古屋城を自慢に思ってる人間はほとんどいない。最初に書いたように入ったことがない人も多いくらいなのだから。
 それでは、名古屋人にとって名古屋城というのはどういう存在なのだと訊かれると、少し返事に困る。愛憎というほど思い入れは深くなく、嬉し恥ずかしというほど嬉しくも恥ずかしくもない。じゃあ嫌いなのかと問われるとそうではない。だったら好きなんだねと念を押されると、ちょっと待ってくれと言いたくなる。とりあえずそこにあれば安心でなくなると困るもの、といった感じだろうか。
 今回、ほとんど初めての名古屋城行きはとても満足度の高いものとなった。ほー、こんなふうになっていたのかと初めて知ることも多かった。外から眺めているだけでは分からないこともいろいろあった。名古屋城、いいじゃん。うん、ホント、悪くない。
 本丸御殿が完成して、桜が咲いた頃、もう一度名古屋城へ行こうと思った。それは小さな約束でもあった。

ダビデ、ミケランジェロ、フィレンツェ、ビビデダビデブー 2006年12月28日(木)

人物(Person)
ダビデ像

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/15s(絞り優先)



 イタリア村にあるダビデ像のレプリカ。真っ裸なのであえて遠くから撮ってみた。見るときは部屋を明るくして画面に近づきすぎないよう注意してください。
 ダビデ像の作者は言わずと知れたミケランジェロ。英語読みすると、マイケルアンジョロとなってしまってちょっと間が抜けた感じになる、イタリアルのネサンス期を代表する芸術家だ。一般的に、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロと並んで三大巨匠と呼ばれている。個人的には断然レオナルド・ダ・ヴィンチ派なので、対立するマイケル君は必然的に敵方ということになる。セナを応援していたときのプロストのような存在とでも言おうか。決して嫌いとかそういうことではない。
 ミケランジェロやダ・ヴィンチというと、巨匠ということで老年のイメージが強いかもしれない。けど、当然二人にも若くて血気盛んだった時期があった。特にミケランジェロは時々ラテンの血が騒ぐ人間だったようで、若い頃にケンカをしてぶん殴られて鼻が曲がってしまったというエピソードがある。
 ダビデ像も、1504年、ミケランジェロが26歳のときにフィレンツェ政府から依頼されて作ったものだ。若き天才、そんな言葉がミケランジェロにはよく似合う。この頃すでに老齢にさしかかっていたダ・ヴィンチがこの才能に嫉妬したのも無理はない。口では酷評しながら、こっそりこの像のスケッチをしたりしている。
 4年の歳月を費やして作られたダヴィデ像は、434センチという巨大なものとなった。足もとに立って見上げるとその大きさを実感する。頭が大きいのは、下から見たときにバランスが良いためなんだとか。
 ミケランジェロの彫り方は人とは違っている。通常はまず大まかに形を掘り出して、それから細部を仕上げていくのに対して、いきなり一番出っ張っている部分から細かく掘っていくというやり方をした。その行程を見ていると、まるで大きな石の中から完成した像が掘り出されていくようだったという。ミケランジェロは言う。石をじっと観察していると、石がこう彫ってくれと語りかけてくるような気がする、と。頭の中から完成している音楽を取り出して書き間違えることなく楽譜に書き付けていったモーツァルトと同じタイプの天才だったようだ。習字で何も考えず書き始めたらスペースが足りなくなって最後の文字がちっちゃくなってしまう凡人とは違うのだ。
 出来上がった像をどこに置くかでひと悶着あった。ミケランジェロとしては最初から外に置くことをイメージして作っていたので、シニョリーア広場に置くと言ってきかない。対して設置委員会のひとりだったダ・ヴィンチは、貴重なものだから美術館の中に設置すべきだと主張した。この二人、たいてい子供のケンカのようになる。結局は制作者であったミケランジェロの意見が通って外に置くことになるのだが、雨風に晒されたり暴徒に腕を砕かれたりして痛みが激しくなったので、19世紀になってアカデミア美術館を作ってそこに置かれることとなった。現在、シニョリーア広場にあるものはレプリカだ。仏作って魂入れず。コピーがどれだけ精巧だとしても、本物とはまったくの別物だ。もちろん、イタリア村のものも感じるものはない。
 ダビデ像はミケランジェロの他にも、ドナテルロとヴェロッキオが作ったものが残っている。それらはかなりイメージが違う。そもそもハダカじゃなく服を着てるし。ミケランジェロはとにかくハダカ好きで、絵も必要以上にハダカを描いていたりする。
 ダビデというのは、紀元前1,000年頃の古代イスラエルの2代目王とされている人物で、全イスラエルを統一した国王だ。王の規範ともされていて、救世主(メシア)はダビデの系統から生まれるとされ、イエス・キリストもダビデの子孫ということになっている。ミケランジェロのダビデ像は、ゴリアテ軍との対決のときの様子を彫ったものだ。だから考えてみるとハダカというのはすごく不自然だ。決戦の前だったか後だったかの論議があったりしつつ。
 ユダヤ教の象徴であり、イスラエル国旗にも入っている六芒星(ヘキサグラム)のマークは、ダビデの星と呼ばれている。

 1475年3月6日、ミケランジェロ・ブオナローティは、トスカーナ地方のカプレーゼ村で次男坊として生まれた。父親はフィレンツェ政府から村に派遣された役人だった。
 母親が病弱だったため、1歳で石工の家に預けられることになる(母親は6歳のときに亡くなる)。小さい頃から絵を描くのが好きで、学校では勉強もせずにいつも何かを描いていたそうだ。
 13歳のとき、父親の反対を押し切って美術の道に進むために工房に入った。すぐに才能を認められ、当時フィレンツェを支配していたメディチ家に呼ばれ、屋敷に住むことになる。
 そから先は、89歳で死ぬまで、常に芸術と共にあった。いろいろなことがあって、苦労もしただろうし、時代も移り変わっていたけど、ミケランジェロの一生は幸せなものだったと思う。いつも誰かに乞われ、注文を受けて仕事をする人生だった。何もかもひとりでやらないと気が済まないという性格が孤独に追い込んだとしても、才能を認められ、好きなことを一生続けることができた人生に文句を言ったら罰が当たる。ダ・ヴィンチは67歳で死に、ラファエロは37歳で死に、ミケランジェロは生き残った。
 絵画としては、天井画の「最後の審判」や「アダムの創造」などのフラスコ画を残している。ただ、本人はあくまでも彫刻家という自覚があったようだ。絵画と彫刻とどっちが上かというダ・ヴィンチとの論争でも彫刻こそが芸術の頂点だと言っている。ダ・ヴィンチ程度の絵ならうちの使用人でももっと上手く描けるとも。
 その他、サン・ロレンツォ教会図書館、サン・ピエトロ大聖堂、ファルネーゼ宮増築の建築家でもあった。彫刻としては、死んだイエスを抱きかかえながら嘆くマリアの像「ピエタ」をいくつも彫っている。

 ミケランジェロ広場に立つと、フィレンツェの市街地を一望することができるという。そこからは、サンタ・マリア・デル・フィオーレも見えるはずだ。フィレンツェのドゥオーモは恋人たちのドゥオーモ。そう、映画『冷静と情熱のあいだ』に出てきたあのドゥオーモのクーポラだ。つきあい始めて間もなかった大学生の順正とあおいは、10年後のあおいの誕生日にクーポラで再会を約束する。その後二人は別れ、そして10年の歳月が流れる。私は誰が何を言おうとあの映画が大好きだ。あの作品に関しては個人的な思い入れが強すぎて、あまり人と話したくないくらいに。
 もし、自分の命が残り3日だと分かったら、私はきっとあそこへ行くだろう。ドゥオーモのクーポラから見下ろす夕暮れ時のフィレンツェの街並みは、最後に目に焼き付ける景色にふさわしい。できることなら愛する人と、462段の階段を自力で上れるくらい元気な間に、ケリー・チャン似の人なんて贅沢は言わないから、竹野内豊気分で行きたい。
 いや待て、考えたら何も死ぬ3日前じゃなくてもいいではないか、なんなら明日だっていい。そうなんだ、それは言える。それじゃあ、まずは格安チケットと宿を探さねばなるまい。デジとレンズは何を持っていこうか。って、そうなると、とたんにロマンチックじゃなくなくなるからイヤだ。やっぱりフィレンツェのドゥオーモは死ぬ前に限る。あの世からのお迎えは3日前に知らせてもらえるようお願いしたい。

お金を使っても使わなくても楽しめるノリタケの森 2006年12月27日(水)

名古屋(Nagoya)
ノリタケの森煙突

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f4.5, 1/250s(絞り優先)



 名古屋駅からほど近い、西区則武町にノリタケの森という公園がある。名古屋が誇る世界の食器メーカー「ノリタケ」の工場があったところだ。ノリタケといってもとんねるずの小さい方ではない。なっつかしいですね。日本での知名度は意外と低いものの、海外ではマイセンやロイヤルコペンハーゲンなどと並び称されるほど評価の高い洋食器メーカーだ。名古屋人の宣伝も足りない。名古屋といえばノリタケでしょうと反射的に口にするようではないといけない。名古屋といえば世界の山ちゃんとかそういうことではないのだ。
 1904年(明治37年)、愛知郡鷹場村則武(現在の名古屋市中村区)に、日本陶器合名会社という名前の会社として誕生した。のちの社名ノリタケというのは創業地の名前で、社長の名前とかではなかったのだ(知らなかった)。工場はここ西区にあった。
 1975年に工場が移転したあと、長らくこの地は遊んでいた。名古屋駅から徒歩15分という距離の4.8haを放置しておくあたりにノリタケの余裕を感じさせる。てか、もう少し早く有効利用に気づこうよと思う。遅ればせながら、2004年の創立100周年に向けて、この場所をなんとかしようということになり、最終的には歴史を伝える公園として生まれ変わることとなった。開館は前倒しで2001年の10月だった。合い言葉は、次の100年に向けて、というものだそうだ。
 中に入ると赤レンガ造りの建物と、6本の煙突モニュメントがまず目に入ってくる。この煙突は、当時45メートルあり、名古屋では名古屋城とともにもっとも高い建造物で、どこからでも見えたという。今は記念碑として短くなったものが立っている。この日はクリスマス仕様で、サンタが屋根から侵入しようとしていた。

ノリタケの森赤レンガ

 赤レンガの工場は、明治のものをそのまま再利用して建てられたものだ。かなり大がかりな手直しはほどこされているのだろうけど、レンガそのものは当時のものなので、年季と歴史が感じられる。これは紛れもなく本物感が漂う。赤レンガの建物はやっぱりいいなと思う。
 ところでノリタケの森というネーミングはどうなんだろう。行く前は本当の森だと思っていた。緑地の雑木林のようなものをイメージしていたら全然違っていた。そういう人は私だけではないだろう。単純にノリタケ公園とかノリタケ・パークでよかったんじゃないだろうか。実際、公園なんだし。
 どういう場所かということをひとくちに説明するのはちょっと難しい。まず入場は無料なので公園には違いない。水の流れや噴水、芝生広場にベンチにテラスと、公園として必要充分な設備が整っている。名古屋駅から車で5分というロケーションでこのゆとり空間は素晴らしい。タダというのも偉い。
 一方でノリタケの歴史と今を伝える総合施設でもある。製造過程を見学したり、画付けを体験(1,500円)できたりするクラフトセンターや、オールドノリタケを中心に展示してあるノリタケミュージアム(500円)、最新テクノロジーを見ることができるショールーム、廃盤になったノリタケ食器を安く買えるアウトレットショップ(市価の50パーセントオフもあり)、ノリタケ食器でいただくレストランの食事(ランチは現地予約、ディナーは電話予約)など、見どころも多い。観光バスが乗りつけるくらいの観光施設にもなっている。
 公園としての評価も高く、いろいろな公園賞やグッドデザイン賞なども受賞しているようだ。
 駐車場が30分100円(上限1,000円/日)以外は何も買わず飲み食いしなければお金はかからないので、一日のんびりしてもいい。相当ヒマな人じゃないとそこまでのんびりはできないと思うけど。
 しっかり堪能したければフルコールを組むこともできる。画付け体験をして(要予約・出来上がったものは焼いてくれて後日家まで送ってくれる)、ミュージアムでオールドノリタケを観賞し、ランチを食べて、午後は工場見学、ショッピングを楽しみ、夜はディナーまでいたただく、と。なんならそのままベンチで寝てしまうという手もある(それはない)。
 名古屋の人も案外この場所のことは知らないと思うので、おすすめしたい。よそから名古屋に遊びに来た人も、ノリタケの森をコースに入れてもいいと思う。のんびりデートにもいいところだ。

 1876年(明治9年)、のちにノリタケ創設者となる森村市左衛門は貿易商社「森村組」を設立する。1904年、ノリタケの前身・日本陶器合名会社が誕生。当初は外国向けに花瓶や壷、陶製人形、置物などを作っていた。
 1914年、日本初のディナーセットが完成した。さまざまな試行錯誤を繰り返し、一枚の白い皿を作るのに大変な苦労があった。真っ直ぐな底の皿がどうしても作れなかったからだった。それでも苦心の末に作り上げたディナーセット「セダン」は、森村組によって大量に海外に送られ、欧米で大変な人気となる。一時はニセモノが出回るほどだったという。工場はフル回転して、ノリタケの食器は世界中に輸出されたのだった。
 ノリタケといえばオールドノリタケを連想する人も多いだろう。初期のものは完全ハンドメイドで絵付けをしていて、その繊細で高度な装飾は海外で高い評価を受けた。現在でもオールドノリタケ・コレクターという人種がいて、たくさん集めているそうだ。特に戦後日本に駐留したアメリカ軍の将兵たちが、帰国するときにおみやげとして持ち帰った1953年までのものは、プレミアノリタケと呼ばれて価値が高い。ノリタケの食器やカップ自体は他と比べてそれほど高いわけではないけど、オールドノリタケだけはさすがに高価だ。コレクター間ではきっととんでもない値段で取引されていたりするのだろう。

勝手にイブランチ

 完全持参体勢で行ったノリタケの森。オークションで買ったノリタケのカップで自販機で買った紅茶を飲み、自分で作ったケーキ(もどき)と手作りクッキーを食べ、持参のキャンドルに火を灯し、テラスのテーブルと椅子を借りて、人目も気にせずまったりとクリスマスランチを楽しんだ。手洗い場で食器まで洗ってしまうというちゃっかりさ。気づけば、まったくノリタケの森に貢献していない。何も買わず、飲み食いもせずに帰ってきた。トイレまで借りて。
 だから、せめてこのブログで宣伝して、ひとりでも多くの人をノリタケの森へ送り込みたい。そして、私たちの代わりにたくさん買い物をしてもらうことにしよう。何か買ったり食べたりするときは、オオタさんの紹介ですとひと言添えてください。え? オオタさんって誰ですか? という反応が返ってくると思うけど、テラスで勝手にランチをしていた二人組ですと言えば、ああ、あの人たちですか、となるかもしれない。いやいや、ならないならない。ここはとてもおおらかで、持ち込みランチをしていても全然平気なところなのだ。
 ぜひみなさんも一度訪ねてみてください。私も、次に訪れたときはスプーンの一本でも買ってその場で曲げてみたいと思う。オールド超能力として来ていた欧米人たちに受けるだろうか。

イタリアシミュレーションとしてのイタリア村を堪能する 2006年12月26日(火)

名古屋(Nagoya)
イタリア村外観

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.0, 1/13s(絞り優先)



 名古屋人もめったに訪れない名古屋の外れの名古屋港。スターライトレビューと花火だけで帰るのはもったいない。そうだそうだ、もったいない、もったいない、と私の中の貧乏性が合唱を始めたので、それを黙らせる意味でもイタリア村に寄ることにした。
 前々から一度行こうと思いつつ、混雑してるとか、入村料がかかるとかかからないとか、いろいろな情報に惑わされて控えていた(現在は入村無料となっている)。一度だけ車で前を通ったことがあったのだけど、のこのことひとりで行く気にもなれなかった。でも二人なら大丈夫。仮面の忍者青影のだいじょーぶのポーズを二人揃って決めつつ(ホントはそんなことはしてない)、いざイタリア村へ。敵はイタリア村にあり。是非に及ばず。
 ぞろぞろと流れる人波に身を任せて歩くこと4分(くらい)。あっけなくイタリア村の入口が見えてきた。おっかさん、あれがイタリア村だよ(注:ツレは母親ではありません)。ひときわ目立つシンボルタワーの大鐘楼(45メートル)と、ベネチア・サン・マルコ広場の時計塔をモデルにしたと思われる入口が訪れる人々を出迎える。
 ビレジオ・イタリア。ブォナセーラ、イタリアーノ。チャオ、ジローラモ。コメスターイ? ピアチェーレ。ティ・アーモ。NHK教育テレビのイタリア語講座仕込みのイタリア語をかましつつ(心の内で)、嬉し恥ずかしイタリア村はじめまして。

 今ひとつ冴えない名古屋港ベイエリアを活性化しようと、みんなで知恵を出して話し合った結果、この場所にイタリア村を作ることが決定した。1950年代の古き良きヴェネチアの街並みを再現しつつ、ショッピングとレストラン、エンタテインメントの総合アミューズメント施設として、2005年4月にイタリア村は誕生したのだった。
 どうして名古屋にイタリア村なのか? その答えは誰かが知っている。私は知らない。だって名古屋とナポリは姉妹都市じゃん。ん? でも再現したのはヴェネチアでしょ? まさか、名古屋人がナポリとベネチアを混同したということはあるまい。ただ、話の展開はなんとなく分かるような気がする。名古屋港には遊園地や水族館がすでにあるから、ショップとレストラン街を作ろうということになったとき、ノーマルなものでは話題性がない、何かテーマに沿って作ろうということになったのだと思う。アメリカ村はもう大阪にある。中華街は横浜だ。イギリス村ではイメージがわかない。ドイツ村ではブランド品が足りない。となると残るはフランス村かイタリア村しかない。フランスはブランドもレストランもあるけど、エンタテインメント性が弱い、じゃあイタリア村しかないだろう! ということで決まったのだと私は想像する。事件は現場で起きていても、話し合いはたいてい会議室で行われているものだ。ちょっと浮世離れしていてもそれは仕方がないことだ。
 イタリア村の中央には呼び物となっているゴンドラが運河の上を行き交い、運河沿いには花馬車がゴトゴトと音を立てながらのんびり走る。レストランからはいい香りが流れてきて、ベネチアンガラス館ではガラス工芸品がやわらかく光を反射している。遠くからは楽団の生演奏が鳴り響き、イタリア人の陽気なかけ声が村にこだまする。訪れた人々は、市場で食品を買い込み、あるいは運河沿いのテラスでワインを飲み、若い二人は手を繋いでデートをする。大鐘楼からは時を告げる鐘の音が海風に乗って村人たちの耳をなでていく。ここには確かにリトルイタリアがある、ような気がする人もいたりいなかったり、目をギュッと閉じて空想すればまるで1950年代のベネチアにタイムスリップしてきたような気分がぼんやりと味わえるという寸法だ。みなさんも私同様頑張ってイタリア気分を脳内に作り上げて満喫して欲しいと思う。

 かつての日本通運倉庫の跡地3万平方メートルにイタリア村はある。ここの変わっている点は、無料のショッピングモールにもかかわらず、民間企業の独立採算性となっているというところだ。お役所仕事ではないところにここのよさがある。いろいろなアイディアが実行され、宣伝もして、予想を遙かに上回る成功を収めている。去年一年の目標入場者数200万人は4ヶ月であっさりクリアして、結局倍くらいになったようだ。
 ただ、名古屋人というのは新しいものには飛びつくけどすぐに飽きて見向きもしなくなる人種なので、今後は苦しい展開が予想される。個人的には目玉として金鯱号を復活させて欲しい。温故知新、やっぱり名古屋といえばシャチだろう。
 日本初上陸のイタリアブランドショップも多数あり、ショップ数は約70店舗、レストランや食べ物屋関連が約60店、ショップ類が50店舗と、なかなか充実している。全体的にやや高めの設定らしいけど、お金を使う気があればイタリアンを充分満喫できるんじゃないだろうか。
 ベネチアンガラス美術館(大人800円)は興味のある人にはいいし、コスプレ好きにはベネチアの民族衣装というのか仮面舞踏会スタイルに変身して写真を撮ることもできる。ヒラヒラドレスに身を包み、仮面の忍者赤影がつけていたマスクのキンキンキラキラ豪華版みたいなつをはめれば、気分はすっかりめくるめく夜の社交界の花。思わず少年隊の振り付けを体が勝手にしまうかもしれない。

夜のゴンドラ

 これがイタリア村名物、短い距離のゴンドラだ。長い待ち時間のあと、600円であっという間に終わってしまうらしい。しかも、観光客の格好の被写体として否が応でも写真を撮られまくってしまう。お忍びで出かけたとき、ゴンドラは非常に危険アイテムとなる。乗ってしまった日にはあちこちのサイトで自分たちの写真が登場するのは避けられない。逆に言えば写りたがり屋さんにとっては夢のような乗り物と言えるかもしれない。
 推定イタリア人のゴンドリエーレたちが、ウォーというかけ声をかけながら、少しやけっぱちな感じで漕ぎまくっていた。ゴンドラはイタリアから直輸入の本物だ。日本人のおっさんが池のボートを漕いでるよりはありがたみがある。
 その他の乗り物としては、後から登場した2頭立ての花馬車がある。大人600円でイタリア村のコースを一周してくれる。ここでも正装したイタリア人御者が馬車を操っている。
 あと、岸壁から毎日3~5回くらい出発するヴェネチアクルージングというのがなかなかよさそうだ。名古屋港を巡る30分の船旅で1,000円ならそんなに高くない。夕焼けデートにもいいんじゃないだろうか。
 どさくさに紛れて、世界の犬たちとふれ合える「ふれあい動物広場」というものもある(500円)。世界から集められた25種の犬や、ヒツジ、ヤギ、ウサギなどとふれ合うことができるというのだけど、イタリアとの関連性についてはやや謎が残る。イタリア中の犬が一堂に会するとかなら分かるんだけど。
 2005年の秋には村内に教会を模した結婚式場クレールベイサイドイタリア村が登場した。これがけっこう人気のようで、多い日は5組も式があるというから、今後名古屋の結婚式スポットとして定着していくのかもしれない。
 更に温泉までわき出したという冗談のような話もある。イタリアでも温泉はあるから、違和感はないといえばない。足湯ガンバテルメがオープンし、ヴェネチアンガラス美術館の2階にはローマのカラカラ浴場のような露天風呂を作るという話だったのだけど、もうできたのだろうか。まだこれからなのか。
 その他、ダビデ像や真実の口のレプリカなどのちょっとした演出などもあり、けっこう頑張ってるなという印象を受けた。
 現在はイルミネーション期間ということで、エントランスや塔の他、光のトンネルなどもあり、村全体が光で彩られている。1月中旬まで続くそうだから、まだこれからしばらく楽しめそうだ。
 正月にはサンマルコ楽団の生演奏やコンサートなどもあるという。

イタリア村運河沿い

 イタリア村はイタリアではない。恋愛シミュレーションと実際の恋愛が別物であるように。けど、それでもいいじゃんと私は思うし、そう思えた人の勝ちだろう。ニセモノっぽいとか、薄っぺらいとか批判することで誰も幸せにはなれない。イタリア村でイタリアと同じ経験をしたいなんて誰も期待しちゃいない。ここにはここのよさがある。
 美味しいイタリア料理を食べて、ショッピング街をぶらついて、ゴンドラや建物の写真を撮って、2時間くらいしてぼちぼち帰ろうかと言って帰るのがいい。恋人同士なら、夕暮れどきから夜にかけてがロマンチックだ。イタリア村だけでは半日持たないから、名古屋港水族館や遊園地のシートレインランドとあわせて行くとちょうどいい感じになると思う。南極観測船ふじとタロとジロの像像を見て涙を流すのもありだ。高倉健さんになりきって犬に抱きついたり。
 イタリア村の未来はどうだろう。地理的に名古屋の行き止まりというのが大きなネックとなる。これが通り道ならもっと広がりが生まれるのだが。中部国際空港と結ぶ計画がある。ただ、それをするにしてもまずはイタリア村を含めた名古屋港ベイエリアが更なる発展をとげる必要がありそうだ。作られることが決まっているアウトレットモールの充実度も大事になる。
 個人的にはけっこう堪能してイタリア村を後にすることとなった。イブの高揚感も手伝ったからだろうか。水辺でやたら寒かったという思いも強かったのだけど。
 次はイタリア村ではなく本物のイタリアへ行きたい。そしていつか本当にヴェネチアへ行ったとき、私は思わずこうつぶやくことになるだろう。お、イタリア村みたいだがや、と。

初めて見る花火大会とカップル量に心臓を打たれたイブ 2006年12月25日(月)

花火(Fireworks)
スターライトレビューのツリー

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/8s(絞り優先)



 12月24日、午後6時すぎ。地下鉄名港線・名古屋港行の列車内は、カップルの巣窟と化していた。異常なほどのカップル率の高さだ。右を見ても左を見ても前も後ろもカップルだらけ。カップルにあらずんば人にあらず。おごれるカップルも久しからずの世界だ。
 しかし驚くのはまだ早かった。終点の名古屋港駅で降り、階段を登って地上に出てみると、そこにはいまだかつて目にしたことがないほどのカップルがひしめいていた。名古屋中のカップルが一堂に会したのではないかと思えるほどのカップル量に軽いめまいを覚える私であった。
 人波に飲み込まれながら、みんなが歩いていく方へと身を任せてついていくと、なにやら人だかりができている。ほとんど予習もせず、予備知識もなかった我々としては、人の流れが判断基準のすべてだった。そして辿り着いたのが写真のこの場所、大きなツリーのあるところだった。
 名古屋港つどいの広場にある高さ15メートル、電球4万5千のイルミネーションツリーは、おそらく日本でも最大級のものだろう。丸ビルのツリーにも負けてない。様々に色と動きを変えるツリーは、見る者を楽しませ、写真を撮る者を困らせる。今だっと思って撮ると遅れがちになり、パターンを読み切るにはパチプロ並みの必勝法が必要となる(それは大げさ)。
 左奥に見えているのは、イタリア村の塔。後ろではおじさんっぽい男性が、灯油缶らしきものから煙を出して振りまいていた。なんだ、なんだ、カップルに対する嫌がらせか? と思ったら、レーザービームが見えやすいようにするための演出だった。
 そんなこんなの慣れない場所に対する私の戸惑いなど置き去りにしたまま、やがて時刻は7時となり、NHK教育テレビの司会のお姉さんのようなアナウンスが、スターライトレビューの始まりを告げたのだった。

ツリーと花火

 花火の見物人の群れは、大きく二派に別れた。打ち上げポイントの港に近い方へ移動する一派と、少し離れてツリー越しに見ようとする派に。私はツリー越しチルドレンに入ってみた。港の方はもし次の機会があったら、そのとき再チャレンジということで復党したい。
 花火は音楽とアナウンスに乗り、次々と上がっていく。最近はこういう花火ショーのようなスタイルが増えているようだ。メロディ花火という表現もあるんだとか。
「スター☆ライトHA・NA・BI」という、つのだ☆ひろと北野武映画を合体させてヒネリを加えるのを忘れたようなネーミングの花火は、冴えた冬の空を切り裂き、1,200の夢を短く描いて煙と共に消えた。祭りの後、という言葉があるけど、花火の後という言葉を思う。
 ありがとう、磯谷煙火店。靴下やツリーの花火は、いくつかいびつな形をしてたけど、クリスマスらしい花火でちょっとよかった。最後の連発では大きな歓声が上がり、拍手がわき起こった。1,200発ではやや物足りない感もあるけど、冬空の下でじっと見ている打ち上げ花火ということを考えると、30分というのは適度と言えるだろう。
 あと、個人的な感想というか感覚としては、打ち上げ花火というのはすごく心臓に響くものなんだなということを初めて知ったのだった。なんだか心臓マッサージの機械を体の中心に当てられてるみたいな気持ちだった。打ち上がるたびにどーん、どーんと心臓を直撃して、少し怖いような気分もあった。あるいは、いつか遠い昔に聞いた戦場に響く大砲の音にも思えたのだった。

 名古屋港のスターライトレビューは、今年で16回目になるのだそうだ。15回目まではその存在自体知らなかった。毎年私のいないところで毎年こんなことがあったのね。
 イルミネーションは11月22日から12月25日まで行われていた。今年はもう終わってしまったので、見逃した人はまた来年。今年はイブだけで17万人からが訪れたそうだ。どこでカウントしてたか知らないけど、私もカウントされてしまっていたのだろうか。こういうところを訪れることができのも愛・地球博を経験したからだ。あれがなかったらこの日にこの場所は避けていたと思う。ひとつの経験は他のいろいろなところにつながっていく。今回の初打ち上げ花火大会もまた別の花火大会などにつながるのかもしれない。
 それから今回もうひとつ感じるものがあったのは、三脚を立ててひとりで花火を撮っていた人たちの存在だ。日常生活であんまり目を丸くするという経験はないのだけど、この日ばかりは西川きよしのような目になっていたと思う。最初に目にしたときは思わず、ええっ!? と小さく声が漏れてしまった。そのあと、うーむ、やるな、と深く感じ入ってしまった。夏の花火大会で三脚本気撮りしてる人は珍しくないのかもしれないけど、クリスマスイブののカップルまみれの中でひとり三脚を立てて花火を撮るという姿勢には私もシャッポを脱いだ(今どき誰もそんな表現しない)。すごい達観だ。私などとうてい及ばない悟りの境地。今年になって初めてひとり水族館を経験して大人の階段を登ったと思っていた私はまだまだ甘ちゃんだった。上には上がいると思い知るクリスマスイブの夜であった。大きなことはできなくても小さなことからコツコツとの精神で、一脚使いから再出発したいと思う。

花火とたまや

 花火が上がるたびに、あちこちから、たまや~、かぎや~のかけ声があがり……。ん? あがらない? まったくあがらない? 耳をすましてみてもそんなことは誰も言ってない。そもそも言いそうなおっさんとかいないし。もしかして、そんなかけ声は過去の遺物となってしまったのだろうか? 花火大会なんて初めて参加したので事情がまったく分かっていない私。

 江戸の花火といえば、鍵屋と玉屋だった。花火のルーツとなったのは、鉄砲の種子島だったと言われている。1612年に徳川家康が日本で初めて花火大会を開いたそうだ(他にもいろいろな説がある)。それは鉄砲を夜空に打ち上げて楽しんだというものだった。
 1733年、両国の大川(今の隅田川)で、日本初の打ち上げ花火大会が開催された。前の年に江戸でコレラが大流行して多数の死者が出て、将軍の吉宗が悪霊退散のため大々的に花火大会を催した。これが現在の隅田川花火大会の起源とされている。
 このとき活躍したのが花火師の鍵屋(六代目弥兵衛)だった。しばらくは大川の花火は鍵屋が独占していた。
 1810年、鍵屋の手代だった清吉が暖簾分けをして、玉屋を名乗るようになった。その後は、両国橋から上流は玉屋、下流を鍵屋が担当して、二大花火師の時代がやってきた。このとき、自分のひいきの花火師を応援するかけ声として生まれたのが、「たまや~」、「かぎや~」というわけだ。
 話は続きがある。本家の鍵屋をしのぐ人気と実力を備えるようになった玉屋だったが、1842年に店から火を出して町を大火事にしてしまう。これによって玉屋は家財没収、江戸追放、仮名断絶という重罪に問われ、わずか一代で消えたのだった。なのにどうして鍵屋ではなく玉屋のかけ声が残ったのか。それは、江戸っ子たちが、パッと咲いた花火がパッと散ったような玉屋の人生に夢の残映を見たからだったろうか。鍵屋の方は現在も続いている。たまやのかけ声を聞くと少し複雑な気持ちになるのかもしれない。

 今回で知った打ち上げ花火撮影で大切なこと。根性で三脚を立てることはもちろんとして、何よりも場所選定が一番大事だということだ。明るいズームレンズもできれば欲しいところ。単焦点なら、遠すぎず近すぎない位置に陣取ることがすべてと言ってもいい。花火だけだと詰まらないから、風景や建物を入れてアクセントをつけたい。個人的には人の頭も花火大会風景の一部として入れたいところだ。花火自体をきれいに撮れるかどうかはマシンパワーとレンズパワーに左右されるからプロや金持ちには勝てない。
 隣にいる彼女のこともいっとき忘れ、つなごうとする手をふりほどき、一心不乱に花火を撮るべし、撮るべし。それが明日のためのその一。あるいは、隣にいるカレシのことなど放っておいて、話しかけてきたら、ああん、もう、ちょっと黙っててと一喝して、撮るべし、撮るべし。明日のためのその二。電池が切れるまで、メモリーカードが一杯になるまで、撮るべし、撮るべし。明日のためのその三。花火大会が終わったときには、燃え尽きて真っ白な灰になるまで、撮るべし、撮るべし。

イブ前イルミ・ネタで早寝アンド明日はお休み告知 2006年12月23日(土)

イルミネーション(Illumination)
友愛のイルミ

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/50s(絞り優先)



 うちの近所にある「YOU&I 友愛玩具」の倉庫イルミネーション。写真で見ると微妙な感じだけど、実物はけっこうきれいなのだ。イルミネーションのきれいさは光が動いてこそってのがあるから、写真で伝えるのは難しい。わー、きれいだなと思って撮って、家に帰ってきてから見るとがっかりということが多い。その逆のパターンは経験したことがない。何か上手く撮る方法があるのだろうか。
「友愛玩具」というののは、ぬいぐるみや雑貨を扱う会社で、近年はクリスマスイルミにも力を入れている。「坂東英二のそこ知り坂東リサーチ」で観て知った。って、番組がローカルすぎる。飾られているものも全部売り物なんだと思う。興味のある方は、駆け込みで会社を訪ねていくと倉庫でダイレクトに売ってくれるかもしれない(実情はよく分からない)。

畳屋もホームイルミ

 ここ数年、ホームイルミネーションをやっている家庭やお店が一気に増えた。10年くらい前からポツポツと家庭用を見かけることが増えてきたと思ったら、この5年くらいだろうか、もはやブームと呼んでもいいほどの広がりを見せている。名古屋の郊外でも、10分歩けば一軒は見つかるというくらいイルミ密度は高い。ときには両隣や前の家と競うようにやってるところもある。畳屋だって、ほらこの通り。畳とイルミの組み合わせとは洒落ている。
 ホームイルミネーションは個人的には大賛成だ。あれは自分のうちのためではなく道行く人たちのためのボランティアみたいなものだ。そういう奉仕精神のある家庭にはきっと幸せがやって来るに違いない。こんな派手に飾りやがってなんてことはちっとも思わない。むしろ、偉いなぁと思う。
 電気代は大がかりにすると月5万円以上するそうだけど、これくらの規模なら1万円くらいじゃないだろうか。長くても1ヶ月か2ヶ月だろうから、そんなにべらぼうな電気代が請求されるというわけでもない。
 ただし、当然のことならイルミセットを買いそろえるのにお金がかかる。これは数万程度では収まらない。最初は小規模で初めて、年々増やしていくという楽しみ方もできるだろう。使って減るものではないし、壊れるものでもない。LEDなら半永久的に電球切れはない。
 しかし、テレビで取材されるくらいまでいってしまうと大変だ。毎日何千人も見物客がやって来てはおちおち家でケーキも食べてられない。

丸ビルのツリー

 これは東京へ行ったときに撮った丸ビルのツリー。ハイセンスすぎて名古屋らしくないなと思ったらやっぱりか、と思った名古屋の人もいるかもしれない。
 吹き抜けの「MARUCUBE」にある高さ8メートルのツリーは、さすがにプロの仕事を思わせる。こういうものは一般家庭ではちょっと作れない。
 2階の窓にはライティングショーが映し出されるそうだ。12月19日から25日までで、時間は17時半から21時半まで、30分毎に約7分間の上映とか。
 東京って、いちいちやることがこしゃくだなと思う。名古屋のセントラルタワーズのイルミネーションは毎年だんだん評価が下がっていくという悲しさ。

 明日はクリスマスイブ。予定がある人は楽しく、ない人はそれなりにお過ごしください。私は毎年恒例のクリスマスイブはネット全面お休み日なので出てきません。このブログの更新も休みます。と言いつつ去年は出てきてしまったのだけど、今年こそ休みたい。もしかしたら、明石家サンタの電話で私が登場するかもしれません。いや、あれには出たくないぞ。
 それでは、どちら様も無事イブを乗り切って、元気でクリスマスにお会いしましょう。

行けば分かる、行かなければ分からない屋久島の魅力 2006年12月22日(金)

花/植物(Flower/plant)
縄文杉レプリカ

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f4.5, 1/125s(絞り優先)



 世の中にはどうしてこんなものがここにあるんだろうというものがたくさんある。東山植物園の縄文杉レプリカもそのひとつだ。唐突すぎるぞ。どうしてここにコンクリート作りの縄文杉レプリカを置く必要があったのだ? もしかすると、そこには深遠な理由があるのかもしれないし、ないのかもしれない。ただ単に園長の思いつきだったりする可能性もある。
 それは入口から入ってすぐの右側に立っている。おそらく来園者の多くが最初に撮る被写体だろう。なんか知らないけどとりあえず撮っておくか的な感じで。私もまた例外ではなかった。
 大きさは伝わる。杉とは思えない幹の太さと背の高さ。長い歳月を感じさせる幹の様子も上手くできていると思う。寄生樹は本物に似せて植えてあるそうだ。なかなか芸も細かい。ただ、所詮作り物は作り物、感動とかそういったたぐいのものは伝わってこない。本物を見たことがないから分からないのだけど、迫力はこんなもんじゃないと思う。等身大にデカければいいってもんじゃない。ただ、これを見て、本物も見てみたいと思うきっかけにはなるかもしれない。それが最初からの狙いだとしたら、これも無駄じゃないということだ。私はまんまと作戦に引っかかろうとしているのか?

 縄文杉が見つかったのは、実はそんなに昔のことではない。昭和41年に役場の観光課長だった岩川貞次という人が見つけるまで誰も知らなかった。標高1,300メートルの高地に人知れず時を刻んでいた。発見したときの感動があまりにも大きかったようで、こんな立派な杉は見たこともないからきっと数千年前のものに違いないという興奮から縄文杉と名づけられた(取材した新聞記者が縄文土器の火焔土器に似ているからそう呼んだという話もある。)。
 その後の調査で7,200年前ということも言われて、ますます知名度を上げた。しかし科学的な根拠としては2,170年とも言われ、あるいは中が空洞になっているから少なくとも3,000年から4,000年くらいだという説もあってはっきりしたことは分かっていない。7,000年というのは屋久島の火山活動から見てもあり得ない数字のようだ。それでも樹高25.3メートル、周囲16.4メートルは、現在のところ見つかっている中で一番大きな杉であることに変わりはない。縄文杉というネーミングがその後の屋久島ブームを作ったと言っても言い過ぎではないだろう。当初は発見者の名前から大岩杉と呼ばれていたそうだけど、その名前ではここまで有名にはならなかったはずだ。
 日本での杉の南限である屋久島には他にもたくさんの巨木がある。弥生杉、大王杉、翁杉、紀元杉、夫婦杉、ひげ長老、八本杉など。標高600メートルから1,300mくらいの所に多いから、見に行くまでには登山が必要になる。縄文杉を見ようと思ったら、登山口から往復8時間から9時間歩かなければならない。腰が曲がってしまってからは見ることができないから、なるべく若いうちに行った方がよさそうだ。ただ残念なことに、現在は観光客が増えすぎたこともあって、縄文杉の近くまでは行けないようになっている。雨と風で土が流れて根が露出してしまっているため保護しなければならなくなった。今は少し離れた高台から拝む格好になっている。抱きつけない縄文杉に会うために9時間はきついものがある。

 屋久杉といっても何も特別な杉ではない。ただの杉だ。しかし、通常杉は300年から500年が寿命と言われている中、屋久島の杉だけは数千年も生きるというところに価値がある。これは屋久島の特殊な環境によるものだ。月に35日雨が降ると言われるほど雨が多く、年間雨量は4,000mmから10,000mmにもなることがひとつ。もうひとつは、土台が花崗岩でできていて栄養分が少ないため、杉がゆっくりと成長するからだ。そうすると樹脂が通常の6倍にもなり、これが防腐・抗菌・防虫効果となり、木を守ることにつながる。年輪の幅が緻密になり、木材としては硬くなる。工芸品として使われるときには密度の濃さと樹脂で独特の深いツヤが出る。
 通常、1,000年以上のものだけを屋久杉と呼び、100年以下のものは小杉として区別される。現在でも新しい杉が生まれ、屋久杉は育ち、森は行き続けている。古い杉ばかりの止まったような世界ではない。
 江戸時代以前、屋久島の杉は御神木として伐採されることはなかった。江戸時代に屋久島の儒学者泊如竹(とまりじょちく)が薩摩藩主の島津久光に屋久杉っていういい木がありますお殿様と耳打ちしたところから屋久杉の悲劇が始まる。泊如竹め。そりゃあ木材としては最高級に決まってる。たちまちじゃんじゃん切られるようになり、屋久杉の平木は年貢として薩摩藩に納められるようになった。
 二度目の悲劇は高度経済成長時代、この時代も大量に伐採された。そんな中、縄文杉などの古木が切られずに残ったのは、幹がごつごつしてくねっているから木材としての利用価値がないという理由からだった。当時は貴重なものだから残そうという観念はまったくなかった。これだけは不幸中の幸いだった。
 現在、屋久杉の伐採は全面的に禁止されている。それでもたくさんの屋久杉グッズが出回っているのは、かつて切られたものが残っているのと、倒れた木や切り株があるからだ。屋久杉グッズは欲しいけど、なんとなく罪悪感があって買えないという人もいるかもしれないけど、そういうことはないので私に屋久杉工芸品を貢いでくれても全然かまわないです。

 屋久島はかつて交通の便も悪く、とてもマイナーな島だった。縄文杉が見つかる前は、島に観光客の姿などほとんどいなかったそうだ。縄文杉以降は少しずつ知名度が上がったとはいえ、あえて行こうという人はそれほど多くなかった。やはり一気に観光客が増えたのは、1993年に世界遺産に登録されてからだ。現在では年間20万人の人が訪れるという。
 なんとなく南の島というのは分かっていても地図上ではどこに位置しているのか知らない人も多いかもしれない。沖縄とかあっちではなく、九州の南にあって、住所は鹿児島県になる。左上には今話題の硫黄島があり、右上には鉄砲伝来の種子島がある。
 島としては日本で9番目の大きさで(東京23区くらい)、周囲は約130キロ、東西南北それぞれ28キロ、24キロと、ほぼ円形をしている。車で島を一周すると3時間くらいだそうだ。
 海抜ゼロメートルから標高2,000メートルまであり、島だけで日本列島のすべての気候が存在しているという特殊な環境にある。下界は南国なのに山へ行くと北海道になってしまうので、1月や2月などに行くと、山頂は大雪が積もっていて縄文杉が見られないなんてこともある。
 魅力は屋久杉だけではない。動植物の固有種も多く、苔好きにもたまらない魅力的な島でもある。600種類の苔が生えているというから苔マニアとしては屋久杉なんてそっちのけで、嬉しくて地面をはいつくばってしまうだろうだろう。
 ヤクザル、ヤクジカなどが特に有名で、ウミガメの産卵地としても知られている。日本の上陸総数の3分の1は屋久島なんだとか。ピークは6月から7月にかけてというから、生き物のことを考えてもこの時期が一番多彩で楽しそうだ。
 その他にもたくさんの温泉や海、森や川や滝など、見どころは多い。
 すごく遠いイメージのある屋久島も、思ったより近い。東京から飛行機に乗って鹿児島まで2時間、待ち時間や乗り換えがあったとしても1時間、鹿児島から船で40分だから、4時間かからない。
 ネット情報のツワモノの話では、青春18切符を駆使すれば6泊7日で片道2万円で行けるということだ。ものすごくハードな旅で、屋久島に着いたときには燃え尽きてそうだけど。
 現地でのいろいろな見どころを考えると、2泊3日では回りきれないところが出てくるから3泊4日は欲しいという意見が多い。一週間はちょっと長い。一生に一度しか行けないようなところでも、多少心残りがあるくらいがちょうどいいのではないだろうか。その方が心に引っかかり続けるから。

 イメージを膨らませるだけ膨らませて向かった屋久島で、その思いがプシューっと音を立ててしぼんでいった、という経験をした人も少なくないかもしれない。縄文杉といっても、それ自体は大きな杉だし、観光地化された今、深閑とした太古の森の中でひとり目を閉じて悠久の時を感じるなんてことはなかなかできそうにない。それでも、やはり行ってみなければ何も始まらない。そこに待っているのが感動なのか失望なのかを自分で確かめるために。行けばそこに何が待っているのか? その答えは猪木が知っている。
 迷わず行けよ 行けば分かるさ
 まさにその通り。行けば分かる、行かなければ分からない。行けば必ず感じるものがあるだろう。失望の代わりに手に入る感動もきっとある。私が行くなら6月くらいがいいかなと思う。たくさんの花や蝶や生き物たちと出会えそうだから。
 けど、9時間の山歩きに耐えられるだろうか? 屋久杉に会いに行く行程だけで2泊3日とかになりそうだ。途中の山道で死んだように倒れてる私を踏んでいかないでください。寝てるだけですから。

自転車に乗って風になるためには尻の肉が必要だ 2006年12月21日(木)

飛行機(Airplane)
自転車だらけ

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/320s(絞り優先)



 自転車屋の店先で大量に積み上げられた自転車を見ると、万景峰号(マンギョンボンゴウ)を思い出す。一体彼らはどこからあれだけの自転車をかき集めてきたのだろうという思うと、万景峰号が入ってこなくなったら放置自転車は増えるんだろうかなど、様々な思いが交錯する。その自転車は置いてあるのです、捨ててあるわけではないのです。
 高校の3年間、私は自転車通学をしていた。片道40分、雨の日も、雪の日も、暑い夏も、なんの工夫もなく自転車をこいで学校へ行っていた。梅雨時のカッパ通学はつらかった。雨と汗でずくずくになって、着いたときには一日のやる気をすべて失っていたものだ。若かった。今思えば雨の日くらいバスで行けばよかったし、雪の日くらい休めばよかった。なのに、なんであの頃はなんの疑問も持たずに自転車だったんだろう。高校生の僕たちはみんなバカだった。
 高校3年間ですっかり自転車には乗り飽きた私は、それから長い間まったく自転車にまたがることさえなかった。少し話は脱線するが、小学生のとき、大須スケート場で伊藤みどりの自転車を見てまたがったことがあるというのが私の数少ない自慢の内のひとつだ。スケートリンクの真ん中では、レオタードを着たチビの伊藤みどりがクルクル回っていた。脱線ついでにもうひとつ思い出話を語ると、中学時代は当時流行ったチョッパーというハンドルに交換した自転車に乗っていた。映画『イージーライダー』とかで出てきた、びよ~んと長く上に伸びているハンドルだ。しかし不良でもなんでもない私は、街で本物の不良と出会ってカツアゲされないかと心配でならなかった。そのうちその見えないプレッシャーに負けて普通のハンドルに戻したという微笑ましいエピソードも残っている。ハンドルのゴムの部分を色付きのものにしたり。
 それはともかくとして、再び自転車に乗るようになったのは去年のことだ。散策をしていて、車に折りたたみ自転車を積んでおけば現地での行動範囲が広がるに違いないと思いつく。そんな軽い思いつきで買った折りたたみ自転車は、尻に対してものすごく厳しいシロモノだった。安さで選んだために、サドルにスプリングさえ付いておらず、ヤワになっていた私の尻が悲鳴を上げるのに時間はかからなかった。15分乗ったところで、もう勘弁してくれという激しい抗議が尻から来て、私としても聞き入れざるをえなかった。
 それから何度か乗ってはみるものの、やはり尻痛に負けてしまう日々が続いている。便利は便利なのだけど、タイヤが小さいのですごく疲れるし、ちょっとした坂でも登れないというのが難点だ。折りたたみ自転車、侮りがたし。思いがけないところに敵は潜んでいるものだ。
 今日はそんな自転車について勉強してみようと思った。自転車のことをよく知って理解すれば、私ももっと自転車に乗ろうと思うだろうし、尻痛にだって勝てるかもしれない。もしかしたら、「僕の歩く道」の草なぎくんのように突然、ロードレーサーの自転車を買ってしまうかもしれない。いや、60万円は高すぎて買えないぞ。

 自転車の歴史はまだ浅く、現在の元となった自転車が作られてからまだ100年、原形と言われるドライジーネからまだ200年も経っていない。こんなに一般庶民が乗るようになったのも戦後のことだ。
 世界で一番最初に自転車が作られたのはドイツで、ドライス男爵が二つの車輪を縦に並べてハンドルを付けた自転車もどきで地面を蹴って進んでいたのが始まりとされている。それがヨーロッパの一部で流行り、当初は遊び道具だった。
 それから時は流れ、19世紀の後半、フランスの乳母車を作っていたミショー親子がペダル式の自転車を発明して、これが世界に広まっていった。
 その後、いろいろな工夫や発明があり、非公式には江戸時代の末期、公式には明治の始めに日本にもオーディナリー型というのがやって来きて、ダルマ自転車と呼ばれた。
 現在の元となったセーフティ自転車が登場したのが1885年。イギリス人のスターレーが作ったローバー号が近代自転車の原形と言われている。
 1888年にはダンロップが空気入りのタイヤを発明して、自転車のスタイルはほぼ完成した。ただし、欧米ではすぐに一般にまで浸透した自転車も、日本においては長らく上流階級のステータスシンボルであった。当初は高価で庶民が買えるようなものではなかった。
 日本人が当たり前に自転車を乗るようになったのは、戦後しばらく経ってからで、高度経済成長のときにひとつのピークを迎えることになる。誰もが買えるものとなり、日本は世界一の自転車輸出国となった。現在、その地位は中国に譲っている。やはり自転車といえば中国だ。
 日本人で一番自転車が似合うのは、中野浩一でもヤクルトレディでもなく、金八先生の大森巡査だと思う。

 自転車競技の歴史は古い。何か新しい乗り物を発明すると、それで競争してみなければ気が済まないのが人類らしい。1896年のオリンピック第1回アテネ大会から競技に採用されているし、ツール・ド・フランスは1903年に始まっている。1903年モーリス=ガラン、1904年アンリ=コルネ、1905年ルイ=トゥルスリエ、1906年ルネ=ポチエ、1907年ルシアン=プチブルトン、1908年ルシアン=プチブルトン、1909年フランソワ=ファベール、1910年オクアブ=ラピズ……。もちろん、覚えてるわけではない。カンニングしただけ。日本でも明治31年(1898年)には最初の自転車競技会が開かれている。
 競技は大きく分けて4種類。トラックレース、ロードレース、オフロードレース、その他。おそらく競技人口は驚くほど多いのだろうけど、私はほとんど見たことも聞いたこともなく、周りに自転車レースをしてる人もいないので、まったく未知の世界だ。競輪もやったことがない。中野浩一のアデランスのCMは覚えているけど。そういえばケイリンというのは今や世界語となっている。
 マウンテンバイクやBMXなどは知らないわけではないものの、実際の競技は見たことがない。海上の森を歩いていたらマウンテンバイクにひかれそうになったことはあった。
 サイクルサッカー、サイクルフィギュアなどというマイナーな競技もある。

 こうして見てくると、自転車というのは馴染み深い身近なものであると同時に、広がりと奥行きのあるものだということを知る。今まで知らなかったことを今日勉強してたくさん知った。
 知らなかったといえば、自転車と道交法との関係も今まで知ってるようで知らなかった。あれを読むと、この世で正しく自転車に乗ってる人はひとりもないということになる。
 まず自転車というのは、馬や牛、リヤカー人力車などと同じ軽車両に分類されるので、歩道を走ってはいけないということになる。つまり、自転車は車道の左端を走らなければ道交法違反ということになるのだ。そんなアホな。車道なんかを高校生の通学で走られた日には危なくてしょうがない。お年寄りがフラフラしながら運転されても困る。
 自転車も車と同じ制限速度が適用されて、それを超えるとスピードオーバーとなるということだ。だいたい普通の自転車はどんなに頑張っても40キロくらいしか出ないから大丈夫なのだけど、細い道で30キロ制限のところを全速力で走ると違反になる。更に驚くことに、一方通行も逆走したら一通違反となるというのだ。本気だろうか。逆走するときは自転車を降りて歩行者とならなければいけないらしい。
 酒飲み運転は懲役3年以下または50万円以下の罰金、信号無視、一時停止無視、右側通行、踏み切りでの一時停止無視は懲役3ヶ月以下または5万円以下の罰金、夜間の無灯火走行、傘差し運転、右折左折のときに腕で合図をしないと5万円以下の罰金、二人乗り、並走、歩行者の通行妨害は2万円以下の罰金となっている。ベルで歩行者をどかせてしまっても違反となる。誰が守れるかっ。
 しかも恐ろしいことに、自転車の場合免許がないので車の青切符に当たるものがなくて、いきなり刑が執行されてしまうというところだ。それはつまり前科が付くことを意味する。実際、大阪で二人乗りの女子高生が警官の注意を無視して走っていたら捕まって赤切符を切られたなんてこともあった。自転車って、そんな危険な乗り物だったのか。

 世界的な流れとして、みんなで自転車に乗ろうという動きがある。地球に優しくするために、なるべく車には乗らないようにしようということで。欧米では自転車通勤をする人も増えているそうだ。ハリウッド映画でもそんなシーンがけっこう出てくる。都会では特に自転車が見直されているようで、渋滞や満員電車を考えると自転車の方が早くて快適ということもある。お金はかからないし、運動やダイエットにもなる。
 子供の頃田舎のじいちゃんが乗っていた自転車を思い出してみると、自転車というのもずいぶん進化したものだと思う。スタイルだけでなく素材も変わってきている。乗り心地やスピードもきっと上がってるのだろう。電動付き自転車が生まれ、この先自転車の未来はどうなっていくのだろう。もうチョッパーハンドルは二度と流行らないのだろうか?
 実現不可能なことでいえば、乗らないときはポケットに入るくらいコンパクトになって、乗るときは取り出してリモコンで瞬時に戻ってくれると嬉しい。ドラえもんがやって来たら頼もう。現実問題としては、雨の日どうにかならないものだろうかと思う。関西のおばちゃんご用達の「さすべえ」ももうちょっとお洒落アイテムに生まれ変わって欲しい。雨の日だけピザ屋のバイクみたいになると、もっと気軽に自転車に乗れるのに。
 私もそのうち、もう少しいい自転車を買って、風になりたい。急な下り坂で友達を後ろに乗せて風になろうとしてガードレールに直撃して友達が空を飛んだときが今懐かしく思い出される。ただ、私の場合は、もう一度尻を鍛え直すところから始めなければならない。今のままでは15分でカラータイマーが点滅してしまう。尻だけに肉をつけるにはどうしたらいいんだろう? 丈夫な無駄肉を持ってる人は私に少し分けてください。いや、そんなにたくさんはいりません。
 女子と自転車の二人乗りもしたことがないから、いつかしてみたい。男子高校生と女子高生の嬉し恥ずかしの世界が無理なら、『明日に向って撃て!』のポール・ニューマンとキャサリン・ロスのように。「雨に濡れても」を歌いながら。

光と風と変化と---モネが見た睡蓮とぬっくん疑惑 2006年12月20日(水)

人物(Person)
冬の温帯スイレン

Canon EOS Kiss Digital N+TAMRON SP 90mm(f2.8), f5.6, 1/100s(絞り優先)



 へー、冬でもスイレンって普通に咲くものなんだ。
 ときどき自分で自分のお間抜けさにあきれることがあるけど、このときもそうだった。冬にスイレンが咲くかよ。どう考えても温水だろう。ぬくみずじゃないぞ、おんすい、だ。ああ、そうか、温水ね、だから冬でも外で咲けるんだね。
 冬の東山植物園で、ひとりヤヌスの鏡の芝居をする私であった。
 実際に水を触って確かめたわけではないけど、おそらく温水なんだと思う。そうじゃなければ、この時期こんなに花は咲いてないはずだ。それとも、今年は暖かいし、日本の風土に慣れてこれくらの寒さならへっちゃらで咲けるように進化したのだろうか。ぬっくんなんてお呼びじゃない?

 スイレンというとなんとなく東洋的なイメージがあるけど、実際はエジプトなどが原産で、世界の熱帯や亜熱帯にかけて広く分布する異国の花だ。日本には白くて小さなヒツジグサ1種が自生しているだけで、世界では40種類ほどの原種が知られている。品種改良も、日本よりもむしろヨーロッパで盛んに行われているそうだ。
 睡蓮は大きく分けると温帯性と熱帯性があり、温帯は欧米や日本でよく流通するもので、熱帯は東南アジアなどで出回っている。日本に入ってきたのは明治になってからで、大正から昭和にかけて少し流通したものの、第二次大戦で多くの原種が失われていったん下火になったあと、戦後しばらくしてからまた復活していった。熱帯魚ブームなどもあり、熱帯性のスイレンもたくさん入ってきている。
 温帯と熱帯の違いは、熱帯の方が水面から高々と顔を出して咲いているので分かる。根っこの形も違う。温帯性はすべて昼咲きで青や紫がなく、熱帯性にはナイルのほとりに咲く青いスイレンがある。古代エジプトでは、太陽の花と呼ばれる青いスイレンと、夜に咲く白いスイレンがあったという。エジプト人はスイレンを神聖なものとして大事にしていた。食卓に飾って姿だけでなく香りも楽しんだと言われている。
 お釈迦さまのスイレンは温帯性で、モネが描いたのも温帯性だ。エジプトの壁画には熱帯性のスイレンが描かれている。
 学名のニンファエア(Nymphaea)はラテン語で妖精を意味する。ヨーロッパなどでは妖精のイメージで捉えられてるようだ。
 日本の漢字では睡蓮となる。これは午後になると眠るように花を閉じるところからきている。イメージは眠り姫といったところだろうか。ヒツジグサは羊に似てるからではなく、未の刻に咲かせるところから来ているので未草となる。
 ヨーロッパではハスとスイレンをあまり厳密に区別してないようで、ひっくるめてロータスと呼んでいる。ロータス・ヨーロッパ・スペシャルだ(?)。アメリカでは、ハスがロータスで、スイレンはウォーターリリーになる。
 品種改良が盛んに行われるようになったのは比較的最近のことで、19世紀のフランスを中心にブームとなった。現在はアメリカ、イギリスなどでも専門家や愛好家が多いそうだ。アジアではタイでたくさん栽培されているらしい。
 近年は日本でも家庭でスイレンを育ててる人が増えている。関東から西では温帯性のものは越冬できるんだとか。

黄色スイレン

 スイレンというと、やはりモネの睡蓮を思い浮かべる人が多いだろう。睡蓮といえばモネ、モネといえば睡蓮というのは加藤芳郎キャプテンでも出さないくらい見え見えの連想だ。これなら江守徹でも正解できる。
 光のマエストロと呼ばれたクロード・モネは、晩年、何枚も何枚もジヴェルニーの池に浮かぶ睡蓮を描き続けた。描こうとしたのは睡蓮ではなく、時間や季節とともにとどまることなく移りかわっていく光と色の変化だったにしても、睡蓮が好きというのも当然あったのだろう。モネの生きた時代は、フランスにおける睡蓮の品種改良ブームの時期と重なる。
 1840年にパリに生まれたモネは、迷うことなく10代から画家を志した。しかし、印象派という新しすぎる画法は、当時の画壇に長く受け入れられることがなく、さんざん叩かれ相手にされなかった。印象派という呼び名は、モネの画『印象、日の出』から来ている。
 それでもモネはめげることなく自分の信じる画風で描き続けた。のちに印象派の画家と呼ばれるルノワール、セザンヌ、ゴーギャンたちはそれぞれ印象派を脱却して独自の画風を確立していったのに対して、モネだけは死ぬまで印象派であり続けた。
 貧乏暮らしの中でも妻のカミーユと息子のジャンという愛する家族がいて、モネの絵はいつでも明るい。特にカミーユとジャンを描いた『日傘をさす女』は、優しくて柔らかい光に包まれていて、見る者に向かって幸せな風が吹いてくるようだ。私はモネの絵の中でこれが一番好きだ。
 しかし、モネが38歳のとき、カミーユは32歳で死んでしまう。ベッドの中のカミーユを描いた『死の床のカミーユ』は、胸を打つ。青灰色で塗り込められた世界は、死そのものだ。見ること、観察することに生涯徹底的にこだわり抜いたモネだから描けたこの絵は、いいも悪いも突き抜けて、ただそこに存在している。カミーユの死に顔と共に。

 86歳まで生きるモネの生涯は、ここではまだ半分でもない。早くからモネの支援者だったオシュデの未亡人アリスと6人の子供と共に、各地をさまよい歩きながら絵を描き続けた。移り変わる光を追い求めて、何度も同じ風景を描き、やがてアリスとの結婚で大家族に囲まれ、また描き、そうやって自己を再生させながら、本当の意味で光を捕まえられるようになっていった。時代も変わり、ようやくモネの絵は認められるようになっていく。50歳のことだ。
 他の印象派の画家と同じく、モネも日本の浮世絵から多くの影響を受けた画家のひとりだ。その色づかいや大胆な構成にインスピレーションを得ていたという(大きな影響を与えたのが広重の「名所江戸百景・亀戸天神境内」だと言われている)。モネは特に日本のことも好きだったようで、日本風の庭園には藤を植え、池には太鼓橋を架け、インテリアは浮世絵に合わせた色づかいをしていたそうだ。
 睡蓮を盛んに描き始めたのはモネが57歳くらいの頃からだった。来る日も来る日も睡蓮の池の前に座り、光のある朝から日没まで描き続けた。捉えたかったのは、水面に映る光と色と変化だったのだろうか。モネは一瞬を切り取って定着させようとはしていない。絵の中に定着させようとしたのは、あくまでも変化そのものだった。だからいつも光が踊り、風が吹いている。水面というのはそういう意味で変化の象徴だったのかもしれない。
 生涯に描いた睡蓮の絵は200枚を超えている。

 以前、私が一番好きな画家はスーラだった。けど、今スーラの絵を見ると、すごく暗い。こんなに暗い絵だったのか驚くほどに。今はもっと明るい絵が好きだ。モネも前より好きになった。
 世界は光であり、光は色だということをモネがあらためて教えてくれる。そして、世界の本質は変化だということも。
 写真を撮っていると、光のありがたみを痛感する。光のない写真はどこか物足りなくて、光があるだけで平凡な風景が非凡なものとなる。だからいつでも光が欲しいと願ってしまう。けど、その前にもっときちんと光を捉えられるようにならなくてはいけない。そのためには、モネが言うように徹底的に観察することだ。光が見えたとき初めてシャッターを切るくらいにならないといけないのだろう。
 見る人の心に、明るくて穏やかで優しい光が差し込むような写真が理想だ。私もいつか、「日傘をさす女」を撮りたい。日傘の似合う人を募集してます。
 さあ、私たちも光を求めて太陽の下に繰り出そう。草原に、川に、池に、海に、街の中に、愛する人と共に。そこには風も吹いているだろう。とどまることなく移りゆく時間の中で、手を伸ばして一瞬を捕まえよう。それはもう二度と帰ることのないただ一度の一瞬だ。

お地蔵さんは毎日がサンタクロース状態で駆け回る 2006年12月19日(火)

神社仏閣(Shrines and temples)
地蔵さんの後ろ姿

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/6s(絞り優先)



 子供の頃、クラスメイトにお地蔵さんというあだ名を付けたり付けられたりした記憶がある人も多いと思う。しかし、私たちは意外なことにお地蔵さんについて知ってるようで知らない。呼び名からして親しみは感じてるものの、それが侮りとまではいかなくても少し軽く見てしまっているところがある。けれど本当のお地蔵さんというのは、実はとっても偉い神様なのだ。今日はそのことについて語ろうと思う。これを読めば、もう、えなりかずきがお地蔵さんに見えることはなくなるだろう。地蔵は、だってしょうがないじゃないか、なんてことは決して言わない。

 ネパール生まれのゴータマ・シッダールタは、裕福な王子としての暮らしに疑問を感じ、29歳で妻子を残して出家し、35歳で悟りを開き、80歳で死んだ。釈迦牟尼仏陀、のちに仏陀(ブッダ)あるいはお釈迦様と呼ばれる仏教の開祖だ。キリスト教も仏教も、考えてみればひとりの人間から生まれ、人間を神として祭っている。
 そのお釈迦さんが次に地上に戻ってくるのは56億7000万年後。どこからこういう数字が出てきたのかは分からないのだけど、とにかく長期間不在になる地上を私がなんとかしましょうと名乗り出たのがお地蔵さんこと地蔵菩薩だった。
 仏教におけるこの世界というのは、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の6つに分かれていて、人間はそのどこかに転生して、最終的には解脱を目指すという基本的な考えがある。地蔵さんは、本来なら仏になれるのに、それを無期限延期して、あえてその六道を自らの足で歩き回って苦しんでいる人たちを救うと決めた。いうなれば庶民のヒーローなのだ。その割にはあまり敬われていないようなところもある。そのことについて地蔵さんは文句を言ったりはしないだろうけど。
 地蔵菩薩の像がよく6体並べて作られているのは、この六道輪廻の思想が元になっている。6体でそれぞれの世界に赴いて人々を救済しようというわけだ。救っても救ってもきりがないから、早くお釈迦様戻ってこないかなと、ときどきは思ってるかもしれない。

 地蔵菩薩は、サンスクリット語でKsiti-garbhaで、これは大地と胎内を意味する。そこから地蔵という呼び名が生まれた。
 日本に伝わってきたのは奈良時代で、中国を経由して入ってきた。最初はほとんど信仰の対象になるようなことはなかったようだ。平安時代に入って多少は知られるようになったものの、本格的に信仰対象となったのは平安末期だった。当時、悪いことをした人間は必ず地獄に堕ちるという思想が広まって、地獄で仏とばかりにみんな一斉にお地蔵さんにすがるようになった。その後ブームのようになり、この時期にたくさんの地蔵仏が作られた。奈良の法隆寺や徳島の鶴林寺にある国宝の他、奈良の東大寺、橘寺、京都の広隆寺などに国の重要文化財の地蔵仏がある。
 地蔵菩薩を本尊としている寺もけっこうある。京都の壬生寺や、鎌倉の建長寺などもそうだ。
 足利尊氏はお地蔵さんが大好きで、地蔵の絵を描いてみんなに配り歩いていたそうだ。会社の上司や社長にそんなことをされても困ってしまうだろうけど、尊氏の描いた地蔵の絵なら欲しがった人は多かっただろう。今持っていたらお宝中のお宝となっていた。
 鎌倉時代から室町時代にかけて、地蔵信仰は貴族から庶民の間まですっかり定着して、様々な性格を帯びるようになる。戦の神でもあり、農耕の神でもあり、子供を救う神ともなった。
 更に多様化したのは江戸時代だ。すっかり庶民の味方としてお馴染みとなり、道ばたなどにもたくさんの石仏が置かれるようになる。延命地蔵、子育地蔵、片目地蔵、とげぬき地蔵、水子地蔵などの身代り地蔵が流行り、お地蔵さんは一年中毎日がサンタクロースのように大忙しになってしまった。
 各地に地蔵講が作られ、月の24日を地蔵の縁日として祈るようになり、8月24日は盂蘭盆(うらぼん)にも当たるということで地蔵盆と呼ばれ、かつては一大イベントだった。現在は関西地方で名残を残しつつ、全国的にはあまり一般的なものではなくなっている。
 地蔵菩薩というだけに最初は地蔵さんも凛々しい菩薩の格好をしていた。今は丸っこくてコミカルな石仏のイメージが強くなっている。立ち姿のものは、たいてい僧侶のような格好をして宝珠(ほうじゅ)と錫杖(しょくじょう)を持っている。これも後年になって作られたイメージだ。
 宝珠というのは、願い事を叶えてくれたり苦難を取り除いたりしてくれるもので、錫杖はじゃらじゃらと音がする杖だ。仏の功徳の本質的なもので、実際的には僧侶が歩くときに鈴を鳴らして毒蛇除けなどに使った。
 現在の地蔵石仏は、写真のように毛糸の帽子をかぶせられたり、前掛けをかけられたりしてることが多い。ちょっと子供扱い。本当は偉い立派な神様なのに。

 どうだろう、こうして表面的にでも地蔵さんのことを知ってみると、けっこうイメージが変わったんじゃないだろうか。少なくとも、えなりかずきは地蔵っぽくはないことが分かったと思う。あんなにいちいちプリプリしてたら地蔵の仕事は勤まらない。昨日出てきた、江原啓之は地蔵とイメージが重なる部分がある。
 私はちょっと地蔵にはなれそうにない。いきなり、あなたは128代地蔵に選ばれました。うちの組長になっておくんなさい、などと言われても困ってしまう。結局誰も救えずに一人取り残された星泉ちゃんのようになるだろうし。そもそもセーラー服も着られないし、機関銃では世界は救えない。
 お地蔵さんを救う方法がひとつだけある。それは、この世界の全員が自らを救って、解脱することだ。理屈で言えば、そうなればお地蔵さんの仕事はなくなって、心置きなく仏になることができる。けれどそれは、少なくとも56億7000万年後なんだろう。お釈迦さんが戻ってくるそのとき、果たして人類はどうなっているんだろう。その頃までに私も解脱できているだろうか。
 生前に一度でもお地蔵さんに手を合わせれば、たとえ地獄に堕ちたとしてもお地蔵さんが救ってくれるという。そんなことなら簡単だと思うかもしれないけど、実際に地蔵さんにきちんと手を合わせたことがある人がどれくらいいるだろう。地獄へ行く予定がなくても、一度だけでも手を合わせておいた方がいい。保険のつもりで。ただし、あの世でも最近はなかなか保険が下りなくなっているかもしれないので、手を合わせるときによくよく契約内容を確認しておいた方がいいだろう。お地蔵さんとは事前の細かい打ち合わせが必要だ。
 お地蔵さんを喜ばしたければ、手を合わせるよりも手をわずらわせないことだ。自分で自分で救えればそれが一番いい。いいところも悪いところも、全部お釈迦様が見てくれている。

生きている水晶を生かすも殺すも身につけた本人次第 2006年12月18日(月)

物(Objet)
水晶パワー

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/100s(絞り優先)



 宝石にも金銀財宝にもまったく無縁の人生を送ってきた私が、最近水晶をつけている。水晶をのぞいているのではない。突然路上でそんな商売を始めたとかそういうことではなくて、魔よけのお守りとしてつけているという意味だ。腕が白すぎるだろう、おまえはウッチャンか、などという野次はこの際無視して、こんな感じで腕に巻いている。腕時計さえ何年もしていないくらい何もつけない私だから自分でも驚いている。
 それもこれも江原啓之のせいだ。友達に教えてもらって少し前から観始めている「オーラの泉」に出ている江原のアニキは平成狸合戦の実写版だった。あるいは、インチキそうな若花田にもちょっと似ていた。花田勝氏よりもいい人そうだけど。
「オーラの泉」はとても面白い番組なのでおすすめしつつ、見ているとやっぱり江原啓之は本物感が強い。何か見えていることは確かだし、言ってることもごくまっとうなことばかりだ。正論過ぎるくらい正論と言ってもいい。美輪明宏が認めてるくらいだからニセモノではないだろう。別に全面的に肯定して信者のようになる必要は全然なくて、役に立つところだけ参考にして取り込めばいい。彼自身もスピリチュアル・カウンセラーと名乗っているように、迷える人の手助けをしてる人だ。人々に真理を与える宗教家でもない。
 番組を知ってからしばらく経ったとき、たまたま「Book off」の100円コーナーで江原啓之の本を見つけた。そんなに読みたくないけど100円ならとりあえず買っておくかと思って買った本の中に、水晶の話があった。鉱物にはエネルギーが宿っていて、水晶には邪悪なものを祓ったり、精神を浄化する働きがあるという。そのときはふーんと思っただけで過ぎてしまったのだけど、しばらくしてたまたまひょいっと水晶が手に入ってしまった。何気なく見ていたオークションで安かったから。
 こういう一連の流れが生まれてしまえば、もう乗っかるしかない。縁というのはそういうものだろう。それからというもの私は、競馬では連戦連勝、パチンコに行けば打ち止め、宝くじは当たって、クラスではモテモテさ! などということは一切なく、ごく平和に暮らしをしている。いや、いいことはあった。考えてみると悪いことも起こってない。気分的にも安定している。その全部をもちろん水晶のおかげだなんて思ってはいないけど、もしかしたらいいことがあるかもしれないなというプラス思考が良い波動を生んで、結果的に物事がいい方に進んでいる可能性はある。水晶を身につけていると、自分の身に危険が迫ったとき身代わりになってくれるという話もある。とりあえず何かすごく悪いことが起きるまではこのままつけていようと思う。

 前にも書いたように、水晶は日本の国石だ。案外そのことは知られていないようで、なんとなく真珠がそうだと思っている人も多いかもしれない。
 ダイヤモンドが太陽を象徴する石で、水晶はそれと対極にある月を表している。世界中どこででもたくさん採れるからあまりありがたがられてないものの、もしこれが貴重な石だったらダイヤモンドとセットで語られていたことだろう。
 水晶は一般的に石英(せきえい)のことで、これは二酸化ケイ素が結晶してでできた鉱物だ。天然のものは六角柱状の結晶をしてることが多い。
 英語では透明なものをクリスタル(ロッククリスタル)、石英をクォーツ(Quartz)として区別することもある。時計のことをクォーツ時計というのは、時計の多くが水晶発振器を利用して作られているところからきている。その他、工業用のガラス製品やデジカメのローパスフィルタなど、現在でも様々な場所で利用されている。当然、占い師も持っている。
 クリスタルの語源は、ギリシャ語の氷を意味する「クリュスタロス」から転じたものだと言われている。そこから水を象徴するものにもなり、中国の風水でもよく使われている。日本でも、古くは水精と呼ばれ、農作物の精霊のように思われてきたのだとか。
 水晶というのは総称であって、色や内包物によって様々な名前がつけられている。代表的なものに、アメジスト(紫水晶)、黄水晶、紅水晶、煙水晶、黒水晶、レモン水晶などがある。水晶が固まるときに細い針のようなものが入り込んだものをルチル入り水晶といって、これが金色だったりするとゴールドヘアーなどと呼ばれ価値が上がる。種類でいうと200種類以上あると言われる。
 主な水晶鉱山としては、アメリカのアーカンソー州やブラジルのミーナジュライス鉱山などが知られている。日本では山梨県の乙女鉱山でかつてたくさん採れたそうだ。山梨には国内では唯一の宝石博物館がある。武田信玄も水晶の念珠を常に左手につけていたという。
 水晶は天然と人工を見分けるのが難しいと言われているけど、小さな玉の装飾品は安くても天然と思って間違いないと思う。小さいものは天然でも安いからわざわざガラスなどで作るまでもない。天然の印としては、玉の中に傷が入ってることが多い(安いやつは)。ただ、占い師が持ってるような大玉の場合はちょっと注意が必要だ。ガラスではなくても、水晶を溶かして固めたやつが多いから、そういうのは安くても買わない方がいい。いきなり予備知識もなく何万もする大玉を買う人はあまりいないと思うけど。
 こういうのも縁だから、見て気に入ったものを買うのがいいと江原さんも言っている。ただ、ビビビっと来たからといってすぐに飛びついてしまうとビビビ婚で離婚した松田聖子の二の舞になる可能性があるので気をつけたい。

 水晶に限らず鉱物というのは、地球が長い時間をかけて育ててきたものだ。ある意味では生き物とも言える。だからエネルギーが宿り、それが良くも悪くも人体に影響を及ぼす。エネルギーは使えば減るから、そうなったら補充する必要が出てくる。水晶は特に記憶力のいい鉱物と言われていて、いろんなエネルギーを吸収しやすいとされる。
 まず最初に手に入れたら、リセット作業をするようにとどこでも書かれている。半分は儀式のようであり、半分は実際的な意味でのようだ。様々な方法がある中で、流水に浸すというのと月光浴をさせるというのが個人的によさそうだと思っている。蛇口の下にボウルを置いて、その中に水晶を入れて5分ほど水を流しっぱなしにする。そのあと取り出して月光の下で自然乾燥させる。水と月の象徴であることを考えると、これが理にかなってるんじゃないだろうか。他にも土に埋めるや塩をかける、神社へ連れて行くなどの方法も紹介されている。
 身につけているとエネルギーが減ったり、邪気を吸い込んだりするので、そのときは同じようにリセットしてやるといいそうだ。最近ではパソコンの電磁波を吸い取るというような言われ方もしている。

 水晶にそんな力がホントにあるのかよなんて思ったなら、それはまだ縁がないということだ。ほんの少し前までの私がそうだった。縁がなければ人に勧められても持つようにはならない。信じていなければ効果も発揮しないだろう。
 一つ言えることは、水晶だろうとダイヤモンドだろうと、無から有を生み出すわけではないということだ。石は魔法なんかじゃない。ただ、人の思いを感じてそれを増幅する力のようなものがあるというのは信じてもいい。単に見た目がきれいだからというだけで人類がこれほど宝石に魅せられてきたとは思えない。古代社会では呪術的な儀式に使われたり、高貴な身分の人間しか身につけることを許されなかったりしたことを考えても、人が鉱石に特別な力を感じてきたのは間違いない。精神に石が反応するというよりも、石の魅力によって精神が増幅すると言った方が正しいのかもしれない。
 宝石は単なる金持ちの道楽ではない。上手につき合って、パワーを分けてもらえば自分を幸福にしようとするときの手助けをしてくれるものにもなる。ただし、あまりにも魅せられすぎたり執着しすぎたりするのは危うい。手に入れた者を次々と不幸にする宝石があるように、石の魔力や石原真理子に対しては充分身構えておく必要がある。たぶん、水晶を身につけていれば石原真理子にも引っかからなかったと思う。森本レオには特別大きなやつを贈ってあげたい。いや、贈るなら13人の男たちではなく、石原真理子の方なのか? もっと早く教えてあげたかったけど、本が売れてるみたいだから、まあいいか。ああ、翔んだカップル。

2006年最後のサンデー料理はオール電子レンジ 2006年12月17日(日)

料理(Cooking)
電子レンジサンデー

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f3.2, 1/30s(絞り優先)



 2006年のサンデーも今日を入れて残り3回となった。カレンダーを見てみると、来週はクリスマスイブでその次は大晦日だ。ということは、今年のサンデー料理は今日が最後ということになる。先週は東京帰りの後遺症で初めて穴を開けてしまったけど、それまでは毎週欠かさずサンデー料理を作った。日曜日にどんだけヒマなんだというツッコミをかわしつつ、一年間休まず続けてこられたことを喜びたい。一週でも怠けてしまうと、私の性格からしてどうしても怠け癖がついてしまうから、続ける気持ちがあるうちは続けたい。3日坊主だった私にさようなら、勤勉な私に初めまして。坊主はもう戻ってくるなよ、勤勉さんいらっしゃぁ~い。どこからおいでになりましたか? などという独り小芝居はこれくらいにして、今年最後のサンデー料理について書いていこうと思う。

 今日は今年一年の集大成ということで、お馴染みの料理を3品作ってみた。作りたくて食べたいものを選んで。ただし、同じようなものを二度作るのでは能がない。今回初の試みとして、すべてを電子レンジで作ってみた。オール電化の時代だもの。現代人だもの。人間だもの。みつをだって今の時代を生きていればきっとそう言っただろう。
 3時間後、苦労の末に私は悟った。確かにオール電化の時代は来ているのかもしれないけど、オール電子レンジの時代は金輪際来ないということを。言葉に尽くしがたい面倒くささとかかりすぎる無駄な時間、そして捨てられるサランラップの山。材料を切ってサランラップで巻いて、レンジに入れて、その間に別の材料をたれに浸けて、チンの音で取り出して、他の食材をラップで巻いてレンジに入れて、違うものをラップに巻いてる途中でチンと鳴るから取り出して、ラップをはずそうとしてヤケドして、またラップに巻いてレンジに入れて、たれを作って、出して巻いて入れて出して巻いて入れて、っていい加減にしろ! としまいには電子レンジから苦情が来そうだった。オレをどんだけ働かせる気だ、という声が聞こえたような気がしたのは空耳だったか。
 とにかくすべてを電子レンジで調理するのはどう考えても無理がある。食材からたれから何もかもをレンジでする必要は全然ない。今回は実験だったからあえてそうしたけど、普通はしない。ライフラインの料金未払いでもガスを止められる前に電気を止められるだろうから、コンロは使えないけど電子レンジは使えるからこれで料理しよう、なんていうシチュエーションはあまり考えられない。たまたま夕飯前にコンロが壊れてしまうとかそういうことがごく稀にあるかもしれないけど。
 肝心の味はどうかといえば、これまたレンジでやると美味しさは少なくとも30パーセント減になる。やっぱり火力って偉大なのねと今回あらためて思った。ときにマイクロウェーブの野郎は石原ヨシズミのナチュラルパーマネントくらい役に立たないのであった。

 右手前は「白身のチーズ挟み、青のりと白ごまかけ」。
 白身に塩コショウを振って、たれ(コンソメの素・牛乳・白ワイン)に10分ほど浸け込んだあとラップをしてまず1分、ひっくり返して1分、チーズを挟んでラップして2分加熱する。
 最後に刻み青のりと白ごまをかけて、温めたたれをかけて出来上がり。これが一番楽だったのだけど、それでも普通に蒸した方が簡単だし美味しいし、電子レンジでやる意味なし。
 左奥は「豆腐の魚介茶巾、味噌しょう油かけ」。
 木綿豆腐をペーパーでくるんでレンジで2分加熱して水分を飛ばしあと、ボウルに入れて砕く。そこへ刻んだエビ、戻しシイタケ、カニ缶、鶏肉、卵、カタクリ粉を加えて混ぜる。あとはラップにくるんで茶巾にしてレンジで3分温めるだけだ。これはレンジ向きの料理で、簡単かつ美味しいのでオススメできる。
 たれは、しょう油、みりん、酒、卵黄、白みそ、だし汁で作った。これもレンジで温めたけど普通は鍋で温める。
 右奥が一番面倒だった「野菜重ねの赤身そぼろがけ」。
 まず材料を輪切りにして、白ワインをふりかける。ダイコン、ジャガイモ、ナス、ニンジン、タマネギ、アスパラガス。その後ひとつずつラップでくるんで、火が通りにくいものからレンジで温めていく。これが時間がかかる。特にダイコンなんてなかなか柔らかくならない。10分くらい加熱してもまだ芯が残った。ニンジンもかかる。ジャガイモはまずまず。ナスやタマネギ、アスパラは早い。レンジで温めるにしても下茹では必要だ。
 そぼろは今回もひき肉ではなく赤身魚で作った。赤身を細かく切って、しょう油、酒、みりん、塩、コショウを多めに加えて混ぜ合わせてレンジで3分。温めると固まるから、取り出したらすぐに刻んだ方がいい。

 こんな無駄とも思える電子レンジ料理だったけど、一つよかったのは料理を始めた頃のてんてこ舞いな自分を思い出すことができたことだ。最近は少し慣れて普通に出来すぎるようになった自分に物足りなさを感じていた。思い返せば今年の最初の頃は、材料を切るだけで1時間かかったり、圧力鍋で作ったカレーが爆発して台所がカレーの海になったり、超高温の油の中に揚げ物を投入してあっという間に黒こげになったり、そんなことがいろいろあった。今となってはいい思い出のそれらに、今回のオール電子レンジ料理も加わることとなって、ちょっと感慨深い。これぞ今年の集大成としてふさわしいサンデー料理と言っていいだろう。今日一日で一年分くらい働いたロートル電子レンジにも感謝しないと。最後はレンジが爆発するんじゃないかと思うほど高温になってたから、ちょっと心配だった。
 来年のサンデー料理は、人に食べてもらえる安定した味付けと、食べたことのない未知料理に挑戦というのが引き続きの二本柱となる。それに加えて、料理絵もやっていきたい。形を崩さずに火を通す電子レンジ調理というのがそのとき役に立つかもしれない。そうなれば今回のオールレンジも無駄じゃなかったということになる。ラップでくるむとかなり食材の形をとどめることができることが分かった。
 そんなわけで、今年一年、サンデー料理におつき合いいただきどうもありがとうございました。いまだ、突撃! 私の晩ごはんは実現に至ってないけど、来年はぜひやりたいと思ってます。日曜日の夕方、食卓に空の皿を並べて、箸をなめながら私の訪問を待っていてください。けど、来年の日曜日は今年みたいにヒマすぎないといいなという気持ちもありつつ、さよならサンデー料理。また来年会いましょう。
 なんて言いつつ、クリスマスイブにのこのこ出てくるかもしれないので油断は禁物です。もしケーキを手作りして一人で食べていたとしても、私を笑ってはいけません。笑った人には私のケーキはあげません。

キンクロハジロの多さに驚き、東京のカモの豊かさを知る 2006年12月16日(土)

野鳥(Wild bird)
皇居のキンクロハジロ

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/125s(絞り優先)



 東京の見物の途中で少しだけ鳥の人となることがあった。上野公園の不忍池と皇居の外堀で。最初に行ったのが皇居の方で、堀を眺めていたらいきなりキンクロハジロがぐんぐんこちらに迫ってきて驚く。一羽ではなくみんな一斉に。なんだ、なんだ? キンクロハジロ自体、名古屋ではめったに見かけないのに、まさか東京にたくさんのキンクロがいて、しかも逃げずに寄ってくるなんて思いもしなかった。
 かなり人に慣れているようで、エサももらっているのか、私が何もくれない人間だと分かると、みんなそそくさと離れていった。そのへんはしっかりしている。都会暮らしで身につけた処世術というやつか。
 今回の東京行きで驚いたことのひとつが冬鳥たちの多さだった。都会の中のカモ密度ということでは名古屋よりもずっと濃い。なんでこんなに人も車も多くて空気も水もきれいとはいえない東京なんかに渡ってくるんだろうと思ったけど、名古屋城の堀が皇居の堀よりきれいかといえばそうでもないように、東京は都会だから住みづらいだろいうというのは人間の側の偏見でしかない。エサやり人の人数は圧倒的に東京の方が多いから、カモとしてはむしろ住みやすいところと言えるのだろう。カモ界では田舎は世知辛くていけないね、というのが常識なのかもしれない。
 それにしても不忍池のカモたちは異常だった。人に対するなれなれしさが尋常じゃない。たいていのカモは人が少しでも近づけば泳ぐか飛ぶかして逃げていくものだけど、東京のカモは逆に人を見ると寄ってくる。めったに水からあがらないようなキンクロハジロでさえ、陸をトコトコ歩いてるからびっくりする。オナガガモなんて触れそうなくらい近くにいるから、全盛期のマイク・タイソンなら1分で50羽くらい素手で捕まえられただろう。
 不忍池は、オナガガモ、キンクロハジロ、ホシハジロあたりでほぼ90パーセントくらいを占めていた。こういうのを優占種という。名古屋に多いコガモやマガモが少ないのも東京の特徴だ。
 皇居ではこれに加えてハシビロガモが多くなる。ヒドリガモやミコアイサ、オシドリなんかもいるというから、カモの種類は豊かだ。皇居といえば、カルガモの親子が有名だけど、冬シーズンは渡り鳥たちに圧倒されて影が薄くなっている。仲間が増えて嬉しく思ってるのか、それともこいつらシーズンだけ勝手に来てうちらの陣地を占領しやがってと苦々しく思ってるのか、どっちなんだろう。それとも、習性が違うから仲間とは思ってないのか。
 どこへ行ってもユリカモメがギャーギャー騒いでうるさかった。昔はカワウが多かったらしいのだけど、いつの間にか減って、その代わりにユリカモメが増えたそうだ。このへんも時代と共に移り変わりがある。
 その他、コブハクチョウも浮いていた。これは野生じゃないから、どこかから運んできたのだろう。上空ではオオタカやチョウゲンボウが見られることもあるというから、皇居の自然は都会の中の野鳥の楽園と呼んでもいいかもしれない。行ってみるまで知らなかった東京の自然の豊かさを垣間見た。

キンクロハジロの群れ

 10月、子育てを終えて故郷のロシアやヨーロッパ北部が冬を迎える頃、キンクロハジロたちは寒さから逃れるために集団で南へと渡っていく。長旅は大変だけどこんなに寒くちゃやりきれねえと思うのだろう。マイナス20度、30度の世界に比べたら、日本の0度やそこらは常夏の暖かさだ。日本の他、中国南部やインド、アフリカ北部などでも姿を確認することができる。
 日本ではどういうわけか東京に多く、諏訪湖、芦ノ湖、琵琶湖、浜名湖、有明湾など、広くて流れの弱いところが好きなようだ。名古屋では名古屋城の堀などに少数やって来るらしいけど、私は見たことがない。流れの早い川などにはいない気がする。
 キンクロは海ガモのグループに属していて、潜水が得意だ。潜れないマガモ、カルガモ、オナガガモなどは淡水ガモとして区別する。海ガモといっても生息地はたいてい淡水で、海にいることは少ない。
 昼間も普通に過ごしているものの、基本的には夜行性と言われている。夜、水中に潜って底の貝やエビちゃん、水草などを食べる。東京のやつらは例外で、人が投げたパンなどを拾い食いしている。栄養的に大丈夫なんだろうか。潜水時間は10秒から20秒くらいで、最大で3メートルくらい潜れるという。エサは水面に上がらず水中で飲み込む。
 キンクロハジロは漢字で書くと金黒羽白となる。これはもう読んで時の如くで、金色の目、黒い体、白い羽から来ている。
 英名はTufted Duck。Tuftedというのは「ふさ飾りがついた」という意味で、これはキンクロハジロの後頭部についているふさふさした後ろ髪(冠羽)から名前を取っている。あのカモ、寝ぐせがついてるよ! などと不用意な発言をしてしまうと、それを小耳に挟んだ鳥の人に聞かれて、あれは冠羽っていってですね、よく似たスズガモと区別するときはあそこを見るといいですよ、などと頼んでもいない説明をされてしまう恐れがあるので気をつけて欲しい。いや、逆に双眼鏡を首からぶら下げてる人や三脚にフィールドスコープを付けてる人の近くで、あえて知ったかぶりなことを聞こえるように言って解説を引き出すという作戦もある。
 体は日本で見られるカモとしては一番小さいくらいで、40センチ前後。オスの方が少し大きくて、だいたいコガモと同じくらいだ。コガモの大きさがよく分からないという人は、鳩より一回り大きいくらいと思ったらいいと思う。
 メスは茶褐色で地味な装いをしている。上の写真でいうと、一番上の一羽がそうだ。カモをメスだけで区別できるようになればカモ上級者と呼ばれるだろうけど、そこまでいっていいものかどうか、私自身はまだ迷いがある。道のりは遠い。
 冬の間を日本で過ごした彼らは、4月頃、そろそろ暖かいのを通り越して暑くなってきやがったと、また北へと帰っていく。年に2度も数千キロも旅することを彼らはどう思っているのだろう。それが生きる道だと思い定めているのか、それとも遺伝子に組み込まれた逆らえない本能なのだろうか。
 無事に北へ帰り着いたキンクロたちは、そこでペアになり、5月から7月にかけて子育てをする。キンクロの場合は、水辺の草むらにアシなどの葉と自分の羽毛で巣を作って、だいたい10個前後の卵を産むそうだ。かなり多めなのだけど、敵が多いのか。
 ふ化までに25日くらいかかり、その間はずっとメスが温めている。キンクロのオスは子育てではまったくの役立たずだ。ヒナはひと月半ほどで早くも独立して自分でエサを捕るようになる。秋になったらすぐに渡らなくてはいけないから、のんびり成長してるわけにはいかないのだ。
 今年お堀にいたやつのどれくらいが去年も来てたやつなんだろう。冬にカモを見て、おかえりなさいと思ってしまったあなたは、もう鳥の人。

 野鳥好きの人たちのことを総称して「鳥屋(とりや)」と言うそうだ。鉄道好きの人を鉄っちゃんと呼ぶのと同じようなものだろう。でも、野鳥好きの人が自分たちのことをそう呼んでいるかどうかは知らない。私は鳥の人と言っている。私自身は半鳥の人に過ぎない。
 今回の冬シーズンでカモに関しては3度目となる。一年目はまったくわけも分からず、ただカモの写真を撮っていただけだった。去年は少しずつ分かるようになって楽しかった。今年はまだここまで全然勉強が進んでない。ほとんど撮りに行ってもいないから、新顔とも出会ってない。
 今シーズンのカモ目標は、見られるはずでまだ見たことのない少数派カモを一種類でも多く写真に撮ることだ。ヒドリガモやヨシガモ、できればトモエガモも見てみたいし撮ってみたい。オシドリも撮って、オシドリ夫婦というけど、オシドリってけっこう節操がないというあたりも書いてみたい。
 でも、このまま順調にいってしまうと、いつか野鳥の会に入ってしまいそうな自分が怖い。紅白歌合戦に出られなくなってしまった今、野鳥の会に入会することは柳生博になることを意味する(そうなのか?)。入会しそうになっている私を見つけたら止めてください。全然ハンターチャンスじゃないと思うから。

東京日和ツアー最終章---増上寺のゆるい感じ 2006年12月15日(金)

東京(Tokyo)
増上寺山門

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.0, 1/20s(絞り優先)



 芝の増上寺(ぞうじょうじ)へ行こうと思った。なんでだと自分に訊ねてみた。なんでだろう? なんでだろう~、なんでだろう~、なんでだなんでだろう~♪ 古っ!
 増上寺がどんな寺で、何を見たいのかよく分からないまま、なんとなく行ってしまった私は、門をくぐった境内で、あまりの空気の薄さに戸惑うことになる。なんだこの気の抜けた感じは。何にたとえたらいいのか分からないこの薄さ。もちろん、富士山山頂のように酸素が薄いとかそういうことではない。霊感はまるでない私だけど、霊的な空気感がまったく抜け落ちているというか、スースーしてしまっている。帰ってきてから歴史的なことをいろいろ知ったものの、それでも歴史的な空気の重みがあの場所にとどまっているようには思えなかった。徳川家のみなさんも、戦時中に疎開してしまったのかもしれない。

 写真の三門、正式名「三解脱門(さんげだつもん)は、1622年に建てられたもので、戦災を逃れた数少ない建造物のひとつだ。二重門の威風堂々たる姿は、江戸時代の人たちが驚いたように、現代の私たちをも驚かせる。これは文句なしに立派なものだ。間口16メートル、高さ21メートルあり、ペリーが浦賀にやって来たとき、この門の二階からその姿が見えたそうだ。
 この門をくぐると、3つの煩悩(食欲・瞋恚・愚痴)から解脱できると言われている。門をくぐってきた私は食欲もなくなりガリガリです、というわけでもない。瞋恚というのは「しんい」と読み、嫌いや怒りの感情にとらわれることをいう。そういえば、帰ってきてからサンドイッチに入っていたキュウリを食べた私。もしかして最終解脱してしまったか? 空だって飛べる、かも?
 この三門の手前に、総門がある。戦災で焼けてしまって現在のものはコンクリート造りなのだけど、町名や駅名になっている「大門」は増上寺の総門のことを指している。西部警察の大門圭介団長(渡哲也)とは関係ない。

増上寺大殿

 増上寺大殿 東京タワーとボクと、時々、ツアコン。
 なんとも脱力感を誘う光景だ。シュールすぎてかえってゆるい感じがする。私でさえ、ありえなくない? なんて言葉を使ってしまいそうになる。うーむ、それにしてもこれはなんとも。
 増上寺を説明するとき、その歴史と伝統と格についてとうとうと語ることができる。600年の歴史を持つ浄土宗の七大本山の一つで、徳川家の菩提寺として関東十八檀林の筆頭として興隆を極め、現在でも日本有数の寺格を誇る寺だ。しかしなのである。そんなことに思いを馳せながら増上寺を見ようとしても、否が応でも目に飛び込んでくる東京タワーのデカさ。増上寺に集中できんっ!
 もともとは空海の弟子の宗叡が千代田区麹町あたりに建てた光明寺が始まりだそうで、室町時代の1393年、酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)が真言宗から浄土宗に改宗して増上寺となったのだそうだ。正式名称は三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)。
 1590年に徳川家康が江戸城に来たとき、たまたま通りかかって住職の源誉存応上人と意気投合して菩提寺としたのだった。
 いったん日比谷へ移ったあと、江戸城拡大のときに現在の芝に移ってきた(完成は1611年)。この地を選んだのは、徳川家のもうひとつの菩提寺である鬼門の寛永寺に対して、裏鬼門に当たるのがこの芝だったからだと言われている。天海和尚の入れ知恵だったという話もある。

 関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利して江戸幕府が開かれると(1603年)、増上寺は大繁栄への階段を登り始める。君はまだ菩提寺さ。幸せはきっと家康が、運んでくれると信じてるね。江戸だったといつの日か思う時が来るのさ(替え歌の元歌が分かりづらい)。
 三解脱門、大伽藍、鐘楼(江戸三大名鐘の一つ)、将軍の御霊屋など次々と造営されていき、戦争で焼けるまでは五重塔も建っていた。常時3千人の修行僧がいて、格付けランキングでは京都の知恩院と並び称されるほどだった。
 増上寺で葬儀を行うようにと遺言を残して死んだ家康のあとも(75歳)、代々将軍によって手厚く保護され続け、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂と、6人の将軍の墓所がここに作られた。その他、悲劇の皇女と言われた静寛院和宮(家茂の正室)もこの地に葬られている。京都から江戸城に移った明治天皇も、増上寺を最初の勅願寺とした。
 しかし、明治に入ってからは一転厳しい状況に追い込まれていくことになる。1873年(明治6年)と1909年(明治42年)と二度の大火事で、多くの建物が燃え、大殿までもが消失してしまう。更に芝公園の整備によって境内は半減してしまい、一気に過去の栄光の面影が薄くなる。
 大正時代になってようやく大殿の再建を果たしたと思ったら、第二次大戦の大空襲で徹底的にやられてしまった。大殿も五重塔も、国宝だった徳川家霊廟も、ことごとくが燃え落ちた。
 戦後、徳川将軍の墓は別の場所に移され、かつて壮麗な霊廟があった場所には、ゴルフ場と東京プリンスホテルが建っている。
 今の新大殿は、昭和46年に35億円かけて再建したものだ。しかし、いくら立派でも歴史の重みはない。そのあたりも、私が空気が抜けてしまっていると感じた理由なのだろう。
 現在、徳川将軍家墓所は非公開となっていて、家康の命日前後などしか拝観できない。昔の国宝なら見たかったけど。
「練行列(ねりぎょうれつ)」というのがあって、昔のの衣装を身にまとった人たちが練り歩いたり、三解脱門の上から「散華」という極楽の花の花びらを模した紙(?)をまくのを拾ったりするそうだ。モチなら拾いに行ったのに。

 今回の増上寺編をもって東京日和ツアー(全7回)はおしまいになります(陰のツアコンとして活躍してくれたmaoさんに感謝)。神宮外苑、東京駅、上野公園、皇居、泉岳寺、増上寺、振り返ってみるとたくさん回ったようでまだまだ回り足りない。今回逃したものだけでも、伝通院、明治神宮、お台場、浅草寺、井の頭公園、新宿御苑、浜離宮、湯島天神、将門塚など、たくさんある。これはもう、どうやったってもう一度、二度、三度と行かねばなるまい。
 というわけで、またいつの日か、東京日和シリーズでお会いしましょう。もしかしたら、東京のどこかで、はとバスから降り立った私をあなたは目撃するかもしれない。日本人のくせにカメラを持ってはとバスに乗ってる人がいたら、ひと声かけてみてください。オー、ゲイシャ、フジヤマ、スキヤキ、スシ、テンプーラ! などと口走る怪しい日本人は、きっと私です。

泉岳寺訪問と赤穂事件に関する個人的総まとめ 2006年12月14日(木)

東京(Tokyo)
泉岳寺中門

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.0, 1/50s(絞り優先)



 今日12月14日は赤穂浪士討ち入りの日だ。その日付は旧暦で新暦に直したら1月30日ではないかという意見はもっともだし、より正確に言えば15日未明なのだけど、一応12月14日は討ち入りの日だということになっているからそういうことにしておこう。泉岳寺での赤穂義士祭も、毎年12月14日に行われている。
 ときは元禄15年、1703年だから江戸時代が始まって100年後のことだ。ある意味では江戸時代の一番いいときだったと言えるかもしれない。そろそろ世の中も落ち着いてきて、戦の気配もなくなり、幕府は金があって、庶民もようやく平和な暮らしに慣れてきた頃だったろう。関ヶ原の合戦を知ってる人間ももはや生存しておらず、戦後は遠くなりにけりといったところだ。江戸の町民たちも、大きな戦も事件もなく退屈していたときだった。そこで降ってわいたように起きた討ち入りという大事件は、江戸だけでなく日本中上から下まで大変な話題になったに違いない。もし別の騒がしい時代に同じことが起こっていたら……いや、歴史にもしはないか。すべては必然だったのだろう。

 都営地下鉄浅草線の泉岳寺駅を降りてプラプラ歩いていくと、前方にそれらしい門が見えてくる。ゴミの収集所ともなっている泉岳寺中門だ。よりによってこんなところに置かなくてもと思うけど、現代に神社仏閣が生き残っていればこういうこともある。
 この中門は、1836年に再建されたもので、昭和7年に大修理がほどこされている。なかなか風合いが出てきていて、いい感じだ。
 この門をくぐった右側にみやげ物屋が並んでいて、ちょっと笑ってしまった。やっぱりここは観光地なんだ。中学の修学旅行で変えなかった木刀を大人買いしようと思ったけど、そんなもの持って東京の電車に乗っていたら捕まりそうだったので思いとどまった。

泉岳寺山門

 次に現れるのが泉岳寺名物の山門だ。1832年に再建されたもので、江戸時代にすでにその立派さが評判だったという。戦災を逃れて昔の姿をとどめている。
 中に入っていくと、大石内蔵助の銅像が建っていたり、討ち入り300年を記念(?)してあらたに建てられた「赤穂義士記念館」などがある。赤穂義士のお墓は、左奥に入っていったところだ。

泉岳寺本堂

 本堂のあたりの境内はちょっと洗練されすぎている感もありつつ、空気感はちょっとしたものがある。厳かとまではいかないまでも静かで濃密な空気に包まれていて、大きな声でしゃべるのがはばかられる感じがある。
 まずは本堂で縁結びのお願いなどをする(ここはそういうところか?)。それから、いよいよ赤穂浪士のお墓へ向かう。

 泉岳寺は曹洞宗の寺院で、1612年に門庵宗関和尚(今川義元の孫)を招いて徳川家康が建てたものだ。当初はホテルオークラがあるあたりの外桜田にあったものが1641年の寛永の大火で焼け落ちてしまったために、三代家光が浅野、毛利、朽木、丹羽、水谷の五大名に命じて高輪に再建させたという経緯がある。その関係で浅野内匠頭の墓はここに建てられた。
 現在は、大石内蔵助をはじめとする四十七士の墓が並んで建っている。訪れたときは14日が近いということもあってか、途切れなく人がお参りにきていて、絶えることのない線香の香りがあたりを包んでた。そのときの写真はない。なんとなく撮らない方がいいような気がして。その分、しっかりと目に焼き付けておいた。
 当時の住職は、討ち入りのあと、赤穂浪士たちの持ち物を、こりゃいいもんが手に入ったと売りさばいてしまった。話題のお宝グッズということで高く売れたんだろうか。しかし、すぐにそれが発覚して問題となり、あわてて買い戻しに走ったというエピソードも残っている。

 赤穂浪士や討ち入りまでの経緯については、多くの人が忠臣蔵をテレビや映画で観たり小説で読んだりして知っていることだろう。近年、様々な異説や新説も登場したりして、いろんな意味で語り尽くされている。ただ、私自身、今回あらめて勉強してみたら知らなかったことがたくさんあったので、そのあたりのことについて少しだけ書いてみたいと思う。少しだけで済めばいいのだけど。
 まずざっと復習すると、事の顛末はこうだ。
 1701年(元禄14)3月14日、江戸城で天皇の勅使を迎えるという幕府にとって大変重要な儀式があった。この日、御馳走人だった浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、突然松の廊下でその指導役だった吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に背中から斬りかかった。「この間の遺恨おぼえたか」と叫びながら、肩から背中にかけて浅い一太刀、振り向いた吉良に対して正面から額にこれも浅く。続いてもう一太刀というところで、近くにいた大奥留守居番役(おおおくるすいばんやく)の梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)たちに取り押さえられてしまう。午前11時頃のことだ。ときに浅野内匠頭35歳、吉良上野介61歳。
 そのまま目付部屋に連行されて尋問開始。しかし、「遺恨が」と言うだけでそれ以上語らず、ラチの開かない内匠頭。「乱心か?」と問われて、「乱心ではない」と答えている。実はこの受け答えもまずかった。もし乱心だったと答えていたら、もしかしたら内匠頭ひとり切腹で浅野家まで取りつぶしにならなくて済んだ可能性がわずかにあったかもしれないからだ。ないとは思うけど、それにしても精神錯乱での犯行としらふの犯行では罪の重さが違うのは昔も今も変わらないと思うけどどうだろう。
 そんな半落ち状態のまま浅野内匠頭は即日切腹を言い渡される。城内で刀を抜いただけで大変な罪なのに、よりによってこんな大事な日に流血騒動を起こしたのでは徳川綱吉が怒り狂ったのも無理はない。赤穂浅野家はお家断絶の上、領地没収。藩士の俸禄も剥奪され、弟の浅野大学長広は閉門となった。
 刃傷沙汰のとき、内匠頭は冷静だったかそうじゃなかったか、というのはさんざん議論もされてきたし、いろんな人がいろんなことを言っている。元々短気な性格だったのは間違いなさそうで、精神病(失調症)とまではいかないまでも、その瞬間は完全にキレてたのだろう。ただ、その後のそれにしてはその後の冷静な尋問の受け答えが不自然だし、逆に完全に平常心だったとしても腑に落ちないなところが多い。吉良を討てなかったのはどうしてだったのかとか、冷静というには怒りにまかせた感じだし、興奮していたにしてはあっさり取り押さえられてそれ以上暴れた様子もない。

 風さそふ 花よりもなほ われはまた 春のなごりを いかにとかせん

 この有名な辞世の句は、後世の作り物ではないかという説がある。それは私も充分あり得る話だと思う。突然斬りかかって失敗して、そのすぐあとに出てくるような句じゃない気がする。吉良を討ち果たせなかった悔しさの表れといえばそうなのかもしれないけど。
 実はこの殿様、実際の評判はすこぶる悪い。若い頃から政治は家老に任せっきりで、無類の女好きの放蕩三昧。赤穂でとれた塩の権利は自分で独占して、領民には重い税を課す。内匠頭切腹の知らせを聞いた地元の人たちは赤飯を炊いて喜んだという。
 一方の吉良上野介はというと、こっちはこっちでまた問題が多い。故郷の愛知県吉良ではいい殿様で通ってはいるけど、旗本なので江戸生まれで故郷になどほとんど帰ったことがないから、いいも悪いもない。吉良もまたひどい女好きで、贅沢三昧の暮らしをして、借金はすべて養子に出した米沢藩主の上杉綱憲(うえすぎつなのり)に肩代わりさせていたから、綱憲もほとほと困り果てていた。
 高家肝煎(こうけきもいり)という名門の重要ポストについていたから能力としてはあったにしても、威張りん坊で、実際に内匠頭だけじゃなく目下のものをいじめていたという話も残っている。タチの悪い部長みたいなタイプだ。
 そんな傲慢な者同士が違う立場でぶつかったことで、起こるべくしてあの事件が起こってしまった。どっちもどっちと言えばそうだった。吉良にしてみればいじめっ子の理屈でなんで自分がうらまれるんだと思っただろうし、上野介としては恨みに思う充分な理由があったのだろう。
 ただし、事件はセンセーショナルなものとして世間に伝わったものの、処分に関しては特に異論は出なかったようだ。吉良は被害者としておとがめなしで、内匠頭は当然切腹でお家取りつぶしだろうとみんな納得したのだと思う。浅野家が主張した喧嘩両成敗に当たると思った人は少なかったのではないだろうか。

 ここから先の討ち入りまでの流れは忠臣蔵で詳しく描かれているので省略したい。大石内蔵助たちは何をどうしたかったのかということを少しだけ付け加えておこう。
 急進派の堀部安兵衛たちとの対立や、130人くらいの同志が次々に脱落したり、京都で内蔵助が遊びほうけていたり、そんな紆余曲折を経ながら、最初から最後まで変わらなかった思いというのは、主君の仇討ちではなかったのだと思う。少なくとも大石内蔵助の中では違っていたはずだ。
 内蔵助は当初、弟浅野大学によるお家復興を目指していた。それさえ叶えば討ち入りなんてことは決してしなかったはずだ。もはや問題は主君の仇を取ることでも、吉良上野介を打ち倒すことでもなく、浅野家の再興だけが悲願だった。しかし、その思いがついに果たされないと分かったとき、内蔵助にできることは、主君浅野内匠頭に成り代わって吉良を討つことと(その理由が何であれ)、幕府に対して喧嘩両成敗を示すことしかなかったに違いない。あるいは、それを完結すれば、おとがめなしとまではいかなくても、自分たちの罪も軽く済むのではないかという思いもどこかにあったのかもしれない。討ち入る前は全員切腹になるとは考えてなかったんじゃないだろうか。
 元禄15年12月15日未明。松の廊下事件から1年9ヶ月が経っていた。
 寺坂吉右衛門をのぞく大石内蔵助以下46人は(寺坂は報告係として残されたとも、逃亡したとも言われる)、当時は新興住宅地でひとけも少なかった本所の吉良邸に討ち入り、約2時間の戦闘ののち、吉良上野介の首を討ち取った。赤穂浪士たちはそのまま泉岳寺まで歩き、主君浅野内匠頭の墓前に首を高く掲げて報告した。
 このあと吉良の首がどうなったかというと、箱に納められて泉岳寺に預けられ、それを僧が吉良邸に届けて胴体とくっつけて吉良家菩提寺の万昌院に葬ったそうだ。これは一般にはあまり知られてない赤穂事件のヒトコマだろう。
 浪士たちはその後、自首するために大目付の仙石伯耆守の屋敷に出頭して、そのまま各地に一時身柄預かりとなる。浪士たちの処分を巡っては幕府でもさんざん議論され、結論が出るまでには時間がかかっている。最終的には切腹させることで英雄にしてやろうということになり、翌元禄16年の2月4日、浪士たちは預けられたそれぞれの屋敷で全員切腹した。墓も主君と同じ泉岳寺に作ることを許されたあたりに、世論に対する幕府の気遣いが感じられる。
 あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
 大石内蔵助の辞世の句だ。
 内蔵助45歳。浪士たちの平均年齢は40歳。彼らの人生を不幸とするか幸福とするかは、私たちが決めることではない。ただ、最初は130人いた同士が最終的には47人(46人)なったことを思うと、信じるものが何であったにせよ、最後まで信念に殉じたのは間違いでなかったように思う。

 赤穂事件とは一体何であったのか?
 いくつもの偶然と必然が絡み合い積み重なって生まれた、奇跡としか呼べないようなドラマだった。あそこには「神の部分」があった。傑作と呼ばれる作品が生み出されるとき、そこには作者の思惑を超えた大いなる力が働く。赤穂事件は紛れもなくそういうたぐいのものだった。大石内蔵助だけでなく、浅野内匠頭も吉良上野介も、自分の意志以外のところで動かされ、ドラマを演じさせられたようなところがある。
 これは忠義の美徳とか勧善懲悪とかそんな単純な話ではなく、日本という国の精神性の中でしか生まれ得なかった、裏表のある教訓話だ。私たちはここから何を学ぶべきなのか? 私はそれぞれの立場によってひとつの出来事にはいろんな側面があることを知るための手本のようなものだと思っている。四十七士それぞれにドラマがあり、吉良の側から見る違った側面があり、大石内蔵助はヒーローなんかじゃなくダメオヤジだったりする。誰も彼もみんな、愛すべき登場人物たちだ。
 私にとっての赤穂事件は、ちょっと切なくて愛おしい思い出話みたいな感じがしている。あんな時代があって、あんな人たちがいて、あんなことがあったよね、と。もしかしたら、天国江戸城の松の廊下では、内匠頭と吉良が仲良く刃傷沙汰ごっこをやって笑いあってるかもしれない。殿中でござる、殿中でござるぞ、などとふざけながら。女と酒を飲みながらそんな光景を見ているご機嫌な大石内蔵助がいたらいいなと思う。

皇居まで行くも江戸城に近づけず二重橋を見て見えず 2006年12月13日(水)

東京(Tokyo)
騎馬警察

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.0, 1/250s(絞り優先)



 皇居をプラプラ歩いていると、突然、坂下門がぎぎぎぃと開いて、馬が出てきた。えええ!? と驚きつつ、あわてて望遠レンズで隠し撮りしたのがこの一枚。果たしてカメラを向けていいものなのかどうか分からず、完全な及び腰の私。いざとなったら、そのままザリガニのように後ろ向きのまま後退する心の準備を整えた。
 しばらく遠巻きに眺めていると、どうやら警察騎馬隊が乗馬の練習をしてるようだった。あとから気づいたのだけど、もしかしたら12月23日の天皇誕生日のときに出動するから、そのためのコースチェックだったのかもしれない。私が皇居へ入っていったので出迎えてくれた、ということではないようだった。それは残念。でも、挙動不審で写真を撮ってる罪で捕まらなくてよかった。
 警視庁の騎馬隊は、明治7年に発足したんだそうだ。現代における騎馬隊の役割は、皇居内のパトロールや、道路整備、学校訪問などが主な活動で、外国の大使などが馬車で皇居へやってきたときには馬上から警護をするんだとか。これはかなりカッコいいから、警察へ入って騎馬隊に志願する人も多いんじゃないだろうか。観光客に写真を撮られてしまうという恥ずかしさはあるけど。

 東京に住んでいるとかえって行かない東京名所トップ3は、東京タワー、浅草寺、皇居あたりではないかと思うけどどうだろう。特に皇居は何の用事もなくふらっと訪れるようなところではないのかもしれない。でも普通に入っていけるところだった。何の気兼ねもなく。確かに警備の警官はたくさんいて、下手な動きはできないなと思わせるものはあるものの、思うほど特別な場所ではない。
 私はといえば、何はなくとも江戸城を見るつもりだった。何もないとは知ってても、せめて近くまで行って石垣に頬ずりくらいはしようと狙っていた。なのに、なんで、月曜と金曜が定休日なんだー。そんなバカなー、バカなー、かなー、かなー、なー(エコーがかかっている)。
 本丸跡があるのは皇居東御苑の方で、こちらは休みは入っていけないのであった。残念無念、また来週ー。って、来週は東京にいないぞ、私。なんとも心残りとなってしまったのだけど、門は固く閉ざされ、詰め所に警官さえ立っていてはどうすることもできなかった。
 それでも、西側の皇居外苑だけは入ることができたので、こちらを歩いて回ることにした。まずは二重橋へと向かうことにする。それにしても広いな、ここ。砂利で歩きづらいし、ハイヒールの女の人やお年寄りは大変だ。

記念写真の記念写真

 「はとバス」から降り立った外国人旅行者が集まっているところに吸い寄せられるように行き着いた私は、記念撮影をしている外国人を記念撮影してみた。どうやら何かの門を撮っているらしい。何門ですかと訊こうと思ったけど、いくら観光客とはいえ私が外国人に訊ねてる場合じゃないと思ってやめておいた。このへんに二重橋があるはずなんだけどな。ここが二重橋だよ、おっかさん、と私も言ってみたかった。
 帰ってきてから調べたところによると、どうやらこれは皇居の正門らしい。柵があってうかつには近づけないようになってる上に、門前の詰め所に二人も警官が立っているという警戒ぶりも納得だ。
 ここから左へ行ったところに桜田門外の変で有名な桜田門があって、広場の真ん中には楠木正成の銅像が建っているはずだ。そっちは行ってないから定かではないのだけど。服部半蔵の屋敷があった半蔵門は更に遠いところにあった。

これが二重橋か

 外国人が背景を入れて記念写真を撮ってる一角の向こうを見てみると、ややや、何やらそれっぽい橋があるではないか。あれが二重橋だよ、おっかさん? なのか? でも、写真で見る二重橋は、いわゆるめがね橋スタイルだった気がする。右半分が隠れてるわけでもなさそうだし、一体二重橋ってのはどこだったんでしょうね、おっかさん。
 これも帰ってきてから分かったことなのだけど、正門にかかっている石橋と、奥の鉄橋をあわせて二重橋と呼ぶんだそうだ。いや、正しくは奥の鉄橋が元々の二重橋らしい。二重橋はどれだよと思っていたら、半分は写真に撮って、半分は目の前にあったのに見えてなかったのだった。それじゃあまるでメガネを頭の上に乗せながらメガネを探している人みたいではないか。外国人観光客にも劣る基礎知識。なんだか見たのに見てないようなもどかしさが残った。鉄橋の方も歩けるはずなんだけど、回り込めば行けたのだろうか。

 現在の皇居は、元々江戸城があった場所に当たる。これが意外と知られてないような気がする。徳川幕府の城があったところと天皇家の住居がつながらないからだろうか。天皇家といえば京都というイメージを持つ人も多いと思う。
 もともと歴史的に見ると、天皇家は何度も住居を移している。平城京や平安京遷都がそうだ。単なる引っ越しではなく、都を移して一から作ってしまうという大がかりなものだった。平安京に移ってからは千年の長きにわたって京都御所が天皇家の住まいだったから(小さくは動いているけど)、今でも天皇家は京都にいると勘違いしてる人もいるかもしれない。ただ、昭和天皇までは京都御所で即位式が行われていた。
 皇居が江戸に移ってきたのは、明治2年のことだ。その前の年、明治天皇が江戸にやって来て、名前を東京(東の京でとうけい)として、江戸城も東京城となり、翌年こちらへ移ってきたのだった。
 当初住まいは、江戸城西の丸にあった。それが明治6年の火事で燃えてしまい、いったん仮住まいを赤坂離宮に移すことになった。明治12年にあらたな明治宮殿を造ることが決まり、明治21年に完成して再び戻ってきたという経緯もある。名称は、それまで皇城(こうじょう)だったのが、宮城(きゅうじょう)となる。しかし、明治宮殿も昭和20年の東京大空襲で燃え落ちてしまった。メリケン、恐ろしいことをするな。皇居と呼ばれるようになったのは戦後の昭和23年からで、現在の宮殿は昭和43年にできたものだ。
 皇居の敷地内にある主な建物としては、天皇陛下の住まいの御所、執務室の表御座所、香淳皇后の住居の吹上大宮御所の他、桃華楽堂(音楽堂)、三の丸尚蔵館、宮中三殿、宮内庁庁舎、皇宮警察本部庁舎などがある。
 皇居東御苑は、本丸、二の丸、三の丸あたりを公園として整備して、昭和43年から一般公開されている。見どころはなんといっても天守閣跡で、石垣などが残っている。有名な松の廊下や大奥などは場所を示す立て札があるくらいで、もう何も残っていない。
 北側の北の丸公園は、日本武道館や千鳥ヶ淵などがあるので、こちらは都民にも馴染みが深いんじゃないだろうか。

 江戸城の歴史は徳川家康からではなく、その前から始まっている。平安時代の末期に、秩父重継がこの地に居城を築いて、入江に臨むところという意味で江戸と名づけたのが始まりだ。自らも名前を江戸重継に変えたくらいだから、思い入れもあったのだろう。
 その後室町時代まで続くも、江戸家が没落して江戸城は廃墟となる。この地に目を付けたのが築城名人と言われた太田道灌(どうかん)だ。ちなみに小学校2年生の担任だった土田先生(女)は私のことを太田道灌と呼んでいたけど、土田先生以外の人にそう呼ばれたことは一度としてない。
 それはともかくとして、太田道灌が築いた江戸城はなかなか立派なもので、城下町も少しずつ発展していた。けれど、それがねたみを買ってしまったのか、太田道灌は主君の扇谷定正に殺されて江戸城を乗っ取られてしまう。ああ、かわいそうな、道灌さん。ただ、悪いことはできないもので、その扇谷家も北条家に攻め滅ぼされ、以降は徳川家康が江戸に来るまで北条氏のものとなる。
 徳川家康が江戸に来たのは、好きこのんでではなかった。豊臣秀吉の時代、北条氏を滅亡させたことで褒美として秀吉にもらったのがきっかけだった。それでも、ここを首府にすると決めたのだから、何かここにした理由があったのだろう。地元の岡崎でもなく、京都でもなく、尾張でもなくここにした決め手は何だったのだろう。
 江戸城が完成したのは三代将軍家光のときだ。大改築を始めてから40年近い歳月がかかっている。五層天守閣を持った日本最大の城は、大阪城や名古屋城より巨大だった。金のシャチホコだって名古屋城のものより巨大な金ピカが載っていた。もし焼け残っていたら、金鯱は名古屋ではなく東京のシンボルになっていたはずだ。これは譲ってもよかったなと名古屋人の私は思う。そして東京人の金鯱をおちょくりたかった。
 しかしながら度重なる火事と関東大震災で大打撃を受け、最後は空襲がとどめを刺して、もはや江戸城の面影はほとんど残っていない。天守閣は、1657年の明暦の大火で燃え落ちて以来、ついに再建されることはなかった。1638年に完成して19年しかなかったことになる。
 明治維新の頃の江戸城の写真を見ると、それはもう無惨なボロ城になり果てている。屋根瓦は割れ、壁のしっくいははがれ落ち、とても将軍様が住んでいるような住まいとは思えない。放っておいても、江戸幕府は財政難で勝手に崩れ落ちたかもしれない。天守閣を再建するような金はどうやってもひねり出せなかったに違いない。
 明治維新ののち、江戸城は明治新政府に取り上げられた。このときも貴重な建造物が容赦なく取り壊されている。現在ある城っぽいもののほとんどは、新しく再建されたものばかりだ。

 どんな思いを抱いて皇居を訪れればいいのか? 考えてみると、だだっ広いだけで何もないところだ。端から端まで歩こうと思ったら、2時間以上かかるだろう。その割に見どころは少ない。よほど江戸城に対して思い入れがある人や皇室ファンとかは別にして、観光として訪れたとき見るものとしては、二重橋と桜田門、天守閣跡くらいで、歩く距離を考えるとあまりおすすめできない気もする。あるいは、東京という地でこれだけ何もない広大な異空間があるという貴重さを楽しめばいいのか。東京の中心街でここほど空が広いところはなかなかない。
 私の場合は、江戸城を見るんだという目的で訪れて肩すかしを食ったのだけど、珍しい騎馬隊も見られたし、江戸城周辺の空気に触れただけでもけっこう満足感はあった。なんとなく楽しかったし、行って良かったと思う。
 もしかしたら東京らしくなさ、それがここの一番いいところと言えるかもしれない。
 これで江戸城があったらなと思う。名古屋にも大阪にもあって、他にもたいてい県にひとつくらいは城というものがあるものだ。それが肝心要の東京にないというのは考えてみたらおかしな話だ。日本の中心に日本を象徴する城が存在しないなんて。せっかくこんな敷地が残ってるんだし、土台だってあるんだから、建てない手はない。皇居の敷地ということの遠慮があるという話だけど、それはなんとかなるんじゃないのか。
 鉄筋コンクリートなら200億、木造でも400億で建つという。江戸城再建となれば全国から寄付が絶対に集まる。大阪城だって国民の寄付で建ったし、国民ひとり当たり100円でも120億円になる。東京オリンピックの開催費が8,000億というから、その20分の1で建つ。オリンピック効果は確かにあるけど、それよりも江戸城いこうよ、石原都知事。美しい国を目指すなら古き良き日本の江戸城でしょう、安倍首相。何度か検討段階までいったことがあったそうだし、「江戸城再建を目指す会」というのもあるそうだ、なんとか実現しないものだろうか。私も500円くらいなら出してもいい(それだけかよ)。
 外国人が皇居へやって来て、巨大な江戸城を見たらどれだけ感動するか。国賓の人たちだってこれぞ日本だと喜ぶこと間違いなしだ。観光名所としても、どれくらい収入があるか見当もつかないくらいだし、東京観光のランドマークにきっとなる。
 考えれば考えるほど江戸城が見たいぞ。安土城とともにぜひぜひ再建して欲しいと思う。全国の城野郎、城お嬢たちと共に天守閣跡地に行って、みんなで地面に転がりながら駄々をこねたい。作ってよ、作ってよ、作ってくれなきゃヤだヤだヤだ! 作ってくれるまでここを動かない! とか言いながら(何年間転がり続けなくてはいけないんだ?)。
「駄々をこねる会」発足の日は近い。ただいま参加者を募集してます。

西郷どん、本当にこの銅像でよかですか? 2006年12月12日(火)

東京(Tokyo)
上野の西郷どん

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/60s(絞り優先)



 上野の西郷どんの背中に乗って待ってます。もしあなたがそんな待ち合わせの約束を交わしてしまったとしたら、それは空約束に終わる可能性が高い。実際に見る西郷隆盛像は思いのほか大きかった。まず土台をよじ登ることの困難さが予想される。たとえ足もとまで登れたとしても、そこから背中を登って肩に手をかけるのはかなり難しそうだった。犬のツンを踏み台にすればいけただろうか。
 いずれにしても、そんなことをしてたら、修学旅行生たちの嘲笑の的になることは間違いなく、外国人観光客に、オー、イッツ・クレージーなどと罵倒されることになるだろう。その前に通報されて、飛んできた警官に取り押さえられるだろうか。どういう罪状になるのかは分からないけど。

 どうして西郷どんの像が上野公園に建っているのか? 多くの人がふと思ったことがあるであろうこの疑問の答えは、用意されていない。いろいろ言われてはいるものの、はっきりした理由は知られてないようだ。どうしてもここじゃなくてはいけなかったわけではないのだと思う。
 そもそも、反逆者西郷隆盛の像が建つこと自体、当初は考えられないことだった。明治新政府に刃向かってきた賊軍の長なのだから。それでも、明治維新における西郷どんの働きに変わりはない。勝海舟と決めた江戸城無血会場は江戸市民100万人の命と財産を守ったし、薩長同盟から徳川家の事後処理までの功績は大きかった。それに何より、西郷どんはみんなから愛されていた。
 明治24年、もうそろそろ許してやってくださいよと当時宮内省の次官だった西郷どんの友達、吉井友美が呼びかけて、2万5千人からの寄付と明治天皇からのお金で西郷隆盛像が造られることになった。制作に当たったのは、高村光太郎のオヤジさんである高村光雲(犬だけ後藤貞行)。しかしこの西郷像、実物をモデルにしたわけではないというのは有名な話だ。もちろん西郷どんは生きてないし、写真嫌いだったから一枚の写真も残ってない。参考にしたのがエドアルド・キヨッソーネが描いた肖像画(教科書とかに載ってる例のヤツ)で、しかもこれは目元を弟の西郷従道、顔の下半分を従弟の大山巌のモンタージュだ。キヨッソーネ自身、西郷どんを一度も見てないから、まったくの勘で描いている。そんな伝言ゲームのようにして作られた西郷隆盛像がオリジナルの西郷どんから遠く離れてしまったのは仕方がないと言えば仕方がなかった。
 除幕式のとき、この像をひと目見た未亡人のイトが、
「宿んしはこげなおひとではなかっ」
 と叫んだというのも話もよく知られている。
 人前に兵児帯姿なんかで出るような人じゃなかったという意味だろうと解説する人もいるけど、私はやっぱり実物とは似ても似つかないのだと思う。顔も風貌も格好も。たぶん、犬も似てないと思う。ツンが可愛くなさすぎ。
 像が完成して除幕式が行われたのは明治31年。西南戦争から21年経っていた。総理大臣の山県有朋や、勝海舟、大山巌、東郷元帥なども参加して盛大に行われたという。楽隊なども出て、大勢の人が見物に訪れたそうだ。これが日本初の除幕式だと言われている。
 けど、ホント、なんでこんな普段着なんだよ、高村光雲。いくら庶民の味方というイメージの西郷どんでも、これはちょっとないんじゃないか。周りから反対は出なかったのだろうか。それとも、あんまり立派にしてしまうと明治政府の立場が悪くなるからこんな格好にしておけという命令があったのか。この像によって、後の西郷隆盛像は決定的に固まってしまった。西郷どんのことだから、これでよか、と言うかもしれないけど。

 西郷隆盛の人物像や一生について書こうとすると、ものすごく長くなってしまう。私も書きたくないし、みなさんも読みたくないと思う。西郷どんを主人公にした小説もたくさんあるし、資料も膨大にあるから、その上私があえて細かく書くこともないだろう。オススメとしては、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を挙げておく。例によって司馬遼によって幸せに歪められた西郷像は、読んだ者を西郷どん好きにしてしまうこと間違いなし。もうひとつ、昔の年末大型時代劇「田原坂」もよかった。里見浩太朗主演で、堀内孝雄の主題歌「遥かな轍」もよく覚えている。もし機会があったらDVDで。
 でもせっかくだから、さらっと西郷どんについてのおさらいをしておこうと思う。西郷さんってどういう人で何をした人なのですか? と、人に訊かれても答えられるように。

 西郷どんのお父さんは、薩摩藩(今の鹿児島県)の下級藩士だった。西郷隆盛というと明治の人というイメージが強いけど、実際は生まれも育ちも江戸時代の人だ。当たり前だけど、そんなふうに思ってないところがある。坂本竜馬だって新撰組だって、みんな江戸時代の人だ。
 誕生日は旧暦の1827年12月7日で、新暦にすると1828年1月23日になる。すると、私と同じ誕生日ではないか。やっぱり、この日は偉い人が生まれる日らしい。マホメットや湯川秀樹、スタンダール、ジャイアント馬場など、顔ぶれがにぎやかだ。ただ、葉加瀬太郎とまったく同じ日生まれというのはちょっと納得がいかない。
 西郷どんは大きなイメージがあるけど、実際に大きかった。身長182cmの体重114kgというから、力士並みだ。後年、肥満を指摘されてダイエットにはげんだりもしている。血液型はB型。思い込みが激しく、こうと決めたら突っ走るタイプだ。好物は芋焼酎と豚肉と煙草と甘い物。山歩きと温泉も好きだったという。

 大きな黒目がキラキラした少年だった。優等生タイプというのではなく、悪ガキでもないけど、13のとき学校帰りに友達とケンカして、右肘を痛めてしまう。これで武術はあきらめて、のちは文官を目指すことになる。確かに西郷どんが刀を振り回したり鉄砲を撃ってるような姿は思い浮かばない。ただ、狩猟は好きだったようで、よくウサギ狩りなどをしていたらしい。ちょっと野蛮なところもある西郷どん。
 最初の結婚は28歳のときで、生涯で3度結婚している。その後両親を続けて亡くし、家督を継いで兄弟の面倒を見なければならない立場となる。
 藩の役人人生としはまずまず順調に進み、30歳頃には藩主の島津斉彬に目をかけてもらって、だんだん藩の政治にも深くかかわるようになっていく。しかし、その斉彬が死んでしまったことに大きなショックを受け、自分も後を追うとして周りに説得されてなんとか思いとどまる。おそらくこのあたりから、斉彬の意志を継いで、自らが日本をよくしていくのだと本気で思い始めたんじゃないだろうか。
 幕府では井伊直弼が大老になり、無茶をし始める。幕府にたてついた人間を次々に捕まえて徹底的に弾圧した。安政の大獄というやつだ。そこで西郷どんは、井伊直弼の暗殺計画のグループに加わるも発覚。お尋ね者となってしまう。幕府の追っ手が迫り、前途を悲観した西郷どんは友達の月照と共に入水自殺をしてしまう。意外と悲観的な西郷さん。友達の月照は死に、西郷どんは生き残る。それでも回復にひと月かかり、西郷どんも死んだことにして幕府の追っ手をごまかした。
 回復後は見つかるといけないということで、仲間が奄美大島に逃がすことにした。ここで3年ほど過ごすうちに島の暮らしにも馴染み始め、島の娘「とま」と二度目の結婚をする。最初のかみさんは、西郷どんがあまりにも留守がちだったので実家に帰ってしまった。更にこのあともう一回結婚している。島の奥さんは本土に連れて行けないことになっていたから。
 この頃になると、日本がだんだん騒がしくなってくる。寺田屋事件や生麦事件、薩英戦争などが起こり、西郷どんの力が必要だということで大久保利通に呼び戻され、軍の責任者として復帰を果たす。
 長州征伐の軍参謀に任命されて徳川慶勝に会ったり、坂本竜馬たちとともに薩長同盟締結に奔走したり、この時期は西郷どんの人生で一番忙しかったときだろう。大政奉還がなり、戊辰戦争が起こり、勝海舟とともに江戸城無血開城を果たしたり、上野戦争の指揮を執ったりと多忙は続く。
 ようやく日本が落ち着いたのは、明治も4年になってからだ。政府の首脳だった岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などが外国で学ぶためにヨーロッパへ旅立っていき、西郷どんたちは留守政府を預かることになる。これがのちの西郷どんの運命を決めることとなった。もし外国を自分の目で見ていたら、その後の展開はまったく違ったものとなっただろう。
 西郷どんは武力などもちいず朝鮮に赴こうといっていたのに、いつの間にか武力でやっつけるというふうに歪んでしまった征韓論と、外国を見てショックを受けて帰ってきた大久保利通たちと意見が完全にぶつかることになってしまった。日本は近代国家の仲間入りをするために、もう戦争なんてしてる場合じゃないという帰国派の意見はもっともだった。
 このあたりのいきさつはややこしいこともあるので省略するとして、結果的に西郷どんは政府を捨てて故郷の薩摩へ帰ってしまった。本人は引退のつもりだっただろう。しかし、故郷の若い連中にかつがれて、やむにやまれず政府に対して西南戦争を起こすことになる。
 最後は城山に追い込まれて、「もう、ここらでよか」と言って東に向かって頭を下げた後、切腹して介錯され、その生涯を終えた。享年51(満49)。

 結局のところ西郷隆盛というのはどういう人物なのか。多くの人がその問いの前で戸惑い、ある者は追求して、ある者は分からずあきらめてしまう。分かりづらい人であることは間違いない。細かく入り組んだ複雑さではなくて、振幅の大きさに惑わされてしまうところがある。
 たとえばこんなエピソードがある。あるとき、政府の閣僚名簿をつくることになって、誰か西郷さんの本名を知らないかと呼びかけたところ、友達の吉井友実が、確か「隆盛」だったんじゃないかということで西郷隆盛で登録したところ、実はそれはオヤジさんの本名で、西郷どんの本名は「隆永」だった。当時は呼び名で呼び合うのが普通だったので(西郷どんは吉之助と名乗っていた)、誰も本名を知らないのが普通だった。それを伝え聞いた西郷どんは、「よかよか、そいでよか」と軽く受け流して、それ以来西郷隆盛ということになってしまったのだった。
 こんな大らかな一面があるかと思うと、自殺をしてみたり、征韓論では妙に意固地になってしまったり、老成してるかと思えば意外と子供っぽかったりする。普段は無口で礼儀正しくて、笑うとなんとも魅力的な顔になったらしい。何を考えているのか、分かりづらいと言えば分かりづらい。
 西郷はどんな人物だったんだい、と勝海舟に訊かれた坂本竜馬は、「やつぁ馬鹿だ。ただし、小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る。馬鹿の幅がわからない」と言っている。
 賢か愚かといえば愚と見えただろう。愚から大愚を通り越して大賢に至ったものすごく稀な人物だったのではないか。これほど多くの人に愛された日本人というのは少ない。同時代の周りの人間が西郷どんのためならいつでも死ねると思ったというからには、何か決定的な根拠があったに違いない。坂本竜馬の慕われ方とは種類が全然違う。今でも鹿児島で西郷どんが好きかというアンケートをとると、好きという人が95パーセントを超えるという話もある。
 西郷どんがいつも掲げていた言葉は「敬天愛人」というものだった。あるいはこの精神に尽きると言ってもいいのかもしれない。天を敬い、人を愛す。計算でも無理してそう思い込むのでもなく、純粋にそれを信じ、なおかつできた人なのだろう。後世の人間があまりにも美化するのはよくないと思うけど、実際に西郷どんに会ったなら、半端な批評や非難などあっけなく吹っ飛んでしまうような気がする。
 それでもやっぱり西郷どんってどんな人なのか、掴みきれない気持ちのモヤモヤが私の中に残る。こうなったら、もう一度上野公園へ行って、「聚楽台」の西郷丼(880円)を食べながら考えなばなるまいか。次こそ、西郷丼を手に持ちながら西郷どんの銅像の背中に乗ってみせる。そのとき、たまたま上野公園に居合わせたとしたら、あなたは運がいい。ぜひ私の勇姿を写真に納めてください。警官に連行されていくところまでの一部始終を。

体に馴染む上野の空気と驚きの不忍池 2006年12月11日(月)

東京(Tokyo)
上野界隈

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/200s(絞り優先)



 上野駅の前に降り立ってすぐ、あ、上野、と思う。それまで歩いてきた東京都とは明らかに違う空気感に満たされているのを感じて、なるほど上野ってそういうことかといっぺんに納得した。雑然とした街並みも、歩いている人たちも、商店街の雰囲気も、良い意味で田舎っぽくて体に馴染む。名古屋でいえば、大須から上前津あたりにちょっと似ている。
 ちょっと微笑みをもらしつつ、上野公園へと向かう人々のあとに続いて私も歩き出した。観光客と同化する感じが心地いい。ここに来れば自分はよそ者じゃないような気がしてくる。田舎者は上野へ行け、という標語が昔あった……というのはウソだけど、石川啄木の「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく」が実感として分かった。

 上野といってまず思い浮かぶのはマリノスの上野だがそれはひとまず置いておいて、やはり上野動物園だったり、西郷どんだったり、北の玄関口だったり、アメ横だったりが一般的なイメージなのだろう。私の場合は、最初に不忍池(しのばずのいけ)に行こうと決めていて、それがたまたま上野公園の中にあったという逆アプローチだった。そんなことも知らずに東京見物をしていた私なのだ。
 地元民は上野の山と呼ぶそうだ。なるほど山あり谷あり森や池ありで、山と呼ばれるのも分かる気がする。面積も53万平方メートルと、かなり広い。
 このあたりは大昔、海だった。と同時に、早くから人が住んでいた場所でもある。縄文、弥生時代の遺跡なども出てきている。戦国時代までは忍岡(しのぶのおか)と呼ばれていて、住む人も少ないへんぴなところだったらしい。今の上野公園の元になっているのは江戸時代に建てられた寛永寺によるものだ。三代将軍・家光が江戸の鬼門にあたるこの場所に、天海僧正に命じて寛永寺を作らせたことで、門前町として発展していった。
 しかし、明治維新の戊辰戦争で寛永寺は焼け落ちてしまう。立てこもった彰義隊に対して新政府軍は容赦ない攻撃を仕掛けて、このあたり一体は焼け野原としなってしまったのだった。明治政府め。
 その後、この地に医学校と病院が建てられる計画が立っていたのだけど、視察に来たオランダ人医師ボードウィンが、ここは眺めがいいから公園にしてみたら? と政府にアドバイスしたらあっさり通ってしまって上野公園となることになった。公園内には上野公園の父としてボードウィンの像が建っている。が、実はこの像、手違いで弟の顔になっていたというから笑える。2006年の今年ようやく本人の顔と入れ替えたのだそうだ。首から上だけ付け替えたんだろうか。

 完成したのは明治6年、日本で最初の公園の誕生だ。1882年(明治15年)には動物園と国立博物館が作られ、1890年にいったん帝室御料地となり宮内省の管轄になる。その後、何度かの博覧会会場になったりしつつ、1924年(大正13年)に東京市に払い下げられることになった。このときのいきさつから「上野恩賜公園」という正式名称になっている。
 現在は、東京芸術大学、都立上野高校などの学校施設や、東京国立博物館、国立国会図書館、東京都美術館、上野の森美術館、国立科学博物館などが集まった総合文化公園の様相を呈している。
 個人的に気になったのは、有名な「上野精養軒」だった。1,360円のハヤシライスは、本当に美味しいのだろうか。しょう油かけたりしたら怒られるんだろうな。
 上野という地名の由来は、伊賀上野出身の藤堂高虎から来ているというのはどうやら間違いらしい。江戸時代以前からすでに上野と呼ばれていたそうだから。平安時代の小野篁(おののたかむら)という人が上野国(こうずけのくにでの任務を終えて京へ帰る途中、しばらくこの地に住んでいたことがあって、地元民がその屋敷を「上野殿」と呼び習わしていたことから上野という地名になったというのが正しそうだ。

清水観音堂

 上野公園内にある清水観音堂(きよみずかんのんどう)。東京には少ない赤い紅葉がここにあった。東京都の木がイチョウだとしても、赤のモミジが名古屋に比べると全然少なかった。
 1631年、天海僧正が京都の清水寺を模して建てた。不忍池に面する側には確かに清水寺っぽい舞台がある。江戸人にとって京都は遠すぎてそう簡単に行けない場所だっただろうから、みんなここへ来て清水寺のことを思っていたのだろう。名古屋でいうイタリア村みたいなものだ(それはちょっと違うだろう)。
 国の重要文化財というには妙に新しくて軽い感じがしたと思ったら、10年前に全面的に改築したんだそうだ。どうりでピカピカなわけだ。
 人形供養として有名らしい。ここにお参りに来て子供ができたら人形を奉納するという習わしになっていて、毎年9月25日には人形供養の行事が行われているそうだ。

 もうひとつ有名なのが、上野の弁天堂だ。このとき雨が降り始めたこともあって、写真を撮るのをすっかり忘れていた。
 これも天海僧正が建てたもののひとつで、不忍池を琵琶湖に見立てて、竹生島の弁財天を模して造った(もとのものは慈覚大師が造ったという話もある)。
 弁天様だけに、芸事向上を願って歌手や芸人などが訪れるという。井の頭公園の弁財天にカップルで行くと弁天さんが嫉妬して別れさせられるという都市伝説があるけど、上野はどうなんだろう。
 弁天堂の建物も、昭和33年の再建ということで新しい感じがした。

不忍池とカモたち

 最後に、目的地の不忍池に到着した。がしかし、その手前で、なんじゃこりゃ! と大いなる驚きと共に私は立ち止まることになる。池全体が枯れた蓮に覆われていている光景を見て。ええー? 不忍池ってこんなだったのー? 枯れた茶色の蓮の合間をたくさんのカモたちが縫うようにして浮かんでいる。って違うぞ、私の不忍池はこんなんじゃないぞ。桜の頃、ゆったりとボートをこぎながらのんびりムード漂うというのが私の中にあった不忍池の図だった。それなのに、びっちりと蓮が生えていたんではボートもこぎ出せないではないか。何か異変が起きたのか!?
 なんだかだまされたような気分になりながら進んでいくと、遠くにボートが見えた。そして一番奥には、確かに私の思っていた不忍池があった。そうそう、これこれ。あー、びっくりした。手前のあの有様はなんだったんだ。
 どうやらこの池は、蓮が一面を覆う「蓮池」と、動物園側の『鵜の池』、それと「ボート池」という3つのゾーンに分かれているらしい。そんなこと知らないから、かなり本気で驚いたのだった。

 それにしても、ものすごい数の鳥たちが入り乱れて大変なことになっているぞ、ここ。エサやりの人がたくさんいるようで、写真のようにエサをばらまいたところには鳥まみれになってしまう。カモとユリカモメとハトが激しい争奪戦を繰り広げる。地面に落ちたものは気が荒いユリカモメと陸担当のカモがケンカしながら取り合い、池に落ちたものは水面担当のカモたちが奪い合う。ハトはおこぼれをちょうだいする。とても野鳥とは思えない姿だ。おまえたち、野生スピリットはどこへいってしまったんだ? 何も持ってない私にさえトコトコと歩きながら近寄ってくる。もう少しで頭をなでられそうなくらいまで。
 ここでの主勢力は、どうやらオナガガモのようだ。それと意外だったのは、キンクロハジロの多さだった。名古屋郊外ではこいつはめったに見ないのに、東京にはどういうわけかうじゃうじゃいる。すぐに見慣れて一気にありがたみがなくなった。その他、ホシハジロもそこそこいて、ハシビロガモも見た。ウミネコさえいた。逆に、名古屋でよく見るコガモやマガモがほとんどいなかったのも不思議だった。
 野鳥たちのこの馴染み方は、上野動物園の人たちの活動があったからという。戦争中不忍池は田んぼとして使われていて、戦後は荒れ果てて埋め立ての計画が持ち上がったそうだ。そのとき保存に立ち上がったのが上野動物園の人たちで、野鳥を保護することで不忍池の存続価値を作り出したという経緯があったらしい。今では都民がこぞってエサをあげているから、鳥たちはすっかり人になついている。野鳥にとって幸せなのかどうかは少し難しい問題もあるのだけど、何にしても人が野生の生き物を大事にする光景は心が和む。

 上野公園は一日の短い時間で回れるような億の浅いところではなく、今回は表面をさっと撫でるだけで終わった。ただ、上野のエッセンスは感じ取れたと思う。ここは嫌いじゃない。また訪れたい場所だ。春の桜もいいだろうし、夏の蓮も見てみたい。忍ばずだけにお忍びで行く必要もない。
 ……。
 さよなら、上野公園と不忍池。また逢う日まで、逢える時まで。さよならは別れの言葉じゃなくて再び会うまでの遠い約束。上野発の夜行列車で帰ります。って、おいおい、私の家はそっちじゃないぞ。北へ帰る人の群れに混ざってどうする。それじゃあ、8時ちょうどのあずさ2号で信州経由で帰るとするか。

超えなければならない東京駅の声はいまだ聞こえず 2006年12月10日(日)

東京(Tokyo)
東京駅遠景

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.0, 1/125s(絞り優先)



 皇居の外から遠くに見る東京駅は、何本もの高いビルに囲まれて、ちょっと居心地が悪そうだ。それはまるで歴史と伝統の意地だけで自分は押し潰されないぞと頑張ってる老舗の店みたいでもある。
 東京駅……。その言葉を聞くと、なんとなく立ち止まらずにはいられないような気持ちになる。東京駅に対して私は何を思えばいいんだろうと考えたりもする。名古屋の人間だから上野駅には特に思い入れはない。でも東京駅にだけは何か形にならない特別な思いがある。憧れでもなく、恐れでもなく、単なる好意でもない。避けては通れない巨大な敵、というのも少し違うだろうか。
 何度も東京駅の駅舎を見上げながら考えていた。自分にとって東京駅って何だろう、と。そのとき頭の中ではあの曲が流れていた。そう、葉加瀬太郎の情熱大陸のテーマ曲が。

 東京駅は今年で92歳。うちのばあさんより年下だ。そう考えると、そんなに大昔ではない。けど、大正3年といえば、最近というわけではもちろんない。大正デモクラシーや米騒動なんて充分すぎるほど歴史上の出来事だ。その向こう側で東京駅は誕生している。
 東京駅が出来る前の写真を見ると、あたりには本当に何もないただの原っぱだったことが分かる。江戸時代、丸の内一帯は大名屋敷が建ち並んでいて、大名小路と呼ばれる場所だった。反対の八重洲の方には江戸城の外堀があって、北町奉行所などがあった。八重洲の地名は、日本に漂着して将軍に取りたてられたオランダ人のヤン・ヨースティンの屋敷があったところから来ている。みんなは彼のことをヤヨスと呼んでいて、それがいつの間にか八重洲という地名になったというウソのようなホントの話。
 日本で最初の鉄道が開通したのが明治5年(1872年)、新橋-横浜間だった。その十年後の明治15年には私鉄の日本鉄道会社が上野駅を開業させる。しかし、長く新橋-上野間がつながらいままだった。そのまま明治22年には国鉄の新橋-神戸間が全通し、私鉄は上野を始発として青森に向けて線路を作り始めていた。そこでいい加減、この間をつながなくちゃまずいだろうということで持ち上がったのが、新しい線の中央に停車場を作るという案だった。明治23年のことだ。しかし、ここで日清、日露戦争という思いがけない邪魔が入り、中央停車場計画は先延ばしになっていく。結局工事が始まったのは明治41年で、完成までに6年の歳月を要すことになる。
 中央停車場の丸の内側は、皇居に顔を向けているということで、下手なものは作れないという思いが強かったようだ。当初、設計は、新橋-東京間の高架線を設計したドイツ人技師フランツ・バルツアーが担当し、続いて明治時代を代表する建築家だった辰野金吾へと引き継がれる。留学先のイギリスで見た赤レンガが印象的だったということで、駅舎も赤レンガを使うことを思いつく。よく指摘されているようにオランダのアムステルダム駅を真似たというのはニセ情報らしい。本人もオランダなんて行ったことがないと言っている。
 そんな紆余曲折を経てようやく完成したときは年号が大正に変わっていた。大正3年(1914年)12月15日のことだ。あ、12月15日にこの記事書けばよかった。それはともかく、完成して初めて東京駅という名前になる。駅舎は南北322m、ドームの高さは37m、総面積18万平方メートルと、当時では常識はずれの巨大建築物だった。

東京駅赤レンガ

 レンガ造りというとなんとなくもろそうなイメージがあるけど、大正12年の関東大震災ではビクともしなかったという。大きな地震に気づいた芥川龍之介が真っ先に家を飛び出して、遅れて赤ん坊を抱いて這うように家から逃げ出てきた奥さんにこっぴどく叱られていたときも、東京駅は我関せずと黙って建っていた。芥川は何故か手に湯飲み茶碗を持っていたらしい。なんですか、あたなは、赤ん坊も置いて一人で逃げて、しかも手にそんなものを持って! と怒る奥さんに対して、人間いざってときは思いがけないことをするもんだな、とつぶやくように言った、そんな龍ちゃんが私は好きだ。
 地震には強かった赤レンガの東京駅も、メリケンには負けた。昭和20年の東京大空襲のとき、B29がばらまいた焼夷弾によって炎上してしまう。幸い駅舎でけが人は出なかったものの、3階のドームが焼け落ちたほか、建物は大きなダメージを負った。その後すぐに改修工事が始まるものの、ドームはあきらめて上を覆って2階建てとし、外観もかなり変わることになってしまった。
 時は流れて60年。今年になって、ついにドームなどの復元工事が始まった。これまで何度も取り壊しの危機に晒されながら、市民や国民の強い願望で生き延びてきた赤レンガは、予定通りにいけば2010年に元の姿を取り戻すことになる。
 東京駅だけはいつまでも赤レンガでいいじゃないかと思う。安易に駅ビルにしてまえば、東京駅は東京駅でなくなってしまう気がする。もし、遠い将来、銀河鉄道999が完成したときには、間違いなくここが発車駅となるだろう。ここ以外にふさわしい駅はない。そのときは、私もメーテルと一緒にタダで機械の身体をもらえるというアンドロメダを目指したいと思う。メーテル~またひとつ星が消えるよ~♪。

丸の内から東京駅

 丸の内仲通りから見る夜の東京駅もまた美しい。過去と現代が融合した幸福な技術の使い方だ。
 残念ながら去年まで行われていた東京ミレナリオは、今年からいったん休止となった。丸の内の工事がある関係で、おそらく2010年までは復活しないのではないかと思う。現在は、丸の内仲通りにイルミネーションが点灯している。丸ビルの高さ8メートルのツリーや街路樹イルミネーションもきれいではあるけど、それだけでは人はやって来ない。

 東京駅は90年以上の間に、一体どれだけの人を飲み込み吐き出してきたのだろう。そこで繰り広げられた喜怒哀楽のドラマを全部見てきたのだ。すべては赤レンガに刻まれているに違いない。出会いと別れ、希望の旅立ちと失意の都落ち、笑顔と涙と血。東海道新幹線にオリンピックに原首相の暗殺などいろんなこともあった。たくさんのシンデレラエクスプレスたちも見守ってきた。そんな言葉を使う人はほとんどいなくなったとしても、きっと毎週日曜日の最終の新幹線が出るホームでは、今でもそんな風景があるのだろう。
 そしてもうすぐクリスマスだ。この時期になると、JR東海のクリスマスエクスプレスのCMを思い出す人も多いんじゃないだろうか。1988年、深津絵里は15歳、1989年は牧瀬里穂が17歳だった。あれから18年も経って、みんな年を取ったけど、あの頃と気持ちはそんなに変わってないのかもしれない。今年もまた、あんな光景が東京駅でも繰り広げられることになるのだろうか。それを笑う人がいても、私はそれって素敵やん?(島田紳助風)と思う。みんな、平凡な人生の中でもドラマチックなシーンを演じたいと願っていて、それは間違ってはいないはずだから。ただ、ちょっと気になるところとしては、深津絵里も牧瀬里穂も私も、いまだに結婚できてないというところだ。素敵やん、とか思ってる場合ではないのかもしれない。

 あなたにとって東京駅とは何ですか? その問いにまだ答えていなかった。(このあたりで情熱大陸のエンディングテーマが流れ出す)たぶんそれは、超えなければならない大きな壁みたいなものなんだと思う。電車でもバスでも、東京へ旅行に行けばいつでも東京駅には行ける。けど、そういうことじゃなくて、東京が本当の意味で私を呼び寄せたとき、初めて私は東京駅を超えて向こう側の世界に行けるような気がする。お客としてではなく、東京に受け入れられる人間になれたとき、東京駅はきっと私にそっと言ってくれるだろう。よく来たな、と。その声はまだ聞こえない。

神宮外苑のイチョウ並木を初めて見た日のことを忘れない 2006年12月9日(土)

東京(Tokyo)
誰もいないいちょう並木

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f4.5, 1/13s(絞り優先)



 青山一丁目のHondaウェルカムプラザを横目で見つつ青山通りを少し進むと、その黄色は突然目の前に現れる。
 神宮外苑イチョウ並木。秋の東京を代表する風景であり、地方の人間にとってはドラマなどでよく目にする憧れの地だ。
 朝の7時すぎ、東京の街はとっくに活動を始めてはいても、ここに観光客の姿はまだほとんど見られない。
 イチョウ並木の入口に立ってしばらく見とれたあと、わぁ、すごいなぁ、というありふれた感想が口をついて出る。自分の持っている言葉が目の前にある風景に勝てないと脳が判断したとき、人は言葉を探すのをやめてしまうらしい。ありふれたたとえをするなら、それはまるで絵のようであった。
 いつもは人がいる写真が好きな私だから、このときも入れようと思ってやめた。だってここは東京なんだぜ、こんなに人がいない東京はむしろ貴重じゃないかと思い直して。どこへ行っても人が多い東京でも、ふとした瞬間、ある空間で、人の姿がふっと消えてなくなることがある。このときはちょうど、そんな幸福な空白の一瞬だった。
 こうしてここ神宮外苑のイチョウ並木から私の東京見物が始まった。すでに歩行時間は2時間以上で、まだ午前8時。この先恐ろしいほどの距離と時間歩くことになることを、このときの私はまだ知らない。

 外苑「いちょう並木」は、300メートルの道路脇に4列、全部で146本植わっている。うち雄木が44本で雌木が102本。雌木にしかならないギンナンもたくさん落ちているから拾い放題で茶碗蒸しにも入れ放題。
 ここのイチョウは、もともと新宿御苑にあったものを明治神宮の内苑に植え替えて、そこで栽培したものなんだそうだ。1923年(大正12年)にこの場所に植えられた。手前から高い順に並べてあり、並木が尽きた先に見える絵画館を大きく見せる遠近法の仕掛けがほどこされていたりもする。
 毎年11月の下旬から12月のはじめにかけて「神宮外苑いちょう祭」が開催されている。今年は12月3日までだったのに、黄葉が遅れたために12月8日のこの日もまだ見頃が続いていた。イチョウの場合は落ち葉とセットの方が美しいから、来週いっぱいは楽しめそうだ。日曜祝日は自動車が入ってこられないようになるからいいと思いきや、人が多すぎてかえって大変になる。写真を撮るなら、日の出の6時半から8時くらいまでがよさそうだ。

絵画館

 明治神宮外苑は、名前の通り明治神宮の一部だ。そして洋風庭園でもある。帰ってきてから勉強して、今さらながら知った私。もしかしたら東京に住んでる人でもそのあたりのことは曖昧なのかもしれない。明治神宮の詳しい成り立ちなど、自分で調べようとしなければ誰も教えてはくれない。毎年明治神宮に初詣に行ってるという人も、明治神宮とはナンデスカ? とパキスタン人に訊かれたら困るはずだ(それはたいていの人が困る)。今回、私が身代わりになって勉強したので、簡単に説明しよう。これさえ読めばあなたも明日から明治神宮についてはちょっと詳しい人になれるはずだ。

 明治45年(1912年)、明治天皇が崩御して、その2年後に皇后の昭憲皇太后が亡くなる。そのふたりを祀るための神社が明治神宮だ。大正4年に作られることが決まり、あちこち候補地が上がった末の大正9年(1920年)、代々木に造られた。
 その後、明治という時代に多くの業績を残した明治天皇のことを後世に伝えようという趣旨で明治神宮外苑が作られることになる。青山練兵場跡地に1926年に作られた当初は、いちょう並木や絵画館のある洋風庭園だった。今でも呼ばれる「神宮の杜」というのは、このときの名残が強い。
 スポーツの盛り上がりと国民の健康向上ということで各種スポーツ施設が敷地内に増えていき、明治神宮球場、秩父宮ラグビー場、国立霞ヶ丘競技場、軟式野球場、スケート場、テニスクラブ、明治記念館などがある。現在の姿としてほぼ完成したのは、昭和39年の東京オリンピックのときだった。
 マラソンの円谷幸吉がアベベから遅れて2位で戻ってきて、トラックでヒートリーに抜かれて3位になったのも国立競技場は見ている。毎年1月15日だったラグビー日本選手権が別の日に移ってスタンドに振り袖姿の新成人が見られなくなったことを秩父宮ラグビーは寂しく思ってるんじゃないか。ジャズバー「ピーターキャット」を奥さんと経営していた29歳の村上春樹は、デーゲーム「ヤクルト対広島戦」でヒルトンがツーベースを打ったとき、僕は小説が書ける、と突然悟る。それはまだ春早い神宮球場の外野席だった。
 写真右奥に写っているのが聖徳記念絵画館で、単に絵画館と呼ばれることが多い。1926年に建てられたこの建物は花崗岩で作られている。明治天皇にまつわる80枚の絵画が年代順に並べられているそうだ。

イチョウ並木と勤め人

 イチョウは東京都の木に指定されていて、都バスや都営地下鉄、東京都が出している刊行物にはイチョウの葉のマークが描かれている。カラスが大嫌いな石原都知事もイチョウは大好きだ(まったくの当てずっぽう)。
 イチョウというのは街路樹によく使われているように、環境の悪い場所にも負けない丈夫な木だ。生きた化石と呼ばれるほど、大昔から世界中に生えていた。誕生したのは1億年以上前、大きな恐竜が暴れ回っていた中生代ジュラ紀の頃だとされている。それが氷河期によってイチョウ科17種類のうち1種類だけが中国で生き延びることになる。
 日本には平安時代に中国から入ってきた。この木はとても長生きなので、1,000年くらいの古木が今でも日本の各地に残っている。40メートルを超えるようなものが東北などにあるという。
 イチョウは漢字で書くと銀杏になる。けど、イチョウの実のギンナンも銀杏なのでややこしい。区別するために木の方を公孫樹とすることもある。
 イチョウの名前の由来は、葉の形がカモの足に似てるから中国語のカモ(鴨)を指す「ヤーチャウ」が転じたものだという話がある。本当のところはよく分かってない。
 実のギンナンは茶碗蒸しや酒のつまみにして食べることが多い。ただ、薬用効果がある一方、あまり一度にたくさん食べると危ないとも言われている。だいたい一日4粒くらいが限度だそうだ。それ以上食べるとどうなるかを知りたい人は、自分で実験して確かめてみるしかない。そしてその結果を私に知らせてください。おそらく、下痢、嘔吐、けいれんくらいで済むとは思うけど。
 イチョウの葉には血液の流れをよくする効果が知られている。お茶にして飲むと、老化予防、脳の活性化、コレステロール改善、ボケや記憶力アップなどに効果があるらしい。

 1963年、日本にやってきていたドイツ人医師のケンペルが、帰国する際にイチョウの種子を持ち帰った。ヨーロッパでは見たこともない黄色い美しい木があることを知らせるために。その種から育って増えたイチョウは、やがてヨーロッパ中に広がっていった。ヨーロッパのイチョウはほとんどがその日本の種が元になっているということになる。
 ドイツの詩人ゲーテは、イチョウの葉を二枚添えて自分より25歳若い恋人ロジーネ・シュテーデルに詩を送った。ゲーテ66歳のときだ。
 これはもともと一枚の葉が二つに分かれたのでしょうか?
 それとも二枚の葉が互いに相手をみつけて一つになったのでしょうか?

 言われてみれば、イチョウの葉は二つの葉がくっついたような姿をしている。ドイツでイチョウは愛の象徴とされているそうだ。ドイツ人はゲーテの恋を笑ったりからかったりしない。太宰治も、少し年を取るとゲーテの偉さが分かるようになると言っている。イチョウのこの黄色を、ゲーテイエローともいう。
 この秋もまた、神宮外苑のイチョウ並木の下で、たくさんのドラマがあったのだろう。大きなものや目に見えないような小さなもの、もしかしたら一生を決めるようなドラマチックな出来事が人知れずあったかもしれない。
 ドラマはなくとも、落葉のイチョウ並木はそれ自体で美しい。行ける人はぜひ自分の目で見てみてほしい。行けない人はこの写真でちょっとだけ行ったような気分になってもらえたら嬉しいです。私もいつかもう一度、イチョウの葉を二枚拾いに行こうと思う。いや、あの葉は別々だった二つの葉が再び出会って一つになったものだと信じるのなら、拾う葉は一枚でいいのかもしれない。

軽装備で行こう、東京見物 2006年12月7日(木)

室内(Room)
東京荷物

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f4.3, 0.4s(絞り優先)



 東京行きの荷物はたったこれだけ。大丈夫なのか、私? バスで一泊といえども、合計すれば2泊2日? 2泊3日? になるというのに。たぶん、現地で何らかの困った状況が発生するのだろうけど、それはそれ。言葉の通じない外国でもあるまいし、なんとかなるだろう。まさか、名古屋弁が通じないというとはないだろうな。今でらえらいでこの机ちょおつってくれ、とか言わなければ大丈夫のはず。
 デジは、istDSにTAMRONの28-200mmと、Takumarの50mm f1.4のみ。必要最小限に抑えた。東京マップも持ったし、あとはバスに乗るだけだ。ちゃんと予約入ってるだろうな、若干の不安が。
 残念ながら明日は雨模様らしい。そうなると行動範囲はぐっと狭くなるけど、それはそれで違う楽しみや別角度の表情が見えたりもするだろう。

 そんなわけで、名古屋から雨を連れて東京へ行きます。私を待っていておくれ、東京。
 1日か2日、更新は休みになる予定です。いってきます。

温室育ちでも箱入り娘でも深窓の令嬢でもいいじゃない 2006年12月6日(水)

花/植物(Flower/plant)
トウワタは唐の綿

Canon EOS Kiss Digital N+TAMRON SP 90mm(f2.8), f2.8, 1/20s(絞り優先)



 温室育ちは是か非かというテーマが自分の中にある。箱入り娘というと悪いイメージはないのに、温室育ちというとなんだか印象が悪い。箱入り娘は冷やかすときに使うくらいなのに対して、温室育ちというとほとんど悪口に近い。温室で育てられたように大事に育てられた子供は本当に駄目になってしまうものなのだろうか。逆に厳しくしつけられれば立派な大人になれるというのか。
 親や子供の組み合わせや性格によってそれぞれだと言ってしまえば身も蓋もない。アメとムチを上手に使い分けるのが賢いやり方だと言えばそうなのだろう。ただ、私は温室育ちは人が言うほど悪いことではないと思っている。甘やかされたくらいで駄目になってしまうような人間は、厳しくされても駄目だろうから。苦労は買ってでもしろというのも好きじゃない。自分の苦労を売り物にする人もちょっと苦手だ。
 じゃあおまえは温室育ちの人間が好きなのかと問われれば、そういうわけでもないと答える私は救いがたい天の邪鬼。温室育ちを弁護しつつも、自分はそうはなりたくないし、全面的に肯定するつもりもない。結論としては、温室育ちでも別にいいじゃん? ってところに落ち着くのだった。世の中にはそういう人間も必要だし、温室野菜や果物や植物園の温室もあっていいのだ。ビバ! ビニールハウスと叫びたい。いや、叫ばないけど。

 今日は東山植物園の温室で見かけて、ちょっと心惹かれた花3種類を紹介したい。
 まず最初のこれは、トウワタ。赤とオレンジのコントラストと、フレアスカートをはいたような姿がキュートだ。でも、このファッションセンスの女の人と並んで歩くのはちょっと勇気がいるかもしれない。自分もルパン三世の格好をしないと負けてしまいそうだ。
 熱帯アメリカが原産で、日本には江戸末期にやって来たらしい。寒さにやや弱いので、日本では越冬できないのだけど、沖縄あたりで帰化して野生で咲いているらしい。
 漢字で書くと唐綿。果実の中の種子の冠毛が、綿のように見えるところから名づけられた。南蛮綿ではなかったところを見ると、中国経由で入ってきたのだろうか。
 他にも宿根パンヤ、アスクレピアスなどの別名がある。有毒ながら強心作用を持つ成分があって民間薬として使われているとこから、ギリシャ神話に登場する医神アスクレピアスになぞらえられたのだろう。
 よく似たヤナギトウワタ(柳唐綿)との違いは、茎の毛深さと葉っぱの生え方らしいのだけど、区別をつけるのはちょっと難しい。

風鈴仏桑花

 この変わった形をしてる花は、フウリンブッソウゲという。サンゴのような花びらと、下に長くたれ下がった花柄が特徴だ。どういう戦略でこういう姿を選んだのかは分からないけど、こういう花は人間の発想ではなかなか出てこないと思う。特に日本人の感覚ではこんな姿は思いつかないんじゃないだろうか。
 アフリカ東海岸のザンジバル島というところで最初に見つかったそうだ。って、どこだろう、ザンジバル島って。えーと、100円ショップで買った世界地図を見てみると……、あった、タンザニアの沿岸近くだ。まかり間違っても私がこの島に立つことはないだろうけど、フウリンブッソウゲを見たらこの島のことを思い出そう。
 仏桑華はハイビスカスのことだから、やはりハイビスカスの仲間ということになるのだろう。フウリンは形が風鈴のようだからというんだけど、あまり風鈴っぽくは見えない。英名はCoral Hibiscus(珊瑚ハイビスカス)。かんざしに似てるということでカンザシという和名もあるようだ。
 沖縄では民家の垣根とかに普通に咲いてるんだとか。ただ、最近はその姿を消してしまったという話もある。何があったんだろう。沖縄ではアカバナーと呼ぶとか、それはまた別の自生種だとか、このへんの詳しいことは私には分からないさー。シュリオネアには出たくないさー。

ブーゲンビリアのピンクと黄色

 最後は上の二つよりはお馴染み感の強いブーゲンビリア。南国に咲く花といえば、ハイビスカスとこれを思い浮かべる人も多いだろうか。
 原産地はやや意外だったブラジル。18世紀に、フランス人の陸軍士官ブガンビルが見つけてヨーロッパに持ち帰ったことで世界に知られるようになった。ブーゲンビリアは、この人の名前から来ている。和名は筏葛(いかだかずら)で、イギリスではペーパーフラワーと呼ばれているそうだ。確かに紙の造花っぽい。
 花びらに見えているのは包葉で、内側にある小さい白いのが本物の花だ。受粉のためのハチドリを呼び寄せる戦略としてこういう姿になったという。
 色はピンクが一般的で、他にも赤、白、オレンジ、黄色などがある。ちょっと面白いのは、ブーゲンビリアは煎じて飲むと風邪の諸症状に効くということで昔から南米では知られていたそうなのだけど、ピンクのものにしか薬効がないというのだ。風邪の症状に会わせてねらい打ちというわけでもない。何かあのピンクの中に秘密があるのだろう。林家ペーパーがピンクしか着ないことよりももっと深い秘密が。

 温室に咲く熱帯の花を見ると、少し複雑な気持ちになる。本当はこんなところで咲く花じゃないのにと思って。動物は動くから狭いところはかわいそうだけど、植物は動かないからどこで咲いても同じじゃないかと思うかもしれない。そういうことでもないと私は思ってしまう。植物園の温室で咲いている花たちもやっぱりかわいそうだ。どれだけ快適でも、やっぱり抜けるような青い空の下で咲きたいだろうし、風を感じたいだろうし、暖かな雨に打たれもしたいだろう。それが何の因果か、こんなところで咲く羽目になってしまった。どうにも馴染めないんだよな、と思ってる花もいるだろう。
 けど、これもまた動物と同じように、私たちにとって植物園でしか見ることができない花というのはありがたい存在なのだ。温室の花は特にそうだ。南国に咲く花というのは、普通の生活をしていたらほとんど見ることがない。一生その存在を知らずに終わるものも多い。それがたとえ温室の中だとしても、実物を自分の目で見られることは意義がある。実人生での体験ではなくても映画を観ることによって得られる疑似体験のように。
 最初の命題に戻ると、温室育ちはやっぱり是なのだと私は思う。人でも花でも温室でしか育たないものがあるなら、それには価値がある。温室には野生にないよさがある。
 私は一度でいいから深窓の令嬢という人種をこの目で見てみたいとずっと思ってきた。白いテラス窓からピアノを弾いている彼女の姿をのぞき見していたら、番犬が吠えながら走ってきて、あわてて塀を乗り越えて逃げようとしたところを執事に捕まってしまい、旦那さんの前に引きずり出されて、すみませんすみません、もうしませんと土下座であやまっているところにお嬢さんがやってきて、お父様、もう許してさしあげて、悪気があったわけじゃないだろうから、はい、そうです、ただ見とれていただけで、ええーい、バカモンがぁ! すぐに立ち去れい! うわー、すみませんー、さようならー、と走って逃げる私であった。
 この物語はフィクションであり、実在の団体、個人、事実とは一切関係ありませんのでご了承願います。

紅葉と寺ネタのラストは三日遅れの浄源寺 2006年12月5日(火)

紅葉(Autumn leaves)
浄源寺の三蔵門落葉

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.0, 1/8s(絞り優先)



 三日遅れの浄源寺。土曜日に行ったという人の写真がびっくりするほどきれいだったので、なんとか間に合ってくれという願いを込めて火曜日の今日行ってみたけど遅かった。もう遅いのや。三日遅れの浄源寺は、あ、あ、あ、あ~あ、あ、あ~、すすり泣き~。
 落葉が始まってからの三日間というのはいかにも長かった。特にここへきて一気に冷え込んだことで、紅葉は駆け足で終わりになってしまった。ワンクール11回の放送予定だった連ドラが10回で打ち切りになってしまったみたいに。なんかエピソード飛んだぞというほど、ストンと幕を閉じた。今回の浄源寺に間に合ってさえいれば、今年の紅葉巡りはほぼ完璧だったのに、ひとつ来年に向けて大きな宿題を残すことになった。
 ここはイチョウが多くて、黄色とカエデの赤が作り出すコントラスト絨毯が素晴らしい。落葉だけならここら一体では群を抜いてきれいだと思う。ほうきで掃かれてしまう前の朝っぱらが特によさそうだ。来年は誰か特派員を派遣しよう(自分で行けよ)。

ひなび戻り岩屋堂

 瀬戸にある岩屋堂は、足助の香嵐渓へ行くほど気力が充実してない人のためにある紅葉スポットだ。あんな大渋滞と人波には耐えられないけど近場で紅葉を見たいぞ、という人たちに人気がある。けれどもちろん、その差はいろんな意味で激しい。ペ・ヨンジュンと橋下弁護士くらいの落差があるかもしれない。
 先週の日曜日まで「もみじ祭り」が開催されていた。今年の賑わいはどの程度だったのだろう。あまりテレビのニュースなどにならないのでよく分からない。この時期に行くと、いつもの無料駐車場が突然500円の有料になってしまうのがイヤで、私はこの時期は避けている。
 もみじ祭りが終わってしまえば、この通り。祭りの後というのを通り越したひなび加減。移動サーカスが去ったあとでもこんなに寂しくはなるまいという風情を全面的に漂わせている。完全に昭和のさびれた観光地という雰囲気だ。私は活気のある時期の岩屋堂というのを一度も見たことがないから、これが普通の姿なのだけど。
 でもここはなかなかいいところなのだ(手遅れ気味のフォロー)。右にはきれいな鳥原川が流れ、珍しい野鳥もいるし、川沿いには散策コースもある。暁明ケ滝と瀬戸大滝という滝があったり、岩巣山という低山ハイクにちょうどいい山があったり、山頂からの眺めがよかったり、夏は川遊びもできる。さびれた雰囲気も、これはこれで味として楽しみたい。
 岩屋堂を笑う者は岩屋堂に泣く、だろう。そしてそれはきっと、私。

ひなび戻り岩屋堂

 写真は浄源寺の本堂と鐘つき堂。
 岩屋堂と浄源寺には深いつながりがある。というより、岩谷堂は現在、浄源寺の奥の院という扱いになっている。岩屋堂というのは、正式名称を岩屋山薬師堂といい、725年、病気になった聖武天皇の回復祈願のために、僧の行基がここの洞窟内で三体の仏像を彫ったことが始まりとされる。のちにそのうちの一体である薬師瑠璃光如来を本尊として岩屋山薬師堂が建立された。ここで祈れば目や耳の病気が治ると言われている。
 浄源寺は、それから700年ほど経った1430年、雲興寺(昨日登場した寺)の二世天先祖命禅師によって、それまでの天台宗から曹洞宗に改宗して建てられた。本尊は、行基が彫った内の一体である白衣観世音菩薩(びゃくえかんぜおんぼさつ)となっている。あと一体はどこにあるのか、私は知らない。浄源寺にあるのだろうか。

 今日は少し宗派について勉強してみたい。仏教の何々宗というのはよく耳にしても、自分の家が仏教徒だったり仏教学校へ行ったりしなければ宗派について知る機会というのはあまりないと思う。何かきっかけがないと、仏教ってのは一体どれだけの宗派があるんだ? オレは猛烈に知りたいぞぉー、なんて興味を抱くこともない。うちは仏教徒ですから! と、聖書の話をしに来るおばさまとかを追い払ったことがある人は多いかもしれないけど。
 私も詳しくは全然知らない。有名な宗派について名前だけ知っている程度だ。軽く調べたところによると、どうやらいくつかの系に分かれていて、その中でまた宗派があるという構図になっているようだ。
 たとえば浄源寺の曹洞宗(そうとうしゅう)は、禅系にあたり、同じ禅系として臨済宗がある。曹洞宗と臨済宗が同じ系統だとは思ってなかった。他には、日蓮宗は法華系になり、浄土宗と浄土真宗は系が違ったりする。あと、天台系の天台宗や、真言系の真言宗などがある。

 曹洞宗というのは、鎌倉時代の1122年、僧の道元が24歳のときに中国へ留学して4年後に帰国して日本に広めたものだ。禅宗の中でもたぶん一番ストイックな宗派で、ただひたすら座禅を組むことで悟りを開くことを目指す。仏にすがるとかそんな姿勢ではない。厳しさゆえに貴族階級からあまり受け入れられず、地方豪族や民衆に広まっていった。それに対して貴族や幕府は同じ禅系の臨済宗を大事にするようになる。
 本尊はお釈迦様で、大本山は福井県の永平寺と横浜市の總持寺(そうじじ)のふたつある。サンフランシスコやロサンゼルス、ハワイ、ミュンヘンにもお寺があるのはちょっと驚きだ。
 愛知では、愛知学院や愛知中学、愛知高校が曹洞宗の学校だそうだ。って、私、愛知高校受験したぞ。滑り止めとして。まさか自分の受験した学校が仏教の学校だったとは。そんなことも知らずに受験してたのかよ、私。
 有名校では、駒澤大学や東北福祉大学も曹洞宗の学校らしい。

 行基(ぎょうき)のことについても少し。
 この人はなかなか偉いお坊さんだった。偉そうというのからは対極にある偉さとでも言おうか。とにかく頼まれるとイヤだとは言えない性格で(といとうかイヤと言わない意志の強さで)、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を地でいくような人だった。
 あちらで病気してる人がいると聞けば飛んでいって祈りつつ彫刻を彫り、家が壊れたと言う人がいれば行って直してやり、川の向こうへ渡りたいといえば橋を造り、たくさんの寺を建て、港を作りという、なんでも屋さんだった。
 大阪生まれで15歳のときに出家して、その後お寺での修行に飽きたらず、37歳のとき山に入って何やら独自の修行で神通力を身につけたらしい。しかし、民間での評判が上がるほどに朝廷から弾圧を受けることになる。民衆の心を惑わすなどのインネンを付けられて。それでもめげなかった行基に最後は朝廷も折れ、82歳まで生きたのだった。
 各地に行基の足跡がたくさん残っている。特に温泉伝説が多い。出身が大阪ということで、関西での人気は今でも高いようだ。近鉄奈良駅には行基の像が建っているとか。

 紅葉に絡んでここのところブログのお寺比率がものすごく高くなっている。寺、花、寺、寺、料理、寺、寺、って寺まるけじゃん! 住職の息子でもこんなに寺のことばかりネタにはしないだろう。どんだけ寺が好きなんだと思うかもしれないけど、実はそうでもないんですよ。それも今日までになりそうだ。紅葉ネタも寺ネタも切れた。
 木曜の夜から東京行きの予定なので、もしかしたらこのブログ始まって以来のお休みとなるかもしれない。ついに皆勤賞が途切れてしまうか。それとも、無理矢理にでも向こうのネットカフェで更新するか。いずれにしても、戻ってきたら東京ネタ確率がはね上がることになる。
 そんなことを言いつつ、東京でも神社仏閣ばかり巡ってしまいそうな自分が怖い。モニターの向こうから一斉に入るツッコミが聞こえてきそうだ。結局、神社仏閣かよ! という。一番楽しみにしてるのは、江戸城だったりするのだけど、江戸城って今でもあるの? という基本的な問いかけを誰にともなく投げかけつつ、ゲッツ・アンド・ターンでフレームアウト(今日久々にテレビでダンディを見た記念)。

盗難除けの雲興寺にお願いして泥棒から身を守ろう

神社仏閣(Shrines and temples)
雲興寺入り口前




 ここは瀬戸の雲興寺(うんこうじ)。一般的な知名度はあまり高くないかもしれない。ただ、愛知県や近郊でウォーキングや低山ハイクをしてる人たちには馴染みのある場所だと思う。境内が東海自然歩道の一部になっていて、ここから東に行けば猿投山(さなげやま)、西に行けば岩屋堂岩巣山と、ハイキング・コースの中間地点のようになっている。ここを待ち合わせ場所や出発点としてる人もいるだろう。駐車場が広くて、とめるところには困らないし、トイレもある。ただし、公共交通機関の便は致命的に悪い。土、日祝日に一日一往復のみ。午前中に名鉄瀬戸線の尾張瀬戸駅前から出たバスは、ここに客を降ろして帰っていき、それっきり5時間ほど戻ってこない。こんなところにポツンと取り残されて5時間も何をすればいいというのか。逆に、岩屋堂などを往復したとして、5時間で戻ってこられなかった場合、どうすればいいのか途方に暮れてしまう。
 そんな雲興寺も、紅葉の時期になるとちょっとした賑わいを見せる。すごく紅葉が素晴らしいというほどでもないのだけど、参道や境内の紅葉はまずまず見るものがある。私も小原村の四季桜を見に行ったとき、少しだけ立ち寄ったことがある。今回訪れるのは3回目ということで、お馴染みの場所になりつつある。



雲興寺本堂

 本堂の前に出て、まず目に付くのは屋根だ。ん? なんだ、これ? と最初は違和感を覚える。お寺らしくない瓦葺きだ。それも普通の瓦とは違う。瀬戸は昔から瀬戸物の街ということで、この瓦は釉薬(うわぐすり/ゆうやく)をかけた赤津焼でできているのだそうだ。
 釉薬というのは、長石(ちょうせき)という天然石を粉にしたものに、石炭や木炭なんかを混ぜてたもので、これを塗ることで表面にツヤを付けたり、いろいろな色を出したりする。水が染みないようにする効果もある。何を混ぜればどんな色やツヤが出るかは陶芸家の知識と経験がものをいう。

 大龍山雲興寺は、歴史と由緒のあるお寺だ。開山は室町時代前期の1384年で、曹洞宗の天鷹和尚によって創建された。足利義輝から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康もこの寺を大事にしたという。幕末には寺領300石になっていた。
 本尊は釈迦牟尼如来。そしてなんといってもここの一番の特徴は、盗難除けのお寺だということだ。ドロボウに遭わないことを御利益として前面に押し出しているところは珍しいじゃないだろうか。確かにドロボウはできれば避けたいところだけど、それだけをお願いに行くということはあまり考えられない。あるいはお金持ちにとっては切実な願いということになるだろうか。
 近所で暴れ回っていた夜叉に和尚が説教したら悔い改めて、これからはここの守り神になると言って性空山神(しょうくうさんしん)となったというエピソードが伝わっている。山門の前には「盗難除性窯神」と彫られた石柱が建っている。
 夜叉改心日が4月25日だったとかで、毎年4月の24、25日は御性空祭りが開催される。この日ばかりは大勢の人が訪れるというから、そのときは臨時バスも出ているのだろうか。

 泥棒といえば、石川五右衛門と鼠小僧次郎吉のことを思い出す。どちらも歌舞伎や戯曲、小説などで有名だから、架空の人物と思っている人もいるかもしれないけど、両者ともに実在した人物だ。共通点としては、どちらも最後は捕まって処刑されているというのがある。同じ37歳のときだった。違う点としては、まず時代が違う。石川五右衛門は安土桃山時代で、鼠小僧次郎吉は江戸時代末期だ。
 石川五右衛門は天下の大泥棒という豪快なイメージが強い。一説によると2メートル10センチもあったとか。
 忍者の百地三太夫の弟子になり、その奥さんといい仲になって駆け落ちして、その女も殺して金を奪って京都へ逃げ込むことになる。その金も使い果たしてしまい、習い覚えた忍術を使って散々盗みを働き、石田三成の屋敷からもあれこれかっぱらった。だんだんエスカレートして、しまいには伏見城に忍び込んで、秀吉のお宝「千鳥の香炉」を盗み出そうとして失敗(秀吉の命を狙っていたという話もある)。秀吉の前に引き出されたとき、「てめえこそ天下を盗んだ大泥棒じゃねえか」と言ったとかなんとか。どこまでホントか、全部ウソか、実際のところは分からない。
 最後に捕まったときは、どうしてそんなに盗みばかり働くのだという尋問に対して、配下のものを養うためと答えたらしい。その頃までには泥棒の棟梁のようになっていて、手下の者も数十人からいたという。
 三条河原での公開処刑は、釜ゆでというより、煮立った油の中に入れられたと伝えられる。
「石川や 濱の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」という辞世の句も、やはり後年の作り話なんだろうか。
 歌舞伎などでは、京都の南禅寺山門に立って、
「絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金とはちいせえ、ちいせえ~」という決めのシーンは有名だ。
 一方の鼠小僧次郎吉は背も小さく、スケールも案外小さい。何しろ鼠だし、小僧だ。泥棒になったきっかけは、バクチで負けて大借金を作ったからというありがちなものだった。鳶職人(または建具職人)だったらしい。
 大名屋敷を専門にしていたのは、警戒の厳しい町家を避けただけで、別に庶民に金をばらまくためではない。もちろん、ばらまいてもいない。稼いだ金はまたバクチや女にすっかり使ってしまう。大名屋敷の場合は、盗まれたことが分かっても恥だったりいろいろ面倒なことになることを恐れて届け出なかったということもあった。被害届が出てないんだから、捕まえても咎めることができない。
 鼠小僧がのちに義賊のようになったのは、ひとり働きだったのと、盗みはしても人を傷つけたりしなかったことからだ。何事にも連帯責任が基本だったこの時代にもかかわらず、処刑されたときも一族郎党家族のつながりがなくて、ひとりきりだった。
 最後は屋敷に忍び込んだところを現行犯逮捕。被害届は出てないものの、白状させたところによると、盗みに入った数は400回以上。現在のお金に換算すると10億円以上をいただいていたというからすごい。これだけ使い切ったのもすごいけど。最後は鈴ヶ森の刑場で磔にされた。
 墓は両国の回向院にあって、いつからかその墓石を削り取って持っているとバクチに負けないとか受験に合格するとかのウワサが流れて、今では丸い形になっているという。



雲興寺境内の紅葉

 私自身はあまりものを盗まれた経験がないのだけど、泥棒から身を守りたい方はこちらにお詣りにいくといいと思う。
 境内の紅葉を撮るならやはり早朝がよさそうだ。
 
【アクセス】
 ・名鉄瀬戸線「尾張瀬戸駅」下車。駅前バス停から赤津行きバスに乗り、終点「赤津」で下車。徒歩約15分。
 ・無料駐車場 あり
 

カタカナだらけのサンデー料理大会 2006年12月3日(日)

料理(Cooking)
普通のサンデー料理

Canon EOS Kiss Digital N+EF 50mm(f1.8), f3.2, 1/13s(絞り優先)



 今日のサンデー料理は、見た目ノーマル、中身小さくツイスト、コンパクトなスイングで右中間突破のツーベース、といった感じに仕上がった。味はパーフェクトやノーヒットノーランとまでは言えないものの、自責点2で完投勝利、ヒーローインタビューでは調子はまずまずでしたと答えられるくらいの出来ではあった。グッジョブ。
 ここまでの文章を読んで、やけにカタカナが多いなと気づいたアナタ、ユーはスルドイね、ジャニーズへおいでよ。
 料理のことはいったん中断して、今日はカタカナについてちょっと勉強してみたいと思う。すごく唐突だけど、今日はカタカナ気分ナノダ。人間、そういう日もアルネ(無理矢理すぎるだろう)。

 カタカナというと、なんとなく外国風の気がしてる人が多くないだろうか。ワタシ、ニホンゴ、ワカリマセーン。などと書くと、説明しなくても外国人がしゃべった言葉として私たちは自然に認識する。はっきりとした法則や決まり事があるわけでもなく、ましてや外国人がカタカナを意識してしゃべっているわけでもないのに。
 ひとつには、外来語や外国人の名前を表記するときにカタカナが使われることで、カタカナは外国に属するものだという気がしてしまっているというのがあるだろう。カタカナというのは漢字で書くと片仮名というように、日本人が発明した日本固有の言葉であるということを忘れられがちだ。もしかしたら、カタカナという文字は外国から入ってきた言葉のように思っている人さえいるかもしれない。
 カタカナの歴史は、実はひらがなよりもずっと古い。奈良時代、中国から入ってきた漢文の書物や教典を訓読みするために、漢字を簡略化した文字として日本人が発明した。吉備真備(きびのまきび)が作ったという説もあるけど、実際のところはよく分かっていないようだ。漢字がびっちり並んでいるところに漢字で読みを書き込むスペースはない。そこで、分かりやすくて小さい文字でも書けるようにという知恵から生まれたのだった。
 片仮名という言葉からも分かるように、片(カタ)は漢字の片方から来てる言葉で、仮名(カナ)というように仮(カリ)の名前(文字)というわけだ。仮ではない本当の文字は漢字ということになる。
 たとえば、カタカナのアイウエオは、阿、伊、宇、江、於の簡略文字だ。それぞれどの部分が使われているかだいたい分かるだろう。カタカナはこういう楷書体(かいしょたい)から来ている。
 一方のひらがなは、平安時代に入ってから、草書体(くずし漢字)から作られた。ひらがなのあいうえおは、安、以、宇、衣、於の文字が元になっている。最初は女性が和歌や手紙などを書くときに使ったというのは、学校の授業でも出てきたので覚えてる人も多いと思う。
 その後、日本語は漢字カタカナ交じりの文章になっていき、それがだんだん漢字ひらがな交じり文へと変化していった。もしかしたら、この先は、漢字ギャル文字交じりが主流になっていったりするのかもしれない。マンモスかなピーけど、それが時代の流れだとしたら従うしかない。

 カタカナ語の氾濫が言われて久しい。日本語があるのになんでわざわざ外来語のカタカナを使わなければならないのかと世のオトーさんたちは嘆いている。特にビジネス用語なんてワタシでもチンプンカンプンだ。コンプライアンスとかインセンティブとかイノベーションとかアジェンダとか言われても何のことやら。ただ、モチベーションとかテンションとかアイデンティティーとかはいつの間にかすっかり定着してしまった。
 今やカタカナを封印されると、日常会話でもすごく困ったことになってしまう。ハリウッドスターなんかはひらがなで、じょにー・でっぷとか書いても間抜けな感じはしても伝わることは伝わるのでいいとして、食べ物とかを呼べなくなってしまう。カレーライスに当たる日本語はない。今日のランチはカレーにしようかなとか気軽に言えなくなってしまい、今日のお昼は、あのー、ご飯に茶色いのがかかった例のやつを食べにいこうかなどと非常にまだるっこしい言い方になる。コロッケが食べたくなったときは、じゃがいもをつぶして揚げたあれとなり、クリームコロッケなんて説明のしようがない。中身が白いとろっとした揚げ物でとうもろこしの粒が入ってたりするやつ、とかになるだろうか。インターネットの世界などは完全に成り立たない。
 というように、カタカナというはもはや日本語には欠かせないものとなっている。カタカナが悪者なのではない。日本語があるものを安易にカタカナにしてしまう姿勢に問題があるだけだ。セレブと言わなくても有名人でいいし、コンセプトなんて使わなくても基本的な概念でいい。
 私もこれからはなるべくカタカナを使わずに正しい日本語を使いこなすジェントルマンになりたいと思う。

 今日の料理に戻ろう。今回は特に再チャレンジとかそういうことはなく、これまで作ったものの応用に終始した。世の中には無数の料理があるとはいえ、自分が食べたいものと手に入りやすい食材を考え合わせると、個人で作るレパートリーというのはそれほど広がるものではない。
 左手前は、白身そぼろの味噌味。
 白身をほぐして、味噌、しょう油、酒、みりん、塩、コショウで味付けして、刻んだタマネギとともに炒める。真ん中は焼きジャガイモ。茹でて柔らかくしてスライスしたら、味噌を表面に塗って焼き色を付ける。
 右は、野菜の白あえ洋風バージョン。
 木綿豆腐を少し茹でてしっかり水切りして、すりつぶしつつ白ごま、白みそ、みりん、酒、酢、砂糖を混ぜ合わせる。本来は砂糖をたくさん入れて甘くするところを、それはやめて、酢とマヨネーズとカラシを使った。こういう味付けの方が普通に美味しいと思う。具はダイコンスティック、アスパラ、まいたけ。この辺はお好みで。
 奥は白菜のクリーム包みカニスープ掛け。
 小麦粉、バター、牛乳でクリームソースを作って、かるくゆがいた白菜で包んで蒸す。カニ缶半分をクリームソースに混ぜ、半分は水、白ワイン、コンソメの素、塩、コショウ、水溶きカタクリ粉であんを作ってかける。

 今日は料理のことよりもカタカナの勉強サンデーとなった。料理自体は、特にカタカナっぽいというわけではない。洋風とも和風ともつかない、とても日本の家庭料理っぽいものとなった。ある意味では漢字ひらがなカタカナ交じりと言えなくもないか。
 カタカナといえば、そういえば私、自分の名前をネットではカタカナで書いていることを思い出した。おおたでは軽いからオオタとしてる。別に深い意味はない。浪速のモーツァルト、キダ・タローに憧れているからでもない。今さら改名しないとアンタ地獄に堕ちわよるとか言われても困ってしまうし、このままいこうと思う。オダギリジョーくらいカッコいいイメージになるといいな。いや、もちろん、似ても似つきません。

千手観音に千の願い事をできる人間になるために 2006年12月2日(土)

神社仏閣(Shrines and temples)
寂光院の千手観音

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/15s(絞り優先)



 犬山の寂光院で参拝してふと顔を上げると、本堂の扉が開いていて千手観音さんと目があった。あ、どうもこんにちは。お元気ですか? こっちは元気です。と、当たり障りのない挨拶をしつつ、ものすごいきらびやかさに圧倒された。派手だなぁこれ、と思う。そういえばここの扉が開いてるのは初めてだ。せっかくなので記念写真を一枚撮らせてもらった。ちょっと失礼しますよと遠慮がちに。バチを当てないでくださいね。100円は願い事代じゃなく撮影代ということで。
 家に帰ってきて見てみたら、なんだか社会の教科書に載ってる写真みたいになっていて、ちょっとおかしかった。笑うところじゃないけど笑えた。しかし、このきらびやかさ。一体いくらかかってるんだろうなどと考えてしまう私は、仏への道のりはまだまだ遠い。
 それにしても、この千手観音像が日本武尊の作という話はどうなんだろう。本当だとしたらすごい。ヤマトタケルノミコトは草薙の剣を振り回してるだけじゃなかったんだ。彫刻刀使いまで名人級だったのか。でも、やっぱりちょっと信じられない思いが残る。いや、疑ってはいけない。小学生のとき、家庭科の宿題でぞうきんを縫っていったら、これは上手すぎるからお母さんにやってもらったんだろうと疑われて悲しい思いをしたことがある私ではないか。いや、お母さんは性格的にこんなに上手くできない、これは手先が器用な私がやったんですとホントのことを言っても信じてもらえなかったときのことを思い出せ、私。
 ヤマトタケルの実在に関しては、私は信じている。いろいろと話が大げさになったり尾ひれが付いたりはしてるにしても、核となる小碓命(おうすのみこと)の存在はあったのだと思う。ただ、ヤマトタケルが千手観音を彫ってる姿というのはちょっと想像ができない。戦につぐ戦で忙しかっただろうし。それとも、戦場で戦の合間にヒマを見つけてはコツコツと仕上げていったのだろうか。作業の途中で敵が攻め込んできて、ああー、今大事なところだったのに! とか、うわっ、腕がもげたぁ! とか、人に言えない苦労も合ったかもしれない。だとしたら、せめて国の重要文化財にして欲しいと思ったりもする。寂光院の千手観音は、文化財的にはどんな扱いになっているんだろう。

祈る親子

 祈る親子。家族の願いはたいてい単純で分かりやすくていい。自分のためだけの身勝手なものじゃないから、観音様も聞き入れやすいだろう。千手観音となれば、千本の手であらゆる願いは受け止められるというものだ。多少イレギュラーな願い事でも取りこぼすことはあるまい。
 とはいえ、千手観音像の実際の手の本数はたいてい42本と相場が決まっている。前で合わせている手が2本と、後ろにワラワラワラと生えている手が左右で40本。これは、仏師が1,000本も腕を作るのが大変すぎるから、という現実的な問題がけっこう大きいのだと思う。1,000本生やすことが物理的に難しいというのもあるだろう。奈良・唐招提寺金堂像や大阪・葛井寺本尊像など数体だけが千手を持つ例外となっている。40本というのは、一本の手で25本分(仏教でいうところの「三界二十五有」、つまり25の世界)を担当してあわせて1,000だ、ということになっている。
 千手観音は、千の手それぞれに目を持っていることから、千手千眼(せんじゅせんげん)観音とも呼ばれている。または、十一面千手観音、十一面千手千眼観音とも言う。
 千手観音を祀っている有名な寺としては、清水寺や三十三間堂などがある。清水寺の本尊像は、33年に一度しか開帳されないので機会があれば一度見てみたい。前回が2000年だったから、次を逃すとその次はない。三十三間堂は、国宝の本尊像の他に、有名な1,001体の千手観音像がある。中学の修学旅行のときに見たのだろうか。まったく覚えてないということは見てないのか。写真を見ると、1,000体並んだ千手観音像に圧倒される。大阪の葛井寺にあるものが日本最古の千手観音像と言われている(8世紀)。

 千手観音は、仏教の信仰対象となる菩薩のひとつで、六観音(一般的に聖観音、千手観音、十一面観音、如意輪観音、馬頭観音、准胝観音)のひとつでもある。
 インドに入ったときにヒンドゥー教の影響を受けて、観音菩薩が変化した変化身(へんげしん)で、インドでは知られておらず、中国で一部信仰されている他は、日本のオリジナルといっていいような存在だ。サンスクリット語では、サハスラ・ブジャといい、これは千の手を意味している。
 日本では古くから信仰されていて、奈良時代にはすでに千手観音像が作られていた。かつては奈良の東大寺にもあったそうだ。広く信仰されるようになったのは平安時代以降で、平安の後期にはそれまで主役だった十一面観音に代わって信仰対象として中心的存在となった。
 手にはそれぞれ、鉾、日輪、化佛、宝珠、輪宝、水瓶、数珠などを持っていて、あらゆる道具と方法をもって慈悲の心で人を救済する。特にこじれた男女の仲を修復するのが得意らしい。千本の手であやとりをするようにもつれた心の糸を解きほぐしてくれることだろう。私の場合は、大事な糸がどこかで切れてる可能性があるので、それを見つけて結んで欲しいと思う。けど、千本の手で結んだら、あちこちでこんがらがってしまって大変なことになりそうでもある。頼む人選を間違えたか!?
 千の願い事って、自分にはあるだろうかと考えてみる。小さなものも思いつく限りノートに書いていったらどうだろう。50あるか、欲張って100を超えるか。私は人よりも欲浅い人間かもしれないけど、それにしても人は言うほど欲深くはないようにも思う。身勝手でわがままだけど、千の願いさえ思いつかないのだから。もし、千の願い事がスラスラと出てくるという人がいたら、それだけでもう観音レベルと言っていいかもしれない。それくらい目的意識や願望が明確ということは素晴らしいことだ。人生を超前向きに生きている証拠でもある。
 私も今度願いを書いてみようか、デスノートに。って、それはノートが違うだろう。そもそも、殺したいほど憎い人なんてひとりもいない私ではないか。あんなノート拾っても困るぞ。
 それにしても、私ももう少したくさん願い事のある人間になりたいと思う。自分の利益のための願いはよくないとしても、この世界や人を思いやる願望なら悪いことはちっともないから。たとえば、千人の友達がいれば、千の願いはすぐに思いつくということだ。小学一年のとき、友達100人できなかった私は、もしかしてそのあたりからやり直さなければいけないのか?
 近い将来、あなたは三十三間堂でランドセルを背負った大人が千手観音の前で一心不乱に祈っている姿を見かけることになるかもしれない。

紅葉終盤の犬山寂光院で出会ったいいシーン2つ 2006年12月1日(金)

紅葉(Autumn leaves)
寂光院参道の石段

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f4.0, 1/5s(絞り優先)



 寂光院(じゃっこういん)といえば、京都大原を思い浮かべる人が多いだろうけど、愛知県民の中には犬山の寂光院が浮かぶ人もけっこういると思う。メイダイっていえば明治大学じゃなく名古屋大学に決まっとるがや、というほどでもないにしても。
 今年の紅葉名所巡りの最後はここと決めていた。通称「もみじ寺」と呼ばれる犬山寂光院は、毎年多くの紅葉見物客で賑わいを見せる(去年は20万人だったとか)。ここを最後に持ってきたかったのは、おととし訪れたときは早く行き過ぎて色づいてなくて残念な思いをしたからだ。もうひとつは、落ち葉で参道の石段が真っ赤な絨毯になることを期待してというのもあった。んがっ、しかし、落ち葉がない! どこへ行ってしまったんだ? 落ち葉のおの字もなく、石段はまったくもってきれいな状態が保たれていたのだった。なんやて!? と、「焼きたて!!ジャぱん」の河内状態の私。ちょっと声がもれそうになる。おまけに見上げると、激しく散ってしまっている木といまだに青々してる木との差が激しい。これは遅すぎたとも言うべきか、逆に早すぎたとも言った方がいいのか、なんだか半端な時期に訪れてしまったらしい。落ち葉狙いなら、もっと成熟させた方がよかった。とはいえ、再訪できるほど近所じゃない。なにはともあれ、長い階段を登って本堂を目指すことにした。
 石段は300段あるとかで、ゆっくり歩いて10分ほどかかる。坂はいくつかに区分けされていて、それぞれに七福神の名前が付けられている。石段を登るだけでも厄除けになるんだとか。そんな名前を見たり、途中にたくさんあるカップルの地蔵さんを眺めたり、頭上のモミジを見上げたりしながらのんびり歩いていくのがいい。そんなに急がなくてもいい。私の場合は、日没直前ということで1段飛ばしで駆け上がっていった。貧乏性の見本のようなやつめと七福神たちも笑っていたかもしれない。

本堂前の親子記念撮影

 今日のいいシーンその1。
 小さな子供を連れた若夫婦を見ると頭が下がる思いの私。最近ますますその傾向が強くなってきた。エライなぁと感心してしまう。
 親子記念撮影風景で昔と今と変わったなと思うのは、最近はお母さんも写真を撮ってるシーンがすごく多くなったということだ。ちょっと前までは、写真を撮るのはお父さんの役目だった。お母さんはカメラに触るのさえ嫌がったものだ。お父さんも撮られたがらなかったというのもある。今は若いカップルがふたりして一眼を持ってるのを見かけたりもする。
 紅葉の方は、境内のものは特に散りが激しかった。一週間くらい前が見頃だったのだろう。宣伝文句で、モミジやカエデが1,000本という言い方をしているけど、それは参道や山全体であわせてそれだけということで、境内のモミジはびっくりするほどではない。どんなすごいところなんだろうと想像を膨らませていくと、拍子抜けするくらいだ。ただ、他のところに比べて赤みが強いような気はする。それも光が当たってこそだけど。

 ここはモミジ目当てに訪れる人が大部分なのだろうけど、本堂も忘れてはならない。孝徳天皇の勅願寺として654年に南都元興寺の道昭和尚によって七堂伽藍が創建されたのがはじまりという、尾張で最古のお寺さんなのだ。645年が大化の改新だから、相当古い。
 正式名は、継鹿尾山八葉連台寺寂光院(つがおさん はちょうれんだいじ じゃっこういん)。真言宗智山派。本尊は千手観音で、ウソかマコトか、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)作という言い伝えがあるそうだ。にわかには信じがたい。不動尊が弘法大師の作というのは信じられるにしても。
 現在の本堂は、1879年(明治12年)に再建されたものなので、まだ風格は出ていない。1962年(昭和37年)にも改修が行われたそうだ。単層寄棟、桟瓦葺で、派手さはない。 
 境内には本堂の他、随求堂、鐘楼、観音堂、宝塔、馬鳴堂などがある。意外と狭いと感じるけど、奥の院を含めた山全体がここの敷地のようで、あわせると10万坪になるそうだ。展望台からは、犬山城や遠く名古屋駅のタワーなどを見ることができる。本堂から右へ行くと、継鹿尾山(273m)の登山道がある。登り30分くらいで、山道はそこそこハードなので、時間と体力に余裕があればそっちに登っても気持ちがいいと思う。私は前回登る途中で気持ち悪くなった。
 ここへは織田信長も参詣に訪れたという。1565年というから、信長31歳だろうか。柴田勝家がお供だったそうだ。清洲からここまで馬だったのだろうけど、昔の人はホントに丈夫だ。300段くらいの石段は息ひとつ切らさずに登ったのだろう。登り終えたとき、ふうふう、ぜぇぜぇ言ってる信長はイヤだ。
 方角的に清洲城の鬼門に当たるということで、守り神として黒印50石、山林50町歩を寄進したらしい。

寂光院境内のいいシーンその2
PENTAX istDS+Super Takumar 50mm f1.4

 今日のいいシーンその2。
 ちびっこを抱きかかえたお父さんとそれを写真に撮るお母さん。そのシーンを眺めながら歩く若いカップル。そして、それを丸ごと撮る私。更にその私をも含めて撮ってる人が後ろにいたらもっと面白い写真になっただろう。振り返ってみたけど、残念ながら誰もいなかった。
 紅葉のいいタイミングは逃したけど、その代わりこんないいシーンに出会えた。今日はこれだけで大満足だった。足を運べば、何かしらいい偶然に当たるものだということをあらためて思った。

 紅葉の見頃は過ぎても、もうしばらく楽しめそうだ。まだ青い葉っぱも残っている。12月11月まで「もみじまつり」が開かれていて、名物の「あゆは寿し(鮎の甘露煮入り巻き寿司)」もこの時期限定で発売されている。
 場所は、名古屋方面からなら、27号線を北上して、木曽川の橋の手前「犬山遊園駅西」の信号を右折。そのまま川沿いを道なりに進めば案内看板があちこちに出てるので、それに従えば辿り着く。駐車場は右側だ。週末はまだ車をとめるのが難しいかもしれない。境内近くと少し離れたところに100台分くらいの無料駐車場があるので、平日ならもう大丈夫だろう。
 電車なら、犬山遊園駅で降りて、歩いて20分くらいだろうか。周囲も紅葉があるので、のんびり歩いてもよさそうだ。
 お寺は午後5時までなのでちょっと注意が必要。私は知らずに最後まで残って写真を撮っていたら5時を回って最後のひとりになっていた。まさか閉じこめられることはないと思うけど、真っ暗になったら怖い。
 寂光院に入らず、そのまま真っ直ぐ行くと、桃太郎神社がある。ややキワモノめいたこの神社もいつか行かねばなるまい。いきなり桃から生まれた桃太郎の人形が入口で出迎えてくれたり、反省しきりの赤鬼がいたりするらしい。

 今年の紅葉名所巡りは、これで終わりになりそうだ。今年は軽く済ませようと思っていたのに、思いがけずたくさん回ることができた。ひとつ大きな心残りとして奈良公園行きが実現しなかったというのがあるけど、それはまた来年だ。
 寂光院の一番のオススメは、モミジがピークを過ぎて、雨が降った日の翌日早朝というピンポイントだ。この時期のこの時間帯なら、石段が赤い絨毯になって、なおかつ濡れて赤く輝いているという私の頭の中にあるイメージが具現化している可能性がある。和尚さんが掃除してしまう前に行かないといけない。私としてはそんな時間帯に行く根性を持ち合わせてないので、来年ぜひ、どなたか行ってきて欲しい。そして写真を見せてください。私は寝ながら待ってます。紅葉絨毯写真は寝て待て。待てば海路の紅葉写真あり。棚からモミジ絨毯写真。カモが赤絨毯写真を背負ってやって来る。こんな感じで期待してますので。

秋にも冬にも桜が咲くなんてのはそんなの常識 2006年11月30日(木)

桜(Cherry Blossoms)
東山植物園の子福桜

Canon EOS Kiss Digital N+TAMRON SP 90mm(f2.8), f2.8, 1/60s(絞り優先)



 桜は春に咲くもの。そんなの常識。タッタタラリラ、ピーヒャラ、ピーヒャラ、パッパパラパ。しかし、碇ゲンドウが言ったように、「何事にもイレギュラーは存在する」。桜とて例外ではない。
 秋に咲く桜があり、冬に咲く桜がある。しかも、狂って咲いているわけではない、毎年その時期に好きこのんで桜があるのだ。
 寒い時期に咲く桜の代表としては、「十月桜(ジュウガツザクラ)」と「冬桜(フユザクラ)」がある。十月桜の方が一般的で、両方とも春と秋の二回花を咲かせる。花びらが八重なら十月桜で、一重なら冬桜と思ってまず間違いない。冬は寒さのせいか、花はいたって地味な印象を受ける。寒風にさらされて寒そうな風情なので、あまりきれいには見えない。花そのものも小さい。ただ、近づいてよく見ると、紛れもなく桜の花で、きれいだ。地味だからといって気に留めてなかったら、いつの間にか結婚してしまってよくよく見てみるとけっこう美人でしまったと思ったときはもう遅いということもある(それとこれとは違うだろう)。
 十月桜は、御会式桜(オエシキザクラ)とも呼び、エドヒガン系と言われている。江戸彼岸(エドヒガン)と豆桜(マメザクラ)の交雑種か、または子彼岸桜(コヒガンザクラ)の園芸品種という説もある。
 冬桜は、小葉桜(コバザクラ)ともいい、山桜(ヤマザクラ)と豆桜(マメザクラ)の雑種だろうということだ。
 桜の種類は全部で300種類以上あるというからお手上げだ。どれが何から生まれたのかとか作り出されたのかなど、はっきり分かってないものもある。そのうち野生種は、世界で50種類くらいだそうだ(中国33種、日本9種、ヒマラヤ3種、ヨーロッパ3種、北米2種)。これだけ種類があると、なかなか見分けるのは難しい。見分けられたとしても、それが正解なのかどうか分かる人もほとんどいないので自慢にもならない。適当なことを言っても誰も分からない。桜の血統マニアというのは馬の血統マニアのようにたくさんいない。

 写真の桜は冬桜か十月桜か、どちらでもあるかどちらでもないか。どっちカニ? 間違えたら腕とお尻に電流が流れます。正解は、どちらでもない、でした。答えは、子福桜(コブクザクラ)という。コブクロ? ああ、違った、コブクか。そういえばコブクロにも「桜」という曲があった。

 ♪名もない花には名前をつけましょう
  この世に一つしかない
  冬の寒さに打ちひしがれないように
  誰かの声でまた起きあがれるように♪


 この歌詞はあんまり桜っぽくないなと思っていたけど、冬に咲く桜に当てはめるとぴったりくる。もしかしたら、彼らは冬に咲いてる桜を見て、名もない花と思ってこの曲を作ったのかもしれない。いや、ちゃんと名前はありますから、勝手に付けちゃダメです。しかも、コブクロに近いコブクだ。というか、私が勝手にストーリーを作ってはいけないだろう。コブクロの大きい方も小さい方も、子福桜のことなんて知らないだろう。特に2メートル近い方は。
 ついでに書くと、コブクロという名前は、ふたりの名字である小渕(コブチ)と黒田(クロダ)からきている。そんなの常識? タッタタラリラ、ピーヒャラ、ピーヒャラ、パッパパラパ。ロダブチとかいうユニット名だったら今ほど売れてなかったと思う。
 コブクロと聞くと反射的に森進一のモノマネで「おふくろさん」を歌い出してしまう人が全国で300人くらいはいると思う。もっとかもしれない。森進一というと、高校時代の友達マッチャくんを思い出す。マッチャくんは森進一にちっとも似てないのに、森進一の写真を見るとマッチャくんにそっくりなのだ。一方通行のそっくりさん。あれは笑えた。
 そんな個人的に思い出は置いておいて、コブクザクラだ。これも春と秋の二度咲きで、中国原産の支那実桜(シナミザクラ)と十月桜の交雑種ではないかと言われている。または、エドヒガンの雑種、あるいは小彼岸と唐実桜の交雑種かもしれないとのことだ。
 花は白っぽくて小さいものの、よく見ると八重桜であることが分かる。八重のものは普通実をつけないのにこれは例外で、複数の実をつける。そこから子だくさんのイメージで子福桜という名前が付けられた。
 雌しべの数が2つ以上あれば子福桜と見ていい。

小原の四季桜アップ
PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4)

 これは小原で咲いていた四季桜。一重で、こちらも春と秋の2回咲く。秋は花が小さくまばらで、華やかさはなく繊細な感じだ。ただ、十月桜や子福桜よりも花が多い分、見応えはある。これはマメザクラとエドヒガンの交雑種とはっきり分かってるようだ。
 その他、もう少し寒くなってきてから咲く桜に、ヒマラヤ桜と不断桜がある。これは12月くらいに咲いてくる。私はまだ見たことがないので、どこかで見つけて見てみたい。
 秋冬に桜を確実に見るためには、愛知なら東谷山フルーツパークがいい。あそこなら何種類か見られるはずだ。東山植物園の子福桜は、お花畑に登っていく途中の右側にある。尾張旭のタワーがある三ツ池にも確かあったはずだ。
 日本全国どこにでもあるはずだから、公園や植物園を回れば何か見つかると思う。寒い時期に咲く桜はそんなに特別なものではないことを私も最近知った。あっちでもこっちでも咲いている。ここにしか咲かない、なんてことはないのだ。ここにしか吹かない風やここでしか聴けない歌やここでしか見えないものがあったとしても、ここにしか咲かない桜はたぶん、ない。ここでしか生きられない人というのもきっといない。桜はどこでも咲けて、人はどこでも生きていける。必要に迫られればたくましくなれる。
 けど、コブクロの「ここにしか咲かない花」は泣けるね。

 ♪あの優しかった場所は今でも
  変わらずに 僕を待ってくれていますか?
  最後まで笑顔で 何度も振り返り
  遠ざかる姿に 唇噛みしめた
  今はこみ上げる 寂寞の思いに
  うるんだ世界を 拭ってくれる指先を 待っている♪


 今日はコブクロを聴きながら、このへんでさようならー。