月別:2006年11月

記事一覧
  • 紅葉終盤戦の定光寺は何故かカップル確率高し 2006年11月29日(水)

    PENTAX istDS+Super Takumar 28mm(f3.5), f3.5, 1/13s(絞り優先) 紅葉も終盤を迎え、行く予定をしていたところは残り数ヶ所となった。今年は暖かい日が続いて、紅葉がかなり遅れたものの、その暖かさが幸いして長く楽しめている。今のところまとまった雨も降らないから落葉も少ない。愛知県内は今週一杯から来週前半くらいまでまだ持ちそうだ。落ち葉になれば、それもまたいい。 今日向かったのは名古屋の隣にある瀬戸市の定光...

    2006/11/30

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • あらためて光についてちょっと勉強してみた 2006年11月28日(火)

    PENTAX istDS+Takumar 200mm(f3.5), f3.5, 0.3s(絞り優先) 光は色であり、色は目である。光のないところに色は存在せず、色は私たちの脳の中にしか存在しない。 光とは何かという問いに、そんなの簡単じゃん、とあっけなく答えられる人はどれくらいいるんだろう。昨日までの私は完全に答えに詰まっていた。どちて坊やに質問を投げかけられた新右衛門さんのように。けど、今日からの私は違う。一夜漬けで光について勉強したから...

    2006/11/29

    夜景(Night view)

  • アリゾナ生まれの弁慶柱は三本締めの待ち構え中 2006年11月27日(月)

    OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.0, 1/30s(絞り優先) 東山植物園の温室にある巨大サボテンを見ながら、これはどういうポーズだろうとしばし物思いにふける。ウルフルズ「バンザイ」を歌ってるところというには手が短すぎるし、もうお手上げさっていうのとはちょっと角度が違う。なんかこんな手の構えをすることあるよなぁと考えて、そうか、あれだ、と気づいた。みなさん、お手を拝借! よ~っお、チャチャチャッ、チャ...

    2006/11/28

    花/植物(Flower/plant)

  • 自分でも意外だった初の中華サンデーは中エプの出来 2006年11月26日(日)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f3.5, 1/15s(絞り優先) 私たちは日常的によく中華料理を食べている。一般庶民の場合は、ラーメンだったりギョウザだったりシュウマイや八宝菜などだろうし、私の場合なら、フカヒレ、アワビ、ツバメの巣、北京ダックなどだ。 ……。 書いていて虚しくなった。ウソはいけない、ウソは。そんなもの見たこともないではないか、私。 それはともかくとして、日本人にとって中華料理というの...

    2006/11/27

    料理(Cooking)

  • いつか白川郷へ行くときのために合掌造りの予習をした 2006年11月25日(土)

    OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/50s(絞り優先) 合唱といえばウィーン少年合唱団、合掌造りといえば白川郷というのはおおむね異存のないところだと思う。更に言えば、少年といえば岸和田少年愚連隊、ウィーンといえばたこさんウィーンナーが好物の渡辺徹、白川といえば白川由美を連想するという人がいるに違いない。たぶん、きっといる。 白川郷、その響きは果てしなく遠い異国の地を思わせる。愛知県のお隣岐阜県...

    2006/11/26

    建物(Architecture)

  • 小原の四季桜ベストビューポイントは薬師寺前と見た 2006年11月24日(金)

    OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.0, 1/50s(絞り優先) みなさんは、yahoo!のブログ検索というのをご存じだろうか。存じておるという人もいるだろうし、それはなんじゃらほいというとぼけた方もいるだろう。yahoo!のトップページから検索窓に、たとえば近々行こうと思っている紅葉スポットの地名などを打ち込んで、「検索」ボタンではなく、窓の上中央あたりにある「ブログ」をクリックすると、その情報が載っているブログ...

    2006/11/25

    紅葉(Autumn leaves)

  • 勤労感謝の日に本当の11月23日らしさを考えてみた 2006年11月23日(木)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/4s(絞り優先) 小学生のとき、風邪やハライタで学校を休んで、NHK教育テレビの「はたらくおじさん」を観るのが好きだった。 ♪はったらくおじさん~ はったらくおじさん~ こ~んに~ち~は~~♪ どんな内容の番組だったのか、なんで好きだったのかは、今となっては思い出せない。ただ、確かに好きだったという記憶だけが残っている。体が丈夫で休まず学校に行っていた人には...

    2006/11/24

    風物詩/行事(Event)

  • 東山植物園の紅葉トンネルで勝者と敗者がすれ違う 2006年11月22日(水)

    OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/25s(絞り優先) 神社仏閣巡りばかりしていると、ジジむさくなりそうなので、生態エネルギーを補給するために植物園に行ってきた。紅葉を見て元気いっぱい……って、紅葉って枯れ葉じゃん!? 逆に私の生命エネルギーを吸い取られたかもしれない。東山の紅葉トンネルがきれいなのは、私の精気を奪ったからということがないとも限らない。 写真は一番きれいなところを写してるから、こ...

    2006/11/23

    施設/公園(Park)

  • 五重塔マニア予備軍に贈る興正寺の五重塔話 2006年11月21日(火)

    OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f4.5, 1/50s(絞り優先) 世の中には五重塔マニアという人たちがいる。わずかだが確かにいる。まだ会ったことはないが。 五重塔と聞いてまず思い浮かべるのが奈良法隆寺という人も多いだろう。日本最古のもので680年頃建てられたものだと言われている。もちろん、国宝中の国宝だ。あるいは、京都最古(952年)の醍醐寺を思い出す人もいるかもしれない。華やかだった平安時代を象徴するように...

    2006/11/22

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 山羊のネタは在りし日のうなずきトリオとおじいさんの歌 2006年11月20日(月)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f5.6, 1/200s(絞り優先) ヤギを見ると頭の中でメロディーが流れ出す。ヤーギさんのヒツジ~、ヒツジ ヒツジ~ ヤーギさんのヒツジ~ かわいいなぁ~。 あれ? ヤギさんじゃなくて、メリーさんだ。ヤギさんがヒツジではどう考えてもおかしいだろう。 もうひとつ思い出すのが、アルプスの少女ハイジ。同世代の人は、うん、うんと大きくうなずくんじゃないだろうか。キミはうなずきト...

    2006/11/21

    動物(Animal)

  • 紅葉料理失敗で自分の絵心を疑うことになったサンデー 2006年11月19日(日)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/40s(絞り優先) 今日のサンデーは最初から最後までイメージ不足が響いて納得のいくものができなかった。ちょっと悔しくて自ら補習しようと思ったけど、食べたらおなか一杯になって補習は無理だった。もうおかわりできません。 最初和風を考えていたらいつの間にかコースをそれて曲がって、洋食と和食の中間でエンストした。洋食と和食と片足ずつ突っ込んで股が裂けそう。ひとつ...

    2006/11/20

    料理(Cooking)

  • 名古屋城の鬼門、龍泉寺に浮き沈みの歴史あり

     名古屋市の東北のはずれ守山区に龍泉寺という寺がある。正式名称は、松洞山(しょうとうざん)大行院龍泉寺。 ここはいくつかの異なった年代の歴史が重なり埋もれているので、説明すると少しややこしい。 現在は、甚目寺観音、荒子観音、笠寺観音とともに尾張四観音のひとつとされ、節分会の賑わいが特に有名となっている。 尾張四観音というのは、名古屋城を築城した際、家康がそれぞれの方角を守る守護神として定めたもので...

    2006/11/19

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 多治見修道院はとっておきの大切な場所

     名古屋方面から国道19号線を東に向かって走り、上山町2交差点を左に曲がると、突然目の前に中世ヨーロッパが現出して驚く。おおっ! と小さく叫び声ももれるかもしれない。多治見修道院との初めての対面は、食パンをくわえて走りながら角を曲がったらいきなり美少女とぶつかったときのような思いがけない出会いだった。 それまでキリスト教には一切無縁だった私に、教会の魅力と親しみやすさを教えてくれたのが多治見修道院だ...

    2006/11/18

    教会(Church)

  • 鳥の人のお仲間を増やしてカモ対決する夢を見る 2006年11月16日(木)

    OLYMPUS E-1+SMC Takumar 300mm(f4), f5.6, 1/200s(絞り優先) 渡り鳥になんで渡るのかと訊いても答えは返ってこないだろう。渡りに意味なんて必要なのかと逆に問い返されるかもしれない。渡り鳥が何故渡るのか? それは生きるために他ならない。命を繋ぐために、年に二度、自らの命をかけて彼らは渡る。別に旅が趣味というわけではない。 11月も半ばになって、ようやく近所の川にカモたちが戻ってきた。今年の秋は暖かくて到...

    2006/11/17

    海/川/水辺(Sea/rive/pond)

  • 近場で修学旅行気分が味わえる第2弾は永保寺 2006年11月15日(水)

    OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f4.5, 1/20s(絞り優先) 一宮の妙興寺に続いて、近場で修学旅行気分を味わおうシリーズ第2弾。今日は岐阜県多治見市の永保寺(えいほうじ)を紹介したいと思う。 去年初めて訪れたときは、先に行った多治見修道院の圧倒的な厳粛さに打ちのめされた後だったので、やや印象が薄いものになってしまったのだけど、今回はこちらを目当てに訪ねてみた。そしてやっぱり国宝が持つ強烈なオーラに無口...

    2006/11/16

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 300年の歴史と物語に思いを馳せながらいただいた赤福 2006年11月14日(火)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/80s(絞り優先) 赤福を目にしたとたん頭の中で、♪伊勢~の名物~ 赤福持ちはええゃないか♪というCM曲が流れ出す私は、三重県生まれの名古屋育ち。子供の頃からさんざん聞かされて、もはや忘れることが不可能なほどこびりついてしまっている。 三重県生まれとして赤福の存在というのはちょっと心強い。全国に誇れるみやげがあるという安心感のようなものがある。逆に言うと、こ...

    2006/11/15

    食べ物(Food)

  • 羊をめぐる冒険へと旅立った私は羊迷路に迷い込む 2006年11月13日(月)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f5.6, 1/320s(絞り優先) 羊。この文字や呼び名や響きから何を連想するかは、人それぞれなかり違いがあるんじゃないだろうか。日本人にとっては近くて遠い、遠くて近い羊という動物は、実に多様性を持った生き物だ。羊の姿を見て、わー、暖かそう、と思うのが普通の人。わー、美味しそうと思うのが食いしん坊。北海道の人は、なまら暖か旨そうだべ、とでも思うのだろうか。 羊にまつわる...

    2006/11/14

    動物(Animal)

  • ソース作りサンデー料理は私に収穫と教訓を残した 2006年11月12日(日)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/30s(絞り優先) 今日のサンデー料理のコンセプトは、ソース作り、だった。料理の味はソースで決まる。特に外国料理の場合はそうだ。逆に言えば、和食というのは食材で味が決まる世界でも非常に珍しい料理と言えるだろう。ソースといっても、コーミスースやキッコーマンのしょう油を一から作ろうというのではない。しょう油を最初から作ろうと思ったら、大豆と小麦で麹を作って3...

    2006/11/13

    料理(Cooking)

  • トラベルトレーナーから純と蛍の靴を経てガラスの靴へ 2006年11月11日(土)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/100s(絞り優先) 出会いはおととしのオークション。それまでジョニー・スウェード野郎だった私は、持っている靴といえばスウェードのプレーントゥ、スウェードのローファー、スウェードモカシンくらいしかなく、散策に履いていく靴がなかった。一度モカシンで山に行ってエライ目に遭い、歩きのためのウォーキングシューズが必要不可欠だということを痛感することとなった。 漠...

    2006/11/12

    物(Objet)

  • ショートケーキを食べる至福の時の中で甘い夢を見る 2006年11月10(金)

    PENTAX istD+smc Takumar 55mm(f1.8), f1.8, 1/25s(絞り優先) ショートケーキをもらった、撮った、食った。スタンダールの「生きた、書いた、愛した」と比べると随分志が低いけど、それくらい堪能したということだ。春日井のSincere(シンシア)というところのケーキで、これがかなり旨~い、甘~~~い。最近は甘さひかえめのケーキが多くなった中、これは不快になるぎりぎり手前まで甘さを突き詰めていて、その加減が絶妙だっ...

    2006/11/11

    食べ物(Food)

  • 誰の目をしても見えなかった太陽を横切る水星の野郎 2006年11月9日(木)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f22, 1/400s(絞り優先) 太陽の前を水星が通過するというニュースが目に止まった。普通なら、ふーん、っていうくらいで特に気にもかけないところが、次に見られるのが26年後と聞いて、むむむっ、となった。せっかくだから見ておくかと思い、朝っぱらからデジに望遠レンズをセットしてそのときを待つ。6時40分、ようやくビルの横から顔を出した太陽を捉えることができた。さあて、水星は写...

    2006/11/10

    星(Star)

  • 400年後の牛一はこの世界を見て何を思い何を書くだろう 2006年11月8日(火)

    OLYMPUS E-300+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f3.5, 1/40s(絞り優先) 日曜日に放送した歴史ドラマ「信長の棺」は、なかなか面白かった。『信長公記』の作者である太田牛一(ぎゅいち/うしいち)の視点から描く本能寺の変の謎解きという発想もよく、主役の松本幸四郎の嫌味のない存在感が作品とよく合っていた。原作『信長の棺』の作者は加藤廣。作者は74歳でこれが初の作品なんだとか。 それが昨日、ふとしたきっかけで成願寺(じょう...

    2006/11/09

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 川原で黄色い風景を見たから11月7日は黄色記念日 2006年11月7日(火)

    PENTAX istD+Super Takumar 28mm(f3.5), f4.5, 1/40s(絞り優先) 自分の長く伸びた影を見て、ジャイアント馬場よりデカいな確実に、と思う。足の長さだけで5メートルくらいはあった。でも実際そんなに大きかったらイヤだ。もし、身長2メートルとして生まれてしまったら、それは呪いに近い。人生の選択肢が極端に狭くなるということだから。絶対、小学校時代のあだ名がジャイアンとかになってしまうし。もしくは、ジャンボとか。...

    2006/11/08

    風景(Landscape)

  • 化学の実験を思い出した美肌水と美肌石けん作り 2006年11月6日(月)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/60s(絞り優先) 人と本との縁はときに不思議で、でもきっとすべてが必然なのだろう。何気なく手に取った本はその人に読まれることを欲しているに違いない。その本の存在を知らなかったときは尚更だ。「Book off」で、普段絶対買うこともページをめくることもない「美肌スキンケア」(今井龍弥著)などという本を、どうしてそのときだけ中身を見てみる気になったのか、自分でもよ...

    2006/11/07

    室内(Room)

  • 誰ですか、バナナの天ぷらが美味しいって言ったのは 2006年11月5日(日)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f3.5, 1/30s(絞り優先) 今日のサンデー料理のメイン食材は、バナナだった。いや、ホントに。これが今日のすべてといってもよかった。 オレはバナナの天ぷらを食うんだという固い決意の元、始まったサンデー料理。その結論は、やっぱり、バナナの天ぷらはダメだこりゃ、だった。とにかく恐ろしく甘い。火を入れたバナナは、火を入れないバナナに比べて当社比3倍となってしまうのだった...

    2006/11/06

    料理(Cooking)

  • 水琴窟の音色に耳を傾け、日本の風流を思い出す 2006年11月4日(土)

    Canon EOS Kiss Digital N+EF-S 18-55mm(f3.5-5.6), f4.0, 1/10s(絞り優先) 岩崎城の二の丸庭園に「勘助の井」がある。なんでこんなところに山本勘助の井戸が!? と驚いたら、丹羽勘助だった。そりゃそうか。武田信玄の軍師だった山本勘助の井戸がこんなところにあるはずもない。私の山勘は大ハズレだった(霊感山勘第六感の山勘は山本勘助から来ているという説がある)。 丹羽勘助といえば、岩崎城主であり、「棒の手」の生...

    2006/11/05

    施設/公園(Park)

  • 文化の日に皇居ではなく名古屋城へ行って十三夜を見る 2006年11月3日(金)

    OLYMPUS E-300+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f4.0, 0.6s(絞り優先/一脚) 文化の日の今日、皇居からお呼びがかからなかった私は、モーニング衣装(平たく言うと朝から着ている寝間着)を着たまま夕方を迎えることとなった。そのときふと大事なことを思い出した。そうだ、今日は十三夜だったと。こうしちゃいられないと、イブニングドレス(くだいて言うと夕方出かけるときの洋服)に着替えた私は、車に乗って月を探しに出かけることに...

    2006/11/04

    城(Castle)

  • 背中にアメジストセージを、耳にはペチュニアを 2006年11月2日(木)

    Canon EOS Kiss Digital N+EF 55-200mmII(f3.5-5.6), f5.6, 1/100s(絞り優先) 何度か見かけたことがある、きれいな色と奇妙な形をしたこの花。ずっと名前が分からなかったけど、やっと判明した。アメジストセージという名前だった。分からなかったのは、野草や園芸種の花ではなく、ハーブ(亜低木)だったからだ。ハーブは種類も多いし、図鑑も持ってないので私にとっては一番の難敵と言える。 原産地は、メキシコから熱帯アフ...

    2006/11/03

    花/植物(Flower/plant)

  • いつもお世話になっている牛さんと少し距離を縮めてみた 2006年11月1日(水)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 135mm(f3.5), f5.6, 1/160s(絞り優先) 牛は私たちにとって非常に馴染み深い生き物であると同時に、直接触れ合う機会がほとんどない動物でもある。牛の頭をなでたことがある人、手を挙げて! 突然そんなことを街頭で叫んでみても誰も相手にしてくれないけど、たとえ反応してもらえてもほとんど手は挙がらないだろう。そこに田中義剛がたまたま通りかかったなら別だけど。 牛乳、チーズ、牛肉、牛革...

    2006/11/02

    動物(Animal)

  • 桶をふたつかついで玉の輿に乗ろう大作戦in大森 2006年10月31日(火)

    Canon EOS Kiss Digital N+EF-S 18-55mm(f3.5-5.6), f4.5, 1/15s(絞り優先) 守山区の大森(おおもり)に、大森寺(だいしんじ)という寺がある。あまり有名ではない。もしかしたら、歩いて3分の距離にある金城学院の学生でもあまり知らないかもしれない。しかしこの寺、ちょっとした由緒のある寺なのだ。 創建は江戸時代の1661年。尾張藩二代藩主だった徳川光友(みつとも)が、母親の歓喜院乾の方の菩提寺として作ったのが始...

    2006/11/01

    神社仏閣(Shrines and temples)

紅葉終盤戦の定光寺は何故かカップル確率高し 2006年11月29日(水)

神社仏閣(Shrines and temples)
定光寺の石段参道

PENTAX istDS+Super Takumar 28mm(f3.5), f3.5, 1/13s(絞り優先)



 紅葉も終盤を迎え、行く予定をしていたところは残り数ヶ所となった。今年は暖かい日が続いて、紅葉がかなり遅れたものの、その暖かさが幸いして長く楽しめている。今のところまとまった雨も降らないから落葉も少ない。愛知県内は今週一杯から来週前半くらいまでまだ持ちそうだ。落ち葉になれば、それもまたいい。
 今日向かったのは名古屋の隣にある瀬戸市の定光寺。おととしデジカメを買ってすぐに訪れて以来、何度か行っている場所なので馴染み深い。好きな場所のひとつだ。「じょーこーじ」という響きがいい。定光寺進とかいう名前に生まれてもよかったと思えるくらいだ。こんにちは、定光寺進です。ラジオのDJになれそうな名前だな(根拠はない)。

 参道入口には「尾藩祖廟」の石碑が建っている。尾張藩初代藩主の徳川義直(よしなお)は、かつてこのあたりによく鷹狩りに来ていて、そのとき立ち寄った定光寺が気に入って、自分の死後はここに自分を葬るようにと遺言を残した。代々の尾張徳川藩主は光友が建てた建中寺(けんちゅうじ)に墓があるのに、義直の墓だけはこんな瀬戸の山奥にある。
 二代藩主光友によって作られた石橋(直入橋)を渡ると、登りの石段が待っている。165段、徒歩10分という看板がある。この登りがけっこうきつい。けど、10分はかからない。それはお年寄り時間だ。私などはまだまだ若いので8分くらいで辿り着く。もちろん、息ひとつ、ハァハァ、あがってる、ハァハァ、わけないですってば。ふぅー。ヒィヒィフー、ヒィヒィフー。
 かつてこのあたり一帯は、名古屋の奥座敷とも、尾張の嵐山とも呼ばれていたんだとか。吉良ワイキキビーチ並みにたとえが大げさすぎると思うけど、そう呼んだ人がいるのだからしょうがない。ふと、三谷幸喜の名言を思い出した。「エビちゃん似の人と本物のエビちゃんはやっぱり全然違いますね」
 前の通りは、殿様街道と呼ばれていた。初代藩主の菩提寺ということで、歴代の尾張藩主もたびたび訪れていたことからそんなふうに言われるようになった。現在はほとんど面影は残っていない。
 それにしても、今日の定光寺は妙にカップル確率が高かった。見かけた人の3分の2は若い二人組で、こんな奥地の紅葉スポットでこういう客層は珍しい。私としては写真に彩りを添えてくれてありがたかった。

定光寺本殿前

 應夢山定光寺は、1336年、覚源禅師によって造られた臨済宗の古刹だ。どういういきさつでこの地に建てたのかなど、詳しいことは分からない(私が分かってないだけ)。本尊は地蔵菩薩で、御利益は延命長寿や安産など、やや漠然とした印象を受ける。ただ、全体的に中国の影響が強いのは感じる。定光寺をよく知っている人でも、どういうお寺なんだと訊かれると意外と答えに困るんじゃないだろうか。この地にまつわる伝承とかそういったたぐいの話も聞かない。覚源禅師は特別なお告げでも受けたのだろうか。
 1534年に再建された本堂「無為殿」は、唐様式の茅葺きの建物で、室町時代の特徴をよく残していて、国の重要文化財に指定されている。見た目も貫禄があって、やるなと思わせるものがある。
 拝観は自由で、徳川義直の廟所がある場所に入っていくときだけ拝観料100円がかかる。本堂の向かって右側に入口がある。私はまだ入ったことがない。なので、見てきたような嘘を書くと、「源敬公廟」と書かれた門をくぐると、石段に続いて獅子の門が現れる。そこには左甚五郎が彫った獅子の像があり、そう名づけられた。続く門は龍の門だ。天井には狩野元信が描いた龍の絵がある。ここでも左甚五郎の見事な彫り物を見ることができる。その先にはちょっと見慣れないような建物が建っている。焼香殿と呼ばれるそれは、帰化した中国人(明人)の陳元贇(チンゲンピン)が設計したとされている。義直は儒教に傾倒していたので、そこから来ているのだろう。そして、ようやく義直の廟に辿り着く。義直廟にある祠堂や門なども重要文化財に指定されている。
 以上、あたかも見てきたように書いてみました。
 徳川義直についても書こうと思ったけど、もうだいぶ長くなってきたので、またの機会にしよう。水戸黄門の師匠でもある義直に関しても、書くことはけっこうある。

定光寺展望スペース

 地元ローカルでは、定光寺の展望スペースは、ちょっとした夜景の名所として知られている。遠くに名古屋駅のタワーをはじめ、春日井や名古屋の街明かりが見渡せる。実は、石段を登らなくても、上まで車で直接登ることができるのだ。駐車場から徒歩1分ということで、ヒールを履いた女の子でも大丈夫なのが好評なのだろう。夜景自体はそんなにたいしたことないものの、スペースは広いし、ベンチもある。冬場は吹きさらしで寒そうだけど、ホットなふたりなら大丈夫なのか? どうしても寒いときは、自販機でおしるこを買えばいいと思う。コーンスープでもいい。って、そんな昔の缶ジュース、今でもあるんだろうか。

 定光寺をゆっくり楽しむなら、名古屋駅からJR中央線に乗って、定光寺駅で降りて歩くのがいい。ここは庄内川沿いの山の斜面に強引に作られた無人駅で、高所恐怖症の人は利用できないという恐ろしい駅だ。一見の価値がある。定光寺は、そこから橋を渡って20分ほど歩いたところにある。
 定光寺の南には正伝池を中心とした定光寺公園が整備されていて、散歩したり遊んだりのんびりしたりするのにいい。休みの日はボートも乗れるはずだ。池には六角堂が建っている。こちらは紅葉はちょっと寂しいけど、桜がなかなかいい。夏はハグロトンボがいたり、カワセミもいて、冬はカモがやって来る。
 定光寺の紅葉は、もうすっかり終盤戦で、ほぼ終わった感じだった。落ち葉を絡めて撮ってもいいけど、見頃は過ぎている。やはり名古屋市内よりも気温が低いようだ。もう少ししたら、また静かな定光寺が戻ってくる。人がいなくなったときにゆっくり訪れるのもいいだろう。私も、一度くらいは義直の廟へ行って挨拶してこないといけない。次は来年の春か。

あらためて光についてちょっと勉強してみた 2006年11月28日(火)

夜景(Night view)
水面の光いろいろ

PENTAX istDS+Takumar 200mm(f3.5), f3.5, 0.3s(絞り優先)



 光は色であり、色は目である。光のないところに色は存在せず、色は私たちの脳の中にしか存在しない。
 光とは何かという問いに、そんなの簡単じゃん、とあっけなく答えられる人はどれくらいいるんだろう。昨日までの私は完全に答えに詰まっていた。どちて坊やに質問を投げかけられた新右衛門さんのように。けど、今日からの私は違う。一夜漬けで光について勉強したからだ。光のことなら何でも訊いて……もらっては困るが、ぼんやりと理解したような気がしないでもない。
 光は電磁波だと聞いて、ホントかよと思う。どうやら本当らしい。しかし、電磁波といえば、ラジオだって携帯電話だってそうだ。あれと光が同じものだとは最初は納得できなかった。ただ、波長の長いものや短いものは目に見えなくて、中間のいわゆる可視光線が光なんだという説明を読んで、なるほどそういうことかと納得した。波長が短いものにはガンマ線やエックス線、紫外線があり、波長の長いものに赤外線や電波などがある。動物には色が見えてないなどというのは、人間とは見える波長域が違うからだ。
 電磁波というのは、要するに波だ。電界と磁界が相互に作用して組み合わさったものが空気を伝って動くことで波となる。電磁波は光で光は電磁波なので、電磁波も光と同じく秒速30万kmのスピードで移動する。波が一往復する間に進む距離を波長といい、波が1秒間に往復する回数を周波数という。
 奥さん、嬢ちゃん、坊っちゃん、今日はちょっと難しいですよ。でも、なるべく簡単に書くから最後までおつき合いくださいね。

 光は波である、ということろまで分かった。けどこれは光の本質の半分でしかない。光は波であると同時に粒子でもある。光は波か粒子かどちらなんだという議論が長らく続いた中で、アインシュタインが1905年に発表した特殊相対性理論や、その後の量子力学によって、光は波であり粒子でもある量子だということが分かったのだった。さすが、先生、お見事です(アインシュタイン先生は私の心の師匠なのだ)。
 光は質量ゼロなのに存在していて、エネルギーも持っている。このへんのことは私にはよく分からない。分かっているのは、光というやつはどこまでも真っ直ぐなヤツだということだ。何にもぶつからなければひたすら直進するしか能がなく、曲がることは一切できない。自分では加速もできなければ減速もできない。こんな車はイヤだ。秒速30万kmで、1秒で地球を7周半できるというのはよく使われるたとえだけど、光クンは地球に沿って曲がるなんて器用なことができる子じゃないので、実際には地球の周りをぐるぐる回ったりはできない。ある意味では、地球2周目に突入したラブワゴンにも勝てない。ヒデは光より上ということか!?
 性質としては、ものにぶつかれば反射する。まっすぐぶつかればまっすぐはね返り、角度があればそのように反射する。透明なものに当たれば透過しつつ、減光したり屈折したりする性質も持っている。人の目で見える色というのは、このときの吸収や反射によって認識される。

 光については、まだ完全に解明されたというわけではないようだ。相対性理論からまだ100年しか経っていないのだから、当然といえば当然だろう。この世界には光の速度以上に早い物質は存在しないという定説も、いつかくつがえされる日が来るかもしれない。タキオンでヤマトの波動砲だって絶対に撃てないと決まったわけではない。
 ウラシマ効果というのは実際どうなのだろう。光の速度で移動すると時間の速度がゼロに近いくらい遅くなって、自分は歳を取らないというあれだ。高速で飛ぶ宇宙船で50年飛び続けて地球に返ってきたら、地球では50年経っているのに乗組員は数年も歳を取らないと理論上はなるらしい。浦島太郎の話からウラシマ効果と呼ばれるこの現象を、人類はいつか体験することになるのだろうか。歳は取りたくないけど、浦島太郎にはなりたくないと個人的には思う。

街灯りのいろいろ
PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4)

 今、街ではさまざまな光に満ちている。もはや暗い夜は失われてしまった。街灯、車のヘッドライト、信号機、店の蛍光灯、民家の窓からもれる明かり。様々な種類の光があることにも気づく。昔は、太陽の光や月明かり、火の明かりくらいしかなかった。オイルランプから石油ランプになり、人類が電気を手に入れたのはほんの120年ほど前に過ぎないのに。
 エジソンが白熱電球の開発に成功したのが1879年だった。このときエジソン32歳。フィラメントに日本の竹を使うなど、試行錯誤の末、苦労して完成させた。同じ年のエジソンより前にイギリスのスワンも白熱電球を作ったのに、これは寿命が短すぎて実用とならなかった。歴史に名を残す人間とそうじゃない人間の差は大きいようで小さいのかもしれない。
 エジソンが発熱電球を売るために作った会社がのちのGE(General Electric)社となり、のちに蛍光灯を売り出すことになる。
 蛍光灯の研究自体は古くから行われていて、1856年にドイツの物理学者(当時はガラス工)ハインリッヒ・ガイスラーが作ったガイスラー管が蛍光灯の起源とされている。それから70年後の1926年、ドイツの発明家エトムント・ゲルマーが考えたアイディアが蛍光灯の実用につながり、蛍光灯発明者となった。GEはその特許を買い取って、ジョージ・インマンが完成させて、1938年に発売することになる。
 蛍光灯の優れている点は、小さい電力で電球よりも強い光を出すことができるところだ。寿命も長い。その技術の先に、発光ダイオードLED(light Emitting Diode)がある。最近では街のイルミネーションもこれが増えてきた。半永久的とも言えるような長い寿命を持つLEDが今後の主流になっていくだろう。

 ドイツの文学者ゲーテの最期の言葉は、Mehr Licht! もっと光を! だったと言われている。象徴的な言葉として有名だ。実際は、部屋が暗いからブラインドを開けてくれって話だったそうだけど、そんなゲーテも今の時代に生まれていたら、明るすぎるから光を消せ、になっていたかもしれない。考えてみたら、部屋に100ワットなんていう光は必要ない。夜だって暗くてよかったのだ。
 地球の夜の衛星写真を見たことがあるだろうか。日本は恐ろしいほど明るいのに対して、北朝鮮だけは驚くほど真っ暗だ。それはもう見事なほどに夜ということを表している。暗さを貧しさゆえだと安易に判断するのは正しくない。むしろあれこそ正常な夜の姿だと言ってもいい。北朝鮮の子供たちはみんな、満点の星空を見ながら成長しているのだろう。国や政府がどうだからといって、星空の思い出が無駄になることはない。あの光を知らずに大人になる日本の子供たちの方が、何か大切なことを見失った人間となってしまいかねない。
 地球は青い星というだけでなく、光の満ちあふれる惑星でもある。宇宙からやって来た異星人たちは、地球の青さに胸を打たれ、この星の明るさに驚くだろう。こんな辺境にこんなにも豊かな惑星があったのかと。けれど、地球は必ずしも光の天国とは言えない。虚飾の明るさとも言える。
 光は確かに文明が繁栄している証だ。そのこと自体は間違いではない。ただ、私たちは明かりと引き替えに失ったものもあるということだけは知っておいた方がいい。その上で、もう一度光の大切さやありがたみを自覚したい。
 もはや光なしには通常の生活は不可能なまでになっている。スイッチを押せば部屋は光に満ちるけど、たまには部屋の蛍光灯にお礼を言っても罰は当たらない。わっ、また切れたのかよ! この前替えたばっかりじゃねぇか! などと怒鳴りつけたりすると、電球はすぐにキレるだろう。いつもご苦労さんと、トイレを出るときにひと声かけて出れば、電球もきっと1.2倍くらい長持ちしてくれるだろう。

アリゾナ生まれの弁慶柱は三本締めの待ち構え中 2006年11月27日(月)

花/植物(Flower/plant)
巨大サボテン全景

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.0, 1/30s(絞り優先)



 東山植物園の温室にある巨大サボテンを見ながら、これはどういうポーズだろうとしばし物思いにふける。ウルフルズ「バンザイ」を歌ってるところというには手が短すぎるし、もうお手上げさっていうのとはちょっと角度が違う。なんかこんな手の構えをすることあるよなぁと考えて、そうか、あれだ、と気づいた。みなさん、お手を拝借! よ~っお、チャチャチャッ、チャチャチャッ、チャチャチャッチャッ、はいっ! のときの構えじゃないか。そう思ったら笑えてきた。でもひとりで巨大サボテンを見ながらニヤついてる人は自分でもイヤなので、笑いはこらえた。それにしても、アリゾナ育ちのくせに日本の三本締めの構えをマスターしてるとは、やるな、弁慶柱(べんけいちゅう)。

 アメリカの西部劇などでお馴染みのサボテンである弁慶柱のふるさとは、アリゾナ州からメキシコにまたがるソノラ砂漠だ。世界最大級のサボテンで、大きなものは12メートルを超えるという。東山にあるものも相当大きい。8メートルくらいはあるんじゃないだろうか。1987年にやって来たということは、日本での暮らしもそろそろ20年になる。倒れるといけないというので、背中をポールに支えられて、後ろから輪っかで羽交い締めにされている。ちょっと苦しそうだ。離せってば、と短い手を必死に伸ばして抵抗してるようにも見える。
 とにかく成長が遅く、毎年ちょびっとずつしか伸びない。手が出てくるまで70年以上、こんなに大きくなるには100年もかかってしまう。寿命は200年というから、誰も最初から最後まで成長を見守ることはできない。子供が産まれたときに、弁慶柱の種を庭にまくといいかもしれない。その子が100歳になる頃には立派なサボテンになっているだろう。
 英名はSaguaro。初夏になると枝先に白っぽい小さな花を咲かせる。咲くのは夜ということで受粉はコウモリが担当するんだとか。果実は食用になり、茎の芯は固いために昔はネイティブアメリカンがテントの材料に使ったそうだ。
 今でもアリゾナ州あたりの自然公園では野生のこいつが乱立してる姿を見ることができるという。やはり、こいつらには砂漠の砂と空と乾いた空気がよく似合う。

親子連れと弁慶柱

 比較対象として親子連れに入ってもらった。やっぱりデカいぞ、弁慶柱。そしてあらためて思うのは、こいつのチャームポイントは短い手だということだ。もしこれがなかったら、ずいぶん愛想のないサボテンになっていたと思う。ただ、人が見てないときはこっそりこの手を下ろしていそうではある。あー、手が疲れた、とか言いながら、ブルブル振ってるかもしれない。

 一般的なサボテンの原産地は、北米大陸と中米から南米にかけてだ。北はカナダ南部から南はチリまで、アメリカ大陸の広い地域に自生している。もちろん、コロンブスが新大陸発見するはるか以前から、サボテンはネイティブたちと共にそこにあった。世界に知られるようになったのは、やはり大航海時代の16世紀以降だ。過酷な環境に生きながらも、けっこう耐性が高かったサボテンたちは世界中に広まっていった。暑さだけでなく寒さにも強い。日本には江戸時代にオランダ船が持ち込んだと言われている。その前から入っていた可能性もある。
 いつ頃地球上に誕生したのか、はっきりしたことは分かってない。一番古い化石がユタ州で見つかった6,500万年前のもので、それ以外ではアリゾナ州の200万年前くらいしかなく、手がかりが掴めないようだ。恐竜時代にはおそらくあったのだろうけど。
 サボテンの種類は、8,000とも1万とも言う。生き延びるための必死の姿勢が様々な変化を生み出していったのだろう。形によって、木の葉、ウチワ、柱、球のなどに大別される。
 サボテンの特徴はなんといってもトゲトゲだ。ほとんど雨の降らない砂漠で生きるために、水分が逃げていきやすい葉っぱをトゲに変えた。外敵から身を守るためとかそういうことではない。刺座(アレオーレ)と呼ばれるものをサボテン、ないものを多肉植物として区別している。アロエなどがそうだ。刺座(とげざ)がなくても毛疣(けいぼ)が残っているサボテンもある。
 たいていのサボテンは花を咲かせる。サボテンの花なんて見たことないぞという人が多いかもしれない。それは、花が咲くのが数日から一週間くらいと短いのと、大量生産で作り出されたものは発育不良で花が咲く年齢になる前に枯れてしまうものが多いからというのがある。それゆえ、サボテン好きにとってみれば、花を咲かせることの喜びはひとしおなのだろう。奥さんが一所懸命育てたサボテンの花が咲いて、あなた見に来て! と大きな声で呼ばれたなら、面倒がらずにちゃんと見に行って一緒に喜んであげないといけない。
 サボテンが種から育つと聞いて意外に思った人も多いかもしれない。なんとなく分裂して増えていくようなイメージが私にもあった。サボテン農家が種から5年くらいかけて育てたものが店に並ぶことが多いそうだ。サボテンの苗生産の全国80パーセントが愛知の春日井というから驚く。隣町の春日井市がサボテン王国だなんて、まったく知らなかった。春日井の街にサボテンがあふれているというような印象は一切ないのだけど。
 サボテンは、日本に入ってきた当初は覇王樹という字が使われていたようだ。現在は仙人掌という字を当てることが多い。
 サボテンの語源にはいくつかの説があって、昔は茎で服の汚れを拭き取ったりしていたところから、ポルトガルの石けんを意味するシャボンに手を付けてシャボンテ、それがなまってサボテンになったというのがある。確かにサボテンはシャボテンとも言うから、この説はあり得るかもしれない。

 サボテンは観賞用だけでなく、昔からいろいろと利用されてきた。ネイティブアメリカンは食べられるサボテンを知っていて食べていただろうし、今でもサボテンステーキやサボテンサラダなんかがある。もしかしたら、私の知らないところでみんなこっそり食べているんだろうか。「ステーキハウスあさくま」(東海ローカル)のメニューにも入っているかもしれない。果実は美味しいものもあるようなので、それはちょっと食べてみたい気もする。
 これまでサボテンというのは見た目の変化が小さすぎて面白くない植物だと思っていた。もう少しなんか変わってみろよと指でつつくと痛い思いをするからイヤだとか。けど、勉強してみたら、なかなか興味深い植物だということが分かってきた。ここはやはり、実際に育ててみるのがサボテンと親しくなる最善の方法だろう。
 なんでも、電磁波を吸い取るサボテンがあるという。その名もセレウス・ペルヴィアナス。今ちょっとしたブームになってるようで、私も買いましたという報告がネットでたくさんなされている。むむむ、出遅れたか。電磁波といえば私もPCやテレビなんかで日常的にかなり浴びているから、実は心配していたところだ。NASAの研究でもその効果は実証済みなんだとか。そう聞くとかえって怪しいような気もしてくるけど、ちょっと本気で欲しくなってきた。近いうちに買いに行こう。
 よかったら、キミも買ってみないかい? そして私とサボテン・ブラザーズになろうではないか!

自分でも意外だった初の中華サンデーは中エプの出来 2006年11月26日(日)

料理(Cooking)
中華サンデー

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f3.5, 1/15s(絞り優先)



 私たちは日常的によく中華料理を食べている。一般庶民の場合は、ラーメンだったりギョウザだったりシュウマイや八宝菜などだろうし、私の場合なら、フカヒレ、アワビ、ツバメの巣、北京ダックなどだ。
 ……。
 書いていて虚しくなった。ウソはいけない、ウソは。そんなもの見たこともないではないか、私。
 それはともかくとして、日本人にとって中華料理というのは和食に次いで馴染み深い料理に違いない。にもかかわらず、私たちは中国の家庭でどんな料理が食べられているかを案外知らない。テレビのレポート番組などで垣間見る中国の料理は、お店の料理であって家庭の料理ではない。日本でも和食屋で出てくるものと家庭の食卓に並ぶものは違う。
 中国人のお母さんが、家で巨大な中華鍋を振り回して、顔の高さまで炎を燃え上がらせながら、玉で鍋を叩くようにガツンガツン、ジャージャーいわせて、子供たちにおまえたち、すぐできるアルよ、待つアルね! などと言ってるシーンを想像したら、それはきっと中国人に対して失礼に当たるのだと思う。北京の高級住宅街に住んでる中国人などは、たとえ中華でも、もっと上品に作り、上品に食べてるに違いない。鍋を振り回したりせず。
 中国に行ったことはないし、中国人の知り合いもいないので確かなことは言えないのだけど、たぶん、日本でいう中華料理と中国における中国料理は別物なのだろうと思う。よく知られているように、日本式のラーメンはあちらにはいないし、向こうでは焼きギョウザはほとんど食べられてなくてギョウザといえば水餃子だったりするそうだ。他にもいろいろ違いがたくさんあるのだろう。もちろん、共通のものもあれこれあるはずだけど。
 ひとつ意外だったのに、しゃぶしゃぶは元々中国料理だったというのがある。完全に日本オリジナルのような顔していて実は中国生まれだったのだ。中国人と思わせて東京生まれの日本人だった陳建一の逆パターンだ。

 日本における多くの中華料理は、広東料理なんだそうだ。長崎の中華街は例外的に福建系で、横浜をはじめ大部分が広東系だという。考えてみると、私たちは北京料理や四川料理、上海料理などいったものをあまり知らないことに気づく。
 何しろ中国は広いから、地方によってかなり違いがある。使っている食材も、調理方法も、調味料も。日本だって北と南ではかなり差があるのだから、中国では尚更だ。他にも山東料理、上海料理、湖南料理、潮州料理などがあり、台湾料理というジャンルもあるようだ。
 笑えない笑い話として、「中国人は四足(よつあし)なら机以外、空を飛ぶものなら飛行機以外は何でも食べる」というのがある。アグネス・チャンも、日本に初めてやって来てお寺の境内にたくさんハトがいるのを見て、美味しそう、と思ったという。
 食べる食材が多いということは料理も多くなる。更に地域による特色や、世界に広がった過程で取り込んでいったその国の要素も加えると、中国料理の種類というのはほとんど無数と言ってもいいのかもしれない。中華の料理人は、数万種類の料理を作れるという話もあるくらいだ。間違いなく、世界で最も種類の多い料理という言い方ができるだろう。
 中華料理の特徴といえば、なんといっても中華鍋と強い火力というのがある。これがあるから、家庭では店の味が出せず、中華料理屋が繁盛するというのもあるだろう。
 脂っこいというイメージも強い。どんな料理も油で炒めたりするから、すごく食べたくなるときと、中華はごめんだと思うときがある。風をひいたりしたときは、中華料理はちょっと食べたくない。
 イメージとして健康に悪そうというのもあるけど、特に中国人が不健康だとか早死にだとか聞かないから、そうでもないのだろう。ウーロン茶で油を打ち消してるという話もある。
 中華は基本的に暖かい料理がほとんどだ。火を通さないものは食べないという風習が昔からあったらしい。中華で冷たい料理というのも思いつかない。あんかけのあんも、料理が冷めないための工夫のひとつなんだとか。しかし、それも最近は変わりつつあって、一番の危機がマグロ問題だ。少し前に鳥インフルエンザがあって、鶏肉を食べられなくなったとき、彼らはマグロを発見してしまった。えらいものが見つかってしまったものだ。今では中国人はマグロを食べまくって、そのうち買い占めて日本に入ってこなくなるというウワサさえある。

 日本に初めて中華料理がやって来たときは、支那(シナ)料理だった。当時の日本人は中国人のことを支那人と呼んでいたから。
 そもそもは、明治に横浜港が開港して、そこに入ってきた中国人によって作られた南京町や唐人街(のちの中華街)で、中国料理の店ができたところから、日本における中華料理の歴史が始まった。
 本格的に中華料理の店が増えていったのは明治の中頃以降だった。ラーメン屋台は、大正11年の関東大震災で、家や商売をなくした中国人たちが生活のために引き始めたのが元祖なんだとか。
 中華料理が今のように一般にも浸透したのは、やはり戦後だろう。中国人だけでなく、戦争などで中国へ行っていた日本人が向こうで料理を覚えて帰ってきたことで、ますます中華は日本人好みに味を変え、広まっていった。

 長い前置きはこれくらいにして(もう充分だろう)、今日の本題に入ろう。今回のサンデー料理は、自分でも意外だったんだけど、初めての中華料理となった。これまでも単品としては何種類か作ってはいたものの、中華のテーマで統一して作ったことはなかった。
 左奥は、お馴染みのエビチリだ。多少工夫があるとすれば、エビと豆腐を一緒にしたことだろうか。エビは殻をむいて背わた腹わたを取って、酒と塩をまぶし、豆腐は水分を飛ばしてサイコロ切りにする。どちらもカタクリ粉をまぶして、油で軽く揚げたらいったん取り出す。
 チリは、豆板醤・小1、ケチャップ・大3、しょう油・大1、酒・大1、砂糖・小1、水・大2、ニンニクひとかけらで作る。豆板醤を炒めて、そこにケチャップなどを入れ、沸騰させたらエビと豆腐を入れて絡める。
 右奥は、魚介と野菜のとろみ牛乳スープがけだ。鶏肉、白身魚、イカ、アスパラ、白菜、ニンジン、ブロッコリー、タマネギなどを適当な大きさに切って、炒める。
 あんは、牛乳・大3、酒・大1、スープの素・1、水・1/2カップ、塩、コショウ、ごま油少々、唐辛子などを混ぜて、煮立たせる。最後に水溶きカタクリ粉を加えてとろみをつける。
 手前は形が崩れてしまったのだけど、卵シュウマイだった。溶き卵・2、カタクリ粉・大2、塩、コショウを混ぜて薄焼き卵を作って、それを四角形に切って皮にする。
 具は、タマネギのみじん、キャベツ、シーチキンで、塩、コショウ、しょう油、砂糖などで味を付けておく。あとは包んで蒸し器で蒸すだけ。なんだけど、形が保てないので爪楊枝を刺して形を整える。見た目を気にしなければ全体を包んでしまった方が早い。
 たれは、酢、しょう油、カラシ、酒、砂糖を混ぜて煮立たせ、水溶きカタクリ粉でとろみをつける。

 味の方はといえば、見慣れた周富徳を久しぶりに見ても特に新鮮な驚きがないような味だった。って、どんな味だ、それ。普通に美味しかったけど、面白みはなかったというか、インパクトに欠けた。中華料理店で出しても、大学生の兄ちゃんがジャンプなんかを読みながら顔も上げずに食べてしまえるような料理を作れるようになった自分が嬉しくもあり、残念でもある。愛のエプロンに出ると、一番中途半端でいろんな意味で美味しくないポジショニングだ。中エプでは笑いも感動も呼び込めない。
 味の安定感が出てきたのは、ある意味では停滞期と言えるだろう。ここから更に上に行くには何が足りないのだろう。工夫なのか、更なる経験なのか、それとももともとのセンスなのか。そのへんのことを追求しながら今後もサンデー料理は続いていく。
 まだ全然納得はしていない。料理の究極は、「鉄板少女アカネ!!」で語れるように、食べて泣けることだと思う。私もいつか、海原雄山を泣かせてみたい。ザ・シェフとなれなければ、クッキングパパとなって。
 明日からは、中華鍋に砂を入れて腱鞘炎になるまで振り続けるところから出直そう。泣ける料理を作る前に私が泣き出してしまうだろうか。

いつか白川郷へ行くときのために合掌造りの予習をした 2006年11月25日(土)

建物(Architecture)
東山植物園の合掌造り

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/50s(絞り優先)



 合唱といえばウィーン少年合唱団、合掌造りといえば白川郷というのはおおむね異存のないところだと思う。更に言えば、少年といえば岸和田少年愚連隊、ウィーンといえばたこさんウィーンナーが好物の渡辺徹、白川といえば白川由美を連想するという人がいるに違いない。たぶん、きっといる。
 白川郷、その響きは果てしなく遠い異国の地を思わせる。愛知県のお隣岐阜県でありながら、その存在は遠いイスカンダル。京都や大阪よりもずっと遠く感じる。たぶん、高速を使っていけば名古屋から2時間半くらいなのだろうけど、むしろ自分の中では遠い憧れの地としてとどめておきたいような気持ちもある。行って見てしまえば、こんなものかと少しでも失望してしまうのが嫌で。現在、東海北陸自動車道が白川郷まで延長工事をしている。何年かしたら、もっと便利になって行きやすくなる。けれど、何か違うような気がする。世界遺産なんかにせずに、ずっと陸の孤島のようにしておいて欲しかったと思ってしまう。そんなものは部外者の勝手なセンチメンタリズムなのだろうけど。

 昔から白川郷の合掌造りといえば、古き良き日本の原風景をとどめた秘境として有名だった。私の子供の頃からすでに観光地になっていたはずだ。それが一躍全国区になったのは、やはり1995年に世界遺産に登録されてからだ。それまで年間の観光客が60万人ほどだったのが、翌年には100万人を超え、今では150万人以上の人が訪れるようになった。単純に割っても、1日に4,000人からの観光客がやって来るという計算になる。村人は2,000人ほどなのに。やっぱりみんな、権威のあるレッテルに弱い。国宝に極端に弱い私も例外ではないのだが。
 白川郷の合掌造りが広く知られるようになったのは、ドイツの建築学者ブルーノ・タウトが、昭和10年(1935年)にこの地を訪れて、『日本美の再発見』で世界に知らせたことが大きかった。それまでは、日本人でさえ一般的にはこの地のことを詳しくは知らなかったのではないかと思う。最も栄えていたとき1,800棟以上あったものが、急激に数を減らし始めている頃でもあった。地域の高齢化や、近代化、ダム建設などで、多くが取り壊されたり、売却されたりしたという。
 1971年(昭和46年)には保存会が発足。「売らない、貸さない、壊さない」を合い言葉に合掌造りの保存活動が本格的に始まった。先細りになる村を救うには、これを観光資源とするしかなかったという事情もあったのだろう。
 現在残ったのは110軒ほど。これでもよくぞ残ったと思う。
 写真のものは、東山植物園にある合掌造りだ。なんでこんなところにこんなものがあるのかと不思議に思った人も多いだろう。どういうツテかは知らないけど、1842年に白川郷で建てられたもので、ダムによって沈んでしまうものを、1956年にこの地に移築したものだ。作り物ではなく本物なので、ありがたみはある。内部もそのまま保存してあって、自由に見学することができる。

合掌造りの干し柿

 合掌造りという名前は、屋根の形が手を合わせて合掌してる様に似ているところから来ている。急勾配の茅葺(かやぶ)き屋根が特徴だ。白川郷のものは、「切妻合掌造り」と呼ばれていて、角度はほぼ60度で正三角形に近い形をしている。この地域は豪雪地帯なので、雪が落ちやすく、重みに耐えられるようにという知恵でこういう格好になった。とんがっているとかわいいから、とかそういう理由ではない。
 建築方法はかなり特殊で複雑だ。説明文を読んでも専門用語だらけでよく分からない。もちろん、手抜き工事など許されない。雪だけでなく強風にも耐えられる作りになっていて、ちょっとやそっとではビクともしない。
 それにしても大きい。近くで見るとその迫力に驚く。とても一軒家のスケール感ではない。ちょっとした3階建てのコーポくらいの大きさがある。写真の人間の小ささでも分かるだろうし、2階から吊してある干し柿がミニチュアサイズに見える。武蔵丸がお茶碗を持つとお猪口に見えるのと同じ現象だ。
 合掌造りのこのスタイルが完成したのは江戸時代中期だと言われている。豊かとは言えなかったこの地で、現金収入を得るためにお蚕(かいこ)さんを屋根裏に飼うスペースを確保するためということでこういう格好になったんだそうだ。白い障子窓はそのときの名残で、蚕たちのために明かり取りとして作られたものだ。2階が狭くなれば3階にも蚕を置かないといけないし、半年は雪だから馬は家の中に入れないといけないというんで、どんどん大きく広い家になっていった。そもそも一族郎党、使用人まで含めて10人20人が住むから、狭い家では暮らせやしないというのもある。
 囲炉裏のあるある大広間、居間、仏間、寝室、台所、馬小屋、稲部屋などが1階にあり、中2階以上は蚕用となる。夜中に大量の蚕たちが葉っぱを食べてるカサカサする音が上から降るように聞こえてくるシーンを想像するとちょっと怖い。蚕にかじられる夢を見そう。
 合掌造りの何が一番大変かといえば、それはもう茅葺き屋根の葺き替作業だ。かつてはカヤにコガヤというものを使っていて、これは80年ほど持ったそうなのだけど、今のススキは30年か40年に一度全面的に葺き替ないといけない。この費用が一番大きな家で2,000万円もするというのだ。これでは維持しきれずに壊したくなった人たちの気持ちも分かる。
 作業も、とてもじゃないけど家族なんかでできるものではない。専門の業者さんもいない。となると村人総出で行うことになる。「結(ゆい)」と呼ばれる協同作業で、一軒につき2日間で仕上げるそうだ。

 白川郷の特徴としては、景観保存地区でありながら生活の場でもあるということだ。自分の家なのに勝手にいじれないし、外を歩けばいつでも観光客が大勢いて、暮らしにくいったらない。もちろん、24時間営業のコンビニやファミレスなどあるはずもない。行儀のいい観光客ばかりじゃないだろうし、外国人もいる。ちゃんと観光用になっている有料の和田家などだけでなく、一般の家屋にまで当然人は入っていくことになる。ここからは入ってはいけないという明確な区分はないだろうから。元々の村の人たちは世界遺産になったことを必ずしも喜んではいないかもしれない。ただ、世界的な保存地区ということで大きな援助が出ているには違いないだろう。そのあたりはいろいろと難しい問題をはらんでいる。
 ところで私は一体行くのかい、行かないのかい、どっちなんだい、と自分の筋肉に訊いてみる。いや、筋肉はあまりないんだけど。行きたい思いは十二分にある。行かないままそっとしておきたい思いもないではない。いつか行くかもしれないし、行かないかもしれない。
 もうあちらではそろそろ雪が降っている頃なんだろう。白い冬の白川郷も見てみたいし、田んぼが青くなった初夏もいい。秋は村全体が秋色に染まって素敵だろうな。
 行くときは、シルクのパジャマに身を包んで、ススキを口にくわえていこうと思う。もしかして、不審者として捕まってしまうだろうか。でも、合掌造りといえば絹糸とススキじゃないですかぁー、と言い訳しながら引きずられている男を白川郷で見かけたら、それはズバリ、私です。

小原の四季桜ベストビューポイントは薬師寺前と見た 2006年11月24日(金)

紅葉(Autumn leaves)
小原薬師寺前

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 みなさんは、yahoo!のブログ検索というのをご存じだろうか。存じておるという人もいるだろうし、それはなんじゃらほいというとぼけた方もいるだろう。yahoo!のトップページから検索窓に、たとえば近々行こうと思っている紅葉スポットの地名などを打ち込んで、「検索」ボタンではなく、窓の上中央あたりにある「ブログ」をクリックすると、その情報が載っているブログ記事が検索できるというシステムだ。これのどこがいいかというと、新たに更新されたページが上の方に来るという点だ。通常の検索だと人気のあるサイトやヒット数の多いところが上位に来て、最新の情報に辿り着くのに苦労することが多々あるけど、ブログ検索ならほとんどリアルタイムで情報を得ることができる。特に紅葉情報などは当時か前日の様子を写真で確認できるから、これほど確かなものはない。大手のサイトがやっている紅葉情報よりもよほど鮮度が高い。
 そうやってあちこちの紅葉具合を調べている中、ふと小原村のことを思い出した。そして見つけたのがこの角度からの写真だった。うひゅーっと奇声を上げた私は(心の中で)、次の瞬間にはカメラをバッグに入れていた。やるっきゃない! と90年代のようなかけ声と共に、家を飛び出す。いや、その前にトイレに行って、忘れ物がないか確認だ。やるなら今しかねぇ~、やるから今しかねぇ~、とナガブチの歌を歌う田中邦衛のモノマネをしつつ(心の中で)、車に乗り込み発進だ。待っていておくれよ、小原村。豊田市に編入されて小原町になっても私の中では小原村だ。瀬戸を抜け、33号線のくねくね峠道を、山を越え谷を越えぼくらの町にやってきたハットリくんがやって来たの歌のごとくに走り抜け、辿り着いた小原村。ああ、なつかしや、2年ぶり。でも、景観が変わっている様子もなくて安心した。

 写真の場所は、薬師寺前。たいていの人は小原支所あたりを見て回ると思うのだけど、実はこっちの方が写真としては絵になるところが多い。2回の小原行きであちこち回って、ここがベストビューポイントと決定した。黙ってここへ行って、ここで写真を撮るべし、と言いたい。
 小原支所を右手に見つつ通過して、そのまま419号線をキープして北に向かう。けっこう距離はある。2キロか3キロか。車で10分はかからないまでも5分じゃ着かないくらい。3つ目の信号を越えて左側に薬師寺と駐車場がある。しかし、ちょっと待った。この時期、ここに駐車すると500円取られてしまうという海の家状態なので、私としては少し手前の右側にある川沿いのスペースに停めることをおすすめしたい。ちょっとした桜並木があって、そのすぐ前に10台くらい停められるところがある。そこから歩いても5分もかからない。外から写真を撮るだけなら薬師寺に入る必要もない。道路の反対側が撮影ポイントだ。車には気をつけてください。
 真言宗瑠璃光山薬師寺は、地元民に川見の薬師さんと呼ばれて親しまれている古刹で、本堂や彫り物などなかなか味があるので、100段の階段を登ってでも見る価値はある。創建は室町時代だとか。

川沿いの桜並木

 ここの桜は四季桜といって、春と秋の2回咲く。四季のくせに4回じゃないのかよなどといちゃもんを付けてはいけない。一年中「キャッツ」の公演をしてる劇団四季とは違う。
 品種としては、豆桜(マメザクラ)と江戸彼岸(エドヒガン)を掛け合わせたものだと言われている。江戸時代の後期に、藤本玄碩(ふじもとげんせき)という漢方医が名古屋で買ってきて植えた一本の桜が始まりだそうだ。前洞には樹齢100年以上の古木が大事に育てられていて、愛知県の天然記念物となっている。年々本数を増やしていって、現在は地区全体で8,000本となった。普段は何もないひっそりとした小原も、この時期だけは大勢の人で賑わいを見せる。近隣だけではなく、遠くから観光バスで大勢やってくるから驚く。やはり秋に咲く桜は珍しく、紅葉とのコントラストとなると全国でも数ヶ所しか見られない光景なのだろう。
 春に咲くときはもっと華やかにたくさん花を付ける四季桜も、秋は地味目だ。花も小さく、量も少ない。その分、繊細な感じがあって、これはこれでいい。木もソメイヨシノのように大きくならないようで、なんとなく箱庭的な風情がある。エドヒガンは大きくなって長寿なのに、マメザクラの方の遺伝子を受け継いだようだ。秋は開花時期が長く、11月から咲き始め、12月まで咲いている。

 その他の桜スポットとしては、メイン会場となる小原支所をはじめ、「和紙のふるさと」、「北部生活改善センター」、「緑の公園」、「市場城址」、料亭「大福魚苑」などがある。
 市場城跡は、鈴木氏によって室町時代に建てられた城で、戦国時代は徳川家康の支配下にあった。最後は豊臣秀吉の転封命令に従わなかったために、城を取りつぶされて、最後の城主鈴木重愛は追放されてしまったのだった。現在は櫓石垣などが残るのみとなっているものの、戦国好きなら訪れておきたいところだ。
 小原村は、室町時代から和紙の産地として有名なところで、その伝統は今も続いている。「和紙工芸館(和紙展示館は350円)」などもあり、紙すき体験(電話予約して1,000円から2,000円くらい)もできる。
 和紙の原料は「コウゾ」というクワ科の木だ。これを蒸して皮をはいで、水で晒してソーダで煮る。それをよくかき混ぜて、テレビでよく見るような木の板にすくってゆさゆさ揺らして、乾燥させれば出来上がりだ。

四季桜公園

 日が落ちて暗くなったらもう桜は撮れない。特にここは山間なので、日没が街中よりも早い。最後の締めくくりは、前回同様、「四季桜公園」とした。ここは小原のマイナースポットで、カメラを持ってるような人とは会ったことがない。これぞ穴場、と言いたいところなんだけど、行ってみるとがっかりするのでおすすめはできない。申し訳程度に桜とモミジなどが植えられているだけの何もない普通の公園なんで。ただし、夕焼け空が見られる。眼下には小原の町並みと見上げれば夕暮れの空。これがなかなか悪くないのだ。
 場所は小原支所から北に走ってすぐの左側。坂道を上がっていくと駐車場がある。トイレもあるし、人もいないので、ゆっくりトイレに行きたい人はここがいい。

 小原の四季桜と紅葉の組み合わせは、実は私はあまりピンと来てないところがある。確かに秋に咲く桜は珍しいし、紅葉とのコントラストもめったに見られるものではない。にもかかわらず、第一印象が意外と薄かったのだ。ああ、こういうことかと。想像してた以上に違和感がないというか、そんなにびっくりするほどでもないなというのが感想だった。二度目に訪れた今回もそれは変わらなかった。写真に撮ると案外面白くないというのもある。
 ただ、魅力がないかといえばもちろんそんなことはない。ただ、なんというか自分の中で釈然としないのだ。これは見慣れているものに今更驚かないよという感覚に似ている。考えてみると、桜も紅葉も、それぞれ単独では何度も見てるものなのだ。両方とも珍しいものでも何でもない。だから、当たり前と思う私の感覚はきっと間違ってないんじゃないだろうか。たとえばそれは、秋に竹の子を食べても何か違うような気がするのと同じ種類の不調和感なのかもしれない。季節はずれというのは、良くもあり悪くもあるということだろうか。
 もし私に小原町プロデュースを任せてくれるなら(そんな日は来ないけど)、断然モミジとイチョウをたくさん植樹する。四季桜の本数を増やすよりも、むしろもっと町中を真っ赤に染め上げて、桜を脇役にした方が視覚効果として、うわっ、すごいってことになるはずだから。まず赤を前面に出して、桜で二度目の驚きを与え、更に第三の色としてイチョウを配色する。この三色が目に飛び込んできたとき、人はもう圧倒的な色彩に打たれるに違いない。それをやれば必ず全国区になれる。ホントに私にやらせてくれないかな、紅葉プロデュース。こうなったら、小原町の町長選挙に打って出てみるか!?

勤労感謝の日に本当の11月23日らしさを考えてみた 2006年11月23日(木)

風物詩/行事(Event)
春日井工場煙突煙もくもく

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/4s(絞り優先)



 小学生のとき、風邪やハライタで学校を休んで、NHK教育テレビの「はたらくおじさん」を観るのが好きだった。
 ♪はったらくおじさん~ はったらくおじさん~ こ~んに~ち~は~~♪
 どんな内容の番組だったのか、なんで好きだったのかは、今となっては思い出せない。ただ、確かに好きだったという記憶だけが残っている。体が丈夫で休まず学校に行っていた人には、あまり馴染みのある番組ではなかったかもしれない。確か、午前中の時間帯にやっていた記憶がある。学校を休むことが決まって間もなくだから、9時とか10時とかだったろうか。しかし、あれはどういう視聴者層に向けての番組だったのだろう。平日のそんな時間帯に、働くおじさんをテーマにした子供向け番組を観てる人はそうはいない。当時はまだ家庭用のビデオなんてのもなかったし、おじいちゃんおばあちゃんが観て楽しい番組でもない。お母さん向けでもなかった。だとすると、あれは学校を休んだ子供に対する遠回しのメッセージだったんだろうか。おじさんは働いてるのだから、キミもしっかり学校へ行って勉強するんだよ、という。
 当時の私の中で働くおじさんというのは、たとえば重機を運転してるおじさんとか、工場で労働してるおじさんとか、大工さんとか、そういうイメージだった。汗を流して力仕事をしてるおじさんこそが働くおじさんであって、公務員とか教師なんかは働くおじさんではなかった。だからといって、そういうおじさんに憧れを抱いていたかといえば決してそんなことはなかった。小学校の卒業文集で将来なりたい職業には、「きこり」と書いた。当時からどこか浮世離れしたところがあったチビの私であった。

 何故唐突にはたらくおじさんなんかを持ち出しかといえば、それはもちろん、今日が勤労感謝の日だからだ。しかし、間違えてはいけない、感謝するのは勤労者ではなく勤労だ。働く人に感謝する日なら勤労者感謝の日となっていなければおかしい。なので、この日はお父さんやお母さんに対して子供が感謝する日などではない。そのあたりのことを、親によく言い聞かせたい。働くことに対して自らが感謝する日なのだ。つまり、この日ばかりは労働を休むのではなく、むしろいつも以上に労働しなければいけない。勤労に感謝するのだから。一体、いつから勤労感謝の日はこんなふうに変わっていってしまったのだろう。
 11月23日を勤労感謝の日として祝日に定めたのは、1948年のことだった。戦後になってからと、かなり新しい祝日なのだ。「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」という建前で作られた。
 どうして11月23日なのかといえば、この日は元々、古来から続く日本国の重大な行事である「新嘗祭(にいなめさい)」の日で、大王(天皇)が農作物の恵みに感謝する儀式が執り行われていた日に当たるからだ。昔から新嘗の日として祝日だった。旧暦の頃は、11月の2回目の卯の日だったのだけど、太陽暦に切り替わった明治6年(1873年)は11月23日でよいものの、次の年が新暦では1月になってしまってまずいということで、11月23日に固定してしまったというわけだ。だから11月23日という日付そのものに意味はないとはいえ、ハッピーマンデーごときで簡単に動かせる日にちではない。
 戦後になって新嘗祭の日から広く一般国民を対象とした勤労感謝の日と名前を変えたことで、この日の性格も大きく変わってしまった。現在では、収穫された五穀に感謝するイベントをしてる家庭はまずないだろうと思う。神社の関係者はともかく、農家でも少ないんじゃないだろうか。戦後になって、本来の趣旨はほとんど忘れ去られてしまった。アメリカやカナダなんかのThanksgiving Dayにならって、収穫感謝の日とでもしておけばよかったのに。勤労感謝なんてするからおかしなことになってしまったのだ。

収穫された作物
OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6)

 新嘗祭(にいなめさい、または、しんじょうさい、古くはにいなえ)がいつ頃から始まったのかははっきりしない。皇極天皇元年(642年)に行われたというのが「日本書紀」に出てくる最初の記述ということになってはいるけど、さらに起源は古そうだ。
 春に五穀豊穣を祈って行われるのが「祈年祭(きねんさい)」で、秋のはじめ9月に収穫を感謝して神様に作物を捧げるのが「神嘗祭(かんなめさい)」。11月の相嘗祭(あいなめさい)を経て、新嘗祭となる。このとき初めて、その年に収穫された新穀や新酒を天照大神や天地の神に捧げて、天皇は国民の代表として新穀を食べて収穫に感謝する儀式を行う。つまり、この日まで国民はその年に穫れた新米はまだ食べてはいけなかったのだ。
 天皇が即位して最初に行う新嘗祭を大嘗祭(おおなめさい)といい、これは天皇一世一代の大規模な祭典となる。現在の今上天皇も、1990年(平成2年)に執り行っている。新嘗祭は、戦後になって皇室典範から儀式として除外されたものの、今でも完全非公開で行われているという。中でどういう儀式をしているのか、普通の人は誰も知らない。そんなことがなされているという報道さえない。
 伊勢神宮は天照大神の正宮ということで、新嘗祭も神嘗祭も大々的に儀式が行われている。こちらは一般でも見物することができる。
 勤労感謝の日というのは、実はこんな裏事情や歴史があったのだ。古代から続く日本の重大な儀式が行われていた日だとは、知らなかった人も多いんじゃないだろうか。私も今日勉強して初めて知ったのだった。こんなことも知らず、新米が穫れると真っ先に親戚から送ってもらって、たいして感謝もせずにパクパク食べていた。来年からはこの日まで新米を我慢……できないだろうけど、せめて感謝する気持ちだけは忘れないようにしようと思った。勤労に感謝するのは難しくても、毎日食べてるお米に感謝するのは難しくない。お米ひと粒には七人の神様がいるという教えが昔あったけど、あれは今思えばいい教えだった。

 11月23日は語呂がいいということでいろんな日になっている。いい夫婦の日や、いいふみの日、いい兄さんの日など。その他、手袋の日、外食の日、ゲームの日だったりもする。
 出来事としては、Jリーグ発足、角川書店設立、通信衛星による日米のテレビ中継成功、たまごっち発売、ジュークボックス設置、女性の大相撲見物が可能になる、なんてことがあった。
 樋口一葉が死に、白井義男が亡くなり、風船おじさんはゴンドラでアメリカを目指してどこかへ消え、たこ八郎は神奈川の海で溺れ死んだ。たこ八郎の座右の銘は「迷惑かけてありがとう」だった。
 感謝は強要したり義理で嫌々差し出すようなものじゃない。押しつけたり、無理矢理引き出したりするものでもない。心の奥から自然に生まれてくるものだ。感謝しなさないなんて言われて嬉しい人はいない。たとえそれが親子の間柄であったとしてもだ。本当に自分の中から感謝の思いがわき出してきたのなら、そのときは言葉と態度でそれを表現すればいい。勤労感謝の日だからといって形だけで感謝してもあまり意味がない。
 11月23日はどうやって過ごせばいいのか? それはもう、11月23日らしく過ごすに限る。奥さんやだんなさんは互いに相手に対して手紙を書き、テレビの衛星放送でJリーグと大相撲を観つつ、引き出しの奥にしまったたまごっちを出してきて遊び、樋口一葉を読んで、いい時間になったところで手袋をして外食に出かける。ライスの皿についた米粒も残さず食べなくてはならない。帰りにゲーセンに寄って軽くゲームをして、ジュークボックスで思い出の曲をかけ、海へ行って砂浜でシャドーボクシングをしつつ、たこ八郎のモノマネをして、最後は風船に乗って海の彼方に消えるのだ。はたらくおじさんのテーマソングを歌いながら。うーん、完璧だ。これぞ11月23日の過ごし方の見本と言えよう。最後がちょっとイヤな場合は、風船を海に飛ばすだけでも可とする。来年はぜひ、実践してみてください。私に成り代わって。

東山植物園の紅葉トンネルで勝者と敗者がすれ違う 2006年11月22日(水)

施設/公園(Park)
東山植物園紅葉トンネル

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/25s(絞り優先)



 神社仏閣巡りばかりしていると、ジジむさくなりそうなので、生態エネルギーを補給するために植物園に行ってきた。紅葉を見て元気いっぱい……って、紅葉って枯れ葉じゃん!? 逆に私の生命エネルギーを吸い取られたかもしれない。東山の紅葉トンネルがきれいなのは、私の精気を奪ったからということがないとも限らない。
 写真は一番きれいなところを写してるから、これを見て、うわっ、早く行かなくちゃと焦ったあなた、ちっちっちっ、早まっちゃあいけないよ。まだちと早い。完全に染まるまでは、あと一週間やそこらはかかりそうだった。明日、あさってが雨模様で週末が晴れ、来週前半はまた雨ということで、早く行くならこの週末、ゆっくり見るなら来週の雨開けといったところだろうか。気温が高い日が続くようだから、一気に進むことはないと思う。
 なんにしても、鮮やかな色彩は目が覚める思いだった。これでまたエネルギーが補充されて、神社仏閣巡りができるというものだ。結局、そっち巡りたいのか、私。いや、そうではなくて紅葉の名所の多くが寺院関係なんで、否が応でもそうなってしまうのだ。別に根っからの神社野郎とかそういうことではないので、私にジンジャーオーターなどとあだ名を付けるのはやめてください。

 東山に行ったことがない人は、動物園と植物園と公園と遊園地の関係性が今ひとつ掴めてないところがあるかもしれない。単純に言ってしまえば、全部あわさって一体となった複合施設ということになる。入場料は動物園、植物園、遊園地共通で大人は500円だ。区域は一応分かれているものの、橋でつながっていて(ただし、いったん外に出ると再入園は不可となるはずなので注意)、東山スカイタワーも動物園の中にある。
 つながっているとはいえ、どちらも広い。動物園は32ヘクタール、植物園は27ヘクタールもあり、一日で全部回ろうとすると、日頃運動不足のおとーさんはヘトヘトのくたくたになって、月曜日の朝起きあがれなくなる恐れがあるほどだ。半日くらいでどちらか一方に絞った方がいいと思う。どちらも、ざっと歩いて一周するだけなら2時間くらいなのだけど。

 昭和12年、東山の雑木林の中に作られた植物園には、木や花や温室の植物などをあわせて5,500種類以上あるそうだ。デジカメで一種類につき一枚RAWで撮影したとして、1GBのコンパクトフラッシュが550枚くらい必要になる。フィルムで全部撮影したら破産しそうだ。
 熱帯地方の花や水生植物などを集めた「温室」、睡蓮池やプランターの花で彩られる「洋風庭園」、尾張藩の俳人横井也有にちなんで作られた庭園「也有園(やゆうえん)」、岐阜県白川村から移築した「合掌造りの家」、湿地植物を集めた「湿地園」、万葉集に詠まれた植物を配した「万葉の散歩道」、東海地方特有の木などを植えた「東海の森」、300種類の薬草を植えた「薬草の道」、名古屋市内最高峰にある「お花畑」、椿園、バラ園、アメリカ産植物見本園、中国産植物園林、梅林、桜並木、竹林などがある。
 いろいろ取り揃えてあって花に興味がない人でも楽しめるようになっているので、動物園しか行ったことがない人にもオススメできる。動物園と比べて人気がない分、のんびりゆったりできるのもいい。
 野鳥も多く、人の少ない午前中などは街中では珍しいもの見られるようだ。動物園の方の池などは、飼われてるわけでもないのに飼育動物たちと一緒になって暮らしていたりする。特に冬場はカモたちが多くなって、どれがどれやらよく分からないようなことになっている。すごい珍しいのがいるなと思ったら、動物園のアメリカオシだったり。
 日本庭園はたくさんの野鳥のさえずりが聞こえるということで、日本の音風景100選にも選ばれているのだった。

東山植物園の温室

 昭和12年(1937年)の開園と同時に作られた温室が、今度国の重要文化財に指定されることが決まった。こんなものがと言っては失礼だけど、神社仏閣や歴史的建造物以外でも重要文化財になるのは知らなかった。名古屋市内では10件目になるらしい。植物園の温室としては日本初となる。
 ロンドン植物園のキューガーデンの温室を模して作られ、完成当時「東洋一の水晶宮」と称されたのだとか。昭和12年としては、このデザインはかなり新しかったのだろう。今見てもさほど古めかしさは感じない。
 重文指定の決め手は、当時の最新技術が使われていて、建築技術史上重要な建造物という点だったそうだ。鉄骨の継ぎ目にはリベットを使わずに電気溶接されてるなどが高く評価されたらしい。
 東邦ガスがポンと出した25万円の中から、6万2,500円を使って建設されたという話だ。安っ! それくらいなら私でも出せるぞ。けど、現在同じ物を作ろうとしたら10億円かかるらしい。それは金輪際出せっこない。しかし、70年でそんなに物価って上がっただろうか。昭和12年の大卒初任給を調べてみたら75円だった。なんだか単位が小さすぎて上手くイメージできない。75円で一体何ができるというのか。もらっても途方に暮れてしまう金額だ。この調子でいくと、私がじじいになる頃は、大卒の初任給が2,000万円とかになるのか!?
 幅66メートル、高さ13メートル、総面積は596平方メートルあり、現存する植物園の温室としては日本最古となる。老朽化が言われて久しい東山動植物園だけど、古いまま残しておいていいこともあった。
 内部はブロック分けされていて、水生植物室、中南米植物室、サガロ温室、ハワイアンハウス、食虫植物室、多肉植物室、シダ室、中央ヤシ室などがある。一番の見どころは巨大サボテンだろうか。

 東山動植物園は、月曜定休で、開園は9時から4時半まで。入園は大人500円、中学生以下は無料。スカイタワー単独は500円で、動植物園との共通券だと800円になる。名古屋市内の65歳以上は100円なので、年食ったら行き放題だ。なんならここに住んでもいい(それは無理)。一年間のパスポートが以前は1万2,000円という無茶な値段だったのだけど、大きく反省してこの4月から2,000円になった。どんだけ反省したんだ、値下げしすぎだろう。近所なら4回行けば元が取れるので、持っていて損はない。
 駐車場が一回(一日)800円というのは高く感じる。丸一日停めるなら安いかもしれないけど、2時間やそこらで800円というのはイヤだ。そんな人のためには、遠くに無料駐車場がある。ありがてえことでごぜえます、と何故か卑屈になる私。南側の植物園(左手)と動物園(右手)の入園ゲートを超えて、左右に有料駐車場を見つつ、赤い大きな橋を過ぎて少し行った左手がそうだ。余分に歩く時間は5分くらいなので、800円と天秤にかけたら私は迷うことなくこちらに停める。ただし、無料は平日だけで週末はここも有料になってしまうので、そのときは路上駐車することになる(週末だけ駐禁じゃなくなるので)。

 秋は野草が少なくなるだけに植物園の花が貴重となる。なのだけど、やっぱり植物園の花にはトキメキを感じない。たくさん咲いているのを見ても、わぁーっと思わないし、あまり写真を撮る気にもなれない。野に咲く花と植物園に咲く花の決定的な違いって何なんだろう? その問いの答えは分かるようで分からない。たとえば温室の花だって、現地に行けば野に咲いているやつなのに、温室で見るとありがたみがない。外国で咲いているのを見たら心が動くはずなのに。天然鮎と養殖鮎の違いのようなものなのだろうか。
 それにしても、この時期の植物園はさすがに寂しい。お花畑も、ぬっくんの頭のようにめっきり寂しいものとなっていた。物足りない要因のひとつに虫たちの姿がまったくなったということもあった。さすがにこの時期はもう、生き残りの蝶もトンボも飛んでなかった。
 植物園のベストシーズンは、5月から6月くらいにかけてだろうか。一斉に花が咲き乱れ、虫たちが元気に飛び回り、歩き回っても暑すぎない。この時期は撮るものも多くて、気分も高揚する。紅葉が終われば、私の中でも植物園はオフシーズンということになる。また来年の春だ。
 今日感じたことは、動物園は親子連れや若いカップルが似合うのに対して、植物園は老夫婦がよく似合うということだった。ふたりで一日のんびり過ごして200円。それもまた、勝者の姿だと思う。閉園1時間前に500円払って駆け回りながら写真を撮ってる私は、もちろん敗者だ。植物園のコントラストは、赤と黄色の紅葉だけでなく、勝者と敗者のコントラストでもある。

五重塔マニア予備軍に贈る興正寺の五重塔話 2006年11月21日(火)

神社仏閣(Shrines and temples)
興正寺の五重塔

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f4.5, 1/50s(絞り優先)



 世の中には五重塔マニアという人たちがいる。わずかだが確かにいる。まだ会ったことはないが。
 五重塔と聞いてまず思い浮かべるのが奈良法隆寺という人も多いだろう。日本最古のもので680年頃建てられたものだと言われている。もちろん、国宝中の国宝だ。あるいは、京都最古(952年)の醍醐寺を思い出す人もいるかもしれない。華やかだった平安時代を象徴するように美しい五重塔だ。五重塔マニアなら屋根をはい登って上から落ちたくくらいだろう。もちろん、国宝なのでそんなことはできない。あらかじめ断っておくと、私は特に五重塔に思い入れがあるわけではない。見れば、わー、立派だなぁと人並みの感想を持つくらいのものだ。ただし、国宝となると突然態度が豹変する。押切もえを見ても別にどうということもないけど、エビちゃんはかわいすぎる~、と思ってしまうようなものだ(そのたとえはどうなんだ)。
 名古屋にも正真正銘ホンモノの五重塔があるのを知っているだろうか。おそらく全国的な知名度はかなり低いと思われる。私自身、おととし初めて知ったくらいだ。名古屋人でも案外知らない人が多いんじゃないだろうか。学校の社会見学や遠足で行くようなところではないから、名古屋に生まれて名古屋に育っても存在自体知らないままで終わってしまうということも充分考えられる。
 それは、昭和区八事(やごと)の興正寺(こうしょうじ)にある。名城大学や中京大学があるあたりと言えば、名古屋の人には分かりやすいだろうか。
 日泰寺(にったいじ)にも五重塔はあるけど、あれは新しくもあり木造ではない。興正寺のは、市内はもちろん、東海地方で唯一の木造の五重塔だ。なんで名古屋人はもっとこれを自慢しないのだろう。この地方の人間は、京都や東京のものをありたがるように自分のところのものを大事にしようとしないところがある。それはある意味では日本人と外国の関係に似ている。
 今回で見るのは3回目ということでやや感動は薄れたものの、やはり明らかな非日常性な存在感に圧倒される。こんなものが名古屋市内の街中にあるというのは不思議だ。近場で修学旅行気分が味わえるシリーズ第3弾は、ホントに近い、名古屋の興正寺を紹介したい。

 尾張高野とも呼ばれ、江戸時代には修行と信仰の場となり、明治から大正にかけては行楽地として大変賑わったという。名古屋で「山行き」といえば、それは八事山興正寺へ行くことを指したくらいだった。いち早く鉄道馬車が通り、大勢の人がそれに乗ってこの地に参拝と遊山に訪れたそうだ。現在は、学生街の中に埋もれるような格好となり、往事のような行楽地としての賑わいはない。ただ、毎月5日と13日の縁日にはたくさんの露店が並び、この日ばかりは数万人の人が集まってくるという。
 1686年、高野山で修行をした天瑞和尚という僧侶が、親族の勧めでこの地に草庵をたてたのが興正寺の始まりとされている。それから2年後、評判を聞きつけた尾張藩2代目藩主の徳川光友から寺院を建立してよろしいという許可が出たことで、本格的な興正寺建立が始まった。その後、代々の尾張藩に手厚く保護され、次々に伽藍が建ち、大きく広がっていった。その関係で扉などあちこちに葵の御紋が彫られている。

五重塔シルエット

 五重塔が建てられたのは120年も後になってからの1808年だった。第七世真隆和尚が突然思いついたのか、それまでそういう話があって悲願だったのか、そのへんはよく分からない。1800年代といえば江戸時代も後期で、尾張藩にしてもそんなに裕福でなかっただろう。和尚はかなり頑張ってお金を集めたものだ。相当かかったに違いない。
 3年がかりで高さ30メートルの立派な五重塔を建てた。華麗さはないものの、江戸時代らしい素木造り(しらきづくり)の味があり、彫刻なども凝っている。
 塔の中心柱には大日如来を置き、四方に阿如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来が配置されている。

 ここは西山(普門院)と東山(遍照院)とに分かれていて、尾張高野というように、かつて東山は修行の場として女人禁制だった。今の能満堂がある裏手あたりに女人門があり、その先は男の園となっていた。それは明治まで続いた。
 その一番奥には高さ3.6メートルの大仏(名古屋三大仏の一つ)の大日堂がある。嘘か誠か、大日堂は地下通路で名古屋城とつながっているという話がある。名古屋城は家康が西日本に対する備えとして建てたものだ。興正寺は、名古屋の東南の入口にあたり、軍事的な砦としての役割を担っていたというのだ。昔から名古屋人は地下街が好きだったのかもしれない。
 実際、飯田街道との間には堀が掘られ、名古屋城から移築した東山門(黒門)は鉄砲などが撃てるような格子作りになっていたりするから、本気で戦を想定していたフシがある。江戸時代の初期というのは、私たちが思っているほど平和で落ち着いた世の中じゃなかったのだろう。少なくとも、尾張などでは。

中門と五重塔

 女人禁制廃止後、女人門は五重塔の前に移され、中門となっている。
 その他、七観音、観音堂、能満堂などがあり、もちろん、立派な本堂もあるのだけど、ここの場合、完全に主役の座を五重塔に奪われ、本堂の存在感は薄い。

 ここのお寺は、すべての宗派を受け入れる総宗派となっている。なんでもありのなんでも来い。
 別名、ぽっくり寺。7回お参りすると(?)、ぽっくりいけるらしい。私、もう3回行ってしまったから、あと3回しか行けないということなのか? まだぽっくりいきたくないぞ。
 大晦日の除夜の鐘は、先着1,080人がつくことができるそうだ。10人ついて一回とカウントするとか。それは1,080回鐘が鳴るということだろうか。だとしたら、近所の人はおちおち大晦日には寝てられない。それとも、10人が一度につくということなのか。
 ここは一応紅葉の名所ということになっている。といっても、塔の周りにモミジが集まっているというわけではないので、紅葉と塔の組み合わせはあまり期待できない。個人的なオススメとしては、空がオレンジや赤に染まったときのシルエットだ。今回は残念ながら染まりが足りなかった。

 世の中のたいていのものは新しければ新しいほどありがたいものだけど、神社仏閣に関しては古ければ古いほどありがたみが増す。そういう意味では、ここの五重塔はまだまだ新しい。江戸後期で200年はまだ熟し足りない。本当の風格が出てくるまでにはまだ300年、500年とかかるだろう。
 とはいうものの、なんてったって五重塔。奈良や京都まで行かず名古屋で見られるというところに価値がある。まだ見たことのない近所の人はぜひ一度見に行ってみてください。紅葉はもうしばらく先になりそうなので、11月の終わりから12月にかけてがオススメ。
 これをきっかけに、世の中にひとりでも五重塔マニアが誕生したら嬉しく思う。全国には思ってる以上にたくさんの五重塔があるから、全国制覇するのも楽しそうだ。古いものだけで22もある。更に1990年代に建てられてるものもあるというから、実は私の知らないところでひそかに五重塔ブームが起こっているのかもしれない。もしかして、五重塔に住んでる人さえもいる? 不便そうだなぁ、五階建ての家。上下の移動が面倒だ。でも楽しそう。5階の屋根の上で、ギターを弾きながら浅田美代子の「赤い風船」を歌いたい。

山羊のネタは在りし日のうなずきトリオとおじいさんの歌 2006年11月20日(月)

動物(Animal)
ヤギさんと一緒

OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f5.6, 1/200s(絞り優先)



 ヤギを見ると頭の中でメロディーが流れ出す。ヤーギさんのヒツジ~、ヒツジ ヒツジ~ ヤーギさんのヒツジ~ かわいいなぁ~。
 あれ? ヤギさんじゃなくて、メリーさんだ。ヤギさんがヒツジではどう考えてもおかしいだろう。
 もうひとつ思い出すのが、アルプスの少女ハイジ。同世代の人は、うん、うんと大きくうなずくんじゃないだろうか。キミはうなずきトリオか! と突っ込んでみる。
 ハイジにアルムおじいさん、山羊飼いのペーターにクララ。何故かヤギの名前だけユキ。どうしてそこだけ日本風だったんだろう。アルプス地方にもユキという名前はあるんだろうか。

 日本ではすっかりマイナーな家畜になってしまったヤギも、世界で見ると約7億頭が飼育されている現役メジャー家畜だ。中国、インドをはじめとしたアジアが全体の60パーセント以上を占め、アフリカの25パーセントが続く。世界的には現在でも増加傾向にあるそうだ。日本ではかつて、乳牛ほど場所も取らずエサ代もかからないということで、一般家庭でも乳搾り用としてよく飼われていた。貧乏人はヤギを飼え。うちの田舎でも飼っていたそうだ。今ではヤギを飼っている家庭は圧倒的少数となった。といか、一般家庭で飼われているヤギなど金輪際見たことがない。ヤギの散歩してる人とかも見かけない。
 野生のヤギを最初に飼い慣らしたのは、今から1万年ほど前の西アジアの山岳地帯の人たちではないかと言われている。ただ、その年代の遺跡でヤギの骨が見つかっているというだけなので、本当に家畜だったのかどうか、もっと前から飼われていたのではないかなど、詳しいところまでは分かってないようだ。品種も、ノヤギやヨーロッパノヤギ、ベゾアール、マーコールなど、どれが最初のヤギだったのかもはっきりしていない。いずれにしても、そこから東西と南へヤギの飼育が広まっていったようだ。
 日本にやって来たのはずっと後になってからで、江戸時代に朝鮮半島あたりから持ち込まれたのが最初だろうということになっている。ただ、琉球ではもっと昔に入っていたという話だ。
 ヤギは当初、乳目的で飼われるようになった。世界で最初のチーズやバターは、ヤギから撮られた乳で作られたと思われている。ヤギの乳は人間の母乳に最も近いとされ、昔は体にいいからといって無理矢理飲まされたりもしたそうだ。ちょっとクセがあって飲みづらいらしい。けど、最近、またヤギの乳が見直されてきて、スーパーなどでも並ぶようになった。アレルギーが出にくかったり、牛乳を飲むとおなかゴロゴロの人もヤギなら大丈夫だったり、ビタミンが牛乳より多かったりで、実際なかなかいいみたいだ。味も売っているものはクセがないというし、私も今度買って飲んでみよう。
 ヤギが家畜に向いていたのは、まず性格のおとなしさと従順さがあった。あとは何といっても粗食に耐える丈夫さを持ち合わせていることだ。力はないので農業には向かないし、ヒツジのように毛も取れない。その代わり、そのへんに放っておいても草や木などを食べて生きていける。遠洋航海などにも連れて行けたために、遠くのオーストラリアやニュージーランド、ハワイなどにも持ち込まれた。
 肉や皮などももちろん利用された。
 そんな貧しさにも世間にも負けないヤギは、ときとしてやっかいものになることがある。飼っていたものが放置されたりしても、そのまま野生として生きていける彼らは、世界中でちょっとした問題になっている。草だけでなく樹皮なども食い散らかしてしまうから、生態系を壊してしまうことになる。手加減なしで、繁殖力も強い。特に無人島で我が物顔で暮らしているという。日本でも、小笠原諸島や伊豆諸島の島などは大変なことになっているらしい。韓国とモメてる竹島も、ノヤギの天下なんだとか。
 草を食べるというのを利用して、果樹園の草取りとして飼っているところもあるようだ。これは上手くいけば草取りの手間がはぶけていい。

 ヤギというと、写真のような白くて角があってあごひげがあるのを思い浮かべる人が多いと思う。これはザーネン種というスイス原産のもので、日本にいるのはたいていがこいつだ。けど、ヤギの種類は216品種もある。白ヤギさんだけでなく、黒ヤギさんも、茶ヤギさんも、毛がもしゃもしゃのものも、角が立派なのもないのなどいろいろだ。高級繊維のモヘアはアンゴラ山羊から取れるものだし、カシミヤもカシミヤ山羊から取れる。その他、トッケンブルグ種、マンバー種、ジャムナバリ種、ヌビアン種などがいる。
 所属としては牛の仲間ということになる。ヒツジとは近いようで遠く、遠いようで近い。ヒツジの毛を刈ってつけヒゲをつけるとヤギそっくりになるとか。
 違いは、ヒツジが草食なのに対して、ヤギは草や木の芽を好んで食べるということと、定住タイプのヒツジに対して遊牧的なヤギといったようなことが挙げられる。ヤギの方が腹ぺこには強いのに対して、ヒツジの方が寒さに強い。
 ヤギは紙を食べると思われているけど、それは昔の話で、現代のような工業製品としての紙を食べさせたらおなかを壊してしまう。へたすると死んでしまうので、書いたけど出せなかったラブレターをヤギさんに食べさせたりしてはいけない。それがたとえ黒ヤギさんでも白ヤギさんであってもだ。和紙とかならいいらしいけど、トイレットペーパーもティッシュペーパーもダメで、パンなどはカロリーが高すぎていけない。

 ヤギといって思い出すのは中原中也の『山羊の歌』だ。例の「汚れつちまつた悲しみに」もこれに収録されている。中也はどんな思いでこのタイトルを付けたんだろう。
 ある飲み屋で中原中也と太宰治、壇一雄が酒を飲みながら、
「おめぇは全体、何の花が好きなんだい?」と中也が太宰に訊ねる。中也のしゃべりはこういうべらんめえ調なのだ。
「桃の花……。」と消え入るような小さな声で答える太宰。ちびっこ中也に対して大男の太宰は背中を丸めて、いかにも居心地が悪そうに見える。
 それを聞いて、「だから、おめえはダメなんだ!」と何故かキレて太宰につかみかかっていく中也。それを止める壇一雄。なおも暴れる中也。そして、最後は九州男児の壇一雄にボコボコにされて、「ああ、分かった、分かった、てめえがケンカが強いのは分かったよ」とふてくされる中也。
 そういえば太宰はどこにいったんだと外を見てみると、遠くの方の曲がり角で顔だけ出して店を伺っている太宰の姿がそこにあった。
 私はこのエピソードがとても好きだ。三者三様の人間性をよく表している。
 スケープゴートという言葉がある。訳すと贖罪(しょくざい)の山羊。古くからユダヤ教などでは、ヤギを生け贄として捧げる伝統があった。そこから転じて、ある人物に責任を負わせて逃れることをスケープゴートと言うようになった。でも最近ちょっと聞かなくなった、秘書がやりました、というセリフ。
 日本語のヤギの語源は野牛がなまったものだという説があるけど、実際のところはよく分かってない。山の羊と書くから、山の方にいる生き物というイメージが強かったのだろうか。

 そろそろクリスマスが近づいてきた(唐突な話の転換は最後のネタへの序章)。また私は今年も、クリスマスイブの夜は、ヤギアナと明石家サンタのテレビを観ながら過ごすことになるのだろうか。
 ……。
 それが言いたかっただけか!
 ♪口笛はなぜ~ 遠くまで聞こえるの
  あの雲はなぜ~ わたしを待ってるの~
  おし~えて~ おじいさん~
  おし~えて~ おじい~さん~
  おしえて~ アルムの~も~み~の~木~よ~♪
「おしえて」の歌とともに今日はこのへんで、さようならー。

紅葉料理失敗で自分の絵心を疑うことになったサンデー 2006年11月19日(日)

料理(Cooking)
紅葉サンデーはイメージ不足

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/40s(絞り優先)



 今日のサンデーは最初から最後までイメージ不足が響いて納得のいくものができなかった。ちょっと悔しくて自ら補習しようと思ったけど、食べたらおなか一杯になって補習は無理だった。もうおかわりできません。
 最初和風を考えていたらいつの間にかコースをそれて曲がって、洋食と和食の中間でエンストした。洋食と和食と片足ずつ突っ込んで股が裂けそう。ひとつにはゴボウとニンジンの紅葉料理に気を取られすぎていたというのがある。
 そう、今日のメインは直前に思いついた紅葉記念サンデーだったのだ。ニンジンをモミジの型に切って、ゴボウを木に見立てたらモミジっぽくなるんじゃないかと考えた。しかし、そんなに簡単なものではなかった。ゴボウとニンジンだけで紅葉のモミジを描けるのは、尾形光琳くらいだ。裸の大将でも難しいだろう。
 そこで、急遽、カボチャでイチョウを追加してみた。なのだけど、カボチャのように厚みのあるものでイチョウをかたどるのは難しい。薄く切って煮るとすぐに形が崩れてしまうし、厚いとイチョウっぽくならない。
 結局、皿の上に並べてみたら、幼稚園生のラクガキのような料理になってしまった。がびーん。美術の成績はずっと5だったという心の支えを失いそう。いつの間に私は絵心をなくしてしまったんだろう? どこかそのへんに落ちてませんでしたか、私の名前がついた絵心。おかしい、こんなはずでは。頭の中では見事な紅葉が描かれていたのだが。
 今日の教訓として、絵描き料理を作る場合は下書きが必要不可欠だ、ということだった。完全なるイメージ不足が失敗を招いた。最初に完成図があって、それに合わせて材料を切っていかないといけない。食材の場合はなかなか加工がままならないから。絵の具や粘土とは違う。
 次こそはもっとちゃんとした絵料理を作り上げたい。最終的な目標はスーラだ(それは無理)。

 紅葉崩れ料理は別にして、あとの洋食2品は上出来だった。
 コロッケ風に見えているのは、クリームソースとツナのトマトソースがけで、このバリエーションはもはや定番となった。
 クリームソースはいつものように小麦粉、バター、牛乳でレンジで作り、それに刻んだタマネギとツナ缶、小麦粉を混ぜ、パン粉でころもをつけて揚げ焼きにする。量が少ないときは油がもったいないし処理が面倒なので、揚げ焼きで充分だ。
 トマトソースは、トマトの皮をむいて(湯むきが楽)、乱切りにして、赤ワイン、タマネギのすり下ろし、バター、鶏肉、塩、コショウ、砂糖、トマトジュース、コンソメの素で煮込む。
 これは美味しいので問題ない。問題なさすぎて詰まらないくらいだ。

 手前は白身とチーズのパン粉焼き。
 白身魚は切り身に塩、コショウを振って、オリーブオイルで少し下焼きをする。具はいろいろ考えられる中、今回はあっさりアスパラと長ネギの白いところだけにした。白身の上にスライスチーズを載せ、アスパラ、長ネギを並べ、更にスライスチーズを載せ、その上からパン粉を振りかけてまぶす。その状態で皿に載せ、オーブンで7分くらい焼く(レンジではダメ)。
 ソースはバターソース。オリーブオイルでタマネギのみじんを炒め、そこにバターのかたまりを入れて溶かし、白ワインで伸ばして、コンソメの素、塩、コショウで味付けをする。パセリのみじんなどを加えてもいい。
 これはオススメできる。とても美味しい。白身のあっさり加減にチーズとバターの風味がマッチして、更にパン粉のパリパリ感がいい。

 というわけで、今日のサンデー料理は、2勝1大敗となった。モミジさえ上手くいっていれば完勝だったのに、得失点差でマイナスになってしまった感じだ。それ以前に洋食2品との組み合わせが悪いだろう、という反省も残った。やっぱり料理の系統は揃えたいところだ。KAT-TUNの中にえなり君が入ったらおかしいものな。
 ひとつのアイディアとして、一枚絵料理というのを考えている。一枚の大皿の上に、様々な色の食材を使って一枚の絵を描く料理だ。美味しさを度外視すればそれなりのものができそうだけど、一応料理として成立させつつ絵も描くとなると難しいかもしれない。近いうちに一度挑戦してみたい。そのときこそ、私に5をくれた美術の先生たちが間違っていなかったことを証明してみせたい。そして、その先生たちのところへお礼参りに出向こう。これ、作ったんですけど、よかったら食べてください、と無理矢理料理を押しつけて走り去る私の背中を見て、先生たちは私を思い出すだろうか。

名古屋城の鬼門、龍泉寺に浮き沈みの歴史あり

神社仏閣(Shrines and temples)
龍泉寺正面




 名古屋市の東北のはずれ守山区に龍泉寺という寺がある。正式名称は、松洞山(しょうとうざん)大行院龍泉寺。
 ここはいくつかの異なった年代の歴史が重なり埋もれているので、説明すると少しややこしい。
 現在は、甚目寺観音荒子観音笠寺観音とともに尾張四観音のひとつとされ、節分会の賑わいが特に有名となっている。
 尾張四観音というのは、名古屋城を築城した際、家康がそれぞれの方角を守る守護神として定めたもので、龍泉寺は東北の鬼門に当たる。
 時代を遙かにさかのぼると、守山や春日井のこのあたりは古墳がたくさん残っていることから、早くから人が住んでいた場所だと分かっている。壬申の乱のときには、この地を支配していた尾張氏も関わったとされる。
 奈良時代後期の780年頃、最澄が熱田神宮にお参りしたとき、龍神のお告げを受けて龍がすむ多々羅池のほとりでお経を唱えると、龍が天に昇り、そこに馬頭観音が現れたので、これを本尊としてこの地に祀ったのがはじまりとされている。また、弘法大師も熱田神宮を訪れたとき受け取った八剣のうちの三剣を龍泉寺に納めたという伝説もある。そのために、昔から熱田の奥の院とも呼ばれてきた。
 平安時代になると、このあたり一体は天台宗が栄えるようになり、龍泉寺は春日井の密蔵院の末寺ということになる。密蔵院全盛期はものすごい広さと信者を誇っていたそうだけど、今はすたれ、本寺はぐぐっと規模が縮小されマイナーとなり、末寺も龍泉寺と石山寺しか残っていない。
 戦国時代は織田家の領地となる。最初ここに砦が作られ、1566年、信長の弟の信行(信勝とも)によって龍泉寺城が築城された(はっきりとした場所は分かってない)。城跡に寺が作られるというのが多い中、寺のあるところに城が築かれるというのはちょっと珍しい。しかし、信行が信長との後継者争いに敗れて清洲城で暗殺されると、龍泉寺城はすぐに廃城となってしまう。
 まだまだ龍泉寺の紆余曲折は終わらない。1584年の小牧長久手の戦いのとき、岡崎城急襲作戦に失敗した豊臣秀吉軍は、犬山城からこの龍泉寺城跡へと移ってくる。2キロ先の小幡城にいる徳川家康との戦いに備えるためだ。けど家康が夜の内に小牧山城へと退いてしまったため、秀吉軍はここを引き払い楽田城に再び移動した。その際に秀吉軍の池田勝入隊によって火をつけられ消失。
 1598年に天台宗の秀純大和尚が堂塔を再興。しかし、明治39年には放火され、今度は本堂などことごとくが燃え落ち、仁王門と多宝塔、鐘楼だけがなんとか残った。
 それでもめげなかったのが偉かった。悪いことの後にはいいことがある。焼け跡からなんと小判がざっくざく、という嘘のような本当の話。慶長小判100枚が出てきて、それを元手に信者の寄付を集めて本堂などが再建され、現在に至っている。
 このように龍泉寺というのは、歴史の波にもまれて激しい浮き沈みを経験した寺だったのだ。この土地には良くも悪くも強いパワーがあるということかもしれない。

 仁王門には重要文化財の仁王像があり、入って左には朱塗りの多宝塔が建っている。仁王門は、1602年頃に再建されたものとされている。多宝塔にかつてあった大日如来像は小牧長久手の合戦のときに燃えてしまったので、現在は釈迦如来像が置かれている。普段は非公開で、ときどき一般公開もある。
 その他、地蔵菩薩立像や円空一刀彫などを所蔵しているそうだ。
 右奥には、模擬天守と展望台、日本庭園などがある。天守は昭和39年(1964年)に建てられたもので、今は宝物館となっている。入場料は100円と安いのだけど、日曜祝日しか開いていないという狭き門。時間も9時から3時半までと、ピンポイントで狙っていかないと入れない。小学生以下からも30円を取る。普段めったに人が訪れないから、人件費を考えると開けてられないというのは分かるけど、もう少しなんとかならないだろうか。おかげで私はまだ一度も入ったことがない。
 入口の手書き板にはこう書かれている。
「百万ドルの絶景」
 お寺と百万ドルっていう取り合わせに心惹かれる。しかし、午後3時半ではどう考えても夜景にはならず、昼間の風景で百万ドルに値する絶景が世界でどれくらいあるだろうかと思うと、夢は夢のままそっとしておいた方がいいのかもしれない。



龍泉寺本堂

 本堂はなかなかいい感じだ。
 龍泉寺は寺なのに、説明書きには柏手を打ってくださいとある。理由はよく分からない。



龍泉寺裏からの夜景

 展望台からの百万ドルの絶景が見られなかったので、仁王門から左に行った墓地から夜景を眺めることにした。坂道を降りていく途中にこの光景が広がっている。
 すぐ手前はたくさんの墓石なので、のんきにデートしたり夜景写真を撮ったりするにはあまり向かないけど、少し眺めるくらいならいい場所だ。遠くに名古屋駅のタワー群を中心とした街灯りを見ることができる。
 竜泉寺街道を少し北へ行ったところにスーパー銭湯「竜泉寺の湯」がある。ここの露天風呂からきれいな夜景が見られるそうだから、それもコースに組み込むといいかもしれない。

 神社仏閣に歴史あり。自分が住む街の神社やお寺も、調べてみると様々な歴史を経て現在に続いていることを知る。お願い事をする場所としてだけでなく、縁を結ぶという意味で日常的にふらっと訪れてみると何かいいことがあるかもしれない。

【アクセス】
 ・ゆとりーとライン「小幡緑地」から徒歩約7分。
 ・無料駐車場 あり
 ・拝観時間 終日

 龍泉寺webサイト
 

多治見修道院はとっておきの大切な場所

教会(Church)
多治見修道院-1


 名古屋方面から国道19号線を東に向かって走り、上山町2交差点を左に曲がると、突然目の前に中世ヨーロッパが現出して驚く。おおっ! と小さく叫び声ももれるかもしれない。多治見修道院との初めての対面は、食パンをくわえて走りながら角を曲がったらいきなり美少女とぶつかったときのような思いがけない出会いだった。
 それまでキリスト教には一切無縁だった私に、教会の魅力と親しみやすさを教えてくれたのが多治見修道院だった。その存在を初めて知ったのが去年の2月。一度どんなところか遠巻きに見てみようとおそるおそる出向いていった私は、修道院の建物に圧倒されつつ、導かれるように大聖堂にふらふらと入り込んでしまった。そして、その空気に触れたとたん、私はかつて味わったことのない厳粛さに打ちのめされ、同時に心地よさに包み込まれてしばらく動けずに立ち尽くことになる。

 岐阜県多治見市にあるカトリック神言修道院は、1930年(昭和5年)に神言会の宣教師モール神父によって、修道生活と修道士育成のために建てられた。最初の30年は神言会の日本本部として機能していた伝統のあるところで、男子日本三大修道院のひとつとされている。ただし、残りふたつがどこかは定かでない? 調べても、多治見の修道院が三大修道院のひとつという情報しか出てこないのだ。北海道の聖ベネディクト女子修道会・札幌修道院と長崎のフランシスコ会・長崎修道院が日本三大修道院というのはあったけど、これが本当かどうかもよく分からない。
 神言会(しんげんかい)というのは、1875年にドイツのアーノルド・ヤンセンによって作られたカトリックの修道会で、日本には1907年に入ってきた。名古屋や秋田、長崎などで活動が行われ、名古屋の南山大学もこの系列になる。多治見修道院も南山大学のものという一面(全面的に?)もあるようだ。
 修道院の建物は、地上3階、地下1階の木造建築で、建坪1,000坪、ぶどう畑は3,000坪という、かなり広い敷地を持っている。建物を正面から見ると細長いかまぼこ型のように見えるけど、実際はコの字をしている。白い壁に赤い屋根、尖塔に鐘楼、アーチ窓と、どこをとっても本物感満点だ。
 裏手に回ると、南山の関係者が研修や合宿などに使うログハウスや、広い畑、修道士や神父の墓やマリア像などがあり、こちらの空間はより俗世との隔絶感がある。
 大聖堂内部は、白と青を基調とした涼やかな色合いで、窓にはステンドグラスが入り、壁には宗教画などが描かれている。基本的には撮影禁止なのだけど、人が少ないときに頼めば撮らせてくれるようだ。

 ここの空気感が、他の教会よりも更に濃密なのは、かつては修道院でもあった歴史とも無関係ではないだろう。ドイツなどからやって来た多くの修道士たちが、ここで日々祈りの生活していたそうだ。世間とは断絶した中での彼らの思いや息づかいが、今でもこの場所につなぎ止められているように感じる。
 ドイツ人宣教師たちによってもたらされたものは、キリスト教だけではなかった。何しろ酒好きの彼らだ。ただ、修道院でビールというわけもいかない。やはり修道院といえばワインだろう。そのワイン作りは今でも受け継がれ、修道院ワインとして地元ではちょっとした名物となっている。
 前の畑で作っているブドウから作った自家製ワインは、一般にも販売されていて、大聖堂入口を入ってすぐの売店で買うことができる。赤、白、ロゼとそれぞれ1,500円ほどのようだ。ただ、少人数の手作りのため、年間で5,000本ほどしか作れないというからなかなか貴重と言えるだろう。私は酒類は一切ダメなので買ったことも飲んだこともないのだけど、飲んだ人によると、やや渋めでこびない味らしい。秋にはワインフェスタが行われるようだ。



多治見修道院-2

 この多治見修道院は非常に素晴らしいところなのだけど、いくつか残念なところもある。たとえばこの写真に写ってるように、エアコンの室外機がむき出しになっていたり、建物正面に関係者の車がとまっていたりして中世の雰囲気に浸りきれなかったりする。進入禁止の黄色いやつや赤いコーンが無造作に置かれていて、それが写真に写ってしまう。作られた観光施設ではないから仕方がないところではあるのだけど、そのあたりの気遣いがもう少しあると、更にいい雰囲気になると思うのだけどどうだろう。

 月曜定休で、大聖堂に入れるのは、9時から16時まで。外は半開放状態なので、外観の写真を撮るだけなら夕焼けでも夜でもいい。無料駐車場もある。
 ログハウスは一般でも、1棟1泊10人で25,000円で借りられるようだ。大聖堂では結婚式もできる。
 日曜日には当然ミサも行われている。ただし、このときはさすがに一般の見学は無理だろう。
 日本でも屈指の大きなパイプオルガンがあるので、機会があれば一度は聴いてみたいと思う。



多治見修道院-3

 教会や修道院なんて一般人は近寄りがたい場所と思っている人も多いだろう。私も去年まではそう思い込んでいた。へたに入っていったら信者にされてしまうんじゃないかとさえ思っていたくらいだ。でも実際はまったくそんなことはなく、ひとりでふらりと訪れて、大聖堂の中にひょいっと入っていっても全然平気な場所だ。もちろん、誰かが話しかけてくるとかそんなこともない。神社やお寺と同じようなものという認識でいい。
 大聖堂や礼拝堂の空気感というのは、日常の生活空間とはまったく異質のもので、その場にいかなければ決して味わうことができないものだ。そしてそれは、驚くほど心地がいい。10分も座っていると、心が落ち着いてふっと気持ちが軽くなる。出てきた後は、自分が浄化されていることがはっきり分かるほどだ。
 この多治見修道院は、私のとっておきの大切な場所であり、自信を持っておすすめできる場所でもある。デートにもいいし、家族で行くのも悪くない。もちろん、ひとりでも大丈夫。
 機会があればぜひ一度訪れてみてください。
 

鳥の人のお仲間を増やしてカモ対決する夢を見る 2006年11月16日(木)

海/川/水辺(Sea/rive/pond)
カモのいる川風景

OLYMPUS E-1+SMC Takumar 300mm(f4), f5.6, 1/200s(絞り優先)



 渡り鳥になんで渡るのかと訊いても答えは返ってこないだろう。渡りに意味なんて必要なのかと逆に問い返されるかもしれない。渡り鳥が何故渡るのか? それは生きるために他ならない。命を繋ぐために、年に二度、自らの命をかけて彼らは渡る。別に旅が趣味というわけではない。
 11月も半ばになって、ようやく近所の川にカモたちが戻ってきた。今年の秋は暖かくて到来が遅れていたけど、どうやら順調に戻り始めたらしい。年が明ければすっかり風景の一部となって興味もなくなるカモたちも、この季節だけはありがたくもあり、愛おしくもある。よく帰ってきたね、おかえりなさいと優しい気持ちになる。3月くらいに見かけると、まだいたのか、早く帰りなよとさえ思うのに。
 まずはコガモとオナガガモたちが戻ってきていた。これからはどんどん数も種類も増えていくことだろう。紅葉の季節が終われば、カモや冬鳥たちが被写体の主役となる。日本の季節というのは本当に上手くできている。
 この冬の私の目標は、ひとりでも多く野鳥野郎と野鳥ガールを増やすことだ。ひとりぼっちの野鳥初心者として去年一年を過ごし、今年はお仲間を増やしたい。お仲間じゃなくても、少しでも野鳥に興味を持ってもらえたら嬉しく思う。野鳥の世界は、踏み込んでみるととても魅力的な世界だから。ただし、探鳥会とかに私を誘わないでください。私が目指しているのはそういうことではないので。

 今日はまったく野鳥のやの字も知らない人のために、野鳥の種類と渡りとはなんぞや、というところから書いてみたい。野鳥のやは野球の野という字を書きます(そこからかい!)。要するに自然に生きている鳥は基本的に野鳥となり、ハトもカラスもスズメも野鳥で、これらを捕まえることは法律で禁じられている。ハトの子供が落ちているのを見かけても、見て見ぬフリをしなくてはならない。とはいえ、それを見捨てるようでは人としてどうなんだと思う。私も子供の頃拾って育てて巣立ちさせたことがある。あれが法律違反だと言われてしまうと困る。なので、そのあたりは曖昧にしておきたい。
 鳥は春に生まれて秋に死ぬ昆虫みたいに思ってる人はいないだろうか。もちろんそんなことはない。大きく分けると、夏鳥、冬鳥、旅鳥、留鳥、漂鳥、迷鳥などとなる。
 カモなどは冬鳥で、春になるとシベリアなどの大陸に渡っていってあちらで子供を産んで育てて、寒い冬になると暖かい冬の日本へと渡ってくる。夏鳥は逆で、春に日本にやって来て子育てをして、寒くなる秋にはもっと暖かい南へと渡っていく。旅鳥は、渡りの途中で日本に立ち寄るやつらで、漂鳥は日本国内を渡る鳥をいう。迷鳥は本来来るはずのない日本に迷い込んでくるやつで、留鳥は一年中日本にいる鳥たちのことだ。
 季節によって見かける鳥の顔ぶれが違うのはこんなことが起こってるからなのだ。私もおととしまではまったく知らない世界だった。
 普通の人にもお馴染みのツバメなども、あんな小さな体で何千キロもの距離を飛んで渡りをする。冬になるとのんきな顔をして池や川で浮いてるカモたちも、実はみんな偉大なる旅人たちなのだ。パンの耳を投げてお世話をしてるような優越感に浸っている場合ではない。
 カモの多くは冬鳥で、留鳥のカルガモをのぞいて大部分はシベリアやカムチャツカ半島などから飛んでくる。長く厳しい旅だ。途中で脱落するものも出る。だから、冬の間しっかり食べて、体に脂肪をたくわえなくてはならない。見ていると常に何か水中をさぐってる彼らは、必ずしもいつも腹ぺこというわけではなく、必要に迫られて食べているという面もある。すごく食い意地が張っているとかそういうことでもない。
 カモとひとくちに言ってもその種類は多い。40種類ほどが日本で確認されていて、その中で毎年のようにやって来るのは20種類ほどだ。しかしこの区別が難しい。カモに限らず鳥の見分けが初心者にとって苦痛でもあり楽しみでもある。見分けられないともどかしく、分かるようになってくると楽しくなる。難しいのは、オスとメスで模様が違うのと、季節によって羽の色が変わったりするからということもある。ただ、ついうっかり日常会話の中でエクリプスなどという単語がポロリと出てしまうと鳥の人と分かってしまうので、そのへんは注意が必要だ。まだまだ世間の鳥の人に対する目は温かいとは言えないところがある。首から双眼鏡をさげて森を歩いてると小学生の群れが駆け寄ってきて、わー、お兄ちゃん、カッコいい双眼鏡持ってるね、ぼくにも鳥をのぞかせてよ、なんていう光景が展開されることはまずない。
 最初の第一歩としては、マガモ、コガモ、オナガガモあたりを覚えて、次のステップとして、ホシハジロ、キンクロハジロ、ハシビロガモあたりに進んでいけばいいと思う。トモエガモとヨシガモを遠くから肉眼で区別できるようになってしまったら、それはむしろ進みすぎかもしれない。私もついていけない。

 渡り鳥たちは、どうやって渡っていく場所を知るのだろう、ということは昔からいろんなことが言われてきた。太陽の位置で方角を知るのだとか、夜は北極星を見て決めるとか、風向きや地形、地磁気を感じるなどいろいろな説がある中、今のところ決定打はない。まだ誰も渡りのメカニズムを完全には解明できていない。
 多くの渡り鳥が去年過ごした同じ池や川に戻るというデータもある。漠然と日本列島を目指してきていたらそんなことにはならない。やはり彼らの中には何らかの確信があって飛んできているのだろう。違うところに着いてしまうのは、偶然なのか意識的なのか、そのへんもよく分からない。鳥にもいろいろな性格のやつがいるだろうから、A型カモとO型カモとでは行動が違ってくるということもあるのだろうか。
 本能と言ってしまえばそれまでだけど、これは本当に不思議だ。思考によるものなのか、記憶によるものなのか、もっと深いところで何かが見えているのだろうか。少し関係ない話として、近年伝書鳩が巣に帰る確率が極端に落ちているという話を「トリビア」でやっていた。あれは携帯電話などの電磁波の影響が大きいのではないかということだった。だとしたら、渡り鳥たちもそんな影響を受けている可能性はある。やはり目から入ってくる情報ではなく、体でダイレクトに感じる波動のようなものを鳥たちは受信してるのではないだろうかと私は思う。それは親から子へと、遺伝子を通じて伝えられているのかもしれない。

夕暮れの中の姉妹

 ピンクの夕焼けの中を駆ける姉妹。私の隠し子、ではない。ちょっといい風景だったので撮らせてもらった。大きくなっても、こまどり姉妹のように仲良くするんだよ。決して叶姉妹やヒルトン姉妹のようになっちゃいけないよ。名古屋だから、浅田舞・真央姉妹を目指すのもいいかもしれない。更に目標は高く、きんさんぎんさんだ。
 私はといえば、ギターならぬカメラを持った渡り鳥となり、いつの日か、マイトガイと呼ばれたい。そして、あなたはエースのジョーだ。カメラを持って川原で決闘しよう。カモ対決。どちらが連写でカモをたくさんブレずに撮れるか。ヒロイン由紀役の浅丘ルリ子も募集してます。
 けど、そんな三人組ってどうなんだ? という素朴な疑問がわき起こる。大きなカメラを持ってはしゃぎながら川のカモを撮ってる男ふたりと女ひとり。対決はなるべくひと目のないところで行った方がよさそうだ。

近場で修学旅行気分が味わえる第2弾は永保寺 2006年11月15日(水)

神社仏閣(Shrines and temples)
虎渓山永保寺1

OLYMPUS E-1+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f4.5, 1/20s(絞り優先)



 一宮の妙興寺に続いて、近場で修学旅行気分を味わおうシリーズ第2弾。今日は岐阜県多治見市の永保寺(えいほうじ)を紹介したいと思う。
 去年初めて訪れたときは、先に行った多治見修道院の圧倒的な厳粛さに打ちのめされた後だったので、やや印象が薄いものになってしまったのだけど、今回はこちらを目当てに訪ねてみた。そしてやっぱり国宝が持つ強烈なオーラに無口になってしまう私なのだった。いや、ひとりなのでもともと無口には違いないのだけど。道を歩きながら独り言をつぶやく人にだけはなりたくないと日頃から思っているので。
 権威や肩書きには無頓着で、誰に対してもへぇこらすることはない私も、国宝と聞いたとたんに平民に成り下がる。だって国の宝ですぜ、ダンナ、と何故か岡っ引きのような口調になってしまう。顔の前で手をこすり合わせて、ありがてぇことです、これで冥土のみやげができました、と拝み出しそうな勢いを自分自身に感じる。もちろん、人前でそんなことはしないけど。国宝に極端に弱いこの体質は、前世で何かあったのだろうか。重要文化財に対しては何ともならないのに。
 そんな国宝コンプレックスの私がお送りする永保寺紹介は、やや賛美過剰になるかもしれない。

 臨済宗南禅寺派虎渓山永保寺。鎌倉時代の末期(1313年)、土岐氏の招きを受けた夢窓国師(夢窓疎石)と弟子たちがこの地を訪れ、観音堂を建てたことが永保寺の始まりとされている。夢窓疎石は伊勢生まれの禅僧であり庭園作りの名人としても有名な人物だ。京都の天龍寺や鎌倉の瑞泉寺など、日本全国にたくさんの庭園を残している。
 この地をたいそう気に入った夢窓疎石は、3年ほど滞在して観音堂や1万3,000坪の庭園を作り上げた。夢窓40歳のときだ。池泉舟遊式禅境の庭園は、臥竜池(がりょうち)や断崖(梵音巌)など自然の地形を生かしつつ、観音堂や六角堂、切妻屋根の橋殿がある無際橋などが巧みに配置されている。この景観は、鎌倉時代からほとんど変わってないのではないだろうか。
 虎渓山という山号は、中国江西省九江廬山の虎渓に似ているところから夢窓国師が名づけたとされる。永保寺は長瀬山のふもとにあり、すぐ横には土岐川が流れていて、なるほどちょっと中国っぽい。ただ、このあたりは1億年ほど前まで海だったようで、そのときの岩も庭園の中に残っていたりする。

紅葉の間から観音堂

 今回、急に永保寺に行こうと思い立ったのは、ネットでこの構図の写真を見たからだった。うわー、私もここから撮りてぇ、と思ったら居ても立ってもいられなくなった。完全に構図、パクリました。おまえはマッキーか、と自分で突っ込んでおこう。松本零士も怒っているぞ。ねえ、メーテル。
 しかしこれは、いいところを見つけたなぁ、ネットの見知らぬ人。どうもありがとう。そして、これから永保寺を訪れる人は、ぜひこの場所から写真を撮って欲しい。みんなの構図にすればパクリ疑惑も払拭できるはず。
 紅葉に関してはまだ早い。あと一週間くらい成熟させるとちょうどいいんじゃないかと思う。ここには名物となっている樹齢680年の大イチョウもあって、それの色づき具合もまだ不完全だったから、もしかしたらあと2週間くらい待った方がいいかもしれない。紅葉のピーク時はそれなりの人出になりそうだけど。

 国宝の観音堂は、鎌倉末期の禅宗様式と中国の建築が融合したような少し変わった姿をしている。四方に跳ね上がった屋根が特徴で、このあたりは平安時代の様式に近い。重厚さと華麗さを併せ持っていて、これが実に美しいフォルムをしているのだ。建物が放っているオーラも、こいつ、ただものじゃないなと思わせる。桧皮葺も渋くしていい。
 年に一度くらいは一般開放もあるのだろうけど、普段は入ることも近づくこともできない。それがちょっと残念なところだ。
 ここから左に行ったところに、もうひとつの国宝、開山堂がある。これは見た目が地味でそれほどすごいと感じないのだけど、足利尊氏が建立したもので、のちの神社建築の原型となった権現造りとなっている。こちらは遠くに柵があってまったく近づけない。昔は普通に開放されていたらしいけど、近年は年に一度しか公開してないようだ。
 祠堂の中には夢窓国師と仏徳禅師の塑像や宝筺印塔などが安置されてるそうだ。
 本堂はどこかといえば、実はあろう事か2003年に火事で全焼してしまったのだった。これは地元では大きなニュースとなり、地元民は大いに嘆いた。3年経った今も、まだ再建工事中で、本来の永保寺の静けさは戻ってない。国宝が燃えなかったのは幸いだった。

夕景に沈む永保寺

 山に囲まれた永保寺の日暮れは早い。平地よりも30分くらい早く暗くなってしまう。位置の関係で、夕陽が差さないのが残念だ。夕焼けに染まる永保寺の庭園を見ることができたらさそがしきれいだったろうに。
 夕方は5時に閉まるので注意。その分朝は5時から開いている。禅寺の朝は超早い。
 駐車場の場所を私はよく分かってない。県外からバスでやって来る観光客がいるくらいだから、それなりに広い場所があるのだろう。私は多治見修道院から山道を登っていった、虎渓公園の駐車場にとめてそこから歩いている。しかしこの道、けっこうな坂道で日頃運動不足の人や年輩の人にはちょっときついかもしれない。行きは急な下り坂で、帰りは厳しい登り。距離的には下りでゆっくり歩いて5分くらい、登りで10分くらいだろうか。普段歩き慣れている私は、跳ねるように3分で下り、駆けるように5分で登ったけど。
 なにはともあれ、永保寺は一見の価値ありだ。特に愛知、岐阜県民にオススメしたい。地元にこんな立派なものがあることを知ればきっと嬉しくなるだろう。京都や奈良に行かなくても近くにこんなところもある。
 コースとしては、虎渓山永保寺、多治見修道院、春日井の内々神社(うつつじんじゃ)がこのあたりの名所3点セットとなる。残り2つにつていは、あらためて紹介したい。
 というわけで、近場で修学旅行気分を味わおうシリーズ第3弾でまたお会いしましょう。さよなら三角また来て四角。

300年の歴史と物語に思いを馳せながらいただいた赤福 2006年11月14日(火)

食べ物(Food)
伊勢の名物赤福

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/80s(絞り優先)



 赤福を目にしたとたん頭の中で、♪伊勢~の名物~ 赤福持ちはええゃないか♪というCM曲が流れ出す私は、三重県生まれの名古屋育ち。子供の頃からさんざん聞かされて、もはや忘れることが不可能なほどこびりついてしまっている。
 三重県生まれとして赤福の存在というのはちょっと心強い。全国に誇れるみやげがあるという安心感のようなものがある。逆に言うと、これしかないので迷いようがない。名古屋だと、ういろうは人によって好き嫌いが分かれるし、それをはずすと全国区のみやげ物というは意外と少なくて困ることがある。食べ物は多くても持ち帰ったり贈ったりするものというとパッと出てこない。「なごやん」あたりになるのだろうか。個人的には青柳の「かえるまんじゅう」が好きだ。
 赤福ファンは全国に多い。どこででも買えるわけではないというのも、贈って喜ばれる理由だろう。昔は伊勢にまで行かないと買えなかった。今ではかなりあちこちで買えるようになったとはいうものの、東は名古屋まで、西は神戸までで、それより東西の地区では買うことができない。中部地区の人間は、こんなものどこでも買えると思っているかもしれないけど、そうじゃないのだ。
 けど、ホントにあちこちで目にするようになった。JR線の駅、近鉄の駅、百貨店、空港、サービスエリアでさえ売っている。東京でも売ればもっと売上げは伸びるに違いないけど、それをしないのは正解だ。東京で買えるようになってしまえば、おみやげものとしての価値を失う。
 年間の売上げは、104億円。これは全国のおみやげでダントツの1位だ。2位の北海道・六花亭の「マルセイユバターサンド」でさえ75億円なのだから。その後は「白い恋人」の70億が続く。三重県のようなローカル地区のおみやげとしてこれは立派だ。やはりお伊勢さんの威光というものも多分にあるのだろう。

 創業は江戸時代の1707年。遠く全国からお伊勢参りに訪れる参拝客のために、伊勢神宮内宮の五十鈴川(いすずがわ)のほとりで餅屋を開いたのが赤福の始まりだ。
 当初は、みやげ物というよりもファーストフード的な存在だったのだろう。すぐに食べられて腹持ちがよく、疲れた体に甘いものは染みたに違いない。テイクアウトして帰り道で食べることもできる。評判を聞きつけた旅人で賑わうようになり、まわりにはそれにあやかってたくさんの餅屋ができたという。
 時は流れて戦時中。赤福の原材料である小豆、もち米、砂糖はすべて統制品指定になり、まったく作れなくなってしまう。戦争って本当に不便なものだ。思いがけないところでいろんなしわ寄せがある。ようやく戦争が終わったものの、相変わらず材料は揃わない。出回っているのは闇市だけだ。そのとき、赤福はぐっとこらえた。江戸時代から続く老舗の意地もあっただろうし、お伊勢さんで商売させていただいてるという思いもあったはずだ。正装堂々と商売ができるようになるまでは赤福作りが再開されることはなかった。
 ようやく原料が入手できるようになったのは、昭和24年のことだった。その頃までには類似の店が14軒も出ていたという。しかし、そこは老舗の力。再び元祖お伊勢名物としての地位を取り戻すのに時間はかからなかった。
 会社としての設立は昭和29年(1954年)。赤福というのは、なかなか志のある立派な会社で、商売気だけに走ってないあたりに好感が持てる。
 平成5年。江戸時代の伊勢の街並みを再現したオープンセット「おかげ横丁」も、当初は儲け目的ではなかったという。シャレで作るには費用が莫大すぎる。しかし、レジャーランドのようにしなかったのがよかったのだろう、これは大成功だった。今では年間250万人以上が訪れるそうだ。なにしろこれが出来る前の昭和50年代、このあたりはかなり寂れていたという話を聞いた。ある日、店の店員があまりにもヒマなんで店の前を通る人数を数えてみたら10人だった、というエピソードがあるほどだ。
 おかげ横丁というのは、江戸時代、お伊勢参りのことを「おかげ参り」と呼んだところから来ている。当時の日本国民の2割が伊勢神宮を訪れたというからすごいことだ。昔は交通機関もないから歩いて行った2割ということだから。

 赤福の名前は「赤心慶福(せきしんけいふく)」から来ている。まごころ(赤心)を尽くすことで素直に人の幸せを喜ぶ(慶福)ことができる、という意味だ。赤福という文字も、あかふくという響きも、なんとなくめでたいような幸福感があるいい名前だ。ちなみに、CMのキャラクターは赤太郎という。アカ太郎って、2週間くらい風呂に入ってないやつみたいだな。
 使っている材料は、嘘はホントか(本当だと思うけど)、もち米と小豆と砂糖の3つだけだという。もちろん材料は厳選している。小豆は北海道十勝平野の音更(おとふけ)産のものを、もち米は北海道名寄(なよろ)産と佐賀県のものを、水は五十鈴川の地下水をそれぞれ使用しているそうだ。砂糖は昔、安価な黒砂糖を使っていて、明治44年に明治天皇の昭憲皇太后が赤福が食べたいと言ったとき初めて使って、それ以来白砂糖になったんだとか。
 しかし、原材料が分かっているから自分の家でも作れるかといえば、赤福はそう甘いものではない。作り方自体は単純だ。もち米と砂糖と水を混ぜて蒸して、小豆を水で炊いて砂糖を加えてつぶすだけだ。なのだけど、作った人によると、どうにも餅のやわらかさも餡のなめらかさも再現できないんだそうだ。単純なものだけに絶妙のさじ加減が必要なのだろう。私も機会があったら一度作ってみたいと思う。

 お伊勢さんでは昔から毎月ついたちの日に、神宮を参拝する風習があり(朔日参り)、その参拝者のためについたち限定の「朔日餅(ついたちもち)」が売り出される。赤福本店でも1978年に売り出すようになり、今ではすっかり名物として定着している(四日市市、名古屋市、大阪市、神戸市の百貨店内の直営店でも予約販売されている)。
 みんなこの日は気合いがすごい。朝っぱらの4時45分からの発売に長蛇の列を作る。最近はあまりにも過熱してしまったので整理券を3時30分から配るようになったのだけど、今度はその整理券をもらうのに行列ができてしまう。次はその整理券をもらうための整理券が必要なんじゃないのか。
 2月・立春大吉餅、3月・よもぎ餅、4月・さくら餅、5月・かしわ餅、6月・麦て餅、7月・竹流し、8月・八朔粟餅、9月・萩の餅、10月・栗餅、11月・えびす餅、12月・雪餅、(1月はなし)。こうして見てみると確かに魅惑的なラインナップだ。とりあえず全種類食べるために、おかげ横丁で1年間働いてみようかなんて考えてしまいがちだ。いや、それより名古屋で予約して買えばいいのでは?
 これ以外にも、夏期限定の「あかふく氷」と、冬期限定の「あかふくぜんざい」は、本店へ行かないと食べることができない。このふたつもぜひ食べてみたいところだ。
 赤福はなんといっても、おかげ横丁の本店で、五十鈴川の流れを見ながらできたてを食べるのが一番美味しい。気分の問題だけではなく、赤福は基本的に作った当日かその次の日には食べ切らなくてはいけなくて、それはできたとたんに餅が固くなり始めるからだ。なので、できたてホヤホヤに勝るものはない。ほうじ茶と3個セットで280円は良心的だ。
 日頃何気なくもらったり食べたりしている赤福にはこんなドラマや歴史があったのだ。好物の欄に堂々と「赤福餅」と書いてしまう香里奈でも、このことは知らなかっただろう。一度にひと箱でも食べられるという香里奈さん、大丈夫だろうかと心配になるのを通り越して、それは人としてどうなんだと思う。それが「私の生きる道」と言われれば返す言葉はないのだけど。東京暮らしでしばらく赤福を食べてないかもしれない香里奈さんに、ぜひ赤福を送ってあげたい。そのときはやっぱり、20個入り1,700円の一番大きいやつにしないといけないんだろうな。

羊をめぐる冒険へと旅立った私は羊迷路に迷い込む 2006年11月13日(月)

動物(Animal)
ヒツジをめぐる考察

OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f5.6, 1/320s(絞り優先)



 羊。この文字や呼び名や響きから何を連想するかは、人それぞれなかり違いがあるんじゃないだろうか。日本人にとっては近くて遠い、遠くて近い羊という動物は、実に多様性を持った生き物だ。羊の姿を見て、わー、暖かそう、と思うのが普通の人。わー、美味しそうと思うのが食いしん坊。北海道の人は、なまら暖か旨そうだべ、とでも思うのだろうか。
 羊にまつわるものを思いつくままに挙げていくと、とりとめがない。ウール、マトン、ラム、ジンギスカン、迷える子羊、牧羊犬、牡羊座、未年、カウント・シープ、「メリーさんのヒツジ」、『羊たちの沈黙』、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』、羊の皮をかぶったオオカミ、ひつじ雲、羊皮紙。
 羊が入った漢字もたくさんある。大きな羊で美しい。羊に君で群れ。羊と食べるで養う。洋、鮮、犠、遅、善などなど。
 羊羹(ようかん)は何故羊かというと、中国では羊の肉の汁物を羊羹と呼んでいて、それが鎌倉時代に禅僧によって日本に持ち込まれたとき、肉食はできないので代わりに小豆などで代用した。それをそのまま羊羹と呼んで、のちにそれが甘みをつけた和菓子となっていったのだった。羊羹が羊を使った料理として紹介されていたら、日本での羊羹の今の地位はなかっただろう。
 ちょっとした雑学としては、テニスのガットはかつて羊の腸から作られていた、というのがある。ガット(gut)はそのまま腸という意味だ。現在でもナチュラルガットを扱っている店が日本にあるのかどうか分からないけど、性能はかなりいいらしい。一般に使われているのは様々な人工製品によって作られているからストリングス(string)と言うべきところが、今でもテニスをする人の多くはガットという言葉を使っているのは面白い。クラシックギターでガットギターというのも昔あったそうだ。それから忘れちゃいけないウィンナーの皮、あれも羊の腸だ。
 ちなみに、眠れないとき羊の数を数えろというけど、あれは日本人はダメだ。count sheepは英語圏の文化で、眠るsleepと羊のsheepをかけたシャレのようなものだから。それと、シープという発音の呼吸が眠りにつくのに適しているとも言われている。ワン・シープ、ツー・シープ、スリー・シープ、というように、リズムがいい。日本語のヒツジがいっぴき、ヒツジがにひき、なんて口に出して言ってみるとすごくリズムが悪い。だから、眠れないときは英語で羊の数を数えなければならない。
 私たちにとって実はこんなにも身近な羊たち。さあ、そんな羊をめぐる冒険の旅へ出よう。って、前置き、長っ! ここまではまだイントロだったのか!?

 羊という動物について、私たちは意外と知らない。牛、馬、豚、ニワトリなどと比べて目にする機会が断然少ないというのもあるだろう。日本のテレビに羊はめったに出てこないし、動物園に羊っていただろうか。ほとんど印象にない。たぶん、いるところにはいるのだろうけど。個人宅で羊を飼ってるところも最近ではめっきり少なくなった。昭和20年代までは日本の農家ではかなり飼っていたそうだ。うちの父親も田舎の家で羊とヤギを飼っていたと言っていた。私が見たのは愛知牧場だった。最近では牧場あたりまで行かないと羊を見ることができないのかもしれない。
 世界ではどうかというと、羊というのはかなりポピュラーな家畜として確固とした地位を築いている。オーストラリア、ニュージーランド、南アメリカなどを中心に、10億頭以上が飼育されているというからすごい数だ。世界中の羊を日本に連れてきたら、列島に乗り切らない恐れがある。中国人だって13億人しかいないのだから、羊は中国人並みに世界に満ちあふれていると言えるのだ。
 人類と羊のつき合いも長い。最初に野生の羊を家畜化したのは、今から1万1,000年ほど前のイスラエルだったと言われている。人類初の家畜は羊と言えるかもしれない。野生の羊は毛がそんなにふさふさなわけではないため、当初は肉や毛皮などが目的だったのだろう。
 それにしても羊は人間にとっておあつらえ向きだった。性格はおとなしく、一頭のリーダーを中心に群れで行動する習性があるから、人間はその一頭のリーダーを手なずけてしまえば自分がリーダーにとって変わることができた。そうなると、人間ひとりで数百頭の羊の群れをあやつることができる。それが羊飼いであり、牧羊犬というわけだ。
 以来、羊は人間にとって都合がいいように様々な品種改良がなされてきた。現在でも300種類以上(800種類という話もある)、人類史の中では3,000種類以上の羊が生み出されたと言われている。羊の種類などほとんど知らないのが普通だけど、メリノ種あたりはちょっと有名だ。その他、サウスダウン種、リンカーン種、レスター種、ロムニー種、コリデール種、サウスダウン種、サウスサフォーク種、ジャコブ種などがある。
 世界の一部では今でも野生の羊がいる。これはちょっと意外だった。野生の羊というのはイメージにない。アメリカ北部やカナダ北部、アラスカ、アフガニスタンやパキスタンあたりにいるそうだ。

 動物としての羊は、偶数の蹄(ひづめ)を持つ偶蹄類で、所属としては牛の仲間になる。
 大きさは種類によって様々で、小さいもので高さ40センチくらいから大きなもので80センチくらいまで。体重は30キロないものもいれば150キロ以上になるものもいる。
 4室に分かれた胃をもつ反芻動物で、角も2本持っている。メスの角は短く、オスのは大きくてねじれている。
 基本的には草しか食べない。その点は木の実などを食べる雑食性のヤギとの違いだ。しっぽも本当はある。
 寿命は20年くらいだそうだ。

 もともと日本にはいなかった羊が初めて日本にやって来たのは、599年で、百済から推古天皇に2頭贈られたのが始まりだった。ただ当時は単なる珍獣扱いで、それから長きにわたって羊は日本では定着しなかった。中国から入ってきた十二支にも羊(未)はいるのに、ほとんどの日本人にとって羊というのは見たことも聞いたことない幻の生き物だった。実在してると知っていた人の方が少なかったかもしれない。それゆえ、羊に関することわざや昔話などはほとんどない。羊を詠った歌なども私は知らない。
 毛織物のために羊を本格的に導入したのは、明治になってからだった。更に本格的に飼育されるようになるのは、昭和に入ってからだ。特に戦前、防寒具などの原料にするために本格的に導入された。世界と羊のつき合いは古くても、日本人と羊のつき合いはかなり浅いものだったのだ。
 現在の日本で羊毛のためにたくさんの羊を飼っている農家はどれくらいいるのだろう。よく分からないものの、やはり多くは肉用なのだろう。北海道では何かっていうとジンギスカンだし、近年羊の肉は健康にいいと言われるようになって消費も増えてるようだ。それでも自給率は10パーセントあるかないといったところらしい。
 羊肉のラムとマトンの区別は、簡単なようでちょっとややこしい。一般的に1歳未満の子供がラムで、大人がマトンとなるのだけど、マトンは2歳以上の羊のことだ。じゃあ1歳から2歳のことは何と呼ぶかというと、ホゲットというらしい。ただ、日本ではこの名前は使われず、1歳以上はマトン扱いになるとか。その他、もっと細かく月齢でホットハウス、スプリング、イヤリングなどと分けることもあるらしい。更に、国によってラムとマトンの区別の仕方が違っていたりして混乱しがちだ。でも、そこまで羊の区別を知っていたからといって、この先の人生のどこかで役に立つシーンがあるとも思えない。ラム肉を注文して、これはきっとスプリングだね、などと彼女の前でカッコつけても、彼女はポカンとするだけだろう。
 ジンギスカンで使うマトンは少し匂いにクセがあるというから、私は食べられるかどうか。まだ一度も食べたことがないのでよく分からない。北海道へ行ったとき、食べてみよう。

 以上が羊をめぐる冒険の始まりでした。近くて遠かった羊が少しでも近づいたのであれば、それは幸せなこと。それぞれの中で、羊の旅をこれからを続けていってください。私の中では今、レミオロメンの3月9日が流れている。
 ♪青い空は凛と澄んで
  羊雲は静かに揺れる♪
 村上春樹が生み出した羊男はどこへ行ってしまったのだろう。迷える子羊はいつまで迷えば探しに来てくれるのか。クローン羊のドリーはどうなったんだろう。いろんな羊が浮かんでは消え、消えては浮かび、どれを追えばいいのか分からなくなった羊飼いのようになってしまったのだった。そして、道に迷った私は、羊神社へとたどり着くこととなる。
(つづく)

ソース作りサンデー料理は私に収穫と教訓を残した 2006年11月12日(日)

料理(Cooking)
ソースありきのサンデー料理

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/30s(絞り優先)



 今日のサンデー料理のコンセプトは、ソース作り、だった。料理の味はソースで決まる。特に外国料理の場合はそうだ。逆に言えば、和食というのは食材で味が決まる世界でも非常に珍しい料理と言えるだろう。ソースといっても、コーミスースやキッコーマンのしょう油を一から作ろうというのではない。しょう油を最初から作ろうと思ったら、大豆と小麦で麹を作って3年もかかってしまうから、それは無理な話だ。そうではなく、洋食に合うようなソースをいろいろ作ってみようというのが今日のテーマだった。
 作ったのは写真の6種類。失敗あり、成功あり、まずまずもあり。というか、多すぎるだろう、ソース。どんだけソースかけるつもりなんだ、私。

 洋風ソースの基本はマヨネーズだ。渡辺徹もそれには異存がないだろう。というわけで、今回はマヨネーズ作りから始まった。
 マヨネーズって作れるの? と思った人もいるかもしれない。これが作れるんですよ、奥さん。しょう油のように3年もかからず、15分くらいで簡単に作れるのだなぁ。
 まず卵黄をひとつ、塩小さじ1、コショウ少々、マスタード小さじ1をよくかき混ぜる。かき混ぜ器があれば楽だけど、ここはひとつ手でかき混ぜたい。手の筋トレも兼ねて(兼ねるなよ)。お前はキントレスキーか、というツッコミをよそに、酢大さじ1を加えて、もっと混ぜる。そこへ、カップ1のサラダ油を少しずつ加えながら更に激しく混ぜていく。こんなに油を混ぜていいものだろうかと不安になりつつ、分量は間違ってない。マヨネーズを自分で作ると、いかにマヨネーズが体に悪いかということがよく分かる。手が疲れて動かなくなってきたあたりで、なんだかとろみがついてきていることに気づく。卵黄に含まれているレシチンが、酢と油を合体させるんだそうだ。最後に、大さじ1の酢をお玉などでひと煮立たせして、それを加えて混ぜ込めば出来上がりだ。
 さっそくひと口なめてみると、そこにいたのは……お前は誰だよ! 私の知ってるマヨネーズはこんな味じゃありませんよ。なんだかマヨネーズのニセモノのような味のマヨネーズもどきが、そこにいた。戦後の食糧難の時代にマヨネーズの代用品として給食に出てきそうな味だ(そんな時代に生まれてないけど)。何かが足りない。決定的に何かが。キューピーはこれに何を加えているんだろう。
 マヨネーズというのは、スペイン領だったミノルカ島の首府マオンで発明されたものだそうだ。ということは、これこそが原始マヨネーズと言えるのかもしれない。何にしても、これでベースはできたので、本格的にソース作りに入っていくことにする。

 まずは今回一番のヒットだった、コーンチーズマヨネーズ・ソースを紹介しよう。
 ベースのマヨネーズに缶のコーンをドバッと入れて、牛乳と白ワインで味をのばしつつ、チーズを砕いて入れて温めていく。右から2番目のやつがそうだ。これはとても美味しかった。コーンの甘みとチーズがよく合って、なんなら単独でスープとしても飲めそうだ。
 右上のは、カレーホワイトクリーム。
 小麦粉とバターを温めつつそこに牛乳を加えてホワイトクリームを作る。塩、コショウで味を付け、カレー粉をたっぷり入れたら完成だ。安心して食べられる味ではあるけど、あとになって思えば、もうひと工夫欲しかった。
 真ん中の赤いのはミートソース。
 タマネギのみじんをオリーブオイルで炒めて、トマト1個を湯で皮むきしたあと、種を取って粗みじんにしてタマネギに混ぜる。赤ワイン、トマトジュースを加え、コンソメの素、塩、コショウ、ケチャップで味付けしたら、じっくり煮込んでいく。パスタをするときなどでも、ミートソースは安くて簡単に作れるから、市販のものを買うのはもったいない。
 その左は、グリーンになりきらなかったグリーンソース。
 ベースのマヨネーズに、すりおろしたタマネギ、みじんにしたパセリと、すりおろした枝豆を混ぜてある。飲むヨーグルト、牛乳などでまろやかにしているので、野菜などのドレッシングとしても使えそうだ。
 左上のは、卵黄タルタルソース。
 マヨネーズに、炒めたタマネギのみじん、ゆで卵のみじん、卵黄、パセリ、塩、コショウ、牛乳、白ワインなどが入っている。これはフライなどにいいと思う。

 という6種類のソース作りにかかった総制作時間は2時間余り。やり遂げたという満足感と心地よい疲れが私を包む。しかし、まだ終わったわけではない。ソースが出来ただけだから。おかずはどうした、おかずは? しまった! 肝心のおかずのことまで頭が回らなかった! ソースのことしか考えてなくて、おかずのことをすっかり忘れていた。
 家にあるものをかき集めて、簡単に焼いたり、煮たりして、なんとか頭数だけ揃える。豚肉、白身のパン粉焼き、エリンギ、マイタケ、豆腐、エビ、ブロッコリー、アスパラ。ちょっと少ないかと思ったけど、どれにもたっぷりのソースをかけて食べたので、これで満腹だった。そもそも、ソース作りの段階で味見をしまくって、もう半分おなか一杯だったというのもある。
 しかし、これだけソースがあると、どれに何をつけていいものやら迷うな。というよりも、おかずとソースのマッチングがかなり悪いということに途中で気づいた。全然おかずのことを考えてなかったので、組み合わせはまるでなっちゃいないのだ。つけて食べて、わー、間違えたー、ということが3度ほどあった。ソースとおかずの組み合わせってやっぱり大事なのね、と気づく。でも、ソース作り自体は、とても楽しいものだった。

ソース作り本

 今回のソース作りで参考にしたのがこの本、『ドレッシング・ソース・たれ』(堀江ひろ子監修)だった。この本を見ると、世界には実にたくさんのソースが存在しているものなんだなとあらためて思う。去年まではソースといえば、しょう油とソースとマヨネーズとケチャップくらいしか頭になかった。悩むといっても、このコロッケにはソースをかけるべきかしょう油をかけるべきか、もしかしてケチャップもいけるかも、という程度のものだった。今の私は、瞬時に頭の中のソースレシピ帳がパラパラパラっとめくられて、10種類くらいから何を選択しようかというほどの生意気盛り。人は変われるもんなんだと、こんなところでも実感するのだった。
 今日の収穫は、ソースの世界は奥が深く果てしない広がりがあることを知ったことだ。そして、今日の教訓は、ソースは一度にたくさん作っても食べきれねぇし、使い切れねぇ! ということだった。明日からソースをなめて暮らさないといけないかもしれない。現在、私の家には売るほどソースがあるので、各自お好みのおかずを持参して遊びに来てください。今ならソースつけ放題です。

トラベルトレーナーから純と蛍の靴を経てガラスの靴へ 2006年11月11日(土)

物(Objet)
トラベルトレーナー2足

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/100s(絞り優先)



 出会いはおととしのオークション。それまでジョニー・スウェード野郎だった私は、持っている靴といえばスウェードのプレーントゥ、スウェードのローファー、スウェードモカシンくらいしかなく、散策に履いていく靴がなかった。一度モカシンで山に行ってエライ目に遭い、歩きのためのウォーキングシューズが必要不可欠だということを痛感することとなった。
 漠然とナイキあたりで何かないかと探していたけど、これというものが見つからない。私は行動の大部分が車と歩きで、車を運転するときはドライビングシューズ(底が薄いぺったんこの靴)に履き替えるため、ヒモ靴は最初から頭になった。車に乗り降りするたびにいちいちヒモを結んだり解いたりなんてしてられない。とにかく履きやすいことと脱ぎやすいことが絶対的に必要な条件としてあった。
 そのときふと目についたリーボックのトラベルトレーナー。これいいかもしれない。とりあえず安いから(確か3,000円くらいだった)他にいいのが見つかるまでつなぎで履けばいいやと軽い気持ちで買ってみた。あれから2年。これまで出かけた散策地のほとんどすべてはこれを履いていっている。まさかこんなに自分に合う靴だとは思いもしなかった。ハードな山歩き以外なら、森歩きから街までこなすオールラウンダーのこいつは、携帯用の域を軽々と超えている。
 右の茶色いのが最初に買った初代タイプで、もう4、5年前のモデルになるんだろうか。けっこう流行ったから、見たことがある人や実際に買ったという人もいると思う。履き心地のよさは、普通のスニーカーをハードのコンタクトレンズとするなら、これはソフトコンタクトレンズのようだと言えばいいだろう。とにかく軽くて違和感がない。重さは120gほどだろう。デザインもジーンズから多少かっちりした服装にも合う幅の広さを持っている。
 もともとは名前のTRAVEL TRAINERでも分かるように、旅行用の携帯シューズとして開発されたものだった。くるりと折り曲げて丸めて持ち運ぶことが出来る。そういう用途で買った人も多いだろうけど、日常的にも充分活躍できる靴だから、眠らせておくのはもったいない。

 あまりにも気に入って2年も履いたので、そろそろ靴底も減ってくたびれてきた。そこで今回買い足したのが左のトラベルトレーナー2だ。確か2003年発売のモデルだったと思う。2というからにはいろいろ進歩もしていて、やや激しいスポーツにも対応できるような靴底になっているのが大きな変化だ。
 少し履いてみた感じは、慣れのせいもあるだろうけど初代の方が履き心地はいい。特に素足で履いたときの素材感は初代の方が私には合っている。ただ、やっぱりこれはいい。足にピタリと吸い付くようなフィット感は変わらない。同じスリッポンでも足首近くまでホールドするから、モカシンのようにパカパカしない安心感というか安定感がある。トラベルトレーナーは、私が今まで出会った靴の中で個人的なベストであることは間違いない。一生履いてもいいと思えるくらいだ。じじになってもトラベルトレーナー。
 現在はモデル4になっていて、デザインもかなり変わった。3もちょっと違うんじゃないかというような変化をみせていたけど、4はどうなんだろう。いつか機会があったら買ってみたいとは思っている。色もいろいろあるしレディースもあるので、いろんな人にオススメしたい。1万円以下で買えるので、そんなに高い靴でもない。ただし、オークションや通販で買う場合は、普段履いてるサイズのワンサイズ大きいものを買わないといけない。細身ということもあって、いつもと同じサイズだとかなりきつく感じるはずだから。

 リーボックは、どういうわけか日本ではあまり人気がないメーカーだ。1980年代後半に一時かなり人気が出たものの、その後低迷が続き、現在では国内で5位くらいに落ちている。1位はなんといっても宣伝上手のナイキ様で、これはもう動かしようがない。リーボックは機能性重視で、あまりオシャレじゃないところが日本人には受けが悪い理由だろうか。アメリカではナイキについでシェア2位らしいのだけど。
 もともとは、イギリスの陸上選手だったジョセフ・ウィリアム・フォスターが、自分のために手作りした靴を売り始めたことから始まった会社だった。当時はまだリーボックではなく、J.W.フォスター社という名前で、創業は1900年のことだ。そのスパイクを履いた選手がロンドンオリンピックで大活躍したことで一気に名前が売れた。
 リーボックに社名変更したのは1985年のことで、reebokとはアフリカにいる大鹿の呼び名だ。現在はイギリスを代表するスポーツ用品メーカーに成長した。と思ったら、去年2005年にドイツのアディダスに買収されてしまった。日本での巻き返しはあるのかないのか。

 靴の歴史は古く、文明の始まりと共に靴はあった。古代エジプトでは鼻緒がついたサンダルが作られてみんな履いていたし、ヨーロッパの北方騎馬民族などは今でいうモカシンを履いていた。サンダルとモカシンが靴のルーツと言ってよさそうだ。
 日本ではワラジや草履、下駄などから始まり、西洋の靴が履かれるようになるのは江戸時代の終わり頃からで、坂本竜馬がブーツを履いていたのは有名な話だ。
 ただし、文明以前にも靴はあったに違いない。原始人だって裸足はイヤだったに違いないから、何かあるもので工夫して靴を作っていただろう。獣の皮や植物などを利用して。誰かひとりが思いつけば、そこからみんなに広まっていくのに時間はかからなかったはずだ。
 スニーカーのルーツはブラジルにあった。ゴムの木からとれた樹脂を固めて足の裏に貼り付けていたのがスニーカーの原形ということになっている。
 靴としてのスニーカーは新しいようで案外古く、1832年にまでさかのぼる。ニューヨークのウェイト・ウェイブスターという人物が、靴の底にゴムを貼った靴を作って特許を取ったことが現在のスニーカーの始まりとされている。
 当時、スニーカーは靴底にゴムが貼ってあるものすべてを指していた。だから、ブーツの底がゴムならそれはスニーカーだった。スニーカーという言葉は、1837年に新聞の通販で使われたのが初めてだそうだ。もしくは、1916年にKedsが静かな靴というのをセールスポイントにした靴を発売されたときに生まれたという説もある。最初は正式な英語ではなく、忍び寄るという意味のSneakから来た俗語だったようだ。
 当初はスポーツ靴だったスニーカーが一般人の街履きになったのは、1920年代のアメリカ東海岸の大学生(いわゆるアイビーリーガー)が履くようになってからだそうだ。コンバース・オールスターは1917年に発売されている。
 日本でスニーカーという言葉が普通に使われるようになったのは、1960年代以降だ。アイビーブーム全盛の時代に、ヴァンのジャケットにスニーカーというような格好が流行って、そのとき盛んに使われるようになった。そういえば、私たちが子供時代はスニーカーではなく、運動靴やズックと呼んでいた。
 アメリカでは、現在はどうか分からないけど、スニーカーという響きを嫌がる人もいてテニスシューズと呼んだりもしたそうだ。イギリスではトレーナーと呼ぶことも多い。なので、この靴はトラベルトレーナーなのだ。

 新しい靴を買うと、「北の国から」の純と蛍の靴を思い出す。母親の葬式のとき、汚い靴ではみっともないと恋人だった伊丹十三が純と蛍に新しい靴を買い与えた。ふたりは大喜びでそれまで履いていた靴をそのまま靴屋で捨ててしまう。けど、「その靴は父さんに富良野で買ってもらい、明らかにデザインよりも値段で選んでおり、その靴は雨の日も雪の日も嵐の日も僕らの足を守ってくれ…、その靴を洗い、破れたら父さんが縫い、その靴を僕は捨ててもいいと言い…」と純は夜になって激しく後悔する。ふたりは靴屋へ行くがシャッターが閉まっている。ゴミの山を探したけど見つからない。あきらめようとしたところに現れたお巡りさん(平田満)が事情を聞いて一緒に探してくれたけど、とうとう見つからなかった。その夜、純は川に流されている靴を裸足で蛍と追いかけている夢を見るのだった。
 物に執着するのはよくないとはいえ、世の中には捨ててはいけないものや大事にしなければいけないものもある。たとえそれが履き古したオンボロの靴であったとしても。私も、トラベルトレーナーが破れたら縫い、靴底が減ったら古タイヤのゴムを切り取って貼り、最後まで履こうと思う(ホントかよ)。
 それと同時に、どこかにガラスの靴の片方が落ちてないか地面を探すのも忘れないようにしたい。下を見てウロウロしている私を見て、コンタクト落としました? などと声をかけていけない。もっと大事なものを探しているのだから。もし、見つかったらお知らせしますので、サイズが足に合うかどうか試しに来てくださいね。でも、合わなかったからといって腹立ち紛れに私のトラベルトレーナーを履いて帰るのはやめてください。

ショートケーキを食べる至福の時の中で甘い夢を見る 2006年11月10(金)

食べ物(Food)
苺ショートケーキとモンブラン

PENTAX istD+smc Takumar 55mm(f1.8), f1.8, 1/25s(絞り優先)



 ショートケーキをもらった、撮った、食った。スタンダールの「生きた、書いた、愛した」と比べると随分志が低いけど、それくらい堪能したということだ。春日井のSincere(シンシア)というところのケーキで、これがかなり旨~い、甘~~~い。最近は甘さひかえめのケーキが多くなった中、これは不快になるぎりぎり手前まで甘さを突き詰めていて、その加減が絶妙だった、個人的な感覚として。だから、一口目で、あ、これ美味しいと反射的に思ったのだった。モンブランもオーソドックスでよかったけど、苺タルトが特に美味しかった。これはオススメできる。
 ショートケーキ、訳すと遊撃手洋菓子(違う)。ショートするほど美味しいからこの名が付いた、わけではない。広岡のようにうまいからでももちろんない。この場合のショート(short)は、短いではなくサクサクしたという意味で使われていて、元々はビスケットのようなものにイチゴなどの果物を挟んで、その上にクリームを載せたものをショートケーキと呼んでいた。それが日本に入ってきたとき、日本人の好みに合わせてスポンジケーキに変えたものをそのままショートケーキと呼んだというわけだ。それが1922年(大正11年)のことで、不二家の創設者、藤井林右衛門が日本で最初のショートケーキを売り出したということになっている。
 なので、海外で日本にあるようなショートケーキを探してもまず見つからない。洋菓子の本場フランスでもないという。フランスに彼女と旅行に行って、ショートケーキが食べたいから買ってきてなんて言われたとする。もし、その彼女が長谷川理恵のような女の人だった場合、あなたは石田純一のように激しくののしられることになるだろう。この役立たず! と。そんなこと言ってもないものはないんだよぅ、と泣くしかない。あとは、クッキータイプのケーキを買っていて、これが本場のショートケーキなのだと彼女を説得するより他にあなたに残された道はない。
 英語圏では、クッキーなどのことをshort-breadなどと呼んだりする。ケーキ(cake)は、ケイクだ。ケーキ、プリーズ、などと言ってもケーキは出てこない。ドイツではクーヘン(Kuchen)、フランスではガトー(gateau)、イタリアではトルテ(torta)またはドルチェ(dolce)がケーキに当たる。

 洋菓子を作る職人のことをパティシエと呼ぶというのを知ったのは、そんなに昔のことではない。一般的に使われるようになったのは1990年代の終わりくらいからだろうか。更にドラマ「アンティーク ~西洋骨董洋菓子店~」(2001年)の影響も大きかったに違いない。実際、あのドラマが放送された翌年はパティシエ学校の入学希望者がどっと増えたという。あれはホントに面白くていいドラマだった。原作のよさに加えて、滝沢秀明、椎名桔平、藤木直人、阿部寛、小雪と出演者も揃っていて、脚本は岡田惠和で、演出は本広克行とくれば、面白くないはずがないというくらいの顔ぶれだった。全編に流れるミスチルの曲といい、すごく印象に残っている。個人的なオールタイムオールベストテンにもこの作品は入っているくらいだ。パティシエや洋菓子についても、あのドラマを観たことで私自身ずいぶん意識が変わった。
 ただ、パティシエの仕事はあんなに甘いものじゃなさそうだ。職人というだけでなく芸術家であることも要求されるし、その中で大多数の人が美味しいと感じられる洋菓子を作るのは難しい。舌の肥えた消費者は飽きっぽく、次々と新作を考えなければならない。体力的にも一日中立ち仕事できつそうだ。よほど好きじゃないとやってられない。実際、最近ではパティシエの数が減ってきているらしい。その一方で、女の人が増えているという。女性の場合は、パティシエールとなるので、女性の洋菓子職人に向かってパティシエ呼ばわりすると恥をかくことになる。
 ドラマといえば、「ストロベリー・オンザ・ショートケーキ」というのもあった。「ショートケーキの上の苺、あなたは先に食べますか、それとも最後に食べますか?」そんな宣伝コピーだったと思う。私は途中で食うぞ。

 ケーキのルーツを辿っていくと、古代ローマ時代にまでさかのぼる。このとき作られていた甘いパンがケーキの始まりだと言われている。近代のケーキが作られるようになったのは、10世紀、十字軍がエルサレム遠征で砂糖を持ち帰ってきたことからヨーロッパで広まった。その後13世紀頃にはなかり本格的なケーキが作られるようになっていたようだ。
 日本の場合は、「いごよさんか鉄砲は」の1543年、種子島に流れ着いたポルトガルの船に積んであったカステラがケーキとの初対面だった。初めてカスティーリャを食べた信長はどう思ったんだろう。びっくりするくらい美味しかったけどあんまりはしゃぐと家臣の手前格好が悪いから、いつものように、で、あるか、などと涼しい顔を装ってたのかもしれないな。
 日本で本格的にケーキが広まって一般庶民も食べるようになったのは、戦後になってからだ。不二家の功績も大きい。世のお父さんたちは、子供の誕生日やクリスマスなどに、大きなデコレーションケーキのケースを抱えて家に帰ったものだった。
 ショートケーキといえば、やはりなんといってもイチゴのショートケーキが定番だろう。これは昔も今も変わらない。子供が描くショートケーキの絵もイチゴのショートケーキが圧倒的に多いはずだ。ケーキの中で一番美味しいとは思わないけど、人に贈るときも自分で食べるときも安心感がある。いくつか買ったらひとつは入れておきたいと思う。
 モンブランも昔からあっていまだにすたれてないケーキの代表だ。だいたい日本では写真のこのスタイルが多いけど、フランスなどでは違っていて、メレンゲを乾燥焼きしたものの上に生クリームと茶色いマロンクリームを盛りつけたスタイルなんだそうだ。1903年創業のパリの菓子店「アンジェリーナ」が発祥とされている(フランスのサヴォワ地方とイタリアのピエモンテ州などで食べられていたものが原型という説もある)。日本のものは、昭和の始まりに自由が丘の洋菓子店「モンブラン」で発売されたものが原形となっている。

 ケーキというものは、幸せに属するものだ。甘いもの好きの人間にとってはケーキを食べているときは至福の時間だし、甘いものが苦手という人がいるにしても、これは間違いなく平和時にしか食べられないものだ。戦時中にのんきにケーキなんか食べてはいられない。逆に言えば、戦争をしてるようなところにはケーキを大量に差し入れしたらどうだろう。こんなに甘くて美味しいものを腹一杯食べたら、戦う気もなくなるんじゃないだろうか。
 ただ、「黄金伝説」で南海キャンディーズが挑戦していた「全国の超人気ケーキベスト100を食べ尽くす」というのは、見ているだけでつらそうだった。あれは私ちょっと自信がない。そこまでケーキ好きじゃないし。年に数回、もらいものを食べるくらいが私にとっては一番幸せなんだと思う。いや、一番の幸せはやっぱりケーキ入刀だろう。入刀したいぞ、入刀したい、入党したい。ん? 入党? 私はどこに入ろうというのか? 妄想で頭がヘンになったか!?
 そろそろ寝て、ケーキ入刀の甘~い夢でも見るとするか。明日の朝は枕によだれがたれてそうだ。

誰の目をしても見えなかった太陽を横切る水星の野郎 2006年11月9日(木)

星(Star)
水星が通過してるはずの太陽

OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f22, 1/400s(絞り優先)



 太陽の前を水星が通過するというニュースが目に止まった。普通なら、ふーん、っていうくらいで特に気にもかけないところが、次に見られるのが26年後と聞いて、むむむっ、となった。せっかくだから見ておくかと思い、朝っぱらからデジに望遠レンズをセットしてそのときを待つ。6時40分、ようやくビルの横から顔を出した太陽を捉えることができた。さあて、水星は写ってるかいな。部屋に戻って早速PCに取り込んで確認したところ、写ってなーい! あ、これかな? と思ったら、モニターカバーについた傷だった。ええい、紛らわしい! トリミングして、西川きよしのように目を大きく見開いてにらみつけてみた。時間帯としては、太陽の下の方の中央くらいにあるはずなのだが、いっこうに見えてこない。逆に五木ひろしのように目を細めてみたけど、やっぱり水星は確認できない。一体、私は誰の目をすれば水星が見えるのだ!? いや、そういう問題じゃないだろう。
 あとから知ったところによると、見た目は太陽の直径の約200分の1と小さすぎて肉眼では見えないらしい。それを先に言ってくれ。なんのために私は朝っぱらの6時から準備してたんだ。望遠の200mm(400mm換算)程度では見える望みはなかったのだ。私の中のイメージとしては、千昌夫のホクロくらいに見えるはずだったのに。それでも、水星が太陽面から離れるとき(第4接触)ならデジの望遠でも捉えられたかもしれない。あるいは来日直後のサンコンさんなら肉眼でも見られたのだろうか。
 前回の水星太陽面通過は3年前だった。水星は公転面が地球より約7度傾いているから、なかなか太陽の前を横切らないのだ。横切っても夜なら当然見ることはできない。だいたい13年ごとに同じような配列になるものの、微妙なずれがあって、今回のようにしっかり見られることは少ないという。次は予定でいくと26年後の2032年。自分はどうなっているだろう。のんきに水星なんて見てられるだろうか。2012年の金星の太陽面通過はなんとか見られそうだけど。

 太陽系の第一惑星である水星は、惑星の中でもかなり地味な存在と言えるだろう。私こう見えても水星が滅茶苦茶好きなんですよ、などと告白する人に会ったことがない。水星について50字以内で説明しなさいという問題が出て答えられる人も少ないと思う。そもそも水星を見たことがある人さえあまりいないんじゃないだろうか。
 何しろ水星は太陽にもっと近い星なので、いつも太陽のまぶしい光に埋もれて地球からほとんど見ることができないのだ。わずかに見えるのは朝と夕方のごく短い時間に限られ、地平線近くで小さく光っている。肉眼で見たことがある人はあまりいないと思う。地動説をとなえたコペルニクスでさえ、死の床で「ワシは生涯、水星を見ることができなんじゃった(談話を超訳)」と嘆いたほどだった。
 それでも紀元前3,000年頃のシュメール人などはすでに水星の存在を知っていたというから、観察することの偉大さをあらためて知る。ローマ人やギリシャ人も知っていて、ローマ神話ではメルクリウスとして、ギリシャ神話ではヘルメスとして登場している。
 冥王星が惑星資格を剥奪されてしまった今、太陽系の中で水星は最も小さな惑星となった。ちょうど月と同じくらいで地球の6分の1ほどだ。中心から70パーセントくらいは鉄のカタマリで、あとは二酸化ケイ素などでできている。大気はほとんどなく、薄いガス(カリウム、ナトリウム、酸素など)で覆われてるだけなのに加えて、太陽のお隣さんなのでべらぼうに暑い。地球の10倍くらいで、最高気温は400度以上。なのに夜になると今度はマイナス180度にもなってしまう。大気がないから雲もなく雨も降らず水もないため、こんなことになる。ものすごく暮らしづらい星だ。
 動きがまた変わってる。太陽の周りを88日という超高速(秒速47キロ)で回ってるくせに、自転速度がものすごくゆっくりで一回転するのに59日もかかってしまうのだ。ということは、水星の一日の長さは176日ということになり、朝起きて一日過ごして寝て次の日起きたら2年も経っていたという不思議なことになってしまう。というか、88日間昼が続き、次の88日間はずっと夜ということなので、そんなに起きてられないし寝てられない。太陽もいったん昇りだしたと思ったら逆に戻っていって、また同じ所から登ってくるという優柔不断な動きを見せる。
 表面はクレーターだらけのデコボコで、この点でも月に似ている。太陽の引力に引き寄せられた星や隕石なんかがボコボコ当たっていったからそんなことになってしまった。大気も薄いしダイレクトアタックになる。

 人類はまだ水星の実態をほとんど何も知らない。これまでに水星を調査するために打ち上げられたのは、今から30年以上も前の1973年のマリナー10号ただ一機だから。そのときは金星を調べるために行ったついでにちょっと水星まで足を伸ばした程度で、わずかに3回接近してちょこっと写真を撮ったり温度を調べたりしたにすぎない。なので、人類はまだ水星の45パーセントの地図しか持たない。
 その後、水星探査は後回しに次ぐ後回しが続き、ようやく2004年の7月にメッセンジャーが打ち上げられた。今回は長期にわたる観測を目的とするため、熱対策や燃料の問題などクリアすべき課題が多く、実現までにかなり時間がかかってしまった。更に最善の軌道を通って水星に向かうため、6年半もかかってしまうこととなった。79億キロという長い旅路の果てに水星軌道に乗るのは2011年3月。無事に到着すれば、水星に関して多くの情報を人類は得ることになる。それを楽しみに気長に待つことにしよう。

朝焼けの街

 宇宙にある星の数を知ってから、私は生きることに絶望するのをやめた。宇宙の広さはあまりにもばかばかしくて、個人の存在など限りなくゼロに近いことに気づいたから。私は宇宙に対して責任はない、そう思ったらふっと気が楽になって無責任に生きられるようになった。宇宙は個人の絶望など相手にしてくれない。
 地球から人の目で見える星の数は5,000とか7,000とか言われている。都会では頑張っても数百くらいだろう。ここまではいい。これくらいならスケール感として理解できる。でも、この先がいけない。私たちの地球は、天の川銀河の中の太陽系に所属している。太陽を中心として、太陽系の中には5,000個くらいの星がある。けど、太陽系は銀河系のごく一部にすぎず、銀河には約2,000億個の太陽(恒星)があるのだ。ということは、ひとつの銀河の中に1,000兆個の星があるということになる。すでにめまいを覚えるけど、まだ話は終わらない。銀河はひとつではなく、有名なアンドロメダ銀河大マゼラン銀河などがり、この数があろうことか5,000億個だというのだ。こうなると星の数は26ケタとかになってしまってどう表記すればいいのか分からない。お金にたとえると、1円玉で5,000円積んだマンションの部屋が400万室あるのが太陽銀河系。400万室ある銀河マンションが5,000億棟あるのが宇宙となる。って、余計にイメージできなくなった。失敗だ。
 更に言えば、宇宙に星はバラバラに散らばっていて、決して混雑などしてない。よく言われるたとえに、星の大きさをスイカにたとえると、太平洋に3つ浮かんでるくらいというのがある。そう、宇宙は実にスカスカな空間なのだ。光の速度は秒速30万キロ。1光年を距離にすると約9兆4,000億キロ。宇宙の広さは、140億光年だと言われている。宇宙の果てには何があるか? その先には別の果てがある。

 この現実を受け入れて日常生活に戻ったとき、人はもう笑って過ごすしかなくなる。生きている間に日々の暮らしを目一杯楽しめばそれでいい。そして私は思う、宇宙に意味なんてないのさ、と。宇宙はただそこに在るだけだ。意味は私たちの中にある。それは与えられるものじゃなく、私たちが作っていくものだ。それで充分じゃない?
 夜空に輝く無数の星は、書き割りのようなもの。恋人たちと天体野郎たちのためにあるんだよ。

400年後の牛一はこの世界を見て何を思い何を書くだろう 2006年11月8日(火)

神社仏閣(Shrines and temples)
北区の成願寺

OLYMPUS E-300+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f3.5, 1/40s(絞り優先)



 日曜日に放送した歴史ドラマ「信長の棺」は、なかなか面白かった。『信長公記』の作者である太田牛一(ぎゅいち/うしいち)の視点から描く本能寺の変の謎解きという発想もよく、主役の松本幸四郎の嫌味のない存在感が作品とよく合っていた。原作『信長の棺』の作者は加藤廣。作者は74歳でこれが初の作品なんだとか。
 それが昨日、ふとしたきっかけで成願寺(じょうがんじ)のことを知った。このあたりは太田牛一の故郷で、中でも成願寺は牛一が信長に仕える前に修行していた場所だという。これはもう行くしかないだろうということで今日早速行ってきた。

 かつてこのあたりは、尾張国春日井郡の山田庄安食(あじき)という地名だった。この地を支配していたのは山田一族と安食一族だったというで、そこから来ていたのだろう。現在は庄内緑地の東南あたりで、北区になる。名古屋方面からは、国道41号線を北上して、「中切町4」の交差点を右折、3つ目の信号を左折して細い道に入っていくと突き当たりに成願寺がある。駐車場はないけど、周囲は駐禁じゃないので短時間なら停めておいても大丈夫そうだ。
 正式名は「慈眼山 成願寺」。天台宗聖徳寺の末寺として745年に行基が創建と言われている。元は「常観寺」という名前だったのだけど、川の氾濫で丸ごと流されてしまい、山田次郎重忠が再建したときに現在の成願寺と改めた。もともとはここより北にあったそうだ。それが矢田川河川敷の改修に伴って今の場所に移された。こんな諸々があって、現在はかつての古寺の面影はまったく残っていない。非常にこじんまりしているというか個人宅のお寺のようで、太田牛一のことを知らなければ入っていくのがためらわれるような感じだった。門をくぐってホップ、ステップ、ジャンプで本堂に頭から突っ込んでしまいそうになる。全盛期のカール・ルイスなら確実に扉を突き破って賽銭箱を壊してしまうだろう。
 しかしここには、行基の作と伝えられる十一面観世音菩薩立像というお宝がある。これは名古屋市内に現存する最も古い仏像なんだそうだ。
 成願寺は、安食の戦いの舞台でもある。1553年、尾張を統一する前の信長は、清洲の織田氏軍とここ成願寺前で戦うこととなる。そのときの信長勢の中に、柴田勝家らとともに太田牛一も加わっている。結果、戦いは信長軍の勝利で終わった。

 太田牛一というと、信長の生涯を描いた『信長公記』の作者として有名ではあるけれど、武将としてはあまり知られていない。最初、信長家臣の柴田勝家に仕え、そこで弓の腕を認められて信長直属となった。のちに信長の周辺警護を担当する六人衆の中の「弓三張」のひとりとして選ばれていることからも、弓に関してはかなりのものだったのだろう。知行も3千貫あったというから、武将しても有力だったということになる。文官としてのイメージが強く、祐筆(現在でいう秘書官のようなもの)だったとされることがあるが、そういう記録はないらしい。物事に通じている側近として政治的な助言などをしていたのだろうか。『信長公記』を完成させるのはまだずっと後の話だ。
 1582年、本能寺の変のときは、55歳で近江国鯰江の代官をしていた。なので、当然本能寺の変を間近で見ていたわけではない。『信長公記』の本能寺の変に関して本当のところが分かってないのは、そういうわけだ。牛一にしても聞けるだけの話は人から聞いただろうけど、それがどこまで事実だったかは本人にも分からなかったに違いない。ただ、もしその場にいたら生きてないだろうから、『信長公記』そのものが書かれなかったとも言える。
 信長の死後、しばらく消息がはっきりしない。加賀の松任に蟄居させられたとか、丹羽長秀に仕えたとか言われている。次に公式に登場するのは1589年で、豊臣秀吉に仕えて、検地奉行や代官職を務めている。この頃は、秀吉についての記録を書かされたり(『大かうさまくんきのうち』)、朝鮮の役では弓大将として肥前名護屋に赴いたり、醍醐の花見で警護をしたりしている。
 秀吉の死後は、息子の秀頼にも仕えた。豊臣家滅亡後、ようやく隠居を許され、いよいよ『信長公記』の執筆とまとめに入る。完成したのはもう江戸時代の1610年。牛一が84歳のときだった。これより先、太田牛一の記録は残っていない。いつまで生きたのかも分かってない。
 それにしても、戦国時代の80年は長かったろう。若き日の信長が天下を目指して駆け抜けていくのに必死についていって、それが途中で破れて豊臣の時代になり、関ヶ原の合戦で徳川家康が勝って江戸幕府を開いて、そこからさらに何年かを見たのだ。牛一は人生の最期に何を思っただろう。
 歴史が太田牛一という人物を得たのは幸運なことだった。現在、私たちが知る信長の所業については『信長公記』によるところが大きい。読み物としてではなく、歴史的資料としてこれに勝るものは残されていない。ヒーローは書き手を持って初めてヒーローたり得るということだろう。影のヒーローとして、名古屋人や愛知県民はもっと太田牛一を誇ってもいい。



ザ・シーン城北夕暮れ
PENTAX istD+Super Takumar 28mm(f3.5), f5.6, 1/15s(絞り優先)

 成願寺から北へ歩いて2分、矢田川の土手を駆け上がると、目の前には庄内名所「ザ・シーン城北」が大きな顔をして建っている。今から10年前の1996年に、名古屋初の超高層マンションとして誕生した。地上45階、高さは160メートルで、当時は日本一の超高層マンションだった。現在は11位に落ちたとはいえ、まだ六本木ヒルズレジデンスより高い。高いといえば値段も相当高いんだろうけど、調べると落ち込みそうなのでこのまま知らずにいようと思う。中には住民専用のスポーツクラブなんかもあるらしい。貧乏人はその足もとの矢田川河川敷を走るしかない。
 周りに高い建物がないので、非常に唐突な印象を受ける。ちょっと寂しげでさえある。何しろできたときのキャッチフレーズが「おとなりさんは御嶽山」だ。それはあんまり嬉しくないぞ。住めないまでも上の方の階から景色を見てみたいとは思う。そんな貧しい人間を憐れんでか、東海テレビのお天気カメラが設置されていて、ネットでライブ映像を見ることができる。
 このザ・シーン城北のすぐ下に、「矢田川河川噴水」がある。どこにあるのかと思ったらこんなところにあったのか。しかし、待てど暮らせど噴き上がってくる様子はない。夕方とはいえまだ5時前だったし、本来なら吹いている時間帯のはずだ。案内板にも「10分間運転、5分間停止をくり返します」と書いてある。どうやら壊れたらしいという噂もあるけど、そうなのだろうか。それとも、噴水制限か何かがあるのか。

 戦国時代から平成にひとっ飛びの庄内散策。牛一がこの光景を見たら、言葉を失ってしまうだろうか。おやかたさまが目指した日本はこんなものじゃないと泣き崩れるかもしれない。安土城もいまだ再建されてないし、織田信長を祀る神社ひとつできてない。墓もあるようなないようなだ。牛一にとって今の時代は書くべきことが何もない時代と映るかもしれない。
 現在を生きる私たちはこの時代に何を書き残そう? この人のことだけはどんなことでも書き記しておきたいと願う人がいるだろうか? そう考えると、太田牛一の生涯は幸せだったと言えるだろう。80を超えるまで確かな使命感を持ち続けることができたのだから。
 

川原で黄色い風景を見たから11月7日は黄色記念日 2006年11月7日(火)

風景(Landscape)
伸びる影

PENTAX istD+Super Takumar 28mm(f3.5), f4.5, 1/40s(絞り優先)



 自分の長く伸びた影を見て、ジャイアント馬場よりデカいな確実に、と思う。足の長さだけで5メートルくらいはあった。でも実際そんなに大きかったらイヤだ。もし、身長2メートルとして生まれてしまったら、それは呪いに近い。人生の選択肢が極端に狭くなるということだから。絶対、小学校時代のあだ名がジャイアンとかになってしまうし。もしくは、ジャンボとか。今は亡きジャイアント馬場は、どんな思いで生きていたんだろう。物静かなインテリでいつも本を読んでいたあの人は、私と同じ1月23日生まれだ。愛知県体育館に友達に連れられてプロレスを見に行ったとき、廊下ですれ違った。葉巻をくわえてゆっくり歩いていた馬場におもむろに近づいて二の腕を触り、「うわっ、でら固い!」と小さな叫び声を上げた少年は私です、馬場さん。覚えてるでしょうか。
 黄色い太陽の光に染められた枯れ始めの芝生に映る長い影を見て、いよいよ冬の到来を感じた。今日は木枯らしも吹いて寒い一日だった。それもそのはず、暦はもう立冬だ。

黄色い川原
OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f5.6, 1/100s(絞り優先)

 今日の太陽は不思議な色をしていた。川原全体を黄色く染めて、別の世界に迷い込んだみたいだった。そしてふと思う、この色は指に付いたカールの色だな、と。自転車で走り去る人に向かって、なんとなく、ヘイ、カール! と声をかけたくなったけどもちろんそんなことはしない。
 犬の散歩の人たち、自転車青年、サッカー少年、後ろ歩き散歩をするじいさま、写真を撮る私。共通点も接点もないバラバラの人種が一堂に会する川原というステージは、これはこれでひとつの世界を形作っているのだった。公園風景とは違う独特のものが川原風景にはある。その心地よさを最近知った私なのだ。

黄色い夕焼け

 帰り道は黄色い夕焼け空の中。シルエットの彼女は、自分が美しい世界の中にいることに気づいていただろうか。
 今日ほど黄色かった日は他にちょっと記憶がない。これほど空や街や人が黄色に染まることはそうあるものじゃないだろう。みかんを食べ過ぎてもこんなに黄色くはならない。この黄色がいいねと君が言ったから11月7日は黄色記念日。……パロディが中途半端に古い。
 せっかくなので今日は黄色にまつわることを書こうと思いついた。そうなるとやはりイエローキャブの野田社長解任劇についてだろう! となるわけはなく、黄色という色そのものについてちょっと書いてみたい。

 好きな色は何ですかと訊かれて黄色と即答する人はあまりいないと思う。黄色いフォルクスワーゲンに乗っている人なんかはかなり黄色好きなんだろうけど、全身黄色い服を着てる人もめったにいない。バブルの頃黄色いボディコンを着ていたお姉さんはいたけど。
 大人に対するアンケートでは、黄色はほとんど最下位に近いというのが世界共通なんだそうだ。黄色が好きと大きな声で言うとちょっと変な顔をされることが確かにある。ただ、子供にアンケートをとると、これが意外に黄色は上位に来るのだ。そこから黄色は幼児性を表すと言われることもあるけど、実は心理学的にみると黄色というのはとても複雑なイメージを併せ持っているということになる。
 たとえばゴッホ。ゴッホはとにかく黄色が好きで、後期のあらゆる作品に黄色がふんだんに使われている。代表作ひまわりはもちろん、自画像も、種を蒔く人も、麦畑も、アルルの黄色い家も、イメージカラーはすべて黄色だ。星空を描いた星月夜でさえ星が黄色く光っている。自分の家の壁も黄色に塗ってたくらいだからよほど黄色が好きだったのだろう。弟宛の手紙にもいつも、黄色い絵の具がなくなったから送ってくれと書いている。
 ゲーテが言ったように、黄色は光に最も近い色だ。光を表そうとしたとき、黄色以外に使う色がない。ちょっと面白いのが、日本の子供の多くが太陽を描くときに赤色を使うのに対して、欧米の子供たちはほとんどが黄色を使うという点だ。もし自分の子供が黄色で太陽を描いたら、お約束としてこう突っ込まねばならない。欧米か! と。精神分裂の患者もまた、黄色で太陽を描くという。
 このようなことから、黄色を好む人間の心理的傾向として、明るい世界への憧れと自分に注目を集めたいというある種の甘えと依存があり、と同時に不安や不安定さを心に抱えているといったことが言えるのだろうと思う。あるいは、自分に対する自信や異端ということもありそうだ。黄色というのは強い色だから、目立たないようにしようという人が選ぶ色ではない。たとえば洋服を選ぶときも、何気なく黄色を着てしまうという人は少ないはずだ。黄色を着るには意志が働く。そこにはリスクを背負うという面もある。24時間テレビで募金活動をするときは例外として。黄色を好む人は、良くも悪くも個性が強いと言えるだろう。

 国によっても黄色に対するイメージはかなり違っている。一般的に欧米人が黄色を嫌うのは、キリスト教の影響が大きいと言われている。ひとつにはユダが着ていた服が黄色だったからというのがあるんだとか。対するアジアは黄色という色を高貴な色として捉えている国が多い。仏教も、ヒンドゥー教、道教、儒教も黄色は僧侶が身につける色だ。中国では黄色は皇帝の色だった。それが日本にも伝わり、黄色は天皇や皇太子が着る色として禁色(きんじき)とされたこともあった。水戸黄門さんも黄色を着ているし、皇太子さんの結婚の衣裳も黄丹色だった。
 日本の黄色という言葉の語源ははっきりしてないようだ。黄金から変化したらしいというのと、単独の色として確立したのは平安時代以降ではないかと言われている。ただ、花にしても何にしても自然界には普通にある色だから、認識はしていたに違いない。別の呼び名だったのか、もっと古くから黄色という言葉はあったのかもしれない。
 黄色い花として思い浮かぶのは、ヒマワリに菜の花にタンポポあたりだろうか。黄色といえばキツリフネだろう、という野草好きな人もいるだろうけど、いずれにしても自然界の黄色というのはぐっと優しい感じになる。春のイメージが強く、そんなに自己主張は強くない。それが人工色になると急に強くなってしまうのは不思議と言えば不思議だ。
 私はといえば、ここ数年、突然と言っていいほど黄色は好きな色になった。昔は意識的に避けるようなところがあったけど、夏が好きになったと同時期くらいから黄色も好きになったようだ。ただ、まだ上手く黄色というものを日常や自分自身に取り込めてはいない。部屋を見回してみると、自分の意志で持ち込んだ黄色ものというのはほとんどない。唯一クッションカバーだけは黄色だ。西に黄色いものを置くと金運が上がるというのは風水の基本らしいけど、それもしてない。財布はプリマクラッセだから黄色に近い。でも、金がたまる様子はいっこうにない。ダマしたな、Dr.コパ! と八つ当たりしてみる。洋服はアニエスb.の黄色いシャツを買ってはみたものの、やはり黄色というのは強すぎて、自分の気力が相当充実してないと着ていく気になれない。
 黄色でもうひとつ思い出すのがレモンだ。レモンといえば梶井基次郎の「檸檬」。丸善に置いて出てきた檸檬が爆発するというイメージが印象に残っている。
 人それぞれ、自分の中にいろいろな黄色を持っていると思う。黄色について誰かと熱く語り合った経験がないので詳しいところはよく分からないけど、今後は折に触れ黄色論議も重ねていきたい。すみません、黄色って好きですか? とか突然道行く人に訊ねてみたり。
 黄色い風景を見たことから始まった今日の黄色に関する考察が、今後どこかにつながっていくことがあるのかどうか。そういえば、キレンジャーは全身黄色のくせに存在が地味だったな、と子供の頃の記憶がよみがえったところで、そろそろ黄色話を終わりにしようと思う。長々とおつきあいいただきありがとうございました。できましたらモニターに向かって黄色い声援を送ってください。照れた私は幸せの黄色いハンカチで汗をふくでしょう。

化学の実験を思い出した美肌水と美肌石けん作り 2006年11月6日(月)

室内(Room)
化学の実験みたい

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.8, 1/60s(絞り優先)



 人と本との縁はときに不思議で、でもきっとすべてが必然なのだろう。何気なく手に取った本はその人に読まれることを欲しているに違いない。その本の存在を知らなかったときは尚更だ。
「Book off」で、普段絶対買うこともページをめくることもない「美肌スキンケア」(今井龍弥著)などという本を、どうしてそのときだけ中身を見てみる気になったのか、自分でもよく分からない。なんとなく目について、どういうわけか中を確認してみたくなった。パラパラとめくってみると、写真やアニメ入りで肌にいいローションや石けんの作り方が書かれていて、それにちょっと惹かれた。面白そうだ。でもやっぱりいいやといったんは棚に戻した。いやしかし、石けん作ってみたいかもしれない私、と思い直しもう一度手に取ってしばし迷う。やっぱり買うことにしよう。無縁のところに生まれた小さなとっかかりは大切にした方がいい。
 家に帰ってきてからネットで検索したら、今井龍弥氏の美肌水というのは超有名らしい。何年か前に雑誌などで紹介されてかなりブームになったというから、女性の間ではもはや常識なのかもしれない。実際に作って自分も使ってますという人も多いのだろう。そういう人たちにとってはナタデココ並みに今更なのだろうけど、男性陣は知らないだろうし、中にはそんなもの見たことも聞いたこともないという人もいるかもしれないので、紹介してみたいと思う。美肌水って、もうナウくないですか?

 まず買ってくるものは、尿素とグリセリン。聞き慣れないものだけど、簡単に手に入って安いので心配はない。尿素はホームセンターの園芸コーナーで小さな粒状の500g入りが250円くらいで売っている。グリセリンは透明な液体で、ドラッグストアなどで50ml入りが300円ほどだ。基本はこれだけ。
 あと、はかりや計量カップ、500mlのペットボトル、それと美肌水を入れるための容器が必要になる。容器は化粧品の空きがなければ100円ショップで揃う。スプレー式やプッシュ式でもいいし、適当なプラ容器でもいい。ただ、原液を入れておくものと薄めて使うため用のと最低2つ用意しないといけない。
 まずペットボトルなどに水道水を200ml入れ、尿素50gを加えてよく振って混ぜる。水はミネラルウォーターや浄水器を通さない普通の水道水を使う。これは塩素が入っていることで防腐剤の役割を果たすからだ。更にグリセリンを5ml(小さじ1)を加えて混ぜれば、もう完成。なんてあっけない。簡単すぎて詰まらないくらいだ。
 これが原液の濃度20%となり、顔につけるときは10倍に薄めて使う。その他、体なら5倍、ひじやひざなら2倍、かかとや手のひらなら原液というように、皮膚の弱い部分ほど薄いものを使うのが基本となる。皮膚の強さには個人差があるので、そのへんは自分の体と相談しつつ。

 一週間使ってみてどうかというと、これは効くんじゃないの、いや、ホントに、というのが偽らざる感想だ。水道水に尿素とグリセリンを混ぜただけで肌にいいなんてちょっと信じられないところもあるんだけど、実際効果を実感できるのだから認めないわけにはいかない。とにかく保湿力がすごい。顔も手も一日中しっとりしている。これから冬場に向けて乾燥していくから、この美肌水は毎日使っていきたいと思う。
 本に載っている使用者の声を全面的に信じるほどお人好しではない私でも、これはかなりオススメできると思う。少なくとも、クレオパトラもつけていたラピスラズリのペンダントをつければあなたもクラスでモテモテというやつよりは効く(当たり前だ)。
 顔、体だけでなく髪にもいいという声もある。肌や髪の毛をしっとりさせ、肌トラブルを解消し、アトピーや発しんも治すという。美白効果もあるらしい。
 尿素もグリセリンも化粧品などに使われてる安全な成分で、添加物など一切含んでないという安心感もある。そして何よりアホくらい安いのがいい。尿素とグリセリンの600円で原液20mlを10回作れるから、10倍に薄めたら2リットルの大きいペットボトル10本。ということは、2リットルペットボトル1本分で60円ということだ。どんだけ安いんだ、とツッコミのひとつも入れたくなる。
 男にはそんなもの必要ないだろうと思ったあなた、今は甲子園球児もハンカチで汗を押さえる時代なのだ、野郎だってきれいでいなくちゃいけない。アフターシェーブローションの代わりにもなるし、痔も治す。冬場は手荒れをする人もいるだろう。手にマメができてる人はそれが柔らかくなるということもある。しかし、フォークギター野郎にだけはオススメできない。せっかく左手の指が固くなったところに美肌水をつけてしまうと、指の腹がフニャフニャになってナガブチとか弾けなくなってしまう恐れがあるからだ。せっかく苦労してマスターしたFコードも美肌水のせいで鳴らなくなってしまうかもしれない。

石けん作りは実験テイスト

 美肌水の効果には満足したものの、化学の実験テイストという点では完全に拍子抜けだったので、次に石けん作りに取りかかることにした。これは説明を読んでいるだけで非常に危険な香りが漂ってくるシロモノだ。その正体が苛性(かせい)ソーダ。手につくと皮膚が溶けるので必ずゴム手袋をはめてください、という注意書きに腰が引ける。しかも、禁断の劇薬指定。劇薬って。なんでも、そんじょそこらの薬局では売ってなくて、買うときも白衣を着た人にこっそり耳打ちして苛性ソーダくださいとささやいて、じゃあここに住所、氏名、使用目的を書いて、ハンコを押してください、と言われてしまうというのだ。おお、想像しただけでめくるめく禁断の世界へようこそここへ遊ぼうよパラダイスではないか!? そうなのか?
 という妄想はひとまず置いておいて、冷静になって対策を検討してみる。何も悪いことに使おうというわけではないから、そんなにおどおどすることはない。薬局へ行っても大きな声で注文すればいいし、偽名を使うこともない。使用目的も石けん作りと書けばいいだけだ。間違っても使用目的の欄にヒ・ミ・ツなどと書いてはいけない。薬局の人と目を合わせようとしなかったり、逆に麻生太郎のようにクチビルを歪めてニヤリとするのもやめておいた方が無難だろう。
 そんなもろもろのイメージトレーニングを積んだ私は、冷静を装い、ドラッグ「スギヤマ」へと向かった。まずはマシュマロとかコエンザイムQ10などをさりげなく買い物カゴに入れ、ヒマそうな店員を探す。するとおあつらえ向きに若手の白衣を着た男の人が商品を棚に並べているではないか。ここしかないと思い定めて、思い切って、でもあくまでも柔らかに訊ねる。
「こんにちは。苛性ソーダって置いてありますか?」
 すると、思いがけず「はい、ありますよ」という軽い返事が返ってきて驚く。ええー、あるのかよ、と。ドラマ「HERO」で、注文するとなんでも「あるよ」と答えるマスターみたいだ。
 サービスカウンターの下から取り出してきた苛性ソーダは280円くらいだった。住所と名前を書いてハンコを押したら、動揺したのか90度右に倒れたオオタとなってしまって店員の失笑を買う。

 そんなこんながありつつ、なんとか手に入れた苛性ソーダを使って、石けん作りを始める。美肌水を作っていたら、他に必要なものとしては、ゴム手袋、ペットボトル、食用の廃油などで、石けんを固めるときのプラスチック製の容器などがあればそれを使ってもいい。食用の油は、天ぷらなどでいったん使ったものの方が酸化していて石けん作りには向いているらしい。固めるときの容器はアルミは不可で、プラケースかそのままペットボトルを混ぜるのと固めるのと両方で使ってもいい。
 まずはゴム手袋をつけて、ペットボトルに水道水50mlと苛性ソーダ15gを入れて、しっかりフタをする。苛性ソーダが溶けるまで1-2分左右に振る。このとき、ペットボトルが熱くなるので注意。このあたりから化学の実験テイストが満載となってくる。
 尿素5gを加えて、もう一度軽く振る。やや不安を覚えるほどの熱さになるけど、たぶん大丈夫。ここではまだ完全に溶けてなくてもいい。さらに廃油を100g入れる。そして、あとはシェイク、シェイク、シェイク。フタをしっかり閉じることだけは忘れずに。前後左右に激しく30秒振り、1-2分休ませ、また30秒振り、1分ほど休むを繰り返し、振り時間が合計5分ほどになれば完成だ。『カクテル』のトム・クルーズのようなシェイカーぶりの私の姿を見せたかった。
 あとは固まるのは待つだけなのだけど、これにちょっと時間がかかる。完全に固まるまで2日ほど。容器から取り出して外気にさらして更に一週間ほど寝かせてようやく使えるようになる。あまり焦って使わない方がいいと思う。

 美肌水と美肌石けんを使ったあかつきには、もう全身はツルツルのツヤツヤになって、思わずハダカの上にコートを羽織って突然人前で前を開けたくなってしまうかもしれない(それはダメ)。でも、ちょっと触ってみる? とか言いたくなったり、人にお裾分けしたくなるというのはある。知ってたけど作ったことはないという人はぜひ一度試してみて欲しい。とにかく安上がりなので、2、3回で飽きてしまっても出費は500円か600円で済むし、気に入って一家で使っても使い切るまでには何ヶ月もかかる。
 本にはこの他、ミョウバン水やシャンプー、リンスの作り方も載っているので、今後それらも作っていこうと思っている。もともと化学の実験は好きだったし、使うよりも作る方が楽しい。まさか自分が劇薬なんてものを買う日が来ようとは思ってもみなかったけど、それもまた貴重な経験となった。あのときこの本を手に取らなかったら、私はずっとこれらの存在を知らないまま、安くはないボディーソープや洗顔剤やアフターシェーブやシャンプーなんかを買い続けていただろう。それに、これはひとつの伏線で、また別のところにつながっていくようにも思う。こうしてブログに書いたことで、読んだ人が使ってみて長年の悩みが解消されて、それを教えた別の誰かに伝わってというふうに波及していけば、それはまさに映画『ペイ・フォワード』の世界だ。巡りめぐって、美肌水をつけたみのもんたが美白顔でテレビに登場する日も来るかもしれない。白い松崎しげるも見てみたい。

誰ですか、バナナの天ぷらが美味しいって言ったのは 2006年11月5日(日)

料理(Cooking)
メイン食材はバナナサンデー

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f3.5, 1/30s(絞り優先)



 今日のサンデー料理のメイン食材は、バナナだった。いや、ホントに。これが今日のすべてといってもよかった。
 オレはバナナの天ぷらを食うんだという固い決意の元、始まったサンデー料理。その結論は、やっぱり、バナナの天ぷらはダメだこりゃ、だった。とにかく恐ろしく甘い。火を入れたバナナは、火を入れないバナナに比べて当社比3倍となってしまうのだった。おやつとしてはいけるかもしれないけど、おかずとして食べるには他のものとのバランスがあまりにも悪すぎる。一部ちまたではバナナの天ぷらは美味しいという説があったのだけど、あれは風説の流布に抵触すると思う。それとも、使ったバナナが間違いだったのだろうか。外国には食用バナナがあるから、あれを使えばバナナの天ぷらも美味なのかもしれない。
 とはいうものの、貴重な体験ができたという満足感は残った。今思い返してみると、あの甘みもあれはあれでいいのかもしれないと思えてきた。予想を超える甘みに面食らってしまって冷静な判断を欠いたきらいがある。その答えは、ぜひ各自で確かめて欲しい。もしくは、だまって家族に出してみるという手もある。テレビに気を取られながら何気なく天ぷらを口に運んだら予想しない味の広がりにダンナさんは思わず叫び声を上げるだろうか。なんじゃこりゃぁ! と。
 調理法はいたって簡単。皮をむいて薄めの輪切りにして、小麦粉をつけて揚げるだけだ。特に工夫の余地もない。ソースはお好みなのだけど、私はカレー味のタルタルソースでいってみた。が、少々のカレー味など吹き飛ばしてしまうほどのパワーは、日米野球の日本人ピッチャーの球をいともたやすく弾き返すメジャーのバッター並み。カレールーでも太刀打ちできないだろう。本来甘さは美味しさに直結するはずなのに、なんとかこの甘みを打ち消そうとする無駄な努力。太宰治は、「甲斐なき努力の美しさ」と言ったけど、太宰さん、これはいけませんよ。あらゆる食べ物に味の素を振りかけていた太宰治でさえバナナの天ぷらからは逃げ出すに違いない。

 天ぷらというか素揚げというか、他の具材はジャガイモとカボチャ。
 少し下茹でをしたあと、レンジで水分を飛ばして、小麦粉をつけて揚げた。ソースは、マヨネーズベースに、タマネギ、パセリ、からししょう油、ヨーグルト、黒コショウ、牛乳、カレー粉などを混ぜたもの。
 手前のは、ナスとトマトとタマネギの挟みチーズがけ。
 オリーブオイル、バター、コンソメの素で、ナスとトマトを焼いて、重ねた後とろけるチーズを乗せてトースターで5分ほど焼きを入れれば出来上がり。
 右奥は、白身とエビの和風ハンバーグ風。
 白身魚、エビ、タマネギを刻んで、卵黄とカタクリ粉、パン粉で混ぜたら、あとはフライパンで焼くだけ。
 ブロッコリーはゆがいて、たれは和風だれ(しょう油、酒、みりん)にカタクリ粉でとろみをつける。

 今回ちょっとバナナに気持ちの比重がかかりすぎていたのだけど、完成したものを見たら、中途半端ながら図画工作的になっていることに気づいた。実は魚ハンバーグも、星形の型で焼いたのだった。そんな風には見えてないけど。これをもっと追求していけば顔とかアニメくらいなら描けそうだ。更に彩りも増やして。
 天ぷらの方にも今後のヒントがあった。色とりどりの野菜を様々な形に切って、モザイク画みたいにできるんじゃないか。調理すると型くずれするから細かいものは無理にしても、デザインさえちゃんと考えれば何かが描けるはずだ。できれば来週やってみたい。来週、私は山下清にな、なるんだな。そのときはちょっと寒くてもランニングシャツと半ズボンに着替えなくてはなるまいな。お、お、おむすびも欲しいんだな。
 味の方はバナナさえ除外すれば申し分なかった。充分日常の食卓において不満のないレベルだ。気づけば私の料理も学食や社員食堂は追い越した。先週でちょっと味にも目覚めて自信も出てきたから、もういつでも人に食べてもらえると思う。オオタさん、料理するんですか? うん、するよ。けっこう美味しいよ。とさりげなく答えられる私になった。ホントかなぁなどとイジワルなことを言う人にはバナナの天ぷらを出す。そして黙らせる。ぜひ一度食べてみたいですぅー、などと優しいことを言ってくれる人には、これなら大丈夫と思える5品くらいの中から3品を作って出してあげたい。
 今後もまだまだレパートリーを増やしていきつつ、あらたな食材にも挑戦していこうと思っている。バナナがダメだったからといって甘いものや果物が全部使えないと決まったわけではない。とりあえずいろんなものを天ぷらにしてみるというのもいいかもしれない。果物総天ぷら化作戦。中には意表をつく美味しさをかもしだすフルーツがあるかもしれない。キウイとかはどうだろう。マスカットの天ぷらなんかは形が面白そうだし、リンゴの酸味がどうなるかにも興味がある。同時につけるたれの研究もしないといけないだろう。料理は味の追求だけじゃない。
 誰のために私が料理を作るかと訊ねることはない。それはあなたのためなのだから。

水琴窟の音色に耳を傾け、日本の風流を思い出す 2006年11月4日(土)

施設/公園(Park)
勘助の井戸

Canon EOS Kiss Digital N+EF-S 18-55mm(f3.5-5.6), f4.0, 1/10s(絞り優先)



 岩崎城の二の丸庭園に「勘助の井」がある。なんでこんなところに山本勘助の井戸が!? と驚いたら、丹羽勘助だった。そりゃそうか。武田信玄の軍師だった山本勘助の井戸がこんなところにあるはずもない。私の山勘は大ハズレだった(霊感山勘第六感の山勘は山本勘助から来ているという説がある)。
 丹羽勘助といえば、岩崎城主であり、「棒の手」の生みの親として、この地方ではちょっとした有名人だ。城下町の農民を集めて、長さ2メートルの棒を振り回して敵と戦う訓練をさせたことが、後に神社の祭礼で奉納される儀式となり、それが今に伝わっている。愛知県の無形文化財にも指定されていて、毎年東海地方ではあちこちで実演が行われているので、テレビのニュースで見たことがある人も多いだろう。
 ここの井戸は、その丹羽勘助が使っていたということから勘助の井戸と名づけられているようだ。
 現在の岩崎城の二の丸跡は、名古屋城の三の丸庭園を模して造られている。もともとは敵の侵入を妨害するための馬出曲輪だったようだ。土塁跡なども残っている。
 その井戸にぐぐっと寄ってみると、何やら見慣れない仕掛けがあることに気づく。案内板を読んでみると、「水琴窟」とある。すいきんくつ? どこかで聞いたことがある。テレビでも見たことがあるような気もする。でも実物を見るのは初めてだし、何より実際に音を聞いたことはない。ものは試しと、ひしゃくで水をすくって、石の上に水を静かに流してみると、地中深くからかすかな音が響いてきた。
 キンキンキンキン……。
 わっ、なんかいい音。初めて耳にする音色だ。2ヶ所あるもう一方にも水を落としてみる。
 チリン、チリン、チリン……。
 おっ、こっちはまた音が違う。面白いな、水琴窟。気に入った。手風琴のしらべや巌窟王は知ってたけど、水琴窟は知らなかった。こりゃあ、いいものを聞かせてもらった。ありがとう、勘助の井戸と岩崎城。
 ということで、今日は水琴窟の勉強となる。

水琴窟

 庭園にあって日本人のわびさびを表す小道具として、鹿威し(ししおどし)は有名だ。カコーンという響きを聞いたり実物を見たことがある人も多いと思う。しかし、それに割と近い位置にある水琴窟の知名度は低い。音を聞いたことがある人はそれほど多くないんじゃないだろうか。置かれている場所が限られているということもある。もしかしたら、存在そのものを知らないという人もけっこういるかもしれない。
 生まれたのは江戸中期。大名茶人だった小堀遠州が蹲踞(つくばい)まわりの配水装置として作った洞水門(どうすいもん)が元になったと言われている。簡単に言うと、土の中に穴を掘って周囲に石を積め、水を張った瓶を埋めて、そこに水が落ちると音が響くという仕掛けだ。その音色が琴の音に似ていることから、いつからか水琴窟と呼ばれるようになった。江戸の風流人たちが庭師に造らせて、静かなブームとして明治に至るまでさかんに造られたという。
 あまり一般的なものとならなかったのは、造るのに手間がかかって難しいというのがあった。音色も造ってみないと分からず、いったん造ってしまうとそう簡単に造り直すこともできないことから、作り手が技術や知識を公にしたがらなかったというのもあった。いわゆる企業秘密というやつだ。
 更に、これは掃除ができない仕組みなので、すぐに駄目になってしまうという欠点もあった。砂や土が入ってしまうと音が鳴らなくなってしまい、そのたびに造り直すのは大変ということで、庶民のところまでは降りてこなかった。江戸時代に造られた古いもので今でも音が鳴るものはほとんどないという。江戸時代制作のものと思われるものは、京都、鳥取、岐阜、三重などで見つかっているらしい。

 昭和に入ってからはすっかりすたれ、その存在自体もほとんど忘れられたものとなっていた。戦後は造られることもなくなっていたようだ。それが今から20年ほど前に、水琴窟の存在をもう一度見直そうではないかと言い出した人が出てきて、それが新聞やテレビで紹介されたことで再び水琴窟が復活したのだった。ここ10年くらいで、かなり造られていて、私の知らないところで水琴窟ブームは起こっていたのだ。プリキュアの人気は知っていたけど水琴窟人気を知らなかったのはうかつだった。
 調べてみると、実にたくさんある。個人の庭がほとんどにしても、愛知、岐阜、三重だけでも100以上はあるとは驚きだ。一般でも見られるところとしては、白鳥庭園、名古屋城「二の丸茶亭」、大須観音、犬山の有楽苑、岡崎公園「葵松庵」、佐布里池「水の生活館」などがある。
 現代のものはいろいろな工夫がほどこされていて、メンテナンスもちゃんとできるようになっているから、長く使えるようになっている。音色に関しては江戸時代のものが残ってないので比較はできないけど、充分心に響くものを持っている。音はそれぞれ微妙に違うようで、すべての水琴窟は世界でひとつだけなんだとか。
 これは日本で生まれ、海外に輸出されることのない日本独自のものだから、そういう意味でも大事にして未来に伝えていくべきものだと思う。ぜひ、機会があったら実際に自分の耳で聞いて欲しい。不思議な心地よさがあるから。幼稚園生に聞かせたら寝付きがよくなったというし、胎教にもいいらしい。仕事場でキレて上司をぶん殴りそうになったら、まずは席に戻ってイヤホンで水琴窟のCDを聞いて心を静めるとよいでしょう。
 そんなにいいものならうちの庭に造ってしまうぞ、という人はぜひ100万円くらいのものをいってみてください。20万円の安いやつでいいやなどと言わずに。

 ここ10年、20年で、日本人はようやく自分たちの古き良き伝統や風習を見直そうという気持ちを少しずつ取り戻してきたようだ。それは喜ばしいことだと思う。明治維新以降、あまりにも古いものを捨てて新しいものに走りすぎてきた。そろそろ、もう一度昔に立ち返って大切なものや貴重なものを拾い直してもいい頃だ。古いものが全部駄目なわけじゃない。懐古趣味一辺倒で古いものにしがみついて新しいものを頑なに拒否するのはよくないけど、古いものを現代に取り込むことは悪いことでもなんでもない。もちろん、今更ボンタンをはいてリーゼントで会社へ行くことが正しい姿勢ではないので、そのへんの間違いはおかさないように気をつけたい。ぺちゃんのこカバンとツータックもダメだぞ。じゃあもっと古ければいいのかと、家の二階に天守閣を造って、ちょんまげを結って殿様の格好をしてる人になってもいけないと思う。いや、本人の自由だからいいんだけど、身内にそういう人がいたら家族が迷惑をする。
 私としては、お城巡りをしたり、庭園で風流に少し触れたりして、古い時代のことに思い巡らせるくらいにしておきたい。石垣に頬ずりなんかはしない。

文化の日に皇居ではなく名古屋城へ行って十三夜を見る 2006年11月3日(金)

城(Castle)
十三夜と清洲櫓

OLYMPUS E-300+ZD 14-45mm(f3.5-5.6), f4.0, 0.6s(絞り優先/一脚)



 文化の日の今日、皇居からお呼びがかからなかった私は、モーニング衣装(平たく言うと朝から着ている寝間着)を着たまま夕方を迎えることとなった。そのときふと大事なことを思い出した。そうだ、今日は十三夜だったと。こうしちゃいられないと、イブニングドレス(くだいて言うと夕方出かけるときの洋服)に着替えた私は、車に乗って月を探しに出かけることにした。
 車に乗る前から月はすでに昇っていた。まだ空が暮れきる前に。ただ、普通に月だけ撮っても面白くない。どっかいいところないだろうかと考えて思いついたのが名古屋城だった。祝日ということで道路も妙に空いている。普段なら40分かかるところが20分で着いた。毎日こうだといいのに。
 ただ、残念ながら名古屋城と月を撮ることはできなかった。月と名古屋城の角度と位置関係がよくなくて、一緒に入らなかった。その代わり、堀端にある清洲櫓(きよすやぐら)とちょうどいい感じの関係になっていたのでこっちで撮ることにする。堀に映る月と空の月と、両方ぎりぎりおさまった。清洲櫓もライトアップされていて、夜の黒に浮かび上がる白が幻想的だ。

 名古屋城御深井丸西北櫓、通称清洲櫓は、清洲城を取りつぶして名古屋城を築城するときに、天守の資材を使って作られたことからそう呼ばれている。そっくりそのまま移したわけではないので、清洲城の天守がこういう形をしていたというわけではない。
 当時のこういうリサイクルはちょっと珍しかったんじゃないだろうか。名古屋城築城を命じた徳川家康の指令だったのか、総責任者の加藤清正あたりの知恵だったのか、そのへんの詳しいところまでは分からない(私が知らないだけかもしれない)。
 名古屋城は他にも3つの櫓と門が災害や空襲から逃れて生き残っている。これもその中のひとつだ。名古屋城の天守は戦後に再建されたものだからありがたみはないけど、こちらは400年前のものということでずっと価値が高い。国の重要文化財にも指定されていて、普段は非公開になっている(名古屋デザイン博のときには一般公開したらしい)。
 清洲櫓は現存する櫓の中で日本最大のものなんだそうだ。もともと櫓というのは矢倉とも表記したように、城の四隅に置いた見張り台の役割を持った建物だった。物見櫓という言葉は馴染み深い。のちに平和になると、武器や食料の貯蔵庫のような役割になっていった。お父さんの書斎がいつの間にか家族の物置になってしまうみたいに。名古屋城の場合は、大阪の豊臣方に対してにらみを利かせるために作られた城だから、最初は戦闘用だったにしても、結局戦で使われることはなかった。アメリカ空軍も、本丸には爆弾を落としても、これがどういう役割の建物か分からなかったのだろう。おかげで21世紀まで生き延びることができた。
 北西に位置することから戊亥櫓(いぬいやぐら)とも呼ばる。構造は三層三階で、屋根は入母屋(いりもや)本瓦葺。建設面積は約200平方で、昔の原形をとどめる弘前城や宇和島城なんかの三重天守閣よりも大きい。
 名古屋城は、石垣や堀などかなりの部分が築城当時のまま残っているのだけど、なんといっても本丸の大天守を空襲で焼かれたのが痛かった。明治維新のときもどうにか生き延びたのに、残念だ。その名古屋城は現在、2010年の築城400年に向けて様々な復元作戦が行われている。目玉はなんといっても本丸御殿で、その他、北東櫓、本丸多聞櫓なども復元される予定になっている。場内にあった愛知県体育館も移転させるくらいの力の入れようだから、個人的にもけっこう期待している。2010年までは死ねない。

清洲櫓別角度
PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4)

 昔の建物も、角度を変えれば現代文明に取り囲まれていることが知れてしまう。スタジオのセットのように。エジプトのピラミッドだって振り向けばマクドナルドだ。私たちは文明に囲まれ、快適さと便利さを享受している。それは幸せなことだ。否定されるべきことではない。遙か昔の人類が見た夢が今実現しているのだから。
 一方で文化はどうだろうと考えてみる。文化の日らしく。文化の定義はやや曖昧になるのだけど、学問や芸術、宗教や道徳なんかの人の精神が作り出したものと言えばいいだろうか。こちらの方は文明の進化スピードに比べるとぐんと遅くなっている。人類全体としての平均値は上がってるにしても、歴史上の偉大な哲学者や芸術家を超える人間が今の世の中にどれくらいいるだろうかと考えると、ちょっと寂しい感じになってしまう。
 文化を育てるものとは何だろうと考えたとき、それはある種の貧しさなんじゃないかとも思う。飢えや渇きが極限まで達したとき、偉大さに突き抜けるのじゃないだろうか。そういう意味では、現代社会というのは文化が育ちにくい時代なのかもしれない。文化の花が開いた江戸時代中期は幕府からの締め付けがきつかったけど、今はそれもない。自由な分、反発心が生まれないといったこともある。
 ただ、一方では、昔のように文化、文化と声高に叫ばなくても多くの人間が文化的な生活を送れるようになったという成熟がある。今は誰も文化住宅に住んでます、なんて言わない。
 戦前、11月3日は明治天皇の誕生日ということで、明治節(明治時代は天長節)という祝日だった。戦後、この日に日本国憲法が公布されたことで、明治節から文化の日となった(憲法記念日は憲法が施行された5月3日)。戦後のアメリカの政策で、天皇に関する祝日があっては困るということで文化の日と名前を変えた。なんで文化なのかというと、新しい日本国憲法が平和と文化を尊重する憲法だから、という理屈だそうだ。

 最後に十三夜のことを少し。旧暦8月15日の十五夜が中国から輸入した風習だったのに対して、旧暦9月13日の十三夜は日本独自の月見だ。十五夜は曇りになることが多いので、その代わりというのでもないのだけどほとんど曇ることがない特異日の十三夜に、予備日のような形で月見をするようになったとも考えられる。
 宇多法皇が少し欠けた十三夜を愛でたことからこの風習が生まれたとも、醍醐天皇のときに開かれた月見の宴が習慣化したとも言われている。庶民の間では、収穫した栗や豆を供えたことから、栗名月や豆名月などとも呼ばれたそうだ。
 片月見は縁起悪いとして昔から嫌われていたというのはちょっと分からないけど、理屈はどうあれ縁起が悪いのは好きじゃない私は、しっかり両月見をしておいた。写真も撮ったし、月光浴もしたし、何かいいことがあるかもしれない。

 今後どうやって自分の中で文化を育てていくかも課題のひとつとなる。予定としては、まずは文化人と呼ばれるようになってテレビや講演でがっぽり稼ぎ、森繁のようなヨボヨボ演技を身につけた40年後くらいに文化勲章をもらいに皇居まで行きたいと思っている。目標が壮大すぎて何から手をつけていいか分からないけど、追いつけ追い越せ森繁を合い言葉に、とにかく頑張りたいと思う所存であります。

背中にアメジストセージを、耳にはペチュニアを 2006年11月2日(木)

花/植物(Flower/plant)
アメジストセージ

Canon EOS Kiss Digital N+EF 55-200mmII(f3.5-5.6), f5.6, 1/100s(絞り優先)



 何度か見かけたことがある、きれいな色と奇妙な形をしたこの花。ずっと名前が分からなかったけど、やっと判明した。アメジストセージという名前だった。分からなかったのは、野草や園芸種の花ではなく、ハーブ(亜低木)だったからだ。ハーブは種類も多いし、図鑑も持ってないので私にとっては一番の難敵と言える。
 原産地は、メキシコから熱帯アフリカにかけてで、そこからメキシカンブッシュセージとも呼ばれる。またの名を、サルビア・レウカンサ。できれば名前はひとつに統一して欲しいぞ。覚えるのが大変だから。
 サルビアの一種で、セージと名前がついてるわりには薬にも食用にもならないという。サルビア(salvia)は、ラテン語の治療(salvare)や健康(salxeo)から来ていて、多くはハーブとして薬用になるのに、これは美しく咲くことを優先したらしい。ドライフラワーやポプリとする人も多いようだ。
 紫色のビロードのような部分はガク片で、その先についている薄紫のものが花だ。触ると手触りがいい。
 店では鉢植えなどでも売っていて、そのときはそれなりに小さくまとまっておさまっているけど、外に植えるとこんなふうに自由奔放に大きく咲く。さすがメキシカンといったところか。ただし、香りはない。
 放っておいてもよく咲いて手がかからない。なのにどういうわけか、花言葉は家族愛。夫婦愛は手がかかっても家族愛は手がかからないということなのか。
「あしかがフラワーパーク」では、このアメジストセージが2万本も植えられているそうだ。写真で見たら見渡す限りが紫のじゅうたんになっていた。あれはすごい。近くだったら見に行きたかった。

 アメジストセージというのはいい名前だ。この花色に合っている。日本では紫水晶と呼ばれ、水晶の中でも人気が高いアメジストは、2月の誕生石であり、水晶ということで日本の国石でもある(日本の国石は真珠と思っている人が多いようだけど実は水晶なのだ)。
 アメジスト(あるいはアメシスト)は、ギリシャ神話からきている。あるとき、酒に酔っぱらった酒の神バッカスが、憂さ晴らしのために次に通りかかったやつに自分のトラを襲わせてやれと思いついて、そこに通りかかったのが信心深いアメシストだった。驚き逃げまどうアメジストと追いかけるトラ。しかし、それを見ていた月と狩猟の女神アルテミス(ダイアナ)が、アメシストを純白の石に変えた。そのあまりの美しさに一気に酔いが覚めたバッカスは、ごめんよ、メンフラハップと言いながら(それは言ってない)飲んでいた赤ワインを石にそそぐと、それは美しい紫色の宝石に変わったのだった。でもこの話、全然ハッピーエンドじゃない。アメシストはトラに追われて怖い思いをして、更には石にされてしまったのだから、踏んだり蹴ったりだ。
 アメジストというのは、ギリシャ語の酒に酔わないという意味のアメタストスから来ている。そこから、アメジストをつけていると酔わないという言い伝えが生まれ、20歳の誕生日に贈ったり、新婚さんにプレゼントしたりすることが多くなったそうだ。そもそも紫という色は高貴な色であり、精神を落ち着かせるという心理的な効果もあるから、いろんな意味で酔い覚ましにいい。
 水晶がアメジストのような紫になるのは、二酸化ケイ素にわずかな鉄分が混ざることでなる。大きな結晶ができるまでに100万年以上かかるとも言われている。紫が濃いほど貴重で高い。ただし、合成と天然の区別がつきにくいそうなので、選ぶときはやや注意が必要かもしれない。あと、日光に長時間当てると色あせてしまうというのも残念であり、神秘的でもある。

ペチュニア
PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4)

 これもよく見かけるのに名前が分からなかったもののひとつだ。分かってみれば、そうそうそうだったと思う、ペチュニア。言いにくような覚えやすいような微妙な名前。ペチュニア・ヘルツェゴビナなどと続いてくれた方がかえって覚えやすいような気がするのは気のせいだろうか。
 民家の花壇やプランターなどで見かける機会が圧倒的に多いことを、今更ながら思い出す。いろんな色のものや形もものがあるものの、どれも共通性があるから仲間だと分かりやすい。基本的には、ピンク、赤、白、紫、青あたりが多いだろうか。絞りや二色咲き、八重咲きなどもある。
 原産は、南米アルゼンチンのラプラタ河流域だそうだ。発見されたのは大航海時代で、コメルソンというフランス人がウルグアイの首都モンデビデオで発見したのが始まりと言われている。ただ、原種はもっと地味で小さなもので、1830年代にイギリスで、アキシラリスとインテグリフォーリアというふたつの原種を掛け合わせることで様々な品種が生み出されるようになった。
 その後世界に広まり、日本では第二次大戦前に坂田という人が作り出した八重咲きが、世界のペチュニア愛好家たちを驚かせたんだそうだ。現在でも、日本のペチュニアは世界のトップだという。
 語源は、ブラジル原住民の言葉でタバコを意味する「ペチュン」から来ている。花がタバコの花に似ているからとか、花をタバコに混ぜて吸っていたとか、そんなことも関係してるようだ。
 別名は、ツクバネアサガオ(衝羽根朝顔)。確かにちょっとアサガオにも似ている。品種名は、シリーズ名と色の名前が合体していて、バカラブルーとか、ボンフリーパープルなどとなる。そこまで覚えて区別できるようになれば立派なペチュニア野郎となれるだろうけど、それほどの情熱をペチュニアに傾けることはできそうにない。
 花言葉は、あなたといると心が和む。女の人にそう言われたときの男は、喜んでいいのか嘆くべきなのか、ちょっと迷うところだ。
 アメジストセージの束を背中にしょって、耳にペチュニアを差せば、家族愛に包まれつつ人の心を和ませる癒し系の男となれるかもしれない。私はイヤだけど、誰かやってみてください。道行く人は逃げても、その姿を見た私の心は和むでしょう。

いつもお世話になっている牛さんと少し距離を縮めてみた 2006年11月1日(水)

動物(Animal)
牛さんたち

OLYMPUS E-1+Super Takumar 135mm(f3.5), f5.6, 1/160s(絞り優先)



 牛は私たちにとって非常に馴染み深い生き物であると同時に、直接触れ合う機会がほとんどない動物でもある。牛の頭をなでたことがある人、手を挙げて! 突然そんなことを街頭で叫んでみても誰も相手にしてくれないけど、たとえ反応してもらえてもほとんど手は挙がらないだろう。そこに田中義剛がたまたま通りかかったなら別だけど。
 牛乳、チーズ、牛肉、牛革製品。十二支との丑、牡牛座、松阪牛、仙台の牛タン、狂牛病、吉野家、キャトルミューティレーション(それはあまり馴染みがない)、近鉄バッファローズ(もうない)。スペインの闘牛、社会党の牛歩戦術、クローン牛、牛に引かれて善光寺参り、などなど牛に関するネタは尽きない。小学校の給食で、牛乳を飲んでいるときに友達に笑わされて鼻から牛乳を吹き出したことがあるという人も多いと思う(多いか?)。けど、胸の大きな女の人をホルスタインみたいだなというたとえは最近めっきり聞かなくなった。瀬川瑛子の牛のモノマネをまた見たい。

 なにしろ牛というのは、この地球上で人間の次に数が多いほ乳類なのだ。世界中にたくさんたくさん飼われている。ちょっと意外と思うかもしれないけど、野生の牛も世界にはけっこういる。東南アジアとか、オーストラリアとか、香港にだっているらしいし、日本にもいる。鹿児島の南にある口之島というところにいるそうだ。
 広く言えば、牛は5属14種ほどがいるということになる。もともと野生の牛は南北アメリカ大陸やユーラシア大陸などの広い地域にいた動物で、日本にもいた。それは文明が生まれるずっと前のことで、1万7千年前にクロマニョン人が描いたとされるラスコーの壁画にも牛がいる。それを捕まえて家畜としたのは、紀元前6,000年ほどのことで、西アジアあたりだったのではないかと言われている。イラクのジャルモ遺跡からも家畜牛の骨が見つかっている。
 最初は肉や皮をとるためだったのが、だんだん乳の重要性に気づいていったという流れだったのだろう。それに気づけばチーズやヨーグルトなんかを作り出すにも時間はかからなかったはずだ。労働力としても活躍していたに違いない。牛糞は肥料にも、燃料にもなった。
 日本でも先土器時代には牛とのつき合いが始まっとされる。日本の場合は、最初に農業の手伝いをさせることを主目的にしていたようだ。儀式の生け贄などにもされたらしい。
 牛乳というものを知ったのは飛鳥時代で、渡来人によって孝徳天皇に献上したのが始まりだそうだ。それ以降、奈良、平安と進むにつれ、乳牛の飼育と牛乳は上流階級で少しずつ浸透していった。
 あるいは、牛車(ぎっしゃ)という乗り物も発明された。平安貴族たちの間で一大ブームを巻き起こし、マイ牛車に紋を入れたり様々な飾りをして乗り回していたという。スローモーなデコトラみたいなものだ。
 ただし、牛車も牛乳もまだまだ上の方だけの話で、農民は農作業の友として牛は欠かせないものだった。
 時代は進み江戸時代、この頃になってから初めて牛肉が食べられるようになる。最初はお殿様たちの間で、江戸末期には庶民も食べるようになる。ただ、一般的には明治時代に入ってからだから、牛肉文化の歴史は案外浅い。これも文明開化の西洋からの影響が大きかったのだろう。もともと日本人にとって牛は食べるものではなかった。ヒンドゥー教では牛は神聖な生き物として、今でも食べるのがタブーとなっている。

 酪農というとやはり思い浮かべるのは北海道だ。特に「北の国から」の草太兄ちゃんが最新式の酪農システムを取り入れて自慢げだったときの痛々しさが記憶に残っている。その他、岩手県、千葉県、栃木県、長野県、熊本県などでもさかんだそうだ。
 日本で最初に酪農が行われたのは江戸時代、徳川吉宗のときで、今の千葉県の房総でインド産の白牛を育てて牛乳やバターを作ったのがはじまりとされる。ここは幕府直轄領となって、吉宗は乳製品でウハウハだった。
 乳牛は一日にどれくらいのミルクを出すか、という問題がこの前ミリオネアで出て、その答えを聞いて驚いた。一頭で一日に20-30リットルも乳を出すというのだ。2リットルの大きいペットボトル10本以上。こりゃあ、牛を一頭飼っても牛乳は飲みきれないな。乾し草などを一日で30キロくらい食べるというから、そのエサ代も大変そうだ。って、牛飼う気かよ、私。
 牛は胃袋が4つあって、飲み込んだ食べ物を胃から口に戻してきて反芻する。よくよだれもたらしている。人間は反芻しない生き物でよかった。
 睡眠時間はだいたい4時間くらいと短い。その中でノンレム睡眠とレム睡眠があるというから、牛も寝ながら夢を見てるのだ。牛が見る夢って、なんだか想像できない。牛車になって暴走してる夢ではないと思うけど。
 英語のCattleは、ラテン語の資本や財産を表すCaptaleから来ている。牛をたくさん持っている人ほど裕福だったということだろう。雄牛をbull(ブル)、雌牛をcow(コウ)として区別することもある。田中義剛は「べこ」と呼んでいる。

 勉強してみると意外と知らいことも多かった牛について。これでちょっと親しみがわいたから、今後はもう少し牛との距離を詰めていきたいと思う。愛知牧場へ行けばかなり近づくこともできるし、背中くらいは触れるかもしれない。搾乳体験もできるから、これも一生に一度くらいはやっておくべきだろう。牛乳とヨーグルトは毎日飲んでお世話になっていることだし。ただし、あまりにも牛ちゃんのことが好きになりすぎて、そのまま勢い余って田中義剛のところで働きだしてしまっても困るので、ほどほどにしておきたい。アイボクでも、牛を見てうっかりべこと言ったりしてしまわないように気をつけよう。動物好きの男というのは女の人にとって悪い印象は持たないと思うけど、ものすごく牛が好きな男というのは大きなマイナスになる気がする。今後は牛とのいい感じの距離感を模索していこうと思う私なのだった。

桶をふたつかついで玉の輿に乗ろう大作戦in大森 2006年10月31日(火)

神社仏閣(Shrines and temples)
大森寺前

Canon EOS Kiss Digital N+EF-S 18-55mm(f3.5-5.6), f4.5, 1/15s(絞り優先)



 守山区の大森(おおもり)に、大森寺(だいしんじ)という寺がある。あまり有名ではない。もしかしたら、歩いて3分の距離にある金城学院の学生でもあまり知らないかもしれない。しかしこの寺、ちょっとした由緒のある寺なのだ。
 創建は江戸時代の1661年。尾張藩二代藩主だった徳川光友(みつとも)が、母親の歓喜院乾の方の菩提寺として作ったのが始まりだ。大森は乾の方の生まれ故郷で、それまで江戸の小石川伝通院にあったお墓をここに移してきたのだった。
 正式名称は、「興旧山歓喜院大森寺」。門をくぐって中に入っていくと、ちょっと雰囲気のある石畳があり、モミジなどもあって、紅葉の季節には絵になりそうだ。山門は閉ざされていた。いつもなのかどうかはよく分からない。これ以上入っていけないかと思うと、山門の横に道があるので、そこから回り込んで入っていける。するとそこは、むむ!? なんだ? 民家の庭風。たくさんの木々や竹林に囲まれていて、旧家の庭のような感じになっている。いわゆる普通のお手さんとは違っていて戸惑いを隠せない私。鐘楼があるから間違いなく寺なんだけど、本堂もどれがそうなのか判然としない。観光用の寺じゃなければこれが普通なのだろうか。大部分の建物は明治8年の火事で燃えてしまったそうなので、建て替えるとき普通の民家風にしたのかもしれない。本尊の阿弥陀如来だが無事だったのは幸いだった。乾の方の墓は本堂の裏手にあるらしい。
 ここは名古屋でも貴重なヒメボタルの生息地として一部で有名だ。夜は解放してるのかどうか知らないけど、来年は機会があったら行ってみたいと思う。ただ、うっかり入っていって和尚に捕まったりしないように気をつけよう。あの肩を叩く木のヤツで、いきなり背後からピシャーンとやられたら心臓マヒで昇天してしまうかもしれない。

大森寺山門

 山門にかかっている額の「興旧山」という文字は光友自筆なんだそうだ。ほうほう、なるほど。でもこんなとき、字が下手じゃなくてよかった。当時は日ペンの美子ちゃんとかないし。私はいまだにエーカンのペン字マシーンをときどき思い出したように弾いているけどね。

 ここで尾張藩についてちょっと勉強してみたい。徳川御三家筆頭として、尾張藩は明治の廃藩置県まで17代(16人)の藩主が名古屋城を守り続けた。しかし、ついにひとりの将軍を出すこともなく終わった御三家でもあった。御三家といえば、舟木一夫と橋幸夫と西郷輝彦だよね! なんて言ってる場合じゃない。尾張藩からもひとりくらいは出しておきたかった。
 初代藩主は、徳川家康の九男・徳川義直で、この人はなかなか立派な人だった。3代将軍家光とは叔父甥でライバル関係にあって、もしかしたら将軍になっていた可能性もあった。本人もやる気満々で、家光が病気になったとき、大軍をひきつれて江戸まで行って騒動になったりもしている。
 2代目光友はその長男で、25歳のとき父の死によって家督を継いだ。ひとり息子ということもあって苦労知らずなところが当時の人たちには歯がゆく映ったこともあったようだ。良く言えば文武両道の風流人、悪く言えば道楽者といった感じだろうか。それゆえ、足跡や業績がたくさん残っている。
 元々尾張藩は金があった。表裏あわせて70万石ほどの実入りがあったから、かなりいろいろできた。特に神社仏閣などには力が入っていたようで、この大森寺を建てたり、熱田社などを改築したり、徳川家の墓所として建中寺を建てたりしている。
 その他、鷹狩りをするために、東海市の高横須賀町に豪華な別荘を建てたり、極めつけは江戸の下屋敷があった新宿区戸山に現代でいうところのテーマパークなんかも作ったりもしている。東京ドーム10個分の広さの土地に、東海道の小田原宿を原寸大で再現して家臣たちと小田原宿遊びをしていたという。更に土を運んで箱根の山まで作ってしまうという力の入れよう。もちろん、宿屋や商店などもそのまま再現してるから、家臣や家族たちは町人などに扮しなければいけない。そりゃあ陰口も叩かれようというものだ。けど、こういう人、私は好きだなぁ。現在でも、光友が作ったニセ箱根山が東京23区で一番高い山というのも笑える。
 武も風流も好んだ光友は、自らも新陰流を習って尾張に広めたりもした。花菖蒲の江戸系と呼ばれるものは、光友が江戸屋敷の庭で各地の野生の花菖蒲を掛け合わせて作っていたものが元になっている。
 今でも愛知名物となっている坂角(ばんかく)のえびせん「ゆかり」の生みの親は光友だったりもする。知多へ遊びに行ったとき、浜辺で漁師がエビのすり身をあぶって焼いてるのを見て、試しに食べてみたらとっても美味しかったので、これを本格的に作って城に持ってくるようにと命じたことで「ゆかり」は生まれ、以降徳川家への献上品となったのだった。

 生まれながらの殿様育ちの半面、豪放でやや品のないようなところは母親譲りと言えるかもしれない。
 大森の百姓の娘として生まれた光友の母・乾の方は、本来なら殿様の子供など産むような境遇にはなかった。初代藩主の義直は鷹狩りが好きで、よく春日井原の方に遠出をしていた。あるとき、帰り道で突然の雨に襲われた義直一行は、大森で雨宿りを余儀なくされた。突然のお殿様の到来に村はてんやわんやの大騒ぎとなる。今だって急にうちに安部首相が訊ねてきても困るけど、当時の藩主と町民、百姓の差はそれどころではない。殿様が通るときは地面にひれ伏して顔を上げてもいけなかった時代だ。
 乾の方も一行のお世話をするためにて大わらわで舞い上がってしまった。大の力持ちだった乾の方は、たっぷりのお湯が入った桶をふたつもかついでうろうろしていたら、うっかり殿様のところに迷い込んでしまい気が動転。思わず取り落とした桶のお湯が殿様にかかってしまった。本来なら完全に切り捨て御免コース一直線のところ、人生何が起こるか分からない。義直は、桶をふたつもかつげる女なら、さぞや立派な男の子を産めるに違いないと惚れ込んでしまった。乾の方は、そのまま義直の側室となり、だだひとりの男子光友を生むことになる。ただ、あまりにも生まれ育ったところと環境の違うお城暮らしは、乾の方にとって幸せなものではなかったようだ。人生、何が災いするか分からない。

 光友の正室は、オヤジさん同士が仲の悪かった3代将軍徳川家光の娘・千代姫だった。しかし、この縁談はいろんな意味で金のかかるものとなり、大火で江戸の上屋敷が焼け落ちてしまったことなども重なり、尾張藩の財政は一気に傾くこととなる。
 それでも光友はめげたりはしない。68歳のとき隠居して家督を長男の綱誠に譲ると、現在の大曽根あたりの土地を買い込んで、大隠居屋敷を建てて、そこに移り住んだ。13万坪というから、相当な広さだ。現在はその場所に徳川園と徳川美術館がある。
 初代藩主の義直は本人が気に入っていた瀬戸の定光寺に墓があり、光友など歴代の尾張藩主は、光友が建てた建中寺が墓所となっている。
 大森寺あたりを観光で訪れる人は少ないだろうけど、こんな場所にもそんな歴史があったのかと思いながら訪ねてみると、ちょっと感慨深いものがあるかもしれない。
 5月の中頃、深夜に大森寺の境内でモゾモゾしている怪しげな男がいたら、ヒメボタルを観察している私の可能性があります。いきなり脅かしたり通報したりしないでください。怪しい者ではありません。