月別:2006年10月

記事一覧
  • 白馬の王子様はいないけど王子バラ園は素敵なところ 2006年10月30日(月)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f5.6, 1/15s(絞り優先) 上弦の月を見上げるビクターボーグ。バラに月を。月にバラを。バラも眠れない夜は月を見ているのかもしれない。 1991年にデンマークで生まれたこのバラは、秋が深まり他のバラが次々と終わっていく中、最後の生き残りとしてピンク・オレンジの花を咲かせていた。もう、秋バラも終わりが近づいた。 春日井にある王子製紙工場の社宅の一角にバラ園がある。その名...

    2006/10/31

    施設/公園(Park)

  • 秋だから美味しい和食が食べたいよねサンデー料理 2006年10月29日(日)

    PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.0, 1/25s(絞り優先) 前回のサンデー料理の中で、自分が作りたかったのは図画工作的料理だということに気づいた。今回はそれを意識して図工的な料理に取り組むというのが自然な流れなのだろうけど、私の場合、分かってしまうととたんに興味を失ってしまうという悪いクセがあって、今回はそうならなかった。スポーツでも趣味でも、ある一定の線を越えてしまうとやめてしまうというのも...

    2006/10/30

    料理(Cooking)

  • 岩崎城は小牧長久手の戦いでひとつのキーとなった城

     愛知県のあまり知られていない城を紹介するマイナー城シリーズ。今日は日進市にある岩崎城を取り上げたいと思う。愛知県民でもこの城のことを知っている人はあまりいないんじゃないかと思う。私が知ったきかけは、ほんの偶然からだった。地図を見ていたとき、たまたま岩崎城跡公園というのを見つけて反応した。岩崎城? 聞いたことない。でも試しに行ってみたら、思いがけずちゃんとした天守があって驚いた。存在自体まったく知...

    2006/10/29

    城(Castle)

  • アイボクとコスモスと逆光の馬とまだ見ぬジェラートと 2006年10月27日(金)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 135mm(f3.5), f5.6, 1/160s(絞り優先) 愛知牧場のコスモスが満開を過ぎたという話を聞いて、ちょっと焦って出かけていった。花はなんでも満開過ぎよりも満開前の方が美しい。桜でもユリでもコスモスでもそうだ。 行ってみると、やはり出遅れを感じた。かなり枯れ花が目立ち始めていて、もう遅いのや、と明石家さんまのモノマネをしてみたけど誰も耳を傾ける人はいない。若手のカップルやちびっ子を...

    2006/10/28

    施設/公園(Park)

  • 名東区の3大緑地のひとつ明徳公園は何もない秋です

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 28mm(f3.5), f4.5, 1/160s(絞り優先) 名古屋市の住宅地としてなかなかに評判がいい名東区。適度に静かでほどほどに都会で、栄や名駅まで40-50分という立地が人気の秘訣だろう。 私が住んでいるのは誰が呼んだか名古屋のチベット・守山区。道一本隔てているだけなのにこの扱いの違い。うちのベランダから生卵を投げたら名東区の民家にぶつかる距離なのに。 守山区の愚痴は置いておいて、名東区は郊...

    2006/10/27

    施設/公園(Park)

  • 秋の雨池は生の爆発と静かな死の見えないコントラスト 2006年10月25日(水)

    Canon EOS Kiss Digital N+EF-S 18-55mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/30s(絞り優先) この写真を見せて、これは池なんですよと言ったら、人は信じるだろうか。でもこれは実際、池なのだ。インディアン嘘つかない。どう見ても畑か、草原か、芝生か、地面に生えた緑にしか見えない。うっかりしてると、この上を歩いて向こうまで行こうとしてしまいそうだ。忍者ハットリくんなら行けるかもしれないけど、常人には無理なのでやらない方がいい...

    2006/10/26

    海/川/水辺(Sea/rive/pond)

  • ミッドランドスクエア半完成でトヨタの歴史と未来を思う 10月24日(火)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 28mm(f3.5), f5.6, 0.5s(絞り優先) 午前5時半。日の出前。明るくなり始めた空が、見慣れた風景を不思議な色に染める。夜でもなく朝でもない狭間には、静けさとわずかなざわめきが入り交じる。夜の終わりと朝の始まりが交差して、街はゆっくりとリズムを刻み始めるのだ。 中央遠くに見えているのが、名古屋駅のセントラルタワーズと、今度新しくできたミッドランドスクエアだ。朝日を浴びると、ボー...

    2006/10/25

    名古屋(Nagoya)

  • 花の名前を知ることで、自分の心の中に花が咲く 2006年10月23日(月)

    Canon EOS Kiss Digital+TAMRON SP 90mm(f2.8), f3.5, 1/80s(絞り優先) 気がつけば秋。振り向けば夏。遠くからは冬の便りも届き始めた昨今。ふと我に返ると、花の名前の勉強をすっかり怠っていることに気づいた。あ、今寝てた、私? 春まではしっかり季節の歩みについていっていたのに、夏頃から遅れがちになって、秋になる頃にはたくさんの野草が私から遠ざかっていったのだった。一体何をしていたんだ、私は。逃した野草は数...

    2006/10/24

    花/植物(Flower/plant)

  • 自分が作りたいのは図画工作的料理だった 2006年10月22日(日)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f4.0, 1/50s(絞り優先) 今日ふいに、自分が料理に何を求めているかがやっと分かった。私がやりたいのは図画工作だったのだ。普通の意味で料理が上手くなりたいというわけではなかった。学校の授業で一番楽しかった図工を料理でやっていたのだ。そうか、そうだったんだ、とひとり納得する日曜日の夕暮れどき。 だから、味への追求がおろそかで、フランス料理や懐石料理なんかに惹かれた...

    2006/10/23

    料理(Cooking)

  • シュー、ウッズ、シャワポワ、ガッツ、この共通点は? 2006年10月21日(土)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.0, 1/60s(絞り優先) バナナを見ると反射的にガッツ石松を思い出す。たぶん、ガッツは世界でもっともバナナが好きな人間の中のひとりだと思う。「めちゃイケ」の寝起き早食い選手権では、5.2秒という世界新記録をたたき出していた。ありゃあ人間ワザじゃねぇ。目が覚めて目の前に差し出されたバナナに5秒でかぶりつくなんて、もはや思考を超えた本能だったな。 私はといえば、昔から...

    2006/10/22

    食べ物(Food)

  • 清洲城 後編---キミは3万5千円の信長像を見るか!? 2006年10月20日(金)

    Canon EOS Kiss Digital N+SIGMA 18-125mm(f3.5-5.6), f4.5, 1/125s(絞り優先) 清洲城は、名古屋市民や愛知県民よりも、JR東海道本線や名古屋-関西方面の新幹線をよく利用する人にとっての方が馴染み深いかもしれない。夜に名古屋へやって来たとき、その手前で突然ライトアップされた清洲城が現れて驚いた人もいると思う。 名古屋駅からさほど遠くない距離にあるとはいえ、名古屋の人間がわざわざ出向いていくほどの観光地でも...

    2006/10/21

    城(Castle)

  • 清洲城物語・歴史編---長くなりすぎたので前編のみ 2006年10月19日(木)

    Canon EOS Kiss Digital N+SIGMA 18-125mm(f3.5-5.6), f5.0, 1/80s(絞り優先) メジャーでもなくマイナーでもないお城のことを、歴史にあまり興味がない人に説明するのは難しい。たとえばこの清洲城などがそうだ。戦国時代が好きな人には説明するまでもない城だけど、日本史なんてまったく興味ないワって人に向かって清洲城が信長にとっていかに重要なお城だったかを熱く語ってもたぶんダメだと思うのだ。言葉を重ねれば重ねるほ...

    2006/10/20

    城(Castle)

  • 近場で修学旅行気分が味わえる妙興寺 2006年10月18日(水)

    Canon EOS Kiss Digital N+SIGMA 18-125mm(f3.5-5.6), f5.0, 1/15s(絞り優先) 愛知県一宮市(いちのみやし)に、古くて立派なお寺があると知ったのは去年のこと。喜び勇んで出向いていったら、閉まっていた。閉門が5時だということを知らなかった私は、固く閉ざされた門の前でしばし佇む人となったのであった。たのもー、とかひと言叫びたかった。 その反省を生かして、今回はちゃんと4時に行った。今度はしっかり門も開いてい...

    2006/10/19

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 自分の中で中途半端なブドウを秋の味覚トップに抜擢 2006年10月17日(火)

    Canon EOS Kiss Digital N+EF 50mm(f1.8), f2.0, 1/20s(絞り優先) 秋の味覚といえばシイタケで決まりだネ、という特殊な人をのぞいて、秋ははやりマツタケであり、サンマであり、果物でいえばブドウや梨ということになるだろう。その他、栗もあるし、季節が進めば柿やミカンも出回ってくる。そんな中で、秋のトップバッターとして私が選んだのはブドウだった。まずは無難な選択と言えるだろう。 それにしても、果物世界におけ...

    2006/10/18

    食べ物(Food)

  • 忘れてきた夏の花の宿題を取りに少し過去に戻る 2006年10月16日(月)

    Canon EOS 10D+Super Takumar 55mm(f1.8), f2.8, 1/640s(絞り優先) 季節はすっかり秋の深まりを見せている中、保存写真のフォルダを見ていたら、とりこぼしていた花がいくつか見つかった。そこで夏の花の宿題を秋の今のうちにやっておくことにした。江戸の敵を長崎で討つようなものだ(それは全然言葉の使い方が間違ってるぞ)。 まずはクサギから。カタカナで書くとまったくインパクトはないけど漢字で臭木と書くとあなたもき...

    2006/10/17

    花/植物(Flower/plant)

  • 料理は誰にでもできて、できないよりできた方がいい 2006年10月15日(日)

    Canon EOS Kiss Digital N+EF 50mm(f1.8), f4.5, 1/25s(絞り優先) 料理は心だというのは、入口と出口でのことであって、中間はあくまでも知識と経験と技術だ。確かに初心として、心を込めて料理を作ることは大切なことだし、技術が究極まで極まればあとはどれだけ心を込められるかということになってくる。ただし、その間にいる人間としては、心を込めても美味しくなければやっぱり駄目だと思うのだ。心を込めてテストを受けて...

    2006/10/16

    料理(Cooking)

  • ヒクイドリとツルに学ぶそれぞれの在り方と自由について 10月14日(土)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f4, 1/250s(絞り優先) ひと目見て、こいつぁ恐竜だと直感的に思った。鋭い目や肌の質感が確かに恐竜を思わせた。実物の恐竜を見たことはないけど、遺伝子の遠い記憶が私にそう告げた。 名前がまた恐ろしい。ヒクイドリという。漢字で書くと、火食鳥。火を吐くのではなく食ってしまうのだ。いや、もちろん本当に火を食べたりはしない。ノドから赤い肉が一対たれ下がっていて、これを見た...

    2006/10/15

    動物園(Zoo)

  • 吊り橋理論実践の前に白沢渓谷の吊り橋で下準備を 2006年10月13日(金)

    Canon EOS Kiss Digital N+EF-S 18-55mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/40s(絞り優先) 名古屋市内に吊り橋があると言ったら名古屋人は信じるだろうか。私は去年初めて聞いたときは、にわかには信じられなかった。いくらなんでも吊り橋はないだろうと。しかし、それは確かにあったのだ、しかも我が町守山区に。だから守山区は、って言われてしまうのだろう。 かつては堀川にもかかっていたらしいけど、現在では市内の吊り橋はここただ一本...

    2006/10/14

    名古屋(Nagoya)

  • 川原神社は弁才天のいる歴史のある神社

     たとえばドリンク剤でもサプリメントでも、成分や効能を知ってから飲んだ方がよく効くような気がするように、神社もまたその由来や祭神なんかを事前に調べた上で出向いた方がありがたみが増すということがある。何の予備知識もなくふらりと立ち寄ってお参りした神社をあとから調べてみると思いがけない伝説や歴史があったりして、こんなことならもっとしっかりお参りしてくればよかったと思うことがある。 川原神社(かわらじん...

    2006/10/13

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 遠い海を越えて届いた荷物を手に郵便に思いを馳せる 2006年10月11日(水)

    Canon EOS 10D+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.0, 1/15s(絞り優先) エアメール。甘美な響きを持つ言葉だ。遠い国から風に乗ってやってきたようなロマンチックがとまらない。ゲーム「ルナ・シルバースターストーリー」の挿入歌「風のノクターン」を思い出す。♪見知らぬ国から 海を渡って吹く風はね やさしく耳のうしろをすぎる♪ でも、郵便物は耳の後ろを通って過ぎていっては困る。ちゃんと手元に届かないと、とまどう想いを...

    2006/10/12

    室内(Room)

  • 秋の夕陽に浮かぶススキとエノコロと半袖の自分と 2006年10月10日(火)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f5.6, 1/500s(絞り優先) 中秋の名月も過ぎて、季節はいよいよ秋本番。いまだ半袖、裸足の私を置いてけぼりにして、街はいよいよ秋の深まりを強めていく。 夕焼けの川沿いを車で走っていたら、ススキが風に吹かれてゆるやかに揺れていた。こんな景色を見れば、嫌でももう秋を感じずにはいられない。そろそろ夏服をしまって冬服を出さなければいけないかもしれない。ホコリをかぶった扇風...

    2006/10/11

    花/植物(Flower/plant)

  • 21世紀になっても砂漠の舟ラクダさんが頼りです 2006年10月9日(月)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f5.6, 1/50s(絞り優先) なんとなく微笑んでいるように見えたラクダさん。どの角度から撮ろうかと移動しながら狙っていたら、向こうもそんな私をずっと追いかけて見ていた。観察しているつもりが観察されているのは私の方だった。動物園は動物の側から見れば、人間ウォッチングの場だ。人間でも見てなくちゃ退屈でやりきれない。 砂漠の舟と呼ばれるラクダは、21世紀の今でも砂漠で人の乗...

    2006/10/10

    動物園(Zoo)

  • 神田川料理道場入門までの長い道のりサンデー料理 2006年10月8日(日)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f4.0, 1/20s(絞り優先)「Book off」の100円コーナーで、神田川俊郎の古い料理本を見つけた。裏の写真を見ると、ものすごく若い神田川俊郎がにっこり微笑んでいて、思わず吹き出しそうになる。「Book off」の100円コーナーで笑ってる人はあまり見たことがないと思うけど、もしそのときの私を見て、あいついい本を100円で見つけて喜んでやがるぜと思った人がいたら、それは誤解です。若い神...

    2006/10/09

    料理(Cooking)

  • 小松未歩に関する自分のための覚え書き、あるいは宣伝

     小松未歩はどの程度マイナーなんだろう? という素朴な疑問がある。どれくらいメジャーなんだろうという問いよりもマイナーさ加減が気になったりする。 J-POPをよく聴く人でも、もしかしたらもう忘れてしまった人が多いんだろうか。アニメ「名探偵コナン」の主題歌を歌ってた人、というくらいの認識の人もいるかもしれない。そういえば昔いたよね的な人もいるだろう。 私の中で小松未歩の存在は、もはや揺るぎがないほど確固...

    2006/10/08

    音楽(music)

  • いつか湖上の舟であなたと中秋の名月を見たいような 2006年10月6日(金)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/13s(絞り優先) 今日、2006年10月6日は、中秋の名月だった。関東地方は大荒れの天気だったようだけど、名古屋は午後には雨が上がって、夕方には雲が多いながらも月が顔を出した。気象予報士の寺尾くん、また予報はずしたな。 せっかくだから、今日は中秋の名月について書こうと思う。知っているようでよく知らなかったこの行事のことを調べて書いて、心にかかった雲を吹き飛ばそ...

    2006/10/07

    風物詩/行事(Event)

  • 知恵の実イチジクを食べて賢くなったら次はどこへ行く? 2006年10月5日(木)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/40s(絞り優先) 人は一生のうちにイチジクを何個くらい食べるのだろう? 私は今のペースが変わらないとすると、50個いかないんじゃないかと思う。年に一度食べるかどうかだから。よほど心を入れ替えて積極的にイチジクと向き合っていかないと100個は難しい。 たぶん、生まれて初めて食べたのは小学校低学年の頃、親戚の家でだったと思う。庭に生えていたイチジクを出してくれた...

    2006/10/06

    食べ物(Food)

  • 結局のところうまくイメージできない安倍晴明の人物像 2006年10月4日(水)

    Canon EOS kiss3+EF28-105mm(f3.5-4.5)+Kodak ULTRA COLOR 400UC ナゴヤドームのほど近くに名古屋晴明神社がある。安倍晴明を祀った小さな神社が。晴明が晩年(987年)、左遷されるような形で名古屋に移ってきて、このあたりに一年ほど住んでいたという伝説がある。全国にそういう晴明にまつわる伝説はたくさんあるし、ここもそういうひとつで実際には来てないだろうと普通は思う。ただ、この年というのは晴明の公式記録がなく、...

    2006/10/05

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 7度目の岩屋堂はまたもや私に微笑まず、手ぶらで帰る 2006年10月3日(火)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f4.0, 1/40s(絞り優先) 好き嫌いを別にした相性というものが人と人の間にあるように、人と場所の間にも確かに相性といったようなものが存在する。そういう意味で、私と岩屋堂との相性はよくない。かなり悪いと言った方がいいのかもしれない。今年の春の初め、セリバオウレンが咲いていると教えてもらって行くもどうしても見つけられず、もう一度行っても尚見つからなかったり、岩巣山に...

    2006/10/04

    施設/公園(Park)

  • ダチョウに乗ってサラブレッドよりも速く駆け抜けろ 2006年10月2日(月)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f5.6, 1/125s(絞り優先) ダチョウの首から上だけ見ると、ガリガリにやせた職人のじじいみたいな頑固さを漂わせていて風情がある。弟子にはめっぽう厳しいが孫には甘い、みたいな。大工のはっぴが似合いそうだ。ダチョウくらい首から上と体つきのバランスが悪い生き物はそういない。アルパカさんもちょっとヘンだったけど、ダチョウはそれ以上のアンバランスさだ。ここから下が突然丸々と...

    2006/10/03

    動物(Animal)

  • 必死すぎる手作り料理は簡単手料理に及ばざるがごとし 2006年10月1日(日)

    OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.0, 1/13s(絞り優先) 今日のサンデー料理のコンセプトは、あえて手作り。日頃、完成しているのを買うのが当たり前と思っているおかずを、もっと前の段階から手作りしてみたらどうなんだという思いつきから始まった。 そして作ったのがこの3品。シュウマイ、ソーセージ、豆腐。これらを日常的に手作りしてる人はあまりいないと思う。それこそシュウマイ屋さんかソーセージ屋さんか豆腐...

    2006/10/02

    料理(Cooking)

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白馬の王子様はいないけど王子バラ園は素敵なところ 2006年10月30日(月)

施設/公園(Park)
遅かった王子バラ園

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f5.6, 1/15s(絞り優先)



 上弦の月を見上げるビクターボーグ。バラに月を。月にバラを。バラも眠れない夜は月を見ているのかもしれない。
 1991年にデンマークで生まれたこのバラは、秋が深まり他のバラが次々と終わっていく中、最後の生き残りとしてピンク・オレンジの花を咲かせていた。もう、秋バラも終わりが近づいた。

 春日井にある王子製紙工場の社宅の一角にバラ園がある。その名も「王子バラ園」、素敵なネーミングだ。去年の初夏、初めてその存在を知ってから今回が4度目の訪問となった。しかし、完全に出遅れた。花がポツリ、ポツリとしか残っていない。遅すぎた春ならぬ遅すぎた秋。この暖かさにすっかり油断してしまった。
 秋バラは夏バラに比べると断然数は少ないものの、色が鮮やかで香りも強くなるので、秋ならではのよさもある。秋バラ好きの人も多い。ただ、今日くらい少なくなってしまうとさすがに寂しすぎた。岐阜の花フェスタは今ごろどうなってるんだろう。あそこは種類が多いからまだ賑わってるんだろうか。
 王子バラ園は、一般に無料開放されていて、誰でも気軽にバラを見ることができる。全部で200種類2,000株というから、なかなか見応えがある。手入れも行き届いていて、気持ちがいい。初夏のシーズン中は近所の人たちで賑わいを見せる。

新しい波

 遠巻きに見るとすっかり寂しくなったバラ園も、咲いているバラに近づいて見てみると、きれいに咲いているものも残っている。今回見つけたお気に入りがこれ。「ニュー・ウェーブ」というプレートをメモ撮りして、帰ってきてから調べてみると、またもや寺西菊雄。これには自分でも驚いた。
 というのも、私が一番好きなバラがマダム・ヴィオレで、これが寺西菊雄作出で、その後いいなと思った荒城の月、天津乙女など、ことごとくが寺西菊雄が作り出したバラだったのだ。これだけ符号するということは、よほど私のバラの好みと寺西菊雄の作りたいバラが一致するということだろう。菊雄なのに菊じゃなくバラ作りの名人になったというのも素敵だ。というか、薔薇雄という名前はちょっとイヤだ。
 まあしかし、寺西菊雄ファンは世の中にたくさんいるから、驚くこともないのだろう。このニュー・ウェーブも人気が高いバラだそうだ。切り花ではフォルムという名前で売られていることも多いとか。
 2000年作出のモダンローズで、ハイブリッドティー、直立性、八重平咲き。名前の通りウェーブがかかっているのが特徴だ。色は咲き始めがやや青色がかった紫で、開いていくとピンクが強くなる。香りの強さも人気の秘訣だろう。私はあえて臭わないマダム・ヴィオレが好きなのだけど。

王子製紙の夕暮れ

 かつて製紙工場は公害の元凶だった時代があった。煙突から出る煙や、たれ流す産業廃棄物によって、街や川や海は汚された。あれから時代は流れ、環境問題が声高に叫ばれるようになって製紙工場も大きく変わった。今はもう、煙突から出る煙を見てもおびえる気持ちはない。こうして夕暮れどきに煙突からはき出される煙を見ていると、まだまだ元気に稼働してるなとちょっと嬉しくなったりもする。花粉症の私のためにせっせとネピアを作っておくれよとも思う。
 王子製紙は春日井が本社だと思っていたら違った。元々東京の北区王子に渋沢栄一が作った「抄紙会社」が前身なんだとか。なんで春日井と思ったかといえば、都市野球の野球部が「王子製紙春日井」だったからだ。しかしこれも、2002年に米子チームと苫小牧チームが廃部となって春日井に吸収されたことで、チーム名は「王子製紙」となった。ただ、これが戦力アップにつながって、2004年の都市対抗では初優勝を飾ったのだった。ケガの功名と言うべきか。
 最近では、北越製紙に対して敵対的買収を仕掛けて失敗したといので話題になった。

 そんなこんながありつつ、王子バラ園は今日もさりげない開放で訪れる人を出迎えてくれる。時期はずれとなると、社宅の人が犬を散歩してるくらいで人もいないので、ゆっくりバラを眺めたり写真を撮ったりできる。人目を気にせずバラ写真が撮れるところはそう多くないから、そういう意味でもここはオススメできる。特に5月の終わりから6月にかけては素晴らしい。
 名古屋側から行くと、東名阪沿いの環状2号線(302号を)北へ向かって、庄内大橋を渡りきってすぐの信号「松河戸町北」を右折。30号線から道なりに左へ進んで25号線となり、「上条町6」の信号をすぎた直後が入口になってるのでそこを入って、ちょっと行った右に無料駐車場の広場がある。バラ園はその左側だ。
 どうしても分からない場合は、そのへんを歩いてる人に、王子バラ園はどこですかと訊けばたぶん教えてくれると思う。ただし、王子、バラ園はどこですか? と区切って訊いてしまうと、え? 私、王子じゃないですが? などと会話がかみ合わなくなる恐れがあるので注意が必要だ。窓の助手席側から身を半分乗り出して、王子! 王子! 王子! と辻元清美のように連呼していると反感を買ってしまうのでやめた方がいいでしょう。外国人に訊いてしまうと、オージー? オー、オージー・ビーフね。と近所のスーパーを紹介してもらえるかも。
 それにしても、王子バラ園というと、どうしても白馬にまたがってサーベルを腰に差しているモナコのアンドレア王子なんかを思い浮かべがちな私なのだった。もちろん、そんな人は王子バラ園にはいませんので、期待してはいけないです。

秋だから美味しい和食が食べたいよねサンデー料理 2006年10月29日(日)

料理(Cooking)
美味しい和食が食べたいサンデー

PENTAX istDS+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.0, 1/25s(絞り優先)



 前回のサンデー料理の中で、自分が作りたかったのは図画工作的料理だということに気づいた。今回はそれを意識して図工的な料理に取り組むというのが自然な流れなのだろうけど、私の場合、分かってしまうととたんに興味を失ってしまうという悪いクセがあって、今回はそうならなかった。スポーツでも趣味でも、ある一定の線を越えてしまうとやめてしまうというのも、やっぱり飽きっぽいというのだろうか。自分の中では根拠のある卒業だと思うのだけど。
 今回のテーマは、「秋ですねぇ、美味しい和食が食べたくなりませんか」だ。前回、味は二の次三の次と書いておきながら今回は味の追求。思えば物心ついた頃から天の邪鬼だった私。こういう性格はなかなか直らないらしい。

 手前のメイン料理は、野菜煮込みサバのそぼろがけ。
 ダイコン、ニンジン、アスパラ、シイタケ、タマネギをスティック状など適当な大きさに切って、だし汁でじっくり煮込む。やわらかくなってきたところで、酒、みりん、しょう油を加えて更に煮る。
 サバは切り身をスプーンでかき出して、塩、コショウで下味をつけ、サラダ油、しょう油、酒、みりんを加えて、火が通るまでかき混ぜながら温める。
 あとは野菜の上にサバそぼろをかければ完成だ。パセリも少し。
 これはかなり美味しかった。これまで私が作った中でベスト5に入るだろう。野菜と魚嫌いの子供でもこれなら喜んで食べると思う。そぼろはひき肉だけじゃなく魚でも充分美味しくできる。お弁当のご飯にかけてもいい。

 右上のはマツタケか!? と思ったアナタは甘い。北朝鮮産が入ってこなくなった今、マツタケは私にとってますます縁遠いものとなった。実際はサトイモ団子とゴボウだ。なんだそりゃ。精進料理か。とツッコミが入っても仕方ない。
 サトイモをよく洗って皮ごとレンジで2分加熱。皮をむき、乱切りにしてめんつゆをたっぷりまぶして更にレンジで2分。やわらかくなったらつぶして団子状に丸める。
 ゴボウは、だし汁で煮込み、その後、酒、みりん、しょう油などで煮て味を染み込ませる。サトイモ団子にゴボウを刺して、魚焼きグリルで焼く。
 たれは、しょう油、酒、みりん、砂糖を煮立たせて、水溶きカタクリでとろみをつける。白ごまをふりかけて、たれをかければ出来上がり。
 最初からサトイモ丸ごととゴボウを煮ればいいじゃないかと思うかもしれないけど、ここは気持ちの問題ということで。それに、つぶして団子にした方がサトイモのもちっとした食感がより楽しめて、なおかつ表面を焼くことで風味も増すので、手間は無駄じゃないのだ。

 左は再び挑戦した手作り豆腐。
 今回もまた、固形分10パーセントの豆乳しか見つけられず、やわやわの豆腐しかできなかったのがちょっと残念だった。ただ、見てくれは悪いものの味はとても美味しいのでそれが嬉しい。やわやわツルツル豆腐は、市販のものでは味わえない食感と甘みを体験できる。今回はすりつぶした枝豆も中に封じ込めたのでよけいに甘みが増していた。
 成分無調整でなるべく固形分が多い豆乳と液体のにがりを買ってきて、茶碗などに豆乳を入れ、にがりをスプーン一杯くらい入れてかき混ぜる。ラップをして2分加熱して、10分蒸らしたあと、もう一度2分加熱して冷ませば手作り豆腐ができる。簡単で美味しくて作るのも楽しいからぜひやってみてください。

 今回は味の追求がテーマだったとはいえ、期待を上回る美味しさに自分でもびっくり。人が作ったものだったらかなり誉めてただろう。どれも美味しいね、と。でも誉めてくれる人はいなかったので、自分で自分を誉めてあげたい、有森裕子に代わって。アイ・ワズ・ゲイのガブは元気にしてるんだろうか。
 今日のサンデー料理でちょっと自信が増した。その気になれば味もけっこうできるじゃないかと。これなら主夫にもなれるかもしれない。キャリアウーマンのお嫁サンバを探すか。
 それはともかくとして、これで料理の二本柱がどうやら見えてきた。図工的な凝った料理を作りたいときはフレンチ風、美味しいものを食べたいときは和食でいけばいい。あともう一本、まだ見ぬ未知なる料理に挑戦というのも加えて三本柱にしたいという気持ちもある。ただこれは、材料を揃えるのが大変なので、どこかいいスーパーを見つけなくてはいけない。ダイエーの地下あたりでは、世界の料理を作る食材が揃わない。
 料理は楽しい。まだまだある一線というのは見えてこない。追求する方向が3つあるから、しばらくは大丈夫だろう。追いつけ追い越せ、キムキム兄やん。私もいつか、ファミマでオオタ兄やんの弁当を出したい。

岩崎城は小牧長久手の戦いでひとつのキーとなった城

城(Castle)
岩崎城裏手からの眺め




 愛知県のあまり知られていない城を紹介するマイナー城シリーズ。今日は日進市にある岩崎城を取り上げたいと思う。愛知県民でもこの城のことを知っている人はあまりいないんじゃないかと思う。私が知ったきかけは、ほんの偶然からだった。地図を見ていたとき、たまたま岩崎城跡公園というのを見つけて反応した。岩崎城? 聞いたことない。でも試しに行ってみたら、思いがけずちゃんとした天守があって驚いた。存在自体まったく知らなかったのに、うちの近所にこんなものが建っていたとは。
 この城、調べてみると実は歴史上けっこう大きな役割を果たしていたのだ。大げさに言えば、この城があったことで徳川幕府が誕生したと言っても言い過ぎではないかもしれない。ことの顛末はこうだ。

 本能寺の変の後、明智光秀を討った豊臣秀吉(このときはまだ羽柴秀吉)は、後継者争いに決着をつけるための賤ヶ岳(しづがたけ)の戦いで柴田勝家軍に勝利をおさめ、天下統一への道を歩み始める。この戦いで、信長の三男・信孝を味方につけたのが破れた柴田勝家で、次男・信雄を擁立したのが秀吉だった。しかし、秀吉と信雄の思惑は大きく食い違いを見せる。信雄にしてみたら父信長の後継者は当然自分だと思ったのに対し、実質的に敵を討ったのは自分なのだから自分こそが次の天下人だと信じた。天下の流れも秀吉へと傾きつつあった。
 この決裂が元で起こったのが小牧長久手の合戦だ。信雄は、同じく秀吉の天下を認めていない徳川家康の元へ走り、力を借りることにする。家康にとっては代理戦争になるとはいえ、秀吉をつぶす大義名分を得ることになったと喜んだだろう。
 本拠である岡崎城を出た家康は、いったん清洲城へと入る。秀吉は大阪城にいる。ここで今日の主役となる池田恒興(いけだつねおき)の登場となる。古くからの信長の家臣で、数々の戦に参加した歴戦のツワモノだった恒興が、信雄ではなく秀吉側についたことで事態は大きく動いた。大垣城主だった恒興はかつて自分の城だった犬山城を乗っ取り、家康軍に対抗の構えを見せた。そこで家康は清洲を出て、小牧山城へと軍を移す。そしてここから長いにらみ合いが続くことになる。
 秀吉も犬山城に入り、陣を構えたものの、事態はまったくのこうちゃく状態に入って動かない。そして、しびれを切らせた池田恒興が余計なことを言ってしまう。家康の本隊が小牧にいるってことは本拠の岡崎は留守になってるんじゃない? と。そこを突けば本拠を落とせるかも? 行ってみる? このとき、秀吉もまた判断を誤る。いけるかも……。ただし、岡崎には急いで行けよ、途中で寄り道なんかしてちゃダメだぞ、とは言った。けど、秘密はバレるもので、この話、すっかり家康側に筒抜けになっていた。
 17歳の三好秀次(のちの豊臣秀次)を総大将として、森長可、池田恒興、堀秀政などの隊、総勢2万ほどで岡崎へ向けて出陣していった。そして、そのとき歴史は動いた。岩崎城がここで登場することとなる。

 岩崎城主であった丹羽氏次は家康軍とともに小牧に出陣していて、弟の氏重が城代として城を守っていた。このとき氏重16歳。城には300の兵が留守番してるだけだった。そこへ通りがかったのが秀次の別働隊となっていた池田恒興の1万の軍勢。16歳の氏重は焦って舞い上がってしまったのだろう。恒興にしてみれば、途中で敵と戦うと岡崎行きがバレてしまうから戦うなと秀吉にクギを刺されているから、そのまま通り過ぎるつもりだった。しかし運命のイタズラか、魔が差したのか、岩崎城から撃たれた一発の威嚇射撃が、なんと、恒興が乗ってる馬を直撃。落馬した恒興はそりゃあもう激怒した。我を忘れて攻めかかれの号令を出したのも無理はない。完全に頭に血が上ってしまった。
 しかしここで恒興もびっくり、300の兵しか持たない氏重がろう城ではなく城から飛び出してきたのだ。これには恒興軍もひるんで、かなり押されたりした。三度も大群を押し返したというから大したものだ。とはいえ、1万対300では勝負は見えている。岩崎城は落城、氏重勢は全員討ち死にという結末となってしまうのだった。
 このとき別の場所で、先行していた本隊である三好秀次が、こっそりあとからつけてきていた家康の先鋒隊、丹羽氏次・康政軍の奇襲を受け壊滅したことを恒興はまだ知らない。あのガキめ、恥をかかせた上にさんざん手こずらせやがってなどと言いながら、休憩していた。そこに届いた、三好秀次敗走の2時間遅れの報告。驚く恒興。こうなったら岡崎なんて行ってる場合じゃない、慌てて引き返していく途中、いつの間にか長久手で陣取っていた徳川家康本隊の手前で急停止。別働隊の残った兵を集めて9,000。対する家康軍も井伊直政や信雄軍をあわせて9,000。
 2時間ほどにらみ合いが続いたのち、ついに戦いが始まる。両軍入り乱れて2時間あまり、当初は互角だったものの、徐々に家康軍が優勢となり、秀吉軍の森長可(森可成の次男で森蘭丸の兄)が鉄砲で眉間を撃ち抜かれて討ち死に。池田恒興は岩崎城で落馬したときに古傷の足を痛めていて、動きがままならず敵方の槍で討ち取られたところで勝負あり。
 こうして長久手の合戦は家康側の大勝利で幕を閉じた。

 歴史にifはないとはよく言われることだ。でもやはり、もしあのときと考えたくなるような場面が歴史にはいくつかある。このときも、もしあの一発の銃弾が恒興の馬に当たらなかったら、歴史はどうなっていただろう。小牧長久手の合戦で秀吉側が勝っていたら、徳川幕府は誕生していなかったかもしれない。
 この戦ののち、秀吉は家康を完璧にたたきつぶすことをあきらめざるを得なくなり、信雄と講和することになる。結果、大義名分を失った家康は岡崎に帰ることとなり、秀吉と家康は微妙なバランスを保ったまま和解という形になった。
 地方の小さな豪族の城にすぎなかった岩崎城が、歴史の裏側で意外にも大きな役割を果たしていた。その存在さえほとんど忘れられているけれど。そんな歴史に思いを馳せながら訪れてみると、また違った思いも生まれるかもしれない。



西日を浴びる岩崎城

 岩崎城の築城年代は不明とされていて、1529年頃に信長の父・織田信秀が築いたという説と、この地方の豪族だった丹羽氏清によって1538年に築かれたという説がある。いずれにしても、氏清-氏識-氏勝-氏次と丹羽氏4代、約60年に渡って守られたというのは確かなようだ(信長の家臣だった丹羽長秀とは別の流れらしい)。
 小牧長久手の合戦での活躍と、のちの関ヶ原の合戦で家康側について戦ったことが認められ、丹羽氏は三河の伊保(豊田市保見町)へ一万石の大名として取り立てられることとなった。大出世だ。16歳で討ち死にした氏重もあの世で喜んだだろうか。その後も丹羽氏は、徳川譜代大名として明治まで続くことになる。
 現在の岩崎城は、昭和に入ってから発掘調査が行われ、昭和62年に岩崎城跡公園として整備され、模擬天守が建てられた。当時はこんな立派な天守はなかったことだろう。資料が残ってないので、想像上のものとなっている。
 周囲には、空堀や土塁、曲輪などがけっこう残っていて、模擬櫓門も再現されたりしている。隣には資料館もあり、戦国好きならなかなか楽しめるんじゃないだろうか。
 けっこう維持費がかかるだろうに、入場も、天守に登るのも、駐車場も無料と、日進市、太っ腹。入場は夕方4時半までで月曜定休。オマケに祝日も休みなので注意が必要だ。更に月曜日が祝日の場合は、火曜日も連休になってしまう。元々無料なんだからそんなもの。
 屋根に乗ったお約束の金鯱も、なんかちょっとズレた感じで素敵だ。何故ここに金鯱なんだと、深く追求してはいけないのだ。
 

アイボクとコスモスと逆光の馬とまだ見ぬジェラートと 2006年10月27日(金)

施設/公園(Park)
コスモス畑の親子

OLYMPUS E-1+Super Takumar 135mm(f3.5), f5.6, 1/160s(絞り優先)



 愛知牧場のコスモスが満開を過ぎたという話を聞いて、ちょっと焦って出かけていった。花はなんでも満開過ぎよりも満開前の方が美しい。桜でもユリでもコスモスでもそうだ。
 行ってみると、やはり出遅れを感じた。かなり枯れ花が目立ち始めていて、もう遅いのや、と明石家さんまのモノマネをしてみたけど誰も耳を傾ける人はいない。若手のカップルやちびっ子を連れたお母さんの世代にはもはや元ネタが分からないだろう。寂しさを紛らわすために心の中でチャチャチャを歌ってみた(ニッポン、チャチャチャではない)。
 とはいうものの、少し離れてみればまだまだ充分に咲いている。離れて望遠で撮ると一面ピンクに染まって見えた。ちょうどいいところに若いお母さんと少年二人がいたので、入ってもらった。ややシャッターチャンスを逃してしまって少年たちの入りが甘かったのが残念だ。
 コスモスの群生って、いつももうひとつだと思う。なんというか、雑然としていて、落ち着かない。ヒマワリを見習えとは言わないけど、もう少しお行儀よく揃って咲いてくれないだろうか。けど、陽気なメキシコ育ちにそんなものを要求しても無理というものか。きっと、メキシコの高原ではこんなせせこましくじゃなく、もっとみんなてんでバラバラ思いおもいに咲いているのだろう。いつか見たい、メキシコに咲く野生のコスモスを。日本で咲いているコスモスよりも、私はきっとメキシコで咲くコスモスを愛すると思う。

 江戸末期に初めて日本にやってきたコスモスは、明治になって一般に出回るようになり、秋に咲く桜のようだということから秋桜と名づけられた。中国でもやっぱり秋の字が入って「秋英(しゅうえい)」と呼ばれる。
 属名のCosmosは、秩序や調和などを意味するギリシャ語のKosmosから来ている(対義語はカオス)。のちに転じて宇宙の意味にもなった。どこらへんが秩序なのかといえば、どうやら花びらの様子が整然としてるというのでそう名づけられたようだ。言われてみれば、コスモスの花びらはきれいに整っているものが多い。
 ただし、キク科の花ということで、コスモスの花びらは中央にたくさんかたまって咲いている小さいやつだ(筒状花)。外側の花びらは、花弁の1枚が大きく発達したもので、舌状花と呼ばれる。
 コスモスの花びらは何枚ですか? という無邪気な質問にはどう答えればいいのか迷うところだ。子供相手に、コスモスは頭状花というグループで、5枚の花びらを持った筒状花が中央にたくさん集まっていて外側の舌状花は8枚なんだぞ、分かったかい、などとくわしく説明したら泣き出してしまいそうだし、女の子がコスモスの花びらで恋占いをしてるとこに、おいおい、やるなら筒状花も全部やらないとダメだぞ、なんて説教したら嫌われるに決まってる。考えようによっては、コスモスというのはけっこうややこしい花なのだ。
 しかし、そんな人間の事情とは関係なく、コスモスは丈夫で長持ち、種を風に乗せて運び、落ちたところでけっこうたくましく生きていく。早咲きと遅咲きがあって、7月から12月くらいまで咲いている。そのあたりも、日本情緒ではないものを感じる。日本に馴染んでるけど、やっぱりメキシカンだな、と。そう、コスモスは政井マヤなのだった。

逆光の馬と女の人

 コスモス畑から動物ふれ合いゾーンへ移動する途中、このシーンに出会った。ファインダーをのぞきながら、ああ、なんて美しい、とため息が出た。こういうのが写真の幸せだと思う。ほんの数秒のことで、このときこの場にいたのは私ひとり。もちろん私は目で見ても感動したのだけど、これを言葉で説明することはできなくて、写真に撮れば人に見せてあげられて共有することができる。逆光の馬も、彼女も、人馬の関係性も、本当にきれいで素敵だった。ありがとう。ぼくぁ、幸せだなぁ。

 愛知牧場は、東名三好ICの近くの日進市にある。入場も駐車場も無料ということで、ここはいつ行ってもけっこうな賑わいを見せている。というか、やたらと駐車が多い。中にはそんなに人数がいないのだけど。
 メインは動物たちとのふれ合いコーナー。特に小さな子供連れで行くのがオススメだ。触ったりエサをあげたりする楽しさは子供だけではなく大人でも充分味わえる。
 乗馬というとクラブに入会して高いお金がかかるというイメージがあるけど、ここは気軽に体験できるコースがあるので、ちょっと試しに乗ってみたいという人にはいい。45分コースで5,250円とか、手綱を引いてもらってトラック1周1,000円なんてのもある(子供はもっと安い)。
 菜の花、ヒマワリ、ケナフ、キバナコスモス、コスモスなどの立体迷路もここの名物となっていて、各季節にそれぞれ楽しさがある。
 欠点というか弱点を挙げるとすれば、カントリーの香りがかなりきつめだというところだ。私は嫌いじゃないけど、都会育ちのお嬢を初デートに誘う場所ではないと思う。
 結局、今回もまた、牧場特製ジェラートを食べることができなかった私。今年のアイボク行きはたぶんこれで終わりだから、次は来年の菜の花のときか。そのときまでなんとしてでも生き延びなくてはならない。ジェラートを食って死ね、の意気込みでガンバって生きていこうと思う。

名東区の3大緑地のひとつ明徳公園は何もない秋です

施設/公園(Park)
明徳公園の風景

OLYMPUS E-1+Super Takumar 28mm(f3.5), f4.5, 1/160s(絞り優先)



 名古屋市の住宅地としてなかなかに評判がいい名東区。適度に静かでほどほどに都会で、栄や名駅まで40-50分という立地が人気の秘訣だろう。
 私が住んでいるのは誰が呼んだか名古屋のチベット・守山区。道一本隔てているだけなのにこの扱いの違い。うちのベランダから生卵を投げたら名東区の民家にぶつかる距離なのに。
 守山区の愚痴は置いておいて、名東区は郊外なのでまだまだ緑が多い。特に、牧野ヶ池緑地(地図)、猪高緑地(地図)、明徳公園(地図)の3つの緑地は、一歩中に踏み込むと名古屋市内であることを忘れさせるほどの森林地帯となる。
 上の写真は明徳公園の中心となっている明徳池だ。親子連れ、犬の散歩の人、鳥の人、釣り人、近所の人などが歩いたり、釣ったり、遊んだり、鳥の数を数えたり、走ったり、思いおもいのことをして過ごしている。あまり写真を撮っている人はいないけど、私がいる。
 3つの緑地の中では、一番小さくてローカルなので、訪れる人は多くない。ただ、釣り人は多く、朝から晩まで釣りをしてる人が途切れることがない。朝一で来て、持参の弁当を食べて、日暮れまで釣ってる人もいるとか。しかも、毎日。労働に換算したらかなり稼げそうな気がするけど、釣りとはそういうものではない。そこまでいくともはや哲学の域だ。毎日行って飽きないほどウハウハに釣れるもんなんだろうかと不思議に思っていたら、フナを放流してるんだそうだ。半分自然の釣り堀がタダとなればそれは楽しいだろう。

 広さは18ヘクタール。と言われてもよく分からない。1ヘクタールがどれくらいなのか、上手くイメージできない。ナゴヤドーム5個分くらいだろうか。
 特に何があるといわけでもなく、ちょっとした広場があったり、子供用のアスレチック遊具、野球グラウンドやサッカー場と、あとは散策路が整備されてるくらいだ。緑地と公園の中間くらいの森林散歩コースといったところだろうか。
 野鳥もそれなりにいるし、池にも渡り鳥が少し渡ってきたりするのだけど、数も種類もあまり多くない。というのも、花が少なくて、それゆえに虫たちも少ないから野鳥が集まらないんじゃないかと思う。木の実もそれほどないようだし、生き物の豊かさという点では、ここは物足りない。
 ただ、池には人を襲うアヒルや、キケンなカメがいてエキサイティングだ。岸辺で人を待ち構えていて、誰かがやってくると食い物をよこせとガァガァ言いながら寄ってくるので、たまに子供が泣いたりしている。カメは、大人の指も食いちぎる実力を持ったワニガメが生息していて、「キケンなカメにご注意!」という看板も出ている。なかなかに油断できない池なのだ、ここは。
 その他のポイントとしては、竹林やめったにトンボがいないトンボ池、まったく展望の利かない標高72.8メートルの”からす山”あたりだろうか。木もれ日の小径も、残念ながら夕陽は木々の枝越しにしか見ることができない。遠くには名古屋駅方面のビルなどがわずかに見えるのだけど、枝の間から頭や体を動かしながら見てるときの様子は、露天風呂の女湯をのぞこうとしてる人の挙動に似てしまいがちなので若干の注意が必要だ。
 駐車場も無料で夜8時まで開いていて、一周ゆっくり歩いて1時間くらいなので、日常的な散歩コースとしては悪くない。アップダウンの変化もあるから、アスファルトの道をウォーキングするよりも体にはいいし、消費カロリーも多くなる。猪高緑地のように迷子になりやすいなんてもことなく、道が分かれているところには見やすいマップもあって初めての人も安心だ。



光りの中へ


 とまあ、オススメできるようなできないようなはっきりしない明徳公園なのだけど、私はたまに行きたくなる。
 近所に住んでるのに実は行ったことないんですよ、なんて方はぜひ一度行ってみてください。
 ふと思い出したけど、5月10日は”名東区の日”だ。察しのいい人ならピンと来るだろうか。
 ヒントは”サツキとメイ”。
 
 

秋の雨池は生の爆発と静かな死の見えないコントラスト 2006年10月25日(水)

海/川/水辺(Sea/rive/pond)
ウォーターレタス雨池

Canon EOS Kiss Digital N+EF-S 18-55mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/30s(絞り優先)



 この写真を見せて、これは池なんですよと言ったら、人は信じるだろうか。でもこれは実際、池なのだ。インディアン嘘つかない。どう見ても畑か、草原か、芝生か、地面に生えた緑にしか見えない。うっかりしてると、この上を歩いて向こうまで行こうとしてしまいそうだ。忍者ハットリくんなら行けるかもしれないけど、常人には無理なのでやらない方がいいと思う。立錐の余地もないとはまさにこのこと。乗車率200パーセント。
 しかしすごい超絶的爆発繁殖だ。初めて見たら、あたなもきっとそのつもりはないのに松田優作のモノマネをしてしまうだろう、なんじゃこりゃ、と。

 和名をボタンウキクサ、英名をウォーターレタスという水草だ。ところどころ紫に見えているのがホテイアオイで、これも害草として厄介者扱いされることが多いのに、それを更に大きく上回る繁殖力。完全にホテイアオイが押されている。
 それにしてもこれは大問題だ。この水草の下では、死の池となっている可能性がある。ウォーターレタスもホテイアオイも、水中の汚れや不純物を吸い取ってくれる性質もあるとはいえ、これだけ水面を覆ってしまうともういけない。水中に日光が届かないから植物プランクトンが死んでしまい、酸素が不足して水中生物も全滅してしまうのだ。水だけは異常にきれないなのに生き物がいない光景は不気味に映る。
 この雨池は、去年も夏場に酸素不足が原因で数百匹のコイやフナが死んでいる。ただし、そのときはこんな水草風景ではなかった。今年に入ってから突然こんなことになってしまった。勝手に外来種の水草が外から入ってくるとは考えられないから、おそらく店で買ってきたやつが増えすぎて誰かがこの池に捨てたのだろう。
 それにしてもこんなふうになるまで放っておいたのは区か市の責任もある。ここまで来てしまうともはや駆除は不可能に近い。これは本当に痛々しい光景だ。

ウォーターレタスに少し近づいて
OLYMPUS E-1+Super Takumar 28mm(f3.5)

 少し近づいてみると、こんな感じ。密集ぶりのすごさが分かってもらえるだろうか。完全に歩けそうな気がする。
 ウォーターレタスは、アフリカ大陸原産の熱帯植物で、日本には昭和初期に観賞用として入ってきた。それがこんなふうに野生化して大繁殖するようになったのはここ10年くらいのことだという。熱帯植物ゆえに9月の終わりくらいには枯れて姿を消していたのだけど、最近の温暖化で10月や11月まで残るようになった。あるいは、日本の気候に馴染んでしまったのかもしれない。沖縄でしか越冬できないと言われたものが最近では本州でも越冬し始めたという話もある。一応耐えられる水温は15度までと言われている。
 ボタンウキクサやウォーターレタスという名前のくせに牡丹のような花が咲くわけでもなく(すごく地味で小さい白い花が咲く)、レタスのように食べられるわけでもない。とにかくやっかいもののこいつをやっつけるには、水から出すより他に方法がない。大繁殖してしまったら、船ですくい上げるのも無理があるし、機械が使えないから人力に頼るしかなく、重さもあるので、本当に大変だ。実際のところ、冬を待つより他にどうしようもないのだろう。何かこいつを食う動物はいないのか。
 とにかく繁殖力が強くて早いのが特徴で、株元から水面に匍匐茎を伸ばして、無性生殖して子株をどんどん増やしていく。ここも、最初は2株とか3株くらいだったかもしれない。
 全国のあちこちで問題になってるところが増えてるようで、環境省も2006年2月に特定外来生物に指定して、販売、栽培、譲渡は基本的に禁止とした。でも、ホームセンターで普通に売ってるようだから、個人宅で育てるのは問題ないのか。

 個人的にこれが大問題だと思うのは、この雨池には全国的にも珍しいミコアイサという冬鳥が毎年訪れる場所だからだ。通称パンダガモというかわいいやつを見られるのは、名古屋では、ここと牧野ヶ池くらいしかない。11月くらいには偵察隊が北から戻ってくるはずだから、この有様を見てビックリ仰天してしまうだろう。ミコアイサまで松田優作のようになってしまうに違いない。なんじゃこりゃぁー、と。
 このままでは水面を泳ぐことはまったくできないし、水中の貝やエビなどのエサもないだろうから、ここでは生きていけない。彼らは毎年だいたい決まった場所に戻ってくるから、これを見て途方に暮れてしまうじゃないだろうか。私も見られなくなると寂しい。名古屋はまだ暖かい日が続いてるから、急に枯れるとも考えにくい。雨池は一体どうなってしまうんだろうか。
 ただ、コサギが1羽いたから、まだ完全に生き物がいなくなったわけではなさそうだ。どうにかミコアイサがやって来るまでに水面の一部でも見えるようになれば大丈夫かもしれない。また近いうちに様子を見に行こう。
 近くの金城学院の女子大生たちに全員ボランティアでかき出し作業をさせたらどうだろう。って、絶対実現しないだろうな、名古屋ではお嬢様大学として通ってるお嬢たちだから。でももし、彼女たちが作業するというのなら、私もぜひ参加したい。キャッキャッと歓声を上げる女子大生に囲まれて、浮かれ気分ではしゃいでウォーターレタスの上をゴロゴロと転がっている男がいたら、それはきっと私です。いやぁ、想像するだけで楽しい作業になりそうだなぁ。

ミッドランドスクエア半完成でトヨタの歴史と未来を思う 10月24日(火)

名古屋(Nagoya)
ミッドランドスクエアが遠くに見える

OLYMPUS E-1+Super Takumar 28mm(f3.5), f5.6, 0.5s(絞り優先)



 午前5時半。日の出前。明るくなり始めた空が、見慣れた風景を不思議な色に染める。夜でもなく朝でもない狭間には、静けさとわずかなざわめきが入り交じる。夜の終わりと朝の始まりが交差して、街はゆっくりとリズムを刻み始めるのだ。
 中央遠くに見えているのが、名古屋駅のセントラルタワーズと、今度新しくできたミッドランドスクエアだ。朝日を浴びると、ボーンホワイトとプラチナオレンジに輝く。
 このまま真っ直ぐ空を飛んでいけば5分くらいで着けそうなのに、地上を飛ばしても昼間なら1時間近くかかる。けど、深夜に行ってみると20分ほどで行くから驚く。そんな近くて遠い名古屋駅は今、大きな変貌をとげようとしている。

 名古屋で3番目の超高層ビル・ミッドランドスクエアがこの10月に一部完成した。10月3日に完工式が行われたというニュースを見て、早速行ってみようよ思ったら、まだ一般人は立ち入り禁止だった。勝手に入っていって捕まってニュースにならなくてよかった。ただ、エレベーターも動き始め、オフィスの引っ越し作業が始まったようだ。
 場所は名古屋駅の道一本隔てた向かい側で、旧豊田・毎日ビルがあった場所だ。古いビルを取り壊してそのままそこに建てた。なので、ミッドランドスクエアの愛称とは別に、「豊田・ 毎日ビルディング」という名前もある。あと、東和不動産も共同出資をしているようだ。
 この年末年始に、トヨタ関係者が一気にどかっと引っ越してくる。名古屋のオフィスや東京の営業部などをあわせて3,000人。周辺の飲食店や百貨店は、それはもう、てんやわんやで浮き足立っている。百貨店は張り切って改装を始めるわ、食べ物屋は新装オープンして店員を急募だし、完全に浮かれ気分の名古屋駅なのだった。しかし、名古屋人は昼飯で並ぶなんて習慣がないけど、飲食店は押し寄せるお客をさばききれるのだろうか。ランチどき、殺意に満ちた厨房で働くのはイヤだ。
 セントラルタワーズが円柱なのに対してミッドランドスクエアは名前の通り四角形をしている。デザインにもうひと工夫欲しい気もするけど、そのへんはトヨタらしいと言えばらしいか。地上47階、地下6階で、高さはセントラルタワーズよりも2メートル高い約247メートル。そのうち、27フロアーをトヨタが占める。トヨタの社員だらけで、ちょっとこの書類を田中さんに持っていってくれとか言われたとき、どこの田中さんか分からずに困ってしまいそうだ。
 その他、全日空、野村証券など30ほどの企業が入り、総従業員数は6,000人ほどになるらしい。順次引っ越しをしてきて、来年の2月にはすべて入り終わる予定になっているようだ。引っ越し会社も大もうけの大わらわ。
 来年2007年の3月には商業棟が完成して、いよいよグランドオープンとなる。ルイ・ヴィトンなどのブランドショップから飲食店、シネコンの映画館、コンサートフロアなど約60のテナントが入り(イエス! 高須クリニック! も入る)、最上階には屋外型の展望施設「スカイプロムナード」もできることになっている。屋外型としては日本一の高さということで、名古屋人や愛知県民がこぞって行くのは誰の目にも明らかだ。私は少し落ち着いてから行きたいと思っている。
 試算によると、このビルの一日の出入り人数は6万人くらいになるだろうということだ。毎日が愛・地球博みたいで楽しそうだな。

落日のミッドランドスクエア
OLYMPUS E-1+Super Takumar 135mm(f3.5)

 夕方5時過ぎ。一日の半分が終わり、太陽はミッドランドスクエアの向こうの山に沈んでいく。空はオレンジに染まり、街はシルエットに沈む。遠く、近くから絶え間ない喧噪が聞こえ、少しうるさく感じつつも、街が生きているのを実感させてくれる。街のざわめきは嫌いじゃない。

 豊田佐吉のオヤジが作った豊田自動織機製作所の中で、息子の豊田喜一郎が自動車部を作ったのが1933年。73年後の未来に名古屋のど真ん中にこんな超高層ビルが建つことになるとは、親子もきっと想像できなかっただろう。
 戦後には経営危機に陥ったこともあった。そのままではつぶれていたかもしれないのを救ったのは朝鮮戦争だった。米軍用のトラックを大量に作って売ったことで倒産を免れ、その後は高度経済成長の波に乗って、今では従業員数世界第3位の企業にまで成長した。連結経常利益も1兆円を超えている。なんでこんなに金があるのに名古屋グランパスエイトにもっと金を使ってくれないのか。グランパスはいつになったら優勝できるんだろう。頼むぞ、トヨタ。
 しかし、今は真昼の太陽ギラギラのトヨタも、いつ斜陽になり、落日の日を迎えるか知れない。もし、50年後とかにまだ私が生きていて、世界のトヨタが消える日が来たとしたら、そのときはとても感慨深いものがあるだろう。あのトヨタがまさかなぁ、と。
 私はこれまでに一度だめトヨタ車に乗ったことがある。スターレットターボ、EP71というやつに。あれはとても相性の悪い車で、起こした事故のほとんどがあれだった。自爆は4回くらい、突っ込まれたのが1回、おばさまをボンネットに乗せたのが1回。マフラーから足回りまで全部改造して、街中をゆっくり走っていた私。友達からはターボが腐るとまで言われたのに、何故。スタートダッシュはめっぽう速かったけど、止まらない、曲がらない、言うことを聞かない、とんでもないやつだった。それでも7年乗って、最後は黒煙を吐くようになって動かなくなってしまった。ただ、それでも余生を送るために東南アジアへと旅立っていったという。あっちの国でも黒い煙を吐きながら暴れてたんだろうか、私のスタタボちゃん。
 今のトヨタ車のラインナップにはあまり心惹かれるものがない。もう一度トヨタ2000GTをとは言わないけど、AE86のようなライトウェイトスポーツカーを復活させてくれないだろうか。もちろんFRで。儲かっている今作らないでいつ作る。F1にも参戦してるのだし、どうだまいったかってくらいのフラッグシップ・スポーツカーなんかも作っていいんじゃないか。ホンダのNSXを超えるようなものを。ま、作ってもらっても私は買えないんだけどね。
 一応地元ということで、これからもゆるくトヨタを応援しつつ、ホンダのインテグラに乗り続けようと思っている私なのだった。もし、万が一グランパスが優勝するようなことがあったら、トヨタ車に乗り換えてもいいかな。

花の名前を知ることで、自分の心の中に花が咲く 2006年10月23日(月)

花/植物(Flower/plant)
名前のない花なんてないけれど

Canon EOS Kiss Digital+TAMRON SP 90mm(f2.8), f3.5, 1/80s(絞り優先)



 気がつけば秋。振り向けば夏。遠くからは冬の便りも届き始めた昨今。ふと我に返ると、花の名前の勉強をすっかり怠っていることに気づいた。あ、今寝てた、私? 春まではしっかり季節の歩みについていっていたのに、夏頃から遅れがちになって、秋になる頃にはたくさんの野草が私から遠ざかっていったのだった。一体何をしていたんだ、私は。逃した野草は数知れず。写真に撮らなければ勉強も進まず、知識が増えることもない。
 はじめて野に咲く花に興味を持ったのがおととしの秋だった。デジカメを持ってあちこちをふらついていたら、道には自分の知らないたくさんの花が咲いていることに気づいた。写真に撮れば名前が知りたくなる。少し分かるようになると、もっと知りたいという欲が出てくる。あれから季節は2周した。2回季節をなぞれば、野草のことはまるっとお見通しだ! となっていると思ったのに、まるで貧脳のままだ。去年の同じ時期と比べてもほとんど変わってないような気さえする。
 なんとかもう一度野草に対しての気持ちを高めて、残り少ないシーズン、少しでも追いかけていきたいと思っている。秋野草は11月くらいまで咲いてるものもあるから。

 写真の花は、9月の終わりに海上の森へ行ったとき撮ったものだ。名前が分からないまま放っておいたらひと月も経っていた。今日もう一度調べてみたのだけど、やっぱり分からない。海上の民家の庭先に咲いていたものだから、野草じゃなく園芸種の可能性が高い。そうなるともうほとんどお手上げになる。野草なら「山渓ハンディ図鑑 野に咲く花」にたいてい載っているから調べがつくけど、園芸種は何しろ種類が多すぎて私の持っているポケット図鑑ではまったく補完できていない。ネットでも写真から園芸種の名前を調べるのは難しい。
 こんなときはどうすればいいかといえば、ネットに写真を載せるのが一番だ。知ってる人がさっと現れて、通りすがりでも名前を教えてくれたりするから。完全なる他力本願。突然の浄土教への改宗。親鸞さん、よろしく頼みます。

 それにしても、名前って何だろう、と思う。名前がなくちゃいけないのか、本当に、と。名前というのは、他と区別するための便宜的な記号だ。基本的にその存在の本質とは関係がない。名前が違っても花の姿に変わりはないのだから。けど、同時に名前は存在そのものだとも言える。
 私たちが知らない生物はこの地球に無数に存在している。でも、それらは名前を持っていないということで私たちにとってみれば存在しないのと同じだ。人の場合なら、戸籍も名前も持たない人は、生物としては人に違いなくても社会の中で人でないように。
 あるいは、もし自分の目の前に記憶喪失の人が現れて、その人が名前を思い出せないとする。そうすると、私たちは名前がないというだけの理由でその人とのつき合い方に戸惑い、得体の知れない不安を感じるだろう。名無しの人間は存在としては非常に不安定なものだ。だからきっと仮にでも名前をつける。そうすることでそうやくその人の存在が安定して、気持ちが安心する。名前をつけるという行為は、人が自らを安心させるためのものでもあるのだ。花や生き物に対しても同じことが言える。
 私たちが目にするすべての野草には名前がある。日本人がつけた日本名があり、学名があり、英名やそれぞれの国の名前がある。別名や、愛称なども。ひとつのものについて名前はひとつではない。それもまた、この世界の本質のひとつだろう。存在というのはそれ自体の存在と、人間にとっての存在の二面性がある。自分の中に存在させるためには、やはり名前というのは必要不可欠なものなのだ。
 おととしまでの私は、せいぜい20くらいしか花の名前を言えなかった。桜とかバラとかタンポポとかヒマワリとか。今の私は、たぶん300やそこらは言えるようになっただろう。野草や木の花、園芸種などをあわせれば。それだけこの世界の中で知り合いが増えたということは単純に嬉しい。それまでは雑草だったり、道ばたの花だったりしたものが、自分の中で名前を持った花として認識できるようになった。名前が具体的な関係性を作ってくれたということだ。
 花の名前なんて知らなくても生きていく上で何の支障もない。私も30年以上、花の名前を知らなくて困ったこともなかったし、恥をかいたというような経験もない。逆に、花の名前を知るようになって何か得したことがあるかというとこれも特に思い浮かばない。でもやっぱり、知らないよりも知っていた方が面白いのだ。プロ野球を観に行ったとき、選手の名前を知らないより知っていた方が楽しめるように。野草をたくさん知ってると、道を歩くときだって楽しめる。あ、キツネノマゴだとか、イヌタデもよく見るなとか、これはミゾソバでいいんだろうかアキノウナギツカミだろうかとか、これは見たことないぞとか、退屈しない。それを声に出して言っていると、周りからヘンな目で見られるので注意が必要だけど。

 主な野草だけでも日本には300種類以上ある。木の花もそれくらいで、園芸種になるともっとたくさんだ。試験があるわけじゃないから、何も全部覚える必要はない。興味を持ち続けていれば、自然と知識は増えていく。写真に撮ったり、こうしてブログに書いたりすれば更に詳しくなれる。
 いつかどこかで、何かの野草の名前を知っていたことで決定的にいいことが起きるかもしれない。道ばたで野草の写真を撮っていた美人に花の名前を訊かれて華麗に答えた私に彼女が惚れ込む、なんてことが絶対ないとは言い切れまい。そんな日を夢見つつ、これからも私はせっせと野草の勉強をして、花の名前に詳しい男となろう。野草とあたしとどっちが大事なの! とか言われても挫けたりはしないのだ。
 あなたの心に花は咲いていますか?

自分が作りたいのは図画工作的料理だった 2006年10月22日(日)

料理(Cooking)
図画工作的料理

OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f4.0, 1/50s(絞り優先)



 今日ふいに、自分が料理に何を求めているかがやっと分かった。私がやりたいのは図画工作だったのだ。普通の意味で料理が上手くなりたいというわけではなかった。学校の授業で一番楽しかった図工を料理でやっていたのだ。そうか、そうだったんだ、とひとり納得する日曜日の夕暮れどき。
 だから、味への追求がおろそかで、フランス料理や懐石料理なんかに惹かれたのだろう。思えば昔からああいう細かい作業が好きだった。それも、時間をかけてじっくりやるのが。
 図工的料理という自覚がなかったから、これまではまっとうな料理を作ることと、味をちゃんとすることと、お絵かき的な方向性と、自分の中で中途半端になっていた。でも、これからは自分がしたいことが分かったから、もっと作りたい料理のスタイルがはっきりしてくると思う。今日のところはまだ自覚が途中だったので、これまたなんともあやふやな料理をなってしまったのだけど。
 ただ、コンニャクと豆腐のツートンカラーに、図画工作的な部分が少し出ている。こういうのでもっと凝ったものが作りたい。ソースを絵の具に見立てて、絵や字を描いたりもしたい。彩りももっと考えないといけないだろう。そして何より、もっと自由でありたい。

 コンニャクと豆腐は蒸して、白みそベースのたれをかけた(白みそ、しょう油、みりん、酒、砂糖など)。サイコロはもっと小さくした方がよかった。もしくは、コンニャクではなく豆腐だけをサイコロにして、青のりの緑や他の何かでいろんなカラーリングにしてみるのも面白い。カラーサイコロ豆腐。それは、カラーヒヨコを思わせる。って、カラーヒヨコを最後に見た世代はいつなんだ? 私は小学校の校門に売り来ているおっさんが先生に追い払われているのを見たのが最後だった。あれは小学校の低学年だっただろうか。
 右は、白身と野菜のコロッケ風。白身を刻んで、タマネギ、ニンジン、長ネギの刻みを混ぜ、とろけるチーズを仕込みつつ、カタクリ粉、小麦粉で丸め、溶き卵、パン粉をつけて揚げる。ソースは、マヨネーズ、ゆで卵、パセリ、タマネギ、しょう油、白ワイン、牛乳、塩、コショウ、その他を混ぜたもの。
 左奥は、ジャガイモとキノコのサクサクとろ~り甘辛仕上げ。ジャガイモは細切りにして小麦粉と塩をまぶして揚げる。シイタケ、シメジ、エリンギ、マイタケなどのキノコ類をしょう油、酒、みりんなどで味付けして炒めて、揚げたポテトの上に乗せる。彩りにニンジンと大根の細切りゆでをも乗せてみた。ポテトのパリパリとキノコのとろりが、ギンギラギンにさりげなくマッチする。
 ……。

 今日はほとんどいつもの応用のようになって、結果的にチャレンジ精神を欠くものとなってしまった。図画工作的料理って何をどう使って作ればいいんだろうという考えに頭がいっていて、それがまだ形にならなかった。
 図工は、なんといっても作っていく過程と出来上がったときの喜びがすべてと言っていい。美術ではないからそんなに観賞するわけでもなく、ほとんどが完成した時点で興味をほぼ失うことになる。これは私の料理にも言えることで、食べるのはついでのようなものなのだ。美味しい料理を食べたいから自分で料理をしてる人とはまるで姿勢が違う。前から薄々気づいてはいたのだけど、図工というキーワードが見つかればなるほどそういうことだ。図工的料理だから、今まで作ったことがないものを作りたかったのだ。珍しいものが食べたいというのとは違った。
 けど、図工と料理はやっぱり同じじゃない。似てるけど一緒じゃない。図工だけは卒業するまでずっと5だったけど、料理はまだ3と4の間くらいをいったりきたりしているところだ。料理は難しくて奥が深い。だから、まだまだ続けていけると思う。できなかったものができるようになるのも楽しいから。
 料理の体裁にも必ずしもこだわることはない。食材を練って粘土に見立てて動物なんかを作ってもいいし、7色のソースで更に絵を描いたり、焼き物、版画、組み立て工作など、図工と料理の融合に多くの可能性を感じる。そのうち、料理の上で電飾がチカチカするようになるかもしれない。
 ただ、味に関してもまだまだ改善の余地はあるから、こちら方面ももっと勉強していかないといけない。行き当たりばったりで当たり外れの多いものではなく、狙って安定した味を出せるようになりたい。作ることが目的でも、食べるために作ってるのだから、美味しいに越したことはない。人に出せるようなものを作れるようにもなりたいし、ときどきは基本に立ち返ることも必要だろう。
 おまえは一体どこへ向かおうとしてるんだという自問自答に今こそ答えられる。料理は図画工作だ、と。

シュー、ウッズ、シャワポワ、ガッツ、この共通点は? 2006年10月21日(土)

食べ物(Food)
バナナスタンドとバナナ

OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.0, 1/60s(絞り優先)



 バナナを見ると反射的にガッツ石松を思い出す。たぶん、ガッツは世界でもっともバナナが好きな人間の中のひとりだと思う。「めちゃイケ」の寝起き早食い選手権では、5.2秒という世界新記録をたたき出していた。ありゃあ人間ワザじゃねぇ。目が覚めて目の前に差し出されたバナナに5秒でかぶりつくなんて、もはや思考を超えた本能だったな。
 私はといえば、昔からバナナはあまり好きじゃなかった。甘みはともかく、もごもごしていて果物にしてはジューシーさが決定的に欠けているところが気に入らなかった。一本食べるとおなかいっぱいになるのもなんだか損した気分になる。しかし、「発掘!あるある大事典」を観て、思いが変わった。あらゆる意味でバナナは体にいいことを知った私は、長年のバナナに対する偏見を取り払い、固い握手を交わしたのだった。今までごめんよ、バナナマン(それは別物)。これからは仲良くしようね。
 かつては年間2、3本だった個人消費量が、ここへきて一週間で2、3本まで跳ね上がった。体にとてもいいと分かって食べるバナナは非常に美味しく感じられる。それになんといっても頭にいいのが嬉しい。食べてから15分で効くという即効性と、2時間は効果が続くという持久性をあわせ持っているところが素晴らしい。ガッツには本当に効いているのかという疑問がわき上がるところだが、効いてあれなんだと思う。
 こうして私の生活風景の中には、バナナスタンドに引っかけられたバナナの姿が常に存在するようになったのだった。あ、そうそう、これ、バナナスタンドというんだけど知ってただろうか。前にもらって、こんなもの洒落としては笑えるけど使わねぇよなぁと思っていたら、思いがけないところで活躍することとなった。バナナは寝かせておくと、下になった部分がから傷んでくるから、こうして木になっているときと同じ状態にしておくことで長持ちするのだ。最近では100円ショップでも売ってるらしいし、フックさえあれば自分でも手作りできるから、バナナ好きを自認するならぜひとも持っておきたいアイテムだろう。

 ところで、バナナについて私たちは意外と知らないことが多いのではないだろうか? 身近な果物だけど、バナナの木は本州にはあまりないし、家庭菜園で作ってる人も少ないということもあって、案外バナナのことを知らない。どこで生まれたのか、どこで作ってるのか、どんな歴史があるのかなどをよどみなく説明できる日本人はあまりいないと思う。バナナのたたき売りも見たことないし。
 まずバナナが木になるものではなく草だというから驚きだ。知ってました? 常識? 私は今までまったく知らなかった。木の幹のように見えてる部分は茎でさえなく葉っぱで、それが何重にも渦巻き状になって木の幹のように見えているんだそうだ。高さ何メートルにもなるオバケ草だったとは。草だから一年草ごとに生えかわる。
 バナナには種がない。あれは突然変異だったというのだ。ある時、人類はたまたま種のないバナナを発見して、これはいいぞということで栽培を始めたのが始まりだと言われている。紀元前5,000年前のマレー半島でのことだ。種がないのにどうやって増えるかといえば、地下に伸びた茎から株が顔を出してそこからあらたに伸びていく。竹の子のようなものだろうか。
 バナナは熱帯でしか育てることができないので、赤道の南北30度の間でもっぱら生産されている。この地域をバナナベルト地帯という。最大の生産地がインドというのは意外だった。2位以下は、エクアドル、コスタリカ、コロンビア、フィリピンなどだから、イメージとしてはこちらの方が強い。
 世界には実にたくさんのバナナがある。大きなものは50センチのものからミニバナナまで、300種類以上のバナナがあるそうだ。ただし、果物としてではなく、イモ類のように主食として食べられているところもある。それは食用バナナといってまた別の種類なのだけど。

 マレー半島からアジアへ広がっていったバナナが日本に入ってくるには長い時間を必要とした。どうしてこんなに時間がかかったのかはよく分からないけど、日本に入ってきたのは20世紀に入ってからで、それは台湾からだった。日本では気候的に栽培できないことが遅れてきた大きな原因だったのだろう。最初はとにかく高価だった。戦前、戦中生まれの人がバナナは高級果物という思いが抜けないのは無理もない話で、戦後などは死ぬほどの病気をしなければ食べることができなかったほど幻の高級果実だった。ガッツがむさぼり食ってしまうのもうなずける。それが今では悲しいほど安くなって、地位が大暴落してしまったのをどう思ってるのだろう。いい時代になったというよりも、詰まらない時代になったなと思ってるんじゃないだろうか。なんでもたやすく手に入ることは必ずしも幸せなことではない。
 現在、日本は年間100万トンのバナナを輸入している。果物全体の輸入量が170万トンだから、輸入果物の半分以上がバナナということになる。日本に入ってくるバナナの80パーセント以上がフィリピン産のものだそうだ。エクアドルや台湾からも少し入ってきている。
 品種としては、「キャベンディッシュ」がほとんどで、「グロスミッチェル」、「モラード」、「セニョリータ」などを置いているスーパーも増えてきたようだ。子供の頃の学校給食で出てくるやつには、デルモンテのシールが貼ってあったような記憶がある。
 外国でとれた青いバナナを輸入してくるには理由があって、植物防疫法の規定で熟したバナナは輸入禁止とされているからだ。運搬の都合とかスケジュールの関係とかではなかったのか。味はやはり木になったまま熟したものの方が美味しいらしい。

 試合の途中で、外国人選手がいきなりバナナを食べ始めるシーンを目撃して、おいおい、と思ったことがある人も多いかもしれない。ゴルフのタイガー・ウッズ、F1のシューマッハ、テニスのシャワポワが食べてるのだから、根拠がないはずがない。彼らの好物がたまたま一緒だったなんていうのは考えられない。ガッツと彼らの共通点を見出すのはちょっと難しいけど。
 即効性のエネルギー源としてだけでなく、バナナは脳にもいいことが分かっている。脳のエネルギーとなるブドウ糖とセロトニンが同時に届いて、活性化して集中力も増すのだ。食べてから15分後には効き始めるということで、勉強の時やテストの前などに食べても効果が期待できる。セロトニンにはリラックス効果や精神安定効果もあるので、イライラ解消や、眠りにつく前にもいいと言われている。キレる前にバナナをいっとけということだ。冗談じゃなく、学校の1時間目の前に各自一本ずつバナナを配ったらどうだろう。
 栄養素としても、カリウム、マグネシウム、カルシウム、鉄、繊維、ミネラルなどが豊富に含まれていて、骨や歯を丈夫にしたり、粘膜を強くしたり、免疫力が上がったり、高血圧やガンの予防にもなると言われている。
 太りそうなイメージがあるけど、実際はまったく違って、脂肪分は0.1%で、ご飯茶碗半分のカロリーしかない。小腹が空いたとき、お菓子の代わりにバナナを食べれば、体にも脳にもよくで、ダイエットにもなる。

 とにかく死角のない食べ物バナナ。こんなにスーパー果実だとは私も知らなかったし、もっと宣伝した方がいいと思う。みのに電話してみるか。
 というわけで、私は声を大にして言いたい。みなさん、うちにバナナを送ってください! と。いや、送らなくてもいいからバナナを食べてください。
 私も今後は、2日に1本くらいにペースを上げていきたいと思う。車の運転やテニスやゴルフが上手くなるだろうか。ガッツ化したらちょっとイヤだな。目が覚めて5秒後にバナナをほおばるようになってしまっては人としてどうなんだと思う。
 そういえば遠足の前、必ずこんなことを先生に訊ねるお調子者がいたっけ。
「バナナはおやつに入るんですか!?」
 私が先生の代わりに答えよう。おやつに入ろうと入るまいと、嬢ちゃん、坊っちゃん、遠足にはバナナを持っていきなさい。できれば房ごとな!

清洲城 後編---キミは3万5千円の信長像を見るか!? 2006年10月20日(金)

城(Castle)
清洲城夕暮れ

Canon EOS Kiss Digital N+SIGMA 18-125mm(f3.5-5.6), f4.5, 1/125s(絞り優先)



 清洲城は、名古屋市民や愛知県民よりも、JR東海道本線や名古屋-関西方面の新幹線をよく利用する人にとっての方が馴染み深いかもしれない。夜に名古屋へやって来たとき、その手前で突然ライトアップされた清洲城が現れて驚いた人もいると思う。
 名古屋駅からさほど遠くない距離にあるとはいえ、名古屋の人間がわざわざ出向いていくほどの観光地でもないから、清洲城を見たことがない名古屋人もたくさんいるに違いない。その存在さえ知らない人も大勢いるだろう。私も、三重の田舎へ行く東名阪道を走っているとき、いつも左手に見てるだけで、実際に訪れたのは今回が初めてだった。
 割と戦国好きの私でさえそんな程度なのだから、歴史に関心のないジュリエットに清洲城に興味を持って欲しいというのも無理な注文というものだ。ツアー客のみなさんはそろそろお目覚めだろうか。そろそろ清洲城物語後編を始めたいと思います。みなさーん、出発進行ですよー。

 清洲越しによってその存在を置き去りにされた清洲は、清洲城と共に消えた。以降、歴史の表舞台に登場することはない。江戸時代は宿場町となり、明治、大正、昭和、平成と移り、今は名古屋のベッドタウンとして生まれ変わった。近くに東名阪が通ったことで、交通の便も良くなり、地価も上がったことだろう。
 昭和の終わり頃、清洲城を復元して清洲の町おこしをしようではないかという気運が盛り上がる。信長第二の故郷であり、長らく尾張の首府だった清洲をこのまま埋もれさせておくわけにはいかないという思いが昔からくすぶっていたのだろう。そして平成元年、清洲城の模擬天守は完成を見ることになる。
 しかし、そんなことはまったく想定してなかったのがJRだ。恐ろしいことに、清洲城が建っていた敷地の真上を新幹線と東海道本線が思い切り通っている。信長がこれを見たら怒り狂って皆殺しにされてしまうかもしれないほどの冒涜ぶり。それとも、新しもの好きだった信長は新幹線を見て喜んだだろうか。で、あるか、などと言って。
 そんなわけで、清洲公園と清洲城は少々複雑な地形をしている。五条川を挟んで西側の線路右側が旧清洲城のあった場所で、左が清洲公園、五条川の東側に今の清洲城という配置になっている。本来なら旧清洲城があった場所に再建すべきなのだけど、土地の関係で無理だったのだろう。そういう意味でもややありがたみを欠く清洲城なのであった。

 当時の清洲城に関しては、まったく資料が残っておらず、現在の天守は模擬天守ということになる。ハイカラさんの信長が10年も住んでいたのだから、ちんけで質素な城ではなかったはずだ。見た目の派手さも備えていただろう。戦国時代の天守ということで、入母屋屋根をのせた望楼型天主であったことは間違いないそうだ。金のシャチも乗っていたようだし、金箔の瓦が出土してることから、想像以上に絢爛なものだったのかもしれない。あるいはまだ天下を取るにはほど遠くてそれほどの余裕もなく、実用本位のものだったのだろうか。
 清洲城が本当に立派になったのは、本能寺の変のあと、次男の信雄が城主になったときだった。大改造!劇的ビフォーアフターによって華麗に生まれ変わった清洲城は匠の技が随所に散りばめられ、大天守、子天守、書院などを造営しつつ、堀なんか三重にしてしまい、城下は東西1.6キロ、南北2.8キロまで広がったという。
 現在のものは、鉄筋コンクリート製で、3層4階建てで、中には郷土の文化・歴史コーナーなどがあり、4階が展望台になっている。入場料は300円で、月曜定休の夕方4時半まで。清洲城自体は無料で5時まで。わりと見晴らしがいいようで、名古屋城や小牧山城も見えるそうだ。
 旧城跡には信長を祀る祠などがあり、清洲公園には鎧武者姿の信長銅像が桶狭間の方を向いて建っている。
 当時の面影が残るものは何かないかと探してみても、わずかに本丸土塁の一部や堀跡が残るのみで拍子抜けしてしまう。JRによってさんざん引っかき回されてしまって、何も残ってないのが悲しい。江戸時代末期に川底から発見された城の畳石が「右大臣信長公古城趾」と刻まれて建っているのが、わずかななぐさめと言えるだろうか。
 清洲城のもので現在も残っているのが、名古屋城の堀の北西にある「清洲櫓」だ。これは清洲越しで名古屋城が築城されるとき、清洲城天守の木材を使って作られたもので、戦争の空爆にも耐えて当時そのままの姿をとどめている。

 清洲市民の誇り、清洲城。しかし、その清洲城が自らの首を絞めることになろうとは、信長も予測がつかなかったか。この城を維持するために大赤字になっているそうなのだ。確かに観光地としては圧倒的にマイナーな清洲城。天守の300円は高いという人もいるけど、たまに訪れる人の300円などでは莫大な維持費をまかなえようはずもないのであった。
 ここはひとつ、清洲城を訪れた際はぜひ天守に登り、おみやげも買っていただきたい。信長モナカが一個120円とお買い得になっております。しかし、何故か10個セットになると1,300円になってしまう。まとめ買いすると普通は安くなるもんだけど、さすが信長モナカ。とりあえず10個欲しくても9個にとどめておいた方がいいかもしれない。
 お酒が好きな方は、なんといっても清洲の名物「清洲城 信長鬼ころし」という地酒をおすすめしたい。この酒を飲めば鬼も殺せるくらい気分が大きくなること請け合い。いや、そんなこと請け合っちゃまずいだろう。清洲城には売ってないかもしれないけど、このあたりのコンビニでも売ってるのが嬉しいところ。
 更にお金持ちのみなさんにぜひともお買い求めいただきたいのが、3万5,000円の信長像であります。ええー!? さんまんごせんえんーー!! たけえなぁー! というお声をたくさんちょうだいしたのか、値札を隠したというウワサもあるこのシロモノ。幻の信長像みやげとして天下に名高い。もし買ったあかつきには、写真でもいいので見せてください。
 毎年10月の体育の日には、「清洲ふるさとまつり」が行われている。ついこの前だ。織田信長や武将、姫などに扮した時代行列があり、今年は大河にあやかって一豊と千代も参加していたらしい。といっても、もちろん仲間由紀恵さんは来てないです。
 昨日の写真にあった赤い橋「大手橋」の上では、火縄銃の実演などもあって、なかなか楽しそうだ。何故か、モリゾーとキッコロがいたり、仮面ライダーショーがあったりするのは愛嬌として許して欲しい。

 そんなわけで、一泊二日の清洲城ツアーもついに終わりの時を迎えることになりました。ジュリエットも少しは清洲城のことが好きになってくれただろうか。
 また機会があったら歴史・城ツアーでお会いしましょう。今回はこれにて解散。みなさん、お疲れ様でした。

清洲城物語・歴史編---長くなりすぎたので前編のみ 2006年10月19日(木)

城(Castle)
橋から見る清洲城

Canon EOS Kiss Digital N+SIGMA 18-125mm(f3.5-5.6), f5.0, 1/80s(絞り優先)



 メジャーでもなくマイナーでもないお城のことを、歴史にあまり興味がない人に説明するのは難しい。たとえばこの清洲城などがそうだ。戦国時代が好きな人には説明するまでもない城だけど、日本史なんてまったく興味ないワって人に向かって清洲城が信長にとっていかに重要なお城だったかを熱く語ってもたぶんダメだと思うのだ。言葉を重ねれば重ねるほど遠くなるふたりの距離。ロミオとジュリエットの片方だけロミオ状態に陥って、手を伸ばしてもジュリエットは窓を閉めて寝てしまう。一体私は誰に向かって清洲城のことを語ればいいのだろう?
 語りかけるべき対象を上手くイメージできないまま、とりあえず「功名が辻」は観てるけど戦国時代はそんなに詳しくないかな、っていう人あたりを想定して書いていきたいと思う。途中で脱落者が続出しても気にせず進みますので、付いてこられるところまで付いてきてください。

 今川義元の大群が京都へ上洛するため(上洛ではなかったという説が近年有力らしい)尾張に向かっているという報告が届いたとき、信長は清洲城にいて動かない。2万5,000の今川軍に対して織田軍は3,000。目前の丸根、鷲津の両砦を攻撃されているという知らせを受けてもまだ動かない。深夜、信長は「敦盛」を舞い、立ったまま湯漬け(お茶漬けのお湯版)をかき込んだかと思うと突然の出撃命令を出す。ええーい、出陣じゃぁー! ワシに続けー! と叫びながら清洲城を飛び出していったのが早朝4時のこと。そんなこと急に言われても困ってしまった武将たちが今度は動けない。わずかに続いたのは5騎のみ。行く先は熱田神宮だった。
 地図を見ると、清洲城から熱田神宮までは直線距離にして南東に12キロくらいだろうか。車の渋滞はなくても当時の道路状況を考えると気軽に馬でひとっ走りという距離ではない。馬で駆けに駆けて、熱田神宮に到着したのは朝の8時だった。昔の人は本当に元気だ。
 戦勝祈願を終えた後、最前線に近い善照寺砦に入ったのが午前10時。その頃には、遅れていた後発部隊もようやく追いつき、なんとか合流を果たす。昼12時、今川義元の部隊が桶狭間に入って休憩してるという知らせを聞き、信長勢も中島砦に進む。午後1時、突然の雷雨。雨でおじゃるよ、なんとかせい、などと怒鳴りつけてる今川義元。豪雨はほんのいっときで上がり、好機到来とばかりに、かかれー! の合図と共に一斉に突撃する織田軍。急襲というとだまし討ちのように聞こえるけど、このときの織田勢は正々堂々の正面突撃だった。ひとかたまりになって本陣を目指す。
 雨に気を取られてすっかり油断していた今川軍は、たちまち大混乱に陥り、さんざん打ち負かされて大敗走。戦うどころか武器を捨てて逃げる連中もいたりして、1時間もたたずに勝負は決まった。午後2時、今川義元捕まる。弱小と侮っていた織田勢によもや負けるなんて思いもしなかったことだろう。このとき今川義元49歳、織田信長27歳。信長はたちまち天下に名をとどろかすことになる。
 また別のとき。豊臣秀吉が信長の草履取りとして仕えたのもこの清洲城だった。あるいは、信長が本能寺の変で死んだ後、後継者を誰にするかを決めるために開かれたのもここ清洲城で、清洲会議として有名なエピソードになっている。
 清洲という地は、今でこそ知名度が低くなっているものの、徳川家康が尾張の首府を名古屋に移すまでの200年間、清洲こそが尾張の首府だったのだ。その中心が清洲城だったわけだから、戦国の歴史上、重要な意味を持つ場所だったのは当然と言えば当然だ。関ヶ原の合戦のとき、東軍の先発部隊が集まっていたのも清洲城だった。

 ここまで書いて、まだ全体の3分の1くらいでしかないと言ったら、更なる脱落者を生んでしまうだろうか。これはまずいぞ。源頼朝のことを書いたときと同じではないか。あのときのように前編、後編に分かれそうな予感がしてきた。というか、そうなると思う。桶狭間の合戦について詳しく書きすぎたのが失敗だ。でも、気を取り直して続きを書こう。
 みなさーん、付いてきてますかー? こっちですよー。まだまだ先は長いから頑張りましょうねー。って、なんだかか頼りにならないツアーコンダクターみたいになってないか私。

 清洲城ができたのは、1404年(1405年という説も)。室町幕府の尾張守護職だった斯波義重が、下津城(稲沢市)の別郭として築城したのが始まりとされる。1476年、下津城が戦乱で焼け落ちてしまい、守護所がこの清洲に移ってきたことから清洲の繁栄が始まる。
 やがて斯波氏が力を失い、それに代わって勢力を伸ばしてきた織田家の本城となる。1555年、少し前にオヤジさんの織田信秀が死んで家督を受け継いだ信長が、城主だった織田信友を攻めて、清洲城を奪い、それから10年間、ここは信長の居城となる(信長が生まれたのは、今の名古屋城がある場所にあった那古屋城)。この10年間は尾張の統一にかかった時間だ。かなり苦労している。
 続いて美濃攻略のため、信長は小牧山城に移り、以後は番城となった。ただ、城主の顔ぶれはそうそうたるものだ。信長のあとは嫡男の信忠が9年間、信忠亡き後は次男の信勝が9年、豊臣の代になってものちの関白・秀次が6年、関ヶ原の合戦当時は福島正則(5年)、関ヶ原ののちも家康の四男・松平忠吉が8年、家康の九男・義直が7年、それぞれつとめている。
 そんな重要視されていた清洲城も、江戸時代に入って戦争がなくなるとあまり用を足さなくなってきた。そして家康は名古屋の地に大きな城を築城することを思いつく。元々信長親子が城主としていて、清洲に移ってからは廃城となっていた那古屋城があった場所に建てたのが今の名古屋城というわけだ。そして、有名な「清洲越し」がやって来る(1609年からの4年間)。
「思いがけない名古屋が出来て、花の清洲は野となろう」と、当時歌われたように、6万人の都市が全移動となったのだから、清洲は空っぽ同然になってしまったのだった。今でいう遷都などよりももっと大がかりなもので、街をひとつ全部家や建物ごと移してしまったようなものだから、本当に清洲は何にもなくなってしまった。その後の大洪水などもあり、清洲城も影も形も残っていない。再建された清洲城の天守閣は、まったくの勘で作られている。

 というわけで、案の定、後編に続く、となった。歴史に触れすぎて、清洲城そのものについてまだほとんど書けてない。明日はそのあたりのこともきっちり書いて、清洲城物語を完結させたい。
 みなさーん、今日はここで野宿になりました。ええー!? そんなの聞いてないぞー、って? おむすびを配りますので、今日はゆっくり休んで明日に備えてください。明日も長丁場になりそうですので。
 ええーと、出発地点からずいぶん人数が減ってるような気がするけど、気のせいかな?

近場で修学旅行気分が味わえる妙興寺 2006年10月18日(水)

神社仏閣(Shrines and temples)
妙興寺の総門越しの勅使門

Canon EOS Kiss Digital N+SIGMA 18-125mm(f3.5-5.6), f5.0, 1/15s(絞り優先)



 愛知県一宮市(いちのみやし)に、古くて立派なお寺があると知ったのは去年のこと。喜び勇んで出向いていったら、閉まっていた。閉門が5時だということを知らなかった私は、固く閉ざされた門の前でしばし佇む人となったのであった。たのもー、とかひと言叫びたかった。
 その反省を生かして、今回はちゃんと4時に行った。今度はしっかり門も開いていた。
 総門をくぐる。なるほど、これが妙興寺か。この趣はなかなかのものだ。禅寺特有の空気感を入口付近から感じさせる。さすが、「尾張に杉田(過ぎた)の妙興寺」とうたわれただけのことはある。京都や鎌倉などの古刹と比べても遜色ない。
 鎌倉時代の1348年に、尾張中島城主・中島蔵人の次男・滅宗宗興によって創建され、18年かけて建てられた臨済宗のお寺だ。山号は長嶋山(ちょうとうさん)、寺号は妙興報恩禅寺(みょうこうほうおんぜんじ)という。本尊は釈迦三尊。
 足利義詮の祈願所だったり、後光厳天皇の勅願寺だったり、その後も歴代の為政者によって手厚く保護されてきた。一宮では一番歴史のある寺で、現在でもなかり広い境内を持っている。

 手前に見えている門が一番南にある総門で、江戸時代に名古屋城から移築した門だ。ただし、昭和34年の伊勢湾台風で一度倒壊している。
 奥に見えているのが勅使門(ちょくしもん)。このお寺の中で最も重要なお宝だ。建物のことごとくを火事や地震などで失った中、この門だけが建てられたときのそのままの姿で生き残った。
 以前は国宝で、現在は国の重要文化財となっている。
 門の勅額「国中無双禅刹」は後光厳天皇の字だとか。形式は、一間一戸の四脚門(よつあしもん)。
 せっかくだからくぐってみたなかったのだけど、それどころか周りを囲まれていて近づくことさえできなかった。そもそも、勅使門というのは、宮廷からの勅使を出迎えるときのみ開かれた門だから、一般庶民の私などくぐれるはずもないのだ。もし、ここの門が開くと、そこから三門、仏殿が一直線に並んでいることが分かる。総門だけ東にずれてるのは、鎌倉時代の禅宗伽藍では一般的な配置なんだとか。

妙興寺の三門

 私としてはこいつが見たかった。ガイドブックの写真を見て、わっ、これ絶対見たいと思った三門。実物を見て、その期待を裏切らない立派さに感動。横にギターを弾いているおじさまがいて、ええっ!? と最初戸惑ったのだけど、しばらくするとこれが実にいい感じになってきた。寺の境内とギターの音色という異色の組み合わせがこんなにも馴染むとは思わなかった。室町時代の人が聴いても、これはちょっといいなと思ったんじゃないだろうか。

 三門というのは、山門と書かれることもあるけど、元々は三門が正しい。正式名称は三解脱門。三は、空、無相、無作のことで、仏を求める者はこの三つを解脱しなければならない、といったような意味らしい。
 形式は、三間三戸の重層門。間口が三間あって三間とも通ることができるから三間三戸。重層というのは、二階部分にも屋根がある門のことをいう。
 昔のものは火事で焼けてしまって、現在のものは明治11年に再建されたものだけど、そんな新しさは感じない。この門はとても気に入った。

妙興寺の仏殿

 最後は仏殿。門三つで充分満足してしまっておまけのような感じになってしまったけど、これも五間四方の入母屋造りの立派なものだ。
 賽銭箱に100円を投げて、さて何を拝もう、と迷う。考えてみると、お願い事はいつも神社に行ってする。お寺では何を願えばいいんだろう? そもそもお寺って願い事するところなの? という素朴すぎる疑問に自分自身答えることができなかった。実際のところどうなんだろう。一応、こちらの関係者各位のことをよろしくお願いしますと挨拶だけはしておいたけど、それでよかったんだろうか。
 ふと扉を見ると、何やらどこかで見たような紋が彫られている。誰のだっけ。戦国武将の誰かだと思ったけど。帰ってきてから調べてみると、豊臣秀吉の五七の桐だった。そうだそうだ。ただし、もともとは足利尊氏の足利家の紋章だったということで、そちらの関係なのだろう。

 このお寺は、神陰流の開祖である上泉信綱が無刀取りを会得した場所としても有名だ。文献としてはっきりしたものはないものの、どうやらここで修行したというのは本当らしい。子供を誘拐した暴れん坊が振り回す刀を素手で受け止めて、そこから無刀取りを開眼したという、時代劇のようなエピソードも語り伝えられている。池波正太郎の「剣の天地」でもそのことが描かれており、舞台は妙興寺となっている。
 禅寺ということで、現在でもたくさんの雲水たちがこのお寺で修行をしている。夕方、大勢出てきて境内を掃除を始めた。その全員に挨拶されて戸惑う私。ブックオフ並みの超こんにちはやまびこ攻撃。
 かつて、ここの修行僧が編み出したらしい妙興寺そばというのも地元の名物としてちょっと有名らしい。
 神社仏閣好きにはたまらない魅力を持った、ここ妙興寺。自信を持っておすすめしたい。たいてい長くても30分も神社などにはいない私がたっぷり1時間過ごした。閉門時間が迫ってきて、今度は中に閉じこめられそうになるくらいだった。入れないのもイヤだけど、出られないのはもっとイヤだぞ。お前さん、ついでに修行していきなさいなどと誘われても困ってしまう。いや、私、修行は俗世間でしますので。
 というわけで、ちょっとした修学旅行気分を味わえた妙興寺行きとなったのだった。よかった、よかった。

自分の中で中途半端なブドウを秋の味覚トップに抜擢 2006年10月17日(火)

食べ物(Food)
ブドウについて

Canon EOS Kiss Digital N+EF 50mm(f1.8), f2.0, 1/20s(絞り優先)



 秋の味覚といえばシイタケで決まりだネ、という特殊な人をのぞいて、秋ははやりマツタケであり、サンマであり、果物でいえばブドウや梨ということになるだろう。その他、栗もあるし、季節が進めば柿やミカンも出回ってくる。そんな中で、秋のトップバッターとして私が選んだのはブドウだった。まずは無難な選択と言えるだろう。
 それにしても、果物世界におけるブドウのポジションというのはどうも中途半端なところがないだろうか。高級でもなく低級でもなく、とびきり美味しいわけでもないしもちろんまずくもない。値段的にもバリエーション的にもそこそこで、どこをとってもそこそこ感がつきまとう。オレはブドウが死ぬほど好きで気づくとブドウの絵ばかり描いてるんだよね、なんて人は見たことがない。いや、もちろん、世の中は広いから、一番の好物がブドウだと答える人もたくさんいるんだろうけれど。
 私の中のランキングでいうと、ミカン以上バナナ以下といったあたりだろうか。もともとあまり果物を食べない方なので、ブドウはシーズンでも2、3回とマイナー果物に属する。頻度としてはキウイ以上イチジク以下か。
 思い起こしてみると、小さい粒のブドウは子供の頃けっこう食べていた。ただ、大粒の巨峰は今ほど出回ってなかったような気がするし、緑色のマスカットはまだ高かったのか、めったにお目にかかることがなかった。私があまり食べない間に、ブドウ業界もすっかり様変わりしたのだろうか。

 そんな私とブドウとの疎遠な仲とは裏腹に、ブドウは世界で最も生産されている果物なんだそうだ(オレンジが一番という話もある)。誰だよ、そんなにブドウを食いまくってるのはと思ったら、大部分がワインになるのだった。なるほど、そういうことか。世界では8割がワイン用で、食用は2割というから、世界ではあまりブドウは食べられてないのかもしれない。日本では9割が食用で、ワイン用は1割でしかないという。ワイン通の川島なお美なんかはきっと日本製のワインなんてめったに飲まないのだろう。外国産をありがたがるという点では、ワインはファッションブランド以上のものがある。いくら伝統が違うからといって、本当にみんなそんなにワインの味の違いが分かってるんだろうか。私はアルコール全般を受け付けないので、ワインも料理に使うだけで飲んだことがない。きっと、300円のものも何十万のものも、どっちもまずいと感じるだろう。
 ブドウにはいくつかの原種が世界のあちこちにあって、どこが原生地かというのは難しい。ヨーロッパ・ブドウと呼ばれる種類のものは、カスピ海沿岸に自生していたもので、紀元前3,500年頃の古代エジプトではすでに栽培されていたという。もうひとつの原産地は北アメリカ大陸。東部のアパラチア山脈にあったそうで、現在でもこのふたつの系統に大別されている。
 日本に入ってきたのは、平安時代末期の1186年(壇ノ浦の合戦が1185年)、遣唐使によって甲州に持ち込まれたのが栽培の始まりとされている。それとは別に、昔から野山にヤマブドウが自生していた。相当酸っぱいらしいけど、今でもあるそうなので、見つけたら食べてみたいと思う。山で酸っぱい顔してる男を見かけたらヤマブドウを食べた私かもしれない。
 本格的に栽培されるようになったのは江戸時代や、明治に入ってからで、現在は山梨、長野、山形、北海道、岡山あたりでたくさん作られている。品種も多く、日本で出回ってるだけでも20種類以上あるらしい。もし、この先で私がブドウに目覚めるようなことがあったら、全種類食べるのを目標としよう。皮ごと食べられる甘いブドウというやつも一度食べてみたい。リザマート、ニューナイ、バラディなんかがそれで、テレビで紳助と松っちゃんがで食べていた。
 ただし、私は干しぶどうが大の苦手なので、レーズンパンの差し入れだけはやめてください。小学校のとき、レーズン食パンがたまに出てきたけど、スイカの種を取るようにレーズンを取って食べたものだ。今でもレーズンの食感と味が苦手で、克服できないでいる。ブルーベリーは好きなのに。

 ブドウには体にいいものがたくさん含まれていることが分かっている。ポリフェノールが動脈硬化の予防になったり、ガン細胞と戦ったり、レスベラトロールという成分は寿命を延ばす効果があるといわれている。更にブドウの種からは育毛効果のある成分も見つかったという。とりあえずブドウをたくさん食べて体調を良い方向に持っていきながら、出した種は頭に蒔くといい。毛も生えてくるし、上手くいえばブドウも生えてくるかもしれないので、一石二鳥だ(誰も信じないと思うけど信じないでください)。
 漢字で書くと葡萄で、この語源は中国から来ているようだ。そもそもは、ペルシャのバァダァ(badah)が元になっているようで、これがシルクロードを通って中国から入ってきたときには伝言ゲームのようにズレていて、日本ではブドウとなり、そのまま名前になった。日本書紀などにも蒲桃や葡萄として出ているところからしても、その存在自体はかなり古くから知られていたのだろう。
 日本人にとってブドウというのは食べる果物というのが一般的だけど、外国人にとってはワインの原材料というイメージなんだと思う。
 ワインの歴史も古く、ブドウの歴史とワインの歴史はおそらく重なっている。というのは、世界中のお酒で、人間が手を加えず自然に発酵して酒になるのはブドウから出来るワインだけだからだ。きっとブドウが見つかったところで同時にワインも見つかったのだ。作ったのではなく。
 普通の酒は、酵母などを加えて発酵させることでアルコールになるのだけど、ブドウだけはアルコールとなるような糖分と酸の割合になっていて、皮には天然酵母が付いてるので、つぶしさえすれば勝手にワインになるのだ。これぞ自然の恵み。なので、私たちもブドウを踏みふみすればワインができるはずだ(たぶん)。いまでも、半ばイベントとして、乙女のブドウ踏みのようなものが行われている。おっさんが踏んで出来たワインはイヤだ。

 ブドウに関する一般的な知識が身に付いたとことで、更に時代を先取るニューパワーとして(なっつかしいですねっ)、もう一歩進んだ雑学も知っておきたい。
 まずおさえておきたいところとしては、巨峰を作ったのは大井上康代さんだということだ。そんな知識、一体どこで役立つんだよと思ったあなた、ミリオネアの1,000万円の問題で出るかもしれないので油断は禁物だ。
 種なしブドウはどう作るかというと、花が咲いている時期に、ジベレリンという植物ホルモン剤に房を浸けることで種子をできなくさせるのだ。これをジベ処理という。種なしブドウを彼女と食べてるときなどに、「ジベ処理を最初に思いついた人ってすごいよね」、などとさりげなく雑学を披露するのもまた一興。
 葡萄色というくすんだ赤紫色があるけど、あれは「えびいろ」と読む。えび染め、などというときはこの字を使う。
 ひとつのブドウ棚は一本のブドウの木から作られていて、そのままにしておくとどんどん成長していって、最終的には30メートル四方にも広がるそうだ。そして、その一本の木になるブドウの数は3万房。もぐだけでも手がおかしくなってしまう。けど、そんなことをすると甘みが分散して美味しくなくなるので、栄養を集約させるために200分の1ほどに間引きをする。私たちが食べているブドウは、そんな犠牲の上に成り立っていたのだ。
 まずはこれくらいのブドウ雑学を用意しておけば、川島なお美のワインうんちくにも対抗できるんじゃないだろうか。ワイン・サイドからいったら負けるので、ブドウ側から攻めたい。打倒川島なお美でブドウを食べて食べて食べまくろう。

忘れてきた夏の花の宿題を取りに少し過去に戻る 2006年10月16日(月)

花/植物(Flower/plant)
クサギって

Canon EOS 10D+Super Takumar 55mm(f1.8), f2.8, 1/640s(絞り優先)



 季節はすっかり秋の深まりを見せている中、保存写真のフォルダを見ていたら、とりこぼしていた花がいくつか見つかった。そこで夏の花の宿題を秋の今のうちにやっておくことにした。江戸の敵を長崎で討つようなものだ(それは全然言葉の使い方が間違ってるぞ)。
 まずはクサギから。カタカナで書くとまったくインパクトはないけど漢字で臭木と書くとあなたもきっと、ひどいっ! ひどいわっ! とおすぎとピーコのようになってしまうだろう。臭木って、いくらなんでもストレートすぎるだろう。小学生がつけたあだ名じゃないんだから。なんでも、葉っぱをちぎったり枝を折ったりすると、ひどく嫌な匂いがするらしい。でも、だからといって、見た目も性質もまったく無視して臭いから臭木ってのはないんじゃないか。ヘクソカズラ(屁糞葛)と並んでかわいそうな名前の代表と言えるだろう。
 原産は中国で、現在は日本全国から中国、朝鮮半島に生えているクマツヅラ科の落葉小高木だ。暖かいところへ行くと変種が出てきて、ショウロウクサギと呼ばれるものが多くなり、沖縄はこれがほとんどだそうだ。
 赤い部分がガクで、白いのが花、雌しべと雄しべがびよ~んと飛び出している。細い手足を目一杯広げた間抜けっぽい人に見えたりもする。
 実は、ガクの部分が赤紫で反り返り、実が黒紫という、ドムを思わせるようなカラーリングになる。その実を鳥が食べて種がまかれ、受粉はアゲハチョウやスズメガなどの長いストローを持っているのが担当する。蜜は中央のくぼんだ奥の方にあるので、口が長くないと届かない。
 今では臭いということでやや嫌われてるところもあるけど、昔は根っこは薬用、実は染料、若葉は食料としても利用されていたそうだ。特に実の染料は重宝されていたようで、自然界から青色を作り出せるのは藍とクサギだけだという話もある。もし、新撰組のコスプレをしたくなって、あの浅葱色(水色)が欲しくなったときはクサギの実を使うといいかもしれない。ホントにあんな色に染まるかどうか、私は知らないけど。

サルスベリ

 これはお馴染みのサルスベリ。今ではすっかり日本の夏風景に欠かせない花となっているけど、やってきたのは江戸時代と、意外と新参者だったりする。原産は中国南部やオーストラリアという比較的暖かい地方ということで寒さに弱いから、北日本の人たちにはお馴染み感は薄いのかもしれない。
 漢字で書くと百日紅で、なんでサルスベリって名前なんだろうとずっと不思議に思っていた。それが今日勉強してやっと分かった。百日紅というのは、100日間も紅色の花を長く咲かせるところから来ていて、サルスベリは幹の肌がすべすべのツルツルでこれは猿でも滑るだろうというところから名づけられたのだそうだ。なるほど、言われてみれば納得する。百日紅という字からヒャクジツコウと呼ばれることもある。
 花色は、ピンク紫が一般的だと思うけど、人によっては白のイメージかもしれない。他にも、紅、ピンクなどがある。
 それにしても、3ヶ月もの長きにわたって次から次へと花を咲かせ続けるエネルギーの持続力はすごい。普通、そこまで花を咲かせる必要はないのに、サルスベリの花を咲かせる情熱はどこから来ているのだろう? しかも、暑い夏の盛りに。前世がサルスベリで次に人間に生まれ変わるときは、日本や中国よりもラテン系をおすすめしたい。イタリアとかスペインとか、あっちの方が合ってる。この国に生まれてしまったら、欧米か! とツッコミが入るだろう。

マメアサガオかな

 三重の田舎に帰郷したときに見つけたこの花。川沿いの道にピンク色が唐突な印象を与えた。隣が畑だったから、何か野菜の花かとも思ったけど、形はアサガオっぽい。調べたけどどうも確信が持てない。ホシアサガオかと思ったら、あれなら内側が紫色をしてるというんで違う。じゃあマメアサガオだろうか。
 マメアサガオだとしたら、北アメリカが原産で、1950年代に帰化したということだ。現在は関東より西から九州にかけて分布してるという。

 夏の花写真はもう少し残っているけど、それはまた来年でいいか。今年の夏の花の宿題はこれにて完了ということにしたい。わずか1ヶ月、2ヶ月前の写真がなんだか遠く感じる。もうあの頃咲いてた花が咲いてないように、あの花を撮っていた私ももはやいない。季節が過ぎるように、自分もまた時とともに流され吹かれていく。もう一度同じ場所に立っても、同じ写真は撮れないだろう。
 2006年の夏は確かに終わった。そこに何を残し、自分の中に何が残っただろうと考えてみる。何もなかったような、大切な始まりがあったような、それらはきっと、もう少しあとになってみないと分からないことだ。私たちは今が一番大切だし、過去よりも未来のことを思って生きていくことは間違いじゃない。ただ、過去に張られた伏線を見逃してはならない。すべての時間は過去からの延長線上にのみ存在する。過去を取り落としてしまえば、生きた時間を無駄にしかねない。たまには、過去に戻って落とし物を拾うことも必要なのだ。

料理は誰にでもできて、できないよりできた方がいい 2006年10月15日(日)

料理(Cooking)
彩りサンデー

Canon EOS Kiss Digital N+EF 50mm(f1.8), f4.5, 1/25s(絞り優先)



 料理は心だというのは、入口と出口でのことであって、中間はあくまでも知識と経験と技術だ。確かに初心として、心を込めて料理を作ることは大切なことだし、技術が究極まで極まればあとはどれだけ心を込められるかということになってくる。ただし、その間にいる人間としては、心を込めても美味しくなければやっぱり駄目だと思うのだ。心を込めてテストを受けて精一杯空欄を埋めても、それが正解でなければ点はもらえないように。下手だけどあなたのためにガンバって作りました、てへっ、とか言われても、限度を超えてまずければそれは暴力に近い。こいつは心以前の問題だろうということになる。
 料理は決して難しいものではない。レシピ本の通りに作れば、食べられないようなものはまずできない。しょう油とソースを間違えるとか、そういう致命的な失敗を重ねない限り。たとえ、刃物恐怖症で包丁が握れなかったとしても、手でちぎればなんとかなる。日常生活を送れる人なら、レシピを見て5回も料理すれば基本的なことは身に付くはずだ。なにも英語をマスターするとか、ピアノを弾くとかの特殊技能を身につけろとかいう話ではないのだから。
 料理に関する特別な才能もなく、食べることにほとんど無関心だった私でさえ、50回も作ればこれくらいのものができるようになる。相変わらず手際が悪くて時間がかかるけど(今日は2時間半コース)、ややこしい料理も作り続けていればいつかは完成する。
 とにかく料理することは楽しい作業なので、これまでやったことがなかった人や、興味さえなかった人にこそおすすめしたい。毎日の義務としてではなく、あくまでも趣味として。ゲームよりも面白いし奥が深い。ものを作ることは喜びを伴うものだし、食べてくれる人がいればなお嬉しいもの。自分のためだけに作るにしても、上達していけば達成感が得られる。
 私のサンデー料理を見て、ひとりでも料理に目覚める人が出れば、それはとても喜ばしいことだ。ぜひ、「突撃!私の晩ごはん」の助手としてスカウトしたい。

 左のグリーンのものは、野菜と魚介と鶏肉のグリーンピースソースとなっている。
 ジャガイモをスライスしてレンジで温めて、少しオリーブオイルで焼く。その上に、ツナ缶、ゆで卵の黄身、マヨネーズを混ぜて焼いたものを乗せる。更に、鶏肉、ホタテ、ニンジン、ほうれん草を小さく切って、焼いて、乗せる。一番上にはとろけるチーズを。
 スープは、グリーンピースを温めてつぶして、オリーブオイル、牛乳、飲むヨーグルト、コンソメ、白ワイン、バター、塩、コショウと混ぜて温める。できれば裏ごしした方がいい。
 右手前は、スズキの大葉ロール。
 スズキの切り身をスライスして、大葉を乗せて巻き込む。塩、コショウもする。外れやすいので、最初は爪楊枝を差して、オリーブオイルで焼く。スープは、オリーブオイルをベースに、酢、カラシしょう油、塩、コショウを混ぜて作る。
 右奥は、エビとクリームソースの岩石揚げ・ミートソース。
 小麦粉、バター、牛乳でホワイトソースを作り、エビの切り身、タマネギのみじんと混ぜる。
 トマトソースは、トマトを乱切りにして煮込みながらつぶし、ニンニク、タマネギを加え、コンソメ、砂糖、酢、オリーブオイル、塩、コショウ、白ワインで味付けする。
 衣は、パンの耳を5mm角くらいに切って、ホワイトソースの具に小麦粉、溶き卵の順でつけてまぶす。
 今回はこれがダントツの美味しさだった。人に出すときはこの一品を加えたい。中身がとろ~りホワイトソースに外はパン耳のサクサク感が抜群。これは普通のパン粉では出せないサクサク感なので、ぜひおすすめしたい。油の温度はやや低めにして、じっくり揚げるのがコツだ。ミートソースも市販のものを買うだけでなく自分で作っても充分美味しいものが出来る。

 カノジョが心を込めて精一杯作った美味しくない料理を、美味しいよとひきつる笑顔で言い続けられるのはつきあい始めて何ヶ月目までだろう? 期間にして3ヶ月、回数にして5回くらい。とにかく美味しくなくてもいいから普通のものを食べさせてくれという心の叫びがカノジョさんには届くだろうか? いや、私の話ではなく一般論として。
 料理は決して難しいものではない。自分の実力以上に凝ったものを作ろうとすると無理が出てくるけど、身の丈にあった料理ならそれほど全力を出さなくても作れるはずだし、カレシさんも充分満足してくれると思う。初めは簡単なものから、だんだん難しいものに移っていけば、おっ、成長したね、となる。
 世の中のすべての男が料理で転ぶわけではない。料理上手を必要以上にアピールする女ってイヤね、と思う気持ちも分かる。それでも、恋する乙女のみなさん、料理をしてみませんか? と私は言いたい。出来て損はない技能だから。
 美味しい料理は人を幸せにするということが今になってやっと分かった。自分が作り手となれば、食べる側に回ったときも作り手の気持ちが分かるようになる。作り手と食べ手の気持ちがつながれば、そこに笑顔と感謝の気持ちが生まれる。そうなると、食べる人のことを思いやる気持ちが何より大切なのかなぁと思うけど、いやいや、やっぱり料理は知識と経験と技術なのだと言おう。
 カノジョさん、カレシさんのひきつり笑顔をぜひ満面の笑みに変えてあげてくださいね。

ヒクイドリとツルに学ぶそれぞれの在り方と自由について 10月14日(土)

動物園(Zoo)
ヒクイドリさん

OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f4, 1/250s(絞り優先)



 ひと目見て、こいつぁ恐竜だと直感的に思った。鋭い目や肌の質感が確かに恐竜を思わせた。実物の恐竜を見たことはないけど、遺伝子の遠い記憶が私にそう告げた。
 名前がまた恐ろしい。ヒクイドリという。漢字で書くと、火食鳥。火を吐くのではなく食ってしまうのだ。いや、もちろん本当に火を食べたりはしない。ノドから赤い肉が一対たれ下がっていて、これを見た江戸時代の人がまるで火を食べたみたいだというんで、そう名づけた。この赤い部分は、気分によっても変化するらしい。立派なトサカも強そうだ。
 凶悪さは見た目にとどまらない。まず図体がデカい。体長170センチ、体重80キロにもなり、鳥の中ではダチョウにつぐ世界第二位の大きさを誇る。がっちりした柔道部みたいな体つきだ。
 性格は用心深さと凶暴さを併せ持ち、ばったり出会った人間を突然襲ってくることがあるという。脚は長く太く強力で、3本の指のツメはナイフのように鋭く尖っている。ナイフみたいに尖っては触るものみな傷づけてしまうギザギザ・ハートのヒクイドリさんなのであった。実際、森で蹴り殺された人もいるというから本当に危ないのだ。もし、うっかり出会ってしまったら、助かる方法はただひとつ、木の上に昇ることだ。逃げたらやられる。なにしろ、深い森の中でも時速50キロで走れるのだから。
 ただ、日常生活の中でヒクイドリに出会う確率はないので安心していい。動物園にいるのはおとなしいし。野生の生息地は、ニューギニアとオーストラリア北西の熱帯雨林のみと、かなり限られている。かつてはもう少し広い範囲にいたようだけど、熱帯雨林の減少に伴って数を減らした。
 これだけの体なので、やはり空は飛べない。体重80キロもあって空を飛べたら、人間はとっくの昔に飛んでいる。鳥だから当然羽はあるものの、退化してしまっている。こういう飛べない鳥のことを、走鳥類という。
 そんな荒くれ者の一面を持つヒクイドリではあるけど、肉食ではなく果物を食べて生きている。たまに昆虫や小動物を食べたりすることもあるようだけど、主食はあくまでも果物だ。
 かわいげがあるところとしては、オスはメスにちっとも頭が上がらないというところ。メスは適当な巣を作って、交尾したあと卵を4、5個ポロッと産んで、そのままフラッと出て行ってしまう。卵を温めるのも、ヒナを育てるのも全部オスの役目だ。ヒナがかえったら、9ヶ月くらいは付いて世話をする。メスはどこへ行ったかというと、その頃には別のオスのところへ行って、また卵を産んでいる。で、そこも出て行ってしまう。なんて自由なんだ。
 なんにしても、ヒクイドリは一見の価値がある。おそらくこの鳥を見たら、たいていの人が、こいつは恐竜だと思うんじゃないだろうか。これを見ると、恐竜は進化して鳥になったという説を素直に信じられるようになる。恐竜の体色も、図鑑なんかに載ってるような地味なものではなく、実際はこんなふうに鮮やかな色をしてたはずだ。暖かいところに生息する生物が派手になるのは、昔も今も変わらない。

ホオカザリヅル

 ヒクイドリは恐竜のような荒っぽさがあるけど、ツルには鳥の鋭さがあって、これはこれはちょっと怖い。厳しい目つきといい、あまり和やかな雰囲気ではない。
 写真のものは、エチオピアからモザンビークあたりにかけてのアフリカの東南部に生息するホオカザリヅルという名のツルだ。左右にたれ下がった肉を頬にたとえて名づけられたのだろう。
 水辺を好むツルで、アフリカでは川沿いの湿地などで暮らしているという。現在7,000羽ほどに減ってしまったらしい。
 体長は130センチほどで、灰色の頭と半分赤い顔はよく見ると面白い。
 エサは、水草、昆虫、貝、カエルなどで、食料が豊富なところでしか生きていけないそうだ。
 ツルはやはりサギなんかとは存在感がまるで違う。単に体が大きいとかだけではない。サギとは違うのだよ、サギとは、とでも言いたそうな目をしている。

 ツルというと、すぐに北海道のタンチョウヅルを思い出して、なんとなく日本の鳥のような気がするけど、実際はそうではなく世界中にいろんな種類のやつがいる。だいたい17種類くらいに分けられて(亜種を入れるともっと多くなる)、南極大陸と南アメリカ大陸をのぞく大陸に広く分布している。日本で見られるのは7種類。釧路にやって来るタンチョウヅルの他に、山口や鹿児島などに冬鳥として渡ってくるナベヅル、マナヅルあたりが有名だ。逆に言うと、それらの地方以外の人は野生のツルを見る機会はほとんどないというのが実情だ。昔、ドラマ「池中玄太80キロ」で西田敏行がタンチョウヅルの写真を撮っていたのを思い出す。私もいつか釧路でタンチョウヅルの写真を撮ってみたい。
 かつての日本ではもっと各地にツルが飛んできていたんだろうか。昔から、鶴は千年亀は万年などという言葉があったり、物語としても姿としてもいろいろ描かれてるから、今よりはもっと身近な鳥だったのだろう。「鶴の恩返し」もあるし。
 ただし、もちろんツルは千年も生きない。動物園で50年くらい、野生で30年くらいだと言われている。それでも、ツルはいったんつがいになると、どちらかが死ぬまでずっと一緒に過ごすというから、そういう意味では縁起がいいというかおめでたい生き物と言えるだろう。

 ひとくちに鳥と言っても世界には実に様々なやつがいる。こんなにもたくさん種類はいらないだろうと思うけど、これが地球のいいところだ。多様さの贅沢がある。決して無駄なんかじゃない。みんなそれぞれに可能性を追求していった結果がこうなった。絶滅していった鳥たちも多かったことだろうけど、それらもまた今につながっている。
 飛ぶことだけが鳥じゃない。森を猛スピードで駆け抜ける鳥がいてもいい。色だって、地味には地味のよさがあり派手には派手のよさがある。ペアの在り方も、子育ての方法も、生き方も、すべてそれぞれでいい。どうすれば正しいかなんて決まってはいないのだ。人もまた同じこと。みんなと同じような格好をして同じように生きる必要はどこにもない。自然の生き物たちみたいに自分の可能性を追い求めればそれでいい。私たちはみんな、生物としての進化の途中にいるのだから。

吊り橋理論実践の前に白沢渓谷の吊り橋で下準備を 2006年10月13日(金)

名古屋(Nagoya)
白沢渓谷の吊り橋

Canon EOS Kiss Digital N+EF-S 18-55mm(f3.5-5.6), f5.6, 1/40s(絞り優先)



 名古屋市内に吊り橋があると言ったら名古屋人は信じるだろうか。私は去年初めて聞いたときは、にわかには信じられなかった。いくらなんでも吊り橋はないだろうと。しかし、それは確かにあったのだ、しかも我が町守山区に。だから守山区は、って言われてしまうのだろう。
 かつては堀川にもかかっていたらしいけど、現在では市内の吊り橋はここただ一本しかない。白沢川に架かる白沢川つり橋という木製の吊り橋。長さは10メートルくらいだろうか。渡ってみると、吊り橋特有のぐわんぐわんと揺れる感じがあって、ちょっと気分が悪くなりそうになる。渡り終えてからもしばらく地面がぐらぐらするような感覚が残る。意外と本格派だったりするのだ。
 名古屋近郊の方にはぜひおすすめしたい。吊り橋初心者の方も、これなら大丈夫だと思う。高さも揺れもそれなりだから。逆にこの程度で駄目なら本格的な吊り橋渡りはあきらめなくてはなるまい。散歩の犬たちは平気で渡っていたけど、あれは慣れているからなのか、それとも犬は吊り橋は平気なんだろうか。中には絶対渡るもんかと橋の手前でしゃがみ込むやつもいるかもしれない。
 場所は守山区の小幡緑地近くで、ロケーションとしては決して奥地とかそんな場所ところではない。すぐ横には東名阪や環状2号線も走っているし、周りは住宅地だ。渓谷という名前ほどすごいところじゃないので大丈夫。地図上では城土公園(しろつちこうえん)となっている。白沢渓谷というのは、その公園と一体化していて、吊り橋がかかっている白沢川の周辺をいうのだと思う。
 駐車場はないものの、公園の周囲は駐禁じゃないので、短い時間なら車をとめておいてもよさそうだ。観光地とかではなく普通の公園なので、地元民確率98パーセント。ちびっ子たちや親子連れ、犬の散歩の人が多い。川沿いに少しだけ散策路がある。春はちょっとした桜の名所になるそうだ。
 近くには「ゆとりーろライン」というのが走っている。これは、日本初の新交通システムであるガイドウェイバスシステムで、無人運行のバスだ。愛・地球博の前にここで実現されていた。こいつに乗って、白沢渓谷に遊びに行くというのもよさそうだ。守山区民なら、ぜひ両方とも自らの目で確かめて欲しい。最先端の交通機関と、名古屋で唯一の吊り橋を。
 ちなみに、あるアンケートによると、「守山ベスト8スポット」は、「東谷山」、「小幡緑地」、「八竜湿地」、「白沢渓谷」、「香流川緑道」、「安田池」、「すいどうみち緑道」、「庄内用水元杁樋門」だそうだ。すごいマイナーだ。マイナーすぎるぞ。私でさえ後ろの3つは行ったことがないくらいだから。でもぜひ制覇したい。安田池というのは存在自体知らなかったから、特にこれに興味がわいた。

白沢渓谷の夕暮れ

 せっかく吊り橋を渡ったことだから、この機に吊り橋について少し勉強してみた。これまで吊り橋というものは5回渡ったかどうかで、思えば私は吊り橋に関してはまったくの初心者だった。特に関心を持ったこともなかったので、ほとんど何も知らなかったと言ってもいい。吊り橋の定義は何なのかとか、どういう仕組みで落ちないのかとか、いつ誰が最初に作ったのかとか、一番長い吊り橋はどこなのかなどなど。まあ、普通知らないよな。
 日本で有名な吊り橋といえば、レインボーブリッジや明石海峡大橋などがある。あれも吊り橋なんだと驚くけど、姿を思い浮かべてみると確かに橋げたがないから吊っているのだろう(明石海峡大橋は途中でいろいろな仕組みになっていて、必ずしも吊り橋ではないけど)。
 世界では、ゴールデンゲート・ブリッジやブルックリン橋なども吊り橋だ。ある程度の長さの橋をかける場合は、必然的に吊り橋になってしまうらしい。下を通る船のこともあるし、いっぱい足を作るのは大変すぎる。
 吊り橋というと、どうしても山間の川にかかる木製のゆら~り、ゆら~りというのを頭に浮かべがちだけど、一方で吊り橋というのは世界の最先端技術でもあるのだ。
 近代吊り橋の第一号は、1801年にジェームズ・フィンレイがペンシルヴェニア州に作ったジェイコブズ・クリーク橋だそうだ。それから200年、世界中で吊り橋は作られ、様々な試行錯誤が繰り返されてきた。いまだ吊り橋の技術は必ずしも完成された技術ではない。21世紀に入って作られたイギリスのミレニアムブリッジなどは、渡るとぐらんぐらん大揺れに揺れてしまって、完成から3日間で全面通行止めになってしまったくらいだ。それから補修工事に2年近くの月日を費やして解禁になったものの、今でもかなりの揺れらしい。

 吊り橋のキーワードはなんといっても揺れだろう。そして次に高さということがある。日本にも様々な日本一の冠のついた吊り橋がある中で、怖さという点で一番有名なのは、日本一広い村である奈良県十津川村にある谷瀬の吊橋かもしれない。全長297メートル、高さ54メートルのこの橋は、鉄筋としては日本一の吊り橋だそうだ。そして、とにかく怖さが尋常ではないらしい。揺れる上に高さが恐怖感をいやがうえでも盛り上げる。一度に20人以上渡るとキケンという注意書きも泣かせる。渡り始めたはいいが、途中で怖くなって引き返す人も続出だという。大人になって急に高所恐怖症になってしまった私は、もしかしたら橋のなかほどあたりでチビってしまうかもしれない。もし、パンツの前にシミができているのを見つけても見てみないふりをしてください。
 歩道専用の吊り橋として日本一長いのは、茨城県にある竜神大吊橋の375メートルのようだ。大分県に、九重“夢”大吊橋というのが今年の10月に出来るらしく、これからはそれの390メートルが一位になるのかもしれない。
 私は、静岡の大井川鉄道の近くにかかっている塩郷の吊橋の写真を撮りたい。いや、渡ってみたいわけではない。

 吊り橋といえば、「吊り橋理論」というちょっと面白いものがある。カナダの心理学者ダットンとアロンが発表した学説で、吊り橋を渡るときのドキドキ感と恋愛のドキドキ感が似ていて、人はそのドキドキを恋愛感情と思い込んでしまうというものだ。
 実験は、普通の橋と吊り橋とで、渡ってる途中に若い女の人からアンケートを求められた男は、結果を知らせるから後日電話をして欲しいと言われたときに電話する確率はどっちがどうだというものだった。実験の結果、普通の橋でアンケートを受けた男が電話してきたのが1割だったのに対して、吊り橋組はほとんど全員だったというのだ。これは吊り橋による胸の高鳴りをその女の人に対するときめきと勘違いしたという部分が多分にあったからだろう。
 もちろん、これだけの実験で理論づけるのは無理があるけど、よく似た状況で同じようなことはよく言われることだ。緊張によるドキドキを共有することで人は恋愛と混同してしまうことが確かにある。だとすれば、吊り橋デートなんていいんじゃないだろうか。ドキドキ感は一気にヒートアップして燃え上がる恋に発展する可能性がなくはない。遊園地のジェットコースターやお化け屋敷よりは確率が高い気がする。
 ただし、この理論には続きがある。映画『スピード』の中でサンドラ・ブロックも言っていたように、「極限状態で結ばれたカップルは長続きしない」のだ。ドキドキがおさまってふと我に返ったとき、私この人のことそんなに好きじゃないかも、と思うことはありがちなことだ。それはスキー場の恋なんかとも似ているところがある。
 で、結局、吊り橋は行けばいいのか行かない方がいいのか、誰と行けばいいんだ、とあたなはちょっとイラっときてるかもしれない。私から言えるアドバイスとしては、とりあえず吊り橋はひとりで行ってもほとんど楽しくないということだ。橋の真ん中で怖さのあまり動けなくなったときも、ひとりで救助を待つのはつらいものがある。ここはやはり、思い切って好きな相手を誘ってみるのがいいだろう。たとえ恋がほんの一瞬で終わったとしても何もないよりずっといいし、そこまでいかなくても手くらいは握れるかもしれない。ただし、相手はまったく平気なのに自分自身がへっぴり腰になって途中で引き返してしまったりすると、評価はがた落ちになるので注意が必要だ。そうならないように、白沢渓谷でしっかり下準備をしておくことをおすすめしたい。

川原神社は弁才天のいる歴史のある神社

神社仏閣(Shrines and temples)
川原神社本殿




 たとえばドリンク剤でもサプリメントでも、成分や効能を知ってから飲んだ方がよく効くような気がするように、神社もまたその由来や祭神なんかを事前に調べた上で出向いた方がありがたみが増すということがある。何の予備知識もなくふらりと立ち寄ってお参りした神社をあとから調べてみると思いがけない伝説や歴史があったりして、こんなことならもっとしっかりお参りしてくればよかったと思うことがある。
 川原神社(かわらじんじゃ)へ行こうかどうしようか迷って行くことにしたのは、ここに弁才天が祀られていることを知ったからだった。弁天さんについてはこれまで馴染みがなかったので、もう少し親しくなっておきたかった。行けば縁ができるし、帰ってきてから勉強すれば知識が増える。

 昭和区の飯田街道沿いにある川原神社は、まず駐車で参拝客を驚かせる。東側の鳥居を車のままドライブスルーして、境内の鳥居の脇をすり抜けるように進むのだ。おいおい、こんなところホントに走っていいのかと不安になるようなコース取り。しかもその通路が細い。あれは大きな車だと途中で身動きが取れなくなるんじゃないだろうか。それにしても、いくら街中の神社で駐車スペースが外に確保できなかったとはいえ、あれはちょっと畏れ多い気がした。初心者マークの人は鳥居にぶつかっていってしまうかもしれない。
 どうにか境内の空き地に車をとめた私の目に飛び込んできたのが、境内全体に作られた大がかりな足場だった。なんだこれは!? 写真には写ってないけど、この右側に大きな足場が組まれている。何のためのものなんだろう。一時的なものなのか、ここに何か建てようというのか。巨大な盆踊りのセットでも組みそうな勢いだったけど、おかげで雰囲気も何もあったもんじゃないのである。更に境内では自転車のちびっ子たちが勢いよく走り抜け、野球小僧たちは大暴れし、地元民がひっきりなしに通り過ぎ、こりゃまいったなと思う私であった。
 とりあえず気を取り直して、お参りしたり、あちこち写真を撮って、ようやく気分も静まった。ここは足場とちびっ子さえ不在なら、なかなか雰囲気のある神社に違いない。楠などの巨木もいい感じだ。
 写真の本殿はごく新しいものだ。前のものは平成4年に火事で焼けてしまって、これは平成10年に再建されたものだから、まだ8年しか経ってない。ただ、その割にはテカテカと安っぽく光ってないのがいい。その前の社殿は戦争で焼けてしまったそうだ。いずれにしても、もったいないことをした。
 ここの神社自体はかなり古くからあったもので、創建年数は不明ながら、「延喜式神名帳」に載っている式内社ということで1,000年以上の歴史を持っている。
 近所の人たちには「川名の弁天さま」と呼ばれて親しまれているそうだ。秋にはもち投げ大会が開かれ(もしかしてあの足場はこれのためだったのか?)、大晦日から新年にかけてたいそうな賑わいだという。毎月3と8の付く日には朝市も開かれているらしい。
 祭神は日神(ひのかみ)、埴山姫神(はにやまひめのかみ)、罔象女神(みつはのめのかみ)で、日と土と水の守り神となっている。国つ神系の神社はこの組み合わせが多い。そして、もうひとつここの象徴ともなっているのが弁才社だ。



弁才天さん

 入口の鳥居をくぐったすぐにちょっとした池があって、ここに弁天社がある。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、芸事の向上祈願などに多くの人が訪れるそうだ。本殿よりもこちら目当ての人もたくさんいるとか。
 この池は亀の池としても有名で、昔からたくさんいたところへもってきて、亀池として知られたことで大勢の人がここへ亀を放っていくもんだから、ますます増えて大変なことになっている。一度水を抜いたときに数えたら300匹以上いたそうだ。水の状態は見た目よりも悪くないんだろうか。それともこれもまた神力というものなのか。
 この弁天池は昔から有名だったようで、江戸時代末期の「尾張名所図絵」にも載っている。

 弁才天がどういう神様かを説明するのは難しい。いくつかの神様が合体してできた複合体のような存在だから。元々はインドの水の女神サラスヴァティーがルーツのようで、これが日本にいた水の女神である市杵嶋姫神とあわさって弁才天となり、信仰の対象となったのが始まりのようだ。
 更にそこから弁才天が弁財天と表記されたりもするようになったことでお金の神様の一面も持ち合わせることになるので少しややこしい。のちには七福神のひとりとして入ったことで、またイメージが広がり、逆にとらえ所がなくなった。仏教の神だったものが神道に取り込まれたという経緯もある。
 元は水に関係あるということで水の守り神であり、容姿端麗で芸事に優れていたことから芸能の神様となり、水が流るる如く流ちょうに話すということで弁舌の神様ともなったのだった。と同時に財産の神でもある。
 琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)弁天、江ノ島弁天、厳島弁天を三大弁天とするのが一般的なようだ(宮城の金華山弁天、奈良の天川弁天を加えて五大弁天とすることもある)。いずれも水に関係あるところで、特に琵琶湖は弁天の聖地とされて、昔から厚く信仰されていたという。
 ちょっと面白いというか恐ろしい伝説によると、弁天さんは嫉妬深い女神で、カップルで訪れるともれなく別れをもたらすという話がある。実際、江ノ島や井の頭弁才天などでそんなことがもっともらしく言われているらしい。名古屋には東山動物園のボートに乗ったカップルは別れるという都市伝説があるけど、弁天様の場合は神様が絡んでいるだけにそんなバカなと笑い飛ばすことが出来ない。本当かどうかはそれぞれが身をもって確かめてほしい。
 
【アクセス】
 ・地下鉄鶴舞線「川名駅」下車。徒歩約8分。
 ・無料駐車場あり
 

遠い海を越えて届いた荷物を手に郵便に思いを馳せる 2006年10月11日(水)

室内(Room)
国際郵便が届く

Canon EOS 10D+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.0, 1/15s(絞り優先)



 エアメール。甘美な響きを持つ言葉だ。遠い国から風に乗ってやってきたようなロマンチックがとまらない。ゲーム「ルナ・シルバースターストーリー」の挿入歌「風のノクターン」を思い出す。♪見知らぬ国から 海を渡って吹く風はね やさしく耳のうしろをすぎる♪ でも、郵便物は耳の後ろを通って過ぎていっては困る。ちゃんと手元に届かないと、とまどう想いを胸に生きていくことになってしまうから。
 いきなりマイナーなネタから入りすぎて戸惑っている人が多いと思うけど、気にせず前に進んでしまおう。この前、丸ポスト絡みで日本の郵便について少し書いた。今日は国際郵便について勉強してみたので、そのあたりのことを書こうと思う。
 エアメールや国際郵便を、日本人はどれくらい受けとるものなんだろう? 私は平均的な日本人と比べてかなり少ないような気がするけど、じゃあ周りの人間はたくさん受け取っているかといえばそんな様子もない。うちのばあちゃんいわく、「じいちゃんはシナ人と文通してた」らしいのだけど、ばあちゃん、シナ人はどうなんだと思う。私の場合、海外の文通友達もいないし、知人がひんぱんに外国旅行に行くわけでもなく、そうなると、ほんとにたまに友達が海外から送ってくれる絵はがきくらいしか外国からの郵便物を受け取るということはない。
 今回の郵便は、アメリカに住んでいる日本人からオークションで物を買ったことで、期せずして国際郵便が送られてくるということになった。何を買ったかをここで発表するのはやめておこう。怪しいブツではないことだけは言っておく。
 届いた包みを手にとって、これは確かに外国から届いたものなんだなと思うと、ちょっと感慨深いものがある。国内から届く荷物とはやっぱり嬉しさが違う。たとえ中身が日本でも売っているものだったとしても。

 GLOBAL PRIORITY MAILというのは、ランクでいうと中間くらいの扱いということになるのだろうか。PRIORITYは優先順位というような意味だから、普通のエアメールよりも優先順位が上ということになる。たぶん、日本でいうなら通常の郵便に簡易速達が付いたようなものだと思う。アメリカから日本まで4日で、値段は約600円だった。日本のEXPACKでも500円ということを思えば、この600円はそんなに高くない。4日なら定形外郵便とさほど変わらないし。
 国際郵便のシステムはかなり複雑で分かりづらい。基本的に重さなんだろうけど、荷物をどういう扱いにするかで金額にかなり差が出てくる。航空便で送るか船で送るか、急ぐか急がないかでまた違ってくるし、国によってもいろいろありすぎて分からない。郵政民営化されてるところなんかは特に。
 日本から外国へ送る場合を調べてみると、思ったよりも安くもあり高くもある。とにかく重いものはバカ高い。1キロを超えると、地域によって1,500円から3,000円くらいになるし、15キロなんか超えた日には1万円とかになる。前に郵便局の窓口で順番待ちをしてるとき、大きな荷物を送ろうとしていた人が2万いくらですとかって言われているのを聞いて耳を疑ったことがあったけど、あれは冗談じゃなかったのだ。大阪のおばちゃんやおじちゃんが商売のときに言うのとはわけが違う。送り先は確か南米のどこかだった。
 一方、通常のハガキなどはいたって安い。世界のどこでも70円だし、封書でも、50gまでなら160円から230円だ。これくらいなら国内の郵便物と感覚的に一緒と言ってもいい。今まで海外に向けて手紙を出したことがない私だけど、こんなに安いなら出してみたい。適当な住所に出してみようか。カナダなんかよさそうだ。そしたら返信で、カナダからラブレターが届くかもしれない。ラブレター・フロム・カナダ。
 日本で普通に発売されている切手で届くというのはちょっと不思議な感覚だ。なんとなく出す国の切手を貼って出さないようないけないような気がしていた。
 封書も、エアメールなら例の赤、青、白の床屋のうずまき模様みたいなのが入ったものを使わなければいけないものとばかり思っていたら、これも普通の封書でよかったのだ。もしかしたら、折り込みチラシの裏でもいいのかもしれない。
 赤色で「Air Mail」か「Par Avion」と書くのは、日本の年賀状に「年賀」と書くのと同じようなものだ。

 手紙を届けるということは、人が文明を持つ以前から必要に迫られていたと思うけど、その中で伝書鳩というのはかなり古くから使われていた手だったに違いない。古代エジプトでもあったと言われている。古代エジプトでは、すでに手紙を運ぶのを専門とした人もいたらしい。
 郵便を最初に制度化したのは、紀元前6世紀の古代ペルシアだそうだ。こういうものはたいてい戦争が絡んでいて、それが原動力となることが多い。発明にしても、移動手段にしても、制度にしても。郵便も例外ではない。
 古代ローマでも、中国は唐の時代にも、しっかり郵便制度はあったという。日本は戦国時代でもまだ早馬で運んでいたくらいだから、郵便に関しては世界で遅れていた方だろう。国土が狭いから、いざとなれば自分が出向いていけるというのもある。
 しかしながら、同じく狭い国土ながら郵便というものの重要性というものにいち早く気づいて、体制を確立していったのはイギリスだった。1600年代にはかなりシステム化されていたようだ。
 画期的だったのが、1832年にイギリスのローランド・ヒルが提唱した重量制と全国均一料金制度だった。1840年にはその制度が採用され、世界で初めて切手というものが登場したのだった。
 これは世界で次々に取り入れられることになり、1843年にはスイス、ブラジル、1847年にはアメリカ、1849年にはフランスがそれぞれ初めて切手を作った。日本はやや遅れて、1871年(明治4年)だった。
 1874年には万国郵便連合(UPU)が設立され、郵便の世界はこれによってひとつとなった。これがあるから、日本の切手でも当たり前のように外国に配達してもらえるのだ。
 切手といえば面白いのは、どの国も切手には自分の国名を印刷しているのに対して、イギリスだけは国名を入れてないというのだ。日本ならどの切手にもNIPPONと入っている。イギリスはどうして入れないかといえば、この制度を作ったのはうちなんだから、入れる必要ないでしょということになるらしい。昔、駄菓子屋で買った外国の中古切手の中に、国名の入ってないものがあったら、それはイギリスの切手ということになる。

 郵便にまつわるドラマは日本でも世界でもたくさんあることだろう。届かなかったラブレターや、間違いで届いた手紙から始まった恋なんてのもあったかもしれない。郵便配達にも様々なドラマがあるはずだ。ただ、そのわりに郵便や郵便配達を主題にした映画が不思議と少ない。何年か前に中国映画で『山の郵便配達』というのがあったけど、その他では『郵便配達は二度ベルを鳴らす』くらいしか思いつかない。最近では電子メールがテーマの『ユー・ガット・メール』くらいか。岩井俊二監督の『Love Letter』はよかった。韓国映画はわりと手紙にまつわるものが多い。『イルマーレ』や『天国からの手紙』、『猟奇的な彼女』でも手紙は重要なキーになっていた。
 思い返してみると、私たちが学生の頃はまだいろんなところで手紙というものが活躍していた。私も中学のとき、ただひとり文通というものをしたことがあった。あれは新潟の糸魚川市の子だった。名前も忘れてないし、手紙は押し入れの奥にまだとってあるはずだ。授業中に好きな女の子から回ってきた連絡事項のような手紙も捨ててはいない。フラれた手紙も破いてはいないし、靴箱に入っていた名前のないラブレターもどこかにあるはずだ。
 手紙は残るから嫌だという人もいるだろうけど、残るからいい部分もある。二度と読み返すことはなくても、引っ越しのときなどに出てきたら、それだけで懐かしくて嬉しくなる。メールも残ると思いがちだけど、やっぱり残らないと思う。PCを変えたり、OSを入れ替えたりなんかしてるうちにいつの間にかどこかへ行ってしまう。
 今はこれだけたくさんのメールが行き交う時代になって、手紙はますますすたれていっているけど、この先も手紙は確実に残ると私は思う。メールは手紙の進歩したものではなくまったく別のものだから、人はまた手紙の大切さに気づいて、メールと手紙を使い分けていくようになるだろう。
 こんな時代だからこそ、あえて手紙を書こう。話すのではなく、メールでもなく、手紙でしか伝えられない気持ちもきっとあるから。

秋の夕陽に浮かぶススキとエノコロと半袖の自分と 2006年10月10日(火)

花/植物(Flower/plant)
ススキも伸びる秋の中頃

OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f5.6, 1/500s(絞り優先)



 中秋の名月も過ぎて、季節はいよいよ秋本番。いまだ半袖、裸足の私を置いてけぼりにして、街はいよいよ秋の深まりを強めていく。
 夕焼けの川沿いを車で走っていたら、ススキが風に吹かれてゆるやかに揺れていた。こんな景色を見れば、嫌でももう秋を感じずにはいられない。そろそろ夏服をしまって冬服を出さなければいけないかもしれない。ホコリをかぶった扇風機もいい加減しまおう。
 私の少年時代、秋を象徴する雑草はセイタカアワダチソウだった。道沿いも、空き地も、川原も、一面びっちりとあの黄色と緑のコントラスに覆われたものだ。それが、気づけばすっかりセイタカアワダチソウは姿を消し、再びススキ風景が戻っていた。なんでも、セイタカアワダチソウは増えすぎたことによって、自家中毒によって自ら消滅してしまったらしい。そういえば本当に見かけなくなった。今、セイタカアワダチソウの写真を撮ろうと思っても、どこに撮りに行けば咲いているのか分からないくらいだ。
 昔ながらの秋風景であるススキが戻って喜ばしいことではあるけど、セイタカアワダチソウもちょっとだけ懐かしいようにも思う。小学校の下校途中で見た秋の黄色い光景が思い出される。

 日本原産のススキは、ずっと昔から日本人の暮らしには欠かせない存在だった。農家の茅葺き屋根がススキだということを知らない人もいるかもしれない。茅という植物は存在せず、あれはススキなどの総称で、合掌造りの白川郷では今でも屋根の張り替えでススキは欠かせないものとなっている。その他、家畜のエサにしたり、炭を運ぶときの梱包材としたり、縄や草履などの生活用品にも利用さた。かつては大量に必要だったことから、ススキの草原も農村の近くに必ずあったという。茅場(かやば)と呼ばれていたその場所は、今でも地名としてけっこう残ってる。
 現在、ススキを日常的に利用してる人はほとんどないだろうけど、日本中たいていのところに生えている。沖縄は温かいので常緑なんだそうだ。日本以外では、朝鮮半島、中国、マレーシアあたりにも自生してるらしい。
 秋の七草のひとつでもあり、昔は尾花とも呼ばれていた。動物の尾っぽみたいな様子からだろう。幽霊の正体見たり枯れ尾花の尾花はススキのことだ。巨人では今ひとつ役に立たなかった尾花コーチに対して、このススキ野郎! とヤジを飛ばしてもいいかもしれない。
 草のくせになんで七草に入ってるんだと疑問に感じたことがある人も多いかもしれないけど、あれでもちゃんと花を咲かせている。十数本に別れた花穂に黄色い小さな花をぶらさげる。昆虫を誘わなくても風で飛ばせるから(風媒花)、地味でもいいのだ。白くなってボサボサになってる状態が種子がなってるときで、風に乗せて種を運ぶ。
 漢字では「芒」と「薄」が当てられる。本来は芒の方が正しいらしい。
「ススキ」の語源は、すくすく育つ木から来ているとか、神楽で使われる神楽鈴の木からとか、いくつか説があるようではっきりしない。札幌のススキノはかつてススキの野原だったんだろうか。

エノコログサ

 これもススキと同じイネ科のエノコログサだ。ススキ以上にありふれていて、日本全国こいつが生えてないところはないんじゃないかと思うほどだ。ただし、都会では普通種のエノコログサよりも大きめのアキノエノコログサの方が多いという。写真のように花穂が短めで真っ直ぐ立っていればエノコログサで、長めで弧を描いて垂れ下がっていたらアキノエノコログサだ。
 エノコログサを漢字で書くと狗尾草。狗(エノコ)は子犬のことで、ロは尾のなまったものだ。英語ではFoxtail grassとキツネの尾っぽに見立てている。ヨーロッパにも広く分布しているようだ。
 通称猫じゃらしというのは関東で生まれた言葉らしい。今では全国区なんだろうか。確かにあれは猫がじゃれる。子供の頃は、後ろから友達に近づいて手に持ってエノコロで顔や首をこしょこしょしたりされたりしたものだ。
 オオエノコロ、キンエノコロなど、いくつか変種があって、紫っぽいものをムラサキエノコロとして区別することもある。
 たくさん生えてるわりにちっとも役に立たないと思われがちなエノコロだけど、かつての日本人が食べていた粟(あわ)の原種だと言われている。今でもその気になれば、エノコログサの若い葉っぱと花穂は火であぶったり、天ぷらにして食べられるらしい。どうしても食べるものに困ったら、私もエノコロのあぶりをマヨネーズで食べてみたいと思う。

 秋が深まる川原で、あなたもぜひススキやエノコログサを眺めたり写真を撮ったり触れ合ったりしてみることをおすすめします。もし、どうしてもやることがなくて退屈だったときは、私を呼んでください。一緒に、猫じゃらしでじゃらし合いながら、どちらが猫のモノマネをする池乃めだか師匠に似ているかの勝負でもしましょう。そして、その後はカラオケで「昭和枯れすすき」をデュエットしようではあ~りませんか。
 ススキとエノコロ秋の集い、若干名募集中。

21世紀になっても砂漠の舟ラクダさんが頼りです 2006年10月9日(月)

動物園(Zoo)
砂漠はラクダが頼り

OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f5.6, 1/50s(絞り優先)



 なんとなく微笑んでいるように見えたラクダさん。どの角度から撮ろうかと移動しながら狙っていたら、向こうもそんな私をずっと追いかけて見ていた。観察しているつもりが観察されているのは私の方だった。動物園は動物の側から見れば、人間ウォッチングの場だ。人間でも見てなくちゃ退屈でやりきれない。
 砂漠の舟と呼ばれるラクダは、21世紀の今でも砂漠で人の乗り物として現役で活躍している。人類はこれまでに様々な乗り物を開発してきた中で、どういうわけか砂漠に適した乗り物については決定的なものをいまだ作り出せていない。砂漠用のバギーはあるものの、所詮バイクで長い距離が走れないし、フルフェイスのヘルメットをかぶらないと砂で大変なことになってしまう。完全防備で砂の上を滑るように走る乗り物があってもよさそうなのに、実際のところはどうなんだろう。
 いずれにしても、砂漠生活に置いてラクダというのは今も実用的な乗り物であることは間違いない。馬がなくても人は生活していけるようになったけど、ラクダがいなくては砂漠では生きていけない。ある意味では、最後の生きた乗り物と言ってもいいかもしれない。
 とにかくラクダというのは砂漠に特化した生き物で、その性能はすごいものがある。のんきそうに口ももぐもぐさせているお人好しと思ったら大間違いだ。今日はそのへんのことについて勉強してみた。

 ラクダにはヒトコブラクダとフタコブラクダがいる。文字通り、背中のコブがひとつかふたつの違いで、これは地域による違いだ。西アジア原産がヒトコブラクダで、中央アジア原産がフタコブラクダになる。人コブとフタコブを掛け合わせるとヒトコブ半ラクダになるというのも面白い。
 そもそもラクダってどんな生き物? と自問自答してみるとよく分からない。何が分からないかというと、そのポジションだ。日本では動物園にいるものだけど、現地ではどうなってるんだろう。野生動物なのか、人の持ち物なのか。その長年のモヤモヤが今日晴れた。ヒトコブの野生は絶滅して完全に家畜になっていて、フタコブもほとんどがそうなっている中、わずかに500頭ほどがトルキスタンやモンゴルに野生として残っているんだそうだ。言われてみれば、野良ラクダってテレビでも見たことがない。パリ・ダカール・ラリーで歩いてるラクダとぶつかってリタイアなんて話も聞いたことがない。そうか、ラクダはもはやすべて人間のものとなっていたのか。
 あのコブの中には何が入っているか? 昔はあれは水筒だと思われていた。砂漠で水を飲まずに生きていけるのはあそこに水をためておいてチビチビ吸収してるからに違いない、と。もちろん違う。あれは脂肪のかたまりで、砂漠を生きるためにさまざまな役割を果たしている。エネルギー貯蔵庫であり、太陽の熱を遮断する皮下脂肪であり、体温の上げ下げを調節したり、この脂肪を使って代謝水と呼ばれる水を作り出すことさえできるのだ。コブの大きさは50キロもある。
 とにかく砂漠は暑くて乾燥していて夜はめっぽう寒い。それに対処するために、一週間近くも水を飲まなくてもいいような体をしていて、暑いときには自らの体温を上げ、寒いときには自分の体温を下げて対処する。日本の動物園でちょっと暑いといってはぐうたらし、寒いといっては部屋にすっこんでいるような軟弱な動物たちとは頑丈さがまるで違うのだ。名古屋の夏も冬も、彼にしてみたらぬるま湯生活のようなものなのだろう。
 水は飲めるときはこれでもかってくらいに飲む。ごくごく飲むは飲むは、とどまることを知らず、一度に80リットルから100リットルも飲むというから驚く。2リットルの大きいペットボトル40本から50本といえばその量のすごさが分かるだろう。いくら体重が500キロくらいあるからといって、100リットル一気飲みはやりすぎだろうと心配になる。水はこまめに飲んだ方が体にいいって言うぞ。それに、そんな量をどこに保存しておくんだと疑問に思う。体の中に水筒でも持ってるのか、と。
 実は、血液の中に水分を溶かして込んでしまうというのだ。普通、ほ乳類はそこまで体内の水分量が増えると、血液中の赤血球が破裂してしまうのに、ラクダは大丈夫なようにできている。砂漠を生き抜く知恵というのは、体の構造までこんなにも劇的に変えてしまうものなのか。そんなに水たぽたぽでも大丈夫な一方で、体内の水分の4割失ってもまだ生きていられるというのもすごい。人間などは1割も失ったら生きていない。
 その他、砂漠を生き抜くための工夫として、鼻の穴をぴたりと閉じることができたり、異常に長いまつげと耳毛を持っていたりする。これは砂対策だ。砂というものもとてもタチの悪いものだ。砂漠なんかにデジカメを持っていったら一発で駄目になってしまう。
 砂漠を歩くという点でも、ラクダの足は砂漠用にできている。馬のように大きな固い蹄では都合が悪いので、小さい蹄と2本の指を持ち、足の裏は犬のような肉球を持っている。これで足場の悪い砂漠を歩くことができている。意外と足も大きい。
 ラクダは走らないと思ったら大間違いだ。一般的な土の上なら時速50キロまで出せるという。そんな速いラクダはイメージできないけど、モンゴルなどではラクダでレースが行われているそうだから、本当はラクダも砂漠じゃなく草原で駆け回っていたかったのかもしれない。

ラクダのマサシかな

 上の写真の濃い色の方がメスのハマコで、これがオスのマサシだと思うのだけど、はっきりしたことは分からない。違ってるかもしれない。上の方が若く見えると思ったら、1993年生まれで、下の方はちょっとしょぼくれた感じの1983年来園だそうだ。
 こうやって全体像で見ると、なんとなくラクダの体はバランスが悪そうに見える。体が先にあって、そこに首と顔を付けるとしたら、もっと上の方に付けるだろうと思う。低い位置の方が地面のエサを食べるには都合がいいかもしれないけど。
 ラクダは草食動物で肉は食べない。食べた草を牛のように反すうして、ゆっくりと消化しつつ、体の中で発酵させて栄養に変えている。
 日本へは、1820年だから江戸時代も終わりの頃、見せ物としてオランダ人商人が連れて回ったのが一般的な始まりらしい。ラクダの存在自体は決して派手なものではないものの、物珍しい生き物に江戸の庶民は驚いたことだろう。中には背中に乗ったお侍さんもいたかもしれない。ちょんまげに刀を差してラクダに乗る人、想像すると笑える。

 ラクダの英名はcamelとして有名だ。キャメルのタバコを私もしばらく吸っていたことがあった。
 日本での駱駝という呼び名は、元々中国から入ってきた言葉で、最初は「たくだ」だったそうだ。「たく」というのは荷物といったような意味で、背中のコブを荷物に見立てて、荷を背負うけものということで付けられたのだろう。それがいつの間にかラクダになってしまった。おかげで、ラクダに乗ったら楽だなぁというオヤジギャグを生むことになる。観光地で日本人を乗せるラクダもいい加減聞き飽きたことだろう。
 私もいつかラクダに乗ってみたいと思う。そのときはひとつ、正装でビシッと決めねばなるまい。上はラクダのシャツに下はラクダのもも引き、冷えるといけないのでラクダの腹巻きも忘れずに付けよう。そして、月の夜に東京砂漠をラクダの背にゆられながら有楽町あたりをゆっくりいくのだ。そんな格好をして、月の~砂漠を~はぁる~ばるとぉ~と歌っている男とラクダを見かけたら、ぜひペットボトルの水を恵んでください。

神田川料理道場入門までの長い道のりサンデー料理 2006年10月8日(日)

料理(Cooking)
神田川サンデー料理

OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f4.0, 1/20s(絞り優先)



「Book off」の100円コーナーで、神田川俊郎の古い料理本を見つけた。裏の写真を見ると、ものすごく若い神田川俊郎がにっこり微笑んでいて、思わず吹き出しそうになる。「Book off」の100円コーナーで笑ってる人はあまり見たことがないと思うけど、もしそのときの私を見て、あいついい本を100円で見つけて喜んでやがるぜと思った人がいたら、それは誤解です。若い神田川俊郎の写真が面白かっただけですから。発行が1982年ということでいったんは棚に戻しかけた。ちょっと古すぎるかと思って。けど、考えてみると料理なんて時代と共にそうそう変わるもんでもない。この20年、25年で日本の料理は劇的に変わったかといえば決してそんなことはない。パラパラとめくってみると、ほぼカラーページで、参考になりそうな料理もたくさんある。よし、買おう。「2時のワイドショーでお馴染み」の神田川料理本を。「一流料亭の味を、家庭のお台所へ」。私の台所にも運んでもらおうではないか。
 結局、作った料理4品はどれも神田川レシピからかなり離れたものになってしまったけど、どれもこの本の料理が参考になってる。最近はレシピ通りに作ることがほとんどなくなった。これも成長の証だろう。

 まずは一番手前のやつ。写真で見るとお好み焼きの食べ残しに見えなくもないけど、もちろん違う。レンコンの大葉包みというのか、そんな感じのものだ。
 レンコンの皮をむいて、水に浸けてあく抜きをした後、すり下ろす。そこに卵黄と小麦粉、塩、コショウを混ぜて、大葉の上に乗せる。小麦粉も適当にまぶして、たっぷりのオリーブオイルで揚げ焼きして、青のりを振りかければできあがりだ。タレは、しょう油、酒、みりん、だし汁の甘辛ダレで。
 表面はパリッと、中はくちゃっとした食感のマッチングが面白くて、レンコンらしからぬ美味しさをみせてくれる。本来は、大葉や海苔で巻いて揚げるのが基本なのだろうけど、面倒なときは揚げ焼きでいい。

 その右の黄土色の物体は、カボチャ・ダンゴだ。
 カボチャの皮をむいて、適当な大きさにぶつ切りしたら、レンジで3分ほど加熱する。充分にやわらかくなったらつぶして、卵と小麦粉を混ぜて丸める。表面にも小麦粉をまぶして、あとは転がしながら焼くだけだ。タレは、マヨネーズ、カラシしょう油、塩、黒コショウ、バジルなど。
 本当はもっと丸かったんだけど、転がしているうちにいびつな格好になってしまった。ちゃんと丸くして3つくらい並べると、いい感じの一品になるはずだ。甘いのでおやつとしてもいいかもしれない。

 一番奥は豆腐の茶巾。これは前にも似たようなものを作ったことがある。今回はそれの少し応用。
 木綿豆腐をキッチンペーパーに包んでレンジで加熱して水分を飛ばす。それを適当に砕いて、卵、だし汁、カタクリ粉、シイタケ(干しシイタケを戻したもの)、ニンジン、エビを混ぜる。あとは、サランラップで茶巾縛りにしてレンジで3分ほど加熱するだけだ。お手軽茶碗蒸しのようなものだ。最後に長ネギの刻みを上に乗せ、タレは、しょう油、酒、みりん、だし汁に水溶きカタクリ粉でとろみをつけたものをかける。
 冷や奴は日常的に食べたいと思わないし、湯豆腐を積極的に食べようとは思わないけど、ひと工夫すると豆腐は美味しく食べられるから好きだ。他にもいろいろ応用も効くし、栄養もあるので、積極的に食べていきたい。

 左奥のものは写真では伝わりにくいかもしれない。これを見て、白身魚の白菜巻きカレーソースがけだな、と思った人がいたらすごい。もしいたら、その通り! と児玉清のモノマネで褒め称えたい。
 白身魚を粗みじんにして、刻んだタマネギを混ぜ、塩、コショウする。白菜はあらかじめ半茹でにしておいて、カタクリ粉を塗って具を巻く。あとは蒸し器で20分くらい。
 タレは、牛乳でカタクリ粉を溶いて、飲むヨーグルト、塩、コショウ、カレー粉を混ぜて、温める。今回ちょっと失敗だったのは、このタレがややパンチを欠いて、しかも固くなりすぎたことで白菜巻きとの絡み具合がもうひとつだった点だ。この料理に関してはまだ改善の余地がある。むしろ、コンソメスープで煮込んだ方が美味しいかもしれない。

 普段の3品から1品増えて4品になると、とたんにてんてこ舞い度が200パーセントに上昇してしまう私。ひとりの台所で、人気店のランチタイムの厨房のように殺気立ってしまいがちだ。そのときの私に話しかけるのはやめてください。あわわわ、どうしたらいいんだぁ~、となってしまうので。
 今日の4品を神田川俊郎に出してみたらどうだろう。自己採点では甘めで75点くらいだとしても、俊郎的には60点くらいだろうか。ようやく一般家庭料理に達したレベルくらいだから、この程度では神田川道場への入門さえ許可は下りないだろう。更なる修行が必要だ。
 週に一度料理を作るようになって、そろそろ一年になる。けっこう経ったんだなという感慨を抱きつつ、でも回数にしたらまだ50回くらいだ。これくらいで料理ができるような気になるのは早い。毎日作ってる人の2ヶ月分にも満たないのだから。ただ、ペースとしてはこれが限界だ。こんなものを毎日作っていたんではとても持たない。もともと食べることには淡泊な私だから。
 これからも力尽きるまでサンデー料理は続けていきたい。いつか、自分でも本当に納得できる料理が作れるようになったときは、神田川料理道場の門を叩こう。そして、若き日の神田川俊郎の写真が載った古い料理本を投げ入れて逃げるのだ。もうこの本は卒業だぜとばかりに。

小松未歩に関する自分のための覚え書き、あるいは宣伝

音楽(music)
小松未歩についての覚え書き

 小松未歩はどの程度マイナーなんだろう? という素朴な疑問がある。どれくらいメジャーなんだろうという問いよりもマイナーさ加減が気になったりする。
 J-POPをよく聴く人でも、もしかしたらもう忘れてしまった人が多いんだろうか。アニメ「名探偵コナン」の主題歌を歌ってた人、というくらいの認識の人もいるかもしれない。そういえば昔いたよね的な人もいるだろう。
 私の中で小松未歩の存在は、もはや揺るぎがないほど確固とした地位を確立していて、1997年のアルバム『謎』以来、10年近くもメイントリームであり続けている。この間、いろんな女性アーチストの曲も聴いてきた。ELT、ZARD、aiko、misia、MY LITTLE LOVER、GARNET CROWなどなど。けど、結局最後に残ったのは、小松未歩だけだった。
 今日はそんな小松未歩について、自分のための覚え書きを兼ねて少し書いてみようと思う。小松未歩って誰だよ、って人はまずファーストアルバム『謎』をレンタルして聴いてみてください。なんなら私が全曲耳元で歌ってあげてもいいです。

『謎』というアルバムにはその後の小松未歩のすべてのエッセンスが詰まっていると言っても言い過ぎではない。もし、これを聴いて何も感じるところがなければ、その人の人生に小松未歩は必要ないということだ。私としては残念だけど、悲しむべきことではない。逆に、少しでもいいと思えば、ぜひ2枚目以降も聴いて欲しいと思う。
 ある意味では彼女はこのアルバムをいまだ超えられてないと言えるかもしれない。成長はしてるし、広がりも見せてるし、深みも増してるけど、アルバムとしての絶対的な力強さという点では、この作品が今でも最高の完成度だと私は思う。太宰治が言ったように、「すべての作家は処女作に向かって成熟していくしかないのだ」ということになるだろうか。
 今聴くと若さゆえの青臭いところが少しつらく感じたりもするけど、「傷あとをたどれば」、「輝ける星」、「alive」、「錆びついたマシンガンで今を撃ち抜こう」、「青い空に出逢えた」、「この街で君と暮らしたい」、「君がいない夏」へとたたみかけるように続く名曲群は今でも色あせていない。歌詞における言葉選びとドラマの構成が素晴らしい。この時期の小松未歩には天才性すら感じた。

 ファーストアルバムで期待の新星として注目され、短期間で地位を築いて出したのが2枚目のアルバム『未来』だった。「チャンス」、「氷の上に立つように」、「願い事ひとつだけ」など、「名探偵コナン」のテーマソング歌手のようになっていった時期だ。しかし、そういう表でのヒットとは裏腹に、このアルバムの出来は良くなかった。一枚目ですべてのエッセンスを出し尽くして早くも枯れてしまったのではないかと思わせるほどに。
 曲としてはいい曲も何曲かある。「手ごたえのない愛」はよかったし、「Deep Emotion」や「涙」など重くて暗い曲調の流れが生まれたのもこのアルバムだった。その後、明るい調子と暗い調子の2つの大きな流れが小松未歩の基調となる。同時に、少しずつ飾らない素の部分も出てきて、「静けさの後」の中の「この次は 首をへし折ってやる 覚えとけ」なんて歌詞は面白い。ラブソングの中にこういう言葉を織り込めるのも彼女の魅力のひとつだ。関西生まれということもあるかもしれない。
 3枚目の『everyehere』は全体的にハズレが少ない粒ぞろいのいいアルバムになった。2枚目のアルバムが難しいのは誰にとっても言えることで、1枚目はそれまで生きて経験してきたことすべてを詰め込めるけど、2枚目はプロとしての作品作りを短期間で要求されるから、内容が薄くなるのは必然だ。無数のアーチストが毎年デビューする中で、生き残れるかどうかを決めるのは3枚目のアルバムの出来次第と言えるのかもしれない。そして、小松未歩は見事に答えを出して見せた。
「BEAUTIFUL LIFE」、「AS」、「夢と現実の狭間」、「No time to fall」、「BOY FRIEND」、「さよならのかけら」、「雨が降る度に」など、いい曲が多く、ヒット率では全アルバムの中でこれがベストだろう。明るい曲調も増えて、想像するにこの時期は彼女にとって幸福な時期だったのかもしれない。本人にとってもこのアルバムの完成で大きな手ごたえを掴んだんじゃないだろうか。
 4枚目の『A Thousand feelings』はまた少し低調になる。出来の良し悪しがジグザグする感じだ。3枚目を更に発展させて自分の世界を築き上げようとする半面、やや行き詰まりを感じていた時期だったのか。
 5枚目の『source』を作る前なのか作ってる途中なのか、何か弾けたというか突き抜けたものがあったようだ。ここでまた一気に広がりつつ深まった感がある。才能の二段ロケットが発射したみたいに。
 多様な恋愛観と言葉づかい、そして様々な曲調。暗いものから明るいもの、したたかだけど可愛い、恋の喜びと失恋の痛み、そんな相反するものを同時に見せるというプロとしての方法論みたいなものもここで確立された。ただ、あまりにも恋愛だけに絡め取られていて、歌われる世界観としては狭くなっていってしまったのは残念なところだ。私がファーストアルバムで感心したのは、地球や宇宙というものを意識した恋愛観や世界観を描ける希少な女性アーチストだと思ったからだった。すべてがラブソングというのはちょっと違うんじゃないかなと思い始めたのもこのときからだった。

 ジグザグの法則からいくと次の6枚目は出来が良くないことになる。そして実際そうだった。
 全体として穏やかな曲調が多く、そういう部分での成熟は感じさせる。まだベテランとは言えなくても、6枚目となれば完全にプロ意識として作ってるわけで、言うまでもなく平均点以上は楽に超えている。ややクルージングに入ったと言えばそう言えなくもないのだけど。
 7枚目『prime number』。うーん、さすが、小松さんとうなってしまう。2枚続けて不作じゃないところがやっぱりすごい。本気になればこれくらいは楽勝よ、って言われてるみたいで、参りましたと頭を下げるしかない。
 あまりにも自分の恋愛感情に囚われすぎていて、聴き手さえ息苦しくなるような曲が続いた中、「ひとは大昔 海に棲んでたから」や「故郷」で少しだけ恋愛から離れて、久しぶりに世界の広がりも感じさせてくれた。「恋心」、「東京日和」などは素晴らしい。特に「東京日和」は、東京を舞台にした上質な恋愛映画の主題歌として使って欲しいと思う。作品の内容と合えば、映画と曲の幸せな出会いとなるに違いないから。
 最新となる8枚目の『a piece of cake』は、やっぱりかという悪い予感が当たってしまった。まださほど聴き込んでないということはあるにしても、心の深いところまで届いてくる曲が少ない。「向日葵の小径」はいいし、「deep grief」は好きだけど、新しさというのがあまり感じられなかった。
 法則でいくと9枚目はまたいいのを作ってくれるはずで、私としてはそれに大いに期待している。
 まだまだ小松未歩は終わってなんていないし、このままマイナーに沈んでいいような才能ではない。きっとまた、世間は彼女を再発見することになるだろう。ヒットすることがすべてじゃないし、広く世間に知られることが成功でもないけど、もっと一般的に高く評価されるべきだと私は思っている。才能でいけば、現役の女性アーチストの中で間違いなくトップクラスなのだから。

 最後に、個人的なベストテンを書いておこう。忘れっぽい私自身のために。
「恋心」
「東京日和」
「向日葵の小径」
「でも忘れない」
「regret」
「commune with you」
「AS」
「夢と現実の狭間」
「特別になる日」
「君がいない夏」

 といった感じになるだろうか。その他、好きな曲はこのあたり。
「Deep Emotion」、「No time to fall 」、「手ごたえのない愛」、「さよならのかけら」、「哀しい恋」、「deep grief」、「約束の海」、「ふたりの願い」、「楽園」、「Last Letter」、「I ~誰か...」、「傷あとをたどれば」、「涙」、「BOY FRIEND」、「雨が降る度に」、「ただ傍にいたいの」、「幸せのかたち」、「gift」、「dance」

 以上、小松未歩に関する自分のための覚え書きを、おすすめの言葉に代えさせていただきます。
 
 

 


 
 

いつか湖上の舟であなたと中秋の名月を見たいような 2006年10月6日(金)

風物詩/行事(Event)
手持ちで撮る中秋の名月

OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/13s(絞り優先)



 今日、2006年10月6日は、中秋の名月だった。関東地方は大荒れの天気だったようだけど、名古屋は午後には雨が上がって、夕方には雲が多いながらも月が顔を出した。気象予報士の寺尾くん、また予報はずしたな。
 せっかくだから、今日は中秋の名月について書こうと思う。知っているようでよく知らなかったこの行事のことを調べて書いて、心にかかった雲を吹き飛ばそう。いつ誰にどの角度から中秋の名月について訊ねられてもスラスラと答えられるように。私が中秋の名月野郎と呼ばれる日は近い!?

 まずは名前についてはっきりさせておこう。中秋というのは、「ちゅうしゅう」だけでなく「なかあき」とも読む。秋の真ん中という意味だ。旧暦では1月から春が始まって、4つの季節に区切るから、7、8、9月の三ヶ月が秋に当たり、その真ん中といううことで8月15日を中秋としたわけだ。
 旧暦というのは太陰暦のことで、これは月の満ち欠けによって決められた暦だ。明治6年に今の太陽暦(グレゴリオ暦)を採用するまで日本ではずっと太陰暦が使われていた。まったく月が見えなくなる新月をその月の一日として、約15日で満月になり、また約15日で欠けていくという周期だ。だから、たとえば三日月というのは三日目の月のことで細い月全般の呼び名ではないということになる。満月を十五夜というのもこのためだ。
 しかしながら、これはだんだんずれていく。月と地球の公転軌道の関係でいつも15日単位とは限らない。なので、旧暦の8月15日もその年によってかなり違ってくる。今年は10月の6日だったけど、去年は9月の18日だった。さらに、この日が必ずしも満月になるわけではなく、今年の場合は明日10月7日が満月だ。去年は一致していた。来年の中秋の名月は9月25日になる。幅としては、9月7日から10月8日まであるそうだ。
「仲秋の名月」と表記することもあるけど、仲秋は旧暦の8月のことだから、訳すと8月の名月ということになり、8月15日の月を指す言葉ではないことになる。間違いではないにしても、中秋の名月の方が一般的には正しいとされる。

 それにしてもなんで年間12回か13回ある満月の中で、旧暦8月15日の中秋の名月だけが特別なんだろう? これにはいくつかの理由があるのだけど、決定的なのは気分なんだろうと思う。勘だけど、きっとそうだ(ホントかよ?)。夏の暑さが終わって、収穫も済んで、やれやれと一息ついたところで夜の涼しい風に吹かれて見る満月はきれいだなぁというのが昔から日本人が感じてきた感覚なんじゃないだろうか。お月見が絶対にこの8月でなけばならないとい理由はない。
 ただし、この時期、日本では台風シーズンでもあり、秋の長雨にかかることも多く、はっきり中秋の名月を見られる確率は案外低いんだそうだ。近年の確率では4割程度だという。そういう意味では、見られたら運がいいということで余計に喜びがあったのかもしれない。
 中秋の月を観賞するというのは元々中国の風習だったようだ。中国では古くからあった習慣が10世紀頃、遣唐使によって日本に伝えられて、最初は平安貴族の間で行われる行事として定着したのが始まりとされている。花見のような騒がしいものではなく上流社会の風流なものだったのだろう。酒を飲んだにしても、歌を詠んだり、舞いを踊ったりといったものだったに違いない。
 それが庶民の間にも広まっていったのは、江戸時代以降のようだ。それが農村地方における収穫の感謝祭のようなものと一体となって、今のようなお月見スタイルがだんだん確立されていったのだろう。
 月見団子やススキといったお馴染みのものも、割と最近のものだ。昔はサトイモが一般的だったとか。中国ではダンゴではなく餅なんだとか。輪島功一の家では当然、みたらしダンゴだろう。
 ススキというのは、秋の七草であり、身近な植物でもあり、魔よけにもなるようなことが思われていたために採用されたもののようだ。
 現在では、ダンゴを食べる習慣さえすたれ気味となっている。私は何を食べようと家の中を探したら、ダンゴに似ているのがマシュマロしかなかったので、それで代用しておいた。

 中秋の名月はまだ季節の風物詩として残っているけど、本来セットであったはずの十三夜は、今やすっかり影が薄くなってしまった。昔は、片月見(または片見月)はいけないとされ、旧暦9月13日の十三夜も月を見るのが習わしだった。中秋がサトイモなのに対して十三夜には枝豆や栗を供えることから、「栗名月」とか「後の月」などとも呼ばれている。
 両方見なければ何か具体的に悪いことが起きるというのでもないだろうけど、私も見るだけは見ておきたいと思う。今年は11月3日だ。文化の日だから忘れないようにしたい。これを読んだあなたもきっと十三夜の月を見てくださいね。もし見なかったら、月に代わっておしおきよ。
 なんでも日本初の公式お月見人は、菅原道真なんだとか。でも、865年といったら道真はまだ20歳そこそこだ。話のネタとしては面白いけど、ちょっと怪しい。909年の醍醐天皇が初という話もある。

 満月を見ると、ほとんどいつも中原中也の「湖上」を思い出して、小さくつぶやく私。

 ポッカリ月が出ましたら、
 舟を浮かべて出掛けませう。
 波はヒタヒタ打つでせう、
 風も少しはあるでせう。

 月は聴き耳立てるでせう、
 すこしは降りても来るでせう。
 われら接唇する時に
 月は頭上にあるでせう。

 ---けれど漕ぐ手はやめないで。


 中秋の名月の日の夜、静かに湖へとボートを漕ぎ出すふたり。虫の音さえ聞こえず、オールが水を打つ音だけが静寂を破る。頭上には白々とした月が光り、だまって漕ぎ続ける男と向かい合う女。
 ……想像すると怖すぎる。ロマンチックというよりもミステリーの世界だ。上手くいってないカップルや倦怠期の夫婦にこのシチュエーションは危険すぎる。たとえ仲良しなふたりでも、話は弾まないと思う。むしろボートは漕ぎ出さずに湖に直接浮かんで月を見るならそれはちょっとしてみたい気がする。ただし、この時期は南国じゃないと寒すぎる。
 どうやら中秋の名月は、おとなしく家で見ていた方がよさそうだ。老夫婦になったふたりが縁側に坐って静かに月を眺めているなんて光景が、今日日本のどこかにあったとしたら、それはなんて素敵なことだろうと思う。きっとあったと信じたい。

知恵の実イチジクを食べて賢くなったら次はどこへ行く? 2006年10月5日(木)

食べ物(Food)
イチジクも久しぶり

OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f1.8, 1/40s(絞り優先)



 人は一生のうちにイチジクを何個くらい食べるのだろう? 私は今のペースが変わらないとすると、50個いかないんじゃないかと思う。年に一度食べるかどうかだから。よほど心を入れ替えて積極的にイチジクと向き合っていかないと100個は難しい。
 たぶん、生まれて初めて食べたのは小学校低学年の頃、親戚の家でだったと思う。庭に生えていたイチジクを出してくれたのだけど、そのとき、口の周りにつくとかぶれるから気をつけてという思いがけない注意事項を言い渡された。口につくとかぶれる? 口の周りにつけずにこんなくちゃっとした果物をどうやって食べればいいんだかとしばし思い迷ったのち、おそるおそる食べたのを覚えている。触れた瞬間にやられるものだと思ったので、それはもうおっかなびっくり。おかげで味なんてよく分からなかった。とにかく口の周りがかぶれたくない一心だった。おそらく、あのときの経験が大人になった今でも尾を引いているのだと思う。いまだにイチジクを食べるときは必要以上に警戒しがちになってしまう私なのだ。一度もかぶれたことなんてないにもかかわらず。
 かぶれる云々というのは、イチジクに含まれるフィシンという成分がタンパク質を分解する働きを持っている酵素で、これが皮膚のやわらかい部分に触れるとかゆくなったり、少し溶けたりするからだ。イタリアなどではこの成分を積極的に利用して、肉を柔らかくするために肉料理に使ったりするそうだ。それを更に攻撃的に利用して、指紋を消してしまうなんてアラワザもあるらしい。一時的なことなんだろうけど、確かにずっとイチジクの汁を指先につけていると指紋が薄くなっていくという。ザ・ハングマンかよ。私はやっぱり指紋は欲しいのでイチジクを長時間いじくるのはやめておきたい。

 イチジクの原産地は、東南アジア、または西アジアだと言われている。アラビア半島の南という説が有力のようだ。その歴史は古く、ザクロやブドウと並んで世界最古の果物なんだとか。
 中国に伝わったのが8世紀頃で、14世紀には地中海沿岸に、16世紀にアメリカ大陸に渡り、日本には江戸時代の前半にポルトガル人によって長崎に持ち込まれた。当時は蓬來柿と呼んでいたらしい。今でも別名として、南蛮柿や唐柿と呼ばれることがある。
 イチジクという名前は、ペルシア語anjir(アンジール)が中国で「映日果(インジークォ)」と表記され、日本ではそれを「えいじつか」と読み、転じてイチジクになったとか。ちょっと苦しいこじつけ。一日一個熟すことから、「一熟」、イチジクになったというのもある。
 世界では広く栽培されていて、特にイラン、トルコ、ギリシャなどでは盛んに作られているようだ。向こうでは生だけでなく、干し柿ならぬ干しイチジクにして保存食としてもよく食べられているらしい。
 日本での最大の栽培地は愛知県の西三河なんだとか。まったく知らなかった。他の産地としては、和歌山県、大阪府、岡山県などがある。これは原産地が温暖な地域で、寒さが苦手というのがあるようだ。

 知らないといえば、他にもイチジクに関しては知らなかったことが多い。ほとんど興味を持っていなかったから当然と言えば当然か。まず、イチジクは花を咲かさないというのがある。いや、私たちが食べているのが花なのだった。あれは果肉ではなく、花嚢(かのう)という名前のもので、あの中にたくさんの雄花と雌花が咲くのだ。数えた人によると1,800以上もあったとか。その花が内部で実を結んで種を作る。私たちが食べたときに口の中でブツブツするあれは花が種になったものだ。
 無花果、つまり花の無い果実という名前はここから来ている。
 それと、イチジクの木にはオスとメスがあるんだそうで、ふたつの木を結んで花粉を受精させる専門のイチジクコバチというハチがいるらしい。つまり、イチジクコバチがいなかったらイチジクの木は子孫が残せないということになる。と同時に、イチジクコバチはイチジクの実に卵を産むことでしか子供を産み増やすことができないというから、自然というのはすごいものだと感心する。
 ただ、メスの木は自分で実をつけることができるので、日本にはメスのイチジクの木しかない。イチジクコバチにとって日本は寒すぎて生きていけないからだ。
 挿し木でも簡単に増やすことができるので、昔は日本の各家庭の庭に無造作にイチジクが植えられていた。放っておいても勝手に実がなることもあって。いつの間にかすっかり流行らなくなった。
 現在主に出回っているのは、桝井ドーフィンという品種だ。明治42年に桝井光次郎氏という人がアメリカから取り寄せて作り始めたことでこの名が付けられた。イチジクを見たら、これもやっぱり桝井ドーフィンかな、などとさりげなくつぶやいてみるとちょっとカッコいいかもしれない。
 近年馴染みの薄くなったイチジクだけど、栄養もあるし、体にもいいので、積極的に食べていきたいところだ。カルシウム、カリウム、鉄分などがたくさん含まれていて、便秘解消や二日酔いなどにも効果があるという。風邪にもいいし、アントシアニンが目にもいい。ただし、持ちが悪いのが弱点で、買って2日くらいで食べきらなければいけないと言われると、そんなに無理強いされると食べたくなるじゃないかと思ってしまいがちだ。
 食べきれずに余ってしまったときは、赤ワインで煮込んだり、砂糖とレモン水を混ぜてジャムやシャーベットにしたりという食べ方もある。

 エデンの園でアダムとイブが食べた禁断の木の実は、実はイチジクではなかったかと言われている。当時の中東にリンゴは生えてなかったはずだし、そもそも木の実を食べて裸でいることが急に恥ずかしくなって前を隠したのはイチジクの葉っぱだったのだ。だとしたら、当然食べたのもイチジクと考えるのが自然だろう。リンゴの木の下でリンゴを食べて恥ずかしくなってリンゴの木の葉じゃ隠しきれないからイチジクの木を探して葉っぱをもいだというのは行動として不自然だ。そこまでしてイチジクの葉っぱにこだわる必要はない。確かに、大きくて隠すのには適しているかもしれないけど。
 私もこれからはもっと積極的にイチジクを食べて知恵をつけていきたいと思う。風呂上がりにイチジクの皮を手でむいて食べるのに夢中になって前を隠すのを忘れないようにしたい。

結局のところうまくイメージできない安倍晴明の人物像 2006年10月4日(水)

神社仏閣(Shrines and temples)
名古屋晴明神社外観

Canon EOS kiss3+EF28-105mm(f3.5-4.5)+Kodak ULTRA COLOR 400UC



 ナゴヤドームのほど近くに名古屋晴明神社がある。安倍晴明を祀った小さな神社が。晴明が晩年(987年)、左遷されるような形で名古屋に移ってきて、このあたりに一年ほど住んでいたという伝説がある。全国にそういう晴明にまつわる伝説はたくさんあるし、ここもそういうひとつで実際には来てないだろうと普通は思う。ただ、この年というのは晴明の公式記録がなく、京都にいなかったようだと聞けばちょっと気持ちも揺れる。近くには晴明が同じような境遇にあった菅原道真を慕って祀ったのがはじまりとされる上野天満宮もある。こちらは名古屋三大天神と呼ばれるほど由緒も格もある神社だ。まったく何もないところに関連するふたつの伝説が生まれるだろうか。もしかしてひょっとするとと思う人もけっこういるんじゃないだろうか。一説によると、安倍晴明自身ではなくその一族が移り住んだという話もある。その方が納得はしやすい。
 その名古屋晴明神社とはどんなところか。写真を見てもらえれば分かるように、ちょっと無茶なところにある。団地脇の小高いところにコンパクトに収まっていて、看板がなければ見逃してしまいそうだ。
 場所はバスレーン(出来町通り)の「清明山」交差点を北に入っていった先になる。清明山という地名は昔からのものらしく、晴明とは字が違うと思いきや、昔の芝居などでは清明と表記されることが多かったとか。なのだけど、江戸時代の文献によると清命山となっているらしい。結局のところ、本当に安倍晴明が名古屋に来ていたのかどうかは分からずじまいで終わる。あの世で晴明さんに会ったら直接訊いてみるしかない。「おお、ちょこっと、いっとったよ」と尾張弁で答えたらホントに来てた証拠だろう。
 他にも愛知県では、岡崎に二ヶ所と海部郡甚目寺町に晴明にまつわる神社や塚などがある。

名古屋晴明神社内部

 階段を登り、鳥居の前に立つと眼前にこの光景が広がる。徒歩3秒。鳥居から拝殿までは1秒半。これが名古屋晴明神社の全景だ。私が訪れたのは二度目だったけど、最初のときはやや言葉を失いがちだった。なんていうのか、仲良くなった中学のクラスメイトに、うち遊びにおいでよと誘われて行ってみると六畳一間のアパートだったみたいな感じとでも言おうか。こじんまりしてて落ち着くね。はは……。んどと、言わなくてもいいことをつい口走ってしまいそう。
 動揺を隠しつつ五芒星のシールが貼られた黒い賽銭箱に近づき、一瞬のちゅうちょのあと、いつものように100円ではなく50円玉を投げてしまった私の心の内を晴明さんは読み取っていただろうか。
 明治から昭和にかけて、この場所には塚と祠があるだけだった。戦争中、このあたりは陸軍の演習地となっていて、邪魔に思った兵士が祠を動かしたところ、原因不明の高熱を出して倒れてしまう。もしかして祠を動かしたのがいけなかったのかと元に戻したところ、ケロリと治ってしまった。更に戦後、ここに団地を建てることになり、工事中に塚を壊して祠を移動したところ、この場所で二度も大事故が起こって作業員が死んでしまう。それでまた元に戻してお祓いをしたところ、それ以降は何事もなくなったのだった。
 現在の社殿は住宅が完成したのちの昭和32年に建てられたものだ。無人の神社にしてはとてもきれいできちんと掃除されているのは、住人が手入れと管理をしてるからだそうだ。行事があるときは、上野天満宮の宮司さんが出張してきて祝詞をあげたりしてる。

 安倍晴明が今のようにブームになったのは、夢枕獏の小説やコミックなどの影響が大きいのだろう。映画化でも話題になった。さらに去年2005年は、晴明が死んでからちょうど1,000年目に当たるということで、注目度が上がったというのもある。
 安倍晴明についてはたくさんの本が書かれている。ここで詳しく書こうとするとものすごく長くなってしまって、私自身途中で嫌になるので、ごく簡単に書くにとどめようと思う。
 生まれは一応大阪でいいと思う(讃岐説や茨城説などがある)。一生に渡ってとにかく謎が多く、伝説ばかりが先行して分かっている事実は少ない。鬼を操る魔術師のようなイメージが強いけど、実際は今でいう国家公務員として一生を送った人だ。ポジションとしては、宮内庁の中級公務員といった感じだろうか。
 歴史上ではっきりと登場するのは40歳で、このときはまだ陰陽寮天文道という役所に属する学生というか見習いでしかなかった。どんだけ遅い出世なんだと思うけど、元々家系が下級貴族で、陰陽寮における主流だった賀茂氏の影で窓際族となっていたのは仕方がないことだったのだろう。
 ただ、一方で少年時代から不思議な力を発揮していて、当時陰陽道の
第一人者だった加茂忠行に見込まれ、あれゆる知識と術を叩き込まれて第一級の陰陽師でもあった。超能力は趣味なんですよ、なんてことを言ったりしてたのだろうか。そのことは宮中でも広く知れ渡っていて、見習いの身分にもかかわらず花山天皇など歴代天皇のブレーンとして活躍している。
 実生活でようやく役人としての地位を築いたのが40も終わりになってからだ。映画などの印象では30代頃には華々しく活躍していたような気がしていたけど、本当のところは大器晩成の苦労人だったのだ。
 その後は、役所での仕事ぶりと陰陽師としての名声とが相まって、かなり上の地位まで上り詰めて、貴族としては中流くらいにまでなり、ふたりの息子は陰陽頭という陰陽寮の最高位にまでなっている。のちの陰陽師の代表となった土御門家はこうして始まった。
 85歳で死ぬ少し前まで現役として働き続けていた安倍晴明。天才的超人というよりも、出世の遅れた生真面目な役人としての一面の方が実情に近いのかもしれない。
 もし晴明が当時の平均寿命くらいで死んでいたとしたら、今のような伝説はなかっただろう。40歳でまだ役所の見習いだったのだから。人間、若き天才となれなくてもあきらめずに長生きしてみるものだ。

 前から安倍晴明には興味があって、何冊か本も読んだし、映画も観て、調べたりもした。けど、どういう人だったのかというのがもうひとつイメージできない。たった1,000年前の人で、神話の時代というわけでもなく、これほどの有名人なのに謎があまりにも多く、知るための手がかりは少ない。陰陽師としてのエピソードはたくさんあっても、そこに人間性を感じられるようなものは意外とない。喜怒哀楽の様子が見えてこない。一体どんな人だったんだろう? 友達になって楽しい人だったんだろうか。茶目っ気のある面を持ってたり、軽口を叩いたりしたのかな。
 ひとつ、こんな伝説がある。晴明は修行のために3年だか10年だか中国に渡る。その間、ライバルだった蘆屋道満と奥さんがデキてしまい、陰陽道の秘術書を書き写されてしまう。帰ってきた晴明に、道満があの秘術を夢の中で見たと伝えると、そんなはずはないと言い合いになって、もし本当知っていたらどうする、それならこの首を差し出すと賭けをして、首をはねられて殺されてしまった、というのだ。
 この話には続きがあって、異変を察知した中国の師匠が日本に飛んできて、晴明の首をくっつけて生き返らせ、道満に対して晴明が生きていたらどうすると問うと、もし本当に生きていたらこの首を差しだそうと言ってしまい、そこへ晴明登場、今度は道満が首を切られてしまったのだった。
 なんて荒唐無稽な話だと思いつつ、このエピソードで一番の見どころというかポイントは、晴明の奥さんの名前が梨花(りか)という点だ。そうなると、あの梨花(りんか)が大きな口を開けて手を叩きながら笑っている姿が頭に浮かんでしまい、私の中の安倍晴明像はますます混乱を深めていくのであった。

7度目の岩屋堂はまたもや私に微笑まず、手ぶらで帰る 2006年10月3日(火)

施設/公園(Park)
紅葉まだまだ早い岩屋堂

OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f4.0, 1/40s(絞り優先)



 好き嫌いを別にした相性というものが人と人の間にあるように、人と場所の間にも確かに相性といったようなものが存在する。そういう意味で、私と岩屋堂との相性はよくない。かなり悪いと言った方がいいのかもしれない。今年の春の初め、セリバオウレンが咲いていると教えてもらって行くもどうしても見つけられず、もう一度行っても尚見つからなかったり、岩巣山に登れば途中でへばって登頂ならずに引き返し、野鳥を探しに行ったら一羽も写真を撮れずに終わったりと、とにかく運が悪いというのかタイミングが悪いというのか、いい目に合ったことがない。私としては決して岩屋堂は嫌いじゃないのに、向こうが私を好きではないようなのだ。打っても響かないし、ノックしても扉は開かない。拒まれているというほど激しいものは感じないのだけど、なんとなく受け入れられてないような感じがある。被害妄想と言えばそれまでなのだけど。
 それでも懲りずに今回また行ったのは、まだ見ぬ憧れの野草ダイモンジソウが自生しているらしいという不確かな情報を手に入れたからだった。何!? ダイモンジソウが? それはもう行ってみるしかあるまい。もし見つかれば今までしっくりいってなかった私と岩屋堂の仲も一気に改善するかもしれないという思惑もあった。
 しかし、トップにダイモンジソウの画像が来てないことからも分かるように、今回もまた岩屋堂は私に微笑んではくれなかった。どのあたりに咲いているとかの詳しい情報がなかったこともあるけど、そういうときでも相性のいい場所だと思いがけず向こうから呼び寄せてくれるものだ。ここではそんな幸運も訪れることはない。波長が合わないのか、私の存在があそこでは異質なのか、なんとも言えない違和感がある。表面上は仲良くしてくれているけど本当には受け入れてもらえてない転校生というのはこんな気分なんだろうか。
 ダイモンジソウがなければこの時期の見どころはほとんどない。お馴染みの野草が数種類が咲いてたくらいで、紅葉にはまだまだ遠く、野鳥も姿を見せてくれなかった。

ミゾソバでいいと思うけど

 この時期、一番目に付くのがこれ、ミゾソバだ。イヌタデなどと主に川沿いにたくさん咲いていた。
 ママコノシリヌグイやアキノウナギツカミなんかとそっくりだけど、葉の形などでなんとか区別がつく。ミゾソバは、別名ウシノヒタイと呼ばれるように、葉の形が牛の額に似ている。面長のハート型みたいとでも言おうか。ママコノシリヌグイの葉は三角形をしていて、アキノウナギツカミは葉が細長い形をしている。あと、ウナギツカミというくらいに茎に細かいトゲがあるので触ると痛い。
 ミゾソバというのは、溝のようなところによく生えていて、葉っぱがソバに似ているところから付けられた。沖縄をのぞく日本全国に自生していて、小川とか池などの水辺にかたまって咲いている。
 小さな花が集まって咲いている様子はいたって地味だ。いかにも雑草然としている。いつもつぼみのような状態なのが地味さに輪をかける。戦略として一気に咲かずに出し惜しみするように順々に花を開いていくので、いつ見てもつぼみのような印象が強い。けど、咲いている花をアップで撮ると、これがハッとするような美しさだったりする。ただ、そういうふうに撮れば確かにきれいなんだけど、この花の様子を伝えるにはこうやって少し離れて撮った方がありのままの姿だ。アップの写真しか知らなかったとしたら、この花を見つけることはできないんじゃないだろうか。

日没の岩屋堂

 名古屋方面からは、尾張瀬戸駅から国道248号線を進んで、「品野町6」の交差点を右折。しばらく行くと「岩屋堂」の看板が見えるのでそこを左に入って3分くらい走ると到着する。
 公共交通機関で行こうとするとかなり不便だ。瀬戸電の尾張瀬戸駅からバスが出てると思うのだけど、それでも30分くらい歩かないといけないらしい。瀬戸駅からタクシーに乗っていくほど大げさなところもでもないし。
 春は500本のソメイヨシノ、夏は鳥原川に作られる自然プール、散策路に暁明の滝と瀬戸大滝など、シーズンを通してそれなりに楽しませてくれる。ひなびているけど温泉宿も数軒あるようだ。あと、紅葉の名所としても地元ではちょっと有名なところだ。カエデやモミジが1,000本ほどあるというから、まずまずだろう。
 気をつけなければ行けないのは、普段はほとんどひとけもなく駐車場も無料なのだけど、何かのシーズンに入ると突然駐車場が有料(500円)となることだ。気持ちは分かるけど、無料のときしか行ったことがない私はなんとなく釈然としない。海の家と同じシステムと言えばそうなんだけど。
 岩谷堂の正式名称は、岩屋山薬師堂という。奈良時代の725年に、僧の行基がここの岩窟内で聖武天皇の病気平癒を祈願して三体の仏像を彫ったという歴史が残っている。現在もこれは残っていて、目や耳の病気に効くということでお参りに訪れる人もいるという。巨大な岩の内部に入っていくとちょっと怖い。何かいるような気がしてではなく、岩が頭の上から落ちてきそうな気がして。
 岩屋堂の近くには499メートルの岩巣山の登山口があって、小山登山としてけっこう人気がある。私は一回目は引き返したけど、二度目で何とか登り切った。山に登り慣れてる人には物足りないくらいなんだろうけど、道が急なので普段運動不足の人はけっこうきついと思う。元岩巣の方のピークが展望が開けているのでおすすめできる。
 野鳥ファンもよく訪れている場所らしいけど、私が行く夕方はいつもいない。鳥も人も。やっぱり午前中なんだろうか。ルリビタキ、オオルリ、ベニマシコ、イカル、カケス、カワガラスなんかもいるそうだ。

 最近めっきり日暮れが早くなったところへもってきて、ここは山に囲まれているので街より更に日没が早い。到着後30分ほどで暗くなってしまった。ああ、ダイモンジソウよ、おまえはどこに咲いているんだい? もっと奥の方だったんだろうか。未練は残ったけど、日没には勝てない。E-1はプロユース機ということもあって、内蔵フラッシュなんて軟弱な装備は備えてないのだ。
 残念無念また来週。いや、また来年だろう。岩屋堂はいつになったら私とうち解けてくれるんだろう。もっとシンクロ率を上げていって、野草も野鳥も向こうから懐に飛び込んでくるくらいのところまでいきたい。いつか、岩屋堂で、口にダイモンジソウをくわえながら肩にカワセミを乗せている私を目撃できるかもしれないです。乞うご期待。

ダチョウに乗ってサラブレッドよりも速く駆け抜けろ 2006年10月2日(月)

動物(Animal)
ダチョウの顔

OLYMPUS E-1+Super Takumar 200mm(f4), f5.6, 1/125s(絞り優先)



 ダチョウの首から上だけ見ると、ガリガリにやせた職人のじじいみたいな頑固さを漂わせていて風情がある。弟子にはめっぽう厳しいが孫には甘い、みたいな。大工のはっぴが似合いそうだ。ダチョウくらい首から上と体つきのバランスが悪い生き物はそういない。アルパカさんもちょっとヘンだったけど、ダチョウはそれ以上のアンバランスさだ。ここから下が突然丸々と太った黒いボディーになるなんて、なかなか想像できない。ダチョウを知らない人にこの写真を見せてこの下を描かせたら、まず正解は出てこないと思う。ぬっくん(温水洋一)の顔を見て筋肉ムキムキの体を描かないであろうのと同じで。

 誰の笑い話だったか、お笑いの大物が行きつけの寿司屋に電話して、「今日、ちょっとダチョウ連れて行くから、大将予約頼むよ」と伝えて行ってみたら、店の床一面にブルーシートが敷かれていた、というのがあった。連れて行ったのはもちろん本物のダチョウではなくダチョウ倶楽部の3人だったのだけど。
 人とダチョウの関わりはとても古く、古代エジプト時代にはすでに家畜となっていたと言われている。家畜の元祖と言って間違いない。クレオパトラもダチョウに乗って砂漠を疾走していた、という記録は残ってないけど、たぶんクレオパトラのところにもいたことだろう。
 もともとはアフリカ大陸とアラビア半島全域に広く生息していたようだ。その後、環境破壊や乱獲などで野生のものは大きく数を減らし、現在では中部と南部の一部に生息するのみとなっているという。
 日本人にとってダチョウは動物園で見る生き物というイメージが強いかもしれないけど、世界では一般的な家畜としてけっこう身近な存在のようだ。牛、豚、ニワトリに次ぐ第四の家畜と言われている。肉、皮、羽、卵、どれをとっても利用価値が高く、飼いやすいということもある。日本ではあまりダチョウの卵や肉を食べたりしない代わりに、オーストリッチのバッグなどの大輸入国となっている。オーストリッチがダチョウのことだと知らずに使っている人もいるかもしれないけど。
 家畜としてのダチョウが世界で見直されることになったのはそれほど昔ではなく、300年くらいだそうだ。日本での歴史はとても浅く、ここ15年ほどのことで、ようやく広まりつつあるところのようだ。うるさくなくて匂いもあまりしないということで近年ダチョウを飼う農家さんが増えているとのことだ。肉はヘルシーで美味しいらしい。卵なんて一個丸ごとなんてとても食べられない。ニワトリの卵20個以上に相当するから、朝からダチョウの卵かけご飯なんて石ちゃんでも食べられないだろう。もちろん、鳥の卵としては世界一だ。生まれてくるダチョウの赤ちゃんはすでにニワトリくらいの大きさがある。
 飼育に適している点として、暑さ寒さに強いというのもある。耐久性がとても高く、ひからびた灼熱の地から極寒まで耐えることができる。日本のように四季があって寒暖の差が激しいところでも平気で、沖縄だろうと北海道だろうとてんでへっちゃらだ。いや、ダチョウ的にはこりゃたまらん暑さだなとか寒くてかなわんぞと思ってるかもしれないけど。飛べないから飛んでいかないというのもいい。民家の庭でも柵で囲えば飼える。

 ダチョウはとにかく思ってるよりすごいやつで、いろんな世界一の冠を持っている。世界一大きな鳥でもあり、世界一大きな鳥の卵であり、世界一足が速い鳥でもある。本気を出すと時速80キロまでは出せるというから、ディープインパクトよりずっと速い。高速道路だって走れる速さだ。最高速度でも5分は走り続け、時速70キロくらいの高速クルージングなら30分はスタミナが持つらしい。ちょっとした自家用車代わりになるんじゃないか。信号のある一般道なら楽勝だろう。ガソリンが高い今、夢の燃料は水素でも太陽光でもなくダチョウかもしれない。今世紀の終わり頃には、みんな車を捨ててダチョウに乗ってる可能性もまったくないとは言えない。ダチョウ暴走族とか怖そうだ。
 こうなってくると、ちょっと本気で飼ってみようかと思い始めた人もいるんじゃないだろうか。そういう人は何を食うんだと気になるところだろう。基本的には草食性で、花や葉っぱなどを食べる。その他、昆虫なども拾い食いする。農家さんならそのへんの草でも食わせておけば大丈夫かもしれない。一応アルファルファというもやしみたいなものが好物らしいので、これをやっておけば大喜びだ。いずれにしても、豚やニワトリなんかの穀物に比べたらエサ代はずっと安く済む。
 メスを飼えば、年間50個前後の卵を産んでくれる。それで商売が成り立つかどうかは微妙なところだけど、実用的なペットとしてなら充分だ。50個をニワトリ換算で20倍にすると年間1,000個の卵に相当する。これは大家族でもちょっと食べきれない量だ。もう卵を店で買う必要はない。やっぱりダチョウ、いけるぞ。子供の遊び相手にもなるし。
 ただ、ダチョウを飼うにはひとつ大きな欠点というか問題点がある。それは寿命がとても長いということだ。平均でも50年、へたすると80年も生きるというから、半端な気持ちでは飼い始めることはできない。ある日お父さんが気まぐれにダチョウのチビを買ってきたとしよう。それは子供の成長を超えて、孫の代まで受け継がれ、ある種、負の遺産となりかねない。家族の一員としてかわいがるにしても、80年間面倒を見続けるというのはなかなかに大変なことだ。

 知るほどに興味深いダチョウという生き物。世界一大きな飛べない鳥は、いろんな意味ですごいやつなのだった。もっと日本でも身近な生き物になるといいと思う。家畜としてだけでなくペットとしても飼う人が出てきて欲しい。日本で実際に飼ってる人はいるんだろうか。近所の河原で首にヒモをつけてダチョウを散歩してる人を見たら、それはなかなかに心温まる風景だ。ふいに本気で走り出したら飼い主は引きずられて大変なことになるだろうけど。
 私としてはいろいろ考えた結果、ダチョウを飼うことは断念しようと思う(本気だったのか?)。受け継いでくれる子供もいないし、私がいなくなってダチョウが路頭に迷ったらかわいそうだ。どなたか、もし自宅で飼うことになったら教えてください。そして、一般道をダチョウに乗って走ってもいいのかどうか実験して確かめてください。スピード違反で捕まるんだろうか。

必死すぎる手作り料理は簡単手料理に及ばざるがごとし 2006年10月1日(日)

料理(Cooking)
あえて手作りサンデー料理

OLYMPUS E-1+Super Takumar 50mm(f1.4), f2.0, 1/13s(絞り優先)



 今日のサンデー料理のコンセプトは、あえて手作り。日頃、完成しているのを買うのが当たり前と思っているおかずを、もっと前の段階から手作りしてみたらどうなんだという思いつきから始まった。
 そして作ったのがこの3品。シュウマイ、ソーセージ、豆腐。これらを日常的に手作りしてる人はあまりいないと思う。それこそシュウマイ屋さんかソーセージ屋さんか豆腐屋さんくらいのものだろう。シュウマイ屋さんっているんだろうか?

 シュウマイはもちろん皮から作る。中力粉に熱湯を少しずつ入れながら箸でかき混ぜて、だまだまになったところで手でこねる。こねてこねまくる。耳たぶくらいの固さでしっとりしたら、小麦粉をまぶしてラップに包んで1時間ほど寝かせる。
 具は基本的にギョーザと変わらないと思う。今日は、小エビの刻み、マッシュルーム、キャベツを混ぜて作った。カタクリ粉も少し加えてつなぎにする。
 あとは皮に包んで蒸し器で10分ほど蒸せば完成だ。最後に、しょう油、酢、酒、みりん、塩、コショウを混ぜたものを、ひと煮立たせさたタレをかけていただく。
 見てくれは少し悪いけど、プリプリの皮とジューシーな具がいい感じで美味しかった。ギョーザの手作りをする人は多いと思うけど、シュウマイも手間は変わらないのでおすすめしたい。

 白いソーセージみたいに見えてるのは、魚肉ソーセージのタルタルソースかけだ。今回作ってみて、ソーセージもすごく簡単に手作りできることが分かった。中身を変えて応用も効くのでこれもぜひ作って欲しい。
 白身魚の切り身を刻んで、それにニンニク、長ネギ、バジル、唐辛子、塩、コショウ、カタクリ粉、卵白をあわせてかき混ぜる。普通はひき肉を入れるところを、今回は魚のみのあっさり味にした。
 ラップでソーセージ型にくるんで、レンジで2分-3分加熱するだけだ。これで基本は完成。私はこのあと焼いて表面に焦げ目をつけた。
 タルタルソースもいつものように手作りする(タマネギの刻み、ゆで卵刻み、マヨネーズ、からししょう油、塩、黒コショウ、バジル、白ワイン、牛乳)。
 これは簡単で美味しいので、魚嫌いの子供の弁当なんかにもよさそうだ。ソーセージとだまされて食べてしまうに違いない。

 豆腐も簡単に手作りする方法がある。使う材料は豆乳とにがりのみ。豆乳選びさえ間違えなければ誰にでも豆腐はできる。豆乳は、成分無調整の固形分12%以上というのが望ましい。今回は固形分10%というのしか見つからず、結果的に固まりが甘くなってしまった。
 型取りはタッパーなどでもいいし、コーヒーカップのようなものでもいい。私は茶碗を使った。これくらいの分量ならにがりはスプーン一杯くらいでいい。たくさん入れる方が固まりがいいのだろうけど、多いと苦みが強くなるので適量にした方が無難だ。
 にがりを入れたらすばやくまき混ぜて、ラップをしてレンジで2分加熱する。取り出したらそのまま10分ほど置いて蒸らして、その後もう一度2分くらいレンジしたら出来上がりだ。これが意外とホントに豆腐なので笑える。市販のようなかっちりした固まりは期待できないけど、なめらかさとほのかな甘さは出来たてならではだ。湯豆腐とはまるで違う食感の暖かさが新鮮だった。
 たれは、白みそベースにしょう油、酒、みりんを混ぜて、ひと煮立たせしたものをかけた。

 普通に安く買えるものをあえて手作りするその心はなんなんだと問われたら、それは男の心意気と答えよう。決して貧乏性が招いた悲しき性ではないですよ。そもそも、収支決算的にはどうなんだとか、手間をかけたほどホントに美味しいのかとか、ふと我に返って冷静に考えてしまったら、この手作りは成立しない。そんな夢のない男になってはいけないのだ。わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい。いや、自らをそう育てたい。
 これは私が趣味で作ったサンデー料理だから、もしかしたらあなたはさほど感心しないかもしれない。でも想像して欲しい。誠意って何かね? いや、そうじゃないくて、もし、つきあい始めて間もない彼女が手料理をごちそうするからといって招いてくれて、3時間待たされたあげくにこの料理がでてきたら、あなたはどう思うだろう? 私なら、ひくな。って、ひいてどうする! だって、ちょっと必死すぎるだろう。3時間かけてそこまで完全に手作りしなくてもいいだろうと思ってしまうではないか。そんなにディープな手作りは望んでないぞって。何事もやりすぎはよくないということを今日のサンデー料理から学んだ我々ですね。
 それからもうひとつ気づいたこととしては、私の料理には彩りが足りないということだ。およそ付け合わせというものが存在しない。これまでも薄々気づいていたのだけど、気持ち的にも時間的にもそこまで余裕がなかった。何か足りないなぁと、いつも写真を見てから思っていた。ちょっとした野菜とかを付けるだけでもけっこう印象が違ってくるから、そのあたりのことを今後の課題としていきたい。
 すっかり涼しくなった10月最初の日曜日、汗をかきかき必死になって料理する私は、この先一体どこへ向かおうとしているのだろう?
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