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  • 写真ノート<44> ---売れる写真ってなんだろう

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    2016/12/17

    写真ノート(Photo note)

  • 写真ノート<43> ---写真の嘘

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    2016/11/05

    写真ノート(Photo note)

  • 写真ノート<42> ---写真が上手くなるために考えるべき2つのこと

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    2016/10/22

    写真ノート(Photo note)

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    2016/10/15

    写真ノート(Photo note)

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写真ノート<44> ---売れる写真ってなんだろう

写真ノート(Photo note)
道ばたの写真

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 同じ食材を使っても調理の仕方と味付けで違う料理になるように、同じ被写体を撮っても撮り手次第で写真はまったく別のものになる。
 写真を供するということと、自分で味わうということは、同じようでいて違う行為だ。重なる部分はあっても目的も方向性も違う。
 家庭料理と店の料理の違いにたとえると分かりやすい。いくら家族が美味しいと褒めてくれても、そのまま店に出して通用するかといえばそうではない。写真も同じで、いくら自分がいいと思っても、お客さんがいいと言ってくれなければその写真は通用しないということになる。もちろん、自分がいい、美味しいと思えることが大前提ではあるけれど。

 人に供する写真とはどういうことかを考えてみる。
 たとえば雑誌なりメディアなりの依頼に応える写真というものがある。具体的にどこかの場所の写真を提供してほしいという場合もあれば、どこかへ行ってこれこれの写真を撮ってきてほしいという依頼もある。依頼主が満足すればその写真は価値があることになるし、満足しなければ無価値ということになる。
 一般大衆向けのグラビア写真を例にとると、グラビアを撮っているすべてのカメラマンが心の底からその写真で自己満足を得ているという例はおそらく少ない。雑誌の要求に応えることが第一義であり、グラビアを見る人の満足を得ることが自分の満足よりも優先する。
 たとえばそれは、ファミリーレストランで出される料理を作っている料理人に似ているかもしれない。レシピはすでにある。自分なりのアレンジよりも食べる人間が求める味を提供することが求められる。
 一方で写真家と呼ばれる人間は、個人経営レストランの雇われシェフにたとえられるだろうか。個人事務所を持っている写真家ならオーナーシェフということになるだろう。お客の満足優先であることには変わりないとしても、自分が提供したい料理なり写真を提供することで成立させている。お客を選ぶ権利もある。流行るか流行らないかは自分次第でもあり、お客次第でもある。流行る流行らない以前に不特定多数からの支持を得る必要がある。

 職業として写真を撮る人間は、ある種、妥協との戦いでもある。自分が撮りたいものを撮りたいように撮ってそれで商売が成り立つのは稀だ。才能とかそういった部分だけで決まるわけではなく、それなりに商才がなければ難しいし、人とのつながりも大切になる。運も必要だろう。
 売れる写真と売れない写真がある。売れる写真を撮るか、売れなくても自分の写真を撮り続けるか、その判断は撮り手自身の責任において決定される。
 自分の写真を売りたいと考えている人は大勢いるはずだ。自分の店を出したいと考えている人と同じくらい。
 けど、実際に売れることは難しく、潰れずに営業していける料理店が多くないように、職業写真家として活躍し続けることは難しい。腕さえあれば食いはぐれはないというのは、料理人もカメラマンも同じだろうけど、腕1本で経営者としてやっていくのは簡単ではない。
 よく言われることだけど、カメラマンに資格はないのだから、カメラマンの名刺を刷って今日から自分はカメラマンだと言えばカメラマンと言えなくはない。ただ、やはりそれだけでカメラマンと言い張るのは無理がある。生活できる程度に稼がないと本当のカメラマンとはいえない。

 写真で食べていきたいと考えたとき、若ければ素直に写真の専門学校に入った方がいい。そこに道筋がある。
 そうでなくても脱サラして写真家になった例もなくはないから道が閉ざされているわけではないだろうけど、実際は難しそうだ。
 自信があれば数十枚の写真を持ってカメラ雑誌の編集部なり出版社なりを訪ねるといったことでもいい。
 フォトコン入選の常連程度で写真家になれると思ったら大間違いで、その程度の撮り手は山ほどいる。フォトコンで入選しまくってそのまま写真家になった米美知子さんの例はあるけど、あれは若くて美人だったからで、特例中の特例だ。
 もしくは、ストリート・ミュージシャンならぬストリート・カメラマンとしてデビューするという手もある。道ばたで自分が撮った写真のプリントを売って写真家になった人もいた。
 今はストックフォトもあるから、そこで売ることに特化するというのもひとつの方法だ。生活できるくらい売れば、堂々とカメラマンを名乗れる。

 いずれにしても、売れる写真と売れない写真があるという厳然たる事実の前で、私たちはそれに従うしかない。どうすれば流行る店ができるか分かっていれば誰だってその通り実践する。人気写真家になる方法論があるなら誰もがそれをやっている。人気商売とされるタレントやアイドルなども同じことがいえるだろう。
 結局のところ、どうすれば売れるかなんてことは誰にも分からないのだ。一発当ててそれで終わりというパターンもある。
 もちろん、写真においても売れることが絶対的な正義だとは思わない。けど、売れなくもいいかといえばそうとも断言できない。いったんその道を志した以上、売れたいと願うことは当然だし、そう思わなければいけないと思う。売れれば官軍、売れなければ賊軍、そう言い切ってしまうのは乱暴だろうか。

 遠回りのようにくどくど書いてきたけど、今日のテーマは、売れる写真ってなんだろう? ということだった。
 その問いの答えはきっとひとつではない。誰かが出した答えがそのまま自分の答えになるわけでもない。
 忘れてはならないのは、売れるということは買う人がいるということだ。買い手の側に立って考えてみたとき、買いたい写真とは何かということがひとつのヒントになるかもしれない。
 自分が撮りたいと思う写真と、自分が買いたいと思う写真は同じだろうか? 自分の写真を見て、この写真にいくらなら払っていいかと考えてみる。1,000円なら買うか? 1万円でも買いたいか? タダでもいらないと思うなら、他人ならなおさらのことだ。それは売れない写真ということになる。
 他人の写真を見て、その写真を買いたいか買いたくないか考えてみる。自分でも撮れる写真ならわざわざお金を出してまで手に入れたいと思わない。
 売りたいということばかりに気持ちがいってしまうと、買い手の気持ちをないがしろにしがちだ。自分が買い手として、どんな写真にお金を払っていいだろうかと頭の中で思い浮かべてみる。それこそが売れる写真というやつではないか。そうやって思い浮かべた写真を10枚、20枚、もしくは100枚、自分が持っているならば、誰かがあなたの写真を買ってくれるだろう。

 売れる写真を撮るということは、必ずしも妥協や迎合ではない。写真の買い手は漠然とした一般大衆ではなく人だ。もっと言えば個人だ。
 買いたい写真と売りたい写真、それは完全に一致しないまでも共通部分はあるに違いない。売れる写真と考えるよりも、買いたい写真を撮ることを考えればいいのではないかというのが今回の話の趣旨なのだけどどうだろう。ぼんやりと答えらしきものが見えてこないだろうか。
 人はどうしても自分の思いや価値観にとらわれがちで、受け手の気持ちを優先させることは難しい。自分がいいと思うものはいいものに違いないと思い込んでしまう。
 いいものと売れるものは違う。いいものを提供しさえすれば売れるはずだという思い込みは捨てた方がいい。一般受けするものを提供すればそれで売れるだろうという安易な考え方も間違っている。
 売れるものは誰かが買いたいものだ。買いたいというのはお金を出してもほしいということだ。お金を出すということがどういうことかは誰もが知っていることだから説明するまでもないだろう。ほしいという人が多ければ多いほど写真の価値は上がり、値段も高くなる。
 自分のためだけではなく誰かのために写真を撮ることは決して悪いことではない。人に喜ばれる写真を撮ることは、自己満足よりも幸せなことかもしれないと、最近の私は思うようになってきた。それが結論かといえば、まだ答えは出ていないのだけれど。
 

写真ノート<43> ---写真の嘘

写真ノート(Photo note)
道ばたの人形

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 写真は嘘か誠か? 誠でもあり嘘でもある。嘘でもあり誠でもあると言った方がいいか。
 目の前にある現実しか写らないという意味では真実だけど、ある場面のある瞬間を切り取ることで写真はある特定の意味を持つようになる。嘘ではないにしても、それは限定された真実だ。
 無意識の嘘があり、意識的な嘘がある。
 たとえば、目がかゆくて手で目をこすったシーンを撮って「泣いている人」というキャプションをつければ、それは泣いている人を撮った写真になってしまう。周りに大勢の人がいる中でたまたま横に並んだ男女の手と手が触れた瞬間を切り取って手つなぎデートの場面とすることだってできてしまう。写真はそういうあやうさをはらんでいる。キャパの「崩れ落ちる兵士」のエピソードなどはその典型的な例だろう。

 素敵な夢を見させてくれるのが写真なのだから、少しくらいの嘘があってもかまわないという考え方もある。その意見には私も賛成だ。写真が絶対非演出の絶対的真実でなければならないといったような考え方は持っていない。ただ、世の中にいい嘘と悪い嘘があるように、写真にもいい嘘と悪い嘘がある。そこを正しく区別する必要がある。厚化粧をしたようなデジタル写真も、私は悪い嘘の範疇に入ると思っている。
 夕焼け写真を撮ったけど思ったほど空が焼けずに物足りないとき、レタッチソフトでホワイトバランスをいじって印象的な夕焼け空を作ることはできる。でもそれは嘘か本当かでいえば嘘だ。写真を見た人にとってホワイトバランスをどうしようが関係ないとしても、撮り手の嘘はどこかでばれるような気がする。本物の夕焼け空を撮りたければ何度でも通って本物の夕焼けを撮ればいい。その方が写真としての説得力もあるはずだ。
 自分の写真以上によく見せようとすると、写真はどんどん真実から遠ざかっていってしまうだろう。

 要するに安易に嘘をついて写真を飾ってはいけないということだ。
 写真はときとして見た目を超える。夜景写真などは特にそうで、肉眼で見るよりも写真に写した方がずっときれいに見える。ただ、それは悪い嘘ではない。それが写真の持つ力のひとつであり、現実を超えていくことが写真の使命でもあるからだ。写真は現実のコピーとは違う。
 最初に書いたように、写真はある場面のある瞬間を写しとめることであらたな真実として提出される。もともと嘘なのだからどんな嘘も許されるだろうという考え方は間違っている。嘘だとしても、いや嘘だからこそ、ぎりぎりまで誠実でなければならないのだ。
 何がいい嘘で何が悪い嘘かはそれぞれが自問自答して決めるしかない。境界線は時と場合によって変わったりもする。
 それでも、結局のところ、嘘のない写真を目指すことがもっとも自分のためになるのではないかと、近頃の私は考えるようになってきた。人に褒められるいい写真や、誰かを感心させるカッコイイ写真などへの憧れはできるだけ捨てて、素直な心でありのままを撮ることだ。大切なのはどう撮るかよりも何を撮るかだという当たり前のことにあらためて思い至ったところだ。
 中級者、上級者といったレベルになると、どうしても欲が出るし、人とは違う写真を撮ってやるという虚栄心にとりつかれがちだ。それは向上心とは似て非なるもので、いい写真を撮りたいという思いが写真を歪ませることもある。フォトコンなんかをやっていると特にそうなりがちだ。知らず知らずのうちに嘘が上手くなり、嘘をつくことに慣れてしまう。そうして、自分は人より撮れる人間だと思い込む。そうなってしまうと、何が大事なことを置き忘れている。
 嘘のない写真とは何か? それは誤魔化しがなく、誰に対しても恥じるところのない写真だ。撮ったままの写真をそのまま人に渡すことができるか、と自らに問いかけてみれば分かる。
 写真は現場で完成していることが望ましいというのはそういうことでもある。家に帰ってからレタッチで仕上げればなんとかなるといった態度だとしたら、そこには不純な嘘が混じっている。

 写真の真実ってなんだろう? という問いかけはテーマが大きすぎてすぐには答えられないのが普通だ。でも、自分にとって写真の真実ってなんだろうという問いかけは常にしておく必要がある。写真をやっている人間なら、どうしても撮りたい写真の一枚や二枚は頭の中にあるはずだ。それこそが自分にとっての写真の真実ということになるだろう。現実問題として撮れる撮れないは別にして。
 嘘をつかないことで自分の写真がこれまでよりもつまらないものに感じられるようになってしまうかもしれない。でも、それでかまわないではないか。嘘のない正直な写真こそが至高なのだと私は思う。
 写真の質を上げるためには、撮り手である自分自身を高めるより他に道はない。自分のレベルが上がれば写真のレベルも上がる。
 写真は等身大の自分を映す鏡でありたい。取り繕った自分を本来の自分と思い込んではいけない。
 

写真ノート<42> ---写真が上手くなるために考えるべき2つのこと

写真ノート(Photo note)
庄内川土手夕景

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 上手い写真とはどういうことか?
 それは、空間と時間を支配しているということだ。
 空間とは構図であり、時間とは瞬間を意味する。それを意のままにコントロールできればいい写真が撮れるし、コントロールできなければいい写真は撮れないということになる。
 上手い写真を撮ることは誰にでもできる。理屈の上では。ただ、実際のところ、誰も彼もが上手く撮れるわけではない。それは一体どういうことかを考えてみたい。

 カメラ雑誌やカメラ本に書かれている写真が上手くなるための方法論は間違っているのではないかと私は思っている。間違ってはいないにしても、本質を突いていないのではないか。それは、書いている人たちがもとから上手かった人たちだからということと無関係ではない。
 写真家たちの中では、アマチュアや初心者にも分かりやすいように上から降りてきて丁寧に解説しているという意識があると思う。たとえばプロ野球の第一線で活躍している選手が草野球をやっているおじさんたちを教えているようなものを想像してみればいい。確かに理にかなった有益なアドバイスは与えられるだろうけど、できる人ができない人にものを教えることは思うほど簡単なことではない。
 むしろ、アマチュアの指導はアマチュアの指導者の方が向いているのではないか。何を教えるにしても、できないということがどういうことなのか、自分自身の感覚として理解できるからだ。
 写真の場合、優れたアマチュアの指導者といった存在はなかなかいない。たまたま身内や友だちに上手い人がいて教えてくれるなどということは少なそうだ。たいていの場合、本や雑誌で覚えるか、写真サークルに入るか、友人同士で撮るとか、そういったパターンになるだろう。つまり、ほとんどの人が誰からも教わることなく独学で写真を勉強して撮っている。それで本当に上手くなるものだろうか。毎週のように打ちっぱなしに出かけてたくさん球を打っているのにコースに出るとなかなか上手くいかないと嘆いているアマチュア・ゴルファーの姿と重なる。
 今回のこの話に限らず、どうして私が写真ノートを書こうと思ったのかというと、もともと撮れなかった私だからこそ同じように伸び悩んでいる人たちに対して何か役に立つことが書けるのではないかと考えたからだった。それは自分の撮っている写真を棚に上げないとできないことではあるし、説得力があるのかどうかもよく分かっていないのだけど、何かしらヒントくらいにはなってくれるのではないかという思いは持っている。このブログの2010年以前のページを見てもらえれば私がいかに撮れなかったか分かってもらえると思う。下手ではないにしても取るに足らないありきたりの写真しか撮れない時期が長く続いた。どうにかフォトコンにコンスタントに入選できるようになるまでに5、6年はかかっている。

 というわけでここからが今回の本題となる。写真が上手くなるには何をどうしたらいいのかがテーマとなる。やること自体は特に目新しいものではない。ただ、カメラ雑誌に書いているようなやり方では遠回りすぎるように感じるから、私なりの方法論といったものを書いてみたいと思う。
 たとえるなら予備校の講師が教える受験勉強のテクニックのようなものだ。教科書や参考書だけでいくら頑張って勉強しても偏差値の高い大学に入るのは難しい。受験という一点に絞って対策を練ることが入試攻略のコツであるように、写真上達にもある種の方法論があるように思う。内容については、これまで写真ノートに書いてきたことの繰り返しになる部分が多いけど、自分自身の頭を整理するためにも今一度まとめてみようと思う。
 今回の対象は、カメラの操作や写真用語をひと通り知っていて、ある程度撮れる初級から中級者といった人たちを想定している。分かりやすい目標として、フォトコンに入選する程度の写真を撮るにはどうしたらいいのかをメインテーマとしたい。

 まずやるべきことは、構図の勉強、研究、理解だ。
 とにかく構図をマスターすることが上手い写真を撮るための一番の早道だ。構図ができない撮り手はデッサンができない画家のようなもので、正しい写真にならない。構図は建物でいえば完成予定図のような感覚的なものではなく製図の部分に当たる。きちんと理屈を理解する必要がある。
 具体的にやるべきことは、プロの写真家の写真を真似ることだ。プロの写真家は例外なく(たぶん)正しい構図を理解している。だから真似しておけば間違いはない。それが正解なのだから、自分で正解を導き出すまでもない。どうしてその構図が正解なのかを考えると訳が分からなくなるからとりあえずそういうものだと飲み込むしかない。数学の方程式のようなものだ。
 構図の種類やパターンなどについてはカメラ本や雑誌でひと通り勉強しておく必要がある。覚えることは多くない。三分割とか、トンネルとか、S字とか、三角とか、空間の開け方みたいなことだ。
 プロの写真を真似ることは、習字を習うときにお手本となる字を並べながら真似をして書くことから始めるようなものだ。いきなり自分勝手に字を書き始めたりしない。そんなことをしたら我流の悪いクセがついてしまってあとから直すのが難しくなる。
 写真も同じなのにいきなり手本も見ずに自己流で撮り始めるから基礎ができない。写真は絵画におけるデッサンの勉強や訓練といった過程がない分、基礎を身につけるのが意外に難しい。だからこそ、プロの写真に学ぶ必要がある。画家が模写をするように、書家が臨書をするように、写真家はもっと模倣を大事にすべきではないのか。
 真似るときには、絞りとシャッタースピード、ISO感度なども見て覚えておくといい。ケース・スタディーとして、こういう場合は絞りやシャッタースピードをどれくらいにすればいいのか分かる。それもまた構図同様正解なので、そのまま覚えて真似ればいい。
 ぼんやりながめて、なんとなく同じようなものを撮るのではなく、はっきり同じものを撮るつもりで撮ることが大切だ。そこから学べることは多い。オリジナリティーなどというものは二の次三の次だ。
 一番勉強になるのは、写真家が撮影しているところを追いかけたドキュメンタリー番組だ。写真家がどういう場所で、どんなときに、どんなものを、どんなふうに撮っているかが分かるのはすごくためになる。かつて写真家たちの日本紀行というBSの番組があって、あれは本当によかった。The Photographersのような単発の番組あるけど、レギュラーの写真家番組の復活が望まれる。今はYouTubeニコニコ動画にも写真家関連の動画があるので、それらを見るのもいい。

 写真のよしあしを決めるもうひとつの要素が瞬間だ。
 いつシャッターを押せばいいのかが分かっている人間がいい写真を撮る。動くものに限らず動かないものでも撮るべき一瞬というものが存在する。そのことを理解しないままむやみに連写しても一瞬は捉えられない。いつ撮るかというのは、そういう1秒未満の話だけではない。
 いい写真を撮れない人の共通点は、どの瞬間を撮るのがベストなのかが分かっていない。あるいは瞬間に対する姿勢が甘い。
 本当に撮るべき写真は、最高の瞬間にこそある。プロとアマチュアの決定的な違いは、最高の瞬間を妥協するかしかないだ。プロは一枚のために準備期間も含めて多くの時間を費やす。アマチュアが一番プロに劣っているのはその点だ。
 誰にも想像しうる最高の瞬間というものがあるはずだ。そこを目指すか目指さないか。ほとんど実現不可能だとしても目指さなければ捉えることはできない。プロはその一点を目指し、捉えることができるからプロたり得ている。
 瞬間の大切さを繰り返し言いたい。いい瞬間を捉えさえすればいい写真になる。単純なことだ。もちろん、その単純なことが容易ではないからなかなかいい写真が撮れないのだけれど。
 最高の一瞬のためには、待つことや粘ること、通うことも必要になってくる。たとえば海の写真を撮るなら、晴れた青空がいいのか、夕焼けなのか、朝焼けなのか、夜の星空がいいのか。光は順光なのか逆光なのか。季節は春夏秋冬のいつがいいのか。最高の写真の可能性は、それらの要素をすべて合わせた数点の瞬間にしかない。
 たとえば人物写真における最高の瞬間とはいつか。被写体にもよるし、撮り手との関係性によっても違ってくるのだけど、笑顔なのか、真剣なまなざしなのか、日常のふとした表情なのか、寝顔か、泣き顔か。いい人物写真もまた、いい瞬間の中にしか存在しないものだ。
 私が撮っている道ばた写真などは瞬間は関係ないと思うかもしれないけどそうじゃない。何かが道に落ちている時間はごく短くて、私がそのときその場所に居合わせるというのも瞬間の出来事だ。だから私は道ばた写真も瞬間の出会いが大切だと思っている。

 プロの写真家の写真集をたくさん見ることの必要性もこれまで何度も書いてきた。漠然と眺めていては意味がない。読むことが大切だ。読むべき内容は、構図と瞬間だ。何が撮られているかはさほど大切じゃない。どういう構図で、どんな瞬間に撮っているかを読み解くこと。自分も同じ被写体を前にしたとき、どう撮るかをイメージすることがトレーニングになる。
 まずはプロの写真を理解することだ。理解できなければ真似して撮りながら理解を深めることをしたい。
 あと、古今東西の絵画も勉強になるので余裕があれば画集を見たり美術館へ行ったりするといい。特に日本人画家の作品は参考になる点が多い。歌川広重や葛飾北斎の浮世絵、伊藤若冲や東山魁夷の絵画などは写真に還元できる部分が多々ある。
 新海誠監督のアニメ作品なども、とても写真的で真似したくなるシーンがたくさんある。個人的な感覚として、写真のライバルは絵画ではなくアニメのような気がしている。作者の思い通りにすべてを描くことができるアニメの静止画こそ、写真の目指すべき到達点なのではないかと。

 フォトコンの選者コメントで、今まで見たことがないような新鮮な写真が見たいなどといったことを言っている写真家がいるけど、そんなたわごとは無視していい。誰も見たことも撮ったこともないような写真がそんなに簡単に撮れるわけがない。そんなものを撮ろうとするから自分の写真を見失うのだ。ありきたりなテーマでいい。これまで散々撮られてきたものを、正しく撮ればそれがいい写真になる。人と違うものを撮らなければならないなどという間違った強迫観念は捨てることだ。他人と違うものを斬新に撮ることは、もっと先の段階ですべきことで、今やることではない。
 1つ注意しておかないといけないことは、フォトコンの入選作はあまり見ない方がいいということだ。アマチュアの入選作は真似してはいけない。それはただの物まねになってしまう。写真家の写真を真似ることは勉強のためであって、そっくりそのままの内容の写真をフォトコンに応募すれば、それはやはり盗作に近いものとなってしまう。
 まず目指すべきは、端正な写真を撮るだ。お手本の字のように。そういう写真を撮れるようになってから、次にどう崩して自分の写真を確立していくかという話になる。正しい楷書も書けないのにいきなり格好をつけて草書のまねごとなどしている場合ではないのと同じだ。
 やらないといけないことはごくシンプルだ。正しい構図で、いい瞬間を撮る。何がいい瞬間かはそれぞれが決めることで、他人がとやかく言うことではない。自分で探し、自分で見つけるしかない。

 今回のまとめ。
 写真は構図と瞬間の2つを考えればいい。構図と瞬間を曖昧なままにしておくと、いつまで経っても上手い写真が撮れるようにはならない。気づいてしまえばごく当たり前のことに過ぎないのだけれど、それこそが写真という表現の本質なのだと思う。
 

写真ノート<41> ---撮影テクニックについて

写真ノート(Photo note)
秋空と手

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 今回は撮影テクニックについて少し書いてみたいと思う。具体的には、テクニカルな撮影方法をいくつか挙げてみる。

 まず思いつくのがフィルターワークだ。
 様々な種類のフィルターがあるけど、代表的なものとしてはPLフィルターとNDフィルターがある。
 PLフィルター(C-PLフィルター)は風景屋さんの専売特許と思っている人が多いかもしれないけど、意外と使い道は広い。ショーウィンドーの映り込みを軽減したり、光の反射をコントロールしたり、シャッタースピードを落とすために使うこともある。PLイコール反射を取るというイメージは使い方の半分でしかない。むしろ光と色味をコントロールするために使うと考えた方がいい。
 風景で使う場合は、空や海の色を濃厚にすることができるし、遠景の葉っぱや山の光の反射を抑えてコントラストを高める効果も期待できる。水の反射で使う場合は、効かせ具合が大事で、100パーセントと0パーセントの二者択一ではなく、50パーセントとか80パーセントとか、状況によって効果を使い分ける必要がある。
 これからの季節なら紅葉の色を濃くすることにも使える。
 NDフィルターはなんといってもスローシャッターだ。長時間露光をやるためにNDフィルターは必要不可欠で、重ね掛けもできるので3種類くらい持っておくといい。2枚ならND8とND400がオススメだ。
 どんなシーンで使うかといえば、海の波打ち際とか、川の流れとか、夜の都会風景で車の軌跡を描くとか、道行く群衆をぶれさせるとか、止まっているものと動いているものの対比を描くためにNDフィルターが役に立つ。

 流し撮り。
 レースの車、列車、飛行機などが流し撮りに向くことは誰しも思いつくことだけど、動いているのなら何でも流し撮りはできる。三輪車の子供でも、街中を走っている普通の車でもいい。なんなら回転寿司でも。
 明るい日中では流し撮りができないときもNDフィルターの出番となる。 
 流し撮りで一番難しいのは、飛行機の離発着だと思う。横の動きに斜めの動きが加わるからそれに合わせるのが難しい。特に夜は周囲の光源がバラバラの線になるので整理できるかどうかが鍵となる。
 
 高速シャッター撮り。
 流し撮りの対極で、シャッタースピード1/1000秒以上が高速シャッター相当といっていい。
 野球でバットにボールが当たる瞬間とか、カワセミが水中の魚を捕らえた瞬間を撮るときなどは高速シャッターが必要となる。究極的に難しいのはボクシングの試合ではないかと思うのだけど、残念ながら私は経験がない。もし願いが叶うならリングサイドで一度撮ってみたい。

 シャッタースピードに関していえば、すべてのシーンにおいてシャッタースピードをコントロールすることが大切だ。
 たとえば、水面に落ちる雨を雨らしく撮るには1/60秒くらいがいいとされる。早すぎても遅すぎても雨らしく写らない。雪もそうだ。
 水の流れを撮るには何秒で撮るのがもっとも効果的かなどは、経験がものをいう。滝の流れにしても、何秒で撮るかによって表情は全然違ってくる。そのとき、その場で正しい判断をできるかどうか。それもまた、撮影テクニックのひとつだ。

 三脚とレリーズケーブル。
 三脚は手持ちで撮れないときに仕方なく使うものなどではなく、テクニックとして使うものだということを認識しておく必要がある。三脚を使うことで撮れるようになるものがたくさんある。夜景や打ち上げ花火、渓流の流れ、星空など。
 三脚に固執しすぎるとかえって自由度が低くなることもあるから三脚至上主義は嫌いなのだけど、三脚を使うからこそ撮れるものは積極的に撮っていくべきだとは思う。
 星と風景を絡めた星景撮りだとか、一枚30秒くらいで撮ったものをコンポジットで重ねて星の軌跡を描くとか、三脚を使うことで広がる世界というものもある。
 面倒がらずにレリーズケーブルも使った方がいい。まずブレないというのが一番の利点であり、シャッターチャンスを狙う場合も指でシャッターを押すよりレリーズで押した方が反応が早い。野鳥撮りのときなどもそうだと思う。

 フラッシュワーク。
 ストロボとか、スピードライトとか、呼び名はいくつかあるけど、とにかくフラッシュだ。これは避けて通れないし、避けてはいけないものだ。
 フラッシュは暗いところで光を補うものという考え方は捨てていい。バウンスとワイヤレス発光こそがフラッシュワークだ。暗いところで直接フラッシュを当てることはなるべく避けたい。
 室内なら天上バウンスや壁バウンスは必須テクニックだ。結婚式の披露宴だけのものではなく、日常的にフラッシュは使っていいし、使わないといけない。
 もうひとつ、ワイヤレス発光もやるとやらないのとでは大違いで、カメラ本体から外付けフラッシュを離してワイヤレス発光させることでフラッシュの使用用途は大きく広がる。意図的にサイド光や斜光を作り出すのも簡単だし、トップやアンダーからの光も効果的に使えることがある。
 使用は室内だけに限らないし、夜だけでもない。夜景と人物の両方に露出を合わせるスローシンクロや、逆光の光に対して直接フラッシュを当てる日中シンクロもある。昼間の逆光で昆虫を撮るときなどはハイスピードシンクロもよく使われる。
 フラッシュを使わない方が雰囲気のある写真が撮れますなどというのはまやかしだ。フラッシュによって光と影をコントロールできれば、フラッシュを使わないより使う方がいい写真が撮れる場面は多い。人物撮影やブツ撮りなどは特にそうだ。
 フラッシュを使いこなすのは確かに難しい。ライティングの専門知識も必要となる。ただ、ここはちょっと頑張らないといけないところだ。逃げてしまうと使いこなせないままで終わってしまう。それは自分の可能性を狭めることになる。最終的にはフラッシュを2つ以上使った多灯ライティングで光と影を自在にコントロールできるところまでいくのが目標だ。

 レフ板を使った撮影。
 これはフラッシュとの兼ね合いもあるのだけど、レフ板もできれば使いこなせるようになりたいテクニックのひとつだ。
 レフ板というとモデル撮影が定番で、一般的に使っている人はあまり多くない。ただ、レフ板はブツ撮りや花の撮影などでも使えるから、一通りは勉強しておいて損はない。
 光を当てる方向と光の強さをコントロールするのがレフ板の役割で、それはフラッシュの役割でもあって、状況によって使い分けるのがベストなやり方となる。両方使わないという選択をするなら、使わない方がいい明確な理由を説明できなくてはならない。

 多重露光。
 フィルム時代に好んで使われた手法だけど、デジタルになっていっそう手軽に使えるようになった。いくらでも試せるし、結果もすぐに見ることができる。
 レタッチソフトでも同じようなことはできるとはいえ、カメラ内でやることで生まれる効果もある。はっきりしたイメージを頭の中で描けていないとできないことなので、イメージを作る訓練にもなる。

 玉ボケと前ボケ。
 細かいテクニックながら実践的に役に立つ。玉ボケは背景に木々の葉っぱなどがあると簡単に作り出せる。水面の場合は、できるときとできないときがある。
 前ボケはやること自体は簡単なのだけど、本当に効果的に使うことができるかどうかがポイントだ。単にテクニックをひけらかすためだけの前ボケはいらない。上手く使えば画面をふんわりやわらかくする効果がある。
 ボケの使いこなしも身につけたいテクニックだ。

 飛びもの、落ちもの。
 飛んでいるトンボやチョウなどを撮るのが飛びもの。落ちてくる紅葉のモミジの葉を撮ったりするものが落ちもの。私が勝手にそう呼んでいるだけなのだけど。
 いずれも難易度は高い。トンボは慣れればまあまあ撮れるようになる。3年くらいやれば。落ちものは運次第ということもあって、更に難度が上がる。たとえばモミジの木の下で葉っぱが落ちてくるのを3時間待って2、3回当たるといった程度だ。
 これまでやった中で一番難しかったのは、飛んでいるセミを正面から撮ることだ。一度だけ70パーセントくらいの当たりがあったけど、後にも先にもそれ一回しか当たってない。飛びゼミをジャスピンで当てられる人がいたら神がかっている。

 なかなか自分の写真から脱却できないとか、万年中級者から抜け出せないと嘆いている人は、まだ全然いろいろな撮影に挑戦していないだけなんじゃないか。世の中にはたくさんの被写体があるし、上に紹介した撮影テクニックなどもある。思いつく限り一通り試してみてからでも遅くはない。まだ自分の被写体に出会っていないだけかもしれない。
 テクニックがあって被写体があるのではない。被写体があってテクニックがある。撮りたいものを一番効果的に撮るにはどんなテクニックが必要なのか。先人たちの創意工夫の末にテクニックというのは編み出されてきた。あとに続く私たちは、ありがたくそれらを使わせてもらえばいい。
 勉強をして実践して、写真を持ち帰って反省、点検をする。何が足りないのかを考え、次はどうやって撮ろうかと策を練る。足りない知識は更に勉強して補う。そうしてまたフィールドに出て試行錯誤をする。写真はそういう積み重ねだ。実践を積み上げて経験値となる。本を読んだだけでは分からないこともたくさんある。
 テクニックを身につけるのは、自分の写真の可能性を広げるためだ。テクニカルな写真を撮って人に見せびらかすためではない。テクニックはないよりあった方がいい。少ないより多い方がいい。だけど、テクニックに溺れないように。すべてはいい写真を撮るために。
 
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