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  • 飛鳥で開放感を味わう <第四回>

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 飛鳥坐神社をあとにした頃、ようやく雨があがった。 飛鳥の地は、山に囲まれているものの、空間的な広がりを感じる。高い建物がなく、民家も密集していない。田んぼも多く、何もないような土地も広がっていて、心地よい開放感がある。久しぶりに建物の圧迫感がない自由さを感じた。 サイクリングの効率性も捨て難いけど、やはり飛鳥は歩きが合っているように思う。時間をかけてゆっくり歩いて...

    2011/01/12

    奈良(Nara)

  • 飛鳥で昔に思いを馳せる <第三回>

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 桐島ローランドととよた真帆が飛鳥を旅するというテレビ番組で、桐島ローランドが撮った酒船石の写真がすごく格好良くて印象に残った。あの写真も、私を飛鳥へと向かわせる要因の一つとなった。 案内標識から石段を登った小高い丘の上にそれはあった。周りを竹林で囲まれており、雨ということもあって薄暗く、ひっそりとしている。雨音だけが響いていた。 不思議といえば不思議なものだ。東西...

    2011/01/11

    奈良(Nara)

  • 冬の雨の中、飛鳥を歩く <第二回>

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 鬼の石、亀石を見たあとは、石舞台古墳がある東エリアへと向かった。 空がだんだん厚い雲に覆われ始め、わずかな隙間から光が差して明日香の地を照らした。ほどなくして、その光も消え、ポツリ、ポツリと雨が落ち始めた。 お寺の入り口のようなものが見えたので近づいてみると、聖徳皇太子御誕生所と彫られた石柱が立っていた。その前には下馬の文字も見える。 石柱をくぐった先にお寺がある...

    2011/01/09

    奈良(Nara)

  • 飛鳥の地に立つ <第一回>

    PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4 飛鳥を見たくて、年末に旅をしてきた。 12月の冷たい雨が降る中、歩き歩いた6時間半。飛鳥の地に立ち、空気に触れ、息吹を感じて、私の目に映る飛鳥を写してきた。 ずっと行きたいと思っていてなかなか行けず、ようやく行くことができた。自分にとって特別な場所は、しかるべき時期が来ないと呼んでもらえないらしい。こちらの片思いだけでは、その場所と同調することができない。今回行けたの...

    2011/01/08

    奈良(Nara)

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飛鳥で開放感を味わう <第四回>

奈良(Nara)
飛鳥4-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4



 飛鳥坐神社をあとにした頃、ようやく雨があがった。
 飛鳥の地は、山に囲まれているものの、空間的な広がりを感じる。高い建物がなく、民家も密集していない。田んぼも多く、何もないような土地も広がっていて、心地よい開放感がある。久しぶりに建物の圧迫感がない自由さを感じた。
 サイクリングの効率性も捨て難いけど、やはり飛鳥は歩きが合っているように思う。時間をかけてゆっくり歩いていると、飛鳥時間とでもいうべきのんびりしたリズムに少しずつ体が馴染んでいく。
 初めて訪れたのが、冬の雨の日だったというのは、かえって幸運だったかもしれない。良い季節の晴れた日に訪れていたら、自転車で回っただろうから、今回感じたようなことを知らずに終わっただろう。
 飛鳥の旅も、ここから終盤に入る。

飛鳥4-2

 歩いている途中で、水落遺跡の案内標識があったので、ちょっと足を伸ばして寄っていくことにした。
 660年に、中大兄皇子が日本で初めての水時計(漏剋)を作ったとされる場所だ。日本書紀に記述があり、場所が書かれていなかったものが、1981年に飛鳥寺の北西で見つかった。
 飛鳥川から水路で引いてきた水を吸い上げ、段々に流れ落ちる装置から水を流して時間を知るというものだ。
 時計台も備えられており、鐘や太鼓で都の人々に時を知らせたようだ。
 日本が律令国家となっていくために、時を支配することもまた必要なことだった。人々が日々の暮らしの中で時間に縛られるようになったのは、このあたりの時代からだ。

飛鳥4-3

 飛鳥寺の北あたりは少し民家が集まっている。寺町っぽい路地もあり、風情が感じられる。

飛鳥4-4

 酒屋さんが簡易郵便局を兼ねている。
 飛鳥の遺跡が点在しているエリアには、便利な店や娯楽施設のようなものはほとんどない。歩いた道では喫茶店さえ見かけなかったような気がする。
 明日香村には規制があるのかもしれない。村境を超えて町に入ると、がらりと様相が変る。普通の住宅地になり、店もある。近鉄の駅前は、他の地方都市と変わりはない。

飛鳥4-5

 飛鳥川の流れ。昔はもっと川幅や水量があったのではないかと思う。

飛鳥4-6

 甘樫丘(あまかしのおか)を登っていく途中に、桜がわっと咲いていて、一瞬目を疑った。
 フユザクラやジュウガツザクラはよく見るけど、こんなにたくさんの花をつけない。
 木にかけられたプレートを見ると、ひまらや桜とある。帰ってから調べたら、ネパールの皇太子から贈られた桜ということで、ヒマラヤザクラと名付けられたそうだ。
 この時期に咲くのは間違いではなくて、12月が最盛期らしい。

飛鳥4-8

 甘樫丘から飛鳥の地を見渡す。
 標高148メートルほどの小山で、この丘の麓と中腹に、蘇我蝦夷、入鹿親子の邸があったとされている。どうやら東の麓だったようで、邸の一部と見られる遺跡も発掘されている。

飛鳥4-7

 甘樫丘からは、香具山(かぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)の大和三山が見える。
 上の写真に写っているのは、畝傍山のはずだ。
 百人一首の「春過ぎて 夏来たるらし白たへの 衣干したり天の香具山」という持統天皇の歌を覚えている人も多いと思う。
 飛鳥行きは、これまで教科書や歴史書の中にだけ出てくる縁遠かった人たちを、身近に感じさせてくれる旅となった。

飛鳥4-9

 もしかしたら雨上がりの夕焼け空が見られるのではないかと期待したのだけど、そこまではいかなかった。もう一度、飛鳥の地と空を見渡して、これでもう帰ることにした。

飛鳥4-10

 上の写真は、帰り道の途中、どこかの池で撮ったものだ。水没した鳥居に十字架が乗っているように見えた。
 甘樫丘から橿原神宮前駅までの道のりは遠く感じた。道に迷ったこともあって、1時間近くかかってしまった。途中に見所らしいものはなかった。
 時間があれば橿原神宮も寄る予定だったけど、日没で断念した。
 今回はあえてすべて回らず、もう一度行きたくなるように、ある程度残した。
 一番見たいのは、秋の飛鳥だ。稲が黄金色に輝き、彼岸花が咲く田んぼ風景というのが、自分の中の飛鳥風景としてある。もう一度飛鳥は自分を呼んでくれるだろうか。
 終わり。

奈良のホテルの口コミ
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飛鳥で昔に思いを馳せる <第三回>

奈良(Nara)
飛鳥3-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4



 桐島ローランドととよた真帆が飛鳥を旅するというテレビ番組で、桐島ローランドが撮った酒船石の写真がすごく格好良くて印象に残った。あの写真も、私を飛鳥へと向かわせる要因の一つとなった。
 案内標識から石段を登った小高い丘の上にそれはあった。周りを竹林で囲まれており、雨ということもあって薄暗く、ひっそりとしている。雨音だけが響いていた。
 不思議といえば不思議なものだ。東西の長さは5.3メートル、南北の幅は2.3メートル、高さは1メートルの花崗岩だ。想像していたよりも巨大なものではなかった。
 もっと神秘的なものかとも思っていたのだけど、そんな感じではない。
 あたりをぐるぐる周りながら、いろんな角度から眺めてみる。一番格好良い角度がどこかを探しながら。
 遺跡巡りが主目的ではなかった今回の旅ではあるけど、これだけは行く前から楽しみにしていた。だから、見ることができて嬉しかったし、感慨深くもあった。これを見終わったところで満足してしまって、もう帰ってもいいような気持ちになったほどだ。

飛鳥3-2

 石にはミステリーサークルのような円と線の溝が彫られている。
 酒を造る道具として使われたのではないという想像からこの名が付けられた。他にもいろいろな説があって、はっきりはしていない。庭園に置かれた設備で、水を流していたとか、太陽の観測に使われたなど、意見は分かれる。
 他にもよく似た溝が彫られた石があることから、何か目的を持って作られたことは間違いなさそうだ。この時代の人がこの模様を見れば、一目瞭然で何の石か分かるものなのだろう。
 石の両脇に切り取られた跡が残っていて、もともとの姿を完全にはとどめていない。高取城築城の際、石垣用として切り取ったともいわれている。すでに室町時代の人間にも何の石か分からなくなっていたのかもしれない。

飛鳥3-3

 酒船石がある丘から北へ50メートルほど下ったところに、一つの遺跡がある。
 亀形石造物と呼ばれるもので、名前の通り亀のような形をしている。
 こちらは有料で、おまけに年末休みに入っていて、近づくことができなかった。遠くからでは今ひとつ様子が分からない。
 全長2.4メートル、幅2メートルほどを石垣で囲み、鉢状に掘って、石を敷き詰めている。円形の穴があって、沸きだした水をそこへ溜めたと考えられている。
 斉明天皇時代から平安後期まで250年くらい使われた形跡があるとのことで、こちらも何のために作られたものかは分かっていない。酒船石との関連性も不明だ。
 水利用のためだけのものなら、わざわざ加工が大変な石で作る必要はなさそうだ。祭事用というには、逆に施設が小規模すぎるように思う。
 実は我々の考えすぎて、単にエクステリアとしての格好良さを追求して趣味的に作っただけかもしれない。貴族が暇と金に任せて職人に作らせて、他の貴族を呼んで自慢していただけとか。私たちが理解できないものを見つけると、そこに必要以上の意味を持たせようとする。何でも祭祀用なわけじゃない。どの時代の人間にも美意識というものがあるし、趣味や遊びも考える。女の人ならきれいな石を集めたいと思うだろうし、絵が上手い人間なら壁画を描きたくもなる。子供のためのおもちゃだって必要だ。

飛鳥3-4

 酒船石から南西300メートルほどのところに、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)跡とされる場所がある。一部が保存され、井戸の跡などが展示されている。
 はっきりそうと分かったわけではないので、伝承地というのにとどまっている。しかし、遺跡が発掘されたことは確かで、最近の調査研究で、天武天皇の飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)があった場所の可能性が高いといわれてる。その下に飛鳥板蓋宮の跡が眠っているという話もある。
 どちらも本当だとすると、これはとても歴史的な場所だ。大化の改新の発端となった乙巳の変(いっしのへん)が起こったのがまさにここということになる。のちの天智天皇となる中大兄皇子が自ら蘇我入鹿の首を切り飛ばしたとされるあの事件の現場だ。
 この時期は、天皇が変わるたびに宮があっちこっちに移った。少し話を整理しよう。
 642年に舒明天皇が亡くなったあと、後継者が決まらず、とりあえずという形で皇后が皇極天皇になった。中大兄皇子や大海人皇子(のちの天武天皇)の母親だ(大海人皇子が本当に皇極天皇の息子だったかどうかという話は置いておく)。
 このとき、実質的に政権を握っていたのが、蘇我氏だった。舒明天皇は、父の蘇我蝦夷と息子の入鹿を重用して、政治を任せた。
 板蓋宮は、舒明天皇が蝦夷に命じて3ヶ月で建設させたものだった。宮が板葺きだったことから、この名前で呼ばれたようだ。翌643年に岡本宮(飛鳥の岡)から、移っている。
 その後、天皇家を超えるほどの権力を握った蘇我家に対して危機感を抱いた中大兄皇子の一派は、クーデーターを起こす。乙巳の変であり、あとに続く大化の改新だった。645年のことだ。
 この事件で皇極天皇は退位して、すったもんだの末に、弟の軽皇子に譲位して、孝徳天皇として即位することになった。天皇が生きている間に天皇位を譲ったのは、これが最初とされている。息子であり、クーデーターの首謀者である中大兄皇子に譲らなかったのは、いろいろ差し障りもあったのだろう。
 孝徳天皇は、飛鳥から離れたかったようで、難波長柄豊碕(今の大阪市)に都を移している。
 しかしそれも短い間で、654年に孝徳天皇が没すると、皇極上皇は再び天皇の座に返り咲き、もう一度板蓋宮に移って、斉明天皇として即位することになる。
 ただ、板蓋宮は翌年火事で燃えてしまったため、川原宮へ移った。その後も、また舒明天皇の岡本宮に戻り、後半は唐・新羅との戦争を睨んで、北九州の朝倉宮へと移った。
 斉明天皇が没したのが661年で、中大兄皇子が天智天皇として即位したのが668年とされている。この期間も謎となっている。
 その後、壬申の乱が起きて、天武天皇が誕生したのが、672年だった。その即位が行われたのが、ここ、飛鳥浄御原宮というわけだ。
 現在は、そんな血なまぐさい歴史の舞台になったとは思えないほど、のんびりした雰囲気の場所となっている。

飛鳥3-5

 敷き詰められている石が当時のものなのか、最近復元したものなのかは知らないけど、この地に中大兄皇子や天武天皇が立っていたのかと考えると、なんだか不思議なような、信じられないような気持ちになる。

飛鳥3-6

 飛鳥の旅も後半から終盤に入った。雨はまだ降り止まない。
 遠くの山は、うっすら雪化粧をしているようだった。

飛鳥3-7

 通常なら、飛鳥寺も寄っていくところだろうけど、今回はそれもパスして、路地をいく。
 次に向かったのは、飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)だった。

飛鳥3-8

 あすかにいますじんじゃって名前が面白い。あすかにいますじんじゃなう、とつぶやいているみたいだ。
 歴史のある神社で、延喜式にも載っている。
 氏子がいない個人所有の神社らしいけど、境内で掃除をしていたのがここの夫婦さんだろうか。飾り付けなどをしたあと、横の社務所に入っていった。

飛鳥3-9

 延喜式には、飛鳥坐神社四座とある。
 今の祭神は、事代主神、高皇産靈神、飛鳥神奈備三日女神、大物主神となっているけど、書物によって顔ぶれが違っている。途中で入れ替わったのか、本来はどうだったのか。
 社殿は、吉野の丹生川上神社上社が大滝ダム建設で沈むことになって、ここもだいぶ古くなってきたから、それをいただきましょうということで、移築されてきた(2001年)。その前のものは、江戸時代の1781年に再建されたものだったとのことだ。

飛鳥3-10

 それほど大きくはないけど、なかなかいい神社さんだった。

飛鳥3-11

 境内社もたくさんあって、寄り合い所帯になっている。

飛鳥3-12

 フユザクラが雨に濡れながら咲いていた。

飛鳥3-13

 早くもロウバイが咲き始めている。年末なのに、少し春の気分だった。

飛鳥3-14

 屋根の上の苔がすごいことになっている。盆栽でもしてるようだ。

 飛鳥坐神社が、今回の旅の北限地だった。進路を西に変えて、甘樫丘を目指す。
 次回が飛鳥の旅最終回となる。
 つづく。

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冬の雨の中、飛鳥を歩く <第二回>

奈良(Nara)
飛鳥2-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4



 鬼の石、亀石を見たあとは、石舞台古墳がある東エリアへと向かった。
 空がだんだん厚い雲に覆われ始め、わずかな隙間から光が差して明日香の地を照らした。ほどなくして、その光も消え、ポツリ、ポツリと雨が落ち始めた。

飛鳥2-2

 お寺の入り口のようなものが見えたので近づいてみると、聖徳皇太子御誕生所と彫られた石柱が立っていた。その前には下馬の文字も見える。
 石柱をくぐった先にお寺があると思いきや、一面田んぼが広がっている。どういうことだとあたりを見渡し、左手に目を移すと、やや離れたところに寺のお堂が見える。どうやらあれが橘寺のようだ。
 聖徳太子こと厩戸皇子が生まれた場所に建てたとされるのが橘寺だ。実際にそうだったのかは分からない。
 聖徳太子は、ヤマトタケルのように、『日本書紀』の中で作り上げられた架空のヒーローとする説がある。個人的にはもう少し実在寄りの人物であったと考えたい。後世の日本人が聖徳太子に対して抱く親しみの感情は、架空の存在に向けられたものとは思えない。

飛鳥2-3

 飛鳥の中でも、この眺めはとても印象深いものだった。飛鳥らしい風景の一つといってよさそうだ。
 夏の風景もきっと美しいだろう。
 
飛鳥2-4

 遺跡や寺社から少し外れると普通の田舎風景に見える。けど、今自分が踏みしめている地のどこもかしこも、飛鳥時代には日本の都だった場所だということを思うと、じわりと感慨深い気持ちになる。
 1400年は遠い昔ではあるけど、神話の時代というほど遠くはない。当時も今も、人間の基本的な部分は何も変わっていない。彼らは確かにここで生きていた。

飛鳥2-5

 飛鳥の駅前には、現在169号線となっている中街道(古代官道のひとつ)が南北に走っていて、その道はそれなりの広さを持っているものの、他には幹線道路のようなものはなく、どこも道は狭い。飛鳥盆地は山に囲まれているから、東西の道が発展せず、結果的にこの地の遺跡は残った。もともと都を置くには不便な場所だった。海も遠く、大きな川もない。道を造るにも、地形的に難しい。律令国家の中心地とするには、流通の部分で向いていなかった。

飛鳥2-6

 空は水墨画の色になった。私が覚えている飛鳥の空はこんな色だった。

飛鳥2-7

 石舞台古墳も、中には入らず、少し離れた高台から見ただけだった。
 遺跡巡りは次の機会に残しておいた。
 古墳というからには元々古墳の形をしていたはずで、これは中の玄室がむき出しになった状態だ。最初からこうだったわけではない。
 古墳の形は円形だったのか八角形だったのか、はっきりしない。
 被葬者は、蘇我馬子という説が有力のようだ。蘇我稲目という説もある。
 蘇我氏に対する懲罰的な意味合いでこんな姿にされたといわれているけど、本当のところは分からない。
 一時は天皇家に匹敵するほど強大な力を持っていた蘇我氏は、大化の改新以降、勢力を弱めていくことになる。
『日本書紀』や『古事記』などは、勝者の側に都合良く書かれた歴史書だから、すべてをそのまま信じることはできない。蘇我氏も、書かれているほど悪かったとは考えにくい。
 蘇我馬子と聖徳太子が編さんしたとされる『天皇記』や『国記』が、もし現存していれば、日本の歴史書は大きく変わることになる。『日本書紀』は、日本最古の歴史書ではなく、現存する最古にすぎない。それ以前にも『帝皇日継』や『帝紀』があったとされる。
 乙巳の変で、蘇我蝦夷の家が燃やされたとき、『天皇記』は燃えて、『国記』は燃える炎の中から取り出されて中大兄皇子に献上されたとなっている。しかし、それも怪しい話だ。オリジナルが1冊ずつ、天皇家ではなく蘇我家にだけにあったなんてことがあるだろうか。都合の悪いことが書かれていたから、全部燃やしてしまったと考える方が自然だ。
 2005年に蘇我入鹿の邸宅跡が発見されたというニュースがあった。あるいはと期待した人も多かっただろうけど、今のところ世紀の大発見があったという続報はない。

飛鳥2-8

 どこに行っても、いい廃屋があれば撮る。これもなかなかのものだった。

飛鳥2-9

 石舞台古墳から北上して、岡寺を目指した。
 途中にあった坂乃茶屋は、年末休みに入っていたようで、やっていなかった。

飛鳥2-10

 岡寺も、前まで行って中には入らなかった。
 創建はかなり古く、日本最初の厄除け寺だそうだ。
 見えている仁王門は、1612年再建のもので、重文指定になっている。

飛鳥2-11

 岡寺の前に治田神社というのがあったので、ちょっと寄ってみた。
 治田氏の祖神を祀る古い神社で、式内社だそうだ。
 もともとは別の場所にあったものが、ここに移されたという。なんとなく敷地の隅っこの方に間借りしているみたいに建っている。

飛鳥2-12

 二宮金次郎像かと思ったけど、なんとなく髪型が違うような気がする。

飛鳥2-13

 岡寺から出たあと、道に迷ってしばらくさまよった。人に尋ねようにも、誰も歩いちゃいない。気がつくと、田んぼのあぜ道に立っていた。一体ここはどこでしょう?
 あちこち行ったり来たりしていたら、天理教のところに出た。次の目的地は、板葺宮跡だった。
 つづく。

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飛鳥の地に立つ <第一回>

奈良(Nara)
飛鳥1-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4



 飛鳥を見たくて、年末に旅をしてきた。
 12月の冷たい雨が降る中、歩き歩いた6時間半。飛鳥の地に立ち、空気に触れ、息吹を感じて、私の目に映る飛鳥を写してきた。
 ずっと行きたいと思っていてなかなか行けず、ようやく行くことができた。自分にとって特別な場所は、しかるべき時期が来ないと呼んでもらえないらしい。こちらの片思いだけでは、その場所と同調することができない。今回行けたのは、その時期が来たからだと思う。
 たとえば田植えが終わった初夏、あるいは実りの秋に訪れていたら、飛鳥は美しい場所として記憶されただろう。けど、私の見た飛鳥は、12月の雨に打たれる枯れた田んぼの風景だった。あるのはかつての都の残像だけで、そこに繁栄の面影を見いだすのは難しかった。
 飛鳥は、京都や奈良、鎌倉といった古都とはまるで違う趣をしている。あるのは飛鳥時代の名残と、現代の暮らしだけで、その中間がぽっかり抜け落ちている。昭和や江戸はもちろん、平安や奈良の時代さえもそこにはない。古い寺社はあっても、不思議と時間の連続性みたいなものが希薄に感じられる。
 撮ってきた写真をあらためて見ると、飛鳥の魅力をあまり伝えられないような気がして、少し不安な気持ちになる。季節柄ということを別にしても、華やかさといったものに欠ける土地ではある。
 それでも人々が飛鳥へと向かうのは、やはり何か惹きつける魅力があるからだろう。行けば分かる、行かなければ分からないというのは、行ってきた人間としては無責任な言いぐさになってしまうのだけど。
 奈良といえば大仏と鹿だけじゃない。奈良には飛鳥がある。飛鳥こそが日本という国の始まりの場所であり、古代と近代との架け橋になった時代の舞台だ。
 今日から何回かに分けて飛鳥の旅を紹介することにしたい。
 今回の目的は、あくまでも飛鳥の空気を写すことだったので、遺跡や寺巡りは軽くなぞっただけだった。できるだけたくさんの距離を歩いて、飛鳥という土地のスケール感を掴みたかったというのもあった。
 晴れていたらレンタサイクルの方が距離を稼げてよかっただろうけど、この日は午後から雨の予報で、実際、6時間半のうち4時間が雨降りだったから、自転車を避けたのは正解だった。歩きでしか見えない風景や感じられないこともある。雨に濡れる飛鳥の風景を撮るというのも、おそらくこれが最初で最後だろう。
 前置きが長くなった。そろそろ飛鳥を巡る旅に出よう。

飛鳥1-2

 飛鳥盆地は奈良市内よりも冬の気温は低いだろうに、早くも菜の花が少し咲き始めていた。
 ところで飛鳥という地名はどこかというと、そういうところはあるようでない。明日香村はあっても飛鳥村はない。このへんはちょっとややこしいので説明が必要かもしれない。
 飛鳥という言葉が昔からあったことは確かなようで、万葉集にもいくつか歌が載っている。いずれも、飛鳥を「とぶとり」と読ませ、明日香の枕詞として使っている。たとえば、「飛鳥(とぶとり)の 明日香の里を置きて去(い)なば君が辺は見えずかもあらむ」などがそうだ。
 飛鳥という言葉の語源はよく分かっていない。明日香が先にあって、あとから飛鳥と当てたのかもしれない。
 地名としての飛鳥ということでは、飛鳥盆地や飛鳥川などが今でも使われている。明日香村が合併で誕生したのが1956年で、それまでは飛鳥村が存在していた。
 大阪にも飛鳥という地名があり、奈良を大和飛鳥(遠つ飛鳥)、大阪を河内飛鳥(近つ飛鳥)と呼んで区別している。遠い近いというのは、難波宮があったところから見てということだ。
 現在、一般的に飛鳥といえば、奈良の明日香村を中心としたあたりを指すことが多い。飛鳥時代に都があった場所で、年代でいうと推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位した592年から、持統天皇が藤原京へ移転した694年までの約100年間を指す。現在までに発見された遺跡なども、その時代のものが中心となっている。
 古代においてこの土地がどうして都になったかというと、単純に言えば、有力者がこの地に集まっていたからだ。朝鮮半島や大陸からの渡来人が住み着いた場所でもあり、そういう人たちが新しい文化や技術などを持ち込んだことも大きかった。それに加えて、ちょうど仏教が入ってきた時期でもあり、寺院がたくさん建てられて、政治や文化の中心地となっていった。

飛鳥1-3

 冬枯れの木々と冬の空。着いた午前中はまだ青空も見えていた。

飛鳥1-4

 枯れヒマワリの姿。
 春や夏に訪れていたら、飛鳥の印象はずいぶん違ったものになっただろう。

飛鳥1-5

 駅から歩いて最初に訪れたのは、高松塚古墳があるエリアだった。
 一帯は公園のようになっていて、文武天皇や中尾山古墳も隣接している。

飛鳥1-6

 高松塚古墳? こんな姿だっけ? 写真で見たのとはだいぶ違う。はげ山というのか、盛り土というのか、最近できたばっかりみたいだ。
 なんでも、2009年に外観の復元工事を行って、元の姿に戻したんだそうだ。今は冬で芝が枯れていて、春になれば緑色に戻るのかもしれない。

飛鳥1-7

 高松塚古墳というと、教科書にも載っていた女子群像を覚えている人も多いと思う。あれだけではなく、男子の像や四神、天井には月や星なども描かれている。
 発掘調査によって見つかったのは、1972年のことで、当時は大変な話題になった。
 現在はカビが生えたり、絵が消えかけたりで、保存復元作業が行われていて、本来の様子のまま近くで見ることはできない。隣の壁画館で復元されたものなどが見られるようだ。
 古墳自体は直径23メートルと、小振りなものだ。高さ5メートルで、二段の円墳になっている。
 古墳時代末期の7世紀終わりから8世紀初期にかけてのもので、被葬者は分かっていない。四神や星座など中国思想が色濃いことから渡来人の王族の墓などという説もあるようだけど、素直に考えれば天武天皇の皇子のうちの誰か、たとえば弓削皇子あたりだろうか。あるいは、石上麻呂と言われればそのような気もする。
 鎌倉時代に盗掘にあっており、発掘調査が行われたときはすでに副葬品の多くは持ち去られて残っていなかったらしい。

飛鳥1-8

 飛鳥の今は、山々に囲まれた田園風景で、民家があちこちに散在している。地図で見ると遺跡だらけという感じだけど、その地に立ってみると、普通の田舎風景とあまり変わらない。住宅地の中に入っていってしまうと、遺跡なんてどこにあるんだと思うほどだ。

飛鳥1-9

 道沿いから少し入ったところに、こんもりとした小山があった。なにやら古墳っぽいけど、案内標識のたぐいがない。手持ちのイラストマップでは天武天皇・持統天皇陵っぽい。でも、違うような気がする。
 釈然としないまま先へ進んでしまったら、やはり天武・持統陵だった。ちゃんと寄ればよかった。
 飛鳥はあまり案内が親切とはいえないので、しっかりした散策マップを持参していった方がよさそうだ。駅に置いてあったものはイラストマップは今ひとつ分かりづらかった。地形が入り組んでいるというのも分かりづらい理由だ。
 この古墳は鎌倉時代に盗掘された記録が残っており、両天皇の墓ということがはっきりしている。実は天皇の墓と分かっている古墳はほとんどない。大部分は推定にすぎない。
 盗掘されたときに副葬品はほとんど奪い去られ、骨は近くに捨てられてしまったという。
 オリジナルの姿は、5段の八角形をしていたそうだ。現在は直径58メートルの円墳状になっている。

飛鳥1-10

 だんだん雲行きが怪しくなってきた。電線に止まる雀たちも落ち着きがないように見えた。

飛鳥1-11

 次にやって来たのが、鬼の俎(まないた)と呼ばれる石のところだった。
 飛鳥には不思議な巨石がたくさんある。当時は大きな石に対する信仰のようなものがあったのだろうか。
 鬼がこの石の上で料理をしたという伝説から名付けられたそうだ。
 この時代すでに、花崗岩をかなり精巧に加工する技術を持っていた。
 道を隔てたところに、鬼の雪隠(せっちん)という石もある。元々は古墳の石室で、俎が底石、雪隠が蓋石だったものが、分離して散らばってしまったというのが定説のようだ。扉石は見つかっていない。

飛鳥1-12

 こちらが鬼の雪隠だ。鬼のトイレにしては大きさが中途半端だし、形もそれっぽくはない。
 それにしても何故、これほど大きくて重いものが25メートル以上も離れた場所に離れて転がっているのかという謎は残る。
 鬼の俎は小さく割って流用しようした跡が残っている。

飛鳥1-13

 亀石と呼ばれる巨石だけど、亀に見えるだろうか。
 自然石ではなく、加工されてこんな形をしているそうだ。いつ、何の目的で作られたのかは分かっていない。割られてこうなったのか、本来この大きさだったのか。

飛鳥1-14

 完全に廃屋だと思ったら、まだ営業している酒造店だった。
 明日香の酒とかなんとかがあったような気がする。

 ここから雨が降り始めた。旅はまだ続く。

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