
PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4
朝5時、東京駅八重洲口。さすがにこの時間だと人も車も少ない。しかし東京、すでに街は眠りから覚めて活動を始めている。5時前から電車も動いている。
早朝の東京というのは、散歩をするにいい。名古屋あたりで朝の5時に犬も連れずに歩いていると不審者と思われないかとちょっと心配になったりするものだけど、東京ならその点は安心だ。何時でも人は歩いているし、朝の5時から開いてる店もある。それにこっちは観光客という気楽さがある。街で写真を撮っていても人目が気にならない。
今日は昨日の続きというのか、順序が逆になったけど、東京から早稲田界隈にかけての紹介をしたい。穴八幡宮がメインではあったものの、早稲田を歩くこともちょっと楽しみだった。
早稲田へ行くにはとりあえず地下鉄東西線に乗らなくてはいけないということで、東京駅の北にある大手町駅まで歩いていった。これが案外遠い。一駅分くらいはある。八重洲口から外を通って大回りしたのでよけいに遠かった。永代通りの入り口は、朝早くてまだ開いてなかったのだ。この日は日光行きだったから、朝っぱらからあまり歩きたくなかったのに。

これは呉服橋交差点だったか。
東京駅は江戸城の門前ということで、当然ではあるけど江戸にまつわる地名がたくさん残っている。丸の内、大手町、半蔵門、桜田門などは江戸城に関係する言葉だし、千代田区というのも将軍の幼名が竹千代だったところから来ている。八重洲口は家康の外交顧問だったヤン=ヨーステンの屋敷がなまったものだし、有楽町は織田信長の弟の茶人・有楽斎の屋敷があったところということで名づけられた地名だ。
江戸時代の地図と現代の東京の地図を重ね合わせて比べることができる地図が売っている。あれを買って東京の街を歩いてみるのも楽しそうだ。

あ、日本ビルヂングだ。名古屋駅前にも有名な大名古屋ビルヂングというのがある。昔はビルヂングの方が正式な表記だったはずだから、当時の人たちにとってみれば何の違和感もなかったのだろう。今はヂという表記はほとんどしないから、なんとなくおかしい。
エジソンだって、昔はエヂソンだったかも。

東西線の大手町駅に到着。すでにちょっと疲れた。いつもならまだ寝てないような時間にフラフラと歩いていたら、そりゃあ疲れるというものだ。
しかし、すでにホームには先客がぱらぱらいて、電車もそれなりに人が乗っている。恐るべし、東京。みんな退屈そうな顔をしてるのだけど、日曜日の朝5時に地下鉄に乗ってみんなどこへ行こうというのだろう。東京というところは、みんな忙しそうでありながら、実は暇そうな人もたくさんいる。間違いなく東京は暇人が一番多い街だ。

今回楽しみにしていた早稲田大学の戸山キャンパスは入ることができなかった。朝早すぎて、まだ門が開いてなかった。戸山キャンパスは一般人も出入り自由で、中を散策できると聞いていたのだけど、考えてみると夜中まで開放するのは物騒すぎる。寝泊まりするにはこんないいところはない。
またいつか出直して、キャンパス散策をしよう。

箱根山通りというのは、この先を行った戸山公園の中に箱根山というのがあることに由来している。
鎌倉時代、このあたりは和田村と外山村の境で、和田外山と呼ばれていたそうだ。江戸時代になって尾張徳川藩の下屋敷が建てられ、2代藩主徳川光友が趣味でミニチュア版の箱根山を作った。広大な日本庭園を東海道五十三次に見立てて、箱根山だけでなく小田原宿なども作って、東海道ごっこをして遊んでいた。いや、本人は大まじめだったかもしれないけど。
光友という人はなかなか立派な殿様で、地元尾張にもたくさんの功績を残している。江戸で東海道遊びをしていたというのはちょっとイメージにギャップがある。そういう趣味人という印象はあまりない。
戸山荘と呼ばれた回遊式築山泉水庭園は、11代将軍家斉も訪問するなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園だったと言われている。火事や災害で荒れ果てて、江戸時代中期以降は復興されなかったようだ。尾張藩もお金がなくなって、そんな余裕もなかった。
明治になって戸山山荘は明治政府に明け渡され、陸軍戸山学校が建てられた。戦後はそれらの軍事施設は撤廃され、跡地に戸山ハイツが建設され、一部は公園として整備されて、現在に至っている。
戸山公園にある箱根山は、山手線の内側で一番標高が高い場所として知られている。標高44.6メートル。23区内の最高地点は、練馬区にある石神井高校の標高54メートルだそうだ。
ついでに地名のことを書いてしまうと、このあたりの高田馬場というのは、江戸時代に馬術や弓の練習場としての馬場があったところから来ている。
高田は、越後小将松平中輝の母が高田君という名前で、その庭園として開かれたことで地名となった。
高田馬場は今の西早稲田三丁目あたりで、説明板などが立っているようだ。広重の「名所江戸百景」にも描かれた。そのあたりにはかつて茶屋や植木屋が多かったという。
高田馬場といえば、講談の「堀部安兵衛の仇討ち」の場所として思い出す人もいるだろう。
ついでに便乗してしまうと、早稲田駅を出てすぐ左に折れた道は夏目坂という名前がついている。これは夏目漱石の父親である直克が名付け親という話だ。漱石ははこの地で生まれて、この地で死んでいる。
生誕地には石碑が建っているし、死ぬときに住んでいた家の跡地は漱石公園になっている。
小説家になって、『吾輩は猫である』などを書いていたときに住んでいた文京区の家は、犬山の明治村に移築展示されている。以前にこのブログでも紹介した。
今回は時間がなくて漱石関連のところは回れなかったのだけど、去年雑司ヶ谷へお墓参りには行った。

通り沿いは、学生街といった雰囲気が出ている。下宿の建物と自転車やバイク。名古屋の学生街は駐車場もつきものだけど、東京ではなかなかそうはいかない。

長く続く赤レンガの塀は、学習院女子大学の建物だ。
学習院大学は、目白駅の横にあって、よく見ている。学習院と学習院女子大との関係はよく知らない。こちらの方が皇室関係の人たちが通う女子大というイメージが強いかもしれない。
1847年に仁孝天皇が作った学習所の女子教科が起源だそうで、一時は宮内省管轄下の官立学校だった時期もあるようだ。
最近になって短期大学が廃止されて、大学院の一部の学科では男女共学になったらしい。

学習院女子大の門は早くも開いていた。ただし、守衛さんが目を光らせていて、観光客がフラッと入っていけるような感じはない。
写真を一枚撮ってすぐに立ち去った。あまり長居してると呼び止められそうだ。

学習院女子大学の正門は、西の明治通り沿いにある。ここには旧学習院の正門が移されている。
明治10年(1877年)に千代田区神田錦町に建てられたもので、明治19年の火事で校舎が燃えて、昭和3年(1928年)に目白の本院に戻ったあと、昭和24年(1949年)に現在地に移築された。国の重要文化財に指定されている。
写真で見たらもっと渋い感じだったのに、最近塗り直したようだ。えらく派手な門になっていた。

東京メトロ副都心線の西早稲田駅に到着した。歩道に面してエレベーターが設置されている。これはちょっと新鮮だった。階段はこの奥にあったのだろうか。見あたらなかったので、エレベーターを使うことにした。副都心線はけっこう深いところを走っているから、エスカレーターや階段で降りると時間がかかりそうだ。

エレベーターで降りて、更にエスカレーターで降りると、ようやくホームに着く。
雑司ヶ谷駅と西早稲田駅の区間は、神田川と東西線の下を通るため、副都心線でもっとも深い位置となっているのだそうだ。
6月14日開業で、行ったのは7月20日だったから、まだできたてのピカピカだった。ちょっと嬉しい。
副都心線は東京13号線で、これをもって東京の地下鉄建設は終了ということになっている。遠い将来にまた新しい線が作られることはあるのだろうけど、今のところ14号線以降の構想はないとのことだ。だから、できたばかりの地下鉄に乗るというのは、なかなか貴重な体験だった。
2012年には渋谷駅から東急東横線との相互乗り入れが始まる。そうなると、横浜方面へのアクセスがもっと便利になる。
もう一方の始発駅である埼玉県和光市には何があるんだろう。

ホームはかなり狭い。壁が曲線でドーム状に近い形になっていることもあってか、圧迫感がある。混雑時はかなり狭苦しそうだ。
線路に入れないようにするこのドアシステムは近代的でいい。事故防止のためにも、これは他でも採用していいと思う。
ホームのデザイン全般は、21世紀という感じがした。名古屋の東山線とは大違い。

ベンチちっちゃ!
ホームが狭いということもあって、ものすごくコンパクトにまとめてきた。これでは座るというより浅く腰掛けることができるだけだ。数も少ないし、争奪戦となると厳しい。

副都心線のシンボルカラーは茶色だから、茶色の車両が見られるかと期待していたら、青いのが来た。これは西武が乗り入れている6000系というやつのようだ。新しい東京メトロ10000系というのを見たかった。
次の電車を待つほどの余裕はなかったので、これに乗って池袋まで行った。この先は日光編へとつながり、その話はもう書き終わった。私の早稲田散策紹介も、ここで終わりとなる。
今回は水稲荷神社にも行けなかったし、戸山キャンパスも入ることができなかった。戸山公園も行ってないし、箱根山も登っていない。漱石ゆかりの地散策や、他にもやり残したことがある。早稲田はまた行こう。