カテゴリ:東京(Tokyo)

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  • フジコン表彰式のため東京へ行く

    OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 春分の日の昨日、東京で行われた富士フイルムフォトコンテストの表彰式に出席してきた。 泊まりも考えたのだけど、今東京で撮りたいものが思い浮かばず、今回は日帰りにした。 会場は六本木にある東京ミッドタウン、フジフイルムスクエアだった。 久々の東京ということで、東京の空気を体に馴染ませるために、東京駅から東京メトロの銀座駅まで歩くことにした。 表の丸の内口だけで...

    2014/03/22

    東京(Tokyo)

  • 早稲田から西早稲田まで歩いて早稲田を少しだけ語る

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 朝5時、東京駅八重洲口。さすがにこの時間だと人も車も少ない。しかし東京、すでに街は眠りから覚めて活動を始めている。5時前から電車も動いている。 早朝の東京というのは、散歩をするにいい。名古屋あたりで朝の5時に犬も連れずに歩いていると不審者と思われないかとちょっと心配になったりするものだけど、東京ならその点は安心だ。何時でも人は歩いているし、朝の5時から開いてる店...

    2008/09/28

    東京(Tokyo)

  • 去年ついでに寄った平塚神社と長崎神社と2つで合わせ技一本

    PENTAX istDS+PENTAX 18-55mm f3.5-5.6 これまで東京の有名な神社についていくつか紹介してきた。有名どころはかなり行き尽くした感がある。けれど、よくよく調べてみると、東京十社にしても、別表神社にしても、ポツリ、ポツリと抜けているところがあって、まだまだコンプリートには遠い状態だ。これから巡る予定の神社をざっと書き出してみると、軽く20を超える。マニアックなところでは、平将門の首や手足や胴体、兜、鎧などを...

    2008/05/29

    東京(Tokyo)

  • 早朝5時半から7時半までの東京の街を歩く -激闘・河口湖前哨戦

    PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4 激闘・河口湖編は、早朝の5時半、東京駅前から始まった。 5時半といえども当たり前のように電車が動いている東京だから、交通手段には困らない。ただ、この時間から行ける場所というとさすがに限られている。店は別にして、施設は開いてないし、お寺だってまだ閉まっている。開いているところといえば、神社くらいのものだ。 まず向かったのは人形町。特に何があるというわけではないけ...

    2008/05/13

    東京(Tokyo)

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フジコン表彰式のため東京へ行く

東京(Tokyo)
東京-1

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 春分の日の昨日、東京で行われた富士フイルムフォトコンテストの表彰式に出席してきた。
 泊まりも考えたのだけど、今東京で撮りたいものが思い浮かばず、今回は日帰りにした。
 会場は六本木にある東京ミッドタウン、フジフイルムスクエアだった。
 久々の東京ということで、東京の空気を体に馴染ませるために、東京駅から東京メトロの銀座駅まで歩くことにした。
 表の丸の内口だけでなく八重洲口の方も工事がほぼ終わってずいぶん印象が変わっていた。
 銀座周辺は以前にも一度歩いたことがある。ただ、この日は歩行者天国になっていて、少し驚いた。写真は銀座一丁目交差点だ。
 日比谷線で銀座駅から六本木駅まで10分足らず。東京駅と六本木がこんなに近かったかなと思った。
 自転車で名古屋市内を巡っている私としては、自宅と名古屋駅間の感覚でいえば、東京駅を起点として、西は高円寺、中野、北は上板橋、赤羽、亀有、東は小岩、浦安、ディズニーシー、南は大森、世田谷、駒沢公園あたりまでが日常的な行動範囲ということになる。そう考えると東京は狭い。




東京-2

 東京ミッドタウンも二度目だった。
 特に変わっている様子はなかったけど、相変わらずおしゃれできれいなままで、ちっとも古びた感じがしないのはさすがだと思った。




東京-3

 フジコン大賞は賞金100万円。写真一枚で100万円というのは、やっぱり夢がある。
 今年も応募総数は3万点を超えたそうだ。
 特にネイチャー部門の上位はレベルが高いと感じる。受賞者もベテランさんが多かった。




東京-4

 自由部門の審査をした小林紀晴さん。
 真面目にしていてもどこかとぼけていて、私は見ていると笑えてくるのだった。
 写真の殿堂、もっと選んでくれーとか思いながら、挨拶を聞いていた。




東京-5

 この日一番の目的は、フォトブック部門担当のテラウチマサトさんに接近遭遇することだった。その目的がなかったら表彰式は欠席していたかもしれない。
 実際に会って、話をさせてもらって、写真まで撮らせてもらえたらもうそれだけで充分満足だった。
 作品、面白かったと言ってもらえて、これで来たかいがあったと思った。
 また来年の再会を願いたい。




東京-6

 東京なんて田舎者の集まりといえばそうなのだけど、子供は違う。東京生まれの子供は、名古屋あたりと比べてもやっぱりどこか洗練されている感じがする。
 名古屋駅と東京駅を歩いている人たちを比べてもそうで、名古屋を出て東京へ行って、帰ってきて名古屋の人を見ると、なんだかがっかりするような安心するような感覚がある。




東京-7

 時間があれば近くの国立新美術館に行きたいと思っていたのだけど、時間不足で断念した。
 あと、東京写真美術館は行っておきたかったという気持ちもある。




東京-8





東京-9

 工事が終わった東京駅の駅舎。
 ここも東京へ行っている間ずっと工事中だった。
 スカイツリーは全然見えず。最初から見にいくつもりはなかった。




東京-10





東京-11





東京-12





東京-13

 東京タワーはやっぱりいいなとあらためて思った。
 どこか情緒のようなものがある。
 どうして名古屋のテレビ塔にはそれがないのか。




東京-14

 観光らしい観光のない東京行きはこうして無事終わった。またそのうち行く機会もあるだろう。
 今年のフジコンは、またフォトブックで応募するつもりでいる。「続・名もなき風景の声を聞け」の概要はもうできあがっている。去年より上を目指すとなると、あとはもう部門の大賞しか残っていない。

早稲田から西早稲田まで歩いて早稲田を少しだけ語る

東京(Tokyo)
早稲田界隈-1

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 朝5時、東京駅八重洲口。さすがにこの時間だと人も車も少ない。しかし東京、すでに街は眠りから覚めて活動を始めている。5時前から電車も動いている。
 早朝の東京というのは、散歩をするにいい。名古屋あたりで朝の5時に犬も連れずに歩いていると不審者と思われないかとちょっと心配になったりするものだけど、東京ならその点は安心だ。何時でも人は歩いているし、朝の5時から開いてる店もある。それにこっちは観光客という気楽さがある。街で写真を撮っていても人目が気にならない。
 今日は昨日の続きというのか、順序が逆になったけど、東京から早稲田界隈にかけての紹介をしたい。穴八幡宮がメインではあったものの、早稲田を歩くこともちょっと楽しみだった。
 早稲田へ行くにはとりあえず地下鉄東西線に乗らなくてはいけないということで、東京駅の北にある大手町駅まで歩いていった。これが案外遠い。一駅分くらいはある。八重洲口から外を通って大回りしたのでよけいに遠かった。永代通りの入り口は、朝早くてまだ開いてなかったのだ。この日は日光行きだったから、朝っぱらからあまり歩きたくなかったのに。

早稲田界隈-2

 これは呉服橋交差点だったか。
 東京駅は江戸城の門前ということで、当然ではあるけど江戸にまつわる地名がたくさん残っている。丸の内、大手町、半蔵門、桜田門などは江戸城に関係する言葉だし、千代田区というのも将軍の幼名が竹千代だったところから来ている。八重洲口は家康の外交顧問だったヤン=ヨーステンの屋敷がなまったものだし、有楽町は織田信長の弟の茶人・有楽斎の屋敷があったところということで名づけられた地名だ。
 江戸時代の地図と現代の東京の地図を重ね合わせて比べることができる地図が売っている。あれを買って東京の街を歩いてみるのも楽しそうだ。

早稲田界隈-3

 あ、日本ビルヂングだ。名古屋駅前にも有名な大名古屋ビルヂングというのがある。昔はビルヂングの方が正式な表記だったはずだから、当時の人たちにとってみれば何の違和感もなかったのだろう。今はヂという表記はほとんどしないから、なんとなくおかしい。
 エジソンだって、昔はエヂソンだったかも。

早稲田界隈-4

 東西線の大手町駅に到着。すでにちょっと疲れた。いつもならまだ寝てないような時間にフラフラと歩いていたら、そりゃあ疲れるというものだ。
 しかし、すでにホームには先客がぱらぱらいて、電車もそれなりに人が乗っている。恐るべし、東京。みんな退屈そうな顔をしてるのだけど、日曜日の朝5時に地下鉄に乗ってみんなどこへ行こうというのだろう。東京というところは、みんな忙しそうでありながら、実は暇そうな人もたくさんいる。間違いなく東京は暇人が一番多い街だ。

早稲田界隈-5

 今回楽しみにしていた早稲田大学の戸山キャンパスは入ることができなかった。朝早すぎて、まだ門が開いてなかった。戸山キャンパスは一般人も出入り自由で、中を散策できると聞いていたのだけど、考えてみると夜中まで開放するのは物騒すぎる。寝泊まりするにはこんないいところはない。
 またいつか出直して、キャンパス散策をしよう。

早稲田界隈-6

 箱根山通りというのは、この先を行った戸山公園の中に箱根山というのがあることに由来している。
 鎌倉時代、このあたりは和田村と外山村の境で、和田外山と呼ばれていたそうだ。江戸時代になって尾張徳川藩の下屋敷が建てられ、2代藩主徳川光友が趣味でミニチュア版の箱根山を作った。広大な日本庭園を東海道五十三次に見立てて、箱根山だけでなく小田原宿なども作って、東海道ごっこをして遊んでいた。いや、本人は大まじめだったかもしれないけど。
 光友という人はなかなか立派な殿様で、地元尾張にもたくさんの功績を残している。江戸で東海道遊びをしていたというのはちょっとイメージにギャップがある。そういう趣味人という印象はあまりない。
 戸山荘と呼ばれた回遊式築山泉水庭園は、11代将軍家斉も訪問するなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園だったと言われている。火事や災害で荒れ果てて、江戸時代中期以降は復興されなかったようだ。尾張藩もお金がなくなって、そんな余裕もなかった。
 明治になって戸山山荘は明治政府に明け渡され、陸軍戸山学校が建てられた。戦後はそれらの軍事施設は撤廃され、跡地に戸山ハイツが建設され、一部は公園として整備されて、現在に至っている。
 戸山公園にある箱根山は、山手線の内側で一番標高が高い場所として知られている。標高44.6メートル。23区内の最高地点は、練馬区にある石神井高校の標高54メートルだそうだ。

 ついでに地名のことを書いてしまうと、このあたりの高田馬場というのは、江戸時代に馬術や弓の練習場としての馬場があったところから来ている。
 高田は、越後小将松平中輝の母が高田君という名前で、その庭園として開かれたことで地名となった。
 高田馬場は今の西早稲田三丁目あたりで、説明板などが立っているようだ。広重の「名所江戸百景」にも描かれた。そのあたりにはかつて茶屋や植木屋が多かったという。
 高田馬場といえば、講談の「堀部安兵衛の仇討ち」の場所として思い出す人もいるだろう。
 ついでに便乗してしまうと、早稲田駅を出てすぐ左に折れた道は夏目坂という名前がついている。これは夏目漱石の父親である直克が名付け親という話だ。漱石ははこの地で生まれて、この地で死んでいる。
 生誕地には石碑が建っているし、死ぬときに住んでいた家の跡地は漱石公園になっている。
 小説家になって、『吾輩は猫である』などを書いていたときに住んでいた文京区の家は、犬山の明治村に移築展示されている。以前にこのブログでも紹介した。
 今回は時間がなくて漱石関連のところは回れなかったのだけど、去年雑司ヶ谷へお墓参りには行った。

早稲田界隈-7

 通り沿いは、学生街といった雰囲気が出ている。下宿の建物と自転車やバイク。名古屋の学生街は駐車場もつきものだけど、東京ではなかなかそうはいかない。

早稲田界隈-8

 長く続く赤レンガの塀は、学習院女子大学の建物だ。
 学習院大学は、目白駅の横にあって、よく見ている。学習院と学習院女子大との関係はよく知らない。こちらの方が皇室関係の人たちが通う女子大というイメージが強いかもしれない。
 1847年に仁孝天皇が作った学習所の女子教科が起源だそうで、一時は宮内省管轄下の官立学校だった時期もあるようだ。
 最近になって短期大学が廃止されて、大学院の一部の学科では男女共学になったらしい。

早稲田界隈-9

 学習院女子大の門は早くも開いていた。ただし、守衛さんが目を光らせていて、観光客がフラッと入っていけるような感じはない。
 写真を一枚撮ってすぐに立ち去った。あまり長居してると呼び止められそうだ。

早稲田界隈-15

 学習院女子大学の正門は、西の明治通り沿いにある。ここには旧学習院の正門が移されている。
 明治10年(1877年)に千代田区神田錦町に建てられたもので、明治19年の火事で校舎が燃えて、昭和3年(1928年)に目白の本院に戻ったあと、昭和24年(1949年)に現在地に移築された。国の重要文化財に指定されている。
 写真で見たらもっと渋い感じだったのに、最近塗り直したようだ。えらく派手な門になっていた。

早稲田界隈-10

 東京メトロ副都心線の西早稲田駅に到着した。歩道に面してエレベーターが設置されている。これはちょっと新鮮だった。階段はこの奥にあったのだろうか。見あたらなかったので、エレベーターを使うことにした。副都心線はけっこう深いところを走っているから、エスカレーターや階段で降りると時間がかかりそうだ。

早稲田界隈-11

 エレベーターで降りて、更にエスカレーターで降りると、ようやくホームに着く。
 雑司ヶ谷駅と西早稲田駅の区間は、神田川と東西線の下を通るため、副都心線でもっとも深い位置となっているのだそうだ。
 6月14日開業で、行ったのは7月20日だったから、まだできたてのピカピカだった。ちょっと嬉しい。
 副都心線は東京13号線で、これをもって東京の地下鉄建設は終了ということになっている。遠い将来にまた新しい線が作られることはあるのだろうけど、今のところ14号線以降の構想はないとのことだ。だから、できたばかりの地下鉄に乗るというのは、なかなか貴重な体験だった。
 2012年には渋谷駅から東急東横線との相互乗り入れが始まる。そうなると、横浜方面へのアクセスがもっと便利になる。
 もう一方の始発駅である埼玉県和光市には何があるんだろう。

早稲田界隈-12

 ホームはかなり狭い。壁が曲線でドーム状に近い形になっていることもあってか、圧迫感がある。混雑時はかなり狭苦しそうだ。
 線路に入れないようにするこのドアシステムは近代的でいい。事故防止のためにも、これは他でも採用していいと思う。
 ホームのデザイン全般は、21世紀という感じがした。名古屋の東山線とは大違い。

早稲田界隈-13

 ベンチちっちゃ!
 ホームが狭いということもあって、ものすごくコンパクトにまとめてきた。これでは座るというより浅く腰掛けることができるだけだ。数も少ないし、争奪戦となると厳しい。

早稲田界隈-14

 副都心線のシンボルカラーは茶色だから、茶色の車両が見られるかと期待していたら、青いのが来た。これは西武が乗り入れている6000系というやつのようだ。新しい東京メトロ10000系というのを見たかった。
 次の電車を待つほどの余裕はなかったので、これに乗って池袋まで行った。この先は日光編へとつながり、その話はもう書き終わった。私の早稲田散策紹介も、ここで終わりとなる。
 今回は水稲荷神社にも行けなかったし、戸山キャンパスも入ることができなかった。戸山公園も行ってないし、箱根山も登っていない。漱石ゆかりの地散策や、他にもやり残したことがある。早稲田はまた行こう。

去年ついでに寄った平塚神社と長崎神社と2つで合わせ技一本

東京(Tokyo)
平塚神社-1

PENTAX istDS+PENTAX 18-55mm f3.5-5.6



 これまで東京の有名な神社についていくつか紹介してきた。有名どころはかなり行き尽くした感がある。けれど、よくよく調べてみると、東京十社にしても、別表神社にしても、ポツリ、ポツリと抜けているところがあって、まだまだコンプリートには遠い状態だ。これから巡る予定の神社をざっと書き出してみると、軽く20を超える。マニアックなところでは、平将門の首や手足や胴体、兜、鎧などを御神体にしている神社巡りなんてのもある。なので、神社シリーズもまだネタ切れというわけではない。
 そんな中、今日は別の目的地へ行く途中、ついでに寄った神社を二つ紹介したいと思う。特に有名というわけではないけど、何かの縁で行くことになる神社というのがある。通りから少し奥に入ったところでも行こうかと思うこともあるし、目の前を通りながら中まで入らないこともある。波長というのか、縁というのか、たまたまなのかは分からないけど。
 こういう神社紹介を、東京マイナー神社シリーズと名づけよう。そこはマイナーじゃない、自分はよく知ってるぞという人もいるだろうけど、東京へ観光に行った地方の人間が行かないような神社という意味でマイナーとさせていただきたい。そもそも観光のために東京へ行って好きこのんで神社に行く人もそんなにたくさんはいないろうというツッコミはさらりとかわして、話を先へ進めることにしよう。

 一般的にはほとんど知られていないと思われる北区平塚という町も、内田康夫の浅見光彦シリーズのファンにとっては馴染みのある場所だ。浅見家があるのがこの町で、光彦のおふくろさんが好物の団子を売っている平塚亭は、実際に平塚神社の入り口に店を構えている。JR京浜東北線上中里駅を出て、蝉坂を登っていくあたりは、作品の中で何度も登場している。
 実は、私がそのことに気づいたのは、名古屋に帰ってきてからのことだった。あの平塚神社って、浅見光彦のあの平塚神社だったんだと驚いた。全然思いもしなかった。だから、平塚亭も見ていない。なんたる不覚。
 このときは、ここから少し先にある古河庭園にバラを見に行ったのだった。ちょうど去年の今頃の時期だ。もし、知っていたら、平塚亭で団子を買って食べていただろう。惜しいことをした。もう一度あそこまで行く機会はありそうにない。

 平安時代、この地は豊島郡を治める郡衙があったところで、平安末期に秩父平氏庶流の豪族・豊島太郎近義という人間が平塚城を建てた場所だった。この時代のものだから、戦国時代のような城ではなく、城館だったのだろう。
 1062年の前九年の役(陸奥国司と豪族安倍氏との戦い)に続き、1083年に後三年の役が起こり(出羽国の豪族清原氏との戦)、それに勝利して凱旋した源義家をもてなしたのが平塚城主の豊島近義で、感銘を受けた義家は鎧と十一面観音像を贈った。
 義家が死去すると、近義はその鎧を埋めて城の鎮守とし、社に義家三兄弟(八幡太郎義家、新羅三郎義満、加茂次郎義綱)の像を祀って平塚三明神としたのが平塚神社の始まりとされている。この塚が現在も平塚神社の本殿裏に残っている(非公開)。それが平らな塚であったことが平塚の地名の由来となった。豊島区は、平塚城主の豊島氏から来ている。
 鎌倉から室町時代にかけて、平塚城は豊島氏代々の居城として続くも、泰経の時代の1476年、長尾景春の呼びかけに応じて関東管領上杉氏に反旗を翻し、弟の泰明が平塚城で挙兵。それを受けて翌年、江戸城主の太田道灌が平塚城に攻め込み、落城。1478年、兄の泰経と共に再び戦ったものの、江古田・沼袋原の戦いで破れて泰明は討ち死にしてしまう。
 以降、豊島氏は急速に没落して、平塚城は使用されないまま廃城となる。
 蝉坂というのは、太田道灌が攻め入ってきた坂、攻め坂がなまって蝉坂になったといわれている。
 時は流れて江戸時代。上中里村出身で盲人の針医・山川城官貞久が江戸に出て検校にまで出世して、家光が病気になったとき、平塚明神に祈願したところたちまち病が治ったことから、自らの資金で平塚明神の社殿を建てた。その話を聞いた家光は、平塚明神に250石の知行地を与え、それが現在の平塚神社へとつながった。

平塚神社-2

 溶岩の塊のようなところに狛犬が乗っている。獅子は我が子を千尋の谷底に落として這い上がってきた強いもののみを育てるとうシーンを再現しているのだろうか。違うかもしれない。
 これとよく似たものをどこか別のところでも見た。あれはどこだったか。横浜の伊勢山皇大神宮へ行く途中にあった神社だっただろうか。
 境内社として、豊島神社、御料稲荷、菅原神社、石室神社などがある。

平塚神社-3

 表から見たところ。右手が下っていく蝉坂で、ここから右に少し歩くと古河庭園がある。まわりは静かな住宅地だ。
 神社は鬱蒼とした木に囲まれて深閑としているようだけど、境内の半分が月極駐車場になっていて、ずっこける。なんてちゃっかりした商売上手な神社。神社の境内を月極駐車場にしていいものなんだろうか。これが許されるなら、こんないい商売ない。賽銭で小銭をちまちま集めなくてもいい。

長崎神社-1

 ところ変わって、ここは豊島区長崎町。西武池袋線の椎名駅を出ると、すぐ目の前に長崎神社という立派な神社がある。神社仏閣好きなら素通りはできない。ちょっと寄っていこうかということになるはずだ。
 ここへ行ったのはいつだったか、よく覚えていない。西武池袋線なんてめったに乗らない。去年の秋、巾着田のヒガンバナを見に行った帰りだったかもしれない。
 長崎神社というから九州の長崎に関係があるのかと思ったら、まったくなかった。鎌倉時代、執権北条氏の御内人・長崎氏の領地だったことから、長崎村になり、現在も長崎という地名が残ったのだった。江戸時代には、小田原北条氏の家臣で江戸衆の太田康資(太田道灌のひ孫)の所領だった。
 かなり古い神社のようだけど、創建年代は分かっていないらしい。もともとは、長崎村の鎮守として、櫛名田比売命(くしなだひめのみこと)を祀って村の安全と五穀豊穣を願ったのが始まりとされている。クシナダはスサノオがヤマタノオロチを退治することを請け負ったときにもらい受けた妻で、『日本書紀』では奇稲田姫という字を当てられていることから、稲田の女神とされる。
 それが江戸時代中期になると、 十羅刹女社(じゅうらせつにょしゃ)と称されるようになっていった。十羅刹女社というのは、法華経における10人の女性の鬼神のことで、鬼子母神と共に法華経の守護天使とされる神様だ。つまり、江戸時代に入って神仏混淆となっていったことを意味している。
 明治に入って神仏分離令が出されたため、明治5年に須佐之男命を合祀して氷川神社となり、明治7年に長崎神社と改称して、現在に至っている。

長崎神社-2

 ここでも岩に張りつく狛犬が出迎えてくれる。豊島区ではこのタイプの狛犬が流行っているのだろうか。平塚神社と同じ作り手によるものなのかもしれない。他の神社ではめったにこういうのは見かけないから、全国的に見ても珍しいと思うのだけど。
 参道の石段には金属製の手すりが付いている。お年寄りに優しくするのが狙いだろうか。
 ちょっとびっくりなのが、石段を登り切ったところに取り付けられたスライド式の金属門だ。閉店ガラガラ用だろうか。それにしては低すぎて、その気になれば楽々と乗り越えられてしまう。時間外は入らないでくださいという意思表示がしたいだけだろうか。

長崎神社-3

 なかなか面白い木の鳥居だ。両部鳥居と呼ばれるもので、柱の足下に補助をする木(控柱または稚児柱)が取り付けられている。一番上の笠木が反増といって両端が反り上がっているのも特徴だ。安曇野の穂高神社もそうだった。
 この鳥居は関東大震災で倒れて、今のものはその後作り直したものだそうだ。
 鳥居にかかっている神社額は、山岡鉄舟の揮毫らしい。山岡鉄舟と長崎神社の関わりはよく知らない。

長崎神社-4

 境内は静かで、なかなかいい雰囲気だった。ここはけっこう好きだ。
 本殿は1849年に建てられたものだそうで、歴史が感じられて悪くない。
 お参りを終えて、帰ろうと思って最後に振り向くと、ちびっこが駆けてきて、本殿の前で何か願い事をしていた。それがなんだかとてもいい光景だった。

 ここ長崎神社は、獅子舞がある神社として地元では知られている。豊島区で唯一の指定無形文化財だそうだ。
 獅子舞の獅子頭が奉納されたのが元禄年間というから、300年の歴史を持つ伝統の行事ということになる。現在では、豊島区で五穀を育てて生業にしてる人はほとんどいないだろうけど、厄除け神事として続いている。
 黒っぽい姿の獅子舞が印象的で、境内で舞いを演じるだけでなく、獅子舞をしながら町内も練り歩く。
 毎年5月の第二日曜日というから、今年は11日に行われたのだろう。

 江戸東京というと、徳川家康が幕府を開くまでは未開の地だったみたいなイメージがあるけど、その歴史は案外古い。ずっと昔から人は住んでいたし、歴史も重ねてきている。東京最古の寺院である浅草寺などは、大化の改新よりも前の628年までさかのぼる。
 東京は、関東大震災と第二次大戦の空襲と、二度壊滅的な打撃を受けているから、本当に古いものはあまり残ってないのだけど、それでも江戸時代を偲ばせるものはたくさんある。
 一般的な知名度は低いこの二つの神社でも、調べてみれば思いがけない歴史を持っていて興味深い。いろいろな出来事は、横にも縦にもつながっていて、いろんな人間が関わっている。
 今後とも、マイナー神社シリーズは継続させていこう。とりあえず目についた神社仏閣は入って写真を撮っておくべしだ。それがあとになって役に立つ。一ヶ所では弱くても、二つ三つと集まれば、合わせ技一本になる。
 神社だけでも、一生かけても巡りきれないくらいあるから、ネタには困らない。

早朝5時半から7時半までの東京の街を歩く -激闘・河口湖前哨戦

東京(Tokyo)
早朝東京

PENTAX K100D+TAMRON SP 17-35mm f2.8-4



 激闘・河口湖編は、早朝の5時半、東京駅前から始まった。
 5時半といえども当たり前のように電車が動いている東京だから、交通手段には困らない。ただ、この時間から行ける場所というとさすがに限られている。店は別にして、施設は開いてないし、お寺だってまだ閉まっている。開いているところといえば、神社くらいのものだ。
 まず向かったのは人形町。特に何があるというわけではないけど、かつて吉原があった町というのを一度見てみたかったのだ。時間があれば明治座や元町公園まで足を伸ばそうと考えていた。
 東京駅から人形町へは少し行きづらい。とりあえず日本橋の駅までふらふらと歩いていくことにした。そこまで行けば、都営浅草線でひと駅だ。
 さすがに朝の5時半はまだ車通りもまばらで、目的もなく歩いている人は見かけない。見かけるのはホームがレスなおじさんたちくらいだ。一人、バス停のベンチで、真っ白に燃え尽きたあしたのジョーのような格好でお兄さんが深くうなだれて座り込んでいた。大丈夫かいと思ったけど、そういうときに声をかけないのが東京のルールだろう。人にはそれぞれ事情がある。朝の5時半からカメラを持って東京の街をうろついてる私だって、客観的に見ればだいぶ変だ。

早朝東京-2

 これは昭和通りの交差点だったか、その一本手前だったか。
 東京は高層ビルとコンクリートの無機質な街というイメージがあるけど、意外に花や街路樹が多い。下手な地方都市よりもよほど緑がたくさんある。大きな公園も要所にあるし、街の至る所に人の手が入っていて、ちょっとしたスペースも無駄に放置してない。そういう点でも名古屋は完全に負けている。名古屋では中央分離帯に雑草が茂っていて、そこに捨てられた缶が落ちていたりする。

早朝東京-4

 表通りから一本入れば、路地裏とまではいかないけど、個人単位の生活が見え隠れする。このあたりの街の表情は、地方とさほど変わらない。
 けど、こういう路地にすごくマニアックな店があって、客もたいして入ってないようなのに商売が成り立っているという東京の不思議もある。天体望遠鏡や鉱石なんかを売ってる小さな専門店の「ニュートン」なんてところに一度入ってみたことがあるけど、東京駅という立地で、あの狭さと品揃えでどうやって成立してるんだろうと思ってしまった。
 近年、名古屋メシが東京でも受け入れられるようになって、名古屋の有名店がどんどん東京に進出していっている。そういう人たちに言わせると、東京で商売をするのは楽だという。何もしなくてもお客が来てくれるからと。名古屋だと美味しくて安くて評判にならないと客が入らない。一度飽きられるともう来てくれなくなる。それだけ東京には人が多いということでもあるんだろうけど、ニーズの多様さというのは底が知れない。

早朝東京-3

 うわっ、すげえ、と思わず小さくつぶやいてしまいそうになった。24時間営業の果物屋さんなんてあるんだ。考えられない。なんで、深夜や朝っぱらに果物が必要なんだ。翌朝まで待てないか?
 一晩中、人件費と光熱費を使っても採算が取れるから24時間営業なんだろうけど、それにしても誰がそんな時間に果物なんか買いに行くんだろう。通りすがりの人がちょっとスイカでも買っていくかなんてことはそうはないだろうに。
 東京というのはいろんなところで驚かせてくれる。

早朝東京-5

 30分以上かかって日本橋駅にたどり着いた。地図で見ると近いようでも、歩くとなると案外遠いものだ。
 ここから人形町までは1分なんだけど、時計を見ると6時を回っている。このあと亀戸天神へ行く予定があって、新宿駅でツレとの待ち合わせが7時45分ということを考えると、人形町なんて行ってる場合じゃないということに気づく。しまった。なんてこった。
 しばし迷って、もう一度東京駅に引き返すことにする。この往復1時間の歩きはかなり無駄だった。
 人形町も行きたかったけど、またの機会ということにしよう。

早朝東京-6

 あ、日暮里・舎人ライナー。みんなが待っていたって、待っていた人は20年以上待っていたらしいから、地元の人には悲願と言えるだろう。
 私は特に待っていなかったけど、機会があれば一度乗りに行きたいと思っている。ただ、行くといっても路線沿いに何か魅力的なところがあるわけでもなさそうで、目的地になりそうなところといえば西新井大師くらいだろうか。記念に一度、端から端まで乗ることにしよう。
 6月に開業する副都心線もちょっとだけ楽しみだ。といっても、こちらは特に目新しい駅があるというわけではなく、たとえば雑司が谷へ行ったりするときに多少便利になるといったくらいかもしれない。始発の和光市には何があるんだろう。

早朝東京-7

 6時半を回っていたけど、この日は祝日、さすがの山手線東京駅も人が少なかった。こんなに人がいない東京駅を見たのは初めてだ。
 山手線で秋葉原まで行って、そこでJR総武線に乗り換えて亀戸を目指す。

早朝東京-11

 亀戸駅前。とりたてて特徴のある駅前ではない。東京の郊外の典型的な雰囲気だ。三鷹とかそんな感じに少し似ていた。
 亀戸天神までは少し距離があって、急いで10分、ゆっくりいけば15分はかかる。

早朝東京-8

 せっかくだから、こんな狭い路地裏を通っていこう。亀戸横丁というのがここの正式名なのだろうか。
 飲食店街の朝7時前は、まだゆうべの名残のけだるさが漂っていて、さあこれから朝が始まるぞという元気な感じはない。お店の前の掃除をしているおかみさんがひとり、ふたりといるくらいで。
 この町は下町の風情が残っているところなので、そういう視点で散策してみると面白い発見がありそうだ。今回は時間がなくて、急いで亀戸天神を目指してしまったので、そこまでゆっくり見て回る余裕がなかった。

早朝東京-9

 亀戸中央通り商店街では、こいのぼり祭りをやっていた。電柱につながれた鯉のぼりが商店街の上を泳いでいる。
 このあたりも時間があれば入っていって見てみたかった。

早朝東京-10

 これまたちょっとすごい、昔ながらの洋品店だ。今どき、帽子をここまで前面に押し出して主力商品としている店もなかなかない。私が小学生だったときは、町に帽子屋さんというのがあって、それなりに流行っていたものだけど、帽子屋さんを見かけなくなって久しい。
 店内には500円のものがいっぱいあるよ、売り尽くしセールで早い者勝ちだよと呼びかけられても、気軽に入っていくことはできない。オレンジ色のカウボーイハットなんて、かぶれない。パステルブルーのベレー帽とかも厳しい。
 でも、売り尽くすまで頑張って商売を続けて欲しいと思う。こういう店がまだ残っているとホッとするから。

 このあと亀戸天神で藤を見て、河口湖へ行くことになるのだけど、そこのことはもう書いた。激闘・河口湖編は、すでに早朝の東京2時間歩きから始まっていたのだった。
 河口湖から帰ってきたあと、夜は池袋のサンシャインにあるナンジャタウンというところへ行った。そのときのことはいずれ近いうちに書きたいと思っている。
 河口湖編はその後更に、翌日早朝の名古屋駅へと舞台を移し、そこでようやく完結を迎えることとなる。あともう少しこのシリーズは続くのであった。
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