カテゴリ:神社仏閣(Shrines and temples)

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  • 愛知県一宮市の塩道神社

     デッドストック神社写真シリーズの今回は、愛知県一宮市千秋町にある塩道神社(地図)です。 2018年6月に一宮市東部の千秋町(ちあきちょう)の神社巡りをした。 私が神社へ行くときはだいたい晴れているのだけど、この日は珍しく雨だった。午前中に龍神祭に参加したので雨でも仕方がないというか当然のようにも思えた。 千秋町はかなり広いのだけど、かつての千秋村だったエリアで、明治39年(1906年)に丹羽郡の豊富村、青...

    2023/09/27

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 愛知県岩倉市の神明大一社

     愛知県岩倉市にある神名太一社(地図)。岩倉の総鎮守とされる神社だ。 読み方がいくつかあってはっきりしないのだけど、『愛知縣神社名鑑』は「神明大一社」として「しんめいたいちしゃ」とふりがなを振っているので、これが正式名なのだろう。 ”大一”は明治以降に改められたもので、もともとは”太一”だったはずだ。 社号標には神明太一宮とあるのだけど、この頃は「しんめいたいいちのみや」と呼んでいたかもしれない。 一...

    2023/09/25

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 愛知県西尾市の伊文神社再訪

     2018年4月に吉良の海を訪れたとき、帰りに西尾市の伊文神社(いぶんじんじゃ/地図)にも立ち寄った。 ここは2013年にも一度訪れていて、このときは二度目の参拝だった。 創建は平安時代というのだけど、ルーツはもっと古そうだ。 公式サイト(web)の由緒書きにはこうある。「伊文神社はおよそ1,150年前の平安文化華やかなりし頃、第五十五代文徳天皇の皇子八條院宮が、渥美郡伊川津の地より当地へ御轉住の折に、随遷し奉祀さ...

    2023/09/19

    神社仏閣(Shrines and temples)

  • 愛知県西尾市吉良の蛭子社

     デッドストック神社写真シリーズの今回は、愛知県西尾市の蛭子社(えびすしゃ/地図)です。 訪れたのは2018年4月。吉良ワイキキビーチで撮影するために出向いたときに挨拶に立ち寄った。 神社の東は恵比寿海岸で、神社がある場所は蛭子岬と呼ばれている。 この蛭子社から名づけられているのだとしたら、地名は江戸時代以降だろうか。 宮前は近くに幡豆神社があるからだ。幡豆神社はこのあたりの中心の神社で、そのうちまた紹...

    2023/09/12

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愛知県一宮市の塩道神社

神社仏閣(Shrines and temples)
塩道神社

 デッドストック神社写真シリーズの今回は、愛知県一宮市千秋町にある塩道神社(地図)です。
 2018年6月に一宮市東部の千秋町(ちあきちょう)の神社巡りをした。
 私が神社へ行くときはだいたい晴れているのだけど、この日は珍しく雨だった。午前中に龍神祭に参加したので雨でも仕方がないというか当然のようにも思えた。
 千秋町はかなり広いのだけど、かつての千秋村だったエリアで、明治39年(1906年)に丹羽郡の豊富村、青木村、浮野村、幼村の一部が合併して誕生した。江戸時代は尾張藩領だった地区でもある。
 千秋というと平安時代以降長らく熱田社の社家を務めた藤原南家の千秋家(せんしゅう)を連想する。何か関係があるかもしれない。

 塩道神社は『延喜式』神名帳(927年)に丹羽郡塩道神社として載る古社で、神仏分離以前は隣接する慈眼寺と一体化していた。
 現在の社名は「しおみち」だけど、かつては「しおじ」だったのではないかと思う。
 祭神は一応、大日霊貴神(オオヒルメノムチ)となっているものの長らく不明で、「シオジ」だから塩土老翁(シオツチノオジ)ではないかという話もある。
 このあたりは海から遠く、塩とは関係なさそうだけど、塩を運ぶ道があったことから社名になった可能性はありそうだ。

 詳しい歴史についてはいずれまた。



塩道神社拝殿と蕃塀

 晒され感の強い神社で、参道の途中で道路が横断している。



塩道神社拝殿前




塩道神社拝殿の彫り物




塩道神社拝殿内




塩道神社社殿横から




塩道神社外観

 神社横がゴミの集積場になっている。

【アクセス】
 ・名鉄犬山線「岩倉駅」より徒歩約45分

 ・駐車場 なし


愛知県岩倉市の神明大一社

神社仏閣(Shrines and temples)
神名太一社

 愛知県岩倉市にある神名太一社(地図)。岩倉の総鎮守とされる神社だ。
 読み方がいくつかあってはっきりしないのだけど、『愛知縣神社名鑑』は「神明大一社」として「しんめいたいちしゃ」とふりがなを振っているので、これが正式名なのだろう。
 ”大一”は明治以降に改められたもので、もともとは”太一”だったはずだ。
 社号標には神明太一宮とあるのだけど、この頃は「しんめいたいいちのみや」と呼んでいたかもしれない。
 一般的に太一は”たいいつ”と読む。
 太一は古代中国の思想で宇宙の中心を意味すると説明されることが多いのだけど、起源はもっと古い日本にある。
 伊勢の神領民たちがよく知らないまま太一を使っているけど、太一とは何かを説明するのはちょっと難しい。
 岩倉市のあたりはかつて伊勢の神宮の神領地だった関係で神明社が多い。この神明太一社もそのひとつなのだけど、たぶん創建(創祀)はかなり古い。社伝がいうように平安中期ということはない。
 岩倉市は磐座が由来の地名で、巨石も見つかっている。神祀りの拠点だった可能性がある。
 詳しい歴史はいずれあらためてということにしたい。

 なお、この写真は2018年4月に撮影したものです。



神名太一社社号標




神名太一社拝殿と蕃塀




神名太一社太一




神名太一社拝殿内




神名太一社太鼓橋




神名太一社秀成稲荷




神名太一社岩




神名太一社子安神




神名太一社出雲大神

【アクセス】
 ・名鉄犬山線「岩倉駅」より徒歩約6分

 ・駐車場 あり


愛知県西尾市の伊文神社再訪

神社仏閣(Shrines and temples)
伊文神社

 2018年4月に吉良の海を訪れたとき、帰りに西尾市の伊文神社(いぶんじんじゃ/地図)にも立ち寄った。
 ここは2013年にも一度訪れていて、このときは二度目の参拝だった。
 創建は平安時代というのだけど、ルーツはもっと古そうだ。
 公式サイト(web)の由緒書きにはこうある。

「伊文神社はおよそ1,150年前の平安文化華やかなりし頃、第五十五代文徳天皇の皇子八條院宮が、渥美郡伊川津の地より当地へ御轉住の折に、随遷し奉祀されました。八條院宮は、文徳天皇の皇子とも弟とも云われ、朝廷の命により吉良(現在の西尾)の地を根城にして略奪を繰り返していた兼光・兼盛という二人の逆徒討伐の為、西尾の地に赴かれました。その際に屋敷の東西に御祀されていた、天王社(伊文神社)と八幡社(御劔八幡宮)を随遷されたと伝わっております。
 社名については、三河國神名帳には『正三位内母大明神』と記され、天王社、天王宮、伊文山(いもやま)牛頭天王(ごずてんおう)、伊文山天王宮等と称しましたが、文政の頃には伊文山とつくと寺院の山号に紛れ易いとして、伊文社(いもんしゃ)となり、明治維新以降は伊文神社とされ、現在は「伊文さん」「祇園さん」等と親しまれています。」

 なんかちょっとよく分からない文章だ。
「随遷」って何? と思うし、文徳天皇の皇子の八條院宮って誰のことをいっているのか?
「御轉住」は「ごてんじゅう」、引っ越したということなのだろうけど、随遷がどういう状況をいっているのか不明だ。
 もともと天王社と八幡があって、それを移してきて一つの神社にしたという理解でいいだろうか。
 八條院宮というのも分からない。普通、天皇の皇子は何々親王か、臣籍降下した場合は源などを名乗ったはずだけど、八條院宮といういい方をしたかどうか。
 朝廷の命で吉良の地を治めていた兼光・兼森という兄弟を討伐にやってきて、そのときに天王と八幡を移したというのも、ちょっと信じがたい話だ。
 全然違う話が誤って伝わってしまったように思える。

 いろいろ気になることはあるのだけど、詳しい歴史についてはいずれあたらめてということにしたい。



伊文神社一の鳥居




伊文神社二の鳥居




伊文神社三姫社鳥居




伊文神社三姫社社




伊文神社境内と拝殿

 社殿は一度焼けてコンクリート造で再建されているので趣はない。
 境内全体の雰囲気は好きだ。



伊文神社拝殿内




伊文神社社殿横から




伊文神社境内社

【アクセス】

・名鉄西尾線「西尾口駅」より徒歩約20分

・駐車場 あり


愛知県西尾市吉良の蛭子社

神社仏閣(Shrines and temples)
蛭子社

 デッドストック神社写真シリーズの今回は、愛知県西尾市の蛭子社(えびすしゃ/地図)です。
 訪れたのは2018年4月。吉良ワイキキビーチで撮影するために出向いたときに挨拶に立ち寄った。
 神社の東は恵比寿海岸で、神社がある場所は蛭子岬と呼ばれている。
 この蛭子社から名づけられているのだとしたら、地名は江戸時代以降だろうか。
 宮前は近くに幡豆神社があるからだ。幡豆神社はこのあたりの中心の神社で、そのうちまた紹介します。
 幡豆一帯はかつて尾張氏のタケイナダネ(建稲種命)が治めていた土地とされていて、ヤマトタケルの東征に従った後、駿河の海で命を落としてここ幡豆に流れ着いたという伝承もある。
 タケイナダネは別の場所で殺されてここに流れ着いたという話も聞いているのだけど、この蛭子社もそのあたりの話に関係があるのかもしれない。
『愛知県神社名鑑』によると、永禄3年(1560年)に今川義元がこの地を訪れた際に祀ったのが始まりといっているけど、ルーツはもっと古いように思う。
 そもそも、永禄3年といえば桶狭間の戦い(新暦で6月12日)があった年だ。のんきに吉良あたりで神社を建てている場合ではない。

 詳しい歴史についてはまたいつかということで。



蛭子社入り口鳥居




蛭子社社殿




蛭子社境内


【アクセス】

・公共交通機関 不明

・駐車場 なし


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