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  • 岩屋堂でミスせとものモデル撮影会

    PENTAX K-7+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 / TAMRON 90mm f2.8 岩屋堂で行われた、ミスせともの撮影会に参加してきた。 せともの祭りのときのパレードで撮って、ブログにも登場したから、この三人を覚えている人もいるかもしれない。私服だとやはりずいぶん印象が違った。 モデル撮影会というのはまったく初めてだったので、撮影は完全に手探りで、まるでコツが掴めなかった。合計で1時間半くらいあったのだけど、最後まで戸惑った...

    2010/11/15

    人物(Person)

  • 素敵の後ろ姿と幸福感の共有

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    2010/03/09

    人物(Person)

  • それぞれが生きるそれぞれの季節

    PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 歳月不待人。 歳月人を待たず。そう歌った陶淵明は、29歳で仕官してから、いくつかの職につき、41歳で田舎に戻り、以降隠遁生活を送った。427年、63歳で死去。歳月と上手くつき合えたと感じていただろうか。 人は過ぎ去った季節を懐かしむ。あの頃に戻りたいと願いもする。時は優しくも残酷だ。時を止めることもできないし、時を追い越すこともできない。私たちは一所懸命走っているつも...

    2010/02/27

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  • 忘れちゃいけない名古屋人のひとり加藤清正をよろしく

    PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/200s(絞り優先) 名古屋生まれで大成した人を見ると、ほとんど例外なくよその土地に移った先で成功している。特に戦国時代がそうだ。豊臣秀吉といえば大阪、前田利家といえば金沢、山内一豊といえば土佐というように、名古屋を捨てて名をなした人が多い。織田信長はそうそうに岐阜に移り、愛知県岡崎市出身の徳川家康も江戸に行ってしまった。江戸時代、尾張徳川家はついに...

    2007/01/21

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岩屋堂でミスせとものモデル撮影会

人物(Person)
ミスせともの-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8 / TAMRON 90mm f2.8



 岩屋堂で行われた、ミスせともの撮影会に参加してきた。
 せともの祭りのときのパレードで撮って、ブログにも登場したから、この三人を覚えている人もいるかもしれない。私服だとやはりずいぶん印象が違った。
 モデル撮影会というのはまったく初めてだったので、撮影は完全に手探りで、まるでコツが掴めなかった。合計で1時間半くらいあったのだけど、最後まで戸惑ったまま、手応えがなく終わった。
 帰ってきて撮った写真を見たら、まあ、初めてならこれくらいかなと、やや納得した。想像していたよりは撮れていたのでホッとした。一人対多人数ということで、こちらのイメージした表情にはならない。モデルを務めたミスせとものの彼女たちにしても、撮影会のモデルは初めてということで、分からないことも多かったようだ。
 とりあえず現状の自分ができるモデル撮影はこれが精一杯ということで、写真を提出することにする。

ミスせともの-2

 まず戸惑ったのが距離感だった。TAMRON 90mmでポートレートを撮ろうと考えていたのだけど、思ったほど近づけず、90mmでは届かなかった。半円に囲んでみんなで撮っている中、自分だけ前へ出て撮るほど図々しい性格ではない。
 結局、途中から55-300mmの望遠ズームに切り替えることになる。
 一対一のモデル撮影では、広角ズームや50mmあたりの単焦点で、もっと接近して撮るものだ。

ミスせともの-3

 せっかくの紅葉ではあったのだけど、モデルとの絡み具合はもう一つ。岩屋堂の紅葉自体、色づきがまだまだということもあって、紅葉を活かした撮影というのも難しかった。

ミスせともの-4

 パレードのときは、三人の中では一番印象に残らなかった彼女だけど、フォトジェニックということでは彼女が一番かもしれない。
 愛知にはお嬢様学校御三家というのがあって、そのうちの一つである愛知淑徳大の学生さんだ。

ミスせともの-5

 横顔美人だと思う。彼女に関してはほとんど横顔か斜めからしか撮ってない。

ミスせともの-6

 こんな素の表情もいい。

ミスせともの-7

 彼女は高校の歴史の先生。
 授業には集中できないけど、学校に行く楽しみは増える。

ミスせともの-8

 目だけのアップとか、本当はそのあたりまで迫りたかった。
 瞳に映る紅葉なんかも撮ってみたいと思っていたのだけど。

ミスせともの-9

 彼女がミスせともののクイーン。才色兼備の南山大学の学生さん。
 彼女の顔が誰かに似ているのか、どこかで見たことがあるような気がするんだけど思い出せない感じがずっとしていた。

ミスせともの-10

 大勢にカメラを向けられているから、どうしても微笑みや笑顔になってしまうのは仕方がない。もっと真剣な表情とか、遠くを見つめる感じとか、もう少しいろんな表情が撮りたかった。

ミスせともの-11

 こういう感じでもっと撮ればよかったと、あとになって思った。ポートレートにこだわりすぎたようだ。

ミスせともの-12

 最後は三人揃っての記念撮影となった。
 そのとき、カメラマン側がどうなっていたかというと、下の通り。

ミスせともの-14

 モノクロも一枚提出したい。これが今回のベストショットということになるかもしれない。

 終わってみて、モデル撮影会というのがどういうものか、少し分かった。考えていたより思い通りにならなかったのだけど、楽しさも知った。もっとモデルさんとコミュニケーションを取りながら、積極的にリクエストを出していってもよさそうだ。今回はまったくの初心者ということで遠慮してしまった。
 三人さんはお疲れ様でした。どうもありがとうございます。
 春に場所を変えて同じメンバーで撮影会があるということなので、できたらそれも参加したいと思っている。そのときまでに人撮りをもっと練習しておかないといけない。誰かにモデルをお願いしようか。

 残りの写真は追記(More)で。

素敵の後ろ姿と幸福感の共有

人物(Person)
農業センター梅1-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 たとえば学校の屋上。ひとり風に吹かれながら夕陽を見つめる女子高生の後ろ姿。
 あるいは校舎の裏。男子生徒を呼び出した女子中学生がラブレターを渡すシーン。
 新婚の奥さんが旦那さんを送り出すときの笑顔とか、川の字になって眠る親子の平和な寝顔。
 毎日、どこかで起こっているであろうそういう場面に、通常カメラは存在していない。そんなところを撮りたいと思っても、なかなか実現することはない。撮れたとしても、それは演出になるか、隠し撮りになってしまう。
 なんとなく見慣れているような気がするのは、映画やドラマで目にしているからで、写真として撮られることはほとんどない。自分が主人公として演じているときは、自分で自分を撮ることができない。
 私がよくカップルを撮っているのは、そういう思いがあるからだ。特別ドラマチックなシーンではなくても、カップルの後ろ姿にはドラマを連想させる素敵がある。
 幸福感をお裾分けしてもらった私が写真を撮り、見た人とそれを共有できれば幸せな連鎖だ。

 今日は時間切れにつき、ここまでとしたい。続きはまた明日。

それぞれが生きるそれぞれの季節

人物(Person)
矢田川風景-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8



 歳月不待人。
 歳月人を待たず。そう歌った陶淵明は、29歳で仕官してから、いくつかの職につき、41歳で田舎に戻り、以降隠遁生活を送った。427年、63歳で死去。歳月と上手くつき合えたと感じていただろうか。
 人は過ぎ去った季節を懐かしむ。あの頃に戻りたいと願いもする。時は優しくも残酷だ。時を止めることもできないし、時を追い越すこともできない。私たちは一所懸命走っているつもりで時に流される。気がついたときには、多くの季節が過ぎ去ってしまっている。
 春夏秋冬を生きた人はすべての季節を知っているけど、春の中に生きている人は春しか知らない。ずっとあとになって知ることになる、春という季節がどれほど素晴らしいものだったかということを。
 それでも人生は続いてゆく。生まれて、生きて、死んで、また生まれる。それが繰り返される。いつか終わってしまうなんて思いもせず、当たり前のように日々を生きている。
 喜びも、悲しみも、涙も、笑いも、今日という日に置き忘れたまま、明日へ向かう。忘れ物を取りに戻ることはできない。
 振り返ればそこには自分の残像が見える。今はもういないけど、確かにあのときあそこに自分はいた。目を閉じれば、心のシャッターを切ったシーンが思い浮かぶ。
 今、カメラをもって街へ出て、人を撮る。それは自分の心象風景であり、写っている人々は自分自身を投影させた姿でもある。
 自分で自分の姿は撮れないし、自分の人生以外の人生を送ることもできない。だから、彼らの姿に思いを託しているのだろう。
 幸せそうな家族の風景もいいけど、どちらかというと悲しみを感じさせるような姿の方が好きだ。少し寂しげな方が共感できる。その背中を見て、頑張ってと応援したくもなるし、生きていることを愛おしくも思える。
 道行く人それぞれに生きてきた歳月がある。ほんの短い一瞬でも、自分が共感を抱いた対象に向けてシャッターを切っている。
 生きるってこういうことだよねと思える写真が撮れればいいと思う。日々の暮らしの中に人生はある。特別ではない光景の中にそれを見いだしたい。

矢田川風景-2

 やるべきことをやって、死なずに生き延びた人間には、人生の晩年に孫というご褒美が待っている。
 幸福とは何かと頭で考えなくても、幸せはすぐそこにある。
 なんとしてでも死なないことが大事なのだ。

矢田川風景-3

 子供というのは無駄な動きが多い。意味もなく走ったり転げ回ったりする。大人になると理由なしに走ったりしなくなる。道を歩いているビジネスマンが突然太陽に向かって跳ね始めたら、おかしな人と思われる。子供ならそれが許されるし、不自然でもない。
 小さな彼女は、夕陽に向かって飛んだり、回転したり、手を打ち鳴らしたりしていた。ダンスとも思えなかったし、何をしたかったのかは分からない。前世は太陽信仰の祈祷師か何かだったのかもしれない。

矢田川風景-4

 昔と比べたら、大人も子供もいろいろな面で変わってしまったし、失われてしまったものも多い。でも、変わらない部分は確かにあって、子供はやっぱり子供らしくもある。しゃがんで手に持っているのがマンガではなく携帯ゲーム機だったとしても、その姿は小学生そのものだ。私たちの頃と何も変わっていないように見える。

矢田川風景-5

 子供たちは走る。走らされているのもあるだろうけど、それでも走る。
 体育の授業でも、テニス部でも、長距離ランニングは嫌いだったけど、もし子供時代に帰ることができたとしたら、思い切り全力疾走したい。マラソンでもなんでも走りたいと、今は思う。
 歳を取ると走れなくなるというのがどういう感覚なのかは歳を取ってみるまで分からなかった。少年時代のように気持ちよく走りたい。

矢田川風景-6

 体育系の少女も走る。
 一つの競技に前半生のすべてを費やすという生き方がある。オリンピックで脚光を浴びる選手たちを見て、単純にうらやましいなどとは思えない。毎日の練習や、犠牲にした様々なこと。得られるものが多くても失ったものは小さくない。結果として報われるのはごく一部に限られることを思うと尚更だ。
 ヴェルレーヌの選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にありという言葉が浮かぶ。才能というのは望んで得られるものではないし、選ばれてしまったらそれに殉じることを強いられる。天才が幸せかどうかは難しい問題だ。

矢田川風景-7

 大きな箱の中にたくさんの小箱が入っていて、その一つ一つに家族が暮らし、一人ひとりに人生がある。
 来る日も来る日も郵便を運び続ける郵便配達人は、離れた人同士をつなぐ連絡係だ。それぞれの人生の一部を運んでいる。
 中には一生の大事を左右するラブレターがあるかもしれない。それを間違えて配達したことで二人は永遠にすれ違ってしまうなんてことも可能性としてはある。
 イタリアでは第二次大戦中に出した手紙が今頃届くなどということもあるそうで、困ったものではあるけど、それはそれでちょっとドラマチックでもある。

矢田川風景-8

 夕陽のガードマン。
 ガードマン一筋40年という人は少ないだろう。過去にはいろいろあってとりあえず今はここに落ち着きましたという感じが漂う。
 一日の終わりに夕陽を見て、思うところもあるだろう。

矢田川風景-9

 川でフライフィッシングをしていた。まさかここでフライでは釣れないだろうと驚いたけど、様子を見ていたら投げる練習をしていたようで、なるほどと納得した。
 河原にはいろんな人が集まってくる。橋にもたれてオカリナを吹いていたおばさまを見たこともある。

矢田川風景-10

 夕焼けの河原で石投げをするカップル。絵に描いたような光景で、こんなシーンに当たることはめったにない。
 二人で長い年月を生きることのよさは、あとになって思い出話ができることだ。昔あの川で石投げしたの覚えてる、といった会話ができるのは、ずっと一緒に生きてこそだ。
 二人で過ごす何気ない日々を輝かせて意味のあるものにしてくれるのは、歳月だけだ。

矢田川風景-11

 若い頃は長生きなんてしたくない、そんなことは無意味でくだらないことだと思いがちだけど、長生きしてみるとこれがなかなかいいもので、ここまできたらもっと長く生きたいと欲が出る。でも病気では意味がない。健康であることが必要条件となる。
 そんな思いから、ある程度年がいくと人は歩こうとしたがる。歩くことは健康にいいと頑なに信じて。
 実際、歩くことはいいようで、歩けるということそのものが健康のバロメーターでもある。あるお年寄りが言っていた。エリート年寄りの条件は自力歩行ができることだ、と。歩けなくなってしまうと人生はかなり退屈なものになりそうだから、ある程度足腰を鍛えておくのは必要だ。

矢田川風景-12

 冬の河原で黄昏れる。
 もっと若い頃の私なら、この光景を見て寂しい老人と思っただろう。今は違う。長く生き延びた人間こそが勝者だと思っている。特にこの世代は戦争があって、その後の激動の時代を生き抜いてきたのだ。私たちの世代が老人になるよりもずっと価値がある。

矢田川風景-13

 これまで二人で歩いてきた道を、これからも二人で行きましょう。言葉にしなくても、そんな思いはお互いに通じているはずだ。
 シーンは先頭に戻って、また繰り返される。二つの季節が交差して、行く人があり、来る人がある。
 人は経験し得るすべての人生を生きられるわけではないから、人の人生と共感して、それを自らの人生に取り込む。他人の人生の中にも学びがあり、感じることがある。みんなで人生のエッセンスを共有しているという言い方もできる。
 小説や映画や音楽などと共に、写真もその一端を担っている。写真でしか表現できないこともあるはずだし、写真だから伝わることもある。
 自分の中に撮りたい写真のイメージがぼんやりとあって、今回はその一つの答えになったと思う。もっとイメージを育てて強いものにしていきたい。

忘れちゃいけない名古屋人のひとり加藤清正をよろしく

人物(Person)
加藤清正像

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f5.6, 1/200s(絞り優先)



 名古屋生まれで大成した人を見ると、ほとんど例外なくよその土地に移った先で成功している。特に戦国時代がそうだ。豊臣秀吉といえば大阪、前田利家といえば金沢、山内一豊といえば土佐というように、名古屋を捨てて名をなした人が多い。織田信長はそうそうに岐阜に移り、愛知県岡崎市出身の徳川家康も江戸に行ってしまった。江戸時代、尾張徳川家はついにひとりの将軍も出すことなく終わってしまったのも、地元にいては駄目だということを表している。
 今日紹介する加藤清正もそういうひとりだ。清正といえば熊本城に虎退治というイメージが強く、名古屋色は薄い。秀吉と同じ名古屋市中村区(名古屋駅の裏)生まれということを知っている人は少ないかもしれない。名古屋人も清正のことをあまり郷土の英雄として祭り上げてない。最後の領地となった熊本では今でもみんなに慕われているというのに。
 そういう私も、清正について詳しいのかと問われると口ごもってしまう。清正を主人公にした小説も読んだことがないから、表面的な知識しかない。これじゃあいけないと思い、今日は清正について勉強してみた。その成果をここに惜しみなく披露したい。拾った知識はみんなに配らないとバチが当たるから(そうなのか?)。

 1562年に尾張の土豪の息子として生まれた清正は、早くに父親を亡くして、近所でもあり、母親同士が遠い親戚ということもあって、9歳のときに豊臣秀吉に仕えることになる。そんな清正を秀吉とねねは我が子のようにかわいがったという。同じような境遇に福島正則がいて、のちに二人は大の親友となる。
 初陣は14歳、長篠の合戦だった。翌年に元服して、170石を与えられて秀吉の正式な配下となった。
 清正の名が知られるようになるのは、1583年の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)からだ。のちに賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになる七人のうちのひとりに入る活躍を見せた。二十歳そこそこでかなりの武勇伝をあげたことになる。これで所領は一気に3,000石となる。オリラジ並みのスピード出世だ。
 本能寺の変で信長がいなくなり、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家(名古屋市名東区生まれ)との後継者争いに勝った秀吉と共に、清正は数々の武勲をあげていくことになる。織田信長などと違って秀吉は代々の家臣などひとりもいないので、このように子飼いの武将や仲間に引き入れた武将などを集めて家臣団を作っていった。
 1585年に秀吉が関白に就任。勢いは完全に秀吉のものとなり、屈強だった島津家もついに降伏。その後肥後(熊本)を任されていた佐々成政が秀吉の怒りを買ってしまった代わりに、清正は肥後を与えられることになる。小西行長との分割統治とはいえ、いきなり25万石の城持ち大名となった。このとき清正26歳。異例の大抜擢であった。
 ただ問題は、清正と小西行長があまりにもそりが合わなかったことだ。キリシタン大名として有名な小西行長に対して日蓮宗信者の熱心な信者だった清正は、キリシタンを弾圧した。そのことでますます二人の中はこじれることになる。関ヶ原の合戦で清正は家康側の東軍につくことになるのだが、このときここぞとばかりに小西行長をやっつけまくった。関ヶ原とは遠く離れた九州で違うケンカが起こっていたのだ。

 清正といえば朝鮮出兵も重要な要素のひとつとなる。福島正則たちと共に秀吉の命で朝鮮に渡り、長く無益な戦いを強いられた。清正が何を思っていたかは分からない。本気で朝鮮を領土にできると思って戦っていたのだろうか。向こうでは大暴れしてたくさんの戦功を立て、朝鮮の民からは鬼将軍として恐れられたという。そのことがあって、韓国や朝鮮の人たちは今でもあまり熊本へ行きたがらないらしい。
 ただ、向こうで悪いことをしていたわけではなく、現地の人が困っているということで虎退治をしたり、捕虜に対して人間的に接したということで慕われたりもしている。清正はただの暴れん坊ではないのだ。
 そんな清正を妬んだのが石田三成だった。清正もインテリの石田三成を嫌っていて、ふたりはしだいに犬猿の仲となっていく。朝鮮出兵中に、三成は清正がこっちで悪いことをしてると秀吉に言いつけたことで清正は日本に呼び戻されて謹慎になってしまう。
 秀吉の死によって朝鮮戦争はうやむやのうちに終結となり、石田三成と清正のいがみ合いはますます強くなっていく。1599年に前田利家が死ぬと歯止めがきかなくなり、福島正則や浅野幸長ら6将と一緒に石田三成を暗殺しようとまでしている。これは家康になだめられて未遂に終わるものの、三成は謹慎となり、このことが関ヶ原の合戦へとつながっていくこととなる。
 関ヶ原の合戦は、もともと豊臣秀吉恩顧の西軍対それに取って代わろうとする東軍徳川家康軍との天下分け目の決戦だった。だから、秀吉に最も近い清正は本来なら当然西軍についてないとおかしい。しかし、西軍の大将は大嫌いな石田三成で、仲間にはこれまたいがみあってる小西行長がいる。清正としては秀吉に対する忠誠心がありつつ、時代の趨勢からも家康の方につくことを選んだ。
 結果は東軍勝利で、九州での活躍が認められて、清正は小西行長の所領ももらって肥後全州52万石の大名となった。清正としては、にっくき二人をやっつけて、領地も倍増してよかった。内心は複雑だっただろうけど。

清正石

 写真の石垣の巨大石は、通称「清正石」と呼ばれているものだ。幅6メートル、高さ2.5メートル、畳にすると十畳ほどの石が石垣の中にしっかり組み込まれている。こんなことができるのは清正しかないだろうということで清正石と名づけられた。実際は、この場所は黒田長政の担当だったので長政の仕事であろうということになっている。
 清正が担当した名古屋城天守台の石垣は、とても美しい。なだらかなカーブを描く石垣は、「清正三日月石垣」と呼ばれている。

 これだけ勇猛な武将でありながら、清正は城造りの名人でもあった。家康に許されて、熊本城築城に取りかかる。1608年、地方の大名にはふさわしくないほど立派な熊本城が完成した。各地から最高の技術者を集め、海外貿易で稼いだ資金を使い、領民には休みもしっかり与えたので、働き手は皆、喜んで仕事に従事したと伝えられている。
 その他、治水や土木でも当代一流だった清正は、領地の暴れ川を治めたりもしている。このあたりでも、いまだに熊本では「清正公(せいしょこさん)」と称されて慕われている要因なのだろう。
 熊本城は、明治10年、西南戦争のとき意外な形で名城ぶりを世に示すことになる。西郷隆盛軍が勢いに乗って北上する途中、熊本城にろう城した政府軍に思いがけず足止めを食ってしまう。少数の守備隊しかいないにもかからず熊本城は落ちない。そうこうしてるうちに政府軍の援軍が到着してしまい、西郷軍はそこから敗走を始めることになる。もし熊本城を落としていれば、西郷軍のその後は違ったものとなっていたかもしれない。しかし、この戦の際に強い風にあおられた飛び火によって大小天守閣など多くが焼け落ちてしまった。

 名古屋城天守の石垣を組み終わった清正は、やれやれとほっと一息ついたことだろう。家康に押しつけられた無理な築城仕事もやり終えて、しばらくのんびりできると喜んだかもしれない。それでも隠居するにはまだ早い49歳。
 二条城で家康と豊臣秀頼との会見が行われることになり、清正はそれを取り持つ役割を果たすことになる。形の上では家康の側についていた清正も、気持ちの中ではいまだ徳川家の家臣という思いが強かったのだろう。豊臣家を残すよう家康に訴えるつもりがあった。何かあったら家康と差し違えるつもりで懐に短刀を隠し持っていたという。
 家康もまた、清正の思いに気づいていなかったはずがない。武将としても一目置いていた清正を家康は恐れた。
 帰りの船の中で清正は突然発病し、帰国後熊本で急死してしまう。死因は心筋梗塞だとか脳出血だとかライ病だとかいろいろ言われいてはっきりしない。まことしやかに家康によって毒まんじゅうを食べさせられたというウワサも流れた。
 4年後、大阪夏の陣により豊臣家は滅亡する。清正が生きていれば大阪城が落ちるはずはなかったと言われる。
 21年後には嫡男の忠弘が改易され、肥後は以降細川家のものとなる。ただ、細川家の偉かったのは、清正人気を妬まずに自分たちも敬愛したことだ。熊本では今でも清正のことを悪く言う人はほとんどいないという。

 戦に強い武将ということで大男のイメージがある清正は、実は背は高くなかった。シークレットブーツではなく、長い帽子で大きく見せてはいたものの、実際は160センチそこそこだったと伝えられている。
 相当な潔癖性だったというのは意外だ。痔ということもあってか、便所でしゃがむときは30センチの高さの下駄をはいてしていたらしい。昔はくみ取りだから、はね返ってくるのを嫌ったのだろう。
 口の中に握り拳を入れることができたというのはちょっと有名な話だ。清正が好きだった新選組の近藤勇もマネしてやっていた。その近藤勇のマネをしてSMAPの香取慎吾も拳を口に入れるのをよくやっている。それを見た私も挑戦してみたけど、まったく入りそうになかった。こんなものが入る口はどうかしてる。
 結局、加藤清正というのはどんな人だったのか? いくつかの顔を持ちながら、そんなに複雑な人物ではない。強い武将でありながら城造りの名人で、インテリではないけど愚直でもなく、善人ではないにしても悪人でもなく、好き嫌いがはっきりした正直な人だった。忠義心は強く、野心はさほど強くなく、ある意味では普通の人間だったと言えるだろう。魅力的で愛すべき人だ。私の中では、理想の上司像みたいなイメージが出来上がった。戦しか能がないような武人でもなく、権謀術策の政治家でもない。現代に生きていたとしても何か立派な仕事を成し遂げることができる人だ。
 加藤清正って、こんな素敵な人だったんだと、これを読んで思ってもらえたら嬉しく思う。私自身、今日勉強して初めて知ったことばかりだったから、今日からもっと清正さんのことを敬愛したいと思う。熊本の人たちを見習って。
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