
PENTAX K10D+PENTAX DA 55-300mm f4-5.8
歳月不待人。
歳月人を待たず。そう歌った陶淵明は、29歳で仕官してから、いくつかの職につき、41歳で田舎に戻り、以降隠遁生活を送った。427年、63歳で死去。歳月と上手くつき合えたと感じていただろうか。
人は過ぎ去った季節を懐かしむ。あの頃に戻りたいと願いもする。時は優しくも残酷だ。時を止めることもできないし、時を追い越すこともできない。私たちは一所懸命走っているつもりで時に流される。気がついたときには、多くの季節が過ぎ去ってしまっている。
春夏秋冬を生きた人はすべての季節を知っているけど、春の中に生きている人は春しか知らない。ずっとあとになって知ることになる、春という季節がどれほど素晴らしいものだったかということを。
それでも人生は続いてゆく。生まれて、生きて、死んで、また生まれる。それが繰り返される。いつか終わってしまうなんて思いもせず、当たり前のように日々を生きている。
喜びも、悲しみも、涙も、笑いも、今日という日に置き忘れたまま、明日へ向かう。忘れ物を取りに戻ることはできない。
振り返ればそこには自分の残像が見える。今はもういないけど、確かにあのときあそこに自分はいた。目を閉じれば、心のシャッターを切ったシーンが思い浮かぶ。
今、カメラをもって街へ出て、人を撮る。それは自分の心象風景であり、写っている人々は自分自身を投影させた姿でもある。
自分で自分の姿は撮れないし、自分の人生以外の人生を送ることもできない。だから、彼らの姿に思いを託しているのだろう。
幸せそうな家族の風景もいいけど、どちらかというと悲しみを感じさせるような姿の方が好きだ。少し寂しげな方が共感できる。その背中を見て、頑張ってと応援したくもなるし、生きていることを愛おしくも思える。
道行く人それぞれに生きてきた歳月がある。ほんの短い一瞬でも、自分が共感を抱いた対象に向けてシャッターを切っている。
生きるってこういうことだよねと思える写真が撮れればいいと思う。日々の暮らしの中に人生はある。特別ではない光景の中にそれを見いだしたい。

やるべきことをやって、死なずに生き延びた人間には、人生の晩年に孫というご褒美が待っている。
幸福とは何かと頭で考えなくても、幸せはすぐそこにある。
なんとしてでも死なないことが大事なのだ。

子供というのは無駄な動きが多い。意味もなく走ったり転げ回ったりする。大人になると理由なしに走ったりしなくなる。道を歩いているビジネスマンが突然太陽に向かって跳ね始めたら、おかしな人と思われる。子供ならそれが許されるし、不自然でもない。
小さな彼女は、夕陽に向かって飛んだり、回転したり、手を打ち鳴らしたりしていた。ダンスとも思えなかったし、何をしたかったのかは分からない。前世は太陽信仰の祈祷師か何かだったのかもしれない。

昔と比べたら、大人も子供もいろいろな面で変わってしまったし、失われてしまったものも多い。でも、変わらない部分は確かにあって、子供はやっぱり子供らしくもある。しゃがんで手に持っているのがマンガではなく携帯ゲーム機だったとしても、その姿は小学生そのものだ。私たちの頃と何も変わっていないように見える。

子供たちは走る。走らされているのもあるだろうけど、それでも走る。
体育の授業でも、テニス部でも、長距離ランニングは嫌いだったけど、もし子供時代に帰ることができたとしたら、思い切り全力疾走したい。マラソンでもなんでも走りたいと、今は思う。
歳を取ると走れなくなるというのがどういう感覚なのかは歳を取ってみるまで分からなかった。少年時代のように気持ちよく走りたい。

体育系の少女も走る。
一つの競技に前半生のすべてを費やすという生き方がある。オリンピックで脚光を浴びる選手たちを見て、単純にうらやましいなどとは思えない。毎日の練習や、犠牲にした様々なこと。得られるものが多くても失ったものは小さくない。結果として報われるのはごく一部に限られることを思うと尚更だ。
ヴェルレーヌの選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にありという言葉が浮かぶ。才能というのは望んで得られるものではないし、選ばれてしまったらそれに殉じることを強いられる。天才が幸せかどうかは難しい問題だ。

大きな箱の中にたくさんの小箱が入っていて、その一つ一つに家族が暮らし、一人ひとりに人生がある。
来る日も来る日も郵便を運び続ける郵便配達人は、離れた人同士をつなぐ連絡係だ。それぞれの人生の一部を運んでいる。
中には一生の大事を左右するラブレターがあるかもしれない。それを間違えて配達したことで二人は永遠にすれ違ってしまうなんてことも可能性としてはある。
イタリアでは第二次大戦中に出した手紙が今頃届くなどということもあるそうで、困ったものではあるけど、それはそれでちょっとドラマチックでもある。

夕陽のガードマン。
ガードマン一筋40年という人は少ないだろう。過去にはいろいろあってとりあえず今はここに落ち着きましたという感じが漂う。
一日の終わりに夕陽を見て、思うところもあるだろう。

川でフライフィッシングをしていた。まさかここでフライでは釣れないだろうと驚いたけど、様子を見ていたら投げる練習をしていたようで、なるほどと納得した。
河原にはいろんな人が集まってくる。橋にもたれてオカリナを吹いていたおばさまを見たこともある。

夕焼けの河原で石投げをするカップル。絵に描いたような光景で、こんなシーンに当たることはめったにない。
二人で長い年月を生きることのよさは、あとになって思い出話ができることだ。昔あの川で石投げしたの覚えてる、といった会話ができるのは、ずっと一緒に生きてこそだ。
二人で過ごす何気ない日々を輝かせて意味のあるものにしてくれるのは、歳月だけだ。

若い頃は長生きなんてしたくない、そんなことは無意味でくだらないことだと思いがちだけど、長生きしてみるとこれがなかなかいいもので、ここまできたらもっと長く生きたいと欲が出る。でも病気では意味がない。健康であることが必要条件となる。
そんな思いから、ある程度年がいくと人は歩こうとしたがる。歩くことは健康にいいと頑なに信じて。
実際、歩くことはいいようで、歩けるということそのものが健康のバロメーターでもある。あるお年寄りが言っていた。エリート年寄りの条件は自力歩行ができることだ、と。歩けなくなってしまうと人生はかなり退屈なものになりそうだから、ある程度足腰を鍛えておくのは必要だ。

冬の河原で黄昏れる。
もっと若い頃の私なら、この光景を見て寂しい老人と思っただろう。今は違う。長く生き延びた人間こそが勝者だと思っている。特にこの世代は戦争があって、その後の激動の時代を生き抜いてきたのだ。私たちの世代が老人になるよりもずっと価値がある。

これまで二人で歩いてきた道を、これからも二人で行きましょう。言葉にしなくても、そんな思いはお互いに通じているはずだ。
シーンは先頭に戻って、また繰り返される。二つの季節が交差して、行く人があり、来る人がある。
人は経験し得るすべての人生を生きられるわけではないから、人の人生と共感して、それを自らの人生に取り込む。他人の人生の中にも学びがあり、感じることがある。みんなで人生のエッセンスを共有しているという言い方もできる。
小説や映画や音楽などと共に、写真もその一端を担っている。写真でしか表現できないこともあるはずだし、写真だから伝わることもある。
自分の中に撮りたい写真のイメージがぼんやりとあって、今回はその一つの答えになったと思う。もっとイメージを育てて強いものにしていきたい。