
2018年4月に吉良の海を訪れたとき、帰りに西尾市の伊文神社(いぶんじんじゃ/
地図)にも立ち寄った。
ここは
2013年にも一度訪れていて、このときは二度目の参拝だった。
創建は平安時代というのだけど、ルーツはもっと古そうだ。
公式サイト(
web)の由緒書きにはこうある。
「伊文神社はおよそ1,150年前の平安文化華やかなりし頃、第五十五代文徳天皇の皇子八條院宮が、渥美郡伊川津の地より当地へ御轉住の折に、随遷し奉祀されました。八條院宮は、文徳天皇の皇子とも弟とも云われ、朝廷の命により吉良(現在の西尾)の地を根城にして略奪を繰り返していた兼光・兼盛という二人の逆徒討伐の為、西尾の地に赴かれました。その際に屋敷の東西に御祀されていた、天王社(伊文神社)と八幡社(御劔八幡宮)を随遷されたと伝わっております。
社名については、三河國神名帳には『正三位内母大明神』と記され、天王社、天王宮、伊文山(いもやま)牛頭天王(ごずてんおう)、伊文山天王宮等と称しましたが、文政の頃には伊文山とつくと寺院の山号に紛れ易いとして、伊文社(いもんしゃ)となり、明治維新以降は伊文神社とされ、現在は「伊文さん」「祇園さん」等と親しまれています。」
なんかちょっとよく分からない文章だ。
「随遷」って何? と思うし、文徳天皇の皇子の八條院宮って誰のことをいっているのか?
「御轉住」は「ごてんじゅう」、引っ越したということなのだろうけど、随遷がどういう状況をいっているのか不明だ。
もともと天王社と八幡があって、それを移してきて一つの神社にしたという理解でいいだろうか。
八條院宮というのも分からない。普通、天皇の皇子は何々親王か、臣籍降下した場合は源などを名乗ったはずだけど、八條院宮といういい方をしたかどうか。
朝廷の命で吉良の地を治めていた兼光・兼森という兄弟を討伐にやってきて、そのときに天王と八幡を移したというのも、ちょっと信じがたい話だ。
全然違う話が誤って伝わってしまったように思える。
いろいろ気になることはあるのだけど、詳しい歴史についてはいずれあたらめてということにしたい。





社殿は一度焼けてコンクリート造で再建されているので趣はない。
境内全体の雰囲気は好きだ。



【アクセス】
・名鉄西尾線「
西尾口駅」より徒歩約20分
・駐車場 あり