石上神宮と物部氏 - 現身日和 【うつせみびより】

石上神宮と物部氏

石上神宮入り口

 奈良県天理市布留町にある石上神宮(いそのかみじんぐう/地図)を訪ねたのは2017年の11月末のことだった。
 このとき以来、物部氏とは何なのかという疑問を抱くようになり、自分の中である程度まとまったらブログに書こうと思っていたら時が流れていた。いまだまったくまとまってはいないのだけど、ずいぶん時間が経ってしまったので、とりあえずでも書けるだけのことを書いておこうという気持ちになったのだった。
 物部氏とは何なのかという問いに対する答えはそう簡単に出るものではないことはよく分かった。



石上神宮

 石上神宮があるのは、布留山の西北麓で、周辺は古墳密集地域となっている。
 どうして奈良でも桜井でも飛鳥でもなくこの地を選んだのか、その理由がよく分からない。何らかの必然があったには違いなく、この場所でなければならなかった理由がひとつ鍵を握っている。
 非常に古い神社で、『古事記』、『日本書紀』ですでに石上神宮、石上振神宮として登場しており、最古の神宮とされている。
 他にも石上坐布都御魂神社、石上布都御魂神社、石上布都大神社、布留社、布留大明神など、多くの異名を持つのも石上神宮の特徴のひとつだ。

 当初は本殿を持たず、神宝を埋めた場所を斎場としていた。その場所は布留高庭や御本地と呼ばれ、現在も禁足地となっている。
 明治7年(1874年)に発掘を行った際に刀などが出土し、このときの刀は主祭神の布都御魂剣とされている。
 大正2年(1913年)に再発掘したときには別の刀が出土して、これを天羽々斬剣とした。
 それらを納めるために初めて本殿が建てられることになった。



石上神宮鳥居




石上神宮鶏

 石上神宮の神使は鶏で、境内で放し飼いにされている。休憩所は占拠され、やりたい放題になっている。



石上神宮参道




石上神宮石段




石上神宮楼門から拝殿

 主祭神の布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)は、神剣の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊とされる。
 天孫降臨に先立って大国主(オオクニヌシ)に国譲りを迫るため、武甕槌(タケミカヅチ)と経津主(フツヌシ)が地上に遣わされ、そのときに使われた剣が布都御魂剣とされる。
 神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレヒコ/後の初代天皇・神武天皇)が東征の際に熊野で危機に陥ったときに高倉下(タカクラジ)の夢を通じてカムヤマトイワレヒコの手に渡りヤマト入りの助けとなる。
 後に物部氏の祖である宇摩志麻治(ウマシマジ)が宮中に祀ったとされる。その布都御魂剣をウマシマジの六世孫である伊香色雄(イカガシコオ)が現在地に遷して祀ったのが石上神宮の始まりと社伝はいう。
 配神の布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)は天降った邇邇芸(ニニギ)に与えられた十種神宝(とくさのかんだから)に宿る神霊とされる。
 布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)は、天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)に宿る神霊で、これは素戔嗚(スサノオ)がヤマタノオロチを退治するときに使った剣という。この剣は吉備の石上布都魂神社(岡山県赤磐市)にあったものを石上神宮に移したという話がある。
 垂仁天皇の時代には五十瓊敷(イニシキ)によって剣千本が奉納されたといい、朝廷の武器庫の役割も果たしていたという説もある。
 有名なものでは、百済から贈られたとされる国宝の七支刀(しちしとう)を所蔵している。左右にそれぞれ3本ずつ互い違いに枝刃がついた変わった形の剣で、4世紀頃に伝わったとされる。
 その他、宇摩志麻治命(ウマシマジ)、五十瓊敷命、白河天皇、市川臣命(イチカワオミ/石上神宮社家の祖)も祀られている。



石上神宮楼門裏から

 楼門は鎌倉時代末の1318年に建立されたもので、国の重要文化財に指定されている。



石上神宮拝殿

 拝殿は国宝に指定されており、白河天皇時代の宮中の神嘉殿を移したものという話がある。ただ、実際は鎌倉時代初期の建造のようだ。



石上神宮拝殿

 摂社の出雲建雄神社の拝殿も国宝指定となっている。
 祭神の出雲建雄神は草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂とされる。
 本殿で祀られている天羽々斬剣はスサノオがヤマタノオロチを退治するときに使った剣で、ヤマタノオロチの尾から出てきたのが草薙剣(天叢雲剣)だから、出雲と尾張との関わりも無視できない。物部氏の正体を知るためにはそのあたりも考え合わせる必要がある。
 天神社では高皇産霊神と神皇産霊神を祀る。
 七座社の祭神は生産霊神、足産霊神、魂留産霊神、大宮能売神、御膳都神、辞代主神、大直日神となっている。
 猿田彦神社では猿田彦大神、住吉大神、高靇神を祀る。これらは伊勢の神、住吉の神、貴船や吉野の丹生川上神社の神たちだ。



石上神宮境内奥へ




石上神宮拝殿禁足地入り口

『日本書紀』によると、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が東征して大和に入ろうとしたところ、地元豪族の長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗に遭い、大和に入ることができなかったとある。
 大和にはすでに天孫族の饒速日(ニギハヤヒ)がいて、ナガスネヒコの妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)と結婚してウマシマジ(宇摩志麻遅/可美真手)が生まれていたという。ニギハヤヒはアマテラス(天照)がら十種の神宝を授かって天磐船に乗り、河内国(大阪府交野市)の河上の地に降り、その後大和に移ったとする。
 ニギハヤヒは、義理の兄であるナガスネヒコを殺し、カムヤマトイワレヒコ(神武)の大和入りを助けている。その理由については書かれていない。
 ニギハヤヒの素性についてもよく分からない。物部氏側の歴史書である『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)によれば、ニギハヤヒは天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたま にぎはやひのみこと)とされ、尾張氏の祖の天火明(アメノホアカリ)とは同一ということになっている。
 物部の祖は一般的にウマシマジとされ、物部系の神社ではウマシマジを祀っているところが多い。しかし、ウマシマジの父がニギハヤヒであれば、ニギハヤヒが物部の祖神ということになる。
 石見国一宮の物部神社(島根県大田市)の由緒によると、神武が大和入りした後、ウマシマジは天香具山命(アマノカグヤマ)とともに物部の兵をひきいて尾張、美濃、越国を平定して、アマノカグヤマを越後に置いて、播磨、丹波を経て石見国に入り、この地を平定した後、物部神社の祭神となったとしている。アマノカグヤマは越後国一宮の彌彦神社の祭神となっている。
『先代旧事本紀』では、アマノカグヤマをウマシマジの異母兄弟としている。
 神武の大和入りの功労者の息子がどうして大和にとどまらず、石見国へ行くことになったのかは謎だ。石見国は出雲の西隣に当たるので、そのあたりが関係しているかもしれない。

 尾張国における物部氏の痕跡は、北区味鋺や春日井市味美に色濃く残っている。ここは6世紀前後の古墳密集地帯で、かつては物部神社もあった。
 それとは別に、東区の一帯はかつて物部郷と呼ばれ、物部神社や高牟神社などは物部と関係があるといわれている。
 車道の物部神社は神武がこの地を平定したときに要石としたものを祀っているという伝承があり、それはウマシマジの尾張平定と関係があるとも考えられる。

 石上神宮についての感想としては、よく分からないというのが正直なところだった。間違いなく何かを秘めていて、普通の神社でないことは確かなのだけど、その何かの正体がよく分からない。8ヶ月経った今も、分からないという感覚は変わらない。
 物部氏に関してはまだまだいろいろな要素を寄せ集めて取り込んで考察しないといけない。物部氏はどこから来てどこへ行ってしまったのか。その問いに対する答えはずっと先にあるかもしれないしないかもしれない。

【アクセス】
 ・JR桜井線/近鉄天理線「天理駅」から徒歩約50分
 ・奈良交通バス<苣原行き> 「石上神宮前」下車
 ・駐車場 あり(無料)
 

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