千種区上野の永弘院を訪ねる - 現身日和 【うつせみびより】

千種区上野の永弘院を訪ねる

永弘院

 千種区上野にある永弘院(地図)を訪ねたのは去年2017年の6月のことだった。
 その少し前、寺の西にあった八坂社を訪れたらきれいさっぱりなくなっていて、工事中のフェンスで囲まれて駐車場になっていた。その駐車場はどうやら永弘院のものらしいということで、中に入って確かめるのが目的だった。
 それにしても八坂社が突然消えていたのには驚いた。上野天満宮が神社の土地を売って八坂社を上野天満宮別宮に合祀したことを後になって知ることになる。
 八坂社については神社サイトの八坂社のページに書いた。



永弘院

 上野山永弘院(ようこういん/通称えいこういん)は、上野城主だった下方貞清が1538年に創建したとされる臨済宗妙心寺派の寺院だ。
 上野城の鬼門(北東)にあった藥師堂の薬師如来を本尊として堂を建てたのが始まりという。
 しかし、下方貞清は1527年生まれとされるので、1538年はまだ11歳かそこらだ。いくら戦国時代の武将が若くして老成していたとはいえ、この年で寺を建てるとも思えない。
 父親の貞経はこのときはまだ健在で(1541年に病死)、代替わりもしていない。1538年に下方貞清が建てたというのは信じがたい。この1538年(天文七戌年)というのは『尾張徇行記』に書かれていることで、間違っている可能性がある。
 年数の混乱でいうと、上野城築城も怪しい。上野城築城は1532年頃というのが定説となっているのだけど、このとき下方貞清はまだ5歳だ。城は建てないだろうと思う。
 そもそも、下方貞清は1527年に上野城で生まれたとされている。父親の貞経が建てたと考えるのが自然だ。あるいはもっと前かもしれない。
 下方貞清は織田家に仕え、小豆坂合戦で活躍して小豆坂七本槍と称され、その後も織田家の重要な戦いに参加して武勲をあげた。一番槍を六度も獲得しているというから、かなりの強者だ。
 本能寺の変も生き延びて、尾張徳川家に仕え、1606年まで生きた。
 永弘院は下方家の菩提寺になっている。

 

永弘院上野城石碑

 境内の片隅に上野城跡の石碑が建っている。
 上野城は現在の上野小学校(地図)あたりにあったとされる。
 城は崖の上にあって、南北約200メートル、東西約120メートルほどの規模だったという。二重の濠もめぐらせていたというから、わりと本格的なものだ。

 永弘院は本能寺の変の後荒廃し、江戸時代に入ってから再建復活していった。
 何度か天災などにあい、第二次大戦の空襲では大きな被害を受けた。上野のあたりは軍需工場があって、攻撃目標とされた分、被害が大きかった。



永弘院駐車場

 かつて八坂社があった場所。
 言われなければそうとは気づかないほど痕跡は残っていない。
 永弘院側からの申し出だったのか、上野天満宮からの打診だったのか。上野天満宮はそのお金で晴明殿という結婚式ができる建物を新築した。



永弘院庭

 庭の池の中島にあるのは弁才天の祠だろうか。



永弘院瓦屋根

 瓦屋根が好きで、いい瓦屋根を見ると撮りたくなる。

【アクセス】
 ・地下鉄名城線「茶屋ヶ坂駅」から徒歩約20分
 ・駐車場 あり

 公式サイト
 

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