120歳の半田赤レンガ工場は眠りの中で100年前の夢を見る - 現身日和 【うつせみびより】

120歳の半田赤レンガ工場は眠りの中で100年前の夢を見る

半田の赤レンガ-1

OLYMPUS E-1+SIGMA 18-50mm DC(f3.5-5.6), f5.6, 1/100s(絞り優先)



 半田名所巡り4部作の最後は赤レンガ工場。明治にカブトビールの工場として建てられたこの建物は、歴史の紆余曲折と共に歩み、今は静かな眠りについている。老いた紳士のように。120歳の赤レンガ工場は、威厳と風格をたたえ、現代に生きる私たちを見下ろす。
 道を一本隔てた反対側にはナゴヤハウジングセンターがあり、小さな子供を連れたたくさんの親子連れが戦隊ショーに歓声をあげていた。赤レンガは薄目を開けてその様子をちらりと見た後、また目を閉じて眠りに戻る。森の主のフクロウみたいに。

 ミツカン酢(中埜家)4代目の又左衛門と、のちに敷島パンを創設することになる盛田善平らによってビール会社・丸三麦酒醸造所が作られたのは1887年(明治20年)のことだった。2年後の明治22年、ビールは完成し、丸三ビールの名前で売り出されることになる。明治29年に会社名を丸三麦酒株式会社とし、明治31年この地に赤レンガの工場を建設した。ビールの銘柄もこのときカブトビールと改名される。
 工場の設計は明治建築界の三大巨匠と言われた妻木頼黄(つまきよりなか)が担当した。横浜の赤レンガ倉庫を設計したのもこの人だ(あとの二人は、東京駅や日本銀行本店を建てた辰野金吾と、赤坂迎賓館や京都博物館を設計した片山東熊)。
 赤レンガ造りにしては珍しく5階建ての高層建築で、のちの三度の増築も含めると、赤レンガの数は240万個になるという。現存する赤レンガ建築としては、東京駅、横浜赤レンガ倉庫、北海道庁に次いで全国4位だそうだ。
 ビール工場としては、北海道のサッポロビール工場もアサヒビール吹田工場も建て替えられ、東京の恵比寿ビール工場も取り壊されてしまった今、初期のビール醸造所の姿をとどめるのはここだけとなった。
 一部5階建てで全体には2階建ての鉄板葺。創建当時の主棟の他、ハーフティンバー棟、貯蔵庫棟によって構成されている。東側の部分は取り壊されて現在は残っていない。

赤レンガ貯蔵庫

 北側の重厚なレンガ造りと比べると、南側は軽やかな印象の赤レンガ造りとなっている。このように柱や梁(はり)、筋違(すじかい)などの骨組みを外にむき出しにして、煉瓦や土などで壁を作る様式をハーフティンバーという。イギリス、フランス、ドイツなどによく見られるもので、明治時代の日本人がそちらの方を向いていたのを示している。かつての日本人の憧れの対象は、アメリカではなくヨーロッパだった。だから、明治の建物は美しい。
 こちら側の建物は明治末期と大正時代に増築された部分で、貯蔵庫などに使われていたようだ。
 赤レンガというと、横浜の赤レンガ倉庫をまず思い浮かべる人が多いと思う。小樽運河も有名だ。その他、各地に少しだけ残っている。金沢や福井、京都の舞鶴や神戸、姫路、広島、長崎などに。
 倉庫ではなく建物としては、名古屋ではノリタケの工場がそうだ。もちろん、東京駅も。明治から大正にかけて、日本人はいい建築物をたくさん作っていた。明治村へ行くとそのことがよく分かる。あの頃の美意識はどこへ行ってしまったのだろう。

 第二次大戦の末期、この赤レンガ工場は中島飛行機半田製作所の衣糧倉庫として使われていた。それを知ったアメリカ軍によって、ここは攻撃目標とされてしまう。B29が爆弾をばらまき、その後にやって来た小型戦闘機P51によって工場は機銃掃射を浴びせられた。今でも赤レンガの外壁にはそのときの無数の弾痕がはっきりと残っている。それでも尚、赤レンガ工場は倒れずに建ち続けてきた。
 終戦後、1949年(昭和24年)から1996年(平成8年)まで、この建物は日本食品化工株式会社のコーンスターチ加工工場となっていた。しかし老朽化も進み、工場は閉鎖。取り壊す方向で話が進んでいた。
 そのとき飛んできたのが日本中の赤レンガ野郎たちだった。取り壊し、ちょっと待ったとあちこちから声がかかり、学術調査が入り、こんな貴重な建物を壊すなんてもってのほか、断固保存すべしということになり、平成8年に半田市が土地ごと買い取ることで話がまとまった。平成16年には国の登録有形文化財となり、現在は半田観光の目玉のひとつとなっている。
 残念ながら、普段は非公開で建物の外側からしか見ることができない。年に数回一般公開をしているものの、いついっても見られないというのでは観光としては弱い。建物が常時公開に耐えられないほど老朽化してるのだろうか。次の公開日は3月の3日、4日だそうだ。

赤レンガ北側

 オリジナルのカブトビールを飲んだことがあるという人ももうほとんどいなくなった。1933年、サッポロやアサヒの前身である大日本ビールに合併吸収されてカブトビールは消えた。けど、かつて一地方都市のローカルビールが、大手4大ビールメーカーと互角に競っていた時代があったのだ。それがこの赤レンガ工場で作られたカブトビールだった。
 漢字で書くと、加武登麦酒。日本酒を喉を鳴らして飲むことをカブルというところから名づけられたという。商標は、日清戦争に勝って兜の緒を締めよから兜マークとした。
 酒造りで培った技術と経験、そして中埜家の財力を費やし、満を持して出品した1900年(明治33年)のパリ万国博でカブトビールは金牌を受賞する。その後全国で売れに売れたそうだ。
 2005年、かねてより続いていた研究が実り、明治のカブトビール復刻版が完成した。330ml650円で、半田のいくつかの場所で販売している(寿司料亭魚福、黒牛の里、半田ステーションホテル、山田屋ベル、花まんま、ビアシティ南知多など)。一般公開日に買うこともできる。

 何も知らなければほとんど廃墟のようにしか見えない赤レンガ工場には、多くの夢や思いや歴史が刻まれていた。たった120年、でもそれは軽くない120年だ。
 今ではたまに揺り起こされる以外は眠りについた赤レンガは、未来にどんな夢を見ているのだろうか。ときどき訪れる私たちのような人間をどう思っているのだろう。かつての活気と情熱に満ちていたときの思い出に浸っているのか。
 朽ちそうな赤レンガの建物を見上げながら私が思うのは、何があろうと、どんな姿になろうと、建ち続けることの意義だ。人が死ぬより生き続けることの方が難しいように、建物もまた壊されるより建っていることの方がずっと難しい。ただ生きればいいってもんじゃないと言うけれど、ただ建っていればいいということもある。
 私たちも120年生きて、昭和のことを語ろう。120年後には消えてなくなってしまったあれこれのことを。

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コメント
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赤レンガ、日本各地に明治時代の建物が残ってますね。
広島も旧海軍の影響で赤レンガの建物が沢山あります。
赤レンガには国家の威厳と誇りを表すものと考えられていたようです。

有名なのでは江田島の旧海軍兵学校の校舎などですが、
特に呉は「レンガ通り」というレンガで舗装された道などが無数にあって
レンガの上を歩くというスーパーマリオ的な雰囲気を味わえます。

あと大和ミュージアムも建物からしてレンガだらけです。レンガパークとかいう場所があるくらいですから。、ちなみにこのレンガパークで地元の中学生がレンガを500個剥がしてニュースになってました。

あと意外と忘れがちなのが原爆ドーム。実はこれも赤レンガ製です。

2007-01-23 11:43 | from ビアンキ

広島と赤レンガとハマショー

★ビアンキさん

 こんにちは。
 広島も赤レンガの建物がけっこう残ってるんですね。
 ちょっと調べたら、軍関連のものが多いみたいで。
 名古屋あたりは工場とか倉庫のイメージで、軍ってのは頭になかったです。
 江戸時代から明治になって、西洋の文明が一斉に入ってきたとき、赤レンガの建物は当時の日本人にはモダンに思えたんでしょうね。今でもそう思うものなぁ。
 けど、日本はなにしろ地震が多い国ですからね。レンガ建築は無理がある。(^^;
 それにしても、原爆ドームが赤レンガってのは盲点でした。そうなんですね。
 もしいつか広島の街へ行くようなことがあったら、レンガ建築も忘れずに見てきたいと思います。
 瀬戸内の夕陽を見るってのも、私の目標のひとつなのです。(^^)
 なんといってもハマショーのファンなので(笑)。

2007-01-23 23:46 | from オオタ | Edit

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