大森斎穂社を訪ねていくつかのはてなが残った - 現身日和 【うつせみびより】

大森斎穂社を訪ねていくつかのはてなが残った

斎穂社外観

 名古屋市守山区。瀬戸街道の八剣交差点を北へ入ったところに、斎穂社という小さなお社がある。
 以前から何度となく前を通っていて気にはなっていたのだけど、中まで入っていって参拝したり写真を撮ったりということが一度もなかった。たまたまネットでここのことについて書かれた記事を読んで興味を持った。渋川神社の悠紀斎田に深い関わりのあるところとなればそれはちょっと重要だ。大森八剱神社の境外社でもある。



斎穂社

 新嘗祭(収穫祭)のための稲を納める国郡を占い(卜定/ぼくじょう)で決めていた。
 天武天皇5年に占ったところ、斎忌(ゆき/悠紀)は尾張国山田郡に、次(すき/主基)は丹波国加佐郡になったと『日本書紀』にある。斎忌は東日本から、次は西日本からと決まっていた。
 その稲を作る田んぼを斎田(さいでん)という。その斎田を作ったのが印場村だったとされている。そのとき、渋川神社は現在地に移ったという。
 で、刈り取った稲穂を精選したのがこのあたりで、その跡地に斎穂社が創建されたのだという。もともとは現在地から少し南の八剱神社交差点あたりだったとされる。区画整理で今の場所に移されてきた。
 この小さな社がそんな由緒あるものだと知る人はたぶん少ない。私もつい最近まで知らなかった。



斎穂社由来の石碑

 由緒が書かれた石碑があるのだけど、ちょっと混乱があるように思う。渋川神社のwebサイトもそうなのだけど、私が勘違いしているのか、神社側が間違っているのか、気になる点がいくつかある。
 まず、天武天皇5年に大嘗祭(だいじょうさい)が行われたというのは間違っている。大嘗祭というのは天皇が即位して最初に行う新嘗祭のことで、それはもう天皇天皇2年のときに行われている。だから、山田郡が斎忌に選ばれたのは新嘗祭だ。
 それに、斎田というのは通常、大嘗祭の稲を作る田んぼのことで、新嘗祭に使う稲を作る田んぼも斎田と呼んでいいのかどうか。
 あと、年数も違っている。天武天皇の即位は673年なので、「天武天皇の御代白鳳五年(673年)」というのはおかしい。
 渋川神社の公式サイトでは「天武(白鳳)五年(西暦676年)天武天皇即位に伴う大嘗祭で」となっている。
 もうひとつ、はてな? と思ったのが、渋川神社の公式サイトにある一文だ。
「澁川神社は、延喜年間(西暦929年)に式内社となり、山田郡の総社として始まりました」とある。
『延喜式』は、905年から編さんが始まって927年に完成して、その後改訂を重ねて967年に施行された。今私たちが延喜式神名帳に載っている式内社云々というのは、927年に完成したときのものを基準にしていると思うのだけど、それ以降に改訂で神社が追加されたといったことがあったのだろうか。「929年に式内社となり」ということが本当なのかどうか判断がつかない。私が不勉強なだけかもしれない。
 彫り込んでしまった石碑は今更どうにもならないとしても、ネットの公式サイトくらいはいつでも書き換えられるのだから、詳しい人にちゃんと聞いて直すところは直した方がいいと思う。



斎穂社社殿

 祭神は、大年神、御年神、御食津神、事代主神、大宮売神。
 このあたりのことについては、例によって神社サイトで。



斎穂社大黒さんと恵比寿さん

 大黒さんと恵比寿さん。



斎穂社千手観音

 狭い敷地に神仏習合している。
 着色された千手観音。短い腕が六本しかないけど。



斎穂社から見る風景

 とりあえず参拝できてよかったのだけど、いろいろと疑問点が残って少しすっきりしない。
 
【アクセス】
 ・名鉄瀬戸線「印場駅」から徒歩約16分
 ・駐車場 なし
 ・拝観時間 終日
 

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