定納公園に米田城の面影はなくとも簗田政綱は名を残した - 現身日和 【うつせみびより】

定納公園に米田城の面影はなくとも簗田政綱は名を残した

定納公園南西から

 米田城は、桶狭間の戦いで戦功第一となった簗田政綱(やなだまさつな)が城代を置いて治めたとされる城だ。
 名古屋市守山区向台2丁目の定納公園あたりにその城はあったとされる。もう少し西、天子田交差点南東の住宅地のあたりともいう。
 米田は「よねだ」だと思うけど、名古屋には喫茶コメダもあるし「こめだ」かもしれない。
 別名の「やなだが城」は、簗田政綱の簗田から来ているとされる。
 城の大きさは南北50メートル、東西55メートルというから規模は小さい。定納公園より一回り小さいくらいだ。地形的に少し小高くなっているのが写真からも分かると思う。一重の堀が張り巡らされていたというから、戦闘を意識した戦国時代の城としての体裁は整っていたと考えてよさそうだ。
 近年まで堀の一部が残っていたようだけど、宅地開発によって痕跡は消えてしまった。
 江戸時代前期の1650年代に村の調査が行われ、1670年頃にまとめられた「寛文村々覚書」には、「大森村 古城跡弐ケ所 先年の城主は不知、今ハ畑ニ成ル」とある。その頃までには城跡は残るものの誰の城だったのかも村人にすら伝わっていなかったようだ。
 簗田政綱は、桶狭間の戦いで沓掛城(豊明市)を受領したのは確かなようなのだけど、米田城も一緒にもらったのかどうかはよく分からない。沓掛城跡と米田城では直線距離で14キロ以上離れている。こんな飛び地の城を一緒に与えたりするだろうか。簗田政綱の城だったとしても城代を置いていたには違いない。



定納公園南東から

 簗田政綱。1516年生まれ、1579年没。
 一般的にはあまり知られていないこの人物も、戦国の歴史にちょっと詳しい人にはよく知られている。桶狭間の戦いの陰の功労者として名を残した武将だ。
 しかし、謎の多い人物で、その功績もどこからどこまでが史実で、どこからが作り話なのか、よく分からないというのが実情だ。
 信長の影の参謀、隠密、ただの地侍、などなど、その正体は知れない。
 下野国(栃木県)足利荘簗田郷で足利家に仕えたあと、今川、斯波、織田と流れ歩いたという話もどこまで信じていいのか分からない。
 確かなことは、桶狭間の戦いにおいて、信長が勲功第一として知行3千貫と沓掛城を与えたということだ。
 一番分からないのは、何故、今川義元の首を取った服部小平太や毛利新介ではなく簗田政綱だったのかという点だ。
 桶狭間の戦いのクライマックス、本陣での戦いで、一番に義元に槍をついたのが服部小平太で、その後、義元の首を取ったのが毛利新介だった。通常であれば、この二人のうちのどちらかが第一の手柄となるはずだった。
 しかし、戦の翌日の論功行賞において、信長が真っ先に名前を挙げたのが簗田政綱だった。
「第一回選択希望選手、読売、桑田真澄、投手、17歳、PL学園高校」と高らかに読み上げたパンチョ伊藤の声が蘇る。会場は大いにざわついたことだろう。
 誰? とか、なんで? とか、嘘でしょ? などの声が飛び交ったに違いない。
 信長の一生を丹念に綴った太田牛一の『信長公記』にもそのあたりのくわしいいきさつについては書かれていない。頼むよ、牛一、そこが大事じゃん、ってことが『信長公記』にはちょくちょくある。まあ、牛一も記録係として織田家に仕えていたわけではなく、自身も武将として働いていたわけで、すべてを見聞きするのは無理というものか。

 政綱は最初、斯波氏に仕え、勢力が弱まったと見ると信長の家臣になったとされる。逆に、このあと出てくる沓掛城の城主だった近藤春景は、信長の代になって織田家に見切りを付けて今川家に走り、桶狭間の戦いで命を落とすことになる。先の見えない戦国時代に先を見通すのは難しい。
 桶狭間の頃、政綱がどこで何をやっていたのかも見解が分かれている。信長に与えられた九之坪城(北名古屋市)の城主だったとか、沓掛あたりの地侍だったとか、隠密だったという説もある。
 確からしいことは、今川軍の情勢を信長に知らせて、それが勝利につながったことで信長は政綱を勲功第一にしたらしい、ということだ。問題は、何故、政綱がその情報を知ることができたかということと、どこにいてどうやってそのことを信長に知らせたかということだ。
 義元は桶狭間の戦いの前日、2万5,000ともいわれる大軍を率いて沓掛城に入った。このとき信長は清洲城にいて、まだ動かない。沓掛城と清洲城の間は、直線距離で23キロほど離れている。早馬を飛ばすといっても当時はサラブレッドではなく木曽馬だ。そんなにスピードは出ない。
 そもそも、政綱は信長に直接謁見できるような身分だったのかどうか。いくら有力な情報といっても、どこのどいつか知らないやつが届けた情報など危なくて信じられない。そうなると、やはりもともと政綱は信長と通じていたか、信長が命じて情報を探らせていたと考えるのが自然なようにも思う。
 軍議において他の重臣を差しおいて政綱が突撃作戦を提案したというのは嘘だろう。そこまでの重要人物ではない。
 もしかしたら、たまたま運良く沓掛あたりにいて、今川軍の動きを察知することができて、それを信長に知らせた大当たりだったというラッキーパンチだっただけかもしれない。その後の中途半端な活躍からしても一発屋の匂いがする。
 信長が清洲城で動かなかったのは、何かを待っていたからかもしれない。それは沓掛城を出たあとの義元の行動を知らせる情報だった可能性は高い。朝方にあわてて飛び出したのは、その情報がもたらされたからではなかったのか。それをもたらしたのが政綱だったとすれば、勲功一番を政綱としたのも頷ける話だ。
 今川軍は戦闘部隊と本隊を分けて進軍を始めた。戦闘部隊が砦を攻撃するのと本隊との距離が開くのを待っていたのだろう。その本隊が孤立するであろう場所が桶狭間と読んだからこそ勝機有りと今川軍に突撃していったに違いない。何の勝算もなく行き当たりばったりで信長が清洲を出たはずがないのだ。清洲を出たときにはすでに信長の中で勝利の方程式は完成していたのだろう。

 沓掛城主となった政綱は、織田家臣団として各地の戦いに参加することになる。ただ、名前がほとんど記録に出てこないところを見ると主力ではなかったのか、活躍がなかったのか。引き続き信長の隠密として働いていたという説もあるけど、それなら逆に中途半端に表には出てこなかったんじゃないかとも思う。
 加賀一向一揆を鎮圧したあと、加賀天神山城主となるも、再び立ち上がった一向一揆を抑えられず退却。責任を取って安土に籠もり、1579年に死去したと伝わる。本能寺の変が起きるのはその3年後のことだ。
 息子は徳川家に仕え、江戸時代は旗本になるも、後が続かず、お家断絶になったという。
 沓掛城も、最後の城主となった川口久助が関ヶ原の戦いで西軍につき、その後、廃城になった。



定納公園北西から

 たとえ戦国時代といえども、ほとんどの人間は歴史に埋もれて名を残すことも叶わない。そんな中で、簗田政綱は謎とは言われながらも確かに名を刻んだ。米田城にしても、政綱との関わりがなければ完全に忘れ去られて誰もかえりみない城跡になっていただろう。
 わずかな手がかりでも残せば、後世の歴史好きがそれを掘り起こしてくれる。
 簗田政綱とは何者だったのか? その問いの答えはあまり重要ではないのかもしれない。
 
【アクセス】
 ・名鉄瀬戸線「大森・金城学院駅」から徒歩約27分
 ・駐車場 なし(駐車スペースあり)
 

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