野並の八剱社と千秋家のこと - 現身日和 【うつせみびより】

野並の八剱社と千秋家のこと

野並八剱社入り口

 名古屋市天白区の南の外れ、野並交差点から少し東へ行ったところに八剱社がある。
 守山区にある八劔神社は「やつるぎ」と読むのに対して、こちらは「はっけん」と読ませる。
 熱田神宮にある別宮・八剣社(はっけんしゃ/八剣宮)から勧請して建てたのが野並にある八剱社だ。
 創建したのは熱田神宮大宮司の千秋家(せんしゅうけ)で、おそらく安土桃山時代と思われる。
 少し歴史をさかのぼって経緯を紹介するとこうだ。

 千秋家のルーツを辿ると、尾張国を支配した尾張氏にたどりつく。
 尾張氏の始祖はアメノホアカリ(天火明命/ニギハヤヒと同一神とも)で、乎止与命(オトヨ)のとき尾張国造(おわりのくにのみやつこ)となり、一族は代々熱田神宮の大宮司を務めることになる。
 時が流れて平安時代。京の都では藤原氏が全盛期を迎えていた。熱田神宮側で迎えたのか押しつけられたのかは定かではないけど、国司としてやってきた藤原南家の藤原季範を養子として大宮司職が譲られることになった。尾張氏は権宮司に格下げの形になる。
 以来、藤原千秋家を名乗るようになり、熱田神宮大宮司の職は千秋家が代々務めることになる。
 この藤原季範の娘・由良御前(ゆらごぜん)は源義朝の正室となり、源頼朝を産んだ。このこともあり、千秋家はだんだん武家化していくことになる。
 戦国時代の1560年、大宮司で当主の千秋季忠は、織田信長に従って桶狭間の戦いに出陣して討死してしまう。その父の季光は信長の父・信秀に仕えて加納口の戦いで戦死している。
 季忠の息子・季信は父が戦死したときはまだ母のお腹の中にいた。14年後の1574年、元服した季信は信長と謁見することになる。そのとき信長は、熱田神宮の大宮司でありながらこのまま武士をやっていては家が途絶えてしまうおそれがあるから、今後は兵役を免除するゆえ大宮司の務めに専念するようにと言い渡し、刀一振りとともに野並村を領地として与えたとされる。

 熱田神宮の大宮司だった千秋家が、領地の野並村に熱田神宮から勧請して神社を創建するというのはごく自然なことだ。
 ただ、何故、熱田神宮本体ではなく別宮の八剣社からだったのだろうと不思議に思った。
 八剣社は708年に、宝剣をあらたに鋳造することになり、それを納めるために建てられた社とされ、『延喜式神名帳』には愛智郡八剣神社として載っている式内社だ。
 なるほどそういうことかと思いついた。つまりは、信長から拝領した刀を納める社として創建したのが八剱社だったということなのだろう。どこにもそんなことは書かれていないけど、たぶんそうだと推測する。だとすれば、刀を納めるための社として八剣社ほどふさわしいものはない。
 信長からもらった刀が今どこにあるのかは分からない。神社の所有なのか、千秋家が所蔵しているのか、それとももう失われてしまったのか。
 千秋家は明治初期まで熱田神宮大宮司の職を務め、大宮司職がなくなった以降も一族の末裔は野並で暮らしているという。先祖代々の墓が梅野公園の近くにある。



八剱社鳥居から見る境内

 地下鉄桜通線も通る幹線道路の東海通に面しているとは思えないほど境内は静かだ。周りを取り囲む木々が音を吸収しているのだろう。
 きりっとした端正な神社だ。いい八幡宮とはまた違う凛々しさのようなものを感じた。



八剱社拝殿

 祭神は、ヤマトタケル、イザナギ、イザナミ、アマテラス、ツクヨミ、ヒルコ(蛭子命)、スサノオ、ミヤズヒメ、タケイナダネ。
 熱田神宮の八剣宮では、本殿と同じく熱田大神(あつたのおおかみ)などを祀っている。
 野並の八剱社は、創建当時誰を祀っていたのだろうか。刀を納めるためだったのではないかと予想するけど、それは当然ながら草薙剣ではないから熱田大神ではおかしい。近いところではヤマトタケルあたりだろうかと考えると、それもちょっとしっくりこない。アマテラスなどは後付けだ。
 その点に関してクリアーにならずモヤモヤが残った。千秋家が建てたというのだから、そのあたりの詳しいいきさつは代々伝わっていると思うのだけど、神社の由緒書きにはそのあたりの詳しいことは書かれていない。
 神仏習合の時代だったから、八剣大菩薩=不動明王を祀っていたということも考えられるだろうか。



八剱社注連縄と紙垂




八剱社社殿屋根




八剱社社殿全体




八剱社境内社

 合祀された境内社が並ぶ。神明社、田神社、秋葉社、六所社、山神社など。



八剱社北鳥居

 神社北側の鳥居。
 かつて神社の北に京と鎌倉を結ぶ鎌倉街道が通っていた。
 八剱社の北の道は上の道と呼ばれる陸路で、少し南の古鳴海交差点あたりで中の道と合流していた。海上ルートは南区の村上社あたりに船着き場があり、三王山あたりで合流していたようだ。潮の満ち引きによってどのルートを行くか決めていたという。
 野並から鳴海にかけての丘陵地帯は、かつて梅林が広がっていたらしい。その一番高いところにちょっと変わった松があり、聖松とされて旅人たちの目印になっていたという。『尾張名所図会』にも「野並乃梅」として載っている。松は昭和の初期頃に枯れてしまったらしく、現在は梅林も残っていない。梅野公園に名前として名残があるくらいだ。
 ちなみに、野並の地名の由来は、鳴海潟に広がる野原を鳴海野と呼んでいて、その野に並ぶところということで野並と名付けられたと考えられている。



野並の鎌倉街道

 かつての鎌倉街道。言われなければ分からない。



八剱社北の社

 道を隔てて小さな社がある。総コンクリート造の小社で、八剱社と関係があるのかないのか分からない。これくらいの規模のものを建てられないほど境内は狭くないから違う系統のものかもしれない。

【アクセス】
 ・地下鉄桜通線「野並駅」から徒歩約2分。
 ・駐車場 あり(無料) 北鳥居から入る
 ・拝観時間 終日
 

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