天白の島田城跡と斯波高経のこと - 現身日和 【うつせみびより】

天白の島田城跡と斯波高経のこと

島田城跡外観

 名古屋市天白区島田に、室町時代から戦国時代にかけて存在した島田城の跡が残っている。代々城主を務めた牧氏の子孫の所有地とのことだ。
 島田城の歴史について書く前に、まずはこの城の築城を命じた斯波高経(しばたかつね)と、鎌倉時代から室町時代に至る歴史について振り返った方がよさそうだ。

 斯波高経(足利高経)。生まれは1305年。足利尊氏と同い年だ。年代でいうと鎌倉時代後期ということになる。
 ひいおじいちゃんに当たる足利家氏(あしかがいえうじ)が足利宗家から分かれた尾張足利家の初代であり、斯波氏(しばうじ)の祖とされる人物だ。足利一門筆頭であり、将軍と同格ともされてる名門だった。
 室町幕府ができたのち、高経の4男・義将を管領とし、斯波氏は代々、三管領の筆頭となる。
 管領というのは幕府の実務一切を取り仕切る最高権力の地位で、三管領の斯波氏、細川氏、畠山氏が交代で務めた。のちにこのことが応仁の乱へとつながっていくことになる。
 鎌倉幕府の滅亡が1333年。そこに至る前後で斯波高経は重要な役割を果たすことになる。

 父が早くに亡くなったことで、10代で足利尾張家の当主の座に就いたとされる。
 1318年に即位した後醍醐天皇は、朝廷に政治を取り戻すべく鎌倉幕府倒幕を試みるも失敗。二度目の倒幕計画が知られてしまい隠岐島に流されたのが1331年。
 しかし倒幕の気運は高まり、楠木正成などは幕府に抵抗を見せて各地で暴れ回っていた。 
 1333年、赤松円心が挙兵。後醍醐天皇も隠岐島を脱出。足利尊氏(この頃はまだ高氏)も幕府に逆らい、赤松円心たちとともに六波羅探題(北条仲時ら)を攻め落とした。斯波高経も尊氏軍に従っていた。
 一方、鎌倉に攻め込んでいた新田義貞は、北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第14代執権北条高時らを自害に追い込み、ここに鎌倉幕府は滅亡した。
 ここから後醍醐天皇による建武の新政(天皇が自ら政治を行うこと)が始まるわけだけど、尊氏を征夷大将軍にするとかしないとかでもめたり、公家優遇の政治に反発が強まったりで、後醍醐天皇と尊氏との対立が決定的なものとなってしまう。
 1335年、尊氏が反旗を翻すと、奥州から応援にやってきた北畠顕家(きたばたけ あきいえ)、新田義貞、楠木正成らとの戦となり、撃退されてしまう。敗北した尊氏軍は九州まで逃れていった。斯波高経は途中までそれに従い、長門にとどまり、九州との連絡役を務めた。
 九州で兵力を整えた尊氏は、再び京に向けて進撃。湊川の決戦で新田軍、楠軍を打ち負かす。高経は陸路を行き、楠軍を殲滅させる活躍を見せた。
 尊氏は京に入り、光明天皇を擁立。後醍醐天皇は新田義貞たちととも比叡山に立てこもるも、その後、投降。
 高経は越前に向かい、新田義貞を討ち取ることになる。
 1336年。室町幕府成立。高経は越前、若狭の守護を兼務する。
 こでようやく争いがひと段落したと思いきや、まだまだそうすんなりとはいかない。北朝の将軍・足利尊氏に対して吉野に逃れた後醍醐天皇が南朝を名乗り、この南北朝時代は56年間も続くことになる。
 さらに足利家内部での権力争いが起こり、高経もそれに巻き込まれることになる。尊氏と対立した弟の直義との間で行ったり来たりを繰り返す高経。
 高経からすれば尊氏の自分への恩賞が充分でないと感じていたようで、一方の尊氏にとって高経はあまり力を付けさせると脅威になる存在という認識があったのだろう。両者はにらみ合いが続くことになる。
 この状況が動いたのは尊氏の死によってだった。1358年のことだ。二代将軍として尊氏の嫡男・義詮(よしあきら)が就任すると、高経はその後見人となり、幕府の中で徐々に権力を握り始める。執事(のちの管領)だった細川清氏を失脚させ、4男の義将を執事として、自ら政治を動かすことになる。このとき高経53歳。人生の絶頂期だったといえるかもしれない。
 あまりにも強引な政治に反発が強まり、佐々木道誉(京極高氏/3男・氏頼の舅)と対立してあっけなく失脚。都落ちを余儀なくされる。
 1367年、将軍・義詮から討伐令が出され追われる身となり、福井県越前の杣山城(そまやまじょう)で病死することになる。62歳だった。
 ただし、高経の死後に義将は謝罪して許され、幕府に復帰を果たした。



島田城本丸跡

 入り口には島田城跡を示す説明板が立っていて、中まで入っていけそうだったので進んでみると、通路ができていてこんもりした小山まで登っていけるようになっていた。
 中は竹藪というか雑木林になっている。これらがいつ頃の木なのかは分からない。それほど古いものではないだろうけど、常緑樹が多い。



島田城本丸

 こんもりしているところが本丸跡のようだ。
 道路や宅地で大きく削り取られていて往事の様子を思い浮かべるのは難しい。
 江戸時代に書かれた『尾張志』に、東西42間(約76m)、南北101間(約182m)ほどが城跡とある。おそらくこれは戦国時代に改修されたもので、斯波高経が牧氏に築かせた初期のものとは違っている可能性が高い。当初はもっとこぢんまりした砦のようなものだっただろうか。
 ちなみにサッカーのフィールドが68m×105mだから、サッカーのフィールドを縦に2面並べたくらいの大きさだ。そう考えるとけっこう広かったことが分かる。



島田城の木

 島田城が築城されたとされるのが貞治年間だから、1362年から1367年となる。
 先ほども書いたように、1367年に斯波高経は追われる身となり死去しているから、1360年代前半と考えた方がよさそうだ。その頃の高経は政治の実権を握り、越前に加え、尾張や遠江の守護も兼ねていたというから、鎌倉街道の要所を押さえておく必要がると考えたのだろう。室町幕府もまだ盤石とは言い難い時期だ。
 この地に住む一族の牧氏に城を築かせ、守護させたとされる。初代の城主は牧顕朝という。代々、牧氏が城主を務めた。
 時は流れて戦国時代の1548年。信長の父・信秀が末森城(現在の城山八幡宮)を築城したとき、妹婿で守山川村北城主だった牧長義に小林城(現在の矢場地蔵)築城を命じ、その出城として島田城を修理し、一族に守らせたとされる。
 牧長義は信長の叔母を妻としており、息子の長清は信長の妹を正室にしていることからしても、戦国時代は織田家との結びつきが強くなった。
 尾張守護で名門の斯波氏の一族と、尾張守護代の尾張家の傍流でしかない織田家とが婚姻することになるのだから時代は変わったと当事者たちは思ったんじゃないだろうか。信秀くらいの代になると斯波氏の力は衰えて、守護代の織田家の方が力が強くなっていた。



島田城跡の牧神社

 本丸跡に小さな社がある。地元の人たちは牧神社と呼んでいるそうだ。牧家の祖神を祀っているという。
 現在、このあたり一帯には数多くの牧家が存在している。これほど開発が進んだ住宅地の中で、一部とはいえ古い城跡が残ったのは、この土地を持っている牧家の一族のおかげだ。近年の宅地開発が進むまでは馬場や的矢の跡も残っていたらしい。
 戦国時代ののち、牧家はいくつかに分かれ、江戸幕府の旗本になったり、尾張藩士になったりした。



島田城跡の雑木林

 島田城がいつ廃城になったかは伝わっていない。戦国時代、このあたりは織田家と今川家との争いの最前線だったから、その戦火で焼けてしまってそのまま捨て置かれたのかもしれない。近くの島田地蔵寺は桶狭間の戦いの際に戦火で燃えたとされている。だとすれば、島田城もただでは済まなかっただろう。
 夏草や兵どもが夢の跡と芭蕉は歌ったけど、今となってはその跡さえ辿ることが難しくなった。
 

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