たまたま見つけた大幸八幡社に参拝していく - 現身日和 【うつせみびより】

たまたま見つけた大幸八幡社に参拝していく

大幸八幡社をやや離れたところから見る


 名古屋市東区矢田の「ベーカリー67」へ行った帰り道、少し奥に入った向こうに鳥居を見つけて行ってみることにした。
(「ベーカリー67」は営業日が金・土のみで夕方前には売り切れて店が閉まってしまうためまだ買えていない)



大幸八幡社鳥居前

 大幸八幡社とある。
 ナゴヤドームのある大幸南よりも北、矢田川のすぐ南側のこんな場所に神社があるとは知らなかった。大通りからはやや奥まった住宅地で、用事がなければここまで入ってくることはない。
 大幸というと大幸東団地を思い浮かべる。UR都市機構が手がけた大きな団地で、学校時代の同級生が住んでいた。団地内に商店街や幼稚園、郵便局まであってひとつの町のようになっている。
 このあたりはかつて狩津村と呼ばれていた。鳥や獣がたくさんいて猟に適していたことからそう名付けられたという。山の幸が豊富に獲れたことから大幸(おおさち)と呼ばれ、戦国時代以降は「だいこう」と音読みされるようになったのだとか。
 南の隣村は上野村で、のちに鍋屋上野と呼ばれるようになり、鍋屋上野浄水場などに名前が残っている。
 別の説では近くにあった醍醐の森から転じたというものもあるようだ。
 北を流れる矢田川の名前の由来についてもいくつか説があり、『尾張国地名考』では山田荘の山田が省略されたものとしている。
 ついでに書いておくと、現在東区となっている地域には城がなかったようだ。隣の千種区には末森城があるし、上野にも上野城があった。周りを囲む北区、中区、守山区にもそれぞれいくつか城があったのに、たまたま東区のエリアだけは城空白地帯だったのだろう。城跡が見つかっていないだけかもしれないけれど。



大幸八幡社境内

 境内はやけにがらんとしている。これはあまりにもあけっぴろげすぎないかと思う。
 神域という概念があるように、神社というのは建物ではなく空間のことだ。だからこそ、内と外とを明確に区別しなくてはならないわけで、昔はそのための機能として森があった。神社は閉じていないと気が抜けてしまう。いくら住宅地の中とはいえ、もう少し何かで囲った方がいいと思う。



大幸八幡社拝殿

 創建は江戸時代中期の1752年と伝わっている。
 八幡社なので祭神はホムタワケ(誉田別命/応神天皇)。
 八幡神社を訪れてよく思うのは、どうして八幡社だったのだろうということだ。戦もなくなって久しい江戸時代に八幡神を祀る意味とはなんだったのか。この神社の成立がどういうものだったのか分からないのだけど、たとえば城の城主が城内で八幡神を祀っていて、それがのちに城外に移されて八幡神社となったとかなら分かる。ただ、先ほども書いたように、このあたりに城があったとは伝わっていない。創建時の場所がこことは違って、近くの城主なり武将なりが創建したということなら納得はいく。土地の領主が村のために神社を建てようとなったとき、それがどうして八幡社でなければならなかったのだろうと考えると、その必然性がよく分からない。
 一番分からないのは、江戸時代を生きていた庶民たちの八幡神に対する思いだ。江戸時代の人たちは八幡神をどういう神と見ていたのか。現代の我々が思う戦の神というのとは違っていたのかもしれない。徳川家と八幡神の関係や、神仏習合の八幡大菩薩についてなど、私自身が今ひとつ理解できていない。この八幡神問題は今後も課題として残る。 
 明治18年に村社となる。
 現在の社殿は昭和53年(1978年)に再建されたものという。



大幸八幡社狛犬

 社殿は新しいけど狛犬はなかなか古い。
 大正6年(1917年)に作られたもので、浪速狛犬という種類のものらしい。
 狛犬に関しては特に興味もなくて全然知識がないのだけど、浪速狛犬(浪速型狛犬)というのは大阪で生まれたひとつのスタイルとのことだ。
 幕末から明治にかけて奈良、京都に広がり、滋賀県から三重県へ、やがて愛知県西部まで来て、そこで止まったらしい。
 大阪で量産されたものは北前船で九州から北海道まで運ばれたものもあるという。
 大正時代に愛知県西部の職人に受け継がれたというから、ここのものはその職人が作ったものかもしれない。
 熱田の住吉神社には1789年に作られた浪速狛犬があるそうだ。



大幸八幡社拝殿の屋根




大幸八幡社御嶽社

 神仏習合の名残として、境内に御嶽社と僧侶のものらしい石像がある。詳しいことは不明。
 濃尾地震(明治24年/1891年)の記憶を伝える震災紀念碑も建っている。このあたりでもけっこうな被害が出たようだ。



木の電柱

 神社は神を祀る場所というだけでなく、地域の歴史を伝える拠り所でもある。もしこの場所に神社が建っていなければ、この地区の歴史を知ることはなかっただろう。たまたま大幸という町を通りかかってその町のことを調べてみようなどとは考えない。
 たとえ歴史の記憶の大部分を失ってしまったとしても、神社はそこに在り続けるだけで一定の役割を果たす。地域のつながりが希薄になった現代において、祭りや神事などによって人々を結びつけるという役割も担っている。

【アクセス】
 ・地下鉄名城線「砂田橋駅」から徒歩約7分。
 ・駐車場 たぶんなし(路上可)
 ・拝観時間 終日
 

スポンサーリンク

関連記事ページ
コメント
非公開コメント

トラックバック

http://utusemibiyori.com/tb.php/4750-cc1325c1