名古屋人にとって近くて遠い名古屋城に少し近づけた 2006年12月29日(金) - 現身日和 【うつせみびより】

名古屋人にとって近くて遠い名古屋城に少し近づけた 2006年12月29日(金)

名古屋城小天守大天守

PENTAX istDS+TAMRON 28-200mm XR(f3.8-5.6), f4.0, 1/250s(絞り優先)



 東京に住んでいる人が案外皇居へ行かないように、名古屋人も名古屋城へ行くことは意外にも少ない。名古屋生まれの名古屋育ちでも、名古屋城へ入ったことがないという人は大勢いる。どういうわけか、学校と名古屋城の関係が薄く、社会見学や遠足に名古屋城は入っていない。行くとしたら自分の意志で行くしかないわけで、城に興味がある人間が城に興味がない人間よりも圧倒的に少ないのはもちろん名古屋も同じことだ。近くて遠い名古屋城、それが名古屋人と名古屋の関係なのだ。
 よそから名古屋に遊びに来た人を迎えるとき、名古屋人は張り切って名古屋城へ行こうと誘う。それは名古屋城が大好きだからではなく、実は名古屋城へ行ったことがないからという場合が多い。そんな機会でもなければ行くことがないからここぞとばかりに名古屋城へ行こうとする。名古屋城へ入ると、ゲストよりも案内するはずの名古屋人の方が喜んではしゃいでしまうのはそういう事情があるのだ。もちろん、私とて例外ではない。物心ついて以来、初めて入る名古屋城に感激しっぱなしの私なのであった。

 関ヶ原の合戦に勝利して江戸に幕府を開いた徳川家康は、大阪城に健在の豊臣家に対する備えとして、尾張に城を築くことを決めた。首府だった清洲から、織田信長の生まれた地である那古野(名古屋)に城を作り替えたのは、清洲では大きな城を築くには狭すぎたからだった。名古屋台地は熱田の港にも近く、わき水が豊富で、広い土地がある。地理的にも申し分ないということでこの地に決められた。
 関ヶ原から10年後の1610年、名古屋城の築城が始まる。担当するのは関ヶ原の合戦で負けて、のちに家康についた、いわゆる西軍の外様大名たちだった。家康は口だけ出して金は一切出さない。費用はすべて指名された加藤清正、福島正則、前田利光、黒田長政らの二十大名たちがまかなうことになった。家康に対する忠誠心を試すことと、金を使わせて勢力を弱めるということを目的としていた。大阪城に対する備えというのは名目でしかなかった。
 これは大変な大工事であり、莫大な費用を必要とするものだった。特に福島正則などは泣きが入りっぱなしで、もう国に帰ると散々駄々をこねて、しまいには加藤清正に叱られている。そんなにイヤなら帰って謀反でも起こせ、と。ひとり加藤清正だけは努めて明るく振る舞って元気いっぱいに作業していたという。しかし、昨日まで戦をしていた面々が今日からは突然現場監督になるというのも不思議な話だ。戦の合間に日夜築城の勉強をしていたのだろうか。
 掘りは掘り割りの名人と呼ばれた福島正則が担当し、一番大変な天守台は普請奉行にも任命された加藤清正が自ら進んで買って出た。作事奉行に小堀遠州、大工頭に中井大和守正清、施工は岡部又右衛門など、各担当が決められ、昼夜を問わずの突貫工事で、わずか8ヶ月で完成したのだった。
 特に大変だったのが石垣の石だ。巨大な石を各地でかき集めて、苦労して運んできた。大きなものは、地車に乗せて数百人の人夫が引っ張ったという。石垣の石には各大名の目印が彫り込まれている。記念になどという軽い気持ちではなく、苦心の証としてそれくらいでもしなければ気が済まなかったのだろう。
 天守台の石垣は、清正流三日月石垣と呼ばれ、熊本城と並んで石垣の傑作と言われている。切り立った断面と曲線のコントラストがとても美しい。清正は石垣を作り終えたのち、燃え尽きるように死んだ。
 1612年、3年の歳月をかけて名古屋城は完成した。同時に、家康の九男・徳川義直が初代尾張藩主として名古屋城に入る。家康も老体をおして名古屋を訪れ、天守閣からの眺めに満足したという。それで安心したのか、翌年75歳で人生を終えた。
 以後徳川御三家筆頭61万石の尾張藩主の居城として、17代、明治維新まで歴史を刻むことになる。

名古屋城大天守

 大天守と小天守が連結した形は、江戸時代初期の代表的な城郭のスタイルとなっている。大天守は地下一階、地上五層五階で、19.5メートルの石垣の上に高さ36.1メートル、あわせて55.6メートルの高さを誇る。当時としては超高層建築だから、尾張中どこからでも見えたに違いない。床面積では江戸城や大阪城よりも広い。まさに偉容という言葉がぴったりの城だ。大阪城、熊本城と並んで三名城と呼ばれている。
 小天守は、地下一階、地上二層二階で、大天守への関門の役割を持っていた。ここを通らないと大天守には行けない。
 屋根には徳川家の威光を示す意味で金鯱を乗せた。金鯱についてはいずれあらためて書きたいと思っている。いろいろと面白いエピソードがあるから。

 明治になったとき、名古屋城は一度取り壊しの話が出た。新しい世の中に旧時代の象徴である城はいらないだろうということで。しかし、中村重遠大佐がこの危機を救った。要塞としても価値があるということでなんとか山県有朋を説得して保存されることになった。中村大佐は同じように姫路城も救っている。城マニアは中村大佐に感謝しないといけない。
 火事にもならず、地震にも耐えた。マグニチュード8.0の濃尾地震でも倒れなかった。名古屋城は永久に不滅ですと思われたが、B-29の焼夷弾には勝てなかった。終戦の年の昭和20年、名古屋城の天守閣や本丸御殿は一日で焼け落ちた。金鯱を疎開させるために組んでいた足場に焼夷弾が引っかかったのが完全に焼け落ちた要因となってしまった。国宝だった天守閣も、本丸御殿も、姫路城を質量ともに上回っていた数々の国宝も焼け、金鯱も溶けた。あとには石垣だけが残った。
 江戸城もそうだけど、あと一年早く終戦を迎えていたら、どれだけたくさんの歴史的見物が残っただろうと思うと本当に残念でならない。
 終戦から10年以上の間、名古屋には城がなかった。ようやく再建の話が出たのが昭和32年(1957年)のことだ。名古屋市制70周年記念事業として話が決まった。木造でという強い願いは通らず、鉄筋コンクリート造りとなった。完成は昭和34年のことだ。金鯱も同時に復元された。ただし、純金など夢のまた夢で、今のものは18金のメッキにすぎない。大学から金城に行ったようなものだ(名古屋人にしか分からないたとえ)。
 現在の大天守閣は地下一階、地上七階建てで、5階までが展示室、一番上が展望台になっている。
 2010年には、名古屋城築城開始400年にあたるということで、本丸御殿の復元が決まっている。私もささやかながら寄付をしてきた。完成したら壁の1センチ四方くらいは私のものと言えるだろう。

名古屋城下

 かつての名古屋城下の様子はこんなふうだった。今と違ってビルを建てられないから、広い敷地が必要となる。ただやっぱり町並みとして美しいなと思う。日本の町風景としてとても正しい感じがする。
 これを見ながら名古屋城を攻めるとしたらどうするかと考えてみる。平城とはいえ、北と西の堀は深くて、東はとっかかりがないから、南の一ヶ所しかない。けど、これは相当難しい気がする。大軍ではなだれ込めないし、少数精鋭でいくにしても名古屋城自体かなり防御態勢が整えられているので難しそうだ。四隅には櫓の備えもある。たとえ天守まで行けたとして、入口は小天守の一ヶ所のみ。上からは鉄砲の弾や弓矢が飛んでくるし、石垣は美しい曲線を描いていて登りづらい。張り付いていると上から石や熱湯が降ってくる。
 作った本人の家康なら、どうやってこの城を落とそうとするだろう。豊臣秀吉なら落とせるのだろうか。

 名古屋城に関するちょっとしたエピソードを二つ紹介しよう。
 ひとつは、お堀電車だ。明治から昭和にかけて、外堀の中を電車が走っていたというのを知っているだろうか。昔から名古屋に住んでいた人にはお馴染みかもしれないけど、よその人はたぶん驚くと思う。空堀の底に電車を走らせるなんて誰が思いついたのだろう。これもある意味お城を大事にする名古屋人的発想と言えるのだろうか。
 もうひとつは、名古屋城埋蔵金についてだ。江戸城の消えた徳川埋蔵金は有名だが、名古屋城にも似たような話がある。大阪の豊臣家が滅亡したときにぶんどった金を家康は徳川御三家に分配している。いざというときのための軍資金として。尾張藩も晩年は金鯱を質の悪いものと交換して赤字の穴埋めをしたりしてはいるものの、家康から預かった金をそう簡単に使ったとも考えられない。それは地下に隠してあったというのだ。しかし、明治維新のあと、調べてみると大判一枚も見つからなかったという。尾張藩の黄金はどこへ消えたのか。ここはひとつ、糸井重里に再登場してもらうしかあるまい。ヘルメット姿の糸井重里をもう一度見たいぞ。

 伊勢音頭にいう、「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」は、名古屋人にとって少しこそばゆいような耳障りの言葉だ。確かにお城は誇れるかもしれないけど、それしかないみたいな言われようだな、と。事実そうなのだからよけい卑屈な気持ちになりがちだ。ただそれも、名古屋城が国宝だった戦前までと再建された今ではずいぶん意識が違っている。今の若い名古屋人で名古屋城を自慢に思ってる人間はほとんどいない。最初に書いたように入ったことがない人も多いくらいなのだから。
 それでは、名古屋人にとって名古屋城というのはどういう存在なのだと訊かれると、少し返事に困る。愛憎というほど思い入れは深くなく、嬉し恥ずかしというほど嬉しくも恥ずかしくもない。じゃあ嫌いなのかと問われるとそうではない。だったら好きなんだねと念を押されると、ちょっと待ってくれと言いたくなる。とりあえずそこにあれば安心でなくなると困るもの、といった感じだろうか。
 今回、ほとんど初めての名古屋城行きはとても満足度の高いものとなった。ほー、こんなふうになっていたのかと初めて知ることも多かった。外から眺めているだけでは分からないこともいろいろあった。名古屋城、いいじゃん。うん、ホント、悪くない。
 本丸御殿が完成して、桜が咲いた頃、もう一度名古屋城へ行こうと思った。それは小さな約束でもあった。

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コメント
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名古屋城も空襲で焼け落ちてたのですね。
あぁ米軍憎し・・見てみたかったなぁホンモノの名古屋城。

そういえば新年にたまたま部屋を掃除していたら「明智光秀」というドラマをやっていたので見たのですが、安土城をCG?で再現してましたが素晴らしかったです。
最上層は金色、下層は朱色で内部は内部の黒漆塗り、障壁画を再現でされてました。
後、信長の衣装や役者さんもいい感じでした。
内容はちょっとアレでしたけどね。

2007-01-05 17:00 | from ビアンキ

ぜひ安土城再建を

★ビアンキさん

 名古屋城も災害には勝ったんだけど、米軍には負けてしまいました。悔しいですねぇ~。
 私も国宝の名古屋城を見てみたかった。

 安土城はミニチュアサイズ(といってもけっこう大きいのだけど)で再現されてるんだけど、ぜひぜひ国家プロジェクトくらいで完璧に再現して欲しい。
 あれを世界に誇らず何を誇るんだってくらいの日本一の城なんだから。
 安土城を燃やしてしまったのはつくづく愚かなことでしたね。ただ、本能寺の変がなかったとしても、戦後まで残ることはなかったかな。

「明智光秀」は、いかにもフィクションだったけど、わりと面白かったです。
 ただ、光秀があえて汚れ役を買って出たという説は一理あるかもしれないと納得したのでした。裏で糸を引いていた人間いたとかいうのよりは説得力がある。

2007-01-06 14:42 | from オオタ | Edit

ああ!明智光秀見られましたか!
光秀が本能寺の変を起こすきっかけとなった
母親を見殺しにされたというエピソードはなかったですね。
まぁそれがあると私怨になっちゃうからかな・・・

2007-01-08 02:43 | from ビアンキ

歴史ミステリー

★ビアンキさん

 こんにちは。
 明智光秀の動機は、いまだに分からないことが多いんですよね。
 たくさんある歴史ミステリーの中のひとつとして、永遠に謎のままなのかな。
 裏で糸を引いていた黒幕がいるって説は、なんとなく個人的には納得できないんですよ。実際、いろいろなしがらみとか人間関係とかはあったんだろうけど。
 ただ、個人的な恨みとかではないと思う。
 実は生き延びて天海和尚になったって説は無理がありますね(笑)。

2007-01-08 23:24 | from オオタ | Edit

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