多奈波太神社は七夕と棚機の神社 - 現身日和 【うつせみびより】

多奈波太神社は七夕と棚機の神社

多奈波太神社

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm



 名古屋市北区には、羊神社綿神社、別小江神社など、「延喜式神名帳」に載っている式内社とされる神社がいくつかある。去年まとめてめぐって、だいたい回っただろうと安心していたら取りこぼしがあった。北区金城にある多奈波太神社(たなばたじんじゃ)という神社だ。
 名前からして七夕に関係がありそうだというのは予測ができたけどそれ以上のことは知らないまま出向いていった。
 第一印象としてはこぢんまりしていてこれといった特徴を見いだせない神社だなというものだった。少なくとも現在の姿を見て、予備知識無しにここから千年の歴史に思いをはせるのは難しい。江戸時代までは鬱蒼と生い茂る樹木に囲まれて七夕の森と呼ばれていた頃の面影はない。第二次大戦中、境内に高射砲陣地が置かれる際に多くの木々を切り倒してしまったことで鎮守の森は失われることになった。
 この神社を紹介するとき語られるエピソードとして、戦国時代に織田信長の焼き討ちにあい、社殿とともに伝書などを焼失したというものがある。それで創建などの詳しいことが分からないのだと。
 その前にまず地理的な説明をすると、現在、神社のすぐ南を堀川(黒川)が流れており、北3キロくらいのところに矢田川と庄内川の合流点がある。名古屋城は神社から見て南西約1キロの場所にある。
 信長の時代にまだ名古屋城はなく、その前身といえる那古野城があった。焼き討ちにあったというのは、信長がまだ尾張を統一する前のことで那古野城もしくは清洲城にいた頃と推測できる。その時代の信長が何故、由緒ある神社を焼かなくてはならなかったのか。敵対勢力と通じていたとかそういうことなのだろうか。焼き討ちという表現からして、戦火で焼けたのとは違うということだろう。だとしたら、どうしてこの神社だったのか。近くの神社で同じようなことがあったというエピソードは伝わっていない。
 戦国時代に、多奈波太神社が今の場所にあったかどうかも実ははっきりしない。名古屋城築城の際に今の場所に移されたという話もある。遡れば、創建された平安時代、もしくはそれ以前はこのあたりの地形も今とはずいぶん違っていたはずで、あるいは海岸線の近くだった可能性もある。
 庄内川を挟んだ北西にある星神社との関係も指摘されているけど、詳しいことはよく分からない。
 それ以外にこれといった逸話もなくさらっと流してしまいそうになるのだけど、もう少し掘り下げて調べてみるといくつか興味深い話が出てくる。

 この神社の主祭神は、天之多奈波太姫命(アメノタナバタヒメ)となっている。聞き慣れない神だ。
 別の字として天之棚機姫命とあり、そうなると機織りに関係する神だろうと想像できる。織姫のことというのは後の話と思われる。
「古語拾遺」に、アマテラスが天岩屋に隠れて出てこなくなったとき、献上する衣を織った神として登場する。別名を天之八千千比売命といい、アマテラスが高天原にいるとき、蚕の繭からとった絹糸で衣を織って作ったともされる。
 いずれにしても、織物の神を祀った神社として創建されたのであろうと思われる。平安時代、もしくはそれ以前となると、渡来系の氏族という可能性が高そうだ。絹織物など高度な知識と技術を持った氏族が建てた神社だっただろうか。
 ひとつの可能性として秦氏の名前が挙がる。同じ北区に織部町というところがあり、そこは織物を得意とする渡来人が住んでいたという話がある。
 これはこじつけかもしれないけど、この神社は千種区にある上野天満宮の宮司が兼務しており、上野天満宮の宮司は代々、半田氏が務めている。半田氏は秦氏の同系とされる。上野天満宮の創建は平安時代中期とされているから、もともと多奈波太神社の宮司をしていた半田氏が上野天満宮も兼務することになったという流れなのかもしれない。
 上野天満宮は安倍清明が政変(花山天皇退位事件)のあおりで一族と名古屋に流されてきたときに創建したという説がある。近くには晴明神社があり、それは安倍晴明の邸宅跡地に建てられたという。
 そんなあたりも含めてあれこれ想像してみると面白い。

 ついでだから七夕について少し書いておくと、もとは中国の五節句のひとつ「しちせき」から来ている。
 よく知られている7月7日の夜、天の川で彦星と織姫が出会うという伝説は、日本では奈良時代に広まったとされている。当時は日本でも、しちせきと呼ばれていたようだ。
 女性が裁縫の上達を織女の星に願う中国の乞巧奠(きっこうでん)が伝わる一方、日本で古くから行われていた棚機津女(たなばたつめ)などが融合して七夕まつりへと形を変えていくことになる。棚機津女というのは、選ばれた巫女が水辺で神の衣を織ってささげる儀式のことだ。
 棚機と書いてたなばたと読むのはここからきている。七夕は7月7日の夕に行われることから来た当て字というわけではなく、もともとあった五節句の七夕と棚機があわさってその字が使われるようになったというわけだ。短冊に願い事を書くのは乞巧奠から来ているのと、もともと日本の農村でも棚機津女信仰から来る祈りの風習があって、盂蘭盆会の行事としての性格も併せ持つことになった。



多奈波太神社入り口と笹




多奈波太神社拝殿

 名古屋城築城後は、名古屋東照宮の管理下に置かれて、一般人は立ち入り禁止だった。
 江戸時代前期の寛永年間(1624年から1645年)には尾張藩によって社殿が建て替えられている。
 毎年旧暦7月7日は例祭が行われ、時の藩主も訪れたという。その日ばかりは一般人も境内に入ることが許され、なかなかの賑わいを見せたようだ。そのときの様子が「尾張名所図会」にも描かれている。ということは、江戸時代にはすでに七夕関係の神社という認識が定着していたということなのだろう。
 しかし、明治に入って突如、八幡社となる。どういういきさつでそうなったのかは分からない。
 現在、アマテラス、スサノオ、応神天皇、大山津見命、オオナムチ(大己貴命)が一緒に祀られている。この顔ぶれもどういうことなのだろう。特に大山津見命が何故一緒に祀られているのか不思議だ。イザナギとイザナミの間に生まれた子供で、山の神であり、酒の神でもある。境内社の山神社でたまに見かけるくらいで、尾張地方ではあまり馴染みのない神だ。
 八幡神社になった経緯や、これらの神が合祀された時期など、いくつか釈然としない部分が残った。
 社殿は昭和20年(1945年)の名古屋大空襲で焼失。今の社殿は昭和39年(1964年)に再建されたものだ。
 戦後から昭和50年代まで、このあたりの町名は七夕町だった。それ以前は田端村で、現在は金城になっている。



拝殿屋根




多奈波太神社本殿




多奈波太神社石灯籠

 少し古い感じの石灯籠がある。



多奈波太神社ご神木




多奈波太神社イチョウ

 境内に乳イチョウと呼ばれるイチョウの木がある。木の幹から乳のように垂れ下がっているもので、若木には珍しいのだとか。
 安産祈願や乳の出がよくなるようにと願うために参拝に訪れる人もいるという。



彩りの葉




多奈波太神社イチョウ




多奈波太神社鳥居前から

 旧暦の七夕(8月7日)にはお祭りが行われ、境内には願い事を書いた短冊を結んだ笹が並び、夜には出店も出て、近所の人たちで賑わうという。

【アクセス】
 ・地下鉄名城線「名城公園駅」下車。徒歩約10分。
 ・無料駐車場あり(ロープが張られているので、左から2番目のポールを外して駐車して、帰りはポールを元に戻してほしいとのこと)
 

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