小幡城跡を訪ね歴史に思いをはせる - 現身日和 【うつせみびより】

小幡城跡を訪ね歴史に思いをはせる

小幡城跡

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm



 名古屋市守山区に戦国時代にあったとされる小幡城跡を訪ねた。
 現在、介護施設ビブレにししろや駐車場になっているあたりに小幡城はあったとされている。
 最寄り駅はゆとりーとラインの川宮か、川村か。名鉄瀬戸線の小幡駅でもいい。いずれにしても1.3キロくらいあるから20分ほど歩くことになる。
 このあたりも宅地開発が進み、遺構は何も残っていない。駐車場の角に説明板が立っているのみだ。



小幡城

 地形的に庄内川の河岸段丘の縁(へり)に当たり、この縁に沿って守山城竜泉寺城は建てられた。
 まばらに人家が建つ以外、建物がほとんどなかったであろう当時は、遠く小牧山城犬山城まで見えたんじゃないだろうか。
 鎌倉から戦国時代にかけて、守山区には11ほどの城郭があったとされている。しかし、城跡としてある程度はっきりしているのは、数ヶ所に限られている。小幡城跡はその中のひとつといってよさそうだ。

 1522年、織田敏信・信安親子の家臣、岡田重篤が築いたとされる。別の説ではその息子の重頼が築城したとも。
 織田信長などが生まれるまだずっと前のことだ。
 ちなみに、岡田重篤は南北城時代の武将・山田重忠の子孫に当たるらしい。承久の乱では後鳥羽上皇側について活躍したと伝わっている。山田重忠はこのブログでも何度か登場している。
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 北側は断崖のため、東西と南に二重の堀を巡らす本格的な城郭だったという。東西約200メートル、南北約70メートルというから、ビブレにししろ、駐車場、阿弥陀寺あたりまでがすっぽり入るくらいの広さだ。

 やがて岡田氏は名古屋市南区にあったとされる星崎城に移ることになり(星崎城は山田重忠が築城した城)、代わって入城したのが織田信秀(信長の父)の弟である信光(津田信光)だった。
 1535年、この地で世に言う森山崩れが起きるのだけど、少し前後の話を整理しておきたい。
 徳川家康の祖父・徳川清康は、敵対する尾張の織田信秀を倒すべく、本拠の三河岡崎城を出て、ここ小幡城に入る。城を出た清康軍は信光が守る守山城に攻め入った。あるいはすでに信光と通じていて、戦わずして入城したという説もある。しかし、守山城で信康は家臣の裏切りよって命を落とすことになる。そのあたりのいきさつについては守山城跡のときに書いた。
 守山城跡をたずねる
 信光が守山城から小幡城に移ったのは森山崩れの後なのだろうけど、そのあたりの経緯については私自身が把握していないのでよく分からない。移ったのがいつなのか、あるいは守山城と同時に支配していたのか。
 1551年、織田信秀が末森城で急死。信長が家督を継ぐ。
 信光は甥である信長側につき、敵対する織田信友を倒し、清洲城を奪取。清洲城を信長に譲り、自身は那古野城に移るも、そこで殺害されてしまう(1555年)。
 このような経緯を辿り、小幡城は一時廃城となっていたと考えられている。

 その小幡城が再び歴史の表舞台に立つことになったのは、1584年の小牧長久手の戦いのときだ。小牧長久手の戦いについてはこれまで何度か書いた。
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 秀吉との戦いに備え、家臣の本多広孝を派遣して小幡城を整備させ、家康自身がいったん小幡城に入り、竜泉寺城にいる秀吉軍と対峙することになる。両者の距離は約2.5キロ。戦国時代の戦場におけるこの距離感はほとんど目と鼻の先だ。
 しかしながらここでの直接対決を家康が避けたため、小幡城が戦場になることはなかった。祖父の清康が命を落とすきっかけになった城ということを多少は意識したのかもしれない。主な用途としては岡崎との連絡用に確保しておきたかったということらしい。
 竜泉寺城でせっせと土塁を築いたりして準備を整えていた秀吉軍を見据えつつ、夜陰に乗じて城を出たという。家康軍は小牧山城に入り、肩すかしを食った秀吉は楽田の本陣に戻るしかなかった。
 その際、秀吉軍は小幡城を焼き払っていったようで、小幡城は再び廃城となった。



小幡城跡からの眺め

 北西方向は現在でも広く視界が開けている。冬場は遠くの山並みまでよく見えそうだ。



西城小学校

 西には西城小学校がある。
 写真でも高低差が伝わるだろうか。



阿弥陀寺

 少し東へいったところに阿弥陀寺がある。
 城址山とある。
 創建など詳しいことは調べがつかなかった。
 このあたりが城の三の丸に当たると考えられている。



阿弥陀寺境内

 西城は古くから人が住んでいたようで、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての住居跡や土器などが見つかっており、西城遺跡と呼ばれている。
 
 名古屋の城址巡りはシリーズ化していきたい。
 

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