植田八幡社を訪れて植田の歴史に思いをはせる - 現身日和 【うつせみびより】

植田八幡社を訪れて植田の歴史に思いをはせる

植田八幡社

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm



 名古屋市天白区植田西にある植田八幡社(うえだはちまんしゃ)。
 塩竈神社など、天白の神社めぐりをしたときに立ち寄った神社のひとつだ。
 創建年は不明ながら、神社は植田八幡社古墳の上に乗っかっているそうだから、ルーツはかなり古いかもしれない。
 古墳時代中期に作られた全長80メートルの前方後円墳だそうで、この地方ではけっこう大きい部類に入る。
 ちなみに、現在までに発見されて分かっている中では、断夫山古墳(151メートル)、青塚古墳(123m)、白鳥塚古墳(115m)が愛知県内のベストスリーということになっている。
 遺構などはほとんど残っておらず、発掘調査がどれくらい行われたのかも分からないのだけど、この規模の前方後円墳が作れれるのは6世紀末頃までなので、500年代前半といったあたりと考えていいかもしれない。この地方の有力豪族だった尾張氏の首長クラスの古墳だろうか。
 一説によると、尾張氏の祖先神・天火明命(アメノホアカリ)の十四世孫、尾張針名根命(おはりはりなねむらじ)ではないかという。もし本当にそうだとすると、この古墳はかなり重要なものだからあっさり壊してしまっていいものではなかった。
 尾張針名根命は、同じ天白区にある式内社・針名神社に祀られている神で、犬山城にある針綱神社の祭神でもある。
 広く一般に知られている神ではないかもしれないけど、尾張地方では重要な地位にある神というか人物だ。ヤマトタケルの副将軍だったタケイナダネ(建稲種命)の孫に当たる。タケイナダネについては内々神社のときに少し書いた。
 残っている一番古い記録では、1844年に完成した『尾張志』の中で、1580年(天正八年)に室賀久太夫(むろがきゅうだゆう)が修繕したというのが出てくる。2年後の1582年に本能寺の変が起きるから織田信長の時代だ。
 室賀と聞いてNHK大河ドラマ「真田丸」を観ている人ならピンと来るかもしれない。真田家のライバル国衆として室賀正武を西村雅彦が演じていた。久太夫はその息子に当たる。
 どうして信濃の国衆だった室賀一族が尾張の植田村あたりで神社の修繕をすることになったのかは、少し順を追って説明する必要がある。

 京都で応仁の乱があったのが1467年から1477年にかけてのこと。室町幕府8代将軍・足利義政の後継者争いに端を発し、争いが全国に飛び火して戦国時代が始まる。
 そのまっただ中の1470年頃、遠江国横地城の14代城主・横地秀綱は駿河国の今川氏に攻め滅ばされて国を追われることになる。横地氏は遠江国の半分を支配するくらい力があったのだけど、今川氏の勢いには対抗できなかったようだ。ただ、当時、横地氏は室町幕府の奉公衆(将軍家直属の軍事担当)だったことから将軍・足利義政に尾張国の植田に城を築いて移り住むようにという命が下った。どういう理由でこの地が選ばれたのかは分からないのだけど、遠江国と比べると京都に近かったから応仁の乱の備えという意味合いもあったのかもしれない。
 植田城については詳しい記録が残っていないため、はっきりしたことは分かっていない。横地氏の屋敷に堀をめぐらせた程度のものだろうと考えられている。場所は植田八幡社の東南100メートルほどの場所で、現在、郷藪公園があるあたりとされている。
 横地秀綱によって飯田街道沿いに建てられた全久寺の建立が1471年と分かっていることから(のちに移転)、植田城築城もそのあたりに違いない。
 同時期に横地秀綱が八幡大菩薩を祀ったのが植田八幡社で、実質的な植田八幡社の創建はこのときと考えてよさそうだ。それ以前は古墳に上に小さな社があるくらいだったんじゃないだろうか。横地氏の出自は源氏というから八幡神を祀るのは自然なことだ。
 時は流れて1584年、ある事件が信濃で起きる。小県郡(ちいさがたぐん)の国衆だった真田昌幸(幸村の父)と、同じく国衆だった室賀正武の間で起こった主導権争い。先に仕掛けたのが室賀正武で、上に立とうとする真田昌幸が気に食わず暗殺しようとして逆に返り討ちにあって命を落とすことになる。父を失った久太夫は、つてを頼って一族で植田の地にやってきたという。しかしこれ、ただやってきたわけではなかった。徳川家康の命で尾張の領地を徳川のものにする使命を負っていたというのだ。
 どの程度役に立ったのかは分からないのだけど、その後の久太夫の出世ぶりを見ると、なかなか有能な人物だったようだ。関ヶ原のあとは尾張藩に仕え、名古屋城築城の際には二の丸の初代親衛隊長に任命され、尾張藩主3代に渡って仕えている。大坂の陣でも徳川方の御使番(戦場の伝令役)として参戦した記録も残っている。
 先ほども書いたように1580年には植田八幡社を修繕し、初代城主の横地秀綱と最後の城主となった横地権蔵を八幡社に合祀している。
 植田城の廃城がいつだったのかもはっきり伝わっていない。おそらく関ヶ原の前あたりだろうと推測できる。城主だった横地氏はその後、郷士(下級武士資格の農民)となったという。ただ、横地氏の徳川家への貢献が認められて、植田村は江戸時代を通じて年貢以外の雑役を免除されたのだとか。

 植田城以外にもこの近くに島田城や平針城があったと伝わっている。そちらを訪問して紹介する際に、もう少し天白の歴史について書ければいいと思っている。



植田

 社殿などは昭和に入って建て直されたもので、古いものは残っていない。
 境内の雰囲気についても特別なものは感じなかった。
 ただ、写真に撮るという点でいうと、かっこいい神社という印象が残った。絵になる神社と言ってもいい。



拝殿




境内社

 境内社の津島社、山神社、神明社。



厳島社

 朱塗りの厳島社。



脇鳥居

 東鳥居がある方から入った方が雰囲気がある。



東入口




格子の光と影




神馬




拝殿と石灯籠

 何気なく立ち寄った神社だったけど、思いがけず植田の歴史に触れることになった。関わった人物や過去の出来事を知った上で訪れてみると、また違った思いがするんじゃないだろうか。
 

スポンサーリンク

関連記事ページ
コメント
非公開コメント

トラックバック

http://utusemibiyori.com/tb.php/4657-3a24697c