長母寺はカッコイイ禅寺だと思う - 現身日和 【うつせみびより】

長母寺はカッコイイ禅寺だと思う

長母寺山門より望む

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 長母寺は写真映えのするお寺だ。とてもカッコイイ。禅寺らしい風格といったものがある。鎌倉五山を思わせると言ったら少し言い過ぎだろうか。
 守山区と東区の境、矢田川の南にその寺はある。矢田川の北には宝勝寺白山神社守山城跡などがあり、かつては長母寺も守山村に属していた。それまで南を流れていた矢田川が江戸時代中期の1768年の大洪水で大きく流れを変えることになり、長母寺は川の南に取り残されるような格好になった。明治に入った1876年(明治9年)に矢田村に編入され、名古屋市になったときに東区となり現在に至っている。

 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてこの地を治めていた山田重忠(やまだ しげただ)という武将(御家人)がいる。重忠は父母と兄を弔うために3つの寺を守山の地に建てた。父のために長父寺(今の大永寺)を、兄のために長兄寺(長慶寺)を、母のために建てたのが今日紹介する長母寺だった。
 熱田明神が夢に出てきて、木賀崎にお寺を建てるがよいと告げられこの地にしたという話も伝わっている。
 創建は平安時代末期の1179年。観勝法師を迎え、創建時は亀鐘山桃尾寺という名の天台宗の寺だった。
 その後焼失するも、1262年、山田道園坊夫妻が無住国師を迎えて再建。その際、臨済宗に改められ、名前も霊鷲山長母寺とされた。
 当時無住国師は37歳。高層の呼び声も高く、以降50年をかけて長母寺の興隆に力を尽くすことになる。最盛期は末寺が93寺もあったという。
 無住国師は、説話集の『沙石集(しゃせきしゅう)』や『雑談集』を残し、法華教を狂言風に書いた『正應年中萬歳楽』が尾張万歳のルーツとなったことでも知られている。
 尾張万歳というのは、法華経の教えを民衆に分かりやすく伝えるために歌って踊ったのが始まりとされている。のちに鼓や三味線などを使った舞台芸となっていった。
 ちなみに、三河(西尾市)の実相寺が発祥とされる三河万歳は無住法師の兄弟弟子だった応通禅師が始めたという説もある。
 蒙古襲来の1281年、後宇多天皇の勅願所となる。足利尊氏の祈願所ともなり田地を寄進されるも、中世になると衰退してしまう。
 北条、足利などが寄進し、織田信長も340石を与えるも衰退は止まらず、秀吉の太閤検地では寺領を没収され、細々と存続することになる。
 江戸時代に入り、澤彦和尚や昭山和尚が再興に力を尽くし、1682年、尾張藩2代藩主の徳川光友の命でどうにか復活を遂げることになる。



石段下

 矢田川沿いからテニスコートの脇を通って横入りしてしまったので、南から入り直すことにする。やはり南の石段を登っていく方が雰囲気が出ていい。
 私がここを訪れるのはこれが二度目だった。最初に訪れたときのことはブログに出ていないから2005年以前のようだ。



熱田社

 無住国師も熱田さんへの信仰心が強かったとのことで、山門の手前には熱田社が祀られている。



熱田社の社




山門

 江戸時代中期に建てられた木造薬医門は国の登録有形文化財に指定されている。



本堂

 同じく国登録有形文化財の本堂。
 本尊は阿弥陀如来。
 以前のものは1891年(明治24年)の濃尾地震で倒壊してしまい、現在の本堂は1894年(明治27年)に再建されたものだ。
 開山堂には無住国師手彫りと伝わる木造無住和尚坐像があり、そちらは重要文化財に指定されている。
 10月10日の開山忌には開山堂が開帳され、木造無住和尚坐像も見ることができるそうだ。
 1828年に建造された庫裡も残っている。



本堂間近から




古い巨木の幹




山門の屋根




石仏

 兄弟寺ともいえる大永寺と長慶寺も近いうちに行ってみるつもりでいる。
 

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