写真ノート<39> ---写真を言語化する - 現身日和 【うつせみびより】

写真ノート<39> ---写真を言語化する

地面のアゲハ

OLYMPUS E-M5 + OLYMPUS 60mm F2.8 MACRO



 考えて撮ることは大事。でも、考えながら撮るのはいけない。
 バッターボックスに立って自分のバッティングフォームを考えながら打っているようでは打てる球も打てないのと同じだ。写真を撮るというのは、シャッターを押すという行為だ。それは肉体的な反応であり反射であるわけだから、考えかんがえ心を込めてシャッターを押していては間に合わない。動かない風景などないのは時間が動いていることを考えれば分かる。
 人が写真を撮るのは気持ちが動いたからだ。脳が反応してシャッターを押せと指に命じる。
 一方で、写真は技術で撮るものだという言い方もできる。頭の中で構図を作り、絞りやシャッタースピードを決め、シャッターチャンスを狙う。そこには理論があり、計算がある。
 写真は感覚で撮るものか、理屈で撮るものか。その両方だと言ってしまえば話は早いのだけど、あまり簡単に結論づけて分かったつもりになるのは危険な気がする。もう少し写真というものを突き詰めて考えたい。

 メジャーリーガーのイチローは最近のインタビューの中でこんなことを語っている。
「気持ちで打てるわけじゃないですからね。気持ちで打てるなら毎回打てますから。それなりのレベルの相手だったら技術で打たないとね。気持ちで打ったことは一度もないですよ」と。
 これは写真にもそのまま通じる考え方だ。ただし、イチローが言わんとしていることを取り違えてはいけない。気持ちより技術が大事と言っているわけではなく、気持ちを込めることは前提で、その上に技術がなければ打てないということを言っているのだ。「気持ちで打てるなら毎回打てる」と言いきれるのもすごいと思うけど。
 写真もまた、技術と気持ちの両方がなければいいものは撮れない。いくら技術があっても作者が感動していなければその写真はどこか冷めている。逆にいくら熱い思いがあっても、技術が足りなければ熱は伝わらない。
 考えることは現場へ行くまでに終えておくことだ。それが写真における準備というものだろう。現場では何も考えずにシャッターを切った方がいいものが撮れることが多いように思う。何故そこでシャッターを押したのか、どうしてこの場面を撮ろうと思ったのかなどは、あとからいくらでも理屈がつけられる。

 毎回偉そうなことを書いている私ではあるけど、実際のところ、そんなに深く考えて撮っているわけではない。自分のことを棚に上げないと書けないから、いったん棚上げしているだけだ。どうして写真ノートを始めようと思ったかといえば、これまで折に触れて写真についてあれこれ考えを巡らせてきたことを、ここらで一度言語化してみようと思ったからだ。私自身、まだまだ発展途上で、本当のことをいえばこんな文章を書いている場合ではない。もっと撮れるようになってから書くべきことなのだけど、それでも一度、吐き出せるだけ全部吐き出しておこうと考えた。何年か前からその思いがあって、一応、機が熟したと感じたというのはある。いくぶん見切り発車ではあったけれど。
 自分なりの写真論を言葉で確立しておけば、あとは感じるままに何も考えずに撮れるようになるのではないかという思惑もある。そのあたりもスポーツ理論に近いものがあるかもしれない。
 駆けっこが早い子供が運動会で走ることと、オリンピック選手が100メートル走の決勝を走るのとでは、やっていることは同じでも意味がまったく違う。最高レベルで走るということを追求しようとすれば、それは論理的、科学的にならざるを得ない。
 理屈抜きの感覚だけの写真は腰が弱いと感じる。論理は写真の骨格だ。そこを抜きに写真を語ろうとすれば、感覚的にいい悪いや好き嫌いで終わってしまう。写真はそんなふんわりしたものではないはずだ。

 理屈以外の部分でいえば、写真に対する真剣な姿勢といったものを示さなければいけないと考えている。センスのよさだけで簡単にカッコイイ写真を撮ることをすごいとは思わない。泥臭くても、自分が撮るべき被写体と向き合い、真摯に撮影している人こそが素敵だ。
 誰かと比べて才能で負けることは恥じゃない。でも、努力で負けるのは恥だ。自分が好きなことや、取り組んでいる課題を怠けることは恥ずかしいことだ。才能でも負け、努力でも負けていたら勝ちようがない。少なくとも、最大限の誠意は見せなければならない。そこで甘さを見せてしまうとその先へ進めない気がする。
 勝たなければならない相手は、いい写真を撮るライバルなどではなく、自分の中にある怠け心だ。今日の自分は昨日の自分より撮れるようになっていなければならないし、明日の自分は今日の自分を超えていなければならない。

 森山大道の「にもかかわらず撮る」というモットーが好きだ。見習いたいと思う。
 昨日もおとといも同じ場所で撮った。にもかかわらず今日も撮る。毎年同じところへ行っているから今年はもうやめておこうかと弱気になる。にもかかわらず撮る。今日は雨だから出たくない。にもかかわらず撮る。どう考えても撮るものがない。にもかかわらず撮る。
 それが、にもかかわらず撮る精神だ。 
 最初に考えて撮ることが大事と書いた。確かにその通りなのだけど、机の前で考えているだけでは撮れないのが写真なわけで、とにかく現場に出なければ始まらない。考えて撮って、撮ってから考えて、また撮りにいく。その繰り返しだ。愚直に撮影を重ねていく以外に道はない。
 どうしたら写真が上手くなりますか、などという問いかけにあまり意味はない。とにかく自分が撮りたいものを撮り続けるしかないではないかという以外に答えようがない。写真はある一線を越えたところで上手い下手は関係なくなる。才能のあるなしもどうでもいい。
 自分が表現すべきだと思うことを信じるしかないし、信じられる限り撮り続けるしかない。気持ちがないところに写真は生まれない。それでも写真は技術が大事ということになって、話は堂々巡りになる。
 写真について自分なりの思いを十全に言語化するためには、まだもう少し言葉を重ねる必要がありそうだ。というわけで、写真ノートは続く。
 

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