新美南吉と矢勝川の彼岸花 - 現身日和 【うつせみびより】

新美南吉と矢勝川の彼岸花

半田口駅ホーム

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 半田の矢勝川彼岸花へ行く際の最寄り駅は名鉄河和線の半田口駅になる。しかし、この駅で降りて矢勝川の彼岸花へ向かう人はほとんどない。この駅で降りるのはたいてい2、3人程度で、私以外に彼岸花目当てと思われる人とはほとんど会ったことがない。平日の夕方ということもあるのだろうけど、多くは車で訪れているようだ。
 半田口駅は急行も停まらない無人駅なので、名古屋から特急や急行で行くと阿久比駅で乗り換えないといけない。それはまあいいのだけど、トイレがないのが困る。一番近いトイレとなると、矢勝川と線路が交差する東側にある小さな公園ということになるだろう。と去年までは思っていたのだけど、矢勝川へ向かう途中にある八幡神社にトイレがあることを今年発見した。道沿いから少し入らないといけないのだけど、ここのトイレは便利だ。新美南吉記念館まで行かなくても済む。
 そんな話もありつつ、今日は矢勝川周辺の風景をお送りします。



新美南吉の生家

 半田といえば新美南吉を半田市は全面的に推している。新美南吉といえば半田、半田といえば新美南吉と相場が決まっている、というほど全国に浸透しているとは思えない。そもそも新美南吉の知名度はどれくらいのものなのだろう。
 童話『ごん狐』くらいは読んで知っているという人も多いかもしれない。けどそれ以外の作品まで知っている人は少ないんじゃないか。「北の賢治、南の南吉」といわれることがあっても、知名度という点では宮沢賢治には遠く及ばない。
 宮沢賢治と新美南吉は世代的に近い。宮沢賢治はほぼ無名のまま死んだのだけど、学生だった南吉は賢治の作品を読んで知っていたという。ちなみ、宮沢賢治は生前、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』の2冊を自費出版しただけで、原稿料をもらったことは1度しかなかった。それでも中原中也などは賢治のことを知っていて、東北にすごい詩人がいると周囲に触れ回っていたそうだ。よく『春と修羅』の中の一節を口ずさんでいたというし、賢治の死後に作品を広めることに尽力もしている。
 上の写真は、新美南吉が生まれた生家を復元展示したものだ。大正2年(1913年)に畳屋を営む父渡辺多蔵の次男としてこの家で生まれている。
 本名は渡辺正八。のちに新美家の養子となる。
 4歳のときに母が死去。2年後に父が再婚して弟が生まれた。その2年後に父が離婚するも、同じ年に同じ相手と再婚。養子になった新美家は母方の祖母の家だった。
 しかし、養子になった家になじめず、実家に戻って暮らしていたという。
 詩作や童話を書き始めたのは高校生の頃からだ。
 岡崎師範学校(現・愛知教育大学)を受験するも体格検査で不合格となる。
 半田で小学校の代用教員となるも、同年退職。
 翌1932年、童話『ごん狐』を発表。同年、東京外国語学校(現・東京外国語大学)英語部文科文学に入学。
 2年後に喀血。21歳のときだ。
 東京外国語学校を卒業後は、神田の貿易商会に勤めるも、またも喀血して半田に戻る。
 1937年、知多の河和小学校で代用教員となる。しかし、体調不良で退職。
 家畜の飼料製造販売の研究所に入社。
 その後、安城高等女学校(現・安城高校)の教員となる。
 1943年、結核が悪化。3月22日この世を去る。29歳だった。

 新美南吉の生家は一時人手に渡っていたものを、昭和58年(1983年)に半田市が買い取り、修復復元したのち、昭和62年(1987年)から一般公開されている。入場無料。



黒板蔵




八幡神社

 行く前に地図で見つけた八幡神社に寄っていくことにした。



八幡神社境内

 拝殿の前に狛犬が4体並んでいる。かつてこの神社は神明神社で、のちに八幡神社を建て増ししたという経緯があったそうで、八幡神社と神明社が並ぶ格好になっている。
 このあたりの地名は岩滑(やなべ)という地区で、そこから岩滑八幡神社と呼ばれているようだ。
 境内には山車蔵もあって、祭りのときは山車が引き回されるという。
 ここから少し西へ行ったところに、南吉が晩年を過ごした離れがあり、南吉は生家と離れを行き来するときにこの神社の境内を通ったといわれている。



神明鳥居

 鳥居は神明鳥居のままとなっている。平成27年に建て替えられたものでまだ新しい。



八幡神社拝殿




空き地の彼岸花




八幡神社境内と鳥居




宮司専門駐車場




竹内製麺所と犬

 きつねのごんは、村の墓地へ行って、六地蔵の後ろに隠れながら白い着物を着た葬列が通りかかるのを見ている。そのときに彼岸花が登場する。
「墓地には、ひがん花が、赤いきれのようにさき続いていました」
 さらにこう続く。
「そう列は、墓地へ入ってきました。人々が通ったあとには、ひがん花がふみ折られていました」

 南吉のことを思いながら矢勝川の彼岸花を見ると、これまでとは少し違って見えるかもしれない。
 

スポンサーリンク

関連記事ページ
コメント
非公開コメント

トラックバック

http://utusemibiyori.com/tb.php/4624-171e595e