花井探嶺というコンクリ仏師がいた ~小幡緑地の御花弘法大師 - 現身日和 【うつせみびより】

花井探嶺というコンクリ仏師がいた ~小幡緑地の御花弘法大師

弘法大師像

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 / OLYMPUS 9-18mm / 60mm F2.8



 小幡緑地本園を訪れたことがある人でも、その一番奥に御花弘法大師と呼ばれる大きめの弘法大師像があることを知っている人は少ないんじゃないだろうか。私も存在だけはちらっと見聞きして知っていたのだけど、実際に訪れたのはこの日が初めてだった。
 尾張旭の退養寺に厄除大師と呼ばれる大きな弘法大師像がある。そちらは二度ほど訪れたことがある。
 浅野祥雲コンクリ像は尾張旭の山の上に人知れずどんと立つ
 それぞれ尾張三大弘法と呼ばれるもののうちのひとつで、もうひとつは尾張旭印場の良福寺にある。
 コンクリ像といえば浅野祥雲の専売特許のようなものと思っていたら、どうやらそうではなかったようだ。この御花弘法大師の作者は花井探嶺(はないたんれい)という。
 三重県菰野(こもの)の出で、本名は坂倉芳五郎。兄の鉄二郎も左官職人から仏師になった人で、地元の見性寺の阿弥陀如来座像を作ったことで知られている。鏝(コテ)とヘラのみで仏像を作る名人だったそうだ。末弟の芳五郎は最初、兄から手ほどきを受け、左官屋として出発したのち、常滑で陶芸の修行をしたり、外国に渡って彫刻の勉強をしたりしたという。帰国後、花井探嶺と名乗り、セメントやコンクリートで仏像などを作る仏師になった。
 中村区の白王寺にある十一面観音菩薩(中村観音)などが代表作として伝わっている。
 浅野祥雲は珍スポット紹介などでたびたび登場してけっこう知名度が上がっているけど、花井探嶺の名を知る者は多くない。このふたり、ほぼ同時代の人で、花井探嶺が1879年(明治12年)の生まれで、浅野祥雲が1891年(明治24年)生まれということで、花井探嶺の方がひとまわり上だ。ただ、浅野祥雲のコンクリ仏師デビューが40歳近くと遅咲きだったこともあり、ふたりの活動時期は重なっている。花井探嶺によって御花弘法大師が作られたのが昭和7年で、浅野祥雲の厄除大師は昭和6年のことだった。ちなみに、中村観音の完成が昭和8年というから、この時期はかなり精力的に制作していたことが分かる。

 そもそもどうしてにわかにコンクリ仏像ブームのようなものが起きたかといえば、昭和4年(1929年)に瀬戸電気鉄道が小幡駅から龍泉寺への支線・龍泉寺鉄道を敷く計画を立てたことに始まる。
 龍泉寺一帯を一大レジャースポットにして観光客を呼び込み、鉄道を流行らせようと考えたらしい。その目玉として、守山区を中心に隣の尾張旭市と春日井市に「蓬莱七福神」と「尾張三大弘法」を作ることにしたのだった。
 鉄道の計画は結局実現しなかったものの、尾張三大弘法は作られることになり、花井探嶺や浅野祥雲に依頼がいったという経緯のようだ。良福寺の開運大師はまだ実物を見たことがないのだけど、写真で見る限り花井探嶺作の可能性が高そうだ。
 御花弘法大師の開眼供養は昭和7年4月20日に行われ、2千人を超す人々が参列したという。
 その後、昭和のはじめは参拝客が大勢詰めかけ、子供たちが遠足で訪れるなど、大いに賑わったそうだ。
 ただ、昭和14年に瀬戸電気鉄道が名古屋鉄道に合併され、名鉄瀬戸線となってからは弘法ブームは去り、訪れる人もだんだん少なくなっていったという。



点在する石仏

 周辺の雑木林の中には多くの石仏が点在している。ちょっと岩崎御嶽山っぽい雰囲気もあるけど、あちらほどおどろおどろしくはない。
 弘法大師像以前に、この地は龍泉寺が管轄する松ヶ丘と呼ばれる境外地で、大正5年(1916年)に御花弘法八十八ヶ所が作られていた。四国の縮小版みたいなものだ。首が取れたり、欠けたりしている石仏はそのときの名残ということになるのだろう。
 龍泉寺表参道弘法堂裏や御嶽神社周辺、龍泉寺墓地の南、駐車場の西にも、それまで散らばっていた石仏が集められている。
 さらに江戸時代まで遡るという話もある。



石仏




弘法像




弘法像正面

 御花弘法大師は、弘法像にしては珍しく座像で、高さは十六尺というから5メートル弱ということになる。台座も同じくらいの高さで、あわせると10メートル近くになる。
 鉄筋コンクリート造りで、後ろに回ると中が空洞なのが分かる。
 まず鉄筋で骨組みを作って、コンクリートで塗り固めつつ、コテとヘラで造形していったものと考えられる。その技法は独自のもので、花井探嶺は弟子にも教えなかったという。そういえば浅野祥雲も一代限りで、後継者と呼べるような仏師は出ていない。
 あるいは、すでに忘れられてしまったコンクリ仏師が他にも少なからずいたのだろうか。
 彫り物に比べると細部の造形が甘いように見えてしまうけど、コンクリートで作っていることを考えると、相当高度な技法を駆使しているに違いない。



天燈鬼立像

 崩れかけている天燈鬼立像。奈良の興福寺にある国宝の天燈鬼・龍燈鬼立像を模したものと思われる。だとすると、反対側には龍燈鬼立像があるはずだけど、崩れ去ってしまったようで残っていない。
 邪鬼はたいていの場合、四天王像に踏みつけられていることが多い。このように立っている像は、燈籠を担いだり頭の上に乗せて、仏前を照らす役割を与えられている。



地蔵さんと猫




台座の彫り物

 台座の彫りもなかなか凝っている。これも花井探嶺の作だろう。兄の鉄二郎は左官屋時代、鏝絵の名手だったそうだから、花井探嶺にとってもこれくらいはお手の物だったに違いない。



彫り物の獅子




野良猫

 小幡緑地は猫の多いところだけど、この周辺は特にたくさんいた。地域猫としてみんながお世話をしている。



弘法像のスケール感

 こんなところ誰も訪れないだろうと思いきや、私が滞在した30分くらいの間に何人もの人たちが入れ替わり立ち替わりやってきていた。今は龍泉寺に代わって地域の人たちが怠りなく手入れをしているようだ。参拝に訪れる人もいた。

 浅野祥雲ブームに続いて花井探嶺ブームも訪れるかといえば、それはちょっとないかもしれない。浅野ワールドのようないい意味でのアクの強さや派手さに欠ける分、面白みがないからだ。ただ、花井探嶺というコンクリ仏師がいたことは覚えておいていいように思う。像もあちこちに残っているようだから、意外な場所で出会うことになるかもしれない。
 個人的には近いうちに良福寺も行って、尾張三大弘法を制覇しておきたい。あと、春日井駅や勝川にも大きな弘法さんはいるから、そちらも行かねばなるまい。
 

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