写真ノート<26> ---切り取ることの矜持と責任 - 現身日和 【うつせみびより】

写真ノート<26> ---切り取ることの矜持と責任

食事処

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 優れた彫刻家は、ノミで像の形を作り上げていくのではなく、木なり石なりの塊の中にあらかじめ存在する像を彫りだしてあげるという感覚なのだそうだ。自分がやっているのは余分な部分を削るだけなのだと。
 怖じ気づいてしまえば像は甘くなるし、大胆にいきすぎると本体を損なうことになる。ぎりぎりのところまで思い切ってノミを入れていくことができる彫刻家が一流と呼ばれる。
 その感覚は写真にも通じるものがあるように思う。写真は切り取ることで成り立つ。ある特定の部分、ある特定の瞬間に向かってシャッターを押す。シャッターを切るという表現が使われるのも、そういう感覚を反映してのものだ。ときには斬るという字がぴったりくることもある。

 いい写真を撮るためにはもう一歩近づけという教えがある。それは足を一歩前へ出すとかいった単純なものではなく、被写体との間合いを詰めろということだ。近づかなければ見えないものもあるし、感じられないこともある。触れるように撮るということも必要だ。
 ただ、近づけば近づくほどいいのが撮れるわけではなく、アップがいいのか、ロングいいのかはそのときの状況によって変わってくる。甘すぎる切り取りは撮り手の主張が曖昧になり、受け手の心に届かない。これ以上でもこれ以下でもないぎりぎりのところで切り取れるかどうかに成功の鍵がある。

 前回ちらっと、切ることの矜持ということを書きかけて途中でやめた。切るというのは、部分的にカットするということもある。
 被写体全体を入れてしまえば大きな成功もない代わりに大きな失敗もない。無難に丸ごと撮って安心してしまうことを潔しとしないことが、つまり矜持ということだ。特にプロはそれを強く意識しているはずで、切ってなんぼと思わないプロの写真家はほとんどいないんじゃないか。それは多分に感覚的なことだから、言葉で説明するのは難しいのだけど。
 最初に切り取ることで写真は成り立つと書いた。同じ条件で写真を撮っても上手い人と下手な人で違いが出るのは、切り方が上手いか下手かということに他ならない。切り方といっても様々な要素があって簡単には言えないのだけど、ごくごく単純に言ってしまえば、距離と範囲と瞬間ということになる。どの距離で、どれだけの範囲を、どの瞬間に切り取るか、それで写真は決まる。ほんの微妙な違いで写真のよしあしが大きく違ってくることもある。
 写真はこの世界の断面図だ。同じ断面はふたつとなく、切り口が鮮やかであればあるほど印象が強くなるのは言うまでもない。

 無難に全体を収めた写真は記録でしかない。作品とは作者の明確な意図を持って切り取られた写真をいう。
 被写体の方にカメラを向けてシャッターを押せば写真は撮れる。しかし、作品を撮るという行為はそれとはまったく別のものだ。
 切り取ることは、周りを全部ばっさりと捨てることをも意味している。自信を持って切り取ることができるかどうか。切り取った部分に対して責任を持つことができるかどうか。作品を撮っていると思うなら、最低限そこまでの意識は必要だ。
 どこをどう切り取ればいいのか正解はない。撮り手として自分の感覚だけを信じるしかない。確信を持って切り取ったなら、それはたぶん間違いじゃない。

 切り取ることのもうひとつの意味は、切り取った部分の外側にも世界が広がっていることを鑑賞者に想像させるためでもある。いい写真には奥行きと広がりがある。全部は写っていない。
 だからこそ、正確に、きれいに切り抜かなければいけないのだ。
 切り取った外側の部分を撮り手が認識していなければ鑑賞者の意識がそこへ向かうことはない。写真は写っている部分だけでなく、写っていない部分も同じように大切なのだということを知っておかなければならない。

 今回は感覚的な話だったこともあって、あまり説明が上手くいっていない。私自身がやや未消化なまま語ろうとしているせいもある。あるいは、当たり前のことしか書いていないかもしれない。
 ここはひとつ、クロード・モネに登場してもらって、鮮やかな切り口の言葉でしめくくることにしよう。

「影によって存在を、断片によって全体を暗示する。
 その美学は私の心に叶うものであった」 
 

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