写真ノート<21> ---仕事としての写真を考える - 現身日和 【うつせみびより】

写真ノート<21> ---仕事としての写真を考える

勤め人と小学生

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 誤解を恐れずに言えば、写真の基本はルポルタージュだと思っている。
 世の中で起きている出来事を、現地に赴いていって取材し、客観的に報告すること、それがルポルタージュだ。
 いつからだろう。1990年代の中頃以降だろうか。写真が自己表現の手段として使われるようになり、広がりや深みを失ってしまった。写真家のみならずそれが一般にまで広がっているのが現状だ。
 もともと写真は目的よりも手段としての意味合いが強かった。写真が一般的な趣味となり、カメラがフィルムからデジタルになったとき、手段と目的は逆転した。何を撮るかよりもどう撮るかが重視されるようになり、写真は明らかに弱くなってしまった。もちろん、今でも報道やスポーツといった分野において写真は手段に違いない。ノンフィクションの写真もたくさんあるし、そういう写真家もいる。ただ、最近の若手写真家の作品などを見ると、単につまらないというだけでなく、なんでこんな自己表現ばかりの写真を撮ってるんだろうと思うことが少なくない。社会のためでなく、人の幸せにもつながらない写真の群れ。
 アマチュア写真に目を向けると、フォトコンの入選作でも、コテコテに厚化粧を施した表現過多な写真が多すぎる。特にデジタルカメラ関係の雑誌は、センスの良さを競い合う大会みたいになっている。写真はいつからこんなことになってしまったのだろう。

 加工ありきの写真表現や、写真と現代美術が融合してあらたな表現を求めていくのは時代の方向性として仕方がないというか必然なのだろう。ただ、鑑賞者をあまりにも置き去りにしているのではないか。写真家はアーティストと呼ばれるようになり、それまでとは別の表現を求め、業界は独自性といったものを必要以上に賛美してもてはやす。結果的に今の写真は写真をやらない一般人にとってつまらないものになってしまった。
 発信する側と受け取る側とで、いい写真の定義が今ほどかけ離れてしまったことはかつてなかった。というよりも、プロの写真界とアマチュアの写真界が二極化しているといった方がいいかもしれない。写真界は関係者同士で互いに褒め合う小さな村のように閉ざされ、アマチュア界は趣味としてみんなで集まってワイワイやっている。そのどちらにも属せず、くすぶっている人もいる。
 いい写真家が社会的に立派な仕事をして、写真集が社会現象になり、写真家が文化人として一般社会に認知されるといったことは今後ますますなくなっていくのだろうか。
 写真界は一見活況を呈しているように見えながら、内情では衰退していっているのではないか。次々と新しい写真家は誕生し、カメラをやる人間は増え、ネットに写真はあふれかえっていても、肝心のいい写真家が育っていない。一部、人気写真家はいるけど、雑誌や講習などの忙しさに追われて腰を据えた作品作りに取り組めていない現状が作品の質を下げている。今は写真集が売れないから、作品だけを撮っていたら食べていけないというのはある。

 写真が自己表現などというものに堕してしまえば写真が本来持っているはずの力を失うのは必定だ。自分を探している暇があったら被写体を探せと言いたい。独自の表現を模索するより仕事をした方がいい。
 撮り手は足であり、手であり、目だ。写真は頭で撮るものではない。当たり前だけど、写真は部屋でじっとしては撮れないし、机に向かってやるものでもない。とにかく自分から外に出て、足で撮るしかない。大事なのは頭の中にあるイメージなどではなく、目の前にある被写体だ。
 どう撮ればいいかなどということは二の次で、何を撮るかが一番重要なことは言うまでもない。
 鑑賞者は撮り手の才能やセンスを見たいわけじゃない。いい被写体が写った写真を見たいのだ。才能は武器ではないし、才能のなさは言い訳にはならない。

 アマチュアの特権は、なんでも好きなものを好きなように撮れることだ。何をどう撮ればいいかなど私がとやかく言うことではないのだけど、ひとつの提案として、写真行為を仕事と捉えたらどうだろうというのがある。それはビジネスという意味ではなく、ワークといった意味での仕事だ。ライフワークとして何を撮るのかを決めてそれに取り組むことで、写真は深みを増すはずだし、何かひとつの成果としてまとまるような気がする。仕事としての依頼があるとかないとか、ギャラが発生するとかしないとかの問題ではない。
 まずは軸足を決めて動かさないことだ。もう一方の足はどこでも好きな場所に動かすことができる。そこに制約はない。
 自己表現を捨てることで見えてくる被写体があり、かえって自由になれるはずだ。上手く撮ろうなどと考える必要はない。表現の主役はあくまでも被写体であって、頭を使って工夫する部分は被写体をいかに魅力的に見せるかということだ。いいのが撮れたとしても、それは自分の手柄ではない。自分は被写体と鑑賞者をつなぐ黒子の役割を果たせばそれでいい。

 いいのを撮って人に褒められようなどと邪念を抱くから写真が難しく感じられるのだ。いい被写体のいい場面に当たりさえすれば、あとはレンズを向けて素直にシャッターを押すだけだ。撮影はカメラが勝手にやってくれる。
 とにかく出歩くしかない。一発必中や百発百中は写真ではあり得ない。長い期間を考えて、仕事として取り組むことが肝心だ。
 今日見栄えのいい写真10枚撮ることよりも、10年かけてひとつの仕事を成し遂げる方が尊いと私は思う。それを自己満足と言われてしまえばそうかもしれない。けど、本気で取り組めば自己満足を超えられると信じている。

 以上は趣味として写真を撮っていない人に向けた言葉です。
 

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