長久手熊野社と大草城跡 - 現身日和 【うつせみびより】

長久手熊野社と大草城跡

長久手熊野社社殿

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



冬の間にめぐった神社の写真が在庫になっている。その中から今日は長久手市にある熊野社を紹介したい。
 以前書いた長久手の岩作御嶽神社から見て1キロほど東北の大草杁ノ洞(いりのほら)にその神社はある。かつて大草城があった場所の跡地で、現在は大草地区の中心部に位置している。西から入っていこうとしたら道を間違えてしばらくさまようことになった。大草交差点から東へ進んで、南から入っていった方が分かりやすい。ただし、どちらから行くにしても道は狭い。
 ようやく見つけた西の入り口から入っていったら、やっぱり横入りになってしまった。最初に見えたのは神楽殿だろうか。本殿も含めて少し変わった様式の神社だ。社殿自体はさほど古そうではないものの、新しいというほどでもない。




熊野社南入り口

 いったん鳥居から出て、南入口から入り直した。
 それにしても、ここは偶然発見できるようなところではない。かなり奥まったところにあり、地図を見てここを目指していくか、呼ばれるかしないと見つけられない神社だろう。




永見寺

 すぐ右手に永見寺という曹洞宗のお寺がある。位置から考えても無関係とは思えない。江戸時代には神仏習合で合体していたのではないだろうか。
 熊野社はもともと八幡社だったという。創建年はよく分かっていないようだけど、寛文年間(1661~1672年)の覚書に記録があるそうだから、江戸時代の前期にはすでにあったことになる。
 明治新政府によって神仏分離令(神仏判然令)が出たのが1868年で、八幡社から熊野社に改称されたのが1887年(明治10年)。どういういきさつで八幡社から熊野社に変えたのか、そのあたりの詳しい事情は調べがつかなかった。





大草城跡

 神社の隣に、大草城跡の石碑がある。
 戦国期の大草城は東西約250メートルというけっこう大きな城だったようで、小牧長久手の戦いの舞台にもなっている。
 城の原型が作られたのは鎌倉時代初期というから古い。山田郡の地頭だった山田氏が居城を作ったのが始まりとされる。
 その後、うち捨てられていたものを戦国期に入って福岡新助が縄張りを広げて作り直したものを一般的に大草城と呼んでいる。
 一時、織田信長の家臣だった森長可(森可成の次男)がこのあたりの支配を任され、改修したという話もある。
 小牧長久手の戦いでは、秀吉軍の池田恒興・森長可が家康軍に敗れて討ち死にし、残った兵は大草城まで退却して城に立てこもった。その数は千名ほどだったという。そこへ家康軍が押し寄せ攻めかかっているときに秀吉軍の大軍がやってくるという話が伝わり、家康軍は撤退したといういきさつがあった。簡単には落ちない守りの堅い城郭だったようだ。
 大草城はその戦いのあと、廃城となっている。
 現在、神社の周辺や少し離れた公園近くに土塁や曲輪の遺構が少し残っている。




南の二の鳥居





紙垂の影





階段下より





社殿と本殿

 そういえば、同じ長久手にある神門前雨堤の神明社に社殿の造りが似ている。
 熊野社というから熊野三山のどこかから祭神を勧請したのだろうけど、そのあたりの詳しいこともよく分からない。
 どうして八幡社をやめて熊野社にしたのだろう。




狛犬と西日





名前板





熊野社

 長久手の神社めぐりにはまだ続きがある。
 

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