写真ノート<17> ---写真表現は機会である - 現身日和 【うつせみびより】

写真ノート<17> ---写真表現は機会である

後ろ姿

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 どうしたら写真が上手くなりますか? という素朴な問いかけに対する決定的な回答はまだ誰も見つけられていない。今後も見つかることはないだろう。
 それは、いい写真の価値基準が人それぞれで、出発点も目的地もみんなバラバラだからだ。我々はひとりの船頭が舵を取るひとつの船に全員が乗り合わせているわけではない。写真の役割も一種類ではない。
 それでもなお、いい写真ってなんだろうと、誰にともなく問いかけずにはいられないのが写真をやっている人間の性というものだろう。あるいは、問いかけ続けることこそが唯一の正しい姿勢なのかもしれない。

 写真にゴールはない。奇跡的な瞬間を捉えて歴史に残る名作を一枚でも撮れたらそれ以上撮らなくてもいいなんてことはないし、写真集を何冊も出せば上がりというわけでもない。何枚撮ったら終わりというわけではないし、究極の写真などというものは存在しない。
 あえて言うなら、撮るものがなくなったらそれがゴールだろうか。
 具体的で現実的な目標を設定するということは悪いことではない。たとえばフォトコンテストに入選するとか、写真展を開くとか、写真集を出すとか、プロの写真家になるとか、そういったことがひとつの方向性を作ってくれるというのはある。
 趣味で写真を撮ってるだけで、今よりもう少し上手くなりたいといった人が大半なのかもしれないけど、そうだとしても、どうせやるからには本気で取り組まなければ面白くないし、自分の力の限界を知って、限界を超えてこそ、その先で見える世界というものがある。私たちは前へ進まなくてはならない。好むと好まざるとに関わらず。選択の余地はない。
 まだ見たことがない自分の写真が見たいと思えば、今日も撮り、明日も撮り、明後日も一年後も、十年後も撮り続けるしかない。
 今日本気を出せない人間が明日急に本気を出せるはずもない。まずは自分の本気度を自分自身に対して確かめる必要がある。これが本当に自分の限界なのかと。

 写真を撮るという行為は、自分の人生観にも関わってくる問題で、生きる姿勢や撮り手の人間力が試されているという自覚が必要だ。半端な写真しか撮れなければ、この世界を半端にしか見ていないことの証明になってしまう。何十年も生きてきて、その結果がこの程度の認識でしかないのかと問い詰められても言い訳はできない。
 自分はプロにないたいわけじゃないし、そんなに熱くなりたくもないと思うのは分かる。けど、写真というのは考えている以上に特別なものであり、表現という意味合いにおいてチャンスでもある。
 自分の感情なり思想なり価値観なり美意識なりを表現し、世界に向けて問いかけることができる人間は本来限られていた。小説家とか、歌手とか、画家とか、スポーツ選手とかそういった人たちだ。
 でも、私たちには写真という手段がある。絵は描けなくても、楽器は弾けなくても、詩は作れなくても、写真は撮れる。私たちに与えられた唯一の表現手段といっても大げさではない。もっとも簡単な方法ではあるけれど、安易に考えてはいけない。
 写真を手がかりに他者に向けて自分をぶつけていくことは決して無駄なことではないし、生やさしいことでもない。ここで本気を見せなくてどこで本気を出すというのか。
 きれいでかわいい写真でもそれはそれでかまわない。需要も供給もあり、幸福な関係性の中で完結する。でも、それだけで本当にいいのだろうか。
 私たちが撮る写真で世界が変わることはおそらくない。それでも、ひとりのささやかな表現者として何ができるだろうと考えることはできる。

 この時代に生きる私たちにとって写真は機会だ。誰もがカメラを持ち、インターネットを通じて世界に向けて発信できるチャンスがある。そのことの意味をもう一度よく考えたい。楽しいから写真をやっているというだけではもったいない。
 どうしたら上手くなるだろうとか、いい写真ってなんだろうという自問自答はあまり意味がないようにも思う。考えるべきことは、自分が本当に撮りたいものは何なのかということと、自分は写真表現で何ができるかということだ。それがきっと、出発点であり、目的地だ。
 もし私が先生であなたが生徒だとしたら、私はあなたにこう言うだろう。頼むから本気を出してくれ、と。それは、私が自分自身にかける言葉でもある。
 

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