守山城跡をたずねる - 現身日和 【うつせみびより】

守山城跡をたずねる

守山城跡

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 名古屋市守山区市場にかつてあった守山城。矢田川に架かる瀬戸街道の矢田川橋の少し北あたりだ。
 以前紹介した市場白山神社から見て200メートルほど西のあたり。
 現在、アパートの裏手にちょっとした高台があり、城跡の石碑が建っている。堀の跡などの遺構もわずかに見られる。
 好きこのんでこんな場所を訪れるのはよほどの歴史好きくらいだろう。しかし、ここは戦国の歴史の中で小さからぬ事件が起きた現場なのである。




守山城跡入り口

 白山神社の裏手を回るか、宝勝寺の東から行くか、いずれにしても道は狭い。
 目印は二階建てのアパートと、白い説明板だ。
 人様の家の庭に入っていく感じだけど、たぶん進入しても大丈夫なのだと思う。




守山城跡外観

 アパートの裏手に登っていく階段が作ってあり、その上に石碑がある。




守山城石碑

 作られたのは1521年頃、今川氏豊が那古野城を築城したとき、小幡城・川村城に対抗して松平信定が築城したとされている(もしくは、築城者は不明)。
 平山城で、東西に約58メートル、南北に約51メートル、四方には堀がめぐらせてあったというから、この時期のものとしてはそれなりの規模の城といえるだろう。
 この時代の尾張、三河は、様々な勢力が入り乱れていて、かなりの混乱状態にあった。
 室町時代に力のあった尾張守護職の斯波氏が没落して、尾張守護代の織田家が勢力を伸ばす一方で、駿河・遠江の今川家が尾張侵攻をもくろんでいた。織田家は信長の父・信秀の時代だ。
 三河はというと、家康の祖父にあたる松平清康が優れた武将で、若くして家督を譲られ、10代後半にして三河を統一しようとしていた。
 ちなみに、以前、豊田市の奥地にある松平郷のことを紹介した。松平清康は徳川家のルーツとなった松平親氏から数えて七代目に当たる。家康も元をたどれば、群馬あたりから流れてきた素性のよく知れない地方の小豪族の出ということになる。

 1529年、岡崎城を本拠とする松平清康が三河を統一。
 翌1530年には尾張へと勢力を拡大すべく、岩崎、品野を強奪。尾張攻略の足がかりを作った。
 1535年、1万余りの大軍を引き連れて尾張に侵攻した清康軍は、織田信秀の弟・信光が守る守山城(当時は森山と表記したようだ)を攻撃すべく進軍した。
 このとき、信光とすでに通じていて戦わずして守山城に入城したという説もある。
 その夜(翌朝とも)、事件が起きる。馬が突然暴れ出したのをきっかけに、松平清康は配下の武将に後ろから斬りつけられ、あっさり命を落としてしまう。大将を失った松平軍はなすすべもなく、三河へと兵を引き上げることになる。これが世に言う、森山崩れというやつで、まさにその現場がここ、守山城跡というわけだ。
 桶狭間の戦いが1560年。信長は前年の1534年に生まれているものの、1543年生まれの家康はまだこの世にない。
 松平清康を斬りつけたのは阿部正豊(弥七郎)という男で、父親の阿部定吉が以前より織田と通じて謀反を企てているという疑いを持たれており、馬の騒ぎのときに父親が討たれたと早とちりして、大将の清康を斬ってしまったのだった。弥七郎はその場で成敗されている。
 ただし、噂の元となった阿部定吉はおとがめなしとなり(自殺を企てて失敗して許されたという説も)、その後松平家で活躍することになる。
 そもそも、謀反云々というのは、清康の叔父で、敵対していた松平信定の企てだったという話もある。
 清康はこのとき24歳。その息子・広忠(家康の父)はまだ9歳だった。
 これを機に、松平家は急速に力を失い、三河は今川家が支配することとなっていく。尾張では信秀に代わって信長の時代へと移る。
 織田家と今川家との板挟みになった松平家は、生き残るために幼い家康を今川家の人質に送り、それが織田家に渡ってというのはよく知られた話だ。

 森山崩れから20年後の1555年。
 信長・信光により清洲織田家(本家)の織田信友が滅ぼされる(信長の家系は、織田家の中では分家になる)。
 信長は那古野城から清洲城へと移り、信光は那古野城へ。空いた守山城は信光の弟・信次が城主として入った。
 しかし、着任早々、家臣の洲賀才蔵が信長の弟・秀孝を間違って殺してしまうという事件が起こり、慌てた信次はそのまま逃走。守山城には信次の重臣・角田新五たちが立てこもった。
 怒った信行(信長の弟で秀孝の兄)は守山城下を焼き払い、守山城にせまった。
 ただ、信長はおとがめなしとし、佐久間信盛の取りなしもあって、信長の異母弟・信時を城主とすることで決着を見た。
 けれどこれで話は終わらず、家臣をとりまとめられなかった信時が角田新五によって切腹させられてしまう。再び立てこもった角田新五だったのだけど、逃亡していた信次が許されて城主に戻ることでようやく落ち着いたのだった。
 守山城が廃城になったのは、1560年の桶狭間の戦いのあととも、1574年に信次が長島一向一揆で戦死したあととも言われている。
 1573年、信長と戦って敗れた浅井長政の妻・お市とその娘の三姉妹(茶々、初、江)が、信次に預けられて一時守山城に滞在したという話があるとかないとか。そのエピソードはちょっとロマンチックにすぎるような気がするけど、どうだろう。




守山城跡からの眺め

 守山城があった場所は台地の端に当たり、現在でもけっこう視界が開けていて眺めがいい。
 王子製紙の煙突越しに御嶽山を見ることができる。




宝勝寺入り口

 城跡の南に宝勝寺というお寺がある。
 江戸時代に入った1637年、松平清康の菩提を弔うために建立された。
 現在でも清康のための法要が行われているとのことだ。




南入り口





宝勝寺三門





宝勝寺本堂





本堂屋根





お堂

 ご近所に歴史あり。
 

スポンサーリンク

関連記事ページ
コメント
非公開コメント

トラックバック

http://utusemibiyori.com/tb.php/4447-25b17981