写真ノート<15> ---フォトブック「a life」のこと - 現身日和 【うつせみびより】

写真ノート<15> ---フォトブック「a life」のこと

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4 他



 フォトブック「a life」は、富士フイルムのフォトコンに応募するために作ったもので、個人的な作品集としては3冊目に当たる。フジコンには落選して(選考テラウチマサト)、「フォトテクニックデジタル」の私的写真集選手権で入選した。2014年から2015年にかけてのことだ。
 選者のひとり「フォトテクニックデジタル」の編集長・藤井貴城氏は「ナイーブな視点」と評した。私はガーディアンエンジェルの視点と呼んでいる。
 人がいる風景を撮りたいというのは写真を始めた当初から思っていたことで、それがようやく形になってきたのが3、4年前。「a life」はその頃撮った写真を中心に編んでいる。このジャンルの写真の集大成という位置づけだった。
「a life」を作っているとき、自分の視点の特徴というか、距離感の共通点が見えてきた。それまで半ば無意識に撮っていたものが、自分が撮るべき距離を自覚するようになる。遠すぎず、近づきすぎず、こちらの存在を気取られないこと。これって、守護霊とか背後霊の視点だよなと思ったのだった。自分はこの世に存在していながら存在を気づかれていない存在。それが、守護天使、ガーディアンエンジェルだ。
 決して対峙せず、寄り添い、そっと見守り、共感し、励まし、応援するように撮る。がんばってと、心の中で声をかけるように。
 けど、私は必ずしも人間が好きというわけではない。どちらかというと嫌い寄りとさえ言える。ただ、人の営みが好きなのだ。この世界にあって、泣いたり笑ったり怒ったりあがいたりしている人間というものを愛おしいと思う。その感情は、もはや人としてこの世界に生きている人間のものではないのかもしれない。生きながらにして守護天使のような気持ちになっている。変な言い方だけど、私は自分の人生にあまり興味がない。
 私が人のいる風景を撮っているのはそういう意味だ。人そのものを撮りたいというのとは違っている。
「a life」にはサブタイトルがある。「そうであったかもしれない人生と失った時間に関する物語」というものだ。
 私が撮る老若男女は私自身の別の姿であり、可能性に他ならない。すでに失った姿であり、これから失うであろう姿でもある。道行く人を見て、反応して、そちらにカメラを向けて撮るということは、ある種の共鳴が起こったということだ。そうでなければ撮ったりはしないし、撮っても意味はない。
 自分で自分を撮らなくても自分が撮った人たちが私自身について語ってくれる。写真というのはそういうものなのだと思っている。

「a life」は自分でも気に入っている一冊だ。たぶん、「a life 2」はない。どういうわけか、あれからこんなふうに撮れなくなってしまった。視点は変わっていないはずだし、腕が落ちたというわけでもないのだろうけど、上手くチューニングを合わせられなくなったような感覚がある。そうなると、チャンスそのものに当たらなくなる。「a life」の世界観はあれ一冊で完結ということになるだろうか。
 その後、「名もなき風景の声を聞け」の路線で「道ばたのうた」、「サヨナラノオト」、「凪いでいる」と3冊作った。いずれ機会があればそれらもスライドショーにして紹介したいと思っている。
 

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