写真ノート<11> ---写真の中に流れる時間 - 現身日和 【うつせみびより】

写真ノート<11> ---写真の中に流れる時間

道ばたに花

OLYMPUS E-M5 + Panasonic LEICA 25mm F1.4



 私は時間を撮りたい。いつからかそんなことを考えるようになった。
 写真は一瞬の芸術などという言葉があるけど、私はそうは思わない。写真には現在だけでなく、過去も写っているし、未来さえも写るものだと信じている。
 現在しか写っていないような薄っぺらな写真では駄目なのだ。
 そこに至るまでの経緯と、この先どうなっていくのかを想像させる写真が好きだ。

 今日は昨日から見た明日であり、明日から見た昨日だ。
 現在は未来であり、同時に過去でもある。
 現在は時間の集積であり、未来への運動だ。時間はとどまることなく未来方向へと流れている。
 シャッターを押そうと決めた瞬間から実際に押されるまでには数瞬の時間があり、シャッターが切られ始めてから記録されるまでにも時間は流れている。つまり、我々は現在を撮っているつもりが、写真には意図した瞬間よりも未来の姿が写っているということになる。
 写真に写っているのは、現在から未来へと向かう波動といったようなものだ。厳密に言えば写真の中の時間は止まっていない、動き出そうとしている。その刹那のゆらぎこそが写真というものなのだ。

 映像は時間を一方向に記録する。
 文章は現在、過去、未来を行き来できるけど同時には表現できない。
 写真は、現在、過去、未来を同時に捉えることができる手段だ。
 写真は常に過去とつながっている。同時に未来への予見もはらんでいる。
 すべての存在は移ろい、やがては消えてゆくことを私たちは知っている。
 写真はかりそめに止まっているように見えるがゆえに悲しい予感を内包するのだろう。

 時間を撮るということがどういうことなのか、自分でも分かっているようで分かっていないところがある。
 自分が写しているすべての写真を総体として考えるとき、そこには空間だけではなく、確かに時間といったものが存在する。空間に時間という縦糸を通して数珠つなぎにしているような図を想像してみる。
 空間的な広がりだけなく、時間軸の奥行きを意識する必要があるように感じている。
 それは単なるノスタルジーや未来に対する予感といったものではない。大げさに言えば、人類と世界の歴史をどうやって丸ごと写真に封じ込めるかということだ。

 写真は未来に向けて撮られている。もしかすると一枚の例外もなくそうなのかもしれない。
 旅先で写真を撮るのは帰宅してから見返すためだし、子供の写真を撮るのは時間が経ってから懐かしがるためだろう。今日の記録は未来で役立てるためだし、誰かのために撮られた写真もまた、未来方向へ向かって手渡されるものだ。
 私が言う時間が撮りたいというのは、写真の中に流れる時間を意識するということなのだと思う。

 明日世界が終わるとして、私は今日写真を撮るだろうか。
 きっと撮らないだろう。終わりゆく世界に写真は必要ないからだ。
 私は明日の自分のために今日写真を撮っている。
 あなたが今日撮る写真は、未来のあなたに向けた贈り物なのだ。
 

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コメント
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No title

「ドラマ性を感じさせる写真が作品として通用する」
一眼レフを買ったばかりの頃に読んだ雑誌に書いてあった言葉です。当時も今もよくわからんのですが、「時間を撮る」ということなのかなあと思いました。未来を想像させる写真。それがドラマ性を感じさせる写真なのかなと。
先日の桜の写真もそうですが、オオタさんの写真にはドラマ性を感じるのです。自分も毎年桜の写真を撮るのですが、どうにもドラマ性が感じられん。それは今=過去しか撮ってないからなのかなあと。
そこで問題は、どうすれば未来を意識できるのか、ですね。

2016-03-13 05:33 | from keiichi_w | Edit

物語性

>keiichi_wさん

 こんにちは。
 どんな写真でもいいんだけど、物語性のある写真が好きです。
 いい物語には時間が流れているように、いい写真には時間が流れているという言い方ができるかもしれないですね。
 時間を表現するって難しいことだから、今後のというか永遠の課題かなと。

 もう桜のイメージはできてきましたか?
 私は待ち遠しいような、まだ来て欲しくないような、この時期はいつもそんな気持ちになります。

2016-03-13 21:49 | from オオタ | Edit

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