飛鳥で昔に思いを馳せる <第三回> - 現身日和 【うつせみびより】

飛鳥で昔に思いを馳せる <第三回>

飛鳥3-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4



 桐島ローランドととよた真帆が飛鳥を旅するというテレビ番組で、桐島ローランドが撮った酒船石の写真がすごく格好良くて印象に残った。あの写真も、私を飛鳥へと向かわせる要因の一つとなった。
 案内標識から石段を登った小高い丘の上にそれはあった。周りを竹林で囲まれており、雨ということもあって薄暗く、ひっそりとしている。雨音だけが響いていた。
 不思議といえば不思議なものだ。東西の長さは5.3メートル、南北の幅は2.3メートル、高さは1メートルの花崗岩だ。想像していたよりも巨大なものではなかった。
 もっと神秘的なものかとも思っていたのだけど、そんな感じではない。
 あたりをぐるぐる周りながら、いろんな角度から眺めてみる。一番格好良い角度がどこかを探しながら。
 遺跡巡りが主目的ではなかった今回の旅ではあるけど、これだけは行く前から楽しみにしていた。だから、見ることができて嬉しかったし、感慨深くもあった。これを見終わったところで満足してしまって、もう帰ってもいいような気持ちになったほどだ。

飛鳥3-2

 石にはミステリーサークルのような円と線の溝が彫られている。
 酒を造る道具として使われたのではないという想像からこの名が付けられた。他にもいろいろな説があって、はっきりはしていない。庭園に置かれた設備で、水を流していたとか、太陽の観測に使われたなど、意見は分かれる。
 他にもよく似た溝が彫られた石があることから、何か目的を持って作られたことは間違いなさそうだ。この時代の人がこの模様を見れば、一目瞭然で何の石か分かるものなのだろう。
 石の両脇に切り取られた跡が残っていて、もともとの姿を完全にはとどめていない。高取城築城の際、石垣用として切り取ったともいわれている。すでに室町時代の人間にも何の石か分からなくなっていたのかもしれない。

飛鳥3-3

 酒船石がある丘から北へ50メートルほど下ったところに、一つの遺跡がある。
 亀形石造物と呼ばれるもので、名前の通り亀のような形をしている。
 こちらは有料で、おまけに年末休みに入っていて、近づくことができなかった。遠くからでは今ひとつ様子が分からない。
 全長2.4メートル、幅2メートルほどを石垣で囲み、鉢状に掘って、石を敷き詰めている。円形の穴があって、沸きだした水をそこへ溜めたと考えられている。
 斉明天皇時代から平安後期まで250年くらい使われた形跡があるとのことで、こちらも何のために作られたものかは分かっていない。酒船石との関連性も不明だ。
 水利用のためだけのものなら、わざわざ加工が大変な石で作る必要はなさそうだ。祭事用というには、逆に施設が小規模すぎるように思う。
 実は我々の考えすぎて、単にエクステリアとしての格好良さを追求して趣味的に作っただけかもしれない。貴族が暇と金に任せて職人に作らせて、他の貴族を呼んで自慢していただけとか。私たちが理解できないものを見つけると、そこに必要以上の意味を持たせようとする。何でも祭祀用なわけじゃない。どの時代の人間にも美意識というものがあるし、趣味や遊びも考える。女の人ならきれいな石を集めたいと思うだろうし、絵が上手い人間なら壁画を描きたくもなる。子供のためのおもちゃだって必要だ。

飛鳥3-4

 酒船石から南西300メートルほどのところに、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)跡とされる場所がある。一部が保存され、井戸の跡などが展示されている。
 はっきりそうと分かったわけではないので、伝承地というのにとどまっている。しかし、遺跡が発掘されたことは確かで、最近の調査研究で、天武天皇の飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)があった場所の可能性が高いといわれてる。その下に飛鳥板蓋宮の跡が眠っているという話もある。
 どちらも本当だとすると、これはとても歴史的な場所だ。大化の改新の発端となった乙巳の変(いっしのへん)が起こったのがまさにここということになる。のちの天智天皇となる中大兄皇子が自ら蘇我入鹿の首を切り飛ばしたとされるあの事件の現場だ。
 この時期は、天皇が変わるたびに宮があっちこっちに移った。少し話を整理しよう。
 642年に舒明天皇が亡くなったあと、後継者が決まらず、とりあえずという形で皇后が皇極天皇になった。中大兄皇子や大海人皇子(のちの天武天皇)の母親だ(大海人皇子が本当に皇極天皇の息子だったかどうかという話は置いておく)。
 このとき、実質的に政権を握っていたのが、蘇我氏だった。舒明天皇は、父の蘇我蝦夷と息子の入鹿を重用して、政治を任せた。
 板蓋宮は、舒明天皇が蝦夷に命じて3ヶ月で建設させたものだった。宮が板葺きだったことから、この名前で呼ばれたようだ。翌643年に岡本宮(飛鳥の岡)から、移っている。
 その後、天皇家を超えるほどの権力を握った蘇我家に対して危機感を抱いた中大兄皇子の一派は、クーデーターを起こす。乙巳の変であり、あとに続く大化の改新だった。645年のことだ。
 この事件で皇極天皇は退位して、すったもんだの末に、弟の軽皇子に譲位して、孝徳天皇として即位することになった。天皇が生きている間に天皇位を譲ったのは、これが最初とされている。息子であり、クーデーターの首謀者である中大兄皇子に譲らなかったのは、いろいろ差し障りもあったのだろう。
 孝徳天皇は、飛鳥から離れたかったようで、難波長柄豊碕(今の大阪市)に都を移している。
 しかしそれも短い間で、654年に孝徳天皇が没すると、皇極上皇は再び天皇の座に返り咲き、もう一度板蓋宮に移って、斉明天皇として即位することになる。
 ただ、板蓋宮は翌年火事で燃えてしまったため、川原宮へ移った。その後も、また舒明天皇の岡本宮に戻り、後半は唐・新羅との戦争を睨んで、北九州の朝倉宮へと移った。
 斉明天皇が没したのが661年で、中大兄皇子が天智天皇として即位したのが668年とされている。この期間も謎となっている。
 その後、壬申の乱が起きて、天武天皇が誕生したのが、672年だった。その即位が行われたのが、ここ、飛鳥浄御原宮というわけだ。
 現在は、そんな血なまぐさい歴史の舞台になったとは思えないほど、のんびりした雰囲気の場所となっている。

飛鳥3-5

 敷き詰められている石が当時のものなのか、最近復元したものなのかは知らないけど、この地に中大兄皇子や天武天皇が立っていたのかと考えると、なんだか不思議なような、信じられないような気持ちになる。

飛鳥3-6

 飛鳥の旅も後半から終盤に入った。雨はまだ降り止まない。
 遠くの山は、うっすら雪化粧をしているようだった。

飛鳥3-7

 通常なら、飛鳥寺も寄っていくところだろうけど、今回はそれもパスして、路地をいく。
 次に向かったのは、飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)だった。

飛鳥3-8

 あすかにいますじんじゃって名前が面白い。あすかにいますじんじゃなう、とつぶやいているみたいだ。
 歴史のある神社で、延喜式にも載っている。
 氏子がいない個人所有の神社らしいけど、境内で掃除をしていたのがここの夫婦さんだろうか。飾り付けなどをしたあと、横の社務所に入っていった。

飛鳥3-9

 延喜式には、飛鳥坐神社四座とある。
 今の祭神は、事代主神、高皇産靈神、飛鳥神奈備三日女神、大物主神となっているけど、書物によって顔ぶれが違っている。途中で入れ替わったのか、本来はどうだったのか。
 社殿は、吉野の丹生川上神社上社が大滝ダム建設で沈むことになって、ここもだいぶ古くなってきたから、それをいただきましょうということで、移築されてきた(2001年)。その前のものは、江戸時代の1781年に再建されたものだったとのことだ。

飛鳥3-10

 それほど大きくはないけど、なかなかいい神社さんだった。

飛鳥3-11

 境内社もたくさんあって、寄り合い所帯になっている。

飛鳥3-12

 フユザクラが雨に濡れながら咲いていた。

飛鳥3-13

 早くもロウバイが咲き始めている。年末なのに、少し春の気分だった。

飛鳥3-14

 屋根の上の苔がすごいことになっている。盆栽でもしてるようだ。

 飛鳥坐神社が、今回の旅の北限地だった。進路を西に変えて、甘樫丘を目指す。
 次回が飛鳥の旅最終回となる。
 つづく。

奈良のホテルの口コミ
奈良のホテルの口コミ

スポンサーリンク

関連記事ページ
コメント
非公開コメント

トラックバック

http://utusemibiyori.com/tb.php/2059-92577188