男前の伊奈波神社と微笑みの岐阜大仏 <岐阜旅第二弾・その4> - 現身日和 【うつせみびより】

男前の伊奈波神社と微笑みの岐阜大仏 <岐阜旅第二弾・その4>

伊奈波神社-1

PENTAX K-7+PENTAX DA 16-45mm f4



 岐阜市内で随一の歴史と格式のある伊奈波神社(いなばじんじゃ)は、とてもカッコイイ神社だ。
 昨日も書いたように、金神社に祀られているのがお母さんの渟熨斗媛命(ぬのしひめのみこと)で、橿森神社の祭神・市隼雄命(いちはやおのみこと)は子供、この伊奈波神社がお父さんの五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)ということになる。
 キリッとした男前の佇まいで、みんなに自慢したくなるような理想のお父さん像のような神社だと思った。厳かというよりダンディで、神仏習合だった時代の名残だろう、お寺の包み込むような空気感も併せ持っているように感じられた。
 創建は今から1900年以上前の景行天皇十四年ということになっている。まあ、そのまま信じるわけにはいかないとしても、かなり古い神社であることは確かなようだ。
 祭神の五十瓊敷入彦命は、第11代垂仁天皇の長男で、第12代景行天皇の兄に当たる。
 どうして長男なのに、天皇になれなかったのだろうか。能力がなかったわけではなさそうで、武勇と政治に優れ、各地に派遣されてその地を治めたとされている。伊奈波神社が建てられたのも、死後にその偉功をたたえ、祀るためということになっている。
 各地の反乱を収めるべくあちこちにやられたというのは、なんとなくヤマトタケルに通じるものを感じる。ヤマトタケルも天皇の父を持ち、自分の息子も天皇になったのに(第14代・仲哀天皇)、自分は天皇になれず、討伐に次ぐ討伐の人生を送り、最後は負けて命を落とした。ヤマトタケルの父は、五十瓊敷入彦命の弟である景行天皇だ。叔父と甥の関係になる。因果は巡るというのか、息子は父の姿を見て育つものだ。
 五十瓊敷入彦命も、朝廷の命で奥州を平定したあと、同行した陸奥守豊益が成功をねたんで、謀反の疑いありと朝廷に嘘の告げ口をしたために朝敵とされ、朝廷軍によって攻められて岐阜のこの地で果てたとされる。
 そんな古い歴史を持つ伊奈波神社なわけだけど、どういうわけか平安時代の延喜式には載っていない。1900年前というのはともかく、平安時代に創建されていなかったはずはなく、由緒からしても延喜式に載らないのはおかしい。この地の神社で載っているのは、物部神社だけで、伊奈波神社の名はない。しかし、『美濃国神名帳』には正一位 伊奈波大神とあり、物部明神は従五位下となっている。このあたりについてはいくつか説があるようで、はっきりしたことは分かっていない。
 伊奈波神社はもともと、稲葉山(今の金華山)の中腹、椿原(今の丸山)に建てられた。斎藤道三が稲葉山城を築城する際に、神様を足元に置くのは申し訳ないということで、現在の場所に移された。
 延喜式の物部神社は伊奈波神社のことだったのか、違う理由があるのか。のちに物部神社は、伊奈波神社に合祀されている。
 壬申の乱のとき、大海人皇子(のちの天武天皇)がこの神社を訪れ、戦勝祈願をしたと伝わっている。ということはやはり、五十瓊敷入彦命は武勇に優れた神として祀られていたということだろう。

伊奈波神社-2

 神社前は広めの道で、どこから神社が始まるのか、やや判然としない。鳥居の前には善光寺があって、少し不思議な感覚だ。
 最初の鳥居をくぐって、ようやく神域に足を踏み入れた実感が沸く。

伊奈波神社-3

 緩やかに弧を描きながら登る参道が優美だ。すぐには社殿までたどり着けない、この演出がいい。演出じゃないけど。

伊奈波神社-4

 二つ目の鳥居をくぐって先へ進む。
 ここから見えているのは拝殿ではなく楼門だ。

伊奈波神社-5

 両側に石灯籠が並び、石造りの神橋が架かっている。
 残念ながら神橋を渡ることはできない。

伊奈波神社-6

 神橋を横から見たところ。かなりの反り具合だ。ほとんど半円状になっている。

伊奈波神社-7

 楼門を過ぎて、更に石段を上がると神門がある。その先に拝殿と本殿があるのだけど、神門より先には進めないので、ここで参拝をする。
 かなり雰囲気のある社殿だ。江戸時代あたりの建築だろうか。もっと古いかもしれない。

伊奈波神社-8

 神門から振り返って見る楼門。

伊奈波神社-9

 最近のパワースポットブームで、神社に若い女の人の姿をよく見るようになった。
 動機はどうであれ、若い世代が神社に親しむことはいいことだ。神頼みというのは他人任せとは違う。人智を越えた力に対する敬いだ。

伊奈波神社-10

 境内社の一つ、黒竜神社が最高のパワースポットという話もある。伊奈波神社が遷座してくる前から、この地の守り神だったといわれている。

伊奈波神社-11

 神社の入り口にある善光寺。
 信州善光寺の本尊は、織田軍が武田家を滅ぼしたときに信長によって、伊奈波神社の近くに運ばれてきた。
 信長が本能寺の変で討たれると、本尊は息子の織田信雄によって尾張の甚目寺に移され、更に家康によって遠江の鴨長寺へ運ばれていった。その後、秀吉の手に渡り、京都方広寺の本尊とされ、1598年にようやく信濃善光寺に戻ることになった。
 この地に善光寺が建立されたのは、織田秀信が岐阜城主だった1600年頃とされている。一時、本尊があった場所に分身を祀るための寺を建てた。
 美濃四国第1番札所で、現在の本堂は大正元年(1912年)に再建されたものだ。以前のものは明治24年(1891年)の濃尾地震で全焼してしまった。

伊奈波神社-12

 ところ変わってこちらは正法寺。
 自称日本三大仏の岐阜大仏があるというので、自分の目で確かめるべくやって来た。
 大仏殿は中国風だ。この建物はさほど大きいという感じはしない。早速200円払って中に入ってみる。
 と、何の前置きもなく、大仏は唐突に目の前に座っている。

伊奈波神社-13

 写真では大きさが伝わらないと思うけど、実際にそんな大きいとは思えない。
 奈良の大仏が14.98メートル。鎌倉の大仏が11.35メートル。岐阜大仏は13.63メートルというから鎌倉よりも大きく、奈良の大仏に迫るくらいの大きさだ。ただ、その数字を聞いても、ホントかいなと思う。
 狭い大仏殿の中でちょっと窮屈そうに背中を丸めている。そのせいもあるだろうか。

伊奈波神社-14

 乾漆造(かんしつぞう)と呼ばれる仏像で、大イチョウを直柱として、骨格を木材で組んで、竹材と粘土で固めて形を作る。その上から経典を糊張りして、漆を塗り、最後に金箔を施して完成となる。
 本体は釈迦如来の大仏で、胎内に薬師如来が祀られているそうだ。
 江戸時代後期の1790年頃、相次ぐ地震や飢饉に見舞われたことに心を痛めた正法寺の第11代推中和尚は、ここはひとつ大仏を建立して鎮めるしかないと思い立つ。
 まずは大仏造りのための経本集めを行うがままならず、各地を托鉢して回るもなかなか資金は貯まらなかったという。1800年にようやくお堂が完成したものの、肝心の大仏は頭の部分しかできなかった。
 1815年に和尚は志半ばで亡くなり、一時中断を挟んで第12代肯宗和尚があとを継いで、ようやく完成したのが1832年だった。足かけ40年近くかかったことになる。

伊奈波神社-15

 周囲には五百羅漢像が並ぶ。

伊奈波神社-16

 正面やや左から見上げると、優しく微笑んでいるように見える。オールオーケイ、何も心配いらないネ、と言っているように見えた。

 伊奈波神社と岐阜大仏を見て、かなり満足した。とはいえ、岐阜へ行って岐阜城を見ないわけにはいかない。時間的に押してしまって、かなりギリギリだったのだけど、このあと急いで岐阜城がある金華山へと向かった。
 そのときの話はまた次回。
 つづく。

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2014-01-05 13:03 | from ローカルニュースの旅