提灯の大きさより人の多さが印象に残る一色大提灯まつり
2010-08-29|風物詩/行事(Event)

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4 / PENTAX-M 50mm f1.4
8月の26日、27日に、一色の大提灯まつり(おおぢょうちんまつり)が行われた。土日ではないのは、昔から毎年この日にやることが決まっているからだそうだ。
この祭りの名物は、名前の通り巨大な提灯だ。秋田県の竿灯まつり、福島県の提灯祭りととともに日本三大提灯祭の一つとされているとか。
特に提灯が好きというわけではないのだけど、物珍しさに惹かれたのもあって、一度見に行ってみることにした。下調べをしてみると、なんだか知らないけど妙に人気のある祭りのようで、人も大勢訪れるらしい。そんな提灯好きはたくさんいないだろうと高をくくっていたのだけど、現地に着いて大いに驚くことになる。
一色といっても県外の人はあまり知らないだろうか。うなぎの町として有名で、少し前に偽装表示で話題になったから覚えている人もいるかもしれない。
地理的にいうと、西尾の南、吉良の西で、鉄道がないから名古屋から行くには不便なところだ。しかし、一色には個人的に用があった。三河湾に浮かぶ離島、佐久島へ行きたいとずっと思っていて、その船が出るのが一色からだった。こうなったら、二つまとめて行くしかないということで、やや強引に佐久島と一色大提灯まつりの二本立てとした。
最終的に深いダメージを負うことになるのだけど、佐久島の話はいずれゆっくりするとして、今日は一色の大提灯まつりについて紹介することにしたい。

祭りが行われる諏訪神社に到着したのは、夕方の6時半すぎだった。この時間ですでに境内は大混雑している。なんという盛り上がり。想像を超えていた。
諏訪神社は、戦国時代の1564年、信州の諏訪大社から勧請して建てられた。桶狭間の戦いが1560年だから、それくらいの時代だ。
現在でこそ諏訪大社系の祭神はタケミカヅチということになっているけど、この頃は神仏習合で、諏訪大明神として祀っていたといわれている。
どうして諏訪神社にしたかといえば、やっつけて欲しい悪者がこの地で暴れていたからだ。
今は埋め立てによって海まで2キロほど離れた場所になっているけど、当時、諏訪神社は海の近くの州にあり、このあたりは間浜と呼ばれていた。戸数は27ほどだったというから人里離れた海辺の寒村だ。
毎年この時期になると、その村を海魔(かいま)が襲った。田畑を荒らし、人や家畜に害を与えたという。
海の魔物というと巨大なタコやイカなどを連想するけど、時期的に考えると台風のことだろうか。
その海魔を鎮めるために、諏訪神社に魔鎮剣(ましずめのつるぎ)を奉じ、大きなかがり火をたいて祈ったところ、海魔はおとなしくなったそうだ。以来、毎年この時期にかがり火をたくことが習わしとなり、それが100年ほど続いたらしい。
江戸時代に入ると、かがり火は提灯となり、時代が進むにつれて、氏子同士で提灯の大きさを競うようになっていく。
争いはエスカレートし、ついには10メートルの大提灯が登場したことで、お上からお叱りが来た。これ以上提灯を大きくしたらきついお仕置きを与えるからそのつもりで、と。
現在、提灯は全部で12張りとなっている。間浜、上、中、大宝、宮前、諏訪の6組がそれぞれ2張りずつ出している。
一番大きなものは、間浜組の大提灯で、高さ10メートル、直径5.6メートル、重さは1トンある。つり下げるだけで大仕事になる。
これは和紙で作られた提灯としては日本一の大きさで、浅草寺の雷門にかかっているあの提灯を作った京都の高橋提燈が手がけたものだ。これだけの提灯を作れる職人はごく限られているのだろう。
それぞれの提灯には絵が描かれている。すべてに物語があり、大提灯による絵巻物となっている。

7時前の様子。まだこの頃はましだった。境内にも多少スペースがあり、親子が記念撮影を撮ったりもできたし、少し隅っこの方にいけば三脚も立てられた。
混雑が増してきたのは提灯に明かりがともされた7時すぎで、その頃にはもう三脚を立ててのんきに撮っていられるような状況ではなくなった。

スローシャッターで人の軌跡を写し込むというのは考えていた。もう少しスペースや状況に余裕があればNDフィルターを使うこともできたのだけど、それどころではなくなった。
満員電車のような境内に耐えられなくなり、人波にもまれながら逃げるように境内から出た。とんでもない人混みだ。まさかこんなに人気があるとは思わなかった。みんな、そんなに提灯が好きなのか。

いったん境内から出て、体勢を立て直すことにした。
光る飾りおもちゃを売る屋台でも撮って気持ちを落ち着かせる。最近、この手のおもちゃがすごく増えた。頭につけるやつとか、子供たちがあちこちでピカピカさせている。

境内の外の仕切りみたいなところに乗って、安住の地を見いだした。ベストポジションとはほど遠いけど、とにかく一息つける場所に逃れたかった。
行く前のイメージとしては、暗い境内に幻想的に浮かび上がる大提灯といったものが頭の中にあったのだけど、現場は大きく違っていた。屋台の明かりが煌々と境内を照らし、あふれかえる人混みが押すなおすなの大盛況で、とんでもなく賑やかな場所だった。
提灯の中には1メートルの巨大ロウソクがあって、そこに火がついているのだけど、屋台の明かりが強すぎて、まったく火がともっているようには見えない。提灯は暗いままで、明るく見えるのは外の光によるものだ。雰囲気としては期待以上ではなかった。
深夜までロウソクの明かりが入っていて、夜の10時くらいには屋台が店じまいして暗くなるから、そのあとに行くと幻想的な提灯の明かりが見られるそうだ。
私は8時台のバスに乗らないと家に帰り着けなかったので、少し物足りない気持ちを抱えつつ、家路につくことになった。

境内の人波を見たら、ちょっと笑えた。この夏、いろいろな祭りに出向いたけど、混雑度ではここが一番だった。打ち上げ花火大会が終わった直後の花火会場の出口くらい混んでいた。恐るべし、一色の大提灯まつり。大提灯の威力を侮ってはいけなかった。

大提灯まつりでの写真の収穫が少なかったので、時間を戻して一色歩きの写真との合わせ技でひとネタとしたい。
佐久島から戻ったとき、すでに西尾駅行きのバスはなかった。そのことは分かっていた。佐久島を3時台に出る船に乗らないと、駅まで歩いて行くことになる。私が佐久島をあとにしたのは5時台の船だった。
諏訪神社までは2キロちょっとなので、それくらいなら歩いていける。佐久島で7時間近く歩いたあとだったから、もう歩きたくない気持ちもあったのだけど、交通機関はないのでわがままは言えない。歩きながら写真が撮れたので、気が紛れたというのはあった。
上の写真は一色港の建物だ。半分、廃墟のようになっていて、心惹かれるものがあった。ここは行く前に少し写真を撮った。

この日も暑い一日だったけど、日がだいぶ短くなった。伸びる影の長さからも、秋が近づいていることを感じる。

日没近くまで農作業をするお母さん。

川港に係留される船。みんなお揃いみたいによく揃っていた。
一日の仕事を終え、西日に照らされていた。

港の倉庫。トタンが茶色く錆びている。

まだ使われているのか、もう使われていないのか、外観からでは判断が難しい。


ファミリーショップ。
スーパーでもコンビニでもない、ファミリーショップというカテゴリーの店がたまにある。

赤くて大きな夕日が、町の向こうに沈んでいった。

祭り帰りと思われる子供たちが向こうから歩いてきた。
すれ違うときに大きな声で、一斉にこんにちは! と挨拶されて、慌ててこちらもこんにちはと返した。

家の軒先にも提灯がかかっていた。

LPガス容器置き場。
一色大提灯祭りの印象は、とにかく混んでいたというものだった。提灯が大きかったとかそんなことよりも、人の多さばかりが記憶に残る。考えていたよりもずっとメジャーな祭りのようで、県外からも訪れる人がいるのだろう。一色近辺だけであれほどの人数は集まらない。
いつか機会があれば深夜の提灯も撮ってみたいと思うけど、出会いはいつも一期一会だから、二度目があると思わない方がいい。
まだ見ぬ別のお祭りに、気持ちはすでに向かっている。
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