松坂城の二つの神社を見たら見学終了 - 現身日和 【うつせみびより】

松坂城の二つの神社を見たら見学終了

松阪最終回-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4



 松坂城跡の裏手あたりに、本居宣長を祀った本居宣長ノ宮と、松阪神社と、二つの神社がある。
 元からあったのは松阪神社の方で、当時は城内の守り神だった。本居宣長ノ宮は大正になってこの地に移されてきた。
 順番からいくと松阪神社から紹介した方が分かりやすいのだけど、城の方から来ると、本居宣長ノ宮から参ることになる。

松阪最終回-2

 松坂城が築かれた小高い丘は、かつて意非の森(おいのもり)と呼ばれていて、意非神社(おいじんじゃ)があった。
 そこには、潮田長助が築いた砦があり、蒲生氏郷はそれを流用した。城跡に松坂城を築き、意非神社を城の鎮守とした。四五百の森(よいほのもり)というのは、そのとき氏郷がつけた名前といわれている。
 二つの神社があるあたりは、鬱蒼とした木々が茂り、当時の面影を一番よく残していると思われる。
 大木の枝葉が太陽の光を遮り、蝉の鳴き声があたりを包んでいる。神域らしい空気感をたたえていた。

松阪最終回-3

 本居宣長ノ宮の本殿は、横長のちょっと変わった建物だった。拝殿はなく、直接本殿と向き合うことになる。
 本居宣長が祀られるようになった経緯は、菅原道真などとは全然違っていて、怨霊とかそういったことではない。武将でも天下人でも天皇でもない、一人の人間が神として祀られる例は少ない。菅原道真や安倍晴明などは例外として、他にはパッと思い浮かばない。東郷平八郎とかの軍人の例はある。
 本居宣長を祀ろうと言い出したのは、国学を学んだ神職の川口常文や野呂万次郎たちだった。本居宣長は神道にも深く関わった人だから、そういう意味では神社の祭神になってもおかしくはない。
 明治4年、山室山に作られた本居宣長の奥墓 (おくつき)の横に、祠を建てたのが始まりだった。
 明治7年には、神社として認めてもらう運動をして、それが認められたことで、山室山神社と名付けられた。
 このとき、野呂万次郎が平田篤胤も合祀するよう要求して、結果的にそれが通った。反論はかなりあったようだ。
 平田篤胤は、本居宣長の後継者といえる国学者で、本居宣長以上に神道寄りの人物だった。神道第一主義で、仏教との神仏習合はけしからんといって、その思想は幕末の尊皇攘夷にもつながることになった。明治になってからの神仏分離や廃仏毀釈にも影響を与えることになる。
 本居宣長以降の国学というのは、のちの軍国主義にもつながっていくもので、今の時代からすると危うい思想に思えるのだけど、思想として純粋だったものが軍国主義に利用されたという言い方の方が正しいかもしれない。
 明治22年、社殿を大きくするには奥墓では手狭ということで、殿町の奉行所跡(今の松坂市役所所)に移された。
 大正4年に現在地に鎮座し、昭和6年に本居神社と改称。平成7年に本居宣長ノ宮と改められた。
 氏子がいない神社ということで、全国的にも珍しい存在となっている。

松阪最終回-4

 白袴の神職がいたけど、どちらの神社の人だろう。二つの神社は隣接していて、境界線はよく分からない。
 成り立ちはまったく違う神社だから、神職も別々にいるのだろうけど。

松阪最終回-5

 こちらが松阪神社の社殿。思ったほど大きな神社ではなかった。
 個人的な関わりがある神社なので、今回ぜひ挨拶に訪れなくてはいけないと思っていた。これが初めての参拝となる。
 元々の意悲神社は、延喜式にも乗っている古くて格式のある式内社だった。この地の国司だった飯高氏が産土神として崇敬していたという。創建年ははっきりしない。
 蒲生氏郷が松坂城を築城したとき、この神社に八幡神(誉田別命)を合祀して、城の守り神とした。江戸時代までは御城八幡と呼ばれていたそうだ。
 吉田重勝が城主だったとき、宇迦之御魂命(ウカノミタマ)を合祀した。
 ウカノミタマは、スサノオの子供で、大年神(年神様)の弟とされる神だ。本来は穀物の神だったようだけど、稲荷神社で祀られるようになってからは、商売繁盛の神とされるようになった。京都伏見稲荷大社の祭神が、このウカノミタマだ。
 創建当時の意悲神社がどんな神を祀っていたのは分からない。土地の神様だったのだろうか。その後、戦の神となり、商売の神となった。
 明治41年には近隣の17神社33柱の神を合祀して、松阪神社と改名した。今ではアマテラスからイザナギ、イザナミ、スサノオ、オオクニヌシ、住吉三神など、あらゆる神様が揃っているから、願い事をしたら誰かが聞いてくれそうな気がする。

松阪最終回-6

 南東の松阪工業がある方に降りていったら、本来の入り口があった。こちらから入った方がよかった。

松阪最終回-7

 松坂城の見学を終えたところで、駅に帰ることにした。時間を食いすぎて電車の時間が迫っていた。このあとまだ回るところがあって、のんびりしている暇はなかった。

松阪最終回-8

 早足で歩きつつ、ときどき目についた風景を撮る。
 煙突と、ぽっかり浮かんだ雲。

松阪最終回-9

 金髪の女の人は、松阪あたりでは珍しいいんじゃないか。それとも、時代が変わってここも外国人が増えたんだろうか。
 見とれている場合ではない。先を急がなくては。

松阪最終回-10

 松阪の名産を表しているらしいプレートが埋められている。
 よいほモール1590、1990とある。松阪の町が始まった年と、商店街をよいほモールと名付けた年だろうか。昔はそんな名前はついていなかったと思う。

松阪最終回-11

 松阪で一番の老舗牛肉店「和田金」。しばらく見ない間に、こんなビルになっていて驚いた。昔の店の趣はすっかり失われてしまって、ちょっと寂しいような気もした。

松阪最終回-12

 こちらも松阪牛の有名店、三松。ステーキハウス三松と、しぐれ煮の三松があって、これはしぐれ煮本店のようだ。
 三重テレビで野球中継を見ていて、ランナーがホームインすると、「ステーキハウス三松」のテロップが入るのでもお馴染みだ。

松阪最終回-13

 この店は知らなかったけど、佇まいがよかったので撮ってみた。
 鯛屋という老舗の旅館で、夕飯は松阪牛なんだとか。

松阪最終回-14

 駅に戻ってくる頃には、松阪祇園祭の準備がだいぶ進んでいた。太鼓もスタンバイ完了だ。

松阪最終回-15

 松阪生まれなのに、松阪祇園祭なんてものがあることを、このときまでまったく知らなかった。かなり古くからやっている祭りのようで、何故知らなかったのか不思議なくらいだ。
 名前の通り、牛頭天皇の祭りだ。元々は平安時代に京都で始まった御霊会(ごりょうえ)に由来している。
 松阪では八雲神社、雨竜神社、御厨神社、四天王社が行っていた祇園会(ぎおんえ)が始まりだった。それぞれ牛頭天皇を祀る四天王と呼ばれていたそうだ。
 それらの神社が松阪神社に合祀されたことで、現在は松阪神社、御厨神社、八雲神社の祭礼として祇園祭が行われている。「三社みこし」の由来はここからきているのかとようやく理解した。三つの神社がそれぞれ御輿(みこし)を出して、町を練り歩くそうだ。

松阪最終回-16

 駅前の商店街にずらりと出店が並ぶようで、かなり大規模な祭りらしい。人出も相当なものだとか。
 このあと伊勢奥津へ行って帰ってきたとき、駅のホームから外を見たら、けっこうな人混みになっていた。せっかくだから見てみたい気もしたけど、残念ながら予定には組み込まれていなかった。
 伊勢奥津についてはすでに紹介した。次回は、四日市の富田編となる。

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