超優等生の蒲生氏郷が築いた松坂城 - 現身日和 【うつせみびより】

超優等生の蒲生氏郷が築いた松坂城

松阪城-1

PENTAX K10D+PENTAX DA 16-45mm f4



 三重県松阪市は、1588年に蒲生氏郷(がもううじさと)によって城下町として整備されたのを始まりとしている。江戸時代には伊勢神宮へ向かう旅人たちの宿場町として発展し、松阪商人と呼ばれる多くの豪商を生み出した。その後、昭和にかけて商業の町として栄えることになる。
 その松阪を紹介する上で、やはり松坂城跡は外せない。
 個人的には子供の頃連れられて訪れてから一度も行っていないから、ぼんやりとした記憶しか残っていなかった。久しぶりの再訪となった今回、あらためて城跡の広大さと、石垣の立派さに驚くことになった。もっと陰気くさくて荒れた公園という印象があったから、ちょっと意外にも感じた。もしかしたら、当時は今よりも荒れていたかもしれない。
 上の写真は、大手門の表門跡を過ぎてすぐのところだ。光と木々が作り出すまだらのコントラストが美しかった。
 建物は何も残っていないことは分かっていた。とりあえず天守があった場所を目指して歩いていくことにした。いきなりの上り坂で、城が小高い丘の上に建っていたことが分かる。天守へもぐるりと回り込まないとたどり着けないようになっていて、戦国時代に築かれた守り重視の城ということを実感する。

松坂城-2
 石垣が当時の状態でかなり残っている。子供の頃は石垣なんか見ても、面白くも何ともなかったけど、今見るとけっこう感動する。生まれ故郷にこんなに立派な城跡があったとは、これまでまったく意識することなく過ごしてきた。
 若い女の子が何人か訪れていて、石垣の写真を撮ったり、記念撮影をしたりしていた。最近はけっこうな歴史ブームで、神社仏閣や城でも若い子たちをよく見かけるようになった。入り口はどうであれ、日本の古いものに興味を持つことはよいことだ。

松坂城-3

 子供の頃の松坂城の思い出で一番覚えているのが、檻に入れられたサルだった。ものすごく唐突にサルがいて、なんでこんなところに、と驚いた。まさか今でもいるのだろうかと思いつつ探してみたけど、やっぱりいなくなっていた。城跡にサルって、どう考えても変だ。訪れる人たちを楽しませようという考えだったのか、関係者が単にサル好きだったのか。

松坂城-4

 城内に松阪市立歴史民俗資料館がある。訪れた日は、たまたま展示品の入れ替えとかで閉まっていた。開いていたとしても時間がなくて入らなかっただろうけど、やってないとなるとなんとなく残念な気持ちになった。
 明治45年に建てられたものだそうから、ここもかなりの歴史がある。

松坂城-5

 月見櫓跡など、いくつかの跡がそのまま残っている。遺構としてこれだけ残っていればたいしたものだ。往事の姿を思い浮かべるための手がかりは多い。

松坂城-6

 梶井基次郎の文学碑が建っている。
「今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町は甍を並べていた。白亜の小学校。土蔵作りの銀行。寺の屋根。そしてそこここ。西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出ている。」で始まる小説『城のある町にて』の一説が刻まれている。
 東京帝大に入学した年の夏、23歳の基次郎は肺結核を患い、病気の療養をかねて松阪殿町に住む姉の嫁ぎ先の家で一夏を過ごすことになる。大正13年のことだ。
 翌年、そのときのことを書いて同人誌に発表したのが『城のある町にて』だった。31歳で早死にして佳作だった基次郎にとって、この作品は代表作の一つとなった。
 非公開ながら、現在でもお姉さんの家は残っている。
 毎日のように散歩して、城跡に登ったというから、基次郎もこの場所に立って松阪の町並みを見下ろしていたことだろう。

松坂城-7

 戦国時代の城にしては、本丸がとても広い。大きな城郭でも本丸は意外と狭いことが多いのだけど、松坂城は例外と言えるんじゃないだろうか。
 さらに、本丸が上段部と下段部と二段に分かれているのも珍しい。

松坂城-8

 天守が乗っていた天守台は、さすがに狭い。これはどこも共通している。家を取り壊したあとの更地が驚くほど狭く感じるようなものだ。安土城の天主跡も狭かった。
 かつてこの場所に、三層の天守閣が建っていた。

 蒲生氏郷は、近江の蒲生郡日野にて、名門・六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれた。六角家が織田信長に滅ぼされると、父の賢秀は信長に降伏し、息子の氏郷は人質として岐阜の信長の元に送られることになった。
 信長は少年の氏郷を一目見るなり、この者はただ者にあらず、我が娘の婿にすると宣言して、15歳で冬姫と結婚させた。
 頭脳明晰だけでなく、武勇にも優れ、戦で数々の殊勲を上げる。
 信長亡きあとは、秀吉に仕えることになった。伊勢松ヶ島12万石を与えられて松坂へやってくることになったのは、その時代だ。
 それまで伊勢・松ヶ島城は信長の次男・信雄の本城だった。小牧長久手の戦いで信雄を攻略したのが氏郷で、その褒美としてここを与えられたのだった。
 しかし、松ヶ島城は海に近すぎて統治にも不便で、城下町としての発展性も見込めないということで、氏郷は松ヶ島城をあっさり捨てて、丘陵地帯にあった四五百森(よいほのもり)に新しく城を築くことにした。それが松坂城だ。
 松坂の名前は、縁起のいい松の字と、秀吉の本拠だった大坂の坂を組み合わせてつけたとされている。だから、この当時の松坂城は松阪ではなく松坂と表記すべきだ。
 北と南に流れる川を天然の堀として、城全域を石垣で固めた。かなり実践を想定した造りになっている。城造りの名手でもあった氏郷は、おそらく信長の安土城を参考にしたはずだ。
 廃城にした松ヶ島城を解体したり、近隣の寺社を取り壊して建材を確保して、急ピッチで城造りは進められたという。
 のちに会津若松へ移封となって築城したのが、白虎隊で有名となった会津若松城(鶴ヶ城)で、あちらでも名城を築いている。
 氏郷は城下町の整備も積極的に進め、楽市楽座を奨励したり、海岸近くを通っていた参宮街道を城下に引き入れたりして、城下町の発展にも努めた。地元の近江日野から商人たちを呼び寄せ、そこから松坂の豪商が生まれることになる。
 のちに氏郷は茶道の道でもひとかどの人物となり、千利休の高弟である利休七哲の筆頭にまでなっている。古田織部や細川忠興より上というのだからすごい。和歌にも優れ、高山右近とも親しかったことからキリシタンとなり、レオンという洗礼名も持っていた。
 人望も厚く、風流人で、賢くて、武勇にも優れているなんて、ちょっと出来過ぎのような気もするけど、怪談好きだったというエピソードが人間くさくていい。気に入った部下には蒲生の名前をじゃんじゃん与えてしまうから、家臣が蒲生だらけになってしまって、前田利家に叱られている。そんなお調子者の一面もあったようだ。
 松坂の城と城下町を手塩にかけて育てた氏郷だったけど、小田原合戦で功をあげたことで、会津に移封されることになってしまう。42万石という大出世だったにもかかわらず、氏郷は行きたくないと嘆いたという。都からあんなに離れてしまっては天下も取れないではないかと。
 松坂にいたのは、わずか2年でしかない。けれど、大きな置き土産をしていってくれた。
 会津若松でも城を築いて町の基礎を作ったものの、40歳の若さで病死してしまった。関ヶ原の戦いの5年前だった。もし氏郷が関ヶ原のときに健在だったら、戦いの様相は少し違ったものとなっていたかもしれない。伊達政宗や上杉景勝との戦いはどういったものとなっていただろう。氏郷は家康の側についたのだろうか。
 氏郷が去ったあとの松坂城はパッとしない。小大名が入ってきて問題を起こして去ったり、天守は大風で倒れてそのままになったりで、とうとう城主もいなくなり、紀州藩の松阪城代が置かれて、そのまま明治を迎えることになった。
 明治に入ると外堀は埋められ、わずかに残っていた建物も取り壊された。ただ、石垣などはそのまま残され、明治14年という早い段階で城跡公園として一般公開されている。石垣だけでも残ったのは幸運というべきだろう。

松坂城-9

 城内には本居宣長の旧宅が移築されて、一般公開されている。鈴が好きで鈴コレクションをしていた本居宣長だったから、書斎は「鈴屋」と名付けられた。
 松阪名物「鈴もなか」は鈴の形をしていたり、実際の鈴が入ってたりする。お土産をもらったことがある人は知ってると思うけど、あれは松阪が生んだ偉人・本居宣長から来ている。松阪駅前の大きな鈴を見て、なんで鈴なんだろうと疑問に思った人も多いかもしれない。

松坂城-10

 見学料は300円。
 私は時間がなくて、外から建物を見ただけだった。松阪の町歩きで道に迷ったのが響いて、このあと時間が足りなくなって焦ることになる。松阪城跡は思いの外広かった。

松坂城-11

 城跡から見下ろす御城番屋敷の屋根風景も、名物の一つなのに、このときは屋根の大がかりな葺き替え作業をしていて、ブルーシートが風情を台無しにしていた。この風景を楽しみにしていたから、とても残念だった。早く終わらせて、本来の情緒ある風景を取り戻して欲しい。

松坂城-12

 石畳の道ときれいに刈り込まれた槙垣。当時の城下町の風景を今に伝えている。
 城主のいなくなった松坂城を警備するため、紀州藩士とその家族が住むために建てた組屋敷が御城番屋敷だ。今は城外のようになっているけど、当時は城内三の丸だったところだ。
 明治維新のあと取り壊されなかったのは、地元の士族たちが中心となって買い取り、管理維持をしてきたからだ。武士の長屋建築としては貴重ということで、重要文化財に指定されている。
 長らく一般に貸し出されて、今でも住居として使われている。重文指定とはいえ、老朽化が激しくなって、大がかりな修繕をしているところだ。

松坂城-13

 一軒を松阪市が借りて、中を一般公開している。
 無料だから文句は言えないけど、もう少し見せ方に工夫が欲しいところだ。何も置かれていなくて寂しい。

松坂城-14

 野面積みの完成型といっていい美しい石垣だ。氏郷は近江出身だし、地元から穴太衆を呼んだ可能性もある。安土城などの石積み技術を参考にしたのは間違いないだろう。

松坂城-15

 御城番屋敷を抜けて少し行ったところに、松阪工業高校があり、ここに赤壁(せきへき)と呼ばれる建物がある。それも見に行こうと決めていた。

松坂城-16

 ちょっとお邪魔して写真を撮らせてもらった。
 明治41年に工業学校の製図室として建てられたもので、木造建築の外観に赤い塗料が塗られている。化学の実験で黒く変色することを避けるために、変色しない硫化水銀を塗ったんだそうだ。
 明治の建物としては大変ハイカラなものだったろう。赤壁校舎と呼ばれて親しまれたという。

 松阪編は、この続きがもう一回分ある。

スポンサーリンク

関連記事ページ
コメント
非公開コメント

トラックバック

http://utusemibiyori.com/tb.php/1870-d4727780