関宿ってこんな感じのところ <第二回> - 現身日和 【うつせみびより】

関宿ってこんな感じのところ <第二回>

関宿2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 関宿の2回目は、駅から再スタートして、関宿についての補足をしながら写真で紹介していきたいと思う。
 関駅は亀山の隣で、名古屋から1時間45分くらいのところにある。亀山で乗り換えないといけないのがちょっと面倒ではある。
 駅を降りると、そこにはこれといったものはない。典型的な地方の駅前風景で、観光地の玄関口といった感もない。
 関宿エリアは、駅の正面の道をまっすぐ7、8分歩いたところから始まる。馬籠や妻籠なんかよりもよっぽど交通の便はいいし、大型バスをとめるような空き地はたくさんありそうだから、もう少し賑わいがあってもよさそうに思う。
 駅前の道と関宿の通りは直角に交わっていて、そこから東に500メートルちょっと行ったところに東の追分があり、西に約1.3キロのところに西の追分がある。端から端まで見るなら、往復することになるから3.6キロほど歩くことになる。私は東の追分を見て、西の追分の手前まで行って戻った。裏道を歩いたりもしたから、やっぱり3キロくらいは歩いたと思う。だいたいの雰囲気を味わいたいというのであれば、まずは東の追分まで行って、西は地蔵院あたりまで行って引き返すのがいい。

関宿2-2

 関のマンホール蓋。関宿の町並みと旅人が描かれている。

関宿2-3

 関宿エリアの手前からプロローグは始まっている。積まれた石垣の上に黒板の家屋というのも、なかなか趣がある。普通の町にあればこれだけで嬉しいところだけど、何しろ関宿は古い建物には事欠かないところなので、一軒いっけんは全体に埋もれて、個別の印象をあまり残さない。飽きるほど撮れるし、実際途中から見飽きてくる。

関宿2-4

 軒先に薪が積まれている。風呂を薪で沸かしているのか、かまどでもあるのか。それにしては数が少ないから、よく分からない。
 母方の祖父母の家では、私が子供の頃まで五右衛門風呂で、薪で風呂を沸かしていた。夏休みなどに遊びに行くと、よく手伝いをした。あれはけっこう楽しい作業だった。

関宿2-5

 ここが関駅から歩いてきたときの関宿入口になる。古めかしい自転車がお出迎えしてくれて、想像以上の古い町並みに驚くことになった。
 ただ、妻籠に初めて立ったときのおおおっという衝撃はなく、ほほうという感じではあった。感動と感心は別の感情だ。

関宿2-6

 雰囲気を盛り上げるための小道具として、お店ではこんな木の看板を出している。
 ここは美容院で、御髪結処とある。赤白青のぐるぐる回っているようなやつも置かれていない。極力雰囲気を壊さないようにという配慮がされていて、そのあたりの姿勢にとても好感が持てる。エアコンの室外機がむき出しになっているような無神経なこともしていない。

関宿2-7

 ポストも昔の形状のものを使っている。書状集箱というのが、ポストの昔の名前だった。
 赤い丸ポストが登場したのが明治34年で、それまで書状集箱は黒くて四角かった。最初に書状集箱が置かれたのは、明治4年のことで、東京、京都、大阪の他、東海道の各宿場に設置された。

関宿2-8

 非常に懐かしさを覚える店の佇まいだ。小学生くらいのときは、こんな店がよくあった。ペプシを飲んだり、アイスを買って食べたものだ。ガチャガチャやコインゲームがあったのも、こういう店だった。

関宿2-9

 関宿の通りから少し奥に入ったところにあって、あまり人が訪れている様子のない関神社。
 初めて行く場所ではその土地の神様に挨拶をするのが礼儀だろうということで、ちょこっと寄っておいた。
 昔は熊野皇大神社と呼ばれていたというから、熊野信仰の神社のようだ。
 天照大神の他、30以上の神様が祀られている。願い事をしたら、その中の誰かは叶えてくれそうなくらい数は揃っている。

関宿2-10

 関まちなみ資料館は、町屋の内部を公開しているところで、旅籠玉屋歴史資料館と共通で300円となっている。
 この程度のお金は使っていって欲しいという関宿側の思いは理解できるし、観光客からするとうーん300円かと迷ってしまう気持ちも分かる。たかが300円だけど、家の中を見るだけで300円の価値があるのかと考えてしまう。
 別々にしてそれぞれ100円にした方が入る人は増えるんじゃないかと思うけどどうだろう。

関宿2-11

 関の山の語源となった山車が格納されている山車蔵。最盛期は16台の豪華な山車があったそうだ。現在は4台残っている。

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 復元された高札場。
 江戸時代の掲示板で、宿場の決まり事や、幕府からのお達しなどが書かれていた。
 ちなみに、江戸時代の日本人は世界一の識字率だったといわれている。中期以降、男性で60パーセント程度というのは、同時代のロンドンの20パーセント、パリの10パーセントと比べてもはるかに高い。
 幕末頃には男性で70パーセント、女性で20パーセントくらいだったと考えられている。武士はほぼ100パーセントで、地方の農民などは20パーセントほどというから、お伊勢参りをしていた旅人のどれくらいが字を読めたのかはよく分からない。誰かが読めれば、その人に聞けばいいだけだから、さほど問題はなかったのだろうけど。

関宿2-13

 古い看板がとても格好いい。電話は十一番で通用したようだ。
 電話のサービスが始まったのが明治23年で、最初の頃は公共の施設とか、店とか、大金持ちとかだけだから、番号は二桁で事足りていた。
 一般市民まで電話が普及するのはずっとあとになってからだ。昭和40年代頃までは、一般家庭でも電話がない家はけっこうあった。街中でみんなが小さな電話を持って話しをしている光景なんてのは、つい20年くらい前までは想像もできなかった。

関宿2-14

 ツアー客なのか、ガイドさんがする説明を聞いている集団がいた。観光地らしい光景を見て、なんとなくちょっとホッとした。

関宿2-15

 西エリアの新所地区は、地蔵院がクライマックスとなる。
 開基は行基で、創建が741年というから古い。
 本尊の地蔵菩薩座像は現存する日本最古の地蔵菩薩で、一休さんで知られる一休宗純が開眼供養をしたと伝えられている。
 本堂、鐘楼、愛染堂は国の重要文化財に指定されている。

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 父の仇討ちで有名な関の小萬の生家といわれても、関の小萬という人をまったく知らないので、ありがたみは薄い。
 かつては山田屋という旅篭だったそうで、現在は会津屋という名前で食事処になっている。
 店構えは雰囲気があって、花もいろいろ咲いていて華やかだ。

 写真はまだまだあるけど、今回はここまでとしたい。
 第3回につづく。

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コメント
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ミックス度?

こんばんわ

僕的には古い昭和の頃でいいんですがねぇ。
明治いや江戸の頃の建物があってもいいです、
でもその頃の「のみ」ってなんか・・。
その地域に守っていこうって気概(じゃないな気風か)があるんなら
江戸から明治、大正、昭和と揃っていてもおかしくないと思うんだけどなぁ。

って毎度グチですみませぬ・・。

2010-04-28 20:28 | from | Edit

なんとなく不思議

★⑦さん

 こんにちは。
 古い町並みが残るところはたくさん巡っているんだけど、関宿はなんとなく不思議なところでした。
 古さの足並みが揃いすぎているというのか。
 日常の風景として成立しているんだけど、京都みたいかといえばそうでもなく。
 訪れた人たちはみんな、どんな感想を抱くんだろう。

2010-04-29 02:35 | from オオタ | Edit

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