伊賀上野城と忍者の歴史 <伊賀上野・3回> - 現身日和 【うつせみびより】

伊賀上野城と忍者の歴史 <伊賀上野・3回>

上野城-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 旧小田小学校をあとにして、上野城へとやって来た。
 ちびっこは、近所のひかり保育園の子供たちだろう。先生に連れられて散歩を兼ねたお花見だろうか。子供というのは、意味のない無駄話を大声でするものだと、あらためて思う。ものすごく賑やかで、話に内容がまったくない。そこが面白くて笑えるのだけど。
 桜は満開から少し散りかけといったところだった。風に花びらが舞って、子供たちの歓声が上がる。
 小田小学校の方から来たので、堀の裏手から入ることになった。本来は南の白鳳門をくぐって入ることになると思う。

上野城-2

 城造りの名手、藤堂高虎が築いた高石垣が上野城の名物となっている。
 日本一の高さと紹介されることも多いけど、実際は大阪城の方が微妙に高いらしい。
 上野城が29.5メートル(水面上は23.5メートル)に対して、大阪城は30メートル。50センチといえば、もう一つ、二つ石を積めば追い抜けた高さだ。惜しいところで日本一を逃した。
 堀に水が張られているから、下から見上げるとたいしたことがないように思えるけど、上に立ってみるとやはり相当な高さがある。端に立って下を見ると、ちょっと怖い。30メートルといえば、ビルの10階の高さだ。

上野城-3

 あ、忍者がいた。くのいちもいる。
 伊賀といえば忍者だから、心の準備はできていたつもりだったけど、あまりに唐突だったので、ちょっと笑いそうになった。
 伊賀は忍者を前面に押し出していて、市の職員になると忍者の恰好をしなくてはいけない。冗談みたいだけど本当の話だ。新人研修などでは忍者の恰好をさせられる。
 他でもあちこちで忍者絡みのものを目撃することになる。

上野城-4

 伊賀忍者の歴史は古く、古代にはすでに誕生していたとさえいわれる。壬申の乱でも伊賀の勢力は大海人皇子側につき活躍しているし、源平の合戦から鎌倉、室町にかけて、その勢力を増していき、家康お抱えとなった服部半蔵によって歴史の表舞台に登場するまでになる。
 地理的には伊勢と大和の境界線にあり、鎌倉末期までは大部分が大和国東大寺の荘園となっていた。 
 現在城跡になっている場所に、平安時代の末期、後白河法皇の勅願によって平清盛が建立した平楽寺と薬師寺があり、そこが伊賀国の中心となっていた。
 東大寺の勢力が衰えると、伊賀国はいくつかの勢力に分かれ、それそれが独自の支配をするようになる。その中から力をつけていったのが、服部氏であり、百地氏であり、藤林氏であった。
 忍者といっても普段からみんなが忍術の修行だけしていたわけではなく、農業で生活をしながら、訓練をしたり、諜報活動をしたりといった感じだったようだ。大きな勢力に属さないゆえに、自分の身は自分たちで守らねばならず、情報収集や防衛術を会得することは、必要に迫られたゆえだ。
 忍術というのは、本来身を守るためのものであって、相手を攻撃するためのものではない。手裏剣を投げるくらいでは相手を仕留められないし、刀など持っていては隠密行動の邪魔になる。まきびしを撒いたり、水中に隠れたりする術などを見ても、攻めるためのものではないことが分かる。いわゆる忍者の恰好というのも後世のもので、あんな恰好をしていたらかえって目立つ。忍者は忍者とバレたらいけない。
 戦国時代になると、伊賀の独立勢力は全国支配を目論む大名にとっては目障りな存在になる。上手に活用したりもしただろうけど、基本的には配下にはつかない。それを許さなかったのが信長だった。
 というよりも、次男のちょっとお馬鹿さんな信雄が、伊賀者にだまされて独断で攻め込んでいったところ大負けしてしまい、信雄と伊賀に怒った信長が本気で攻め込んだというのが経緯だった(天正伊賀の乱)。
 結果、伊賀の勢力というのは衰えることになるわけだけど、このとき信長は伊賀を壊滅させることなく和睦を結んでいる。おかげで伊賀者たちは生き残ることになった。本能寺の変ののち、伊賀者の残党は各地でちょっと暴れている。
 本能寺の変のとき、境にいた家康を三河へ逃がすために護衛したのが伊賀の服部正成だった。世に言う神君伊賀越えというやつだ。
 正成は二代目服部半蔵で、服部氏は代々半蔵を襲名していったので、何人も服部半蔵がいる。初代の保長は、室町幕府12代将軍足利義晴と、家康のオヤジさんの松平清康に仕えたといわれている。この初代は忍者で、正成は忍者ではなく武士だった。
 信長のあとを継いだ秀吉は、大和郡山から筒井定次を伊賀国に移封した。定次は平楽寺、薬師寺の跡に三層の天守閣を持つ城郭を築き、城下町を整備した。これが上野城の基礎となる。現在の天守が建っているところの東に一段高いところがある。そこがこのとき天守閣があった場所だ。
 伊賀者が家康についてしまったことで、秀吉は山一つ越えた甲賀の忍者を配下につけることにした。のちに甲賀忍者と伊賀忍者は常に争っていたというような話になるのだけど、それはこのとき、秀吉と家康それぞれについたことがきっかけとなっている。秀吉は甲賀忍者に家康の動向を見張らせていたといわれる。本来敵対していたわけではなく、実際に戦闘をするようなことはそうはなかっただろう。
 関ヶ原の戦いのあと、家康は豊臣方の筒井定次から領地を没収して、家臣の藤堂高虎を伊賀国へ送り込んだ。本拠地を伊勢の津に置いた高虎は、上野城を豊臣方の備えのために大改築をする。秀吉はすでに死んでいたとはいえ、秀頼の大阪城はまだまだ健在であり、驚異だった。
 高石垣を築いたのもこのときで、天守は五層の大変立派なものだったといわれている。ただ、完成直前に暴風雨によって吹き飛んでしまい、ついに未完に終わってしまった。五層天守の記録も残されていない。
 それからほどなくして大坂の陣によって豊臣方への備えは必要なくなり、江戸時代を通じて天守が築かれることはなかった。
 本来は大和側だった伊賀国が三重県になっているのは、津を本拠にした藤堂氏の勢力圏だったという歴史があったためだ。

上野城-5

 ここにも青忍者と、赤いくのいちがいた。
 私も仮面の忍者赤影の扮装をして登場するべきだったか。あるいは白影となって、大凧で天守の上空から登場した方がドラマチックか。

上野城-6

 明治以降、城跡は捨て置かれ、草ボウボウの荒れ放題になっていたという。それを憂えた伊賀出身の実業家・田中善助が公園として整備したのが明治29年。
 昭和10年には、衆議院議員だった川崎克が私財を投げ打って3年がかりで天守を築いた。
 資料が残っていないため模擬天守であるものの、木造にこだわった心意気は立派だ。五層の天守台にちょこんと乗っているような恰好で、高さ23メートルの大天守と二層の小天守が建っている。復元天守ではないため、正式には伊賀文化産業城という名前がつけられている。

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 急な階段なども本格派だ。建てられてから70年以上も経っているから、かなり風合いが出ていい感じになっている。
 映画『影武者』の撮影にも使われた。

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 高台の上の高い石垣の上に建つ天守からだから、見晴らしはとてもいい。ただ、見るべきものがない。

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 天井にはいろいろな人の書や絵の色紙が飾られている。
 横山大観の月の絵もあった。

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 天守の前に川端康成の石碑が建っている。若き横光利一君 ここに想ひ ここに歌ひき。
 城下にある上野高校(当時は県第三中学校)に、横光利一は明治44年に入学して、5年間をこの地で過ごしている。おそらく何度となく高石垣の上に登って町を見下ろしたことだろう。
 今はもう、横光利一を読む人も少なくなった。

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 上野公園内には、俳聖伝や伊賀流忍者博物館、忍者伝承館、歴史民俗資料館などがある。写真に写っている屋根は俳聖伝のものだと思う。時間がなくてあちらまで回れなかった。

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 帰りは電車に乗るために南の入口へ向かった。
 高いところにあるから、石段を登るのはちょっと大変だ。

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 入口近くまで行って、なるほどと思う。ちびっこ忍者たちの謎が解けた。この店で衣装を貸し出していたのだ。街中で忍者の恰好をしてたらかなり変だけど、上野城内なら違和感はない。忍者の衣装を着る機会なんてのは、めったにない。
 記念撮影用の顔出しパネルも用意されている。忍者とくのいちと松尾芭蕉がセットになっている。奥の細道は忍者芭蕉くんが書いたと主張したいのかもしれない。

上野城-14

 伊賀上野番外編として、もう一回続きがある。

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