焼津45分滞在記 - 現身日和 【うつせみびより】

焼津45分滞在記

焼津-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 ここのところご近所散歩写真が続いたから、そろそろ静岡シリーズに戻りたい。
 中田島砂丘へ行くと決まったとき、一ヶ所では面白くないということで、あわせて行ける場所を探した。すぐに大井川鐵道のSLを撮りたいというのは決まったものの、ダイヤの関係でどうにもスケジュールが組みづらい。砂丘とSLの二本立てという構想は崩れ、大井川鐵道の割合を減らしてもう一ヶ所組み込むことにした。それが焼津(やいづ)だった。
 この計画もかなり無理があって、焼津での滞在時間は45分しか確保できなかったのだけど、地図を見ると港までは1キロ弱だし、港で富士山を撮って、急いで戻れば間に合うだろうという考えで行くことを決めた。
 しかし、初めての場所で計算通りにいかないのはありがちなことで、45分といっても電車を降りて駅を出て、また戻ってきて改札を通ってホームまで行くことを考えると実質的には30分そこそこしかなかった。それでも確かに行ったことは行った。私は焼津に行ったことがあると言うことができる。行けば帰ってきてから勉強もするし、そこで知ることもたくさんあって、行くだけで終わったとしても決して無駄には終わらない。
 それにしても、道を間違えたのは致命的だった。

 駅を出てすぐのところに足湯があって、何人か足を入れてなごんでいる。その光景にややのけぞりつつ、次に見つけたのが小泉八雲の記念碑だった。説明文を読んでいる時間はないので、写真だけ撮って港へ向かった。焼津と小泉八雲がどう関係しているのか、このときはまだ知らない。
 足湯は、焼津黒潮温泉という名前までついた本格的なもので、地下1,500メートルからわき出す海水成分が入った50度の源泉だそうだ。
 小泉八雲と焼津の関わりについては、帰ってきてから調べて初めて知った。
 ギリシャ生まれでアイルランド育ちのラフカディオ・ハーンは、アメリカに渡って新聞記者になり、明治23年、40歳のときに来日した。
 最初、松江中学で英語教師になり、翌年、松江に住む小泉節子(松江の士族小泉湊の娘)と結婚。
 熊本での教師生活を経て、神戸でジャパンクロニクル社に入り、明治29年に東京帝国大学の英文学講師に招かれ、日本に帰化して小泉八雲と名乗った。
 雑司ヶ谷の鬼子母神が大好きだった八雲は、境内の駄菓子屋で子供たちのためにいつもお菓子をおみやげに買っていったという。
 明治36年、53歳のときに東京帝大を退職。その後釜が夏目漱石で、そのときの生徒に藤村操がいる。「巌頭之感」と題した遺言を木に刻んで華厳の滝から飛び降りたあの人物だ。このあたりのことは以前に書いたことがある。
 八雲が焼津を訪れたのは、東京へ移った翌年、明治30年のことだった。
 夏の避暑地を探していて、たまたまこの地を訪れた八雲はここの海が気に入り、滞在先の宿を探していたところ、魚屋の山口乙吉が泊めてくれることになった。それからは毎年のように家族とともに夏の焼津を訪れるのが慣わしとなった。
 そのときの家が明治村に移築されている。駄菓子屋になっているあの小さな二階建ての日本家屋といえば、明治村を訪れたことがある人なら分かるだろう。
 熱海ではほぼ一夏を過ごしていたから、駅前や熱海の街を歩いている姿がよく目撃されている。海で泳いだり、神社やお寺などを訪ねたりしていたそうだ。新川橋から南へ延びる道は、八雲通りと名づけられている。
 そのあたりのことを、「焼津にて」、「漂流」、「乙吉の達磨」、「海辺」などの作品で描いている。

焼津-2

 駅を出て、目の前に道が2本、左右斜め前に伸びている。さて、どっちへ行ったものか。駅舎は南東を向いていて、感覚的に右が正解に思えた。だからそちらに進んだのだけど、結果的にこれは間違いだった。左に行くのが正解で、45分しかないのにこの間違いは致命的だった。
 のんきに古びたレコード店など撮って喜んでる場合ではなかった。

焼津-3

 自転車を売ってるのかと思ったら、自転車を預かっているところのようだ。
 何故か、後ろの荷台に大根が無造作に置かれている。なんだか笑えた。

焼津-4

 焼津といえばマグロが有名だ。マンホールもカラフルなマグロの絵が描かれている。
 うちのアイも「焼津のまぐろ」というカリカリが好きで、よく食べている。時間があればアイのお土産でも買うところだけど、そんな余裕はない。
 
焼津-5

 しびれる居酒屋。二匹の海月。
 なんか、しびれる飲み物とか出てきそうだ。

焼津-6

 道を完全に間違えていると気づいたのは、焼津1の交差点に出たときだ。あ、違う、とはっきり分かって、めまいがしそうになった。
 慌てて左に折れて、本町2の交差点まで来た。ここは駅と港とのほぼ中間地点。残り時間は20分を切っていた。
 富士山どころか、焼津でほとんど何も見ていないから、このままでは帰れない。けど、もし電車に乗り遅れたら、その後の予定が総崩れになる。この日もかっちり組み上げたスケジュールで、すべての電車を1本たりとも逃すわけにはいかなかった。
 迷いはしたけど、迷っている時間もない。とりあえず残り10分を切るところまで行ってみて、そこから引き返すことにした。

焼津-7

 道沿いにある青木神社のことは分かっていたから、帰りに寄るつもりだった。けど、表から写真を撮ることしかできなかった。
 村社とあるから、このあたりの中心の神社のはずだ。
 駅から南西1キロくらいのところに、焼津神社がある。創建は409年と伝えられている歴史のある神社だ。
 焼津の地名は、ヤマトタケルと関係がある。ヤマトタケルが東征したとき、このあたりの豪族に追い詰められた。野原にいたヤマトタケルは放たれた火に囲まれ絶体絶命のピンチ。そのとき身を救ったのが、伊勢のヤマトヒメから預かった天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で、この剣で草をなぎ払って難を逃れたのだった。
 以来、その剣を草薙の剣と呼ぶようになり、のちに三種の神器の一つとなって、熱田神宮で祀られるようになる。そのあたりの話も前に何度か書いた。
 焼津というのはこのときのエピソードが地名として残ったとされる。ヤマトタケル絡みの地名はけっこうあって、醒ヶ井や三重などもそうだ。
 焼津神社もヤマトタケルが祭神として祀られている。

焼津-8

 なんとかぎりぎり港の入口まで到着した。
 さあ、富士山を撮って帰るぞ、って、あれ? 富士山はどこ? まったくどこにも見あたらないんだけど。唖然呆然とする私。
 方角的には、焼津からみて北東のはずだ。こちら方向ではないのか。
 どうやらもっと左手だったようなのだけど、そちらは建物があって視界がふさがれていた。どれくらいの大きさで見えるのかも、感覚的によく分からない。
 もっと港の奥まで行けば見えたのかもしれなかったけど、もう時間切れだ。電車の時間まで10分を切っている。あきらめて戻ることにした。

焼津-9

 この方角でもないのか。薄い雲がかかっていたから、それで姿が隠れていたという可能性もあるのかどうか。
 日本平では見事な富士山を見ることができて感動したのに、焼津での富士山運はなかった。焼津まで行って富士山を見られずに帰るなんて、なんとも残念というか間抜けな話だ。

焼津-10

 魚の街らしい光景。日本料亭か寿司屋あたりの裏方。

焼津-11

 駅前の商店街はシャッターを下ろしたところが多くて、ちょっと寂しい感じだった。
 これといった観光資源はないとはいえ、美味しい魚が食べられるところだから、昭和の時代にはここらも活気があったに違いない。
 港で働く人たちも多いはずなのに、こんなに寂れてしまうものだろうか。

焼津-14

 開いている店はレトロ感満載だ。道は化粧直しですごくきれいになっているのだけど、店は昔のままでギャップがある。はきもの店など、今どきなかなかない。
 もっと歩いていたら、昭和の面影をあちこちで見かけることになっただろう。

焼津-12

 運河沿いのような雰囲気のある風景。流れているのは、小石川という川だ。

焼津-13

 ホタテに腰掛けた人魚をはじめ、カメ、エビ、タツノオトシゴなど、いろんなオブジェがごた混ぜに張り付けられている。焼津の海の豊かさを表現したかったのだろうか。

焼津-15

 急ぎ足で歩いたから、3分前に駅に戻ることができた。道を間違えずに真っ直ぐ歩いていたら、港でけっこう余裕があったではないか。富士山の写真も撮れたかもしれない。
 もう一度焼津に行くことがあるかどうか、微妙なところだ。これっきりになる可能性は高い。たった45分の滞在で焼津の何が分かったというわけではない。けど、一度も行ったことがないのと一度でも行ったことがあるのとでは大違いで、やっぱり行っておいてよかったと今では思っている。小泉八雲のことも、少し知ることができた。明治村がここにつながるとも思わなかった。
 焼津から引き返す恰好で、大井川鐵道の始発である金谷へ向かった。その話はまた次回ということにしたい。

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