桑名寺特集その1 ~蛤や薩摩義士や別院 <桑名13回> - 現身日和 【うつせみびより】

桑名寺特集その1 ~蛤や薩摩義士や別院 <桑名13回>

桑名寺特集1-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 桑名行きもだいぶ遠い日の出来事となって、そろそろ終わらせたい気持ちになっているところではあるけど、まだ写真が残っているから、出し切らないことには終われない。
 神社特集の次はお寺特集だ。また渋いネタが戻ってきた。写真も神社以上にモノトーン調になる。
 ただ、寺についてはあまり書くことがない。表から写真を撮っただけで通りすぎたところもいくつかある。せっかく撮ったから写真だけは載せるにしても、紹介は少々駆け足となる。基本的には回った順番になりそうだ。

 まずは専正寺(せんしょうじ)というお寺さんから。
 ここは蛤(ハマグリ)の寺として知られている。
 江戸時代のこのあたりは浜辺の漁村で、辺り一面はハマグリの貝殻で覆われているほどだったという。それくらい無尽蔵にハマグリが獲れていたということだ。
 近年の埋め立てに次ぐ埋めたてで、今は漁村といった面影はまったく残っていない。ハマグリもどれくらい獲れているんだろうか。
 獲るだけ獲って貝殻を捨てっぱなしではよくないと思った谷という人が、供養のための蛤墳(コウフン)を建てようと思いついた(1823年)。今でもそれは境内に残っている。

桑名寺特集1-2

 山号を三龍山といい、浄土真宗本願寺派に属している。
 江戸時代は称念寺と称していたそうだ。のちに正念寺と改称している。
 戦争で伽藍を消失し、戦後の昭和22年に萱町の専久寺と合併して専正寺となった。
 写真の本堂は鈴鹿市柳の寺から移築したものらしい。

桑名寺特集1-3

 蛤墳の説明板がある。石碑もあったはずだけど、後ろのらせん階段に気を取られて見逃した。
 もともとは1メートルくらいのささやかなものだったのを、大正12年に改築したそうだ。
 墓地には鳥居強右衛門(とりいすねえもん)一族の墓が7基ある。
 すねえもんといえば、長篠の戦いに詳しい人なら知っているんじゃないだろうか。長篠古戦場跡の案内看板ではりつけになっている人の絵があるけど、あれがすねえもんだ。
 長篠城が武田勝頼の大軍に取り囲まれて落城寸前になったとき、岡崎の家康に援軍を頼むため、すねえもんは単独で城を脱出することに成功する。
 援軍の約束を取り付け、その結果を知らせるべく長篠城にこっそり戻ろうとしたところで捕まってしまった、すねえもん。武田軍に、援軍は来ないとと大きな声で知らせろと命じられ、すねえもんは、すぐに味方が駆けつけるぞと大声でわめき、その場で殺されてしまった。
 この後、家康と信長の連合軍が到着し、設楽原の戦いへとなだれ込んでいくことになる。
 強右衛門という名は代々受け継がれ、新屋敷の桃林寺に葬られていたのを、のちに専正寺に移し、今に至っている。

桑名寺特集1-4

 薩摩義士の墓があることで知られる曹洞宗法性山海蔵寺へとやってきた。ここも桑名の寺社巡りでは必ずといっていいほど紹介されるところだ。
 宝暦の治水で命を落とした薩摩義士たちの墓がある。
 1753年、九代将軍家重のとき、幕府は薩摩の力を恐れ、突然、桑名の木曽三川工事を命じる。
 青天の霹靂とはこのことで、薩摩の人たちは驚き慌てた。どうして自分たちが縁もゆかりもない遠く桑名の川の工事をしなければいけないのか。しかも、この頃の木曽三川は大変な暴れ川で、命がけの工事だった。
 それでも幕府に逆らえばただでは済まないということで、薩摩の地から平田靭負(ひらたゆきえ)を奉行とする総勢900人以上が工事のために桑名まで出向くこととなった。もちろん、費用は全額薩摩藩持ちだ。
 工事は難航を極め、多数の病死者や自殺者を出し、費用は予想を超える莫大なものとなった。
 どうにか工事を完成されたとき、責任を取って平田靭負は自ら腹を切った。
 その死者を葬るのを、幕府の目を恐れて多くの寺が断ったという。その中で海蔵寺が受け入れて、ここに葬られることとなった。この地で果てた薩摩隼人は、故郷に帰ることも叶わなかった。

桑名寺特集1-5

 丸に十の字の紋は薩摩島津家のものだろう。左は知らない。
 元の寺は、西方村にあった東明山海善寺だったとも言われているのだけど、はっきりしたことは分かっていない。
 ここも空襲でやられて、本堂は戦後の昭和31年に再建されたものだ。

桑名寺特集1-6

 ここは大きなお寺だった。桑名別院・本統寺(ほんとうじ)。
 徳川家茂や明治天皇も宿泊した寺で、桑名御坊、あるいはご坊さんと呼ばれている。

桑名寺特集1-7

 どこから入るのがいいのか、あちこち入口を探して回る。
 この門自体はけっこう古そうだったけど、正門という感じではない。

桑名寺特集1-8

 更に回り込んでみる。生い茂った木がいい感じ。

桑名寺特集1-9

 結局、最初の門から入り直すことになった。なかなか立派な本堂だ。
 歴史を読んだのだけど、いろいろややこしくて書くのも面倒になったので要点だけ書くと、戦国時代の信長と石山本願寺が争っていたとき、本願寺の宗徒が本山との連絡用に水陸交通の要所だった桑名に今寺という集会所を作ったのが始まりだった。
 桑名は浄土真宗の宗徒が多いところでもあり、戦略上重要な拠点でもあったため、信長によって散々攻め立てられた。
 石山本願寺と信長の争いは11年も続き、結局決着がつかず、最後は本願寺側が石山を出るということで話し合いがついた。
 その後、本願寺第12代教如は京都の石山本願寺の住職となり、桑名には教如の娘の長姫(おさひめ)を派遣して、桑名別院を開基することになる。長姫はこのときまだ9歳だった。
 秀吉、家康の時代に、本願寺は東と西に分かれたというのは、名古屋の東別院のときに書いた。桑名別院もそのときどっちにつくかという話し合いになって、結局東につくことになった。
 というわけで、桑名別院の正式名は、真宗大谷派桑名別院本統寺ということになる。
 途中の紆余曲折をすっ飛ばした説明は以上。

桑名寺特集1-10

 境内の中には何かの会館があって、車もたくさんとまっているから、ちょっと散漫な空気感になっている。
 左手に見えているのは親鸞像だと思う。右手には鐘楼が写っている。
 ここの建物も全部新しいもののようだ。

桑名寺特集1-11

 松尾芭蕉の「野ざらし紀行」の句碑が建っている。昭和12年に建てられたものだ。
 芭蕉もこの寺を訪れて泊まっている。
「冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす」
 本来、夏に咲く花の牡丹が冬に咲いているのを見て、遠くに聞こえる千鳥の声を夏のホトトギスになぞらえたといった意味らしいけど、桑名には関係がない。
 桑名にちなんだ芭蕉の句としては、「奥の細道」の最後、大垣で詠んだ「蛤の ふたみへ別れ 行く秋ぞ」がある。

桑名寺特集1-12

 桑名別院のすぐ横は、寺町通商店街というアーケードになっている。
 ご覧の通りの閑散とした様子だけど、三八市のときは打って変わって大賑わいとなる。
 3と8のつく日は、80以上の露店が並び、大勢の買い物客が訪れる。テレビでその様子を見ていたので、それ以外の日がここまで静まりかえっているとは思わなかった。
 もともとは、桑名別院などの門前町として発展した歴史がある。

 桑名寺特集の1回目はここまでとしたい。
 つづく。

スポンサーリンク

関連記事ページ
コメント
非公開コメント

実はお寺シリーズのうち二ヵ寺が、私の同級生宅です!

まだまだ住職に就く歳ではありませんが、もしお詳しい事をお望みならば、伺っておきますよ!

本統寺の親鸞聖人御像ですが、笠に穴が空いています。
戦争で被災したと昔聞きましたが…違ってたらすみません。

2014-04-08 01:36 | from 風神雷神 | Edit

けっこうお寺も

>風神雷神さん

 お寺も意外と回ってますね。
 なんだか神社の方が印象に残っているので、神社ばかり巡っていた気になってました。
 同級生にお寺さんが二軒もあるとは(笑)。
 このあたりは本当に寺社町なんですね。

2014-04-08 22:03 | from オオタ | Edit

寺町

寺町通り商店街のある界隈は地名通り、桑名別院を中心とした寺の町です。
多くは真宗大谷派の寺院ですが、高田派もありますよ。

私が通ってた保育園を経営する長寿院も、海蔵寺のはす向かいにあります(臨済宗?)

そして、萱町・新町・伝馬町辺りは法盛寺を中心とした南の寺町って感じですね!

2014-04-16 01:14 | from 風神雷神 | Edit

宗派も

>風神雷神さん

 こんにちは。
 お寺の宗派はほとんど気にせず巡っているのですが、そのへんの違いを意識するとまた別のものが見えてきたり、それに見合った写真が撮れたりするんでしょうね。
 禅宗のお寺はけっこう雰囲気も伽藍も違うので、少し意識するのですが。

2014-04-16 23:14 | from オオタ | Edit

トラックバック

http://utusemibiyori.com/tb.php/1467-e415a87b