七里の渡し跡から旧東海道にかけて残るぼんやりとした面影<桑名6回> - 現身日和 【うつせみびより】

七里の渡し跡から旧東海道にかけて残るぼんやりとした面影<桑名6回>

七里の渡し-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 桑名名物といえば、蛤(はまぐり)と七里の渡しと、昔から相場が決まっている。その手は桑名の焼き蛤と言う人がいなくなっても、桑名と聞いて蛤を連想する人は多いはずだ。逆に言えば、それくらいしか桑名名物は知られていないということもでもある。
 蛤は結局食べなかったので、今日は七里の渡しについて書きたいと思う。
 七里の渡しといえば、熱田の宮の渡しを思い浮かべる人の方が多いかもしれない。江戸から京都に向かう東海道で唯一の水路が、熱田の宮と桑名をむすぶ七里の行程だった。一里は約4キロ弱だから、28キロ弱の距離ということになる。
 ちなみに、江戸から京都までは約500キロで、江戸時代の旅人は10日から15日で歩いたそうだ。一日30キロ以上というから恐ろしく丈夫な人たちだ。私の10時間歩きくらいは子供同然と言える。
 今の時代、熱田から桑名まで船で行こうと思うと、ものすごく遠い。堀川を下って名古屋港に出て、ずずずっと南下して金城ふ頭の南を通り、大回りしてナガシマスパーランドまで行き、そこから揖斐川をのぼってようやく辿り着く。こんな海路を手こぎの帆船で行けと言われても絶対断る。
 けど、昔の人はすごかったなと感心するのは早い。当時の海岸線は今よりもずっと北にあって、熱田から左斜め下にほぼ直線上に進むのが七里の渡しの航路だった。つまりは、海岸線をものすごく埋め立てしたということだ。
 現在の地図でいうと、白鳥公園あたりを出発して名古屋競馬場、荒子川公園を通り、日光側公園から飛島村、弥富市、木曽三崎町を横断して、長島スポーツランドの北あたりに出るといった感じだ。江戸時代から400年の間にこんなにも広い範囲を埋め立てたのかとあらためて驚かされる。
 干潮満潮や潮の流れ、風などでコースは微妙に変わったそうだけど、だいたい3時間から4時間の船旅だったらしい。思ったよりも早い。
 船が苦手な人のために、佐屋宿まで川路3里を行って、そこから佐屋街道を歩くというコースも用意されていた。
 当時の五街道というのは単に幕府が道を整備してどうぞみなさん歩いてくださいといったようなものではなくて、人の行き来を厳しく管理するためのものだから、幕府が東海道の宮から桑名までは海路と定めたならそこを通らなくてはいけない。勝手に好き勝手な道を歩いていけばいいというものではない。
 当然のことながら東海道の難所の一つとして、しばしば海難事故も起こったようだ。
 上の写真の鳥居は、伊勢神宮の一の鳥居として、1780年ごろに建てられた。伊勢神宮の遷宮ごとにこの鳥居も建て替えられる。
 江戸時代、庶民のお伊勢参りが流行すると、桑名にも大勢の人たちがやってきた。
 それ以前の桑名は、桑名城の城下町としてそれなりの発展を見せており、江戸時代に桑名宿ができると、ますます賑わうようになる。
 東海道五十三次42番目の宿場として、宮宿(熱田)に次いで旅籠数が多かったという。
 熱田がダントツの248軒で、桑名は120軒あったというから、相当な人出だったのだろう。
 1800年代には桑名宿の人口は8,000人を超え、本陣が2軒、脇本陣が4軒もあったというから、大規模な宿場町だったことが分かる。今はその面影はない。
 桑名の街は空襲でほぼ全滅に近いくらいの被害を受けているから、本当に古い建物はごくわずかしか残っていない。空襲でやられていなければ、馬篭や妻篭宿のような観光地になっていただろうか。
 写真右手に櫓(やぐら)の恰好をした建物が写っている。
 実際は水門統合管理所という川を管理する事務所なのだけど、桑名城の蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)を模して建てられている。
 桑名城はよく知られた海城で、七里の渡しの船着き場近くに建っていたこの蟠龍櫓は、よく目立つ目印だったようで、歌川広重も東海道五十三次の中で描いている。
 空襲だけでなく、伊勢湾台風(昭和34年)で壊滅的な被害を被っている。現在の蟠龍櫓は、そのあとに建てられたものだ。
 鳥居の脇に立っている常夜燈は江戸時代の古いもので、伊勢湾台風で倒れて上の部分が壊れてしまったので、多度大社から上だけもらってきて乗せている。
 伊勢湾台風というのは本当に強烈なやつで、あれ以前とあれ以降では水辺の景色が一変してしまった。大がかりな防波堤が築かれ、残されていた昔の面影も失われてしまった。

七里の渡し-3

 川沿いに出て、揖斐川から遠く熱田方面を見やる。
 右に見えている丸い頭の並びは、例の長良川河口堰(ながらがわかこうぜき)というやつだ。
 長良川の治水と利水を目的に作られた堰で、地元の反対を押し切って強引に作られた。案の定、生態系は破壊され、それ見たことかとなったけど、あとの祭りだった。
 いくら魚道を作ったところで、あんな堰を作って流れを食い止めてしまったら漁業にも深刻な影響が出るに決まっている。
 正面に見えている長い橋は、現在の東海道、国道一号線でもある伊勢大橋だ。
 七里の渡し跡は、文字通り跡地があるだけで、他にはこれといった見所もない。蛤を売ってるみやげ物屋の一つでもあればよさそうなのに、そういう観光地めいた雰囲気は一切ない。こんなところで店を出しても儲かるとは思えないけど、それにしても愛想がない。
 一般的に三重県は、伊勢、志摩、鳥羽に代表される観光地としてのイメージがあると思う。しかし、桑名にはそれがない。もう少し頑張れるような気もするのだけど。

七里の渡し-4

 蟠龍櫓は二階建てになっていて、二階に登ることができるようになっている。せっかくなので入ってみることにした。
 が、特に何もない。パネルが少し架かっているくらいで、興味を惹くようなものはなかった。
 展望といっても窓は小さいし、所詮二階なので、何が見えるというわけでもない。
 蟠龍というのは、龍が天に昇る前のうずくまった姿なんだそうだ。櫓は完全な再現というわけではなく、描かれた絵などから想像して復元されたものだそうだ。
 桑名城は1701年に天主が焼け落ちてから再建されることはなかった。

七里の渡し-2

 七里の渡しは、桑名城のすぐ外にあって、かつての外堀は現在船着き場(船溜まり)として利用されている。
 このあたりの石垣は、桑名城があった頃のもので、昔を偲ぶことができる数少ない遺構の一つだ。
 ずらりと船がつながれ、石垣の上に民家が並んでいる様子は、なかなか趣がある。

七里の渡し-5

 明治42年、小説家の泉鏡花は伊勢神宮へ参拝に向かう途中、桑名に立ち寄り、船津屋に一泊した。
 このときに想を得て、のちに「歌行燈(うたあんどん)」を書いた。いまどき泉鏡花を読む人は少ないと思うけど、代表作の一つだから読んだという人もいるかもしれない。もしくは、市川雷蔵主演の映画を観た人もいるだろうか。
 作中では湊屋として登場している。もともとは桑名宿の大塚本陣があったところだ。今でも船津屋は続いていて、懐石料理屋になっている。
 フラッと一人で入っていけるような感じではなかった。

七里の渡し-6

 のちに久保田万太郎が昭和の初めにここを訪れ、宿に泊まって「歌行燈」の戯曲を書いた。
 入口横には、久保田万太郎の句碑が建っている。
「かわをそに 火をぬすまれて あけやすき」
 作品の中に、湊屋の裏の石垣を登ってカワウソが入り込んで悪さをするという話が出てくる。そのカワウソが廊下や便所の灯りを消して回るイタズラをするといったような句だ。

七里の渡し-7

 船津屋の並びにある料理旅館「山月」。
 4軒あった脇本陣の中で最も格式が高かった駿河屋がこの場所にあったらしい。残りの3軒はどこにあったのか分からなくなっている。
 少し南に行ったところに、問屋場跡と丹羽本陣跡の碑が建っている。建物そのものは何も残っていない。

七里の渡し-8

 このあと私は北上して六華苑へ行ったのだけど、そのときのことはもう書いた。船津屋から南へ行ったあたりを紹介することにする。

七里の渡し-9

「歌行燈」といううどん屋がある。泉鏡花の「歌行燈」の中で出てくる「饂飩屋」は、ここがモデルとなっていると言われている。
 当時はまだ「志満や」という店名のうどん屋だった。
 創業は明治10年(1877年)と、かなり古い。
 志満やが歌行燈に店名を変えたのはずっとあとのことで、昭和55年になってからだった。モデルになった店ということは知られていただろうから、もっと早くにあやかって改名していてもよさそうなのに。
 歌行燈はその後チェーン店になっているから、うどん屋としてはけっこう知られているのかもしれない。その本店が桑名のここということはどれくらい知られているんだろう。
 釜揚げうどんがなかなか美味しいと評判なので、桑名に行くことがあればここはよさそうだ。蛤料理もある。

七里の渡し-10

 旧東海道沿いにあるビジネス旅館初音。ビジネス旅館という響きが古いんだか新しいんだかよく分からない。
 表からは8室もあるようには見えないのだけど、意外と奥が深いのか。それとも、一部屋が思った以上に狭いのか。
 2食付きで一泊6,000円~というのも、なかなかに興味深い。

七里の渡し-11

 東海道沿いからは外れていたかもしれないけど、中日新聞の販売所もこの通り。
 外観はごく最近のものながら、この気遣いと同調性は好感が持てる。特に景観保存地区ではないものの、こうやって住民がみんな協力していくと、桑名ももっといい街になるんじゃないだろうか。

七里の渡し-12

 桑名名物とらや饅頭の店、「とらや老舗」。
 創業は赤福よりも4年早い1704年。
 建物は空襲で焼けてしまったものの、木彫りの虎看板は残った。
 桑名名物らしいけど、私はとらや饅頭を食べたことがない。酒素饅頭だそうだから、食べてみれば、なるほどこれねと思いそうだ。

七里の渡し-13

 はきものの店。かなり古そうだけど、相当立派な建物だ。はきもの屋というのが商売として成り立つ時代は終わったかもしれない。今はもう、街の靴屋さんというのが本当に少なくなった。

 旧東海道は、この先も南の方に続いている。ただ、桑名城跡を離れると、どんどん面影もなくなっていって、撮りどころも少なくなる。
 そのあたりの写真は番外編で載せるとして、七里の渡し編はこのあたりで終わりとする。
 伊勢神宮の一の鳥居から船溜まり、船津屋、歌行燈あたりは見ておいて損はない。それに加えて、北の六華苑、南の桑名城までが桑名観光のメインどころとなるだろう。
 次回は桑名城跡を紹介する予定です。

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