新羅善神堂をきっかけにまた壬申の乱が蘇る <大津巡り12回> - 現身日和 【うつせみびより】

新羅善神堂をきっかけにまた壬申の乱が蘇る <大津巡り12回>

新羅善神堂-1




 大化の改新から壬申の乱前後については、自分の中で一応の決着がついたつもりでいた。けど、あれからもう少しいろいろ読んで、また頭の中でいくつものハテナ? が浮かび上がってきてしまった。まだおまえは全体像が全然見えていないぞと大友皇子がご立腹なのかもしれない。
 弘文天皇陵の近く、三井寺の飛び地に新羅善神堂(しんらぜんしんどう)という堂が建っている。
 三井寺は、壬申の乱で命を落とした大友皇子の菩提を弔うために、その息子である大友与多王が建てた寺だ。なのにどうして朝鮮の神である新羅明神を祀る神がいるのか。大友の父である天智天皇は、百済の側の人間で、唐と結んで百済を滅ぼしたのが新羅だったわけで、いわば仇の国の神を父親の菩提寺で守り神にするということは普通では考えられない。このあたりから、見えていたつもりだった全体像がぼやけ始めた。
 そんなわけで今回は、新羅善神堂を紹介しつつ、壬申の乱前後の流れについて、もう少しだけ補足的に考えてみたいと思う。



新羅善神堂-2

 場所は、弘文天皇陵のすぐ近くで、どちらかを見つけることができれば両方行けるし、どちらかを見つけないと両方見つからない可能性がある。三井寺から行こうとすると、けっこう離れていて分かりづらい。仁王門を右に出て、大津商業高校の裏手から入っていけるのかどうか。三井寺で訊ねても分からないと言われたという話もある。
 弘文天皇陵を発見できれば、すぐそばに鳥居が建っている。案内は出ていなかったような気がするけど、ここをくぐっていった先がそうだ。



新羅善神堂-3

 いきなりうっそうとした森が現れる。これがなんとなく不思議な感じがする空間となっている。普通の森ではなく、神社や寺の参道とも少し違う。神聖な感じではなく、なんとなく捨て置かれて荒れている印象を受けた。
 道もかなりデコボコで、苔むしてもいて、訪れる人の少なさを思わせた。三井寺の賑わいとはかけ離れている。



新羅善神堂-4

 2、3分も歩くと、石垣があって、境内へ出る。このあたりは戦国時代の山城跡のような雰囲気だ。
 そもそも、神社なのか、お寺なのかも、判然としない。神様を祀っているし、鳥居もあるのだから一応神社ということになるのだろうけど、所属は三井寺であり、堂という名がついているからお寺のようにも思える。



新羅善神堂-5

 中央にぽっかりと空間があって、その向こうに堂が見えた。どうやらあれらしい。お寺っぽくもあり、神社といわれれば神社にも見える。
 昭和の初め頃までは、広場のところに拝殿が建っていたそうで、台風で崩れたあとは再建されないまま今に至っているという。
 ここまで来ても、なんとなく荒れているという印象は続く。空き家になってしばらく経ったときのあの感じに近い。



新羅善神堂-6

 善神堂というからには本殿ではなく本堂というべきなのだろう。
 1350年頃に、足利尊氏が寄進したとされる堂で、国宝に指定されている。造りは素晴らしい。姿の美しさや存在感は文句なしで、国宝にふさわしいオーラを放っている。
 檜皮葺の三間流造で、室町初期らしい建物だ。
 三井寺は秀吉の廃寺命令で、古い建物が残ってないから、三井寺としては貴重な存在となっているはずなのに、あまり行き届いていないように感じるのはどうしてだろう。新羅の神様ということが関係あるのだろうか。
 中に安置されている祭神の新羅明神坐像は秘仏で、それも国宝指定となっている。

 ここに新羅明神を祀ったのは、三井寺を再興させた智証大師円珍とされている。
 円珍が唐へ留学した帰りの船で嵐に遭い、そこへ新羅の神である新羅明神が現れて救われたことから、三井寺の守り神として祀ったのが始まりなのだとか。
 それが859年以降ということで、三井寺の創建が実際に686年だとすると、200年近い歳月が流れているということになり、今更百済も新羅もなく、大友氏の菩提寺という名目も薄れていたと考えるべきだろうか。
 それにしても、壬申の乱が百済側の天智天皇・大友皇子と新羅側の大海皇子との争いだったとするならば、いくら200年近く経っているとはいえ、大友氏の神経を逆なでするような神をこの場所に祀るだろうかという疑問は残る。
 更に遡って考えるなら、壬申の乱というも、どうにもよく分からない。
 井沢元彦は、唐と結ぼうとしていた天智天皇を、新羅側だった大海人皇子が暗殺して、その息子・大友皇子も壬申の乱でやっつけたという推理をしている。井沢元彦という人は、出身が推理小説家ということで、自分の推理と証拠を強引に結びつけるちょっと悪いクセがあるのだけど、歴史家ではない自由な発想であらたな可能性を提出してくれる面白い存在には違いない。正解かもと思わせることもけっこうある。
 井沢説でいくと、三井寺(本来は園城寺というべきなのだけど三井寺の方が名が通っているので統一する)を与多王に建てさせたのは天武天皇(大海人皇子)で、天智天皇の怨霊を抑えるためだったとしている。新羅の神を祀ったのも、あえて敵対する神でにらみを効かせるためだったのだという。円珍の話は後付けの作り話だというのだ。
 その前後に関する説についても、納得できる部分もあり、できない部分もあって、完全には信用できないものの、あり得る話ではあると思った。
 天智天皇暗殺の実行犯が天武天皇ということになると、壬申の乱についてはもう一度一から考え直さないといけないことになる。その場合、九州に倭王朝があったのかなかったのか、なかったとしても九州勢力と大和との関係はどうだったのかなど、井沢説では触れられていない(のちに別の場所で言及しているのかもしれないけど)。朝鮮との戦いで九州の勢力を抜きには語れないわけで、大和王朝と朝鮮の勢力図だけで壬申の乱の全体像は見えてこない。
 壬申の乱で一番よく分からないのが、壬申の乱が収まったあとの妙な平穏さだ。天智天皇側と天武天王が絶対的に敵対していたわけではないことは、血縁関係でも明らかで、戦のあともそれはあまり変わっていない。大友の息子たちも全員無事で、天智天皇側の一族郎党が厳しい処分をされたという話もない。通常なら、天武天皇が即位したあとは天智天皇カラーを一掃するはずなのに、それが見えない。政策に関しても、天武は天智天皇の路線をそのまま踏襲して進めている。
 にもかかわらずといっていいのかどうか分からないけど、天武の跡を継いだ奥さんの持統天皇は、天武系統に天皇が流れていくのを阻止しようとして、かなり強引なやり方で、天智天皇の血を引く自分の孫を天皇に持っていっている(文武天皇)。実際、その努力があったからこそ、光仁、桓武天皇で血統が天武から天智に戻った。
 必要以上に結びつこうとしながら相容れなかった血縁関係と、敵対しているようでしていない天智と天武の関係性が、壬申の乱の理解を難しくさせている。天武天皇こと大海人皇子は何者だったのかという謎に関しても答えは出ていない。大化の改新前後の流れの中に九州倭王朝が絡んでくると話はますますややこしくなる。
 というわけで、この話はまた保留ということにせざるを得ない。いずれ、天智天皇陵へ行くこともあるだろうから、行ってきたらもう一度別の角度から考え直したいと思う。



新羅善神堂-7

 新羅善神堂はぐるりと塀で取り囲まれていて、中に入ることはできない。新羅明神坐像も、当然見ることは叶わない。
 2008年の去年、大阪市立美術館の特別展示で50年ぶりに公開されたそうだ。
 ただ、写真撮影はもちろん禁止で、ポスターなどにも写真を載せない徹底ぶりが少し引っかかる。三井寺は新羅善神堂をあまり重要視していないか、あえて触れないようにしているようなところが感じられる。朝鮮半島との関係をあまり大っぴらにしたくないとでもいうのだろうか。

 ここ新羅善神堂は、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)との関係が深いことでも知られている。
 平安時代後期の1051年、東北の奥州で争いが起こった。のちに前九年の役、後三年の役と呼ばれるようになる戦だ。
 最初は東方地方の争いだったものに、河内源氏の源頼義が参戦したことで大ごとになった。
 どういう関係があったのか、源頼義はその戦に駆けつける前、新羅善神堂で必勝祈願をしたという。一説によると、源氏は新羅からの渡来系ともいわれている。源氏が氏神とした八幡神も、秦氏との関係が深い新羅の神という話がある。
 その頼義の長男が武勇で知られた源義家で、義光は三男に当たる。
 新羅三郎というのは、新羅善神堂の前で元服をしたからというのだけど、それもまたどうしてここだったのかはよく分からない。
 義家は京都の岩清水八幡宮、次男の義綱は京都の賀茂神社でそれぞれ元服をしている。
 後三年の役のとき、東北で苦戦する兄の義家を助けるために義光は奥州へ駆けつける。
 最終的には源頼義一家が阿倍氏、清原氏を倒し、東北から関東にかけての一大勢力となっていき、これがのちの鎌倉幕府の基礎ともなる。頼朝が鎌倉で平氏打倒のために立ったのは、このとき以来の基盤が鎌倉にあったからだ。
 それと、義経が頼朝に追い詰められて最後に頼っていった奥州藤原氏も、このときの戦で勝ちの側に回った清原清衡から始まっている。
 義光は武勇での活躍はあまりなかったものの、のちに子孫が発展して、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏などへとつながっていくことになる。武田信玄もその中の一人ということになる。
 武田信玄のドラマでは必ずといっていいほど、「御旗・楯無御照覧あれ(みはたたてなしごしょうらんあれ)」というセリフが出てくる。この号令が出たときは、家臣は一切の反論は許されず、従うしかないとされた決めゼリフだ。
 御旗(みはた)というのは、新羅三郎義光の父・頼義が後冷泉天皇からもらった日の丸の御旗で、源氏の直系を表す旗だった。
 楯無(たてなし)は、義光が使っていた鎧のことで、この鎧に勝る楯はないということから名づけられたものだ。
 義光は歳を取ってから出世して、武人としては最高位の刑部少輔従五位上まで登り詰めている。最後は82歳のとき京都で死んだはずなのに、何故か新羅善神堂近くの山の中にも墓がある。この地で死んだという伝説も残っているようだ。



新羅善神堂-9

 帰り際、閉ざされた扉を見ると、牛乳受けがかかっていて、クスッと笑えた。ああ、こんなところに生活感があると思って。やはり奥に人が住んでそうだ。
 弘文天皇陵は宮内庁の管轄になっているものの、新羅善神堂とともに三井寺のはずれに並ぶようにひっそりある。どちらも訪れる人はあまり多くなさそうだ。長い歳月を経た今、新羅の神と日本の天皇は互いに行き来して、今日も人は来ませんなぁなどとのんびり語り合っているのかもしれない。

【アクセス】
 ・京阪電気鉄道石山坂本線「別所駅」下車。徒歩約8分。
 

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コメント
非公開コメント

観て来ました。写真と文その通りで感心しました。(^o^)v

2014-08-16 00:00 | from だだ

5年の歳月

>だださん

 こんにちは。
 新羅善神堂、行かれましたか。
 私が行ったのはもう5年以上前になるんですね。
 それでもあまり変わっていないようで、ちょっと安心しました。
 5年経っても、あのときの大津行きの記憶は強く残ってます。
 また行けるといいなぁ。

2014-08-16 22:43 | from オオタ(マサユキ) | Edit

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