石山寺は有名人御用達のお寺でどこか鎌倉風 <大津巡り8回> - 現身日和 【うつせみびより】

石山寺は有名人御用達のお寺でどこか鎌倉風 <大津巡り8回>

石山寺2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 石山寺後編は、本堂からとなる。
 昨日も書いたように、この本堂は撮りづらい。木々や他の堂が視界を遮るし、全体を入れて撮るために離れようにも後ろにスペースがない。回り込もうにも回り込めず、横から縣造を撮ろうと思っても、大部分は木々によって隠れてしまっている。最高のポジションで撮ったと思われるパンフレットの写真でさえ、屋根の部分しか写っていない。
 そんなわけで、私も外観は堂の入口前で撮っただけにとどまった。もしかすると、第一梅園から望遠レンズで撮るとそれなりに撮れるのかもしれない。梅の季節ではなかったから、そちらはパスしてしまった。
 平安時代建築された本堂は、滋賀県最古の木造建築で、多宝塔とともに国宝指定となっている。
 相の間(あいのま)と礼堂(らいどう)がくっついていて、礼堂(外陣)が懸造になっている。礼堂は1602年に淀君の寄進によって増築されたという。考えてみると、豊臣家が滅びる大阪の陣は、1614年と1615年だから、江戸幕府が始まってから10年以上も豊臣家は大きな力を持っていたのだ。その間、秀頼や淀君が何を考え、何をしていたのかということはあまり知らない。家康にいろいろいじめられていたのだろうことは分かるけど。
 そのうち大阪城にも行って、そのあたりのことも勉強しないといけない。

石山寺2-2

 堂内は撮影禁止と書いてあったので、堂外から堂内を撮る。
 堂内撮影禁止というのは、堂内で写真を撮るのを禁止しているのか、堂内を写すのを禁止しているのか、どちらなのだろう。両方禁止か。
 寺によって考え方はそれぞれで、禁止のところは多いけど全部がそうではない。奈良の大仏殿などは撮影を禁止していない。
 寺側の事情や都合などは理解できるし、なんでもありにすると無茶する人間がいるから禁止にしておいた方が無難というのも分かるけど、信仰の対象で畏れ多いものだから撮影不可という理屈には納得いかない。
 そもそも形のない仏を信仰しやすいようにという勝手な理屈で仏像を造るという行為はどうなのだと思う。それを写真に撮るのが冒涜だという論理は正しいというなら、仏像にすることに問題があるんじゃないのか。神社で神の像など彫らない。
 まあしかし、最近は仏像を盗んでいく人間もいるし、自由勝手にさせたら何をされるか分かったもんじゃないという寺の気持ちは理解すべきか。
 個人的には禁止といわれれば撮らないけど、最終的には自分の良心で判断することにしている。禁止じゃなくてもここは撮らない方がいいというのは感覚的に分かる。

石山寺2-3

 これも堂の外から。
 撮影禁止というのは、参拝客の邪魔になるというのも理由の一つだろうから、外から撮る分にはそんなに問題ではないんじゃないかと思う。
 本尊の如意輪観世音菩薩は秘仏だから、撮りたくても撮れない。天皇の勅命による勅封秘仏で、ご開帳は33年に一度だ。
 近年、この仏像の中から如来像など四体の胎内仏が出てきたそうで、古いのは飛鳥時代のものだとか。近いうちに国宝指定になるかもしれない。

石山寺2-4

 本堂横に紫式部源氏の間という小部屋がある。中の人形は紫式部のようだ。
 紫式部も石山寺を訪れて、そのとき『源氏物語』の着想を得たという話が伝わっている。実際のところはどうか分からないのだけど、紫式部とゆかりの深い寺だったことは間違いないようだ。そういう言い伝えがずっと昔からあって、この部屋が造られたのも江戸時代だという。
 去年2008年は源氏物語千年紀ということで、石山寺でもいろいろな催しが行われたようだ。手間に飾られているMURASAKIというのはロボットらしい。どんな動きをするのだろう。
『源氏物語』の作者は、本当は紫式部ではないというような説がいろいろあるけど、基本的な部分はやっぱり紫式部が書いたんだろうと思う。それが年月を経るにつれて他人によって書き加えられたり、変更されたりして今に伝わる形になったと考えるのが自然だ。
 作者がはっきりしないように、作品名も実は分かっていない。便宜的に源氏の物語と称していたものがいつの間にかタイトルのようになったとも言われている。そういうことも考え合わせると、早い段階において何人かが物語を持ち寄った合作のようなものという可能性もある。
 不可解なのは、当時の公式記録や日記に『源氏物語』について書いているものがないということだ。書いているのは紫式部だけで、本当に宮中で話題にになっていたとすれば、たくさんの記録に残っていてもおかしくない。読んだ感想だとか、今こんなものが話題になっているなど、書き記したに違いない。特に紫式部とライバル関係にあった清少納言が源氏物語について書いていないのはどういうことか。宮仕えの時期にずれがあるという話もあるけど、紫式部は自分の日記の中で清少納言の悪口を書いている。それをやり返すような批評が残っていたとしても不思議ではない。
 そんなわけで、源氏物語というのはいろいろと謎が多い物語なのだ。

石山寺2-5

 三十八所権現社の本殿。寺の中の神社で、石山寺の鎮守社の役割を担っている。
 1602年に本堂の礼堂を増築するときにあわせて建てられたものだそうだ。
 神社の神と、寺の仏像が同居することは不思議でもなんでもないという本来の感覚を私たちは忘れている。

石山寺2-6

 日本史の教科書に出てきそうな建物だ。16世紀の建築らしい。
 高床式の校倉造りというと、奈良の正倉院を思い出すけど、あれも聖武天皇の関係品を納めたもので、石山寺はもともと東大寺の末寺なのだから、似たようなものがあるのは当然と言えば当然か。
 経蔵で、大事な教典などを収めてあるそうだ。

石山寺2-7

 ちょっと変わったスタイルをした鐘楼だ。 
 源頼朝の寄進という話もありつつ、様式からすると鎌倉時代後期のものらしいので、頼朝うんぬんというのは違っているかもしれない。鐘は平安時代のものだそうだ。
 これも重文指定となっている。

石山寺2-8

 これが最大の見所といってもいい、国内最古の多宝塔だ。
 なるほど優美さの中にも風格を漂わせている。でも、思ったよりも威圧感はなくて、想像よりもスマートな印象を受けた。
 1194年に頼朝の寄進で建てられたもので、高さは17メートル。日本三大多宝塔の一つだ。
  中を見ることはできないけど、快慶作の大日如来坐像が安置されているそうだ。天井や柱周りなどは、豪華絢爛な彩色が施されていたらしい。今はもう、薄れてしまっているようだけど。
 しばし鑑賞する。ほぉ、これがねぇなどと思いつつ。

石山寺2-9

 主だった建物は見終わって、あとはぐるりと北西の周回コースを辿って帰ることにする。
 朱塗りの堂は心経堂というもののようだ。どういうものかはよく分からない。
 苔の緑と新緑と木漏れ日の風景に心惹かれた。

石山寺2-10

 芭蕉庵と月見亭。
 石山寺といえば、石山の秋月が近江八景の一つとなっているように、月見の名所としても知られている。 
 月見亭は、後白河上皇が参拝に訪れるというので建てられたものだそうで、明治、大正、昭和の天皇もここを訪れている。
 ただし、現在のものは再建されたもので当時のものそのものではない。
 松尾芭蕉は2キロほど離れた幻住庵に住んでいたから、たびたび石山寺を参拝している。
「夕月は二つ有りても瀬田の月」など、いくつかの句を残した。

石山寺2-11

 瀬田川を見下ろすこの風景も、石山寺定番の一つだ。
 歌川広重も、東海道五拾三次などで石山寺を何枚も描いている。「近江八景 石山秋月図」などは、このあたりから見た風景を元にしているんじゃないかと思う。

石山寺2-12

 一番奥まったあたりに豊浄殿という建物があって、その中で紫式部展が開催されていた。
 有料でもあり、時間もなかったので、ここは通りすぎた。たぶん写真撮影も禁止だったろうし。

石山寺2-13

 ソメイヨシノには少し遅かったものの、しだれ桜やツツジなどが咲いていて、参道歩きも楽しむことができた。

石山寺2-14

 夫婦さんらしき二人組が、白レンズでバチバチ何かを撮りまくっている。これは近づいてみるしかあるまい。

石山寺2-15

 なるほど、これを撮っていたんだ。
 見た目はとても印象的な風景だったけど、写真に撮ると手前の木が邪魔で見た目ほどきれいに写っていない。山里の春といった風情で、なかなかよかったのに。
 石山寺は花の寺とも呼ばれていて、四季を通じていろんな花が咲くという。そのあたりもなんとなく鎌倉の寺っぽいなぁと思わせるのだった。

 石山寺について私が紹介できるのはこれくらいのものだ。少し回りきれなかったところもあり、説明できなかったところもあるけど、まずはこんなものだろう。
 大津巡りシリーズはまだ先が長い。焦ってすぐに終わるものでもないし、一ネタずつ着実に終わらせていくしかない。
 まだじばらく神社仏閣ネタが続きそうだ。

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