三井寺ライトアップで撮りたいのは桜よりも堂 <大津巡り4回> - 現身日和 【うつせみびより】

三井寺ライトアップで撮りたいのは桜よりも堂 <大津巡り4回>

三井寺1-0

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 三井寺駅を降りて、人の流れに従って琵琶湖疎水沿いの桜並木を歩く。皆、向かう先は三井寺のライトアップのようだ。時間は6時を少し回ったところだった。家を出てからすでに12時間が経過していた。
 桜並木を撮ったり、手前の三尾神社に寄ったりしながらゆっくり向かう。ライトアップは6時半からだった。
 やがて門が見えてきた。どうやらあそこが三井寺の入口らしい。三井寺という名前の寺はなく、園城寺(おんじょうじ)というのが正式名称で、寺域が広くてどこからどこまでが敷地なのか、地図上ではよく分からなかった。そんなときは、とりあえず行ってみるしかない。一度行けばだいたい分かる。

三井寺1-1

 入口の門もいくつかあって、どこから入っていいのか少し迷った。最初に現れるのが総門で、ここから入ってもよかったのだけど、みんな素通りしていくので、私もそちらについていくことにした。
 ここから右へ歩いていった先に、三井寺の見所の一つである仁王門があって、そちらから入る人の方が多いようだ。どちらから入ってもかまわないのだけど、参拝の道順を考えると仁王門から回った方が効率的かもしれない。

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 途中、こんな門もある。
 三井寺は普通5時で閉まって、ライトアップのときだけ夜間の特別無料開放をする。だから、普通はこのへんの門は閉まっているんじゃないか。
 通常の拝観料は500円だから、ライトアップして更に無料というのは嬉しいところだ。大津もほぼすべての寺社で拝観料を取っているから、巡れば巡るほど小銭を失っていく。

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 仁王門前は賑わっていた。三井寺では大門と呼んでいる。
 桜は満開を過ぎたとはいえまだけっこう残っていて、ぎりぎり間に合った感じだ。
 1451年に建てられたこの門は、もともとは滋賀県湖南市の常楽寺にあったもので、1601年に徳川家康が移築させたそうだ。その前に一度、秀吉が伏見に移したともいう。
 言葉では簡単に移築と言うけど、車も機械もなかった時代に、こんなに大きな建造物をどうやって運んだんだろう。バラバラにして現地で組み直したのだろうけど、口で言うほどたやすい作業ではなかったはずだ。
 入母屋造の楼門で、桧皮葺(ひわだぶき)。名前の通り、両脇には仁王像が立っている。
 当然の如くの重要文化財指定で、いちいち重文というのも面倒なほど重文だらけだ。国宝じゃなければ重要度が低いと錯覚してしまいそうになる。

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 大門をくぐってすぐ右手に食堂(じきどう)がある。写真を撮っていたら急に明かりがついてびっくりした。6時半になってライトアップが始まった。堂までライトアップしてくれたのはありがたかった。私の目当てとしては桜よりも伽藍の方だったから、手ぶれしながらもなんとか主要な建物を撮ることができた。
 室町時代初期の建築物で、もとは御所の清涼殿だったものをここに移築したとされている。
 檜皮葺の入母屋造で、何度か改築されてたあとがあるようだ。これも重文指定。
 現在は釈迦如来像が安置されていることから釈迦堂と呼ばれている。

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 大門を裏から見たところ。
 徐々に暗さが増してきて、写真を撮るには厳しくなる。

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 国宝の一つ、金堂が早々に登場する。ここから三重塔までが三井寺の中心部分で、見所が集まっている。
 現在の金堂は、秀吉の遺志を得て、1599年に夫人の北政所(きたのまんどころ)によって再建されたものだそうだ。
 それ以前にあった金堂は、比叡山に移されて、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。
 入母屋造、檜皮葺きの仏堂で、桃山時代の代表的建築物の一つとされている。そんな知識はなくとも、圧倒的な存在感と優美さに感銘を受ける。これはいいものだ。
 平成16年の台風で屋根が飛んでしまって、長らく工事をしていた。完成したのは平成20年だから、せっかく行ったのにシートに覆われていて見られなかったという人も多かったんじゃないか。
 金堂の本尊は天智天皇の念持仏だった弥勒菩薩像らしいのだけど、絶対秘仏で写真もないそうで、誰も見たことがないのかもしれない。寺の人間でさえ見たことがあるのかどうか。
 三井寺は秘仏だらけで、その中の一部が限定的に公開されるだけだ。
 行基の6体の弥勒菩薩像の他、推古天皇、聖武天皇、陽成天皇、藤原鎌足、藤原道長などが奉納した像もあるという。

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 三井寺として知られる長等山園城寺は、大友皇子の子・大友与多王が父の菩提を弔うために建てたとされている。
 遡れば、大津宮を作った天智天皇が自分の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建てようとしていて実現できず、息子の大友も壬申の乱で命を落とし、孫の代にようやく念願叶って建てることができたというものだった。
 とはいえ、壬申の乱のときは大友皇子は25歳だから、その小さい息子が寺を建てられるはずもなく、創建は686年になってからのことだった。
 大友皇子の息子・与多王については情報が少なくて何者かよく分からない。第一皇子の葛野王(かどののおおきみ)は有名なのだけど。
 寺の建立にあたっては、天武天皇の許可を得て、そのとき園城寺という寺号を与えてもらったという。園城というのは、与多王が自分の荘園城邑を投げ打って寺を建てたところから来ているとか。
 三井寺の名前の由来として、この寺の中にあった霊泉を、天智・天武・持統3代の天皇の産湯として使ったことから御井(みい)の寺と呼ばれるようになり、それが転じて三井寺になったという話が一般的に語られる。
 けど、これはどうなんだろう。天智天皇が大津に都を移したのは晩年のことで、天武、持統は飛鳥に都を移しているのだから、この地の湧き水を産湯に使うとも思えない。
 それよりも、その湧き水を神聖なものとして御井と称していたというならあり得ることだ。産湯うんぬんというのはあとから付け加えた話じゃないか。三井寺も、智証大師円珍が寺の厳義・三部潅頂の法水に使ったことから来ているのではないかと言っている。
 最初はこれほどの大寺院ではなかったろう。中興の祖とされる智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)が、比叡山での修行のあと、唐での留学を終えて帰ってきて住職になってから、急激に大きくなっていった。東大寺、興福寺、延暦寺と並んで本朝四箇大寺(ほんちょうしかたいじ)と言われるまでになったのは、870年頃のことだ。創建から200年近く経っている。
 円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任し、皇室や貴族、武家など幅広い信仰を得るようになっていく。
 しかし、円珍の没後、三井寺は苦難の歴史を辿ることになる。
 比叡山は、円珍派と慈覚大師円仁派に分裂して、事あるごとにもめるようになっていく。最初は小競り合いだったものがやがて大規模な闘争となり、993年、円仁派の僧たちが円珍派の房舎を打ち壊すという事件が起こり、円珍派は比叡山を下りて三井寺に移ってしまった。
 以降、比叡山延暦寺は山門を名乗り、三井寺は寺門と称して、決定的に対立していく。大小あわせて50回以上も三井寺は焼き討ちにあったという。
 その中には比叡山延暦寺の僧兵をしていた武蔵坊弁慶がいたという話もある。
 争いが続く中、比叡山延暦寺はますます武装を強めていく。
 その一方で、三井寺は朝廷や貴族に支持されたこともあり、歴代の権力者によって保護された。
 鎌倉時代になると、源氏など武家の信仰も集めるようになり、源頼義や源頼政なども戦勝祈願を行っている。その際は平家打倒のために力も貸したという。頼朝や北条政子も再建に力を貸したそうだ。
 ただ、三井寺で僧侶として育った源頼家の子・公暁が、叔父である源実朝を鎌倉の鶴岡八幡宮で暗殺するという事件を起こしたことで一時待遇が悪くなったりもした。
 その後は南北朝時代の北朝を支持したことから鎌倉幕府との関係も良好だったようだ。
 この争乱に大きな動きがあったのが戦国時代で、信長が比叡山延暦寺を完膚無きまでに焼き討ちしたことで、いったん事態は収束する。
 比叡山焼き討ちというと信長の極悪非道ぶりばかりが言われるけど、この頃の比叡山延暦寺は先鋭化した武装集団で、もはや寺とはいえないまでになっていたという一面がある。
 しかし安心したのも束の間、秀吉の怒りに触れた三井寺は、寺領の没収、廃寺を命じられてしまう。
 何があったのか、はっきりしたことは伝わっていない。晩年の秀吉は朝鮮出兵や、千利休切腹など、だいぶおかしくなっていから、これもその一つかもしれない。
 本尊や秘仏なども強制的に他へ移され、金堂などもこのとき移築させられている。
 1598年、死の床にあった秀吉にどんな心境の変化があったのか、この命を取り消し、再興を命じた。三井寺の祟りを恐れたとも言われている。死の前日のことだった。

三井寺1-8

 近江八景の一つに、三井の晩鐘と呼ばれる梵鐘がある。平等院鐘、神護寺鐘とともに日本三名鐘とされている。
 1602年に鋳造されたものというから、それほど古いものではない。その音色のよさで知られている。ひとつき300円を安いと思うか高いと思うかはそれぞれだろう。
 三井寺にはもう一つ、弁慶の引き摺り鐘というのもある。暗くてどこにあるか見つけることができなかった。金堂横の霊鐘堂にあったようだ。
 こちらは奈良時代のものらしく、面白い逸話がある。比叡山の僧兵をしていた弁慶が、三井寺焼き討ちのときこの鐘を奪って持ち帰り鳴らしてみたところ、鐘が「イノー、イノー」と鳴ったので(関西弁で帰りたいようという意味らしい)、怒って谷底に捨ててしまったという。鐘には引きずったときについたというすり傷や傷みが残っている。弁慶がというのはお話としても、比叡山によって強奪されてのちに返還されたというのは本当ではないかと言われている。

三井寺1-9

 ライトアップの主役は桜なのだから、桜も少しは撮ってみる。みんなの目的はこっちだ。暗い中で必死に堂を撮ってる人は少ない。

三井寺1-10

 閼伽井屋(あかいや)と呼ばれる小屋の中には、三井寺の名の由来となった霊泉がある。
 暗い中で内部をのぞき込んでも何も見えなかったのだけど、ゴボッ、ゴボッ、と大きくて不吉な音がしていた。テープでも流してるんじゃないと一瞬思ったけど、寺がそんな仕掛けをするはずもない。いまだにこんこんと水が湧き出ているらしい。
 この建物自体は、1600年に建てられたものだそうだ。
 建物の正面上部には、左甚五郎の作とされる龍の彫刻が刻まれている。暗くて気づかなかった。
 この龍は夜な夜な抜け出して琵琶湖で暴れたため、左甚五郎が龍の目玉に釘を打ち込んで鎮めたという伝説がある。こういう左甚五郎の逸話は多い。
 けどよく考えてみると、左甚五郎が生まれたのは1594年ではないか。6歳かそこらで三井寺の彫刻を任されるはずもない。後年、彫刻だけ依頼されたというのもちょっと考えづらい。

三井寺1-11

 これは何の建物だろう。とりあえず目につくやつは全部撮っておいて、あとから調べればなんとかなるだろうと思ったけど、何とかならないものもある。

 今日のところはこれくらいにしておこう。まだまだ三井寺の写真はあって、全部で3回くらいになりそうだ。
 この調子では大津シリーズはいつまで続くか分からない。これまでのシリーズ最長記録を更新するかもしれない。今月と来月はいつにも増して寺社ネタ確率が高くなる。少しは季節ネタも挟んでいきたい思っている。

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コメント
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お邪魔しました。

こんにちは。
今日は家で仕事しながら、1歳の娘に邪魔されながら
ブログなど見てます(^^)
また寄らしてください。
それでは。失礼します。

2009-04-20 23:27 | from ★KEEP BLUE★

ようこそここへ

★KEEP BLUE★さん

 こんにちは。
 ようこそいらっしゃいませ。

 娘さん、1歳だと可愛い頃でしょうね。
 モデルさんとしてもいいですよね。(^^)
 またいつでも遊びに来てください。

2009-04-21 23:45 | from オオタ | Edit

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