壬申の乱の真相は分からないことが分かっただけ <大津巡り2回> - 現身日和 【うつせみびより】

壬申の乱の真相は分からないことが分かっただけ <大津巡り2回>

弘文天皇陵-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 壬申の乱にとりつかれて4日目。今日こそ決着を付けて、この呪縛から逃れたい。しかし、いまだに着地点が見えない。壬申の乱の真相がどうにも分からない。
 自分の中ではっきりしない点が2点ある。一つは、どうして中部圏の地方豪族が天皇家にたてついてまで出家した大海人皇子に従ったのかということ。もう一つは、大友皇子の人物像だ。この2点をよく理解できていないから、壬申の乱の本質が見えてこないのではないかと思う。人物関係や全体の流れを追っただけでは表面的な理解にとどまる。
 もちろん、今となっては本当のことなど分かるはずもないのだけど、それでも自分の中で一応の落としどころは得たいという気持ちは強い。昨日の続きを最後まで書ききる頃には腑に落ちるところまでいけるだろうか。あまり自信がない。

 疑問点は他にもたくさんある。何故、645年の大化の改新のあと、668年まで中大兄皇子は即位しなかったのかとか、どうしてその前年、飛鳥から大津などに都を移したのかなどがよく分からない。
 もともと天智天皇は百済系だったという説がある。当時の中国、朝鮮は、唐が大勢力を誇っていて、新羅と結びついて、百済を攻め滅ぼそうとしていた。
 このときの朝鮮半島は、西の百済と東の新羅に別れていて、その間に挟まれるようにして伽耶諸国(かやしょこく)があり、ここに日本の出先機関があったという話がある。その頃、日本は百済と強い結びつきがあった。
 その百済が危ないというので、日本に応援要請が来た。歴史の教科書でおなじみの白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で、663年のことだ。
 結果は、日本軍は大敗北を喫し、百済は滅亡への道を辿ることになる。いや、これは正確ではない。百済は660年に、すでに唐・新羅連合軍によって滅亡させられていた。663年の白村江の戦いは、滅亡した百済を復活させるために日本に対して共に立ち上がって欲しいという要請だった。日本は何故、そんなよその国の勝ち目の薄い戦いに5万人近い大軍を送ったのか?
 その疑問はとりあえず置いて、話を先に進めると、この騒動の中で、斉明天皇が急死するという事件が起きている。暗殺されたという説もある。
 当時まだ即位していなかった中大兄皇子ではあるけど、政治の実権はすでに握っていたと思われる。白村江の戦いも、中大兄皇子主導で進められたようだ。
 敗戦後、大勢の百済人が日本に渡ってきている。勝者側の新羅や唐からも訪れていたはずだ。
 この後の展開も不可解なことが多い。中大兄皇子は、唐・新羅の日本侵攻に備えて九州の太宰府に水城(みずき)や西日本各地に山城を築いたり、九州沿岸に防人(さきもり)を配備したりしている。
 そして、667年、都を飛鳥から琵琶湖の西の大津に移した。水路の逃げ道を確保するためだなどと言われているけど、奈良から滋賀に移ったくらいで安全度が増すとは思えない。
 そもそも、都を移すというのは大変な労力もお金もかかる。本当に有事だという認識があるなら、そんなことをしてる場合ではない。どうもこれはポーズくさいところがある。日本側は唐が攻めてくるとは思っていなかったんじゃないか。本気で恐れていたなら、壬申の乱などという国を挙げての大戦争などするはずもない。
 どういう話し合いがついていたのか知らないけど、戦のすぐあとに、唐から日本側の捕虜が送り返されてきたという話もある。

 ここに一つ、すべての謎に答えられるかもしれない説がある。
 この当時の日本は、九州太宰府の倭国と、大和王朝と、二つの大きな国があったという説だ。
 学説としてはほとんど相手にされていないようだけど、この説の信奉者は多い。ある意味ウルトラC的な魅惑的な説で、一度に全部上手く説明できてしまうだけに危うさも感じる。説明がつくからといってそれが真実とは限らない。
 これによると、当時日本の中心で最も栄えていたのは九州太宰府の倭国で、大和政権はまだ遅れた小国に過ぎなかったという。唐の史書にも、倭国と日本は別の国という記録がある。
 邪馬台国も九州にあって、倭国では昔から朝鮮半島との行き来が盛んに行われていたともいう。
 漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)が見つかったのも福岡だ(金印偽物説もある)。
 この説によれば、白村江の戦いで兵を送ったのは九州倭国で、この結果、倭国は壊滅的な打撃を受けて滅亡へと向かい、それに取って代わったのが大和王朝の中大兄皇子たちだったのだという。
 更に言うなら、蘇我氏は倭国の天皇で、それを攻め殺して天皇の位を奪ったのだと。
 ほとんど唯一といっていい現存する歴史書である『日本書紀』は、天智天皇・天武天皇の側から書かれたものだから、なんとでも書きようはある。いろいろな部分で矛盾があるのも、書けない部分があったからといえば納得がいく。
『日本書紀』以前に、聖徳太子たちが推古天皇の命で編さんした天皇記(すめらみことのふみ)と国記(くにつふみ)を、蘇我氏は自宅に保管していたという話もあり、もしそれが本当なら天皇家という証拠ではないのか。
 645年の大化の改新(乙巳の変)で蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子たちは、父親の蝦夷邸を襲わせて、蘇我氏が保管していた膨大な書物や記録を焼いている。国記だけは救い出して中大兄皇子に届けられたという話もあるけど、現在には伝わっていない。
 それらの史書が九州倭国の正当天皇家に関するものであったとするなら、中大兄皇子たちにとっては表に出せないものとなる。その後、『日本書紀』で大きく歴史を書き換えているのだから。
 蘇我家以外の他の古い記録文章も徹底的に焼いたという。
 九州倭国を併合しつつ、都をあらたに大津に移して、自ら天智天皇として即位したというのは、特に深い理由もなく飛鳥から大津に都を移したというのよりも納得しやすい。それまで天皇ではなく大王(おおきみ)という言葉を使っていたのが、天皇という呼び名を使い出したのもここにきっかけがあったということになる。
 遷都に伴って、九州倭国の制度や技術、寺社、人物などが大量に大津京に移されたという。
 と、ここまで書いて、九州倭国説については半信半疑というのが実際のところだ。この説によれば、壬申の乱も関ヶ原や近江ではなく九州で起こったというのだ。そうなるとちょっと信じられなくなる。関ヶ原には不破の関などいろいろな伝承が残っているし、大海人皇子が味方につけたのも美濃や尾張の豪族たちだった。決戦の地が九州だったというのは無理がないか。

 ということで、九州倭国説はいったん保留として、壬申の乱の通説に話を戻したい。
 大津に都を移して4年が経った671年、天智天皇は病に倒れる。
 2年前の669年には中臣鎌足は先に死んでいる(その直前に藤原の性をもらって藤原鎌足となっていて、これが平安時代に栄華を極める藤原家の元だ)。
 ここで後継者は誰になるのかという問題が持ち上がる。順番でいけば皇太子である大海人皇子で決まりということになるのだけど、その少し前から天智天皇は長男の大友皇子に大いに期待をかけ始めた。そこで、太政大臣(だじょうだいじん)という役職を作り、大友皇子をそれに任命した。これはのちに左大臣・右大臣よりも上の最高権力者を意味する役職となる。
 このとき、大友皇子は24歳だった。皇太子になっていたのかどうかは、よく分からない。話の流れからいくと、大海人皇子が吉野へ隠遁していく際、大友皇子に譲ったというのが自然だろう。
 天智天皇が目をかけたくらいだから大友皇子の出来はよかったのだろう。文武に優れた人物だったという評もある。ただし、当時は天皇が息子に皇位を譲るという制度はない。
 しかも、大友皇子の母親は伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)という伊勢の豪族出身の娘だった。この時代、母親も皇室出身者でなければ天皇にはなれなかったとされている。
 采女(うねめ)というのは、天皇や皇后の食事や身の回りの世話をする女官のことだ。それを考えると、大友皇子が天皇になるのは無理があった。
 中臣鎌足が生きていたら、壬申の乱は起きなかったかもしれない。これは、前田利家が生きていれば関ヶ原の合戦が起きていなかったかもしれないというのと重なる。
 いよいよ天智天皇は長くないとなったとき、大海人皇子は天智天皇の部屋に呼び出された。皇位を譲る約束を交わすためということだったけど、大海人皇子は信じなかった。天智天皇は、自分と敵対する勢力をことごとく死に追いやって地位を守ってきた。自分もそれに加担しているから手口はよく分かっていた。
 行けば殺されると悟った大海人皇子は、皇位は大友皇子に譲ってくださいと言い、頭をそって出家することを伝えた。
 このとき、大海人皇子がどんな気持ちで、どんな思惑があったのかは知るよしもない。本気で譲る気だったのか、いったん逃げて戦力を整えて奪取する心づもりだったのか、ただ単に死ぬのが嫌で逃げただけだったのか。いずれにせよ、大海人皇子は吉野の山へ引きこもってしまった。
 天智天皇死去。45歳。病死となっているけど、この死も謎がつきまとっている。狩りに山へ出かけていったきり帰られなかったなどという話があるのだ。そのとき沓だけが見つかり、その場所を天智天皇陵としたなどとも言われている。
 壬申の乱が起きるのはそれから約半年後のことだ。大友皇子は天皇として即位したのかしていないのかということだけど、普通に考えたらしただろう。理由はどうあれ、皇太子の大海人皇子は出家して都にいないのだし、候補者が大友皇子だけなら天皇を空位にしておく理由がない。
 しかし、大友皇子にしたら不安だったのだろう。自分の方が先に動いた。天智天皇の陵を建てるからという理由で大勢の労働者を集め、不穏な動きに対処するためという名目で武装させた。
 それを伝え聞いた大海人皇子は慌てただろう。このままでは殺されてしまうと、自分の領地だった美濃へ行き、豪族や国司たちに声をかけてこちらも武装の準備を始める。
 ここからの動きは大海人皇子の方が早かった。美濃、尾張で兵を集めるように指示して、近江から脱出してきた息子の高市皇子と合流して伊勢に向かった。大津皇子も追いついて、高市皇子を美濃の不破の関へと向かわせた。結果的にここを押さえたのが大きかった。大友皇子軍はこれによって東国の支援を受けられなくなった。
 大友軍は当てにしていた九州からの援助も受けられず、苦戦を強いられる。このあたりのままならなさも、のちの関ヶ原を彷彿とさせる。天下分け目の戦いは、二度とも西軍は東軍に屈することになる。
 ちなみに、天下分け目というのは不破関のことで、ここから西を西国、東を東国という。関ヶ原の合戦以降に生まれた言葉と思うとそれは違う。

瀬田唐橋

 壬申の乱当時の日本の人口が気になって色々調べたのだけど、はっきりしない。600万人という予測がある一方、せいぜい数十万人という説もあって、どちらを信じればいいのか根拠もない。
 通説では、兵士3万人対3万人の戦闘だったというのだけど、本当だろうか。たとえ総人口が600万人だったとしても、内乱状態とは言えない情勢の中、数週間でお互いに3万人の兵士を集められるものだろうか。
 10年ほど前に5万の兵を百済に送って壊滅していることを思っても、常備軍が数万人もいたとは思えないのだけど。
 そもそも、どうして地方の豪族たちが反天皇側にそれほどついたのかという疑問もある。天智天皇の中央集権的な政策で地方豪族の不満が募っていたなどという話もあるけど、もし負けたら余計に事態は悪くなるのだ。最初から勝算があったとも思えない危険な賭けに乗るかどうか。
 ここでまた、大海人皇子の血筋問題というのが出てくる。本当に新羅系の人物だったとするなら、戦勝国側の人間ということになる。それが渡来系の豪族たちに応援を求めたらと考えたとき、それなら自らの命運を賭けて一緒に戦ってくれるかもしれないと思い至る。
 あるいは、大友皇子側は百済系の力を借りたのかもしれない。
 戦いは各地で勝ったり負けたりを繰り返しつつ、徐々に大海人皇子が優勢となっていく。
 最後の決戦の地となったのが、瀬田川の戦いだった。ここで大友皇子軍は完全に敗北して、大津京も焼け落ちたと考えられている。戦いは一ヶ月で終結した。
 大友皇子は山の中に逃げ込み、そこでも追い詰められ、最後は木で首をくくって自殺して果てたとされる。
 当時、貴人の自殺は首つりと決まっていたのだそうだ。最初に切腹したのは、平安時代末期の武士・源為朝とされていて、鎌倉以降武人の死に方として定着していった。
 通説では、大友皇子の首は関ヶ原にある野上行宮に運ばれて、大海人皇子の前へ差し出されたという。
 一方でこういう死には伝説がつきもので、偽の首を差し出した大友皇子一行は房総半島に逃れたという説もある。どういうわけか、千葉県の君津市に痕跡がたくさん残っているのだという。
 その他、関ヶ原に自害峰と呼ばれる場所がある。
 実際に自害した場所ははっきりしていない。『日本書記』には山前(やまさき)で縊(くび)ると書かれているものの、山前というのは山のふもとという意味で場所を特定しているわけではない。遺体がどうなったのかも分からない。
 明治になって弘文天皇としたとき、三井寺前の長等山(ながらやま)ではないかということになって、ここに弘文天皇陵が作られることになった。長等山前陵(ながらやまさきりょう)とも呼ばれている。
 戦に勝った大海人皇子は、都を大津から奈良の飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)へ移し、天武天皇として即位した。そのあとのことはまた別の話だ。

 どうにか最後まで辿り着いて、今は少しホッとしている。
 最初に挙げた自分の問いに答えられているかどうか、なんとも言えない。頭の中の整理がまだついていない。もう少し捕捉も必要な気がする。
 とりあえず今日のところはここまでとしたい。これでもう壬申の乱で思い煩うことはなくなるだろうか。

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