変わりゆく故郷の風景と変わらない故郷の思い出 - 現身日和 【うつせみびより】

変わりゆく故郷の風景と変わらない故郷の思い出

田舎風景2-1

PENTAX K10D+DA 16-45mm f4



 この停留所から乗り降りしたことはほとんどない。大昔に何度かあったのだろうか。よく覚えていない。いつも大師前で降りていた。
 かつては村にも三重交通の路線バスが走っていた。赤字続きで廃線になったのはいつだったか。もうずいぶんになる。10年か、もっとか。今は村営のバスが走っている。いや、丹生も村ではなく町に組み込まれたから町営か。
 前に時刻表を見たときよりも本数が増えているような気がしたのは気のせいだろうか。しかし、一本逃すと致命的なのは変わりない。
 子供の頃はこのあたりまで来れば水路の近くを蛍が飛んでいた。溝には魚だけでなく、ドジョウも泳いでいた。今はもうそんな時代ではない。夏休みには家の明かりに向かってカブトムシやクワガタが飛んできたものだけど、それももう大昔の思い出話だ。変わらないのは、蝉の鳴き声くらいのものだろう。

田舎風景2-2

 通い慣れた細い道も、気がつかないうちに左右の風景は移り変わっていった。昔の家並みがどうだったか、今となっては思い出すことができない。昔のアルバムを見ても、このあたりは写真を撮ってないはずだ。
 なんでもない風景の写真を残しておくことの大切さを知るのが遅かった。

田舎風景2-3

 途中、左に折れて登っていく坂道がある。この道はほとんど歩いた記憶がない。もしかしたら一度も歩いていないかもしれない。
 狭い村の中でも行ったことがないところはたくさんある。昔は詳しい地図を持って隅から隅まで歩いてみようなどという発想はなかった。風景をきちんと観察するようになったのも、写真を撮り始めたここ数年のことだ。
 この村で暮らしていたわけではないから知らないところがたくさんあるのも当然なのだけど、今思えば好奇心が足りなかった。どこからどこまでが村の中なのかもよく分かっていない。

田舎風景2-4

 そろそろ遠くにうちが見えてくる。この直線の感じは昔から変わっていない。右手に田んぼが広がり、左には家屋が並ぶ。
 ただし、これらの家の人たちとはまったく交流がなかった。田舎というと世間が狭くて村人全員が知り合いのようなイメージを持っている人が多いと思うけど、実際はそうとも言えない。狭いから動向はすべて筒抜けになるものの、直接的なつき合いは案外限定的なものだ。街中とそんなに違わない。
 子供の頃から毎年、夏休みと冬休みに長期滞在していた私だけど、村の子供と遊んだのは1、2回しかない。大人同士のつき合いも、ごく限られているように見えた。

田舎風景2-5

 家の前の通りまでやって来た。うちの様子はほとんど変わっていない。左の蔵は、外装が変わった。昔は白壁の土蔵だった記憶がある。そこにボール当てをしてよく遊んでいて、たまに叱られた。歴史的建造物に軟式ボールをぶつけてはいけないと、今なら分かる。
 前の家とは交流があって、よく行き来もした。その人たちも亡くなった。

田舎風景2-6

 斜め前の家の人については、何も知らない。子供の頃でさえ住んでいるのかどうか分からないような感じだった。
 家自体は昔の姿そのままに残っている。これだけきれいに保っているということは、今でも誰か住んでいるのだろうか。家は人が住まなくなると、すぐに荒れていくものだ。
 この右手の道は、よく歩いた道だ。上っていくと水路があって、田んぼがあって、雑木林となり、その向こうに池がある。そこは釣り場で、よく連れていってもらった。大人になってから一人で池を見に行こうとしたら、歩けるような道がなくなっていて、途中で断念することとなった。誰も好きこのんであんなところの池まで行こうとしないのかもしれない。

田舎風景2-7

 ここは父の生家で、長らく祖父母が住んでいた。物心ついてから何度となく来た家で、心の故郷でもある。
 祖父が亡くなり、祖母も亡くなって、とうとう住む人がいなくなった。残ったのは思い出だけとなった。
 もうここで年を越すこともなく、お盆を過ごすこともない。今はまだその実感が湧かない。寂しく感じるのは、もっと何年も経ったあとかもしれない。

田舎風景2-8

 主のいなくなった家は、魂が抜けたようなしらけた空気に満たされている。温もりが消えてしまった。
 この家そのものも、いつかなくなってしまう日が来る。
 人が死ぬことで失われるのは命だけじゃないことを、あらためて思い知る。

田舎風景2-9

 そこにあるのが当たり前だったものが消え、記憶にはないものが増えていく。そうやって風景も変わっていく。その場所に関わった私たちもまた。
 悲しいといえばとても悲しく、一方であきらめて受け入れるしかないことも分かっている。

 季節(とき)が流れる 城塞(おしろ)が見える
 無疵(むきず)な魂(もの)なぞ何處(どこ)にあらう?


 中原中也が翻訳したアルチュール・ランボーの詩を久しぶりに思い出した。
 この先も風景は移り変わり、私たちもまた変わり続けていく。前に進むということはそういうことだ。
 ただ、これからも私の心は、幾度となくこの場所に舞い戻ることになるのは間違いない。故郷を完全に失ったわけじゃない。記憶の中には、いつまでも残っていく。そのことの幸福を今こそ思う。

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