紅葉は味付けのソースで、撮りたいものは同じ <岩屋堂紅葉1> - 現身日和 【うつせみびより】

紅葉は味付けのソースで、撮りたいものは同じ <岩屋堂紅葉1>

岩屋堂紅葉1-1

OLYMPUS E-510+ZD 14-54mm f2.8-3.5



 ようやく紅葉写真が間に合って、今日は岩屋堂の秋風景をお届けするのだけど、ついさっきまで写真のRAW現像と加工をしていて、書くための準備が整っていない。岩屋堂はこれまで何度もブログに登場していて今更書くことはほとんどないとはいえ、他の人の岩屋堂紅葉写真も見てないし、少し調べ物もあるから、やっぱり準備が間に合わなかった。
 ということで、今日は写真を並べるだけしかできない。見て回った順番に並べながらコメントを書いていこうと思っていたけどやめて、いいやつから順番に出してしまうことにした。状況説明的な写真は後回しにして、撮ってきた中で自分が気に入ったものを選んだ。なので、回を追うごとに写真の質は落ちていくことになると思う。全部で3回シリーズくらいを予定している。
 実はこの日、四季桜を撮りに小原村に向かっていた。それなのに気づいたら岩屋堂にいた。詳しくはまた次回書くとして、一言で言うとナビが道を間違えたのだ。
 デジはE-510で、レンズは広角ズームの14-54mm一本という軽装だった。小原村を想定したものだったということもあるのだけど、E-510に慣れるためという考えもあった。そのあたりについても、最後のまとめで書こうと思っている。
 前置きはこれくらいにして、ぼちぼち岩屋堂の紅葉写真をいってみよう。これから出かける人のヒントになるといいのだけど。

岩屋堂紅葉1-2

 浄源寺の紅葉は、まだ色づき半分以下といった感じで、ここに関しては早すぎた。岩屋堂自体はすでに見頃から見頃過ぎといった感じなのに、ここだけ遅いのは不思議だ。それでも色づいているところだけを切り取ってみると、見事に赤く染まっている。
 お墓と桜というのはよくある組み合わせだけど、お墓と紅葉というのも相性はいい。桜も紅葉も人生と相通じるところがある。

岩屋堂紅葉1-3

 シーズンオフの仮死状態のような岩屋堂しか見たことがなかった私にとって、紅葉シーズンの賑わいはとても新鮮に映った。普段の岩屋堂で若い女の子など見たことがない。
 これだけたくさん人が訪れていると、人入り写真を撮るのに困らない。

岩屋堂紅葉1-4

 記念写真を撮る人を撮る人を撮るという三重構造的写真を撮れたのは初めてかもしれない。このシーンに遭遇したとき、うわっ、やったと喜んだ。
 その私を後ろから撮っている人がいたとしたら、それはすごい。
 この写真が個人的には今回一番の収穫だった。

岩屋堂紅葉1-5

 紅葉スポットにはつきものの赤い橋が岩屋堂にもある。橋の名前を忘れてしまったから、次までに調べておこう。
 ここは橋風景としても撮影ポイントだし、橋の上で記念撮影する人たちも多い。記念写真を撮る人たちを撮るにもいい場所だ。54mmの2倍換算108mmでは届かなかったから、橋の上の人狙いなら中望遠が必要だ。

岩屋堂紅葉1-6

 鳥原川は変化に富んでいて、何ヶ所か撮影ポイントがある。ここは赤い橋から上流方面を見た風景だ。もっと枯れ葉が落ちた時期の方が風情があるかもしれない。
 更に上流へ行くと、瀬戸大滝というのがある。名前ほどたいそうな滝ではない。今回はそちらまで行かず、赤い橋で引き返した。4時を回ったところで早くも暗くなり始めて、それから雨が降り出した。5時からのライトアップも待ちきれずに帰ってきた。

岩屋堂紅葉1-7

 もう少し光があれば川面に映る紅葉というのも撮れたんじゃないかと思う。この日は曇天で光が足りなかった。
 PLフィルタも使った方がいいと思いつつ使えず、三脚の必要性を感じながらも人がいるところで三脚を使う気になれない。結果的に撮れたはずの写真を撮れずに終わるということも少なくない。三脚でしか撮れない写真も確かにあるということを、この頃思い知った。

岩屋堂紅葉1-8

 何故ここに提灯なんだ。これが岩屋堂のセンスだ。
 ライトアップのサービスはいいけど、配線があちこちに走っていて写真に写り込んでしまうのはいただけない。もう少しなんとかできないものか。

岩屋堂紅葉1-9

 小屋のような、物置のような、これを通して見る紅葉風景になんとなく心惹かれた。
 枠の部分で切り取って絵のようにするというのも一つの撮り方だろう。

岩屋堂紅葉1-10

 岩屋堂の名の元になった大きな岩の祠の岩屋山薬師堂の奥に、暁明ヶ滝という小さな滝がある。この日は水量がかなり少なかった。最近雨が降ってないからか。前に見たときは、横の岩からもザブザブ流れ落ちていた。
 余裕があれば、このあたりも見ていくことをおすすめしたい。
 滝の周辺はかなり暗いから、手持ち撮影はかなり厳しかった。しゃがみ撮りと手ぶれ補正でなんとか手ぶれをおさえこんだけど、やっぱり三脚は必要だ。

岩屋堂紅葉1-11

 薄暗い林の中で一ヶ所、紅葉の赤と黄色を映しているところがあって、ここはどうしても撮りたかった。こういうところを見つけると嬉しい。
 手持ちだからかなりブレている。三脚を使えばもっといい写真が撮れたのに。

岩屋堂紅葉1-12

 毘沙門天を祀った小さな堂がある。ここのことは以前にも調べたけど、よく分からなかった。石柱には大和信貴山分霊と彫られている。
 いわれはともかくとして、ここの風景は好きだ。

岩屋堂紅葉1-13

 枯れ木も山の賑わいどころではない賑わい方をしている。紅葉は赤一色では面白くなくて、黄色や緑や赤茶色など、いろいろな色が組み合わさるのがいい。
 花の春ではなく枯れ木の秋が一番山が華やかになるというのも、考えてみると愉快な話だ。人生の逆転劇を連想させる。

 写真というのは結局のところ、どこに惹かれてシャッターを切ったかという告白のようなものだ。人は個人的な日記に、自分の興味のあることを書き、興味のないことを書かない。そういいった取捨選択を写真においてもしている。
 最大公約数的な写真があり、個人的な写真がある。いい写真というのは、主観的な写真だと思う。個性の表れてない写真はつまらない。
 少し前に気づいたことだけど、たとえば岩屋堂へ行って紅葉の写真を撮る場合、岩屋堂「を」撮るのではなく、岩屋堂「で」撮るという発想で臨んだ方が面白い写真が撮れる確率が高い。あるがままの岩屋堂を写し取るのではなく、岩屋堂の紅葉はあくまでも素材で、それを自分なりに調理する必要があるということだ。素材を利用すると言った方が分かりやすいかもしれない。
 人物写真を撮る場合でも、正面からすました顔を撮るだけがスナップではない。横顔や後ろ姿、全身や上半身、シルエットや様々な表情など、可能性は無数にある。目や唇などに惹かれれば、その部分だけを切り取ってもいい。それも人物写真の一種であり、素材を自分なりにいかすということだ。風景や場所にも同じようなことが言える。
 偉そうなことが言えるほど私は写真が上手ではないのだけど、最近やっと少しずつ写真のことが分かってきたような気がする。上手さを求めると自分が撮りたい写真を見失う。大事なのは、自分が何を撮りたいのかをはっきり自覚することだ。それが分からないままもっと上手くなりたいと思ってしまうと、深い迷いの中に入り込んでしまう。
 構図とかライティングとかレンズ特性とかを勉強することも必要だけど、まずは感受性を磨くことの方が先だ。目の付けどころによって写真の良し悪しは決まる。よく観察して、探して、発見することだ。
 撮りたいイメージと撮れた写真がピタリと一致したとき、いい写真となる。自分が撮りたい写真を撮ればいいと言うけど、それはとても奥が深くて難しいことだ。
 撮りたい写真の絵を描いてみろと言われて描ければ撮りたい写真は必ず撮れる。そういう意味では、絵を描く勉強をした方が写真の上達には早道かもしれない。
 写真は撮れば撮るほど上手くなるもので、下手になることはないから、自分の上達を気長に待とうと思っている。続けていれば、どこかで進化ジャンプのようなことも起こる。紅葉も去年よりは上手に撮りたい。まだ進歩の余地がたくさんあるということは、まだ読んでない本がたくさんあるとか、観てない映画がたくさんあるとかと同じようなものだ。私自身も、これから撮る自分の写真を楽しみにしている。

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